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2025年3月25日火曜日

光の教会【礼拝説教】2025年3月23日「抜き身の剣を手にした人」

 

聖日礼拝説教 2025年3月23日

場所:日本基督教団 高槻教会

聖書箇所:民数記22章22-35節


22ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった。主の御使いは彼を妨げる者となって、道に立ちふさがった。バラムはろばに乗り、二人の若者を従えていた。

23主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見たろばは、道をそれて畑に踏み込んだ。バラムはろばを打って、道に戻そうとした。

24主の御使いは、ぶどう畑の間の狭い道に立っていた。道の両側には石垣があった。

25ろばは主の御使いを見て、石垣に体を押しつけ、バラムの足も石垣に押しつけたので、バラムはまた、ろばを打った。

26主の御使いは更に進んで来て、右にも左にもそれる余地のない狭い場所に立ちふさがった。

27ろばは主の御使いを見て、バラムを乗せたままうずくまってしまった。バラムは怒りを燃え上がらせ、ろばを杖で打った。

28主がそのとき、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは。」

29バラムはろばに言った。「お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう。」

30ろばはバラムに言った。「わたしはあなたのろばですし、あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか。今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか。」彼は言った。「いや、なかった。」

31主はこのとき、バラムの目を開かれた。彼は、主の御使いが抜き身の剣を手にして、道に立ちふさがっているのを見た。彼は身をかがめてひれ伏した。

32主の御使いは言った。「なぜ、このろばを三度も打ったのか。見よ、あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから、わたしは妨げる者として出て来たのだ。

33このろばはわたしを見たから、三度わたしを避けたのだ。ろばがわたしを避けていなかったなら、きっと今は、ろばを生かしておいても、あなたを殺していたであろう。」

34バラムは主の御使いに言った。「わたしの間違いでした。あなたがわたしの行く手に立ちふさがっておられるのをわたしは知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」

35主の御使いはバラムに言った。「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい。」バラムはバラクの長たちと共に行った。

光の教会【ひとこと説教 1】真面目腐るか、パーっと生きてみるか

 


茨木春日丘教会(通称 光の教会)の週報で、不定期に掲載している記事を、動画化したものです。


以下、聴覚が不自由な方のために、日本語の原稿が記載されています。


ーーー ーーー ーーー


【聖書ひとこと説教】

「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。」

コヘレトの言葉 9章7節


 真面目腐っていじけて過ごすか、それとも、いっそのことパーっと前向きに生きるか。

 神がどちらを喜ばれるかは、ここで言われている通りです。

光の教会【礼拝説教】2025年3月16日「主の晩餐」

聖日礼拝説教 2025年3月16日

場所:茨木春日丘教会(通称 光の教会)

聖書箇所:マタイによる福音書 26章26-30節


26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」


27また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。


28これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。


29言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」


30一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

2025年3月8日土曜日

【聖日礼拝説教】2025年3月9日「イエスに香油を注いだ女性」

 

【聖日礼拝説教】2025年3月9日「イエスに香油を注いだ女性」

場所:茨木春日丘教会(光の教会)礼拝堂

聖書箇所:新約聖書 マタイによる福音書 26章6-13節

聖書テキスト

マタイによる福音書 26章6-13節


6さて、イエスがベタニアでらい病の人シモンの家におられたとき、

7一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。

8弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。

9高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」

10イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。

11貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

12この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。

13はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」



<説教テキスト>

 教会の暦の上では、灰の水曜日、英語ではアッシュウェンズデーを過ぎまして、受難節に入っております。受難節というのは、文字通り、キリストの受難、十字架の痛み、十字架の死を思い巡らすべき期間、ということになります。その受難節と奇しくもマッチするところが、本日の聖書箇所ともなっています。

 お開きのマタイによる福音書26章あたり、その物語の中での時間としては、キリストが十字架にかけられて絶命へと至るまで、もう間もなくといったタイミングになります。ここで物語られている出来事において、一人の女性が現れて、イエスに高価な香油を注ぐという場面がありますけれども、これもまた、キリストの十字架の死を予兆するものであります。早速、聖書箇所を読んで行きましょう。


Mat026006さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、Mat026007一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。

 まず、「一人の女」と紹介されている人が登場します。これは初心の方ではなく、聖書を読み慣れた方だとそう思ってしまうケースが多いところでして、慣れた人だと、「あ、この人、マグダラのマリアかな?」と思ったり、「ラザロの姉妹のマリア」かな?と考えたりするのですが、専門領域の見解から一言で言うと、おそらく伝承の混乱というものでして、各地で言い伝えられているうちに、例えば伝言ゲームで話が微妙に変わっていったり混ざったりするというのでして、ですので、色々と推測を立てるよりも、ここはもう単純に、ここはここで読んで完結しておいた方が、話が早いです。

 次に、「極めて高価な香油」とありまして、ここと同様の記事がマルコにもあるのですが、そちらによりますと、ナルドの香油とあります。当教会の「ナルドの会」の由来でもありますね。そのナルドという語は、サンスクリットで「芳しい」という意味の語であると。また、金額にして200デナリともあり、デナリというのは日雇いやローマ兵の賃金1日分ということで、確かに「非常に高価」であります。

 頭から香油を注ぐという行為そのものとしては、イエス以前の旧約聖書の時代から行なわれてきたものでした。具体的には、王が立てられて即位の式となった際、神から王の職務を委ねられる、つまり任職されることを象徴して、油注ぎというものが執り行われる習慣がありました。油注ぎは王だけに為されるものではありませんで、神によって立てられるような特別な職にある者にも行われるものでした。いわゆる救世主を指す語として、メシアという語がありますけれども、その原語がここに源流を持つ「油注がれた者」という意味の語になります。ですので、この女性がイエスに油を注いだという行為は、油注がれた人こそメシアであることを暗示もしている、というわけです。

 同時に、我々の教会では、信仰告白という慣習がありまして、教会の原初の時代より、特に洗礼式と結びつけられて行われてきたものです。要は、洗礼志願者が、自らの口をもって、信仰を露わにするという行為です。そういう観点から、かの女性のイエスへの油注ぎという行為を読み取りますと、言葉ではなく、行為でもって信仰を露わにするという、信仰告白的な行動である、とも解釈されるわけです。

 あともう一つ、ここに織り込まれている含みがあります。それは、当時、死者の弔いとして、遺体に油を塗るという行為です。となりますと、油を注がれるということが、イエスの死を暗示し、同時に、油を注ぐという行為が、イエスの十字架の死を悼むことをも示していると。

 今日のところ、大変美しく印象的な場面であるけれども、どこか謎かけっぽくもあり、ちょっと距離を感じる方も少なくないと思いますが、以上を踏まえると、暗示と予兆と予言が非常に繊細に織り込まれた、高度に美しい物語であることを、ご納得いただけるのではないでしょうか。

 ところが、これに水を差しますのは、イエスの弟子たちです。ただ、この水差しがあることで、かえってかの女性の油注ぎと、イエスのフォローの言葉の色合いが、鮮やかになるのですよねえ。


Mat026008弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。Mat026009高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」

 正論というのは、一面ではとても大事なことです。暴論が幅を利かせてはなりませんから。しかし私たちにもしばしばあるでしょう、気に入らないとか、他に理由があるのだけれどそれを前面に出すのはちょっとといった場面で、正論が出されるということが、多々ありますよね。本当に思います、こういう場合の正論というものが、いかに物事を停滞させているか。「本当は単なる嫉妬じゃないの?」と誰もが思う中で、滔々と語られる正論に、ただ時間が消費されるって奴です。ある時は、正論という名のもとに、暴力的なまでに責めることさえ正当化されたりもします。こういった偽りの正論が口に出された時、そのままスルーされることが多いと思いますけれども、ここでイエスは食いつきました。軽くですが。だから私は、ここでのイエスの噛みつきが、とても嬉しく感じます。


Mat026010イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。Mat026011貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。Mat026012この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。

 やおら、自身の葬りへの突然の言及ということで、謎めいた感じが強いですが、もう言うまでもないでしょう。これが、受難の死の予告となっているわけです。また、12節では、先ほど述べたところの、遺体に香油を注いで塗るという行為についても触れられています。

 彼女は、イエスへの崇敬と愛情を、ひとつの「形」として示しました。それこそが、油注ぎです。しかし、弟子たちは彼女が抱いていた「思い」を見ず、ただその「形」だけを表面的に見て、実質的な損益を考慮した上で、「もったいない」と判断を下しました。

 こういうものの構造は、私たちの間にもよくあることです。私が最近よく述べていることで、主なる神に対して、人に気を遣うように気を遣いなさい、というのがあります。信徒や聖職者でもよく謝るのは、なにか事がある時に、「これはどうすべきなのか、こうすべき」「これは誤り、これは正しい」など、具体例で言えば、「礼拝に出るのは義務なのか、自由意志なのか」とかあるでしょう。べき論です、これは。でも、ベキ論も必要ですが、その次元に囚われてばかりというのでなしに、主なる神のことを、人格をお持ちの方という視点から気を遣うということです。例えば皆さんのところに人が挨拶に来るとして、「これは義務だから仕方がねえ」とか裏で考えていたりしたら、ガッカリじゃないですか。「そんなんだったら、もう来なくていいよ」と。これと全く同じ事で、主なる神様が、挨拶なり礼拝なりに我らが来ることを楽しみにしているのですよ。その神のありがたき思いを我々が知ってね、こりゃ神様をガッカリさせちゃいけねえとばかりに気を遣って、「いやはや、こんな私を喜んでくださるなんて、ありがとうございます」という感謝の気持ちで、礼拝に来てほしいですよね。

 それなら、義務感が拭えない時はどうするの?と。これはイエスの例え話でそういうものがありますけれども、やらないよりは、やった方がマシです。これって私たちの感覚でも、「俺に挨拶するのもきっと億劫だろうな」と思っていても、それでも義務を果たしにやった人と、結局やらない人があったら、「まあ、あいつも、めんどくさいなりに、やることはやったからな。筋は通すよな、あいつ。それは俺、評価したいよ」となるのではないでしょうか。

 こういうわけで、イエスは彼女の香油自体を喜んだというよりは、その背後にある彼女の気持ち、もしくは、気を遣う「気」。これを慮って、とても喜ばれたと察します。とりわけ、まもなく十字架の上で絶命する定めを覚悟している中で、この女性がそれを予期しているかどうかは別として、こんな気の使われ方をされたら、ひょっとすると、イエスご自身も、涙が込み上げてくるくらいのお気持ちになられたのではないかと。

 そういうわけで、このエピソードを見るたびに、私たち、自分の主なる神への気の使い方ってどうなっているの?と、胸に手を当てて問わずにはいられないというものです。

 ただ、私の経験上、そこですごく反省するという方は、基本的に心配いらないと思います。神の側から見て、「よくやっているよ」と。時々緩むくらい、人間そんなもんだしね。という感じかなと。「俺はやるべきことはやっているぞ」と自己正当化の心理が働く方は、ちょいと黄色信号かもしれません。

 最終節の13節です。


Mat026013はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 現在、私たちが今、捧げている礼拝も、ここで言及されているところの、世界中の語り伝えの一つとして為されています。イエスとかの女性が織りなした出来事の物語の時間と、今の我々の時間とは、まさにこの礼拝の場において、結び合わされております。我らもまた、受難のイエスに、三位一体の神に、香油という名の、感謝の思いと思慕の念を注ぎたいと願います。




2025年2月9日日曜日

【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年2月9日「最も重要な掟」

 

教会正式名称 日本基督教団茨木春日丘教会 礼拝堂名称 光の教会 牧師・礼拝説教 大石健一 正確には、礼拝説教の前または後、録音し直した音源です。

ーーー文字テキストーーー

2025年2月9日 
「最も重要な掟」

 今日の聖書の箇所は、イエスと敵対関係にある、とあるグループが、原文によれば「イエスを試そうとした」と。すなわち、イエスの力量を測るか、あるいはおそらく最終的にはイエス罠に嵌めようとして、質問を投げ掛けた時の回答が書かれています。内容としては説教題のように、いわゆる「最も重要な掟」と。

34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
 ファリサイ派については、先週の礼拝説教でも登場いたしました。イスラエル民族、ユダヤ人の民族宗教たるユダヤ教の教師たちです。今日でもユダヤ教の教師は存在して、当時と同様、教師を意味する「ラビ」と呼ばれていました。そのラビにも学派がありまして、ファリサイ派というのは、トップの学派でありました。彼ら、実に研究熱心でよく勉強して純粋ではあるのですが、ただ、これは現代でもしばしば変わらぬ世の常として、こういう人たちってしばしば頭が固くて、鼻持ちならない自意識の高さというものがあって、人を見下す、または人を排除する、人を否定する時のスピード感は半端ない、自分が認めたもの、認めた以外の人は、決して認めない、総じて度量が小さい、といったマイナス面も併せ持ったりしますけれども、彼らの少なからずもまた、そうした一面があったと。それをイエス・キリストという方は、結構突きにかかるものですから、反感を買われていたという次第です。
 サドカイ派については、これも先週出てきました。貴族層の人たちで、貴族って何だというと、既得権益を持っている人です。よって、それを守ることが優先順位一番になるわけです。そうすると、現在の日本の政治家の一部も、他の外国人や移民に日本を売って、自分は利権を得る「売国奴」などと揶揄されていますけれども、これとほぼ同じ構造で、ローマによる植民地支配を、ユダヤ人でありながら喜ぶわけです。なぜって、自分たちの財産の保持の至上主義だから。
 それで、ファリサイ派は政治的には左派、サドカイ派や右派となって、本来、犬猿の仲であるはずなのですが、どちらもイエスが嫌いなため、これを潰すために一致することは、どちらもやぶさかではなかったと。お互い嫌いなものが一緒とか、敵が共通するって、しばしばとっても不思議な仲睦まじさをもたらしますよね。

35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
 まず、律法の専門家というのが出てきまして、律法というのは、神からイスラエルの民に与えられた数々の掟であります。中核にあるのは、モーセが神から授けられた、いわゆる「モーセの十戒」、「十戒」になります。「他に神があってはならない」とか、「安息日を守れ」とか、「父母を敬え」とか、あれになります。旧約聖書にはそういった決まりが無数にありまして、先ほどのラビ、また律法学者、そしてここに出てきている「律法の専門家」というのは、これらを解釈して、過去の解釈例も頭に入れて研究を続けていた、まあ、法律学者みたいなものと言えるでしょうか。だから、法学者ならぬ、律法学者とか言うわけですね。あと、律法学者も律法の専門家も、表現が違うだけで、どちらも大して変わりありません。
 で、その律法の専門家が、「イエスを試そうとして尋ねた」と。「試す」と訳されている語は、金属の精錬にも使われる語で、「ダメなものはダメにしてしまえ」というニュアンス。だから、「試す」って言葉、結構シビアなものでして、試してみてダメにしてしまったら、それはしょうがない、むしろそれでよし、という構えなので、それなりに過酷なものです。優しさはありません。あと、「試す」とあるところ、必ずしも「罠に嵌める」と同じ意味ではありませんが、まあ半分、イエスを潰しにはかかっています。最初から罠には目にかかる連中よりは、かなり良心的ではありますが。
 それで、イエスを試すための質問内容ですが、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」というものでありました。「律法のエッセンスを一言でまとめたら、何でしょう」といったノリです。
 皆さんもちょっと、答えを考えてみてください。そうしないと、自分の中であまり面白くなりませんから。そんなの聞かれても初心者だから分からないという方もいらっしゃると思いますが、私、ここまで語った中で、一つ模範解答を既に述べています。さっき、律法全体の中核にあるもの、と述べたところのもの、それは、一般にも知られている「モーセの十戒」です。これについては、当然当時においても常識とされていて、律法全体はモーセの十戒に集約されているとされていました。
 ただ、そこからさらに掘り下げていって、最終的に「二つまで絞れるのだ」と真理を見出した人たちが、既にイエス以前の昔の時代にいまして、その意味で実は、後続のイエスの言葉の第一、第二の掟とあるところ、キリストオリジナルでも何でもないのです。というか、当時の誰もが知っていた、基本常識なのです。
 こういうのって、研究していった人なら経験あることかと思うのですけれども、研究を進めていくと、もう際限がないわけです。ところが、今度はそれを人に伝える、しかも、珍紛漢紛の人に教えようなどと考えると、本質を一言で伝えられないか、などという思考に切り替わっていくことがあります。
 ただ余談ながら、一言で伝えるものって喜ばれるのですけれど、教えられる側は、それだけだと成長がないのですよ。やはり、地道で退屈な学びの過程があるからこそ、熟練者が「これってこう!」と一言でトドメ刺してきたところで、「そうか、わかった!」と、小膝を叩く、では表現が弱い。柏手打って喜ぶと。ただ、それでいて、熟練者の「これ」という一言は、全くの初心者でもわからせる魔力は時にありますね。まあ、そういったすごい言葉は、そうそうお目にかかれるものではありません。

37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38これが最も重要な第一の掟である。
 こちら、二重鉤括弧に入っていることからわかる通り、引用の言葉、それも旧約聖書からの引用となっていまして、だから、イエスオリジナルの言葉ではありませんと。同時に、「第一の掟」とあって、「第二の掟」が後に続いていまして、第一第二の構成になっているわけですが、第二の方も同様です。
 「心を尽くし、精神を尽くし」とある表現は、要は、自分の全存在をかけて、ということです。「常に力一杯」とか言われたら、やる前から疲れますけれど、「そこに自分の存在がかかっているか」と言われたら、疲れるというか、重々しいじゃないですか。人生論が掛かっているというか。そういうニュアンスです。
 あと主なる神を愛する、の「愛する」という言葉。皆さんは「愛する」とは何かと問われて、何と答えるでしょうか。私なら、「愛とは、労苦を共に担い、重荷を背負うこと」という回答が一つ。もう一つは、優先順位を一番にすること。え?と思われるかもしれませんが、愛が壊れかける場面で、よくあるではないですか。「一体あなた、仕事と私、どっちが大事なの?」って。優先順位の問題じゃないですか。だから、愛が適当になってくると、どこに現れるかというと、優先順位に現れてくると。それが手っ取り早く、顕著に出るのが、礼拝出席。事情とか思いなく、礼拝もういいや、という状態は、要するに、もうその人にとって神なんか、どうでもいいってことで、つまり、優先順位の下の下まで落としているわけですね。あのですね、礼拝に行くのって、「義務だから」とか答えるのは、ありきたり、で、ひょっとすると危ないかも。それで、礼拝に出るというのは、義務であれど、気持ちの問題。どんな気持ちかというと、神のお気持ちが寂しくならないように、「私、大事にしております」という自分の気持ちを神に表すために、出る。これが全て。礼拝楽しい、説教楽しい、他の人に会えるの楽しい、それはそれでそれに越したことはありませんけれどもね。根幹にあるのは、私の場合、優先順位落としたのを見られて、神の怒りを買うのが怖いというのもさほどなく、悲しませたくない、という気持ち。

39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
 イエスの言葉にも、こういうのありますよね、自分が好きな人とか、自分を愛してくれる人を愛したとしても、それが一体何なんだと。誰でも普通に自然にやっていることではないかと。そうではないことは、先ほど私が述べた通りでして、すなわち、「愛とは、労苦を共に担い、重荷を背負うこと」。
 恋愛とか、恋愛感情ある愛の実体については、本質的には利己的だなと思うのです。なぜなら、自分が好きな相手が、相手も自分のこと好きという、愛の喜びハッピータイムなわけで、偉くも何ともない。けれど、楽しい時は、あんな楽しいものはないですよね。崩れ始めると地獄ですが。
 あと、第一と第二の関係について、一つ目、順序が大事。すなわち、神を愛し、神に愛されているということができてないと、別に好きでもない人に労力なんて裂けませんから。だから、第一が先に来て、次の第二という順序は重要。
 二つ目、両方揃ってないとダメ。なんぼ「神を愛しています」という人がいたとして、すごく冷たい人だったら、それってもう自己愛と変わらんと。かといって第二のみだったら、それは博愛主義とかヒューマニズムであるわけで、信仰が関係なくなってしまいますから。まあ、それはそれで悪いことではないですが。よって、これら二つの順序、そして両方揃ってないとだめってことで。終了。





2025年2月3日月曜日

【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年2月2日「神のものは神に」



<原稿テキスト>

2025年2月2日 マタイ22:15-22

「神のものは神に」


 今日のエピソードの場所は、ユダヤの首都エルサレムになります。そしてこのタイミングというのは、キリストが十字架にかけられる、わずか数日前ということになります。15節を読みます。

15それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。

 ここに登場しているファリサイ派というのは、当時のイスラエル民族における民族宗教、ユダヤ教指導者たちの一派です。最も権威と伝統のあるグループでした。福音を読んでいると、なんだか虚栄心が強くて頭の固い、そしてイエスに意地悪を仕掛ける、碌でもない連中に思えるのではありますが、神への信仰的な筋は通し、基本は敬虔な人たちでもありましたので、実はそれほど悪くもなく、彼らを尊敬する民衆が大勢を占めていました。

しかしながら、古今東西、世の中のどんなグループでも、色々な人格の人というのがいます。また、自分の人気を掻っ攫われると、大概の人はいい気持ちがしません。不愉快になります。具体的には、彼らというのは、当初は自分たちが民衆からの敬意を独占していたにもかかわらず、まずはそれを洗礼者ヨハネが最初にかっさらって、次にはイエス・キリストがさらえていったわけです。ですから、なんぼ宗教家でも、嫉妬心から来る憎しみを抱く人もいたということです。そういうわけで、なんとかイエスという男のメッキを剥がして、人気を失墜させてやろう、そういう魂胆であったということです。


16そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。

 ファリサイ派の指導者層が、弟子、すなわち論客をイエスのところに遣わした、そうあります。「ヘロデ派の人々と一緒に」とありまして、これはその名の通り、この物語当時には既に亡くなって久しいヘロデ大王と、その一族を支持する一派です。ヘロデ大王は、ローマにおもねって支配を手にした男ですから、その一派も、ローマ体制よりの貴族層です。その意味で右翼。一方のファリサイ派は、信仰の純粋さはさすがに持っていますから、異教の民が神の民イスラエルを属国支配するなど、死んでも許すまじ、という政治的立場で、その意味で左翼。よって両者、政治的に相容れない右翼と左翼、互いに犬猿の仲同士。これが、イエスを追い落とすという目的のもと、一致協力しているわけです。

 私たちにおいても、共通の憎たらしい敵がいますと、仲が悪い者たち同士でも手が組める、なんてことがよくあります。政治信念も信仰も含め、人間の信念というものが、いかに、憎たらしいという感情や欲望に脆く、流されるものであるかを、ものの見事に表している事例でしょう。


 そこでファリサイ派の人々はイエスに口を開きました。

「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。

 心にもない言葉です。冒頭の「先生」からして、この先生と訳されている語、元々は今日でもユダヤ人の中で使われている「ラビ」という言葉。ユダヤ教の教師を指す語であると。このケースであれば、ファリサイ派のラビたちは、まずこう思っているはずです。「ラビと呼ばれるべきは自分たちだけで、イエスとかいうどこぞの馬の骨には相応しくない呼び方だ」と。それでもここで、嫌味たっぷりに慇懃無礼にも程があるアプローチをする、そんな裏の心情を汲み取って改めてここを読み直すと、結構笑える箇所です。

 また、これって、この後イエスを罠に嵌めていくための、準備作業にもなっています。すなわち、「こんなにも評判のあなたが、こんな失望するような答えをするなんて」といった具合。


17ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

 皇帝というのはローマ皇帝のことで、それはローマの支配を象徴するものです。また、そもそもローマは、いうまでもなくユダヤの神を信じる国家ではありませんから、ユダヤ人から見れば異教の国家になるわけです。またこの時代、ローマが神殿を荒らすとか、神殿にローマの国旗を立てるとか、皇帝の像を立てるとか、なにかとユダヤ人を闇雲に刺激するような失策が続いた時期でもありました。つまり、「にっくきローマめ」という不満が溜まっている状態です。「税金を納める」というのは、その流れでいけば、こういうローマの支配を容認するということになります。したがって、「律法に適っているか?」と問われれば、「適っているわけない」と答えるしかありませんと。

 それならば、「律法に適っていない」と答えれば、その言動をローマ側に密告されれば、国家反逆罪のかどで身柄を拘束され、下手すれば処刑案件になります。ならば、「税金もやむなし」と答えるか。それこそ大問題になります。

とかく人の世界、社会、なかんずく、理想を掲げる宗教なんて人の集まりとなりますと、必ずあの問題が首をもたげます。それは、「本音と建前」に他なりません。大概の人が、建前でもって人や社会と接して、本音はうちに隠して生きているわけです。そこを、例えば芸能人で言えばマツコデラックスさんのように、歯に衣着せぬトークと見せかけて、実のところ、非常に計算された発言をする人が出てきますと、「なんか、自分たちの本音の思いを言葉にしてくれているようで嬉しい」といった感じで、非常に喜ばれると。それでいて、「それを言っちゃあ、おしまいよ」という本音は出さずに、あくまで、聴く人の心のモヤモヤを、「そうそう、そうなのよ」って気持ちに変えてくれる言動で、心の浄化、気持ちが楽になるわけです。その点で、キリストの言動のヤンチャぶりと、マツコデラックスさんのそれは、共通している部分が多いと考えています。

それはともかくとしても、そういう点が売り物であったイエスが、もしここで、「いやあ、ローマへの税金は払わざるを得ないよね」などと言おうものなら、失望されること必至ですよね?期待していたところにわかりきった回答ですから。

ですので、冒頭の節で「罠にかけようと」とありましたけれども、その罠というのは、こういう仕組みです。こういうのはいわゆる、二者択一でどっち答えてもアウト、という罠ですね。


18イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。

 イエスの方は、全くもって余裕の一言、というより、ため息まじりに呆れられているといったところでしょうか。


19税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、Mat022020イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。Mat022021彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 先週の説教で、神殿にお金を捧げる時は、ユダヤの通貨に両替する、両替商が神殿の境内にいたというくだりがありました。対して、ローマへの税金の場合は、広く出回っているローマの通貨でOKと。それを持って来いと語るイエス。そのデナリオン通貨には、皇帝アウグストゥスの肖像が刻印されています。それで、「皇帝だ」と答える彼ら。「じゃあ、それなら、皇帝の顔が書いてあるくらいだ、本人のもんだ」で、皇帝の皇帝に、ただし、神のものは神に返したらいい。以上。という主旨で答えるイエス。これ聴いたら、あれっと思っても、「そりゃそうだ」となりますよね。

 ここでイエスは、いわゆる論点ずらしをしています。異教の大国憎きローマに、隷属して税金を捧げるべきなのか、べきでないのか。律法違反なのか、そうでないのか、という本来の質問内容。これを、貨幣に皇帝の肖像が描かれているのを利用して、皇帝は皇帝、神のものは神に、という、普遍的理論にすり替えているわけです。じゃあ、「論点すり替えだ」と切り返せばいいかというと、既に、

「このコインの肖像画は誰?」とかなんとか、誘導尋問された後ですから。後の祭り。どうしようもない。一巻の終わり、で、22節の結末ですね。

22彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。


 「神のものは神に」、というくだりがありました。これが実は本質的な深い一言でして、キリスト教の教義では、そもそも全てが神のものであります。それを人はいただいている立場ですから、献金の祈りの時にも、よく「あなたからいただきましたものの一部をお返しします」というセリフがあるというわけです。ただ、なんかそう聞くと、人々から体良く金を徴収するための、都合のいい文句のようにも感じます。私もそう感じたりすることはあります。しかし、こうしてこの職業を長らく続けて、人生経験も積むと、「それがいいよ」と清々しく思うようになってきました。なぜなら、人々の苦しみの根源は、一つ、何週間か前にも語った、妬み、嫉妬です。そしてもう一つ、それは、執着です。これは俺のもの。これは俺の権利。それで執着して、人生豊かになればいいですけれど、それがなった試しがないときたもんです。大抵の人は、そんなことわかっているはずなのに、執着して手放さない。で、自分で自分を不幸にしている。それくらいなら、俺のもの、みんな神のものだ。そう思って暮らすと、失った時も早めに諦めがつくというもの。結論、「神のものは神のもの」。これ、人生における正義です。


2025年1月30日木曜日

【光の教会】礼拝説教 2025年1月19日「エルサレム入城」


礼拝堂名称 光の教会
教会正式名称 日本基督教団茨木春日丘教会
牧師・礼拝説教 大石健一

聖書箇所 新約聖書 マタイによる福音書21章1-11節
1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
3もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
4それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
5「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
6弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
7ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
9そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
10イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
11そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

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【光の教会】聖日礼拝説教 2025年1月26日「祈りの家」

 


教会正式名称 日本基督教団茨木春日丘教会
礼拝堂名称 光の教会
牧師・礼拝説教 大石健一

聖書箇所
マタイによる福音書 21章12-17節

12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。

13そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」

14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。

15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、

16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。

ーーー原稿テキストーーー
 今回のイエス・キリストのエピソードは、エルサレム神殿の境内で商売をしていた人々を、イエスが激しい振る舞いをもって追い散らしたという出来事です。12節にはこう書かれています。
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
 備品を持ち上げてか蹴るかして暴れていて、それがあのイエス・キリストということで、改めて考えると実にショッキングな出来事です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書、全てで物語られている逸話というのは、必ずしも多くはないのですけれども、これはそうした一つとなっています。その意味するところはおそらく、その際に語られたイエスの言葉、すなわち13節
「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている」
 「こう書いてある」以下は、イエス以前に書かれた旧約聖書に含まれている、イザヤ書とエレミヤ書からの引用となっていますけれども、この引用も含めて、このキリストの言葉が当時、重要な意味を持っていたからという以外に考えられないわけです。

さて、神殿、具体的には「エルサレム神殿」とは、神が礼拝される場所であり、祈りが捧げられるところに他なりませんでした。当然、利得を求める場所ではありません。しかし、人が集まるところというのは、金も集まることになります。金が動くところとなれば、神聖な場所でさえも、人が自分の利益のためにこれを利用する場所へと腐敗しかねません。そうした人間の腐敗、堕落というものを暴き出し、罪を指摘し、不正を白日のもとに曝け出す務め。これは、イエスや教会以前の旧約聖書の時代における、「預言者」と呼ばれる人の使命でありました。ですから、ここを読む私たちは、こちらのイエスの言動に、旧約聖書時代の預言者の姿を重ね合わせて、理解すべきというものです。
 当時のエルサレム神殿というのは、ユダヤ人のみならず、それ以外のいわゆる「異邦人」の間でも評判でした。例えば、「一生のうちに一度は、あの壮麗な建物を見ておけ」とか、「あれを見るまでは、本当に素晴らしい建物を見たとは言えない」などなど、エルサレム神殿にまつわる格言というものが、いくつもありました。
また、当時のユダヤ人、というかユダヤ人は今でもそうですが、後に国土を喪失する以前から、どこか別の国に住み、その地で異邦人として居住するのが常でした。イスラエル国を保有するようになってもなお、そうです。いわゆる「寄留の民」、というもので、この寄留の民、放浪の民という意識は、ユダヤ民族の遺伝子に、非常に深く刻まれたものでもあります。
ともかくも、当時のエルサレム神殿は、エルサレムに居住する人々の礼拝の場だけではなく、いわゆる離散のユダヤ人、現在でも使われる言い方で言えば、「ディアスポラのユダヤ人」、こういった遠方に居住するユダヤ人にとっての、魂の故郷であり、巡礼地でもあったのです。ユダヤ三大祭りの一つに数えられ、その中でも最大の祭事とされていた「過越祭」ともなれば、普段のエルサレムの人口を優に越える人々が集まり、大いに賑わいを見せたことでした。その過越祭を目前に控えた時期であり、同時に、キリストの十字架の死まであと数日というタイミングで、今回の事件は起こっています。
 その場所は、神殿の境内でした。「神殿の境内」とは、神殿の敷地内にある「異邦人の庭」と呼ばれている前庭を指します。規則としては、この領域での商売は禁止されていて不可能だったという説がありますが、少なくともその外れか一角では、神殿への捧げ物を販売する商人と、お金の両替商が陣取って、普通に商売をしていたと言われています。合法か違法かという微妙さがまた曲者で、偉い元締めの人がいて安い賃金で労働者を働かせるとか、みかじめ料を徴収する、とか、まあヤクザ的なシステムなんてものが出来上がるわけです。
他方、巡礼者にとって、神殿に捧げる犠牲の動物を持参することは困難ですよね。ですので、現地でそれを購入することは律法でも奨励されていました(参照、申命記14・24ー26)。でも、きっと割高。でもしょうがない。だから、誰もが「なあなあ」になるわけです。本当はいけないよ、とか誰も言えないと。
「鳩を売る者」とは、彼らを相手に犠牲の動物を売る商人を指しています。「鳩」は、規定の捧げ物である小羊等を用意するのが経済的に厳しい人々のために、代わりとして定められている犠牲です(参照、レビ記12・8。加えて、神殿税として納める金銭として、汚れた他国の異教の民の貨幣をもって捧げることはタブーでした。そのため、諸外国からやって来ている巡礼者は、外国通貨を両替する必要があったというわけです。これもまた、割高だろうが違法だろうが、しょうがないと。なくても困るし、グレーゾーンもやむなしという「なあなあ」です。
 イエスが露わにした怒りというものには、こうしたなし崩しに対する怒りもあったでしょう。しかしそうであっても、その時にあのような行為が許されたのかと。誰かが捕まえなかったのか。神殿警察もいますから、実は逮捕されて勾留されたのかもしれませんが、その気配が感じられない。きっと昔から、なんとなく不思議に思われていた方も多いと思います。
 これは私の推測になりますが、あの時、キリストが高らかに、「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と語った時、雇われの売人も、小銭を稼ぐ自営の商売人も、それらをちょっと悪いと知りながらも便利だからと買う側も、その場にいた誰もが、イエスの言葉に虚をつかれたのではないでしょうか。「そうだ、その通りだ。薄々わかっていたけど、しょうがない、仕方がない、そんな言い訳でずっとやり過ごしてきた。でも、やっぱりこれは、本筋じゃないよ。そうなんだよ」などと考え巡らして、胸を打たれてショックだったのではないかと。それで、呆然と立ち尽くすだけだったのではないかと。

14節以降は、イエスのこうした言動を受けて、ざっくり3種類の人々の様子が描かれています。まず一つ目は、14節です。
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
 虚をつかれての時間が止まったような場面を、こうした人々が埋めていくという光景です。病気や障害を癒してほしいという人々です。イエスが「癒やされた」とあって、先ほどの暴力的な振る舞いとは、真逆の情景となっているのが印象的です。
 二つ目は、やや熱狂気味に喜んでいる人たちです。

Mat021015他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
 子供たち「も」、その中に含まれていたということで、もちろん、大人のように考えての上での行動ではなく、その場の盛り上がった雰囲気にウキウキしているということでしょう。ただ、逆に言えば、この場にいた少なからずの大人たちが、「ダビデの子にホサナ」と言って沸き立っていた。キリストを支持していた大人がいたということで、子供たちはそれを、いわば鏡のように映し出しているということです。ということで、その場には、「そうだ、その通りだ」と思う人がいて、そりゃ確かに暴れるのはアレであるにしても、「よくぞ心の底で感じていたこと、思っていたことを言葉にしてくれた。行動にしてくれた」、そういう人たちの層もまた、そこに多数いたということを意味するわけです。
 そして三つ目。快く思わない層の人たちです。その不快感の底流には、皆さんも経験がきっとおありのことでしょう。自分が大して評価していない人が、他から賞賛された時に、「けっ、あの程度がなんだ」といった白けの気持ちです。ただ、それをそのまま口に出すわけにもいきませんから、「子供がワーワー騒いで、アーメンソーメン冷ソーメンでもあるまいし、ちょっと不謹慎じゃないの?」といった具合に、表向き正論でもってヤッカミ入れてくるアレです。
 イエスもそれを感じ取ってのことと思いますけれども、16節でこうお語りになります。

Mat021016イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
 「賛美」というのは、主に神を褒め称える内容の言葉にメロディをつけた、つまり歌です。宗教的な歌、信仰的な歌のことです。「幼子や乳飲子の口に、あなたは賛美を歌わせた」という文言は、旧約聖書からの引用となっていまして、子供というのは当時、大人に対して価値の低い者です。私たちの今の社会とは違います。「子供が大人の邪魔すんな」と叱られた、あの時の日本の子供と大して変わりません。要は、たかが子供だと。確かに大人のように分別があっての発言でもない、それでも神は、そうした価値の低い者、十分に理解した者でなくても、素朴に喜んでくれる人を、ご自身もまた喜ぶ、そういう意味です。
 この神殿には、相応しい価値を持たない人、相応しい功績、人柄、才能を持たない人。それでもそうした人々に慈愛を注がれる、神の慈しみが暗示されています。そうした神の慈しみに触れるところ、そうしてそこで祈る場として、今は破壊されて嘆きの壁しか残っていない、エルサレム神殿があったのでありました。これと同様に、私たちの教会もまた、神の慈愛に触れ、礼拝と祈りと賛美が捧げられる場所です。これを、なあなあが通る、人の都合と利権が優先される場所としてはいけません。