【聖日礼拝説教】2025年3月9日「イエスに香油を注いだ女性」
場所:茨木春日丘教会(光の教会)礼拝堂
聖書箇所:新約聖書 マタイによる福音書 26章6-13節
聖書テキスト
マタイによる福音書 26章6-13節
6さて、イエスがベタニアでらい病の人シモンの家におられたとき、
7一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
8弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。
9高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
10イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
11貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
12この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
13はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
<説教テキスト>
教会の暦の上では、灰の水曜日、英語ではアッシュウェンズデーを過ぎまして、受難節に入っております。受難節というのは、文字通り、キリストの受難、十字架の痛み、十字架の死を思い巡らすべき期間、ということになります。その受難節と奇しくもマッチするところが、本日の聖書箇所ともなっています。
お開きのマタイによる福音書26章あたり、その物語の中での時間としては、キリストが十字架にかけられて絶命へと至るまで、もう間もなくといったタイミングになります。ここで物語られている出来事において、一人の女性が現れて、イエスに高価な香油を注ぐという場面がありますけれども、これもまた、キリストの十字架の死を予兆するものであります。早速、聖書箇所を読んで行きましょう。
Mat026006さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、Mat026007一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
まず、「一人の女」と紹介されている人が登場します。これは初心の方ではなく、聖書を読み慣れた方だとそう思ってしまうケースが多いところでして、慣れた人だと、「あ、この人、マグダラのマリアかな?」と思ったり、「ラザロの姉妹のマリア」かな?と考えたりするのですが、専門領域の見解から一言で言うと、おそらく伝承の混乱というものでして、各地で言い伝えられているうちに、例えば伝言ゲームで話が微妙に変わっていったり混ざったりするというのでして、ですので、色々と推測を立てるよりも、ここはもう単純に、ここはここで読んで完結しておいた方が、話が早いです。
次に、「極めて高価な香油」とありまして、ここと同様の記事がマルコにもあるのですが、そちらによりますと、ナルドの香油とあります。当教会の「ナルドの会」の由来でもありますね。そのナルドという語は、サンスクリットで「芳しい」という意味の語であると。また、金額にして200デナリともあり、デナリというのは日雇いやローマ兵の賃金1日分ということで、確かに「非常に高価」であります。
頭から香油を注ぐという行為そのものとしては、イエス以前の旧約聖書の時代から行なわれてきたものでした。具体的には、王が立てられて即位の式となった際、神から王の職務を委ねられる、つまり任職されることを象徴して、油注ぎというものが執り行われる習慣がありました。油注ぎは王だけに為されるものではありませんで、神によって立てられるような特別な職にある者にも行われるものでした。いわゆる救世主を指す語として、メシアという語がありますけれども、その原語がここに源流を持つ「油注がれた者」という意味の語になります。ですので、この女性がイエスに油を注いだという行為は、油注がれた人こそメシアであることを暗示もしている、というわけです。
同時に、我々の教会では、信仰告白という慣習がありまして、教会の原初の時代より、特に洗礼式と結びつけられて行われてきたものです。要は、洗礼志願者が、自らの口をもって、信仰を露わにするという行為です。そういう観点から、かの女性のイエスへの油注ぎという行為を読み取りますと、言葉ではなく、行為でもって信仰を露わにするという、信仰告白的な行動である、とも解釈されるわけです。
あともう一つ、ここに織り込まれている含みがあります。それは、当時、死者の弔いとして、遺体に油を塗るという行為です。となりますと、油を注がれるということが、イエスの死を暗示し、同時に、油を注ぐという行為が、イエスの十字架の死を悼むことをも示していると。
今日のところ、大変美しく印象的な場面であるけれども、どこか謎かけっぽくもあり、ちょっと距離を感じる方も少なくないと思いますが、以上を踏まえると、暗示と予兆と予言が非常に繊細に織り込まれた、高度に美しい物語であることを、ご納得いただけるのではないでしょうか。
ところが、これに水を差しますのは、イエスの弟子たちです。ただ、この水差しがあることで、かえってかの女性の油注ぎと、イエスのフォローの言葉の色合いが、鮮やかになるのですよねえ。
Mat026008弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。Mat026009高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
正論というのは、一面ではとても大事なことです。暴論が幅を利かせてはなりませんから。しかし私たちにもしばしばあるでしょう、気に入らないとか、他に理由があるのだけれどそれを前面に出すのはちょっとといった場面で、正論が出されるということが、多々ありますよね。本当に思います、こういう場合の正論というものが、いかに物事を停滞させているか。「本当は単なる嫉妬じゃないの?」と誰もが思う中で、滔々と語られる正論に、ただ時間が消費されるって奴です。ある時は、正論という名のもとに、暴力的なまでに責めることさえ正当化されたりもします。こういった偽りの正論が口に出された時、そのままスルーされることが多いと思いますけれども、ここでイエスは食いつきました。軽くですが。だから私は、ここでのイエスの噛みつきが、とても嬉しく感じます。
Mat026010イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。Mat026011貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。Mat026012この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
やおら、自身の葬りへの突然の言及ということで、謎めいた感じが強いですが、もう言うまでもないでしょう。これが、受難の死の予告となっているわけです。また、12節では、先ほど述べたところの、遺体に香油を注いで塗るという行為についても触れられています。
彼女は、イエスへの崇敬と愛情を、ひとつの「形」として示しました。それこそが、油注ぎです。しかし、弟子たちは彼女が抱いていた「思い」を見ず、ただその「形」だけを表面的に見て、実質的な損益を考慮した上で、「もったいない」と判断を下しました。
こういうものの構造は、私たちの間にもよくあることです。私が最近よく述べていることで、主なる神に対して、人に気を遣うように気を遣いなさい、というのがあります。信徒や聖職者でもよく謝るのは、なにか事がある時に、「これはどうすべきなのか、こうすべき」「これは誤り、これは正しい」など、具体例で言えば、「礼拝に出るのは義務なのか、自由意志なのか」とかあるでしょう。べき論です、これは。でも、ベキ論も必要ですが、その次元に囚われてばかりというのでなしに、主なる神のことを、人格をお持ちの方という視点から気を遣うということです。例えば皆さんのところに人が挨拶に来るとして、「これは義務だから仕方がねえ」とか裏で考えていたりしたら、ガッカリじゃないですか。「そんなんだったら、もう来なくていいよ」と。これと全く同じ事で、主なる神様が、挨拶なり礼拝なりに我らが来ることを楽しみにしているのですよ。その神のありがたき思いを我々が知ってね、こりゃ神様をガッカリさせちゃいけねえとばかりに気を遣って、「いやはや、こんな私を喜んでくださるなんて、ありがとうございます」という感謝の気持ちで、礼拝に来てほしいですよね。
それなら、義務感が拭えない時はどうするの?と。これはイエスの例え話でそういうものがありますけれども、やらないよりは、やった方がマシです。これって私たちの感覚でも、「俺に挨拶するのもきっと億劫だろうな」と思っていても、それでも義務を果たしにやった人と、結局やらない人があったら、「まあ、あいつも、めんどくさいなりに、やることはやったからな。筋は通すよな、あいつ。それは俺、評価したいよ」となるのではないでしょうか。
こういうわけで、イエスは彼女の香油自体を喜んだというよりは、その背後にある彼女の気持ち、もしくは、気を遣う「気」。これを慮って、とても喜ばれたと察します。とりわけ、まもなく十字架の上で絶命する定めを覚悟している中で、この女性がそれを予期しているかどうかは別として、こんな気の使われ方をされたら、ひょっとすると、イエスご自身も、涙が込み上げてくるくらいのお気持ちになられたのではないかと。
そういうわけで、このエピソードを見るたびに、私たち、自分の主なる神への気の使い方ってどうなっているの?と、胸に手を当てて問わずにはいられないというものです。
ただ、私の経験上、そこですごく反省するという方は、基本的に心配いらないと思います。神の側から見て、「よくやっているよ」と。時々緩むくらい、人間そんなもんだしね。という感じかなと。「俺はやるべきことはやっているぞ」と自己正当化の心理が働く方は、ちょいと黄色信号かもしれません。
最終節の13節です。
Mat026013はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
現在、私たちが今、捧げている礼拝も、ここで言及されているところの、世界中の語り伝えの一つとして為されています。イエスとかの女性が織りなした出来事の物語の時間と、今の我々の時間とは、まさにこの礼拝の場において、結び合わされております。我らもまた、受難のイエスに、三位一体の神に、香油という名の、感謝の思いと思慕の念を注ぎたいと願います。