2025年6月2日月曜日

光の教会【礼拝説教】マルコ福音書講解説教04「洗礼者ヨハネの現れ 1」

 

撮影場所:茨木春日丘教会 礼拝堂(光の教会)

撮影日時:2025年5月12日

説教題:「洗礼者ヨハネの現れ 1」


ーーー聖書本文ーーー

聖書箇所:マルコによる福音書 1章2-8節


2預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。

3荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、

4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。

8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


ーーー説教テキストーーー

 マルコによる福音書連続講解説教の4回目となります。前回は、冒頭の1章1節、その中にある「神の子」という語について、マルコ福音書の著者が込めたところの特別な意味について、深掘りをいたしました。マルコにとって神の子とは、無惨にも十字架にかけられて死を遂げた、イエス・キリストである、ということに他なりません。当時、「神の子」と言えば、まずはローマ皇帝でした。あるいは、神がかり的な力を持つ人、偉大な指導者、そういったものを表していました。ところがマルコは、そうではない、というメッセージを、この福音書全体に埋め込んでいるのです。そうして、壮絶な十字架の死を遂げたイエス。それが最も端的に表された箇所が、まさにキリストの十字架死の瞬間である、15章39節です。

Mar015039百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

 その時に私がコメントしたことですけれども、百人隊長のセリフ「本当に」という言葉、これは単に彼のセリフではなくして、執筆者自身の心の叫びであると。そして、本書のクライマックスであると。


 そうして今回は、1章2節以下に進みます。先の1章1節は、体言止めになっていまして、そこから、「神の子イエス・キリストの福音」までが本書のタイトルで、「初め」というのが、本書の序盤部分を指すのではないか、と述べました。では、その序章に何が書いてあるのかと言いますと、「洗礼者ヨハネ」であります。

 この洗礼者ヨハネという人物、イエス・キリストが宣教活動を行う少し前、ヨルダン川のほとりに突如として現れまして、そうして、神の審判と悔い改めを告げ知らせ、悔い改めの洗礼というものを授けた人です。4節から5節に、次のようにある通りです。

Mar001004洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。Mar001005ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 神の審判と聞くと、私たちはとかく、「脅し文句かそれは」などと思ってしまいがちなのですが、それが脅しかどうかは、それを受け止める側、その人間の心に刺さるかどうかなのです。私たちも、現在の環境問題、戦争問題、人口問題、資源の枯渇、世界を支配する影の力、そういったものを見聞きしていると、「人類は滅びるのではないか」といった気持ちになります。当時も、形は違って似たようなものだったのでしょう、この洗礼者ヨハネのメッセージが、多くの人々の心に響きました。しかも、彼が説いたメッセージは、「罪の赦し」であったとあります。すなわち、救済です。あるいは、厳しさ7割、愛情3割の、神の愛であります。赦しの愛です。

 そうして、多くの人々が、彼のもとに押し寄せたことでした。同時代の資料を紐解いてみると、イエス・キリストの活動よりも、洗礼者ヨハネの活動の方が、どうも遥かに世に知られていたフシさえあります。

 また、洗礼者ヨハネは、その名前の通り、洗礼を授けたのですけれども、普通の洗礼ではありません。いや、今日の我々にとっては普通ではあります。「いやいや、それってどういうこと?かというと、それまでの当時、洗礼とはいわゆる清めの儀式の一つであって、繰り返し受けるものでした。しかし彼は、何回も何回も同じことの繰り返しのような、中途半端な悔い改めではなくして、腹括って一念発起、ここで自分のダレ切った人生変える!という意気込みで、たった一回きりで受ける洗礼というのを行ったのです。

 そして、今日の聖書箇所においても、キリストと洗礼者ヨハネとは密接な関係にありますけれども、後のキリスト教会は、基本的に、このヨハネの洗礼スタイルを踏襲したわけです。キリスト自身が洗礼を授けたかどうかという問題については、ヨハネ福音書4章2節に、「イエスご自身が洗礼を授けていたのではなく、弟子たちが授けていた」という記述があります。これが史実だとすれば、弟子たちがヨハネスタイルの洗礼をし始めた、ということになります。


 この箇所の説教は来週にも割り当てていますので、今日は、2節と3節における聖書引用の件について、解説しておきたいと思います。

Mar001002預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。Mar001003荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」

 まずは2節で、「預言者イザヤの書」とあります。こちら、我々の旧約聖書に収められている「イザヤ書」にあたるものでして、預言者イザヤといえば、預言者の中で最も熟成した人と言いましょうか、預言者を代表する人物であります。そのイザヤの言葉を収録したイザヤ書の言葉を引用しています。正確には、七十人訳聖書と呼ばれるギリシャ語聖書からの引用です。

 しかし実際には、2節の前半「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし」とあるところは、出エジプト記23章20節からの引用となっています。しかも、元々の文脈での意味から変更されていまして、元は「あなた」とあるところはイスラエルの民を指しています。「使者」というのは、約束の地へと導く先導者のことでして、つまり、神が使者を通じて約束の地へと導く、ということですね。

 他方のマルコでは、「あなた」をキリスト、「使者」を洗礼者ヨハネと置き換えて、意味を変更してというわけです。

 「なんかややこしくてついていけない」という方、これがマルコ福音書であり聖書の言葉ですので、ぜひ我慢してください。これでもわかりやすく解きほぐしていますので。また、2節後半、「あなたの道を準備させよう」は、マラキ書3章1節からの引用です。こちらは、元々の「我が道」が「あなたの道」へと書き換えられています。

 以上、一体なんなのかといいますと、まず、当時、複数の聖書箇所から引用してきて、それをまとめたものが既にあったのだろう、ということです。学術的には、「証言集」とか「テスティモニア」と言われているものです。ですから、原初のキリスト教徒は、今見たように、割と自由に聖書の言葉を受け止めて、で、元の文脈からも離れて、いわばその言葉の響きを受け取って、キリストと聖書の言葉を結びつけていた。そうして、まとめ集みたいなものさえ作っていたのだろうと。そしてマルコは、そうした証言集を手元に置いてこの書をしたためたか、あるいはもう記憶していて、それをここに書き留めたか、そういう生の執筆者の姿、こうして聖書が描かれたのかというということが、この2節から3節から読み取れるのです。

 あと、先に述べた、文脈から離れて、割と自由に響きで聖書の言葉を受け止めるという点。私たちも、キリスト教の教義から外れない限り、そういう読み方が許されると思います。なんだか意味はよーわからんけれども、なんか、この言葉が胸に響いたとか、それも良いと思います。

 まあ、それだけに、これとは対照的に文脈とか字義を読み取って、執筆者の意図を徹底的に掘り下げていく私の聖書講解も、ご評価いただければ幸いです。


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