2025年5月30日金曜日

光の教会【礼拝説教】マルコ福音書講解説教03「マルコ福音書における『神の子』の意味」2025年5月4日分

 

撮影場所:茨木春日丘教会 礼拝堂(光の教会)

撮影日時:2025年5月4日

礼拝説教実施日:2025年5月4日

礼拝説教実施場所:日本基督教団茨木春日丘教会

説教題:「マルコ福音書における「神の子」の意味」


ーーー聖書本文ーーー

聖書箇所:マルコによる福音書 1章1節


「神の子イエス・キリストの福音の初め」


ーーー説教原稿ーーー

「マルコにおける「神の子」の意味」(マルコによる福音書講解説教 第3回)

 マルコによる福音書連続講解説教の3回目となります。前回は、マルコ福音書の冒頭の一句「神の子イエス・キリストの福音の初め」を解説しました。内容をまとめますと、まず、「神の子イエス・キリストの福音」という章句は、マルコ福音書のタイトルのようなものではないか、ということでした。ただ、そこに「初め」という語が加わっていますから、そうすると、マルコ福音書の序盤を指す表題ではないか。では、どこまでを本書の序盤と見なすかになりますが、結論から言えば、13節まで、あるいは15節まで、すなわち、イエス・キリストが宣教活動を始める以前が、本書の序章と見なすのが良い、ということでした。

 また、イエスは人の名前。キリストは称号で、旧約聖書時代のメシアという語に由来し、これは「油注がれた者」という意味であると。すなわち、神から特別に選ばれた者という意味になります。また、イエス時代にはメシアという称号は専ら、神のもとから世に遣わされ、苦しく厳しい世の中を変えて、ユダヤの民、イスラエルの民に救済をもたらしてくれる「救世主」という意味合いを持っていました。以上が、前回のあらましになります。

 そこで今回は、1章1節に含まれる「神の子」という言葉に絞って、マルコがこの言葉に込めた、特別の思い、特別の意味合いを明らかにしていきたいと思います。


 まず、「神の子」という言葉、これはキリスト教に限らず、方々でよく使われるものです。例えばギリシャ神話では、文字通り、神々が産み落とした子供という意味で使われることもあれば、他方、神が特別に遣わした者、あるいは、神がかり的な力を持つ人も、「神の子」と呼んだりします。

 それなら、イエスに対して「神の子」と書く場合、どんな意味を持つのかといいますと、こうです。「父なる神」がありまして、それに対して、「子なる神」という位置づけなのだ、と言っておけば、問題はありません。

 そこで、これからマルコ福音書における「神の子」という章句が使われているところを見て参りたいと思いますけれども、ここで一つ、注意点があります。それは、正確に「神の子」と書かれていなくても、文脈としてそういう意味になっているという箇所です。例えば、1章9節以降の箇所、キリストの洗礼の記事がありますけれども、その場面で11節です。天から父なる神の声が響いて、こう語られています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、こちら、意味としては「神の子」ということになりますよね。もう一つ、ここでは時間の関係で詳細は述べませんが、9章2節以降の箇所、いわゆる「山上の変容」ないし「山上の変貌」と呼ばれている記事です。その9章7節に、こうあります。


7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

 声の主は父なる神ですから、これも先ほどのものと同様です。以上を改めて考えると、父なる神と子なるイエス・キリストとは、父と子という人間的な表現が使われているくらいですから、両者は非常に密な、愛の繋がりにあるわけです。そこで私たちキリスト教徒が思い浮かべるべきは、キリストの十字架の場面でして、そこではイエスが父なる神から引き離されて、その十字架の上で、「我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びを上げて絶命される。ここには解釈上の問題があるわけですけれども、人間の罪を原因として、同時に罪の赦しのために、子なる神が父なる神から引き離されて苦しみを味わわれたのだ、という事実を思い浮かべる必要があるでしょう。

 次に、「神の子」という章句がそのまま使われている箇所を見ていきましょう。まずは、3章11節。


11汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。

 こちら、イエスが悪霊払いをするところでして、「汚れた霊」とある者たちが、キリストを「神の子」と呼んでいます。続けて次も見てみましょう。5章7節。


7大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」

 こちらもほぼ同様でして、悪霊に取りつかれた男がキリスト見て、「いと高き神の子イエス」と叫んでいます。悪霊が取りついていますから、実質、悪霊がそう呼んでいるようなものです。なんだ、霊たちがそう呼んでいるのかと。弟子たちはキリストを「神の子」とは呼んでいないのかと、不思議に感じるのではないでしょうか。だって、1章1節でバーンと、「神の子」と謳っているくらい、重要な読み方なのですから。ところが、弟子たちは一度たりとも、そう呼んではおりません。

一方、悪霊たち、霊たちというのは、霊的世界の存在ですから、目に見えない、けれども本質の世界、真理の世界を見える、知っている、という位置づけになっています。ですので、この霊たちというのは実は、イエスの正体を知っている、悟っている、ということになっているのです。実際、先ほどのところで、父なる神もキリストをそう呼んでいると。

 いくらなんでも、人間では誰もそう呼んではいないのかと。一人だけ、います。それなら、どんな場面でその人はそう呼んでいるのかと。これが、非常に意外というか、やはりというか、いずれにしても深い意味を持つところでして、それは、キリストの十字架上での絶命の場面なのです。


39百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

 百人隊長というのは、ローマ軍の兵士です。当然、ユダヤ人ではない異邦人。しかも、ユダヤを植民地支配する憎きローマの兵隊。その彼は、職務上、キリストの十字架の横で、警備をしているわけです。で、絶命までの一部始終を、誰よりも間近に見ている、そういう場面です。しかも彼のセリフ、今まで以上に最高潮に強調されていて、「本当に」という言葉が加わっていると。

 これが意味深でして、奇跡を行う姿を見てなら、「神の子」と呼ぶのなら理解できる。ところが、指導者層に嵌められ、群衆に十字架へと追いやられて、そこで人々から罵声を浴びる、愚弄される、散々な目に遭いながら、一方のイエスは一言も抗弁されることなく、ただ黙ってその辱めを忍び、最後はあの叫びを上げて、無残にも、無力にも死んでいった。そんな姿のどこに、「神の子」の力強き姿などあろうかと。この状況で、先の「本当に」という語が加わっている。

 まず間違いなく、マルコはこれを意識して書いていまして、これこそ、マルコが最も言いたいメッセージなのです。すなわち、本当の神の子、本当のメシア、キリスト、本当の福音は、このイエスの受難、キリストの十字架の死にあるのだと。これが、最終的な、そして最大のマルコのメッセージ。ということは、マルコは1章1節の冒頭から、「神の子」と入れて、十字架に向かっていると。


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