2023年8月4日金曜日

「私が着任した当時(2012年)の茨木春日丘教会(光の教会)その2ーー制限問題」

 前回、キャパを大幅に超える観光客が来訪して、礼拝が崩壊状態にあったというお話をしました。


 着任前から私は、対策案を練りに練っていました。まず考えたことは、”教会に来たいという人を拒む形になる”ということです。「教会に来たいという人を断ることはできない」と、普通の牧師や信徒は考えます。世の中の一般の人たちもそうです。いわばこれはタブーですから、常人が破れるものではありません。実際、前任牧師もそうお考えになっていて、道義的にも、方法論的にも、「制限するなんて不可能だ」と面と向かって断言されました。


 完全シャットアウトするにせよ、部分的に制限するにせよ、先のような通念の中でそうすることは、一体何を意味するでしょうか。そうです。強烈な拒否反応や、批判や非難を浴びることになるということです。「教会は誰に対してもオープンであるべきだ」「差別だ」「心が狭い」などなどの定型フレーズがある通りです。


 しかし私の中では、既に「やる」ことは決めていました。その上で、このポストを自分が引き受けたわけですから。「まともな牧師には、それはできないだろー」と私自身も思っていました。ところが、「俺みたいなまともじゃない牧師なら、できるけどな」という考えに至った瞬間、自分がやるしかないと感じました。「誰かが手を汚さなければならないというのなら、そして、誰も手を汚したくないというのなら、喜んで僕が引き受けよう」と腹を括りました。


 しかし問題は、世の中からのご批判はさておくとしても、当の教会の教会員がどうお考えになるのかという点です。教会員や教会員から選挙された「役員」や「長老」などと呼ばれる人たちの反対があれば、当方の教会が属している教会のシステム上、実行は不可能となります。さらに、前任の牧師は数十年、ほぼこの教会一筋で奉職された方ですので、例えば長期政権の社長が交代した後の如く、会社なり何なりに自分という存在を時間を掛けて馴染ませていくプロセスが不可欠です。つまり、トップが交代して不安定な状態の中、ゴリ押しすることはできないということです。


 多数決で、というわけにも参りません。私たちの民主主義社会でもそうであるように、誰か声の大きい人が猛烈に反対したら、声を上げないその他大勢の人たちは様子見の姿勢を取ります。結果、一部の強烈な人の考えが優先される状況に陥ります。もしそういう人がいた場合、着任早々の私がその人とバトルを繰り広げることなどできません。不安定であることが予測される教会を、戦場にすることなどできませんから。それに、牧師と信徒が喧嘩をするようなこと自体、既に牧師の側の負けです。先生と生徒の争い、有名人と一般ピープルの争いと同じこと。前者は道を譲らなければ自動的に負けとなります。


 従って、教会員全体が強く「制限」を望むのか、それとも望まないのかが、決定的な要因でありました。果たしてその結果は……。(次回に続く)

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