2023年8月4日金曜日

クレルボーのベルナルドゥス

クレルボーのベルナルドゥス eng. Bernard; lat. Bernardus, c. 1090‐1153 CE


要約

クレルボーのベルナルドゥス 1090頃‐1153 

フランスの聖人。人柄と流麗な文体、キリストとの神秘的一体の強調から甘蜜博士と呼称。クレルボー修道院を創設。托鉢生活を実践。アベラールと教義上対立。政治力を発揮し、教皇権における両剣論を主張。1174年列聖。


本文

 フランスの聖人。その人柄と流麗な文体、神の愛によるキリストとの神秘的一体の経験の強調から甘蜜博士(Doctor mellifluus)と称される。


 1112年頃に親族ら30人とシトー会修道院に入る。1115年、当時の院長スティーブン・ハーディングより派遣されて、新設された分会であるクレルボー修道院の院長に就任し、12人の修道士と共に始めたクレルボー修道院は一挙に拡大していく。クレルボーという名称の由来は、人里離れた谷を彼らが「明るい谷」(Clair-vaux)にしようと企図したことにある。説教では雄弁を誇り、厳格な生活を重んじた。


 その後、ベルナルドゥスの名声は急速に広まり、フランスからイタリアにかけて68の修道院が設立されるに至った。同時に、教会内にもその影響力は及び、クリュニー修道院(院長ペトルス・ウェネラビリス)との論争を招来した。


 彼の政治力は、教皇ホノリウス2世が死去した際に二名の教皇が後任として擁立され教会分裂の危機が到来した際に発揮され、アナクレトゥス2世に対抗してインノケンティウス2世を支持して分裂を回避させることに成功した(1130ー37)。


1140年、サンス公会議において合理主義的なアベラールの教説を批判。

1141‐43年ルイ7世との対立、

1145年南仏伝道

1146年第2回十字軍勧説。これにより大規模な遠征が行われたが敗退し、影響力を落とした彼は最後にクレルヴォーの修道院にて没。また、中世随一の図書館設立。1174年列聖。


 神学

 ベルナルドゥスの神学は、托鉢生活の実践による意志的な神への献身と神の恩寵と愛の強調、霊的婚姻と呼ばれる霊とキリストとの一体化という神秘的体験を基調とする。その神学的基盤はアウグスティヌスに起源するラテン教父神学にあり、これにオリゲネス、ニュッサのグレゴリウスらに代表されるギリシャ教父神学を融合させたものである。


 政治的側面では、教皇権における両剣論(宗教的権威と世俗的権威を教会は持ち、教会の権威が後者に優位する)を主張。また、ソールズベリーのヨハネス、ギヨーム・ド・シャンポー、サン・ビクトールのフーゴーらと交友関係を持つ。

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