2024年5月2日木曜日

ユスティノス

ユスティノス Ioustinos,  ca. 100-163/167 CE


【要約】

100年頃-163/167年。最初期の護教家。ギリシア教父。殉教者ユスティノスとも言われる。グノーシス主義への批判も展開。ギリシア思想とキリスト教思想の融合を初めて果たした。哲学的真理に対するキリスト教の優位性を主張。『護教論』。



本文

 最初期の護教家。ギリシア教父。殉教者ユスティノスとも言われる。サマリア近郊のフラウィア・ネオポリスに生まれ、当時のストア、アリストテレス、ピタゴラス、プラトン等の諸学派を遍歴の後、エフェソスにて入信。150年頃からアントニウス・ピウス帝時代のローマに赴いて宣教活動を開始した。グノーシス主義への批判も展開し、その後、マルクス・アウレリウス帝治下にて殉教したと考えられる。


 思想

 ユスティノスの思想の特徴は、ギリシア思想とキリスト教思想の融合を初めて果たしたことである。例えば、当時のギリシア哲学の用語である「ロゴス」を多用し、完全なるロゴスをキリストと同定した。ユダヤ教において同様のコンセプトで活動した人物として、アレクサンドリアのフィロンを挙げておく。


 「護教化」という呼称の通り、彼の関心はギリシア文化に対してキリスト教を理解させようという護教論的スタイルであった。哲学的真理に対するキリスト教の優位性、またその完成としての福音というテーゼが顕著である。福音の前段階として哲学を捉え、そうした哲学思想にも後の福音へと至る「種子的ロゴス」が含まれており、真理契機があると考えた。


 著作

 彼の名による著作は多くを数えるが、真正のものとしては以下のものが挙げられる。

 『護教論』(『第一アポロギア』『第二アポロギア』)。

 キリスト教会に向けられた「国家への不忠」「無神論」等の誹謗に答えて。これらを、ソクラテスを死へと追いやった悪霊の教唆によるものと主張。


 『哲学者にして殉教者であるユスティノスとユダヤ人トリュフォンとの対話』

 キリスト教のギリシャ哲学に対する優位性の論を展開。真理としての哲学の究極を神についての知として、これが神による啓示として提示されているとする。旧約の預言者による告知、旧約と新約の連続性を論じる。キリスト教を、この真理の解釈に基づくものとして位置づける。


ポリュカルポス

ポリュカルポス Polykarpos, 70/82‐156/168 CE


 【要約】

ポリュカルポス 70/82‐156/168

2世紀前半に活躍した小アジアのスミュルナの司教。使徒教父。聖人。エイレナイオス、テルトゥリアヌスの師。使徒ヨハネに師事したとも。イグナティオスと交友関係。「復活祭論争」で知られる。『ポリュカルポスの手紙』。


 【本文】

 2世紀前半に活躍した小アジアのスミュルナの司教(在位 ca. 110-ca. 156 CE)。使徒教父。聖人。エイレナイオス、テルトゥリアヌスの師でもあり、使徒ヨハネに師事したと伝えられている。イグナティオスと交友関係にあった。86歳の時、スミュルナで殉教。彼の死の直後、『ポリュカルポス殉教録』が執筆された。


 「復活祭論争」

 二世紀後半に生じた論争。当時、小アシ゛アの教会では、使徒ヨハネの伝承に従って、ニサンの月の第14日にイー スターが祝され、他方、ローマ等の教会ではニサンの月の第14日直後の日曜日にイースター祝祭が行われていた。120年頃、スミュルナ司教であったポリュカルポスはローマを訪れた際、ローマ司教アニケトゥスからニサンの月の第14日のイースターを変更するよう説得されたものの、彼はヨハネの伝統を主張してこれを拒否した。


 著作

『ポリュカルポスの手紙』:フィリピ人に宛てて書かれた。背教への警告。


宗教学事典(目次)

ーあ行ー

ーか行ー


ーさ行ー

ま行
マクドゥーガル(魂の重量計測)

キリスト教事典(目次)

ーあ行ー


ーか行ー

ーさ行ー


ーな行ー

ーは行ー

ーま行ー


ーら行ー

ーや行ー


ーNー

ーMー
Montanism, Montanus        

ーRー
Reformed Church        

ーSー

日本基督教団 茨木春日丘教会 (礼拝堂名:光の教会)

ーー目次ーー

お知らせ

光の教会オルガンコンサート 2023年11月5日

「バッハ『ライプツィヒ・コラール集』と、その他の珠玉のバッハ・オルガン曲」

(第1回/全3回)

プログラムと当日配布レジュメ

楽曲解説の全文原稿


建物見学の当面の停止について

Suspension of Building Tours

動画

光の教会にある謎の階段 / Mysterious stairs of Church of the Light


ブログ的な記事

「私が着任した当時(2012年)の茨木春日丘教会(光の教会)その2ーー制限問題」

About the situation at the time of my arrival (2012), especially the Holy Day service

「教会創立50周年記念礼拝 礼拝説教全文」

 「私が着任した当時(2012年)の状況についてーー特に聖日礼拝の様子」


画像(pictures)

講壇付近(Church of the Light / pulpit)



(古代教会における聖書)正典の形成

正典の形成

(古代教会における聖書)「正典」の確定


 【ツイッター用要約】

エイレナイオスやムラトリ断片の時代から教会諸文書の範囲はある程度定まっていたが、様々な異端の発生により限定の必要が生じ「正典」化が加速。西方教会は397年のカルタゴ会議、東方教会は680年の第3コンスタンティノポリス公会議にて公認。


 【本文】

 旧約が初期教会時代以前から既に正典化されていた一方で、1世紀中葉から2世紀中葉にかけて相次いで成立した新約聖書諸文書は広範囲に流布していくと同時に、4世紀に至るまでの間に部分的には収集され、それが一種の正典化された文書群として機能することもあった。だが、基本的に諸文書は正典としての明確な統一性を持つことなく、なお流動的であった。3世紀初頭のムラトリ断片には、4つの福音書とその他の新約文書のリストが観察されることから、少なくとも2世紀半ばから後半においては、教会内に正典化への"萌芽"があったということになる。こうした萌芽は、やがて異端との闘いを通して、より自覚的に為されていくことになる。


 初期キリスト教会から古代教会の時代、2世紀から4世紀にかけての教会は様々な異端的諸派との対決を余儀なくされた。しかしながら、こうした異端的グループとの対峙を通して、聖書の正典化がより加速されたことも事実である。教会は異端との闘いを通して、Regula fidei(信仰の基準)を明確にする必要を自覚し、そのために「正典」と「信条」を定める作業が同時進行で為された。


 そうした異端的諸派として、正典化というコンテキストに限定すれば、エビオン派、グノーシス主義、マルキオンとマルキオン派が挙げられる。グノーシスによる正典の"無限の拡大"、エビオン派、マルキオンによる正典の"恣意的な限定"という両極の狭間で、教会は聖書の正典化を進めなければならなかった。


 エビオン派とは、エルサレムのユダヤ人キリスト教徒が、紀元70年のエルサレム陥落時にヨルダン川東岸に逃れ、その地に形成したグループである。エビオン派は、教会史のいわば支流に属し、独自の正典解釈と教義を特徴とした一派であった。律法遵守、禁欲主義、養子説的なキリスト論を採用し、反パウロ的な論陣を張り、使徒言行録、パウロ書簡を否定し、福音書を改ざんした。やがてグノーシス主義運動に解消化されていった。


 グノーシス主義について、正典化との関連に限定して言えば、彼らはその独自の教義から、"知識"を獲得し真の救いを得るための手段として、ユダヤ教、キリスト教、ギリシャ神話、プラトン主義を取り入れた文書を多数生み出した。グノーシス主義の影響力の大きさは、1945年に発見されたナグ・ハマディ文書に含まれるグノーシス文書の割合(52文書中42)によく表れている。当時の教会は、多くのグノーシス文書が流布する状況の中、真正のキリスト教文書を定めることを迫られた。


 マルキオンは、黒海沿岸のポントス州スィペ出身で、後にローマ教会に属するが、144年に独自の教会を設立。「福音の純化」という名目の許、旧約の神と新約の愛の神とは別種であるとして、旧約を排除し、新約にも旧約的な改変が行われているとして、ルカ福音書とパウロ書簡のみを、改ざんを施した上で正典として採用した。マルキオン主義は、テルトゥリアヌスやユスティノスに、「マルキオンの異端の伝統は、今や全世界に及んでいる」と言わせるほどに一時期隆盛を極めた。

 以上のような事情から、教会は新約諸文書の正典化を遂行したことは、教父たちの行動から読み取ることが出来る。例えば教父エイレナイオス(130-200頃)は、4福音書、使徒行伝、パウロ書簡の一部の17書を正典と認めていた。護教家テルトゥリアヌス(150-220頃)は、4福音書、使徒行伝、パウロ13書簡、第一ヨハネ、第一ペトロ、ユダ、ヨハネ黙示録の22書を正典と認めた。また3世紀に至ると、オリゲネス(185-253/4)が「教会の書」を「公認されたもの」「疑わしきもの」「偽書」とに三分した。他に、エウセビオス(260-339頃)の分類や、アタナシオスによる復活祭書簡第39における27文書のみを正典とした最初の言及が挙げられる。西方教会と東方教会の双方において、ヘブル書、ヨハネ黙示録等の正典性を巡って長らく議論されたが、西方教会は397年のカルタゴ会議において、東方教会では680年の第3コンスタンティノポリス公会議において、新約文書全体が公認された。

2024年3月8日金曜日

教皇ボニファティウス8世

教皇ボニファティウス8世 Bonifatius VIII, 在位1294-1303 CE

要約
カトリック繁栄の最盛期、教権優位を主張したためにフランス王フィリップ4世と対立し、1303年に襲撃を受け、救助されたものの間もなく病死。いわゆる「アナーニ事件」「ボニファティウスの憤死」。以後、カトリック衰退。

本文
 教会への課税問題を巡ってフランス王フィリップ4世と教会課税を巡って対立し、1303年に別荘のアナーニにてフランス軍の襲撃と侮辱を受け、その後まもなく病死した、いわゆる「アナーニ事件」、または「ボニファティウスの憤死」で知られる。彼の死後、フランスとの関係の悪化は決定的となり、力関係の逆転も生じて、教皇座がアヴィニョンに移されたままとなる、いわゆる「アヴィニョン捕囚」が起こる。

 ちなみに、彼はビザンティンからルネサンス期の画家ジョット・ディ・ボンドーネの後援者。ボニファティウスは1300年に聖年を定めたため、当時のイタリアは潤い、ルネサンス文化の開花が始まっていた。なお、ダンテはフィレンツェを追放された恨みから、『神曲』において彼を地獄に落とされた者として描く。一方で、クレルヴォーのベルナルドゥスは、ダンテを導く案内人となり、彼に三位一体の奥義を教示する。