2026年8月26日水曜日

第二スイス信仰告白 日本語訳

 

第二スイス信仰告白 日本語訳 

第二スイス信仰告白 (1566年)

ハインリヒ・ブリンガーおよびスイス諸教会の信仰告白

訳者注:本訳は、ブリンガーによる1566年の原文(ラテン語、および同年発表のドイツ語版)を典拠とし、パブリックドメインである英訳(フィリップ・シャフ『Creeds of Christendom』所収、ハーモニー・オブ・リフォームド・コンフェッションズ版)を参照しつつ、日本語に新たに翻訳したものです。既存の邦訳(大崎節郎訳『改革派教会信仰告白集Ⅲ』など)とは独立した翻訳です。学術的な引用や教会での正式な使用には、定評ある既刊の邦訳をご参照ください。
また、19-30章は、要約版からの翻訳となっています。19章にこの点に関する詳しい注記を挿入しています。

第1章 聖書は真の神のことばであること

われらは、旧新約両聖書における聖なる預言者たちと使徒たちの正典的な書物が、真の神のことばであり、それ自体のうちに、人によってではなく、十分な権威を有していることを信じ、告白する。
なぜなら、神ご自身が父祖たち、預言者たち、使徒たちに語られ、今なお聖書を通してわれらに語り続けておられるからである。
そしてこの聖なる聖書のうちに、キリストの普遍的教会は、救いに至る信仰、また神に受け入れられる生活を形づくることに関わるすべての事柄が、余すところなく説き明かされているのを持っている。この点において、神はこれに何も加えることも、これから何も取り去ることも許されないと、明確に命じておられる(申命記4:2、黙示録22:18-19)。
それゆえわれらは、これらの聖書から、真の知恵と敬虔、教会の改革と統治、また敬虔のすべての務めについての教えが導き出されるべきであり、要するに、教理の確証とすべての誤りの論駁、そしてあらゆる勧告が導き出されるべきであると判断する。使徒の「神の霊感によって書かれたすべての聖書は、教えと戒めのために有益である」(テモテ第二3:16-17)との言葉のとおりである。
また使徒はテモテに、「わたしがこれらのことをあなたに書き送るのは、あなたが神の家でどのようにふるまうべきかを知るためである」と述べている(テモテ第一3:14-15)。
さらに同じ使徒はテサロニケの人々に、「あなたがたがわれらから神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れた」と述べている(テサロニケ第一2:13)。
主ご自身も福音書において、「語っているのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって語っておられるのはあなたがたの父の御霊である」と言われ、それゆえ「あなたがたに聞く者はわたしに聞き、あなたがたを拒む者はわたしを拒む」と言われた(マタイ10:20、ルカ10:16、ヨハネ13:20)。
したがって、この神のことばが、正当に召された説教者たちによって教会において宣べ伝えられるとき、われらは、まさに神のことばそのものが宣べ伝えられ、信仰者たちに受け入れられていると信じる。他のいかなる神のことばも作り出されてはならず、天からの新たな啓示を期待してもならない。今や宣べ伝えられていることば自体こそが顧みられるべきであって、それを宣べ伝える説教者ではない。たとえその説教者が悪しき罪人であったとしても、神のことばは真実であり善なるものであり続ける。
われらはまた、外的な説教が無益であると考えるべきではない。真の宗教における教えは御霊の内的な照明に依存しているとか、「もはや人はおのおのその隣人を教えることをしない。彼らはみなわたしを知るようになるからだ」(エレミヤ31:34)、また「植える者も水を注ぐ者も取るに足りない。成長させてくださる神こそがすべてである」(コリント第一3:7)と書かれているからといって、そう考えるべきではない。
というのも、「天の父に引き寄せられる者でなければ、だれもキリストのもとに来ることができない」(ヨハネ6:44)のであり、聖霊によって内的に照らされなければならないとはいえ、それでもなお神の御心が、その御ことばが外的にも宣べ伝えられることにあるのを、われらは疑いなく知っているからである。
神は、使徒言行録に記されているように、聖ペテロの奉仕によらずとも、聖霊によって、あるいは御使いの奉仕によって、コルネリウスを直接教えることもおできになったであろう。しかし、それにもかかわらず神は彼をペテロのもとへと導かれ、そのことについて御使いは、「彼があなたのなすべきことを告げるであろう」と語っている(使徒10:6)。
なぜなら、人々に聖霊を与えることによって内的に照らされる方ご自身が、同じように命令をもって弟子たちに、「全世界に出て行き、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)と言われたからである。
こうしてパウロは、ピリピの紫布商人ルディアに外的にことばを宣べ伝えたが、主は内的にその女の心を開かれた(使徒16:14)。
そして同じパウロは、ローマ人への手紙第十章における見事な論理の展開の末に、ついに「それゆえ、信仰は聞くことにより、聞くことはキリストのことばによる」(ローマ10:14-17)と結論づけている。
その一方でわれらは、神が、望まれるときには外的な奉仕なしにも、御心のままにだれをも照らすことがおできになることを知っている。それは神の力に属することである。しかしわれらは、神からわれらに命令と実例をもって伝えられた、人を教える通常の方法について語っているのである。
それゆえわれらは、聖書が聖霊から出たことを否定したアルテモン、マニ教徒、ワレンティノス派、ケルドン派、およびマルキオン派のあらゆる異端を退ける。彼らは、聖書のある部分を受け入れず、あるいは改ざんし、腐敗させた。
とはいえわれらは、旧約聖書のある種の書物が、古代の著述家たちによって「アポクリファ(外典)」と呼ばれ、また他の者たちによって「教会的な書物」と呼ばれてきたことを否定するものではない。すなわち、それらは教会において読まれるべきものとはされたが、信仰の権威を裏づけ確証するために援用されるべきものとはされなかった書物のことである。
アウグスティヌスもまた、その著書『神の国』第十八巻第三十八章において、「列王記の書には、ある預言者たちの名前と書物が数えられている」と述べながらも、「それらは正典のうちに含まれていない」こと、そして「われらが持っているこれらの書物で敬虔には十分である」ことを付け加えている。

第2章 聖書の解釈について、また教父・教会会議・伝承について

使徒ペテロは、「聖書のどの預言も、私的解釈を施してはならない」(ペテロ第二1:20)と述べている。それゆえわれらは、あらゆる種類の解釈を許容するものではない。したがってわれらは、ローマ教会がいうところの「解釈」──すなわちローマ教会の擁護者たちがすべての人に単純に受け入れさせようとしているもの──を、聖書の真実で正当な解釈であるとは認めない。むしろわれらは、聖書そのものから(すなわち、それが書かれた言語の精神から)導き出され、文脈に応じて重みづけられ、類似の箇所・相違する箇所、またより多く・より明瞭な箇所と照らし合わせて解き明かされ、信仰と愛の規範に一致し、神の栄光と人の救いに著しく資するような解釈のみを、正統かつ正真の解釈として認める。
したがってわれらは、ギリシアおよびラテンの聖なる教父たちの解釈を軽んじるものではなく、彼らの議論や論考が聖書と一致する限りにおいて、それを退けるものでもない。しかしながら、彼らの記述が聖書と異なる、あるいはまったく相反する事柄を述べていると判明した場合には、われらは謙虚にこれと意見を異にする。この点においてわれらが彼らに何ら不当を働いているとは考えない。というのも、教父たち自身がこぞって、自分たちの著作を正典としての聖書と同列に置くことを望まず、むしろそれらと一致するかどうかを吟味するよう命じ、一致する点は受け入れ、一致しない点は退けるよう求めているからである。
そして同じ位置づけを、われらは教会会議の決議や規範にも与える。
それゆえわれらは、宗教上の論争や信仰の事柄において、教父たちの見解や教会会議の決定のみをもって自らの立場を押し通すことを、自らに許さない。まして、慣習として受け継がれてきたことや、同一意見を持つ人の多さ、あるいは長年の慣行によって押し通すことも許さない。したがってわれらは、宗教や信仰に関する論争において、聖書によって何が真実で何が偽りか、何に従い何を避けるべきかを告げる神ご自身以外のいかなる裁き手も認めない。それゆえわれらは、神のことばから導き出された霊的な人々の判断にのみ従う。
エレミヤをはじめとする預言者たちは、神の律法に反して組織された祭司たちの集まりを激しく非難し、自分たち独自の考案物のうちを歩み、神の律法から逸れていった教父たちに聞き従わず、その道を踏まないようにと、われらに熱心に警告した。
同様にわれらは、人間の伝承を退ける。それらは、あたかも神的・使徒的なものであり、使徒たちの生きた声によって教会に伝えられ、いわば使徒的な人々の手を経て、後継の主教たちを通じて受け継がれてきたかのように、立派な名称で飾り立てられていることがある。しかし、聖書と比較するとそれらと矛盾しており、その矛盾によって、それらが決して使徒的なものではないことを自ら露呈している。使徒たちが教理において互いに矛盾しなかったように、使徒的な人々もまた使徒たちに反することを説きはしなかった。むしろ、使徒たちが生きた声によって、自らの著作に反することを伝えたなどと主張するのは、冒瀆というべきである。パウロは、自分がすべての教会で同じ事柄を教えたと明確に断言している(コリント第一4:17)。また彼は再び、「わたしたちは、あなたがたが読んで理解できる以外のことは、何も書いていない」と述べている(コリント第二1:13)。さらに別の箇所で彼は、自分と自分の弟子たち──すなわち使徒的な人々──が同じ道を歩み、共に同じ御霊によってすべてを行ったことを証ししている(コリント第二12:18)。
かつてユダヤ人たちにも、長老たちの伝承があった。しかし、これらの伝承は主によって厳しく退けられ、それを守ることが神の律法を妨げること、またそのような伝承によって神が空しく礼拝されていることが示された(マタイ15:1以下、マルコ7:1以下)。

第3章 神について、その唯一性と三位一体について

われらは、神が本質・本性において唯一であり、自存し、それ自体で全き充足を持ち、目に見えず、身体を持たず、無限であり、永遠であり、見えるものと見えないものすべての創造主であり、至高の善であり、生きて、すべてのものに命を与え、これを保ち、全能かつ至高の知恵を持ち、慈愛と憐れみに富み、義であり真実である、と信じ、教える。まことにわれらは多くの神々を忌み嫌う。なぜなら、「あなたの神、主は唯一の主である」(申命記6:4)、「わたしはあなたの神、主である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト20:2-3)、「わたしは主である。わたしのほかに神はない。わたしのほかに神があろうか。わたしのほかに岩はない」「義なる神、また救い主であって、わたしのほかにはない」(イザヤ45:5、21)、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」(出エジプト34:6)と明確に記されているからである。
それにもかかわらず、われらは、この無限で唯一かつ不可分の神が、御父・御子・聖霊として、分かたれることなく、また混同されることなく、位格において区別されると信じ、教える。すなわち、御父は永遠から御子を生み、御子は言い表しがたい仕方で生まれ、聖霊はまことに両者から発出し、これも永遠からのことであり、両者とともに礼拝されるべきである。
こうして、神々は三つあるのではなく、三つの位格があるのであって、それらは同一実体であり、同永遠であり、同等である。位格(ヒュポスタシス)において区別され、順序においても一方が他方に先立つが、いかなる不平等もない。本性・本質において、それらは結び合わされて唯一の神であり、神的本性は御父・御子・聖霊に共通である。
というのも、聖書は位格の明確な区別をわれらに伝えているからである。御使いは祝された処女マリアに、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうであろう。それゆえ、生まれる者は聖なる者、神の子と呼ばれるであろう」と告げた(ルカ1:35)。またキリストの洗礼の際には、天から声があって「これはわたしの愛する子である」と言われた(マタイ3:17)。聖霊もまた鳩の形で現れた(ヨハネ1:32)。そして主ご自身が使徒たちに洗礼を授けるよう命じられたとき、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けるよう命じられた(マタイ28:19)。同様に福音書の他の箇所で主は、「父はわたしの名によって聖霊をつかわされるであろう」(ヨハネ14:26)と言われ、また「助け主、すなわち父から遣わされる真理の御霊が来られるとき、その方はわたしについてあかしをするであろう」(ヨハネ15:26)などと言われた。要するに、われらは使徒信条を受け入れる。それがわれらに真の信仰を伝えているからである。
それゆえわれらは、ユダヤ人とマホメット教徒、そしてこの聖なる崇めるべき三位一体を冒瀆するすべての者を断罪する。またわれらは、御子と聖霊が名目上においてのみ神であると教え、あるいは三位一体のうちに何か造られたもの、他者に従属し仕えるものがあると教え、さらにそこに何か不平等なもの、より大きい・より小さいもの、身体的あるいは身体的に考えられたもの、性質や意志において異なるもの、混合したものあるいは単独のものがあり、あたかも御子と聖霊が御父なる唯一の神の情動や属性にすぎないかのように教える、すべての異端と異端者たち──君主論者、ノヴァティアヌス派、プラクセアス、パトリパッシアヌス派、サベリウス、サモサタのパウロ、アエティウス、マケドニウス派、擬人論者、アリウス派、その他これらに類する者たち──を断罪する。

第4章 偶像について、あるいは神・キリスト・聖徒たちの像について

神は霊であり、その本質において目に見えず無限であるゆえに、いかなる技巧や像によっても真に表現することはできない。それゆえわれらは、聖書とともに、神の像は単なる偽りであると恐れることなく宣言する。したがってわれらは、異邦人の偶像だけでなく、キリスト教徒の像もまた退ける。
キリストは人の本性を取られたが、それは彫刻家や画家に模範を与えるためではなかった。主は「律法や預言者を廃するために来たのではない」(マタイ5:17)と言われたが、像は律法と預言者において禁じられている(申命記4:15、イザヤ44:9)。主はご自身の身体的な臨在が教会にとって益となるとは言われず、むしろご自身の御霊によって永遠にわれらのそばにいると約束された(ヨハネ16:7)。それならば、主の身体の影や似姿が敬虔な者に何らかの益をもたらすと、いったい誰が信じるだろうか(コリント第二5:5)。主が御霊によってわれらのうちに宿られる以上、われらこそ神の宮である(コリント第一3:16)。しかし「神の宮と偶像との間に、何の一致があろうか」(コリント第二6:16)。
そして、天にある祝された霊たちと聖徒たちは、地上に生きていたとき自分自身への礼拝をことごとく拒んだのであり(使徒3:12以下、14:11以下、黙示録14:7、22:9)、像を非難していた。そうであるならば、天の聖徒や御使いたちが、人々がその前でひざまずき、頭を覆いを取り、その他の敬意を捧げる自分自身の像を喜ぶなどと、誰が考えられるだろうか。
実際には、人々を信仰において教え、神的な事柄と自らの救いを思い起こさせるために、主は福音の宣教を命じられたのであって(マルコ16:15)、絵によって信徒を教えるようにとは命じられなかった。さらに主は礼典を制定されたが、像をどこにも制定されなかった。
そのうえ、目を向けるどこにおいても、われらは神の生きた真実な被造物を見る。それらは、正しく観察するならば、人の手になるすべての像、あるいは空しく動かない、弱く死んだ絵よりも、はるかに鮮明な印象を見る者に与える。預言者が真実に語ったとおりである。「彼らには目があっても見えない」(詩篇115:5)。
それゆえわれらは、古代の著述家ラクタンティウスの判断を是とする。彼は「像のあるところに宗教は存在しない」と述べている。またわれらは、祝されたエピファニウスの行いを正しいと認める。彼はある教会の扉に、キリストか聖徒とおぼしき人物の絵が描かれた垂れ幕を見つけたとき、それを引き裂いて取り去った。人の絵が主の教会に掛けられているのを見ることが、聖書の権威に反すると考えたからである。それゆえ彼は、これ以降そのような垂れ幕──われらの宗教に反するもの──を主の教会に掛けてはならないと命じ、むしろキリストの教会と信徒にふさわしくないそのような疑わしいものは取り除かれるべきであると命じた。さらにわれらは、真の宗教について述べた聖アウグスティヌスの次の意見を是とする。「人の手になる作品への崇拝は、われらにとって宗教であってはならない。そのような物を作る職人自身のほうがまさっているのであり、それでもわれらは彼らを礼拝すべきではないのだから」(『真の宗教について』第55章)。

第5章 神への礼拝・崇敬・祈願について、唯一の仲介者イエス・キリストを通して

われらは、まことの神のみが礼拝され崇敬されるべきであると教える。この栄誉を、われらは他のいかなる者にも分け与えない。主の命令、「あなたの神、主を拝み、ただ主にのみ仕えよ」(マタイ4:10)のとおりである。実に、すべての預言者は、イスラエルの民が見知らぬ神々を礼拝崇敬し、唯一まことの神を礼拝しないときには、激しくこれを非難した。しかしわれらは、神ご自身がわれらに教えられたとおりに、すなわち「霊とまこととをもって」(ヨハネ4:23以下)、迷信によってではなく、御言葉に従って誠実に、神が礼拝され崇敬されるべきであると教える。それは、いつか神が「だれがあなたがたに、これらのことを求めたか」(イザヤ1:12、エレミヤ6:20)と言われることのないためである。パウロもまた、「神は何かに乏しいかのように、人の手によって仕えられるのではない」(使徒17:25)と述べている。
われらの人生のあらゆる危機と試練において、われらは神のみに呼び求め、それはわれらの唯一の仲介者・執り成し手であるイエス・キリストの仲介によってである。というのも、われらは明確に「悩みの日にわたしを呼べ。わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩篇50:15)と命じられているからである。さらに、主はもっとも寛大な約束をもって、「あなたがたが父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えるであろう」(ヨハネ16:23)、そして「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われた。そして、「彼らがまだ信じたことのない者を、どうして呼び求めることができようか」(ローマ10:14)と書かれている以上、またわれらは神のみを信じている以上、われらは確かに神のみに呼び求め、そしてそれはキリストを通してである。使徒が言うように、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者もまた唯一、人なるキリスト・イエスである」(テモテ第一2:5)、また「もしだれかが罪を犯すことがあれば、われらには父のみもとに助け主、義なるイエス・キリストがある」(ヨハネ第一2:1)。
それゆえわれらは、天の聖徒たちや他の神々を礼拝せず、崇敬せず、祈ることもなく、彼らを天の父のみもとにおけるわれらの執り成し手や仲介者とは認めない。神と仲介者キリストとで、われらには十分だからである。またわれらは、神のみとその御子に帰すべき栄誉を他の者に与えることはない。神は「わたしの栄光をほかの者に与えることはない」(イザヤ42:8)と明確に言われ、ペテロもまた、「わたしたちが救われるべき名は、天が下でこのキリストの名のほかに、人間に与えられていない」(使徒4:12)と述べているからである。信仰によって彼に同意する者たちは、キリストのほかに何も求めない。
同時にわれらは、聖徒たちを軽んじたり卑しく考えたりはしない。彼らを、肉と世に対して栄光のうちに打ち勝った、キリストの生きた肢体、神の友であると認めるからである。ゆえにわれらは彼らを兄弟として愛し、また敬うが、しかしいかなる種類の礼拝によってではなく、彼らについての敬意ある評価と正当な賞賛によってである。われらはまた彼らに倣う。切なる願いと祈願をもって、彼らの信仰と徳の模倣者となり、彼らとともに永遠の救いにあずかり、神の御前で彼らとともに永遠に住み、キリストにあって彼らとともに喜ぶことを、われらは真剣に望むからである。この点でわれらは、聖アウグスティヌスが『真の宗教について』のなかで述べた意見を是とする。「死せる人々への崇拝が、われらの宗教であってはならない。もし彼らが聖なる生涯を送ったのであれば、彼らはそのような栄誉を求める者とは見なされない。むしろ彼らは、その照明によって、われらが彼らの功績にあずかる同僚のしもべであることを喜ぶ、その方をこそわれらが礼拝することを望んでいる。それゆえ彼らは、模倣によって敬われるべきであって、宗教的な仕方で礼拝されるべきではない」等々。
まして、聖徒の遺物が崇敬され尊ばれるべきだとは、われらはさらに信じない。かの古代の聖なる人々は、その霊が天に昇った後、その遺骸を丁重に地に納めることをもって、死者への十分な敬意としたようである。そして彼らは、先祖の最も尊い「遺物」とは、その徳、その教え、その信仰であると考えた。彼らはこれらを死者への賞賛として称えるとともに、地上に生きている間、これに倣おうと努めた。
これら古代の人々は、神の律法に定められたとおり、唯一の神ヤハウェの御名によってのみ誓った。それゆえ、見知らぬ神々の名によって誓うことが禁じられているように(出エジプト23:13、申命記10:20)、われらもまた、たとえ求められようとも、聖徒への誓いを行わない。それゆえわれらは、これらすべての事柄において、天の聖徒たちにあまりにも多くを帰す教理を退ける。

第6章 神の摂理について

われらは、天と地にあるすべてのもの、またすべての被造物が、この賢く永遠かつ全能なる神の摂理によって保たれ、治められていると信じる。ダビデは証しして言う。「主はもろもろの国民の上に高くいまし、その栄光は天よりも高い。われらの神、主のように、高き所に座し、天と地とを見おろされる者があろうか」(詩篇113:4-6)。またこうも言う。「あなたはわたしのすべての道を探り出される……主よ、わたしの舌に一言があっても、あなたはことごとくこれを知っておられる」(詩篇139:3-4)。パウロもまた証しして、「われらは神にあって生き、動き、存在する」(使徒17:28)、そして「万物は神から出て、神によって成り、神に帰する」(ローマ11:36)と宣言する。それゆえアウグスティヌスは、その著書『キリストの戦いについて』第8章において、まことに聖書に従って次のように述べた。「主は言われた。『二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。それでもその一羽さえ、あなたがたの父の御心によらずに地に落ちることはない』。このように語ることによって主は、人が最も価値なきものと見なすものさえ、神の全能によって治められていることを示そうとされたのである。空の鳥は神によって養われ、野の百合も神によって装われると言う真理そのものが、われらの髪の毛さえ数えられていると言うのである」(マタイ10:29、6:26以下)。
それゆえわれらは、神の摂理を否定するエピクロス派、また神は天を治めるのに忙しく、われらとわれらの営みを見もせず顧みもしないと冒瀆的に語るすべての者を断罪する。王なる預言者ダビデもまた、これを非難して言った。「主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るのでしょうか……彼らは言う、『主は見ておられない、ヤコブの神は顧みられない』と。民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつになったら賢くなるのか。耳を植えた者が聞かないだろうか。目を造った者が見ないだろうか」(詩篇94:3、7-9)。
とはいえ、われらは神の摂理が働くための手段を、無用なものとして退けるのではない。むしろわれらは、それらが神の御言葉のうちにわれらに勧められている限りにおいて、それに自らを適応させるべきであると教える。それゆえわれらは、「すべてが神の摂理によって治められているのなら、われらの努力と勤勉は無駄である。神の摂理による統治にすべてを委ねさえすれば十分であり、もはや何ごとについても思い煩う必要はない」という、軽率な言葉を発する者たちを是としない。パウロは、自分が神の摂理のもとに航海していることを理解していた。神は彼に「あなたはローマでもあかしをしなければならない」(使徒23:11)と言われ、さらに「あなたがたのうち一人の命も失われることはなく……あなたがたの頭の毛一すじも失われることはない」(使徒27:22、34)と約束されていた。それにもかかわらず、水夫たちが船を捨てて逃れようとしたとき、同じパウロは百卒長と兵士たちに、「この人々が船に残っていなければ、あなたがたは助からない」(使徒27:31)と言った。すべてのものにその目的を定められた神は、その目的に至るための始まりと手段をも定められたからである。異邦人は物事を盲目の運命と不確かな偶然に帰する。しかし聖ヤコブは、われらが「きょうまたはあすかの町に行って、そこで商売をしよう」と言うことを望まず、むしろこう付け加えるようにと言う。「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、わたしたちは生き永らえて、あのことを、または、このことをしましょう』と言うべきである」(ヤコブ4:13、15)。またアウグスティヌスは言う。「むなしい人々には自然のうちに偶然によって起こるように見えることも、それはすべて神の御言葉によってのみ起こるのであって、神の命令によってのみ起こるのである」(『詩篇註解』148篇)。かくしてサウルが父のろばを捜し求めていたときに、思いがけず預言者サムエルと出会ったのは、まったくの偶然のように見えた。しかし主は先立って預言者に、「あすわたしはベニヤミンの地から一人の人をあなたのもとに送る」(サムエル記上9:15)と告げておられたのである。

第7章 万物の創造について、天使・悪魔・人間について

この善にして全能なる神は、見えるものと見えないものすべてを、その永遠のみことばによって創造し、これを永遠の御霊によって保たれる。ダビデが証しして言うとおりである。「主のみことばによって天は造られ、その口の息によって天の万象は造られた」(詩篇33:6)。そして聖書が言うように、神が造られたすべてのものは非常に良く、人の用と益のために造られた。ここでわれらは、これらすべてのものが唯一の始まりから発すると主張する。
それゆえわれらは、善と悪という二つの実体と本性、また互いに敵対する二つの始まりと二柱の神を不敬虔にも想像したマニ教徒とマルキオン派を断罪する。
すべての被造物のうち、天使と人間はもっとも優れたものである。天使について、聖なる聖書はこう宣言する。「風をおのれの使者とし、燃える火をおのれのしもべとする方」(詩篇104:4)。またこうも言う。「彼らはみな、救いを受け継ぐことになっている人々に奉仕するために遣わされる、仕える霊ではないか」(ヘブライ1:14)。悪魔について、主イエスご自身が証しされる。「彼は初めから人殺しであり、真理に立ってはいない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うときは、自分の本性から語るのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからである」(ヨハネ8:44)。したがってわれらは、ある天使たちは従順にとどまり、神と人への忠実な奉仕のために任じられたが、他の天使たちは自らの自由意志によって堕落し、滅びへと投げ込まれ、すべての善とすべての信仰者の敵となった、と教える。
さて人間について、聖書は、人が初めに神のかたちと似姿にしたがって善く造られたこと、神が人を楽園に置き、すべてのものを人に従わせられたこと(創世記2章)を述べる。これはダビデが詩篇8篇において壮麗に述べているとおりである。さらに神は人に妻を与え、二人を祝福された。われらはまた、人間は一つの位格のうちに二つの異なる実体から成ると主張する。すなわち、身体から離れても眠ることも死ぬこともない不滅の魂と、最後の審判において死者のうちからよみがえらされる死すべき身体とである。それは、その時から全き人間が、生においても死においても、永遠に存続するためである。
われらは、魂の不滅性を嘲り、あるいは巧妙な議論によって疑いを差し挟む者たち、また魂が眠る、あるいは魂が神の一部であると言う者たちを断罪する。要するにわれらは、天使・悪魔・人間の創造について、キリストの使徒的教会において聖なる聖書からわれらに伝えられていることから逸脱する、あらゆる人々のあらゆる意見を断罪する。

第8章 人間の堕落について、罪について、罪の原因について

人間は初め、神のかたちにしたがって、義と真の聖さのうちに、善く正しく造られた。しかし蛇の教唆と自らの過ちによって、彼は善と正しさから堕落し、罪と死とさまざまな災いに服する者となった。そして堕落によってそのような者となったのと同様に、彼の子孫であるすべての人もまた、罪と死とさまざまな災いに服する者である。
罪とは、われらが理解するところ、われらの最初の父母から受け継がれ、われらすべてに広まった、人間の内在的な腐敗のことである。それによってわれらは、堕落した欲望に浸り、善から背を向け、あらゆる悪へと傾いている。われらは自分自身では、何ら善いことを行うことも、思うことさえもできない。しかも年を重ねるにつれて、神の律法に反する悪しき思い・言葉・行いによって、悪しき木にふさわしい腐った実を結ぶのである(マタイ12:33以下)。この理由によりわれらは自らの応報として神の怒りのもとにあり、正当な罰を受けるべき者である。
死によってわれらが理解するのは、身体の死のみではなく、われらの罪と腐敗に対する永遠の刑罰でもある。使徒は言う。「あなたがたは、自分の罪過とつみとの中に死んでいた者であって……ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかしあわれみに富む神は……わたしたちが罪過の中に死んでいた時、キリストと共に生かして下さった」(エペソ2:1以下)。また、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に広がった」(ローマ5:12)。
それゆえわれらは、すべての人に原罪があることを認める。またそこから生じるその他のすべての罪──死に至る罪であれ、赦されうる罪であれ、あるいは決して赦されることのない聖霊への罪であれ──もまた、そう呼ばれ、実際にそうであることを認める(マルコ3:29、ヨハネ第一5:16)。またわれらは、罪が等しくないことを告白する。それらは同じ腐敗と不信仰の源から生じるとはいえ、あるものは他のものより重いのである(マタイ10:14以下、11:24)。
われらはそれゆえ、これに反する教えをなすすべての者を断罪する。すなわち、原罪を否定するペラギウス派、ストア派とともにすべての罪を等しいと宣言するヨウィニアヌス派、そして聖書の明確な教えに反して神を罪の作者とする者たちである(詩篇5:5-7、ヨハネ8:44)。
神が人を頑なにし、目を見えなくし、反ばく心のままに委ねると言われるとき(出エジプト7:13、ヨハネ12:40)、それは義なる裁きとして理解されるべきである。しかも神は、ヨセフの兄弟たちの場合になされたように、人の悪をも益に転じられる。

第9章 自由意志について、人間の能力について

人間の意志と道徳的能力は、三重の状態のもとで考察されなければならない。
第一に、堕落以前の状態においては、人は善のうちにとどまるか、あるいは誘惑に屈するかの自由を持っていた。
第二に、堕落後、人の理解力は暗くされ、その意志は罪の奴隷となった(コリント第一2:14、コリント第二3:5、ヨハネ8:34、ローマ8:7)。しかし、人は「石や切り株」に変えられたわけではない。その意志(voluntas)は「非意志」(noluntas)ではない。人は罪に喜んで仕えるのであって、いやいやながらではない。外的・世俗的な事柄においては、堕落後もなお、人は一般的な神の摂理のもとで自由を保持している。
第三に、再生した状態においては、人はまことの正しい意味において自由である。その知性は聖霊によって照らされ、神の奥義と御心とを理解する。そしてその意志は御霊によって変えられ、自由に善を意志し、善を行う力を与えられる(ローマ8:5-6、エレミヤ31:33、エゼキエル36:26、ヨハネ8:36、ピリピ1:6、29、2:13)。
再生と回心において、人は単に受動的であるだけでなく、能動的でもある。人は神の御霊によって動かされ、自分自身の行為として、その行うことを行う。しかし、再生した者にもなお、ある種の弱さが残る。肉は、生涯の終わりに至るまで、御霊に敵対して戦う(ローマ7:14、ガラテヤ5:17)。
われらは、悪の始まりが人の自由意志から生じたことを否定するマニ教徒、また堕落した人間が神の戒めを守るのに十分な自由を持つと教えるペラギウス派を断罪する。前者は創世記1章27節、伝道の書7章29節によって、後者はヨハネ8章36節によって論駁される。

第10章 神の予定について、聖徒の選びについて

神は永遠から、人のいかなる功績にもよらず、ご自身の純粋な恵みによって、キリストにあって救おうとお定めになった聖徒たちを、自由に予定あるいは選び定められた(エペソ1:4、テモテ第二1:9-10)。
神はキリストにあって、キリストのゆえにわれらを選ばれた。それゆえ、いま信仰によってキリストに接ぎ木されている者たちが選ばれた者であり、キリストの外にある者たちは退けられた者である(コリント第二13:5)。
神が誰がご自身のものであるかを知っておられ、「選ばれた者の数は少ない」と語られる箇所があるとしても、われらはすべての人について善く望みを抱くべきであり、軽々しくだれかを退けられた者と見なすべきではない(テモテ第二2:19、マタイ20:16、ピリピ1:3以下)。
われらは、キリストの外に自分が選ばれているかどうか、また神が永遠から自分について何を定められたかを尋ね求める者たちを退ける。むしろわれらは福音を聞き、これを信じるべきである。そして、もしわれらが信じ、キリストのうちにあるならば、われらは選ばれていると確信すべきである。「わたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)という主の招きに耳を傾け、世の救いのためにご自身の御子を与えられた神の限りない愛を信じ、「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」(ヨハネ3:16、マタイ18:14)ことを信じるべきである。
それゆえ、キリストをこそ、われらが自らの予定を映し見る鏡としよう。もしわれらが彼と交わりを持ち、真の信仰によって彼がわれらのものであり、われらが彼のものであるならば、われらが命の書に記されていることの十分に明白で確かな証しを、われらは持つことになる。
もしわれらが予定について試みられるならば、これをわれらの慰めとしよう。すなわち、神の約束はすべての信仰者に対して一般的なものであるということである。神ご自身、「求めよ、そうすれば与えられるであろう。すべて求める者は受けるのである」(マタイ7:8以下)と言われる。われらは全教会とともに、「天にいますわれらの父よ」と祈る。洗礼によってわれらはキリストのからだに接ぎ木され、教会において主の肉と血によってしばしば養われ、永遠の命に至る。かくして強められて、われらは「恐れおののいて自分の救いを達成すべきである。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働きかけて、志を立てさせ、事を行わせておられるのだから」(ピリピ2:12-13)。

第11章 まことの神まことの人であるイエス・キリストについて、世の唯一の救い主について

われらはさらに、神の御子、われらの主イエス・キリストが、永遠から御父によって世の救い主として予定され、あらかじめ定められたと信じ教える。そしてわれらは、主が処女マリアから肉を取られたときにはじめて生まれたのでもなく、世の基が置かれる少し前に生まれたのでもなく、あらゆる永遠に先立って、言い表しがたい仕方で御父によって生まれたと信じる。イザヤは言う。「だれがその代を語り得ようか」(53:8)。ミカも言う。「その出るところは昔から、永遠の日からである」(5:2)。ヨハネも福音書のうちで言う。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」等々(1:1)。
したがって、その神性において御子は御父と同等・同質であり、まことの神である(ピリピ2:11)。名目上や養子縁組、あるいは何らかの功績によってではなく、実体と本性において同等・同質である。使徒ヨハネがしばしば言うとおりである。「これはまことの神であり、永遠の命である」(ヨハネ第一5:20)。パウロもまた言う。「神は御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られた。御子はその栄光の輝きであり、そのご性質そのままの姿であって、力ある言葉をもって万物を保っておられる」(ヘブライ1:2-3)。福音書において主ご自身が言われる。「父よ、世が造られる前にわたしがみそばで持っていた栄光で、いま、みそばでわたしを輝かせてください」(ヨハネ17:5)。また福音書の別の箇所には、「ユダヤ人たちは、イエスがますます彼を殺そうとした。神を自分の父と呼んで、自分を神と等しい者とされたからである」(ヨハネ5:18)と記されている。
それゆえわれらは、御子に反するアリウスとアリウス派の不敬虔な教理、そしてとりわけスペイン人ミカエル・セルヴェトゥスとその追従者たちの冒瀆を忌み嫌う。
われらはまた、永遠の神の永遠の御子が、アブラハムとダビデの種から、人の子となられたと信じ教える。それはエビオン派の言うような人間の意志によるのではなく、聖霊によってきわめて清く宿され、常に処女であるマリアから生まれたのであって、福音書の記事と使徒書簡がわれらに丁寧に説明するとおりである(マタイ1章)。パウロは言う。「御子は御使いの性質を取ったのではなく、アブラハムの子孫の性質を取られた」(ヘブライ2:16)。使徒ヨハネもまた、イエス・キリストが肉体をもって来られたことを信じない者は神に属さないと言う(ヨハネ第一4:3)。したがって、キリストの肉体は、ワレンティノスやマルキオンが誤って想像したような、単なる見せかけのものでも、天からもたらされたものでもない。
さらに、われらの主イエス・キリストは、アポリナリオスが考えたような理性なき魂を持たれたのでもなく、エウノミオスが教えたような魂なき肉体を持たれたのでもなく、理性を伴う魂と、感覚を伴う肉体とを持たれた。その苦難のとき、主はその感覚によって真実の身体的苦痛を耐え忍ばれた。ご自身証しされたとおりである。「わたしの魂は死ぬばかりに悲しい」(マタイ26:38)、「今わたしの心は騒いでいる」(ヨハネ12:27)。
それゆえわれらは、われらの主イエス・キリストにおいて、神性と人性という二つの本性・実体があることを認める(ヘブライ2章)。そしてわれらは、これらが互いに、吸収されることも、混同されることも、混合されることもなく、むしろ一つの位格において結び合わされ結合されており、それぞれの本性の性質は損なわれることなく永続していると言う。
かくしてわれらは、二人ではなく一人のキリストを礼拝する。繰り返す──一人の、まことの神にしてまことの人である。神性においては御父と同質であり、人性においては、罪を除いてわれら人間と同質であり、すべての点でわれらと等しい(ヘブライ4:15)。
それゆえわれらは、キリストを二人とし、位格の一致を解消するネストリウス派の教理を忌み嫌う。同様に、人性の性質を破壊するエウテュケス派、単性論者・単意論者の狂気を、われらはまったく忌避する。
われらは、キリストの神性が苦しまれたとは決して教えず、キリストの人性がいたるところに存在するとも教えない。キリストのまことの身体は、その栄化の後にも神格化され、身体と魂に関するその性質を脱ぎ捨てて、まったくの神的本性へと変わり、単一の実体になったなどとは、われらは考えも教えもしない。しかしわれらは、われらの主イエス・キリストが、まことに肉においてわれらのために苦しみ死なれたと信じる。ペテロが言うとおりである(ペテロ第一3:18、4:1)。われらは、主の苦難を忌み嫌うヤコブ派やすべてのトルコ人たちの、はなはだしく不敬虔な狂気を忌み嫌う。同時にわれらは、パウロの言葉によれば、栄光の主がわれらのために十字架につけられたことを否定しない(コリント第一2:8)。というのも、われらは、聖書から引き出され、一見矛盾するように見える聖書の箇所を説明し調和させるために古代の教会全体が用いてきた「性質の交流」(コムニカティオ・イディオマトゥム)を、敬虔に、また敬意をもって受け入れ、用いるからである。
われらは、キリストが死なれたのと同じ肉において死者のうちから復活されたと信じ教える(ルカ24:30)。そして最高の天において、神の右に上げられたと信じる(エペソ4:10)。これは主の神的な威光と力への高挙を意味すると同時に、ある定まった場所をも意味する(ヨハネ14:2、使徒3:21)。
同じキリストが、世の悪がその極みに達し、反キリストがまことの宗教を腐敗させるとき、再び来られるであろう。主は反キリストを滅ぼし、生ける者と死せる者とを裁かれる(テサロニケ第二2:8、使徒17:31、テサロニケ第一4:17)。信仰者は祝された者たちの住まいに入り、不信仰者は悪魔とその使いたちとともに永遠の刑罰に投げ込まれる(マタイ25:41、テモテ第二2:11、ペテロ第二3:7)。
われらは、まことの復活を否定する者たち、すべての不敬虔な者ならびに悪魔さえも最終的に救われるという者たちを退ける。またわれらは、最後の審判の前に地上に千年王国、あるいは黄金時代があるというユダヤ人の夢想をも退ける。
われらは、キリストがこの世全体の唯一の贖い主であり、律法の前に、律法の下に、また福音のもとに救われたすべての者、そして世の終わりまでに救われるであろうすべての者が、彼にあって救われると信じ教える(ヨハネ10:1、7、使徒4:12、15:11、コリント第一10:1、4、黙示録13:8)。
それゆえわれらは大声をもって告白し教える。イエス・キリストは世の唯一の救い主、王にして大祭司、まことのメシアであり、律法とすべての予表、預言者たちのすべての預言が予表し約束した方である。神は彼をわれらに遣わされたのであり、われらは他の者を求める必要はない。あとはただ、われらが彼にすべての栄光を帰し、彼を信じ、彼のみに拠り頼むことのみが残されている。
そして、多くを短く言うならば、われらはわが主イエス・キリストの受肉の奥義について、聖書から定められ、ニカイア、コンスタンティノポリス、エフェソス、カルケドンにて開かれた最初の四つの最も優れた公会議の信条と決定、また祝された聖アタナシオスの信条、ならびにこれらと類似するすべての信条に要約された事柄を、誠実な心をもって信じ、自由な口をもって率直に告白し、これに反するすべてのものを断罪する。このようにしてわれらは、キリスト教的で正統かつ普遍的な信仰を、損なわれることなく完全に保持する。前述の信条のうちには、神のみことばと一致しないもの、また信仰の誠実な説明に資さないものは何も含まれていないことを知っているからである。

第12章 神の律法について

神の律法は、われらに対して神の御心を説き明かすものであり、善と悪、正と不正の何であるかを示す。それゆえわれらは、律法が善く聖なるものであると告白する。律法は二種類ある。人の心に刻まれた自然の律法(ローマ2:15)と、モーセに書き記された律法である。後者をわれらは、便宜のために、十戒の二枚の板に含まれる道徳律法、礼拝と儀式に関わる儀式律法、政治と経済に関わる裁判律法に区分する。
神の律法は完全であり、それに何も加えることも、それから何も取り去ることも許されない(申命記4:2、イザヤ30:21)。律法がわれらに与えられたのは、それを守ることによってわれらが義とされるためではなく、むしろそれによってわれらが罪と罪責の知識に導かれ、自らの力に絶望して、信仰によってキリストへと立ち返るためである(ローマ4:15、3:20、8:3、ガラテヤ3:21-24)。キリストは律法の終わりであり、律法の呪いからわれらを贖い出された(ローマ10:4、ガラテヤ3:13)。主はわれらが律法を成就することを可能にしてくださり、その義と従順とが信仰によってわれらに帰せられる。
律法は、それが信じる者をもはや断罪せず、怒りをもたらさないという意味において廃棄されている。彼らは律法のもとにではなく、恵みのもとにあるからである。さらに、キリストは律法のすべての型を成就された。それゆえ、影の代わりに実体が置かれ、キリストにあってわれらは今やすべての真理と充満とを持つ。それでもなお、律法は、あらゆる徳と悪徳をわれらに示し、新しい従順の生活を規律するのに有用である。キリストは律法を廃するためではなく、成就するために来られた(マタイ5:17)。
それゆえわれらは、古今の反律法主義を断罪する。

第13章 イエス・キリストの福音について

律法は怒りをもたらし、呪いを告げる(ローマ4:15、申命記27:26)が、福音は恵みと祝福を告げる(ヨハネ1:17)。それでもなお、律法の前に、また律法のもとにあった人々もまた、福音をまったく欠いていたわけではなく、偉大な約束を持っていた(創世記3:15、22:18、49:10)。約束は一部は現世的なものであり、一部は霊的で永遠のものであった。福音の約束によって父祖たちはキリストにあって救いを得た。
厳密な意味において福音とは、キリストによる救いの喜ばしい知らせであり、それによってわれらは赦し、贖い、永遠の命を得る。それゆえ、四福音書記者によって記されたキリストの歴史は、正当に福音と呼ばれる。
パリサイ人の律法主義と比較すると、福音は新しい教理であるかのように見えたし、今なお教皇主義者たちはそう呼んでいる。しかし実際には、それは最も古い教理である。神は永遠から、キリストを通して世を救うことを予定しておられ、この計画を福音において啓示されたのであるから(テモテ第二1:9-10)。それゆえ、われらの福音的信仰を最近の革新と呼ぶことは、重大な誤りである。

第14章 悔い改めと人の回心について

悔い改め(メタノイア)とは、福音の御言葉と聖霊とによって罪人のうちに生じさせられる心の変化であり、生まれながらの、また実際の堕落についての知識、罪への敬虔な悲しみと憎しみ、そして今後は徳と聖さのうちに生きようとする決意を含む。まことの悔い改めとは、神とすべての善へと立ち返り、悪魔とすべての悪から真剣に離れ去ることである。それは神の自由な賜物であって、われら自身の力による結果ではない(テモテ第二2:25)。
われらは、罪深い女(ルカ7:38)、堕落後のペテロ(ルカ22:62)、放蕩息子(ルカ15:18)、そして宮での取税人(ルカ18:13)のうちに、まことの悔い改めの実例を持っている。
神に対して自分の罪を、私的にも公の礼拝においても告白すれば十分であり、祭司に告白する必要はない。それは聖書のどこにも命じられていないからである。ただし、苦難と試練のときに福音の奉仕者から助言と慰めを求めることはあってよい(ヤコブ5:16参照)。
教皇主義者たちが、そこから剣や笏、王冠を作り出す天の御国の鍵は、福音の宣教と戒規の維持において、すべての正当な教会の奉仕者たちに与えられている(マタイ16:19、ヨハネ20:23、マルコ16:15、コリント第二5:18-19)。われらは、贖宥にまつわる教皇の実入りの良い悔悛の教理を断罪し、彼らに対してシモン・マグスへのペテロの言葉を適用する。「あなたの金は、あなたと共に滅びてしまえ」(使徒8:20)。

第15章 信仰者のまことの義認について

使徒がこの主題を論じるとき、「義とする」とは、罪を赦し、罪責と刑罰から解放し、恩寵のうちに受け入れ、義であると宣言することを意味する(ローマ8:33、使徒13:38、申命記25:1、イザヤ5:23)。
われらはみな生まれながらに罪人であり、神の前に不敬虔であって、神の裁きの座の前で死に定められている。しかしわれらは、われら自身の功績によってではなく、ただキリストの功績のみによって義とされる、すなわち罪と死から神なる裁き主によって解き放たれるのである。キリストのゆえに、その苦難と復活のゆえに、神はわれらの罪について恵み深くあられ、われらの罪をわれらに帰することなく、むしろキリストの義をわれら自身のものとして帰してくださる(コリント第二5:19以下、ローマ4:25)。それゆえわれらは、罪、死、断罪から清められ、赦され、義とされ、永遠の命の相続者となる。厳密に言えば、神のみがわれらを義とされ、それはただキリストのゆえにのみであって、われらの罪をわれらに帰することなく、その義をわれらに帰することによる。
それゆえわれらは、使徒とともに、罪人はただキリストへの信仰のみによって義とされるのであり、律法によってでも、いかなる行いによってでもないと教え、信じる(ローマ3:28、4:2以下、エペソ2:8-9)。義が信仰に帰せられるのは、信仰がわれらの義であるキリストを受け取り、すべてをキリストにある神の恵みに帰するからであって、それがわれら自身のわざであるからではない。それは神の賜物である。食べることによって食物を受け取るように、信仰はキリストを我がものとする。
われらは義認の恵みを、一部は神の恵みあるいはキリストに、一部はわれら自身の行いや功績に分けて帰すことはせず、もっぱらキリストにある神の恵みに、信仰を通して帰する。まずわれらが義とされなければ、われらは善い行いを愛し行うことができない。愛は信仰から生まれる(テモテ第一1:5、ガラテヤ5:6)。
それゆえここでわれらが語っているのは、偽りの死んだ信仰ではなく、われらの命であり命を与えるキリストのうちに生きる、生きた命を与える信仰である。ヤコブ(第2章)もまた、われらのこの教理に矛盾しない。彼が語るのは、悪霊さえ持っているような死んだ信仰についてであり、アブラハムが行いによって生きた義とする信仰を証したことを示しているのである。

第16章 信仰と善い行いについて、その報いと人の功績について

キリスト教信仰とは、人間的な意見や確信ではなく、最も堅固な信頼であり、心の明白で揺るがぬ同意である。それはまず、聖書と使徒信条のうちに示された神の真理についての、最も確かな把握であり、それゆえまた神ご自身、すなわち最高善についての、とりわけ神の約束と、すべての約束の成就であるキリストについての、最も確かな把握である。
このような信仰は神の純粋な賜物であって、神はご自身の恵みにより、御心のままに、いつ、だれに、どれほどの程度でこれを聖霊によって、福音の宣教と信仰の祈りという手段を通して、選ばれた者たちに与えられる。この信仰には段階があり、増し加わりうるものである。それゆえ使徒たちは「わたしどもの信仰を増してください」(ルカ17:5)と祈ったのである。(以下、ヘブライ11:1、コリント第二1:20、ピリピ1:29、ローマ12:3、テサロニケ第二2:3、ローマ10:16、使徒13:48、ガラテヤ5:6などの聖句が続けて引かれる。)
われらは、善い行いが生きた信仰から、聖霊を通して生まれ、神の御言葉の御心と規範にしたがって信仰者によってなされると教える(ペテロ第二1:5以下、テサロニケ第一4:3、6、23)。
善い行いは、それによって永遠の命を得るためになされてはならない。永遠の命は神の自由な賜物だからである(ローマ6:23)。また見せびらかしや利己心のためになされてはならない。主はこれを退けられるからである(マタイ6:2、23:5)。むしろ、神の栄光のため、われらの召しを飾るため、神への感謝を示すため、そして隣人の益のためになされるべきである(マタイ5:16、エペソ4:1、コロサイ3:17、ピリピ2:4、テトス3:14)。
われらは、人がキリストへの信仰によって義とされ、いかなる行いによるものでもないと教えるが、善い行いを非難するのではない。人は、絶えず善く有益なことを行うために、信仰によって造られ、再生させられたのである。「良い木は良い実を結ぶ」(マタイ7:17)。「わたしにとどまる者は、多くの実を結ぶ」(ヨハネ15:5)。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちがそれを行って歩むように、あらかじめこれを備えてくださった」(エペソ2:10)。
それゆえわれらは、善い行いを軽んじ、あるいはそれを無用と言う者たちすべてを断罪する。同時にわれらは、善い行いが救いに必要であって、それなしにはだれも救われたことがない、というふうには考えない。われらはキリストのみによって救われるからである。しかし善い行いは信仰から必然的に生まれるのであり、本来は恵みに帰せられるべきものが、便宜上、行いに帰せられることがあるにすぎない(ローマ11:6)。
神は、信仰によってなされたわれらの行いを喜ばれ、これを是とされる(使徒10:35、コロサイ1:9-10)。また神はこれに豊かに報いられる(エレミヤ31:16、マタイ5:12、10:42)。しかしわれらは、この報いを、それを受ける人の功績にではなく、それを約束し与えられる神の善良さと真実さに帰する。神は何ものにも借りがないにもかかわらず、そうされるのである。「わたしたちは命じられたことを皆おこなったとき、『わたしたちは無益なしもべです』と言いなさい」(ルカ17:10)。われらはアウグスティヌスとともに、神はわれらのうちで、われらの功績にではなく、ご自身の恵みの賜物に冠を授けられると言う。それは恵みの報いであって、功績の報いではない。われらは受けたもの以外、何一つ持っていない(コリント第一4:7参照)。
それゆえわれらは、人の功績を擁護することによって神の恵みを無にする者たちを断罪する。

第17章 神の普遍的で聖なる教会について、教会の唯一の頭について

神は初めから、人々が救われ、真理の知識に至ることを望まれたのであるから(テモテ第一2:4)、教会──すなわち、世から呼び出され集められた信仰者の集まり、聖徒の交わり──が、常に存在し、今も存在し、世の終わりまで存在することは、必然である。彼らはまことの神を、われらの救い主キリストにあって知り、正しく礼拝し仕える者たちであり、信仰によってキリストを通して自由に与えられるすべての恵みにあずかる者たちである。彼らは神の家の同じ家族の一員である(エペソ2:19)。信条の条項、「わたしは聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信じる」は、これらの人々について理解されるべきである。
そして、神はただ一人、神と人との間の仲介者はただ一人、メシアなるイエスであり、全群れの牧者はただ一人、この体の頭はただ一人、御霊はただ一つ、救いはただ一つ、信仰はただ一つ、契約はただ一つであるから、必然的に教会もまたただ一つでなければならない。われらはこれを普遍的(カトリック)と呼ぶ。すなわちそれは世界のあらゆる場所、あらゆる時代に広がっているからである。
それゆえわれらは、教会をアフリカのある片隅に閉じ込めたドナトゥス派を断罪し、またローマ教会のみが普遍教会であるとするローマの排他主義をも是としない。
教会は、それ自体において分裂しているのではなく、そのメンバーの多様性のゆえに区分される。地上で戦う戦闘の教会と、天において主の御前で喜ぶ勝利の教会とがある。しかしこの両者の間には交わりがある。戦闘の教会はさらに個々の教会に分かれるが、これらはすべて唯一の普遍教会の一致に帰せられるべきである。教会は族長たちのもとでは異なる形で、モーセのもとではまた異なる形で、キリストのもとでは福音による形で構成された。しかし唯一のメシアにあって、ただ一つの救いがある。彼にあって、すべての者が一つの体の肢体として一つに結び合わされ、同じ霊的な食物と飲み物にあずかる。われらは今、より大いなる光と、より完全な自由とを享受している。
この教会は、生ける神の家(テモテ第一3:15)、生きた霊的な石で建てられた家(ペテロ第一2:5)、動かされることのない岩の上に建てられ、他に置くことのできない唯一の礎の上に建てられた家(コリント第一3:11)、真理の柱であり土台(テモテ第一3:15)と呼ばれる。それは、岩であるキリストの上に、預言者と使徒たちの礎の上に立っている限り、誤ることがない。しかし、唯一の真理である方から離れるたびに、誤ってしまうのも不思議ではない。この教会はまた、処女、キリストの花嫁、唯一の愛される者(コリント第二11:2)、そしてキリストの体(エペソ1:23等)とも呼ばれる。信仰者たちはキリストを頭として、その生きた肢体だからである。
教会はキリスト以外のいかなる頭も持つことができない。彼は自らの群れの唯一の普遍的な牧者であり、世の終わりまでその臨在を約束された。それゆえ主は代理人を必要としない。代理人とは、その本人が不在であることを含意するものだからである。〔教会に二重の頭と統治を持ち込む者たちは、明らかに使徒たちが断罪した誤った教師たちの部類に属する(ペテロ第二2章、使徒20章、コリント第二11章、テサロニケ第二2章)。〕
しかしわれらは、ローマの頭を退けることによって、教会に混乱や無秩序をもたらすのではない。教皇が存在する以前に使徒たちによって伝えられた統治にわれらは従っているからである。ローマの頭は、教会に持ち込まれた専制と腐敗を維持し、正当な改革をことごとく妨げ破壊している。
彼らはわれらに対して、ローマから分離して以来、あらゆる論争や分裂が生じたと非難する。あたかもローマ教会において、宗派や対立が説教壇でも民衆の間でも一度も存在しなかったかのように。神はまことに秩序と平和の神である(コリント第一14:33)。それでもなお、使徒たちの教会にも党派と分裂があった(使徒15章、コリント第一3章、ガラテヤ2章)。神はこれらの分裂を、ご自身の栄光のため、真理を明らかにするために用いられる。
われらはキリストにあるまことの教会との交わりを高く評価し、それから離れる者は神の前に生きることができないと考える。ノアの箱舟の外に救いがなかったように、選ばれた者に自らを味わわせてくださるキリストの外には、確かな救いはないとわれらは信じる。
しかしわれらは、やむを得ない事情によって、また不本意ながら礼典にあずからない人々、あるいは信仰の弱い人々、なお欠けや誤りのある人々を排除するほどには、教会を狭く限定しない。神はユダヤの民の外にも友を持っておられた。ペテロに何が起きたか、選ばれ信仰深い人々に日々何が起きているかをわれらは知っている。使徒がガラテヤとコリントのキリスト者たちの重大な過ちを叱責しながらも、なお彼らをキリストの聖なる教会と呼んでいることをわれらは知っている。神は時に、正しい裁きによって、教会がエリヤの時代のように(列王記上19章18節)ほとんど絶滅したかのように見えるまで、これを覆い隠し揺り動かすことを許されることがある。しかしそのようなときでさえ、神は七千人以上のまことの礼拝者を持っておられる。「神のかたい土台は変わることがない。それは、次のような銘を持っている。『主はおのれに属する者を知りたもう』」(テモテ第二2:19)。それゆえ教会は「見えない」と呼ばれることがある──それを構成する人々が見えないからではなく、彼らが神のみに知られており、われらはしばしば判断を誤るからである。教会のうちには多くの偽善者もおり、彼らは外面的にはすべての儀式に従うが、最終的にはその真の姿が明らかにされ、切り離される(ヨハネ第一2:19、マタイ13:24、47)。
教会のまことの一致は、儀式や祭儀のうちにではなく、真理と普遍的な信仰のうちに求められるべきである。それは聖書に基づき、使徒信条に要約されている。古代の人々の間には儀式の大きな多様性があったが、それによって教会の一致が損なわれることはなかった。

第18章 教会の奉仕者について、その制定と職務について

神は常に、教会を集め治めるために奉仕者を用いられた(ローマ10:14、17、ヨハネ13:20、使徒16:9、コリント第一3:9等)。
神は族長たち、モーセ、預言者たちをその時代の教師として用いられた。そしてついに、無限の知恵に満ちたひとり子を、われらの誤りなき導き手として遣わされた。キリストは使徒たちを選ばれ、彼らはすべての教会に牧師を任じた(使徒14:23)。その後継者たちが今日に至るまで教会を教え治めてきた。
新約の奉仕者は、使徒、預言者、伝道者、監督、長老、牧師、教師と呼ばれる(コリント第一12:28、エペソ4:11)。後代には、総主教、大主教、大主教区長、長老会長老、執事、副執事などの名称が導入された。しかしわれらは、教会の教育と統治のために使徒たちが制定した職務をもって満足する。
奉仕者は教会によって正当に召され選ばれ、聖なる学識、敬虔な雄弁、思慮深さ、汚れなき品性において優れていなければならない(テモテ第一3:2、テトス1:5)。選ばれた者は、公の祈りと按手によって長老たちから按手を受けるべきである。われらは、恣意的な僭称者や資質の不足した牧師を退ける。しかし同時に、誇り高い学識よりも、無垢な単純さのほうが有用であることもあるとわれらは認める。
新約の奉仕者は、生者と死者のために犠牲を捧げるユダヤの祭司のような祭司ではない。キリストこそがわれらの永遠の大祭司であり、十字架上のただ一つの完全な犠牲によって型としての犠牲を成就し廃止された。すべての信仰者は祭司であり、絶えず神への感謝と賛美という霊的な犠牲を捧げる。
すべての奉仕者は権威と使命において対等である。監督と長老は、もともと同じ職務であり、共同の奉仕によって教会を治めていた。主の言葉を心に留めつつ、「あなたがたの中でかしらになりたいと思う者は、仕える者となりなさい」(ルカ22:26)。教会の奉仕者の主な務めは、福音の宣教、礼典の執行、魂への配慮、戒規の維持である。これを効果的に行うために、彼らは神への畏れのうちに生き、絶えず祈り、聖書を熱心に学び、常に目を覚まし、生活の清さによってすべての人の前に輝かなければならない。戒規を行うにあたっては、その権能が徳を建て上げるために与えられたのであって、破壊のためではないことを覚えておくべきである(コリント第二10:8、マタイ13:29参照)。
われらは、説教と礼典の効力を奉仕者の道徳的性格に依存させるドナトゥス派の誤りを退ける。キリストの声は、ふさわしくない奉仕者の口からであっても聞かれ、従われなければならない(マタイ23:3)。礼典は、その神的な制定とキリストの御言葉によって、ふさわしく受ける者に対して有効である。
それでもなお、奉仕者の教理と品行に対する適切な規律と監督が、教会会議において行われるべきである。偽りの、あるいは不道徳な教師は容認されるべきではなく、警告されるか、あるいは罷免されるべきである。われらは、使徒的な先例(使徒15章)にしたがって、教会の福祉のために、教会の腐敗のためではなく行われる限り、一般公会議あるいは普遍公会議を否定しない。
労働者がその報酬を受けるにふさわしいように、奉仕者は自分と家族の生活の支えを、仕える会衆から受ける権利がある(コリント第一9:9以下、テモテ第一5:18等)。奉仕によって生計を立てる奉仕者を非難する再洗礼派に対して、われらはこれを主張する。

【訳者注:第19章以降について】
ここまで(第1〜18章)は、逐語訳に近い形の英訳(パブリックドメイン、シャフ『Creeds of Christendom』所収の完全な英語訳)を底本として翻訳してきた。しかし第19章以降については、入手できた完全な逐語訳の続きが確認できず、代わりにシャフ自身による要約版(同書内で「a condensed translation of the original」と明記されている、原文の趣旨をまとめた凝縮訳)を底本とせざるを得なかった。
したがって、以下の第19章〜第30章は、原文の逐語訳ではなく、要約(ダイジェスト)からの翻訳であることを明記する。各条項の趣旨・骨子は正確に反映するよう努めているが、原文にある個々の聖句引用の細部や修辞的な言い回しの多くは、要約の段階で省略されている。学術的な引用や正確な逐語訳が必要な場合は、原典(ラテン語)またはシャフの完全な英訳、既刊の日本語訳(大崎節郎訳『改革派教会信仰告白集Ⅲ』など)をご参照願う。

第19章 キリストの教会の礼典について 【要約】

御言葉の説教には、礼典すなわち聖なる儀式が伴う。これは、神がわれらの信仰を強めるためにその約束のしるしと証印として制定されたものであり、同時にわれらの側からは、神への献身の誓いともなる。
ユダヤの時代の礼典は割礼と過越の子羊であった。キリスト教時代の礼典は洗礼と主の晩餐である。
教皇主義者たちは礼典を七つに数える。このうち、悔い改め、教職按手、結婚については、神の有益な制度として認めるが、礼典としては認めない。堅信礼と終油の秘跡は人間の考案物であり、廃止しても何ら損失はない。われらは、ローマの祭司たちによって礼典にまつわって行われる商行為を忌み嫌う。
礼典の最高の恵みは、救い主キリストご自身であり、世の基が置かれる前から屠られた神の子羊、われらの父祖たちがみな飲んだあの岩である。この点において、旧約と新約の礼典は同一である。ただしわれらは、その実体をすでに持っている。
礼典は、御言葉、しるし、しるされる事柄から成る。神の御言葉とキリストの制定によって、それらは礼典となり、聖別される。洗礼におけるしるしは水であり、しるされる事柄は再生あるいは罪からの洗いである。主の晩餐におけるしるしはパンとぶどう酒であり、しるされる事柄はわれらのために犠牲とされたキリストの真実の体と血である。しるしはしるされる事柄そのものに変化するのではない──そうであれば、それはもはや、しるされる事柄を表す礼典的なしるしではなくなってしまう──しかし、それらは聖なる、有効なしるしと証印である。洗礼と晩餐を制定された方は、われらが外的な形だけでなく、内的な恵み、すなわち信仰によって真実に罪から洗われ、キリストにあずかる者となることを意図されたからである。
礼典の真実性と有効性は、それを執行する者の資格にも、それを受ける者の資格にも依存せず、神の真実にのみ依存する。信じない者は、差し出されているものを受け取らない。しかしその咎は人間の側にあり、彼らの不信仰が神の真実を無にするわけではない(ローマ3:3)。

第20章 聖なる洗礼について 【要約】

洗礼はキリストによって制定された(マタイ28:19、マルコ16:15)。教会における洗礼はただ一つであり、生涯にわたって効力を持ち、われらの神の子としての身分の永続的な証印である。キリストの御名によって洗礼を受けるとは、神の契約、神の家族、神の子らの相続財産に登録され、迎え入れられることであり、キリストの血によって罪から清められ、新しく汚れなき生活を送るためである。われらは聖霊によって内的に再生されるが、この恵みの公の証印を洗礼によって受け取る。水が汚れを洗い去り、体を爽やかにし慰めるように、神の恵みは内的・見えない仕方で魂を清める。
洗礼によってわれらは世から分かたれ、神に献げられる。洗礼においてわれらは自らの信仰を告白し、神への従順を誓う。われらは、肉と世と悪魔とに対して戦うキリストの聖なる軍勢に登録されるのである。
原初の洗礼の形式に後代人間が付け加えたもの──悪魔祓い、燃える灯火、油、塩、唾などの使用──は不要であるとわれらは判断する。
洗礼は女性や産婆によってではなく、教会の奉仕者によって執行されるべきである。
われらは、信仰者の子らが洗礼を受けるべきであることを否定する者たちを断罪する。神の国は子どもたちのものであり、彼らは神との契約のうちにあるのだから、なぜ契約のしるしを彼らに与えてはならないのか。それゆえわれらは再洗礼派ではなく、彼らとの交わりを持たない。

第21章 主の聖なる晩餐について 【要約】

主の晩餐、すなわち聖餐は、贖いの恵みへの感謝に満ちた記念であり、キリストによって制定された信仰者の霊的な饗宴であって、そのうちで主は真実の信仰によってご自身の肉と血をもってわれらを養い、永遠の命に導かれる。それは、この上ない恵みと祝福──主がまことにご自身の体を渡し、われらの罪の赦しのために血を流されたこと──をわれらにしるし、証印するものである。われらはそこで、まことの食物であるその肉を食べ、まことの飲み物であるその血を飲む(マタイ26:20以下、ルカ22:19、コリント第一11:21以下、ヨハネ6:51以下)。
この「食べる」ことは、口と胃による身体的・カペナウム的な食事ではなく、霊的なもの、すなわち聖霊による信仰を通してのものである。「肉」を身体的に食べても益はなく、「命を与えるのは霊」である(ヨハネ6:63)。「わたしはいのちのパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6:51)。したがって、ここでの食べることと飲むこととは、キリストのもとに来て彼を信じることを意味する。アウグスティヌスが言うように、「なぜ歯と胃を用意するのか。信じよ、そうすればあなたはすでに食べたのである」。
この霊的な食事──キリストとの日々の霊的交わり──に加えて、礼典的な食事がある。それによって信仰者は、内的・霊的に主の真実の体と血にあずかるだけでなく、外的にも主の食卓に近づき、その体と血の目に見えるしるしと証印を受け取る。そして、しるしとともに、それがしるす当のもの自体をも受け取る。信仰者はこの霊的な食物によって養われ強められる。しるしはまた、キリストが人類全般のためだけでなく、あずかる一人ひとりの信仰者のためにも死なれたことの確かな証しである。さらにこの礼典にあずかることによって、われらは主の命令に従い、その贖いの死を記念し、大いなる贖いに感謝を捧げ、会衆の前で自らの信仰を公に告白する。
しかし、信仰なく、ふさわしくなくあずかる者は、目に見えるしるしのみを受け取り、それは自分自身への裁きとなる(コリント第一11:27以下)。
それゆえわれらは、パンとキリストの体、ぶどう酒とキリストの血を、パンそのものが(礼典的な意味を除いて)体そのものである、あるいはキリストの体がパンの形の下に身体的に隠されておりパンの形において礼拝されるべきである、あるいはしるしを受け取る者はだれでも必然的にしるされる事柄そのものをも受け取る、というふうには結びつけない〔ルター派の説に対して〕。キリストの体は、御父の右の座、天にある(マルコ16:19、ヘブライ8:1、12:2)。それゆえわれらは心を天に上げなければならない。
しかしそれでもなお、主は信仰者が聖餐にあずかるとき、彼らから不在であられるのではない。天における太陽がわれらに対して効果的に臨在するように、義の太陽であるキリストは、身体的にではなく、霊的に、その命を与え生かす働きによって、なおいっそうわれらとともにおられる。それは最後の晩餐において主ご自身が、ご自身がわれらとともにおられることを説明されたとおりである(ヨハネ14〜16章)。それゆえわれらは、キリスト不在の晩餐を持つのではなく、古代の全教会がそう呼んだように、血を流すことのない、神秘的な晩餐を持つのである。
さらに主の晩餐は、われらがその体の肢体であること、すべての兄弟と平和に生きるべきこと、聖なる生活のうちに成長し忍耐すべきことを、われらに思い起こさせる。それゆえ、悔い改めとキリストへの信仰について自己吟味することによって、あらかじめ自らを整えることは、まことにふさわしいことである(コリント第一11:28)。
外的な執行に関しては、われらは原初の形式──神の御言葉の告知、敬虔な祈り、主のみわざ、そしてパンを裂き、ぶどう酒とともに分け与える再演、主の体を食べ主の血を飲むこと、その死の感謝に満ちた記念、感謝、そして一つの体としての兄弟の聖なる集いという形式──を守る。
われらは、主の明確な命令「あなたがたはみな、この杯から飲みなさい」(マタイ26:27)に反する、杯の一般信徒への差し止めを是としない。
ミサは──古代においてどのようなものであったにせよ──有益な制度から空しい見せ物へと変えられ、さまざまな濫用に取り囲まれるようになった。これらの濫用は、ミサの廃止を正当化するものである。

第22章 聖なる集会・教会の集まりについて 【要約】

すべての人が自宅で私的に聖書を読み、これによって教え導かれることは、正当かつ正しいことである。同時に、宗教の維持には規則的な公の礼拝が求められる。これらは、民衆が理解できる言語によって、品位をもって、秩序正しく、徳を建て上げるために行われるべきである。

第23章 教会の祈り、賛美、聖務日課について 【要約】

聖なる集会における公の祈りは、すべての人が理解できる自国語でなされるべきである。すべての祈りは、聖徒たちにではなく、また聖徒たちを通してではなく、キリストのみを通した唯一の仲介によって、神のみに献げられるべきである。諸教会は、通常の形式から自由に変わることができる。祈りは、特定の場所や時間に迷信的に限定されるべきではない。公の集会における長く冗長な祈りは避けるべきである。賛美は不可欠ではないが、正当かつ望ましいものである。聖務日課(定時課)は聖書に定められておらず、古代にも知られていなかった。

第24章 祝祭日、断食、食物の選択について 【要約】

主の日は、使徒たちの時代から、神への礼拝と聖なる休息のために聖別されている。しかしわれらはこれを、ユダヤ的な迷信によってではなく、キリスト教的な自由のうちに守るのであり、ある一日がそれ自体において他の日より聖であるとは信じない。
もし諸教会がこれに加えて、主の降誕、割礼、十字架、復活、昇天、聖霊降臨を記念するならば、われらはこれを大いに是とする。しかし人間が聖徒を称えて制定した祝日は、聖徒の記憶が有益であり、その徳に倣うようにと民に勧められるべきものであるとしても、退ける。
まことのキリスト教的断食は、節制、節欲、目覚め、自己統制、そして御霊により従いやすくなるための肉の懲らしめから成る。このような断食は、祈りとあらゆる徳の助けとなる。
また、苦難と災いの時に定められる公の断食もあり、そのときには人々は夕方まで一切の食物を断ち、すべての時を祈りと悔い改めに費やす。このような断食は預言者たちにも言及されており(ヨエル2:12以下)、教会が苦しめられ抑圧されているときに守られるべきである。私的な断食は、それが自らの魂に有益であると各人が判断するときに、各自守るべきものである。
すべての断食は、自由で進んで行う心から生じるべきであり、真の謙遜の霊のうちに、肉に打ち勝ち、いっそう熱心に神に仕えるために行われるべきであって、人の好意や義の功績を得るためであってはならない。
四旬節の断食は古代の証しを持つが、聖書に命じられているわけではなく、信仰者の良心に課されるべきではない。初代教会には、断食の時期に関して大きな多様性と自由があった。イレナイオスや歴史家ソクラテスから、われらはこれを知る。
食物の選択に関して、われらは断食において肉欲を刺激するような食物や飲み物を控えるべきであると考える。しかしそれ以外については、神のすべての被造物は良いものであり(創世記1:31)、節度と感謝をもって区別なく用いてよい(コリント第一10:25、テトス1:15)。パウロは食物を禁じる教理を悪霊の教えと呼び(テモテ第一4:1以下)、過度の節制によって聖性の評判を得ようとする者たちを非難している。

第25章 教理教育について、また病人の訪問と慰めについて 【要約】

若者への宗教教育、とりわけ十戒、使徒信条、主の祈り、礼典の本質についての教育に、最大の配慮が払われるべきである。諸教会は、子どもたちが教理教育を受けるよう配慮すべきである。
病人を訪問し、慰め、力づけ、私的にも公にも彼らのために祈ることは、キリスト教の牧者の主要な務めの一つである。しかしわれらは、教皇主義者たちの終油の秘跡を是としない。

第26章 信仰者の埋葬について、死者への配慮について、煉獄と霊の出現について 【要約】

聖霊の宮である信仰者の体は、終わりの日によみがえるのであるから、迷信によらず、敬意をもって地に納められるべきであり、その親族、寡婦、孤児は手厚く配慮されるべきである。
われらは、信仰者は死後直ちにキリストのもとに行き、生きている者の祈りを必要としないと信じる。不信仰者は地獄に投げ込まれ、そこから逃れる道はない。
煉獄の教理は聖書に反し、キリストによる完全な贖罪と清めに反する(ヨハネ5:24、13:10参照)。
死者の霊が生きている者に現れ、自分たちの救済のために奉仕を求めるという話は、われらの判断では嘲弄あるいは悪魔の欺きである。主は死者への口寄せを禁じておられる(申命記18:10)。そして富める者は、もし地上の兄弟たちがモーセと預言者たちに耳を傾けないなら、たとえだれかが死人の中からよみがえっても、彼らは説得されないであろうと告げられた(ルカ16:30)。

第27章 儀式と祭儀について 【要約】

ユダヤ人の儀式律法は、まことの解放者キリストへとユダヤ人を導く養育係であり後見人であった。キリストはこれを廃止されたので、信仰者はもはや律法の下にではなく、福音の自由の下にある。使徒たちは、新しい改宗者にユダヤの儀式の重荷を負わせようとはしなかった(使徒15:28)。人間の儀式が教会に積み重ねられるほど、それはキリスト教的な自由から、そしてキリストご自身から、教会を遠ざける。無知な者たちは、信仰によってキリストのうちに求めるべきものを儀式のうちに求めてしまう。神の御言葉に一致した、少数の純粋で節度ある儀式で十分である。
古代の教会に存在した、そして今われらの間に存在するような、儀式における相違は、教理と信仰における一致と調和を妨げるものではない。それ自体は善でも悪でもない中立的な事柄(アディアフォラ)においては、教会は常に自由を用いてきた(コリント第一8:10、10:27以下)。

第28章 教会の財産について 【要約】

教会の財産は、公の礼拝と学校の維持、奉仕者と教師の支援、そしてとりわけ貧しい者の益のために用いられるべきである。
無知あるいは貪欲による教会財産の誤用と濫用は冒瀆であり、改革を要する。

第29章 独身、結婚、家政について 【要約】

天からの賜物として独身を与えられ、全き心をもって清く節制できる者は、他者に対して自らを誇ることなく、単純さと謙遜のうちに、その召しにあって主に仕えてよい。そうでなければ、使徒の言葉「情の燃えるよりは結婚するほうがよい」(コリント第一7:9)を思い起こすべきである。
結婚(不節制の治療であり、それ自体が節制でもある)は神によって制定され、神はこれを豊かに祝福し、男女を親密な愛と調和のうちに生きるよう不可分に結び合わされた(マタイ19:5)。結婚はすべての人において尊ばれるべきであり、その床は汚されていない(ヘブライ13:4、コリント第一7:28)。
われらは重婚を、また再婚を退ける者たちを断罪する。
結婚は主を畏れる心をもって、両親またはその代理人の同意を得て、それが制定された目的にしたがって結ばれるべきである。
子どもたちは主を畏れるうちに育てられ、両親によって適切に扶養され(テモテ第一5:8)、誠実な技術あるいは職業を教えられるべきである。
われらは、結婚を禁じる、あるいはこれを不浄で汚れたものとして間接的に貶める教理を断罪する(テモテ第一4:1)。われらは、汚れた独身、隠された、あるいは公然の淫行、そして偽善者たちの見せかけの節制を忌み嫌う。

第30章 為政者について 【要約】

世俗の為政者は、人類の平和と安寧のために、神ご自身によって立てられた(ローマ13章)。教会に敵対するなら、為政者は大きな害をなしうる。友好的であれば、教会に最も有益な奉仕をなしうる。
為政者の務めは、平和と公の秩序を保つこと、宗教と善き道徳を促進し保護すること、正しい法によって民を治めること、盗人、殺人者、抑圧者、冒瀆者、そして(真に異端者であるならば)矯正しがたい異端者など、社会に背く者たちを罰することである。
戦争は、自衛のためにのみ、そしてあらゆる和平の努力が尽きた後にのみ、正当化される。
われらは、キリスト者が公職に就くべきでない、為政者には何びとをも死刑に処す権利がない、戦争をなす権利がない、誓いを求める権利がないと主張する再洗礼派を断罪する。
すべての市民は、神のしもべとしての為政者に対して、そのすべての正しい命令において敬意と従順を負う。公共の安全と福祉が求めるときには、自らの命をもってさえも。それゆえわれらは、為政者を軽んじる者、反逆者、国家の敵、そして公然とあるいは巧妙に市民としての義務を拒む者たちすべてを断罪する。
われらは、われらの憐れみ深い天の父なる神に、君主と為政者、われらすべて、そして神のすべての民の上に、われらの唯一の主にして救い主なるイエス・キリストを通して、祝福を注いでくださるよう祈る。彼にとこしえに賛美と栄光と感謝がありますように。アーメン。

【新宗教解説シリーズ】佛所護念会教団──法華経・日蓮宗系なのに伊勢神宮・靖国参拝もする在家仏教教団

 


ーーーレジュメーーー

【新宗教解説シリーズ】佛所護念会教団──法華経・日蓮宗系なのに伊勢神宮・靖国参拝もする在家仏教教団

 本教団は、法華経を信仰する日蓮系の新宗教で、1950年10月30日に関口嘉一(かいち)・トミノ夫妻が創立した在家仏教団体である。信徒数は約92万3811人(2024年度末現在)とされている。同じタイプの教団として、立正佼成会、霊友会をあげることができる。

基本情報
  • 成立:1950年(昭和25年)10月30日
  • 創立者:関口嘉一(初代会長)・関口トミノ(二代会長)夫妻
  • 本部所在地:東京都港区白金台2-1-1
  • 信徒数:923,811人(2023年度末、文化庁『宗教年鑑』)
  • 系統:日蓮系・法華経系の新宗教
  • 経典:法華三部経(無量義経・妙法蓮華経・観普賢菩薩行法経(かんふげんぼさつぎょうほうきょう))
  • 特徴:寄付・賽銭を一切受け取らず、月会費のみで運営する独自方針

教団創立の経緯
  • 関口嘉一 15歳で上京。(14歳で上京、15歳で北海道に渡り、病気で新潟に戻るとも)
  • 1923年 関口自転車店を開業。
  • 1924年頃 妻・トミノと結婚。
  • 結婚からまもなく、長女を授かるが夭逝。
  • 1933年 かつての長女の死や長男病弱もあって、妻トミノの信仰の導きにより、霊友会に入信。
  • 1935年 霊友会第6支部長になったが、霊友会の共同募金横領・脱税事件を契機に離脱
  • 1950年 独立して新教団である佛所護念会教団を設立。
  • 法華経見宝塔品(ほけきょうけんほうとうほん)に示される平等大慧(びょうどうだいえ)、教菩薩法(きょうぼさつほう)、佛所護念の精神を中心に、法華経による在家先祖供養を実践。行い、布教活動を展開。毎年伊勢神宮に参拝を行う。
    • 法華経見宝塔品(ほけきょうけんほうとうほん):『法華経』の中の「見宝塔品」という章で、仏の教えの尊さと平等性を象徴する場面が描かれます。宝塔(ほうとう)は真理の象徴。
    •  平等大慧(びょうどうだいえ):すべての人が仏性(ぶっしょう)を持ち、差別なく悟りに至る智慧(ちえ)を持つという考え。仏教の根本的な平等観を表す。
    •  教菩薩法(きょうぼさつほう):菩薩(ぼさつ)が他者を導くために行う教えの実践。自分だけでなく他人の救いを目指す慈悲の行動。
    • 佛所護念(ぶっしょごねん):仏が衆生(しゅじょう)を常に守り、念(おも)っているという教え。信仰者が仏の加護を受けているという安心感を意味する。
    • 在家先祖供養(ざいけせんぞくよう):出家せず家庭にいる信者(在家)が、法華経の教えに基づいて先祖を供養すること。家庭の中で仏教を実践する形。
  • 1953年 本部講堂完成
  • 1963年より神宮の式年遷宮の奉賛をすすめる。明治神宮、靖国神社への参拝も行う。
  • 建国記念の日奉祝を打ち出し、靖国神社国家護持を主張している。
  • 2015年11月、さいたまスーパーアリーナで創立65周年式典を挙行。

教義の特徴(4頁)
  • 法華経の実践を最重視する。日常生活で法華経を読み、先祖供養を行うことを基本とする。
  • 伊勢神宮や身延山久遠寺、明治神宮への参拝行事を行う。
  • 創立以来、会員からの寄付・賽銭を一切受け取らず、月々の会費のみで運営する方針を貫いている(公式サイトで明言)。

活動内容(5頁)
  • 自宅での先祖供養(読経)
  • 本部・教会での修養会への参加
  • 会報『佛所護念』の発行(毎月)
  • 国内14教会・海外1教会(台湾教会)を展開

政治との関わり(事実ベース)(7頁)

  • 参議院の全国区・比例区選挙で、大竹平八郎、鳩山威一郎、藤井裕久、尾辻秀久、有村治子、衛藤晟一、山谷えり子ら複数候補を支援してきた記録がある。
  • 日本会議との関係について、AERA編集部の取材に対し教団は「皇室仰慕(ぎょうぼ)の諸活動や英霊の慰霊顕彰など、教団の考えに合う取り組みについて、その趣旨に賛同する会員に協力を呼び掛けている」と回答している。

説教や聖書研究をする信徒のための聖書注解 マタイ27:27-31「兵士たちによるイエスの嘲弄」

 

説教や聖書研究をする信徒のための聖書注解

マタイ27:27-31「兵士たちによるイエスの嘲弄」



概要

 マタイ27:27–31は、イエスがローマ兵によって徹底的な嘲弄を受ける場面を描いています。ピラトの裁判が終わり、イエスが十字架刑へと引き渡された直後、兵士たちはイエスを総督官邸へ連れ込み、集団で侮辱を加えます。彼らはイエスの衣を脱がせ、緋色の外套を着せ、茨の冠を編んで頭に載せ、葦を笏のように持たせ、跪いて歓呼するという「偽りの即位式」を演じます。これらは王の象徴を戯画化したものであり、イエスを「偽の王」として嘲るための演技です。
 しかし、マタイはこの嘲弄の中に逆説的な真理を示しています。兵士たちが侮辱として行う「王の演出」は、物語の神学的視点から見ると、イエスが真の王であることをむしろ際立たせます。イエスは沈黙し、抵抗せず、受動的に辱めを受け続けますが、その従順こそ神の救いの道です。嘲弄が終わると、兵士たちはイエスに元の衣を着せ、十字架へと連れ出します。この場面は、苦難を通して王としての使命を成し遂げるイエスの姿を示す重要な一幕である。


注解

27:27

原文: Τότε οἱ στρατιῶται τοῦ ἡγεμόνος παραλαβόντες τὸν Ἰησοῦν εἰς τὸ πραιτώριον συνήγαγον ἐπ’ αὐτὸν ὅλην τὴν σπεῖραν.
私訳: そのとき、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸の中へ連れて行き、彼のところに部隊全体を集めた。

文法解析

  • Τότε:τότε「そのとき」副詞
    • 時を示す副詞です。直前のピラトによる判決と鞭打ち(27:26)を受け、その後に起こった出来事を導入しています。
  • οἱ στρατιῶται:στρατιώτης「兵士」男性・複数・主格
    • παραλαβόντεςおよびσυνήγαγονの主体です。
  • τοῦ ἡγεμόνος:ἡγεμών「総督、支配者」男性・単数・属格
  • παραλαβόντες:παραλαμβάνω「引き取る、連れて行く」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
  • τὸ πραιτώριον:πραιτώριον「総督官邸、プラエトリウム」中性・単数・対格。ラテン語 praetorium に由来する語です。
  • συνήγαγον:συνάγω「集める」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
  • ἐπ’ αὐτόν:ἐπί+αὐτός「彼のところに、彼の周りに」前置詞+男性・単数・対格
  • ὅλην:ὅλος「全体の、すべての」女性・単数・対格
  • τὴν σπεῖραν:σπεῖρα「部隊、軍団の一部、コホルス」女性・単数・対格

注解

  • 27節から、場面はピラトによる正式な裁判から、ローマ兵によるイエスへの嘲弄へと移ります。27:26ではピラトがイエスを鞭打った後、「十字架につけるために引き渡した」と記されましたが、実際の十字架刑に向かう前に、27–31節の嘲弄場面が挿入されています。
  • 「イエスを引き取って」:ここでイエスはローマ兵の支配下に置かれます。
  • 「総督官邸」:ラテン語 praetorium に由来し、総督の滞在・執務場所を指します。エルサレムにおけるその正確な所在地については議論がありますが、物語の進行上の要点は、イエスがユダヤ人指導者や群衆の前からローマ兵の内部空間へ移されたという点です。
  • 「部隊」:ローマ軍の cohors に相当する語として用いられています。本来の編制上は数百人規模を指し得ますが、ὅλην τὴν σπεῖρανを「文字どおり全員が集合した」と厳密に理解する必要はありません。多数の兵士がイエスを取り囲み、集団的な嘲弄が始まったことが強調されていると思われます。


27:28

原文: καὶ ἐκδύσαντες αὐτὸν χλαμύδα κοκκίνην περιέθηκαν αὐτῷ,
私訳: そして彼を脱がせ、緋色の外套を彼に着せた。

文法解析

  • ἐκδύσαντες:ἐκδύω「脱がせる」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格

  • αὐτόν:αὐτός「彼」男性・単数・対格
    • ἐκδύσαντεςの目的語で、イエスを指します。
  • χλαμύδα:χλαμύς「外套、マント」女性・単数・対格
    • περιέθηκανの目的語です。特に兵士などが用いる短い外套を指すことがあります。
  • κοκκίνην:κόκκινος「緋色の、深紅色の」女性・単数・対格
    • χλαμύδαを修飾します。
  • περιέθηκαν:περιτίθημι「周りに置く、身につけさせる」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
    • περί+τίθημιからなる動詞で、「周囲に置く」から「着せる」という意味になります。

注解

  • 兵士たちはまずイエスの衣服を脱がせ、代わりに「緋色の外套」を着せます。
  • 軍人などが着用した短い外套を意味します。したがって、兵士たちは手近にあった軍用の外套をイエスに着せ、それを王の衣装に見立てたと考えられます。
  • マタイが色をκοκκίνην「緋色の」とする点は注目されます。マルコ15:17およびヨハネ19:2では紫色を意味するπορφύρα/πορφυροῦνが用いられています。古代における赤・緋・紫の色彩表現には幅があり、ここから必ずしも矛盾を想定する必要はありません。いずれにしても、王侯を連想させる色の衣服を用いてイエスを「王」に仕立てているということです。当然、兵士たちはイエスを真の王としてそのように行なっているわけではありません。
  • しかし、そこに大きな逆説があります。兵士たちは「偽の王」としてイエスを嘲弄しますが、マタイ福音書は冒頭からイエスをダビデの子、メシアとして提示してきました(1:1)。つまり、兵士たちが嘲って演じている「王の即位」が、物語の神学的次元では真実を指し示すことになります。

27:29

原文: καὶ πλέξαντες στέφανον ἐξ ἀκανθῶν ἐπέθηκαν ἐπὶ τῆς κεφαλῆς αὐτοῦ καὶ κάλαμον ἐν τῇ δεξιᾷ αὐτοῦ, καὶ γονυπετήσαντες ἔμπροσθεν αὐτοῦ ἐνέπαιξαν αὐτῷ λέγοντες· Χαῖρε, βασιλεῦ τῶν Ἰουδαίων,
私訳: そして、茨で冠を編んで彼の頭の上に載せ、また彼の右手に葦を持たせた。そして彼の前にひざまずいて、「ごきげんよう、ユダヤ人の王よ」と言いながら彼を嘲弄した。

文法解析

  • πλέξαντες:πλέκω「編む、編み合わせる」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
  • στέφανον:στέφανος「冠、花冠」男性・単数・対格
    • 王冠そのものを意味するδιάδημαとは異なり、花輪・勝利者の冠などにも用いられる語です。
  • ἀκανθῶν:ἄκανθα「茨、とげのある植物」女性・複数・属格
  • ἐπέθηκαν:ἐπιτίθημι「上に置く、載せる」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
  • κεφαλῆς:κεφαλή「頭」女性・単数・属格
  • κάλαμον:κάλαμος「葦、葦の棒」男性・単数・対格。王の笏を模したものです。
  • δεξιᾷ:δεξιός「右の」女性・単数・与格、名詞的用法。「右手に」という意味です。χείρ「手」が省略されています。
  • γονυπετήσαντες:γονυπετέω「ひざまずく」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格。γόνυ「ひざ」とπίπτω「倒れる」に関連する語です。王に対する臣下の礼を模倣しています。
  • ἔμπροσθεν:ἔμπροσθεν「~の前で」前置詞的副詞+属格
  • ἐνέπαιξαν:ἐμπαίζω「嘲る、からかう」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
  • Χαῖρε:χαίρω「喜ぶ、喜べ」現在・能動・命令法・2人称単数。挨拶としては「ごきげんよう」「万歳」に相当します。皇帝や王への歓呼を模倣した表現です。
  • βασιλεῦ:βασιλεύς「王」男性・単数・呼格

注解

  • この節では「偽りの即位式」が執り行われています。兵士たちは、①王の衣に相当する緋色の外套、②王冠に相当する茨の冠、③王笏に相当する葦、④臣下の跪拝、⑤王への歓呼、という一連の要素を用いてイエスを嘲弄しています。
  • 「茨の冠」:その目的がイエスに肉体的苦痛を与えることだったのか、王冠を戯画化することだったのか、本文だけからは断定できません。「王冠のパロディー」として機能していることは確かです。
  • 「葦」:王のを模しています。王の権威を象徴する笏の代わりに、折れやすい葦を持たせることによって、「お前の王権など見せかけだ」という嘲笑が表現されています。
  • 「ひざまずいて」:本来、王の前にひざまずくことは服従と敬意の表現です。しかし兵士たちはそれを演技として行っています。
  • 「ごきげんよう、ユダヤ人の王よ」:Χαῖρεは日常的には「こんにちは」「ごきげんよう」という一般的挨拶ですが、この場面では王への歓呼として機能しています。「ユダヤ人の王、万歳」といったニュアンスを持つと考えることもできます。
  • ここにはマタイ特有の強烈な皮肉が込められています。兵士たちはイエスが王ではないと思っているからこそ「ユダヤ人の王よ」と嘲ります。しかし読者は、イエスがメシアなる王であることを知っています。さらにマタイ福音書では、イエスに対する「ひざまずく」という行為が重要な意味を持ちます。たとえば東方の博士たちは幼子イエスにひざまずいてして礼拝しました(2:11)。しかしここでは、兵士たちは偽りの礼拝を行います。そして復活後には弟子たちが復活したイエスを礼拝します(28:17)。したがって27:29は、「偽りの礼拝」と「真の王権」という逆説が交差する場面となっています。

27:30

原文: καὶ ἐμπτύσαντες εἰς αὐτὸν ἔλαβον τὸν κάλαμον καὶ ἔτυπτον εἰς τὴν κεφαλὴν αὐτοῦ.
私訳: そして彼に唾を吐きかけ、葦を取って、彼の頭を何度も打った。

文法解析

  • ἐμπτύσαντες:ἐμπτύω「唾を吐きかける」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
  • ἔτυπτον:τύπτω「打つ、殴る」未完了・能動・直説法・3人称複数。未完了形であることが重要で、一回だけ打ったというより、「打ち続けていた」「繰り返し打った」という継続・反復的な行為を示唆します。

注解

  • 29節までは「王の即位式」の戯画という性格が前面に出ていましたが、30節では嘲弄が露骨な身体的暴力へと移ります。
  • 「唾を吐きかける」:単なる不快な行為ではなく、古代世界において強い侮辱を表す行為です。イエスはすでに大祭司の前でも唾を吐きかけられています。「それから彼らはイエスの顔に唾を吐きかけ……」(26:67)。したがってマタイでは、ユダヤ人指導者側の人々による嘲弄と、ローマ兵による嘲弄が並行しています。
  • 「葦を取って」:29節で「王笏」として持たされていたκάλαμοςが、今度はイエスを殴る道具になっています。ここで特に注目すべき文法はἔτυπτονです。これはアオリストではなく未完了形です。直前のἔλαβον「彼らは取った」はアオリストですが、その後の「打つ」は未完了形となっています。したがって、「葦を取った。そして彼の頭を打ち続けた」というニュアンスを持ちます。また、茨の冠がすでに頭に載せられている状態で頭部を打たれたとすれば、肉体的苦痛も伴ったと考えられます。

27:31

原文: καὶ ὅτε ἐνέπαιξαν αὐτῷ, ἐξέδυσαν αὐτὸν τὴν χλαμύδα καὶ ἐνέδυσαν αὐτὸν τὰ ἱμάτια αὐτοῦ, καὶ ἀπήγαγον αὐτὸν εἰς τὸ σταυρῶσαι.
私訳: そして彼を嘲弄し終えると、彼からその外套を脱がせ、彼自身の衣服を着せ、十字架につけるために彼を連れて行った。

文法解析

  • ἐνέδυσαν:ἐνδύω「着せる、身につけさせる」アオリスト・能動・直説法・3人称複数。ἐκδύω「脱がせる」と対をなしています。
  • τὰ ἱμάτια:ἱμάτιον「衣服、衣」中性・複数・対格
  • ἀπήγαγον:ἀπάγω「連れて行く、引いて行く」アオリスト・能動・直説法・3人称複数。ἀπό+ἄγωからなる動詞です。
  • τὸ σταυρῶσαι:σταυρόω「十字架につける」アオリスト・能動・不定詞+中性・単数・対格の冠詞

注解

  • 31節は27–30節の嘲弄場面を閉じ、実際の十字架刑へ物語を移行させる節です。一連の「偽りの即位式」がここで終了します。
  • 「彼自身の衣服を着せ」:兵士たちはχλαμύςを脱がせ、イエス自身のἱμάτιαを再び着せます。
  • 27:27–31全体を通して注目すべきなのは、イエスがほとんど何も語らないことです。兵士たちが、「連れて行く」「集める」「脱がせる」「着せる」「冠を載せる」「葦を持たせる」「ひざまずく」「嘲る」「唾を吐く」「打つ」「再び着せる」
「連れて行く」という一連の動作の主体であるのに対し、イエスは一貫してその対象です。これは受難物語におけるイエスの沈黙および無抵抗を際立たせています。


<マタイ27:27-31の注解をもとにしての説教の結びとして>
 マタイ27章27–31節は、イエスが沈黙のまま嘲弄を受け続ける場面を描き出しています。兵士たちはイエスを「偽りの王」として扱い、緋色の外套、茨の冠、葦の笏、跪拝、歓呼――王の象徴をすべて戯画の形にしてイエスを辱めました。
 しかし、マタイはこの嘲弄のただ中に、深い逆説を置いています。兵士たちが「王のパロディー」を演じれば演じるほど、読者にはむしろイエスの真の王権が浮かび上がってくるのです。
 イエスは抵抗せず、言い返さず、ただ沈黙のまま受け続けます。彼は奪われ、着せられ、載せられ、持たされ、打たれ、連れて行かれる――すべて受動の主体として描かれています。しかしその沈黙こそ、神の子が自ら選び取った「王としての道」でありました。力による支配ではなく、辱めと苦難を通して人を救う王。暴力によってではなく、徹底した従順によって神の御心を成し遂げる王。茨の冠を戴くことによって、罪と死の力を打ち破る王。
 兵士たちが跪いたのは嘲笑のためでした。しかし復活の朝、弟子たちは真実の礼拝としてイエスの前に跪きました。兵士たちが叫んだ「ユダヤ人の王よ」は侮辱でしたが、復活の主を前にした教会は「主よ、王よ」と心から告白します。嘲弄の場面は、神の国の王がどのような王であるかを逆説的に示す啓示の場となっています。
 私たちもまた、しばしばこの世界の価値観の中で「王らしくない王」を見失いがちです。力、成功、名誉――そうしたものが王のしるしだと思ってしまう。しかし、茨の冠を戴いた主は、私たちに別の道を示します。弱さの中に働く神の力、沈黙の中に宿る神の愛、辱めの中で輝く神の栄光。主はその道を歩み切り、十字架へと向かわれました。
 だからこそ、この嘲弄の場面は私たちに問いかけます。
 「あなたはどの王に跪くのか。」
 外側の栄光をまとった王か、それとも茨の冠を戴き、あなたのために沈黙してくださった王か。
 主イエスは、嘲られ、打たれ、沈黙しながらも、あなたの救いのために王として歩み続けました。
 この王にこそ、私たちは心から跪き、従い、礼拝する者とされたいと願います。

2026年8月21日金曜日

<レジュメ版と文章版>信条・信仰告白の講解説教 ――1890年「信仰ノ告白」を中心に

<本レジュメの末尾以降に、文章版を掲載しています>

信条・信仰告白の講解説教
――1890年「信仰ノ告白」を中心に
 
1.信条・信仰告白を説教するということ
信条(creed)[1]・信仰告白(confession)[2]は、単なる教理(doctrine)[3]・教義(dogma)[4]の要約ではない。その多く―特に信仰告白―は、教理論争、異端との対立、教派間の競合、社会や国家との緊張など、具体的な歴史的状況の中で形成されてきた。したがって、信条・信仰告白を講解するに先立ち、“なぜ、その時代の教会は、それをあえて告白しなければならなかったのか”を問う必要がある。
しかし、講解説教は、単なる教会史・教理史の解説ではない。重要なのは、“その論争を通して教会が守ろうとした福音の核心を明らかにし、それを現代の信徒が直面する問題へと結びつけること”である。
信条の言葉→成立した歴史的背景・論争→そこで守ろうとされた福音
→現代においてそれを脅かすもの→今日「われらは信ず」と告白する意味
この流れが、信条・信仰告白の講解説教の基本形となる。
通常の説教  聖書箇所朗読→説教:聖書・福音内容→聴衆への適用
信条の説教  聖書箇所朗読→説教:信仰告白→聖書・福音内容→聴衆への適用
 
2.1890年「信仰ノ告白」成立の日本教会史的背景
(1)日本基督公会
1859年、開港以後の横浜、各プロテスタント教派宣教師が来日。
米国長老派J・C・ヘボン、米国オランダ改革派、S・R・ブラウン、同じく改革派J・H・バラ、バプテスト系ジョナサン・ゴーブル
 1872年 バラの英語学校→祈祷会を背景に日本人青年が受洗。
(2)日本基督一致教会の成立
1877年、日本基督公会を中心とする教会と、長老派・改革派系の宣教師によって形成された諸教会が合同。→日本基督一致教会が成立。改革派・長老派の伝統。教理的基準が以下。
  • ウェストミンスター信仰告白
  • ウェストミンスター小教理問答
  • ハイデルベルク信仰問答
  • ドルト信仰規準
 日本人基督者の問い:「欧米の教会が歴史的論争の中で形成した信仰告白を、そのまま日本の教会の告白としてよいのか」―日本教会の主体性、日本という文脈
(3)公会主義と「日本の教会」の形成
明治初期の日本プロテスタント教会の気概:欧米の教派的区分の移植ではなく、キリストにある一つの教会を日本に形成する。=公会主義的志向
(4)日本組合基督教会との合同問題
1880年代後半、日本基督一致教会と日本組合基督教会との合同について検討。
→合同教会の信仰的基準をどうするかという課題
合同そのものは実現しなかったが、この過程で生まれた「簡易な信仰告白による一致」という理念が残存。1890年の信仰告白制定へ繋がる。→簡易信条
 
3.1890年という社会的文脈
近代国家として急速に自己形成を進める日本――天皇中心主義
1889年 大日本帝国憲法発布
1890年10月30日 教育ニ関スル勅語(教育勅語)発布
孝・悌・夫婦の和・朋友の信・公益への奉仕などの徳目の明示。総合的に、天皇中心国家秩序の位置づけ。
1890年12月 日本基督一致教会「信仰ノ告白」制定・日本基督教会へ改称
1891年1月 内村鑑三不敬事件
*教派神道十三派の政策にも見られるように、明治政府は管理・統制を強める時代。
 
国家が「日本人はいかに生きるべきか」を言語化する一方、教会もまた、「誰を主なる神として崇め、キリスト者はいかに生きるべきか」の信仰告白の時代。
*ただし、1890年「信仰ノ告白」と教育勅語の因果関係の論証は困難。
*内村鑑三不敬事件が重要。キリスト者の信仰的忠誠 VS近代日本国家の忠誠 表面化。
 
4.1890年「信仰ノ告白」の理念
(1)外国の信条から「われわれの告白」へ
単なる“簡易信条”ではなく、
「何を告白すれば、教会は教会として立つことができるのか」
という喫緊の問題。
詳細な教派的相違を網羅しつつ、キリスト教信仰の核心の告白が模索された。
(2)中心に置かれるキリスト
同信仰告白冒頭:「我等が神と崇むる主耶蘇基督」→我々は誰を主とするのか
(3)教派的一致から公同的信仰へ
1890年信仰告白は、特定教派の詳細な教理体系を提示以上に、歴史的キリスト教会が共有してきた信仰との連続性を重視。
「独自の前文+使徒信条」という構造化。
信仰さえあれば、でもない。日本的文脈は関係ない、でもない。以下の一言に集約。
日本の教会自身の言葉で、公同の教会が受け継いできた信仰を告白する
 
5.1890年「信仰ノ告白」の全体構造
1890年信仰告白の前文は、おおむね次のような神学的展開を持つ。
構成 内容 神学的主題
我等が神と崇むる主耶蘇基督 キリスト告白
神の子が人となる 受肉
罪のために完全な犠牲を献げる 贖罪
信仰によってキリストと一体となる キリストとの結合
赦され、義とされる 罪の赦し・義認
信仰が愛によって働き、心を清める 聖化・信仰生活
父・子と共に聖霊を礼拝する 三位一体
聖霊がキリストを現す 聖霊論
聖霊の恵みによって神の国に入る 救済論
預言者・使徒・聖徒に働く聖霊 啓示・教会
新旧約聖書に語る聖霊 聖書論
聖徒に伝えられた信仰 信仰の継承
使徒信条 公同教会との一致
全体の簡略化
キリスト(神、受肉、贖罪主)復活、再臨などは、“ここでは”言及されず。
 ↓
救い(キリストとの結合、贖罪、義認)
 ↓
聖霊(三位一体論、信徒とされて以降の救済論)
 ↓
聖書(聖霊による歴史介入と霊感、聖書の正典性)
 ↓
歴史的教会(信仰の継承)
 ↓
現在の教会の告白(教会の伝統との連続性)
 
6.1890年「信仰ノ告白」講解説教における現代への適用
教会は、それぞれの当時の戦いを通して何を守ろうとしたのか。
 
キリスト論
古代時代の問答:「キリストは真の神」
明治時代の問答:「人なる天皇ではなく、神であるキリストを崇める」
現代の問答:「イエスは単なる道徳的模範者ではなく、私の罪、重荷を担う方」
 
義認
古代時代の問答:「人はいかにして神の前に義とされるか」
明治時代の問答:同上+「天皇が人なら、誰が私を誰の前で義とするのか」
現代の問答:「自分の過ち、負い目、存在価値、これらはどこから来るのか」
 
聖書論
古代時代の問答:「教会における聖書の権威とは何か」「正典とは。その中身とは」
明治時代の問答:「天皇と富国強兵ニッポンが、私に真理を語りえるのか」
現代の問い:「無数の情報と価値観が自己実現を推す洪水社会で、何を最終的な判断基準として生きるのか」
 
7.1890年信仰告白から現代へ――「誰を主とするのか」
・1890年という時代=富国強兵、国家、教育、社会の近代化。新たな帰属、自己意識、忠誠が求められる時代
・現代という時代:国家、政治的立場、会社、、学歴、社会的評価、SNS、世論、自己実現が、「自分の生きる目的、存在価値を定義せよ」と人に迫る時代。
 
結語
「我等が神と崇むる主耶蘇基督」と告白することは、単なる古い教理の復唱ではない。
それは、「私は誰に属するのか」「何を究極的な価値とするのか」「誰の言葉によって、どのように生きるべきのか」という問いに対する、現在の教会の回答。
したがって信仰告白の講解説教とは、「昔の教会が何を信じていたか」を説明することではなく、受け継いだ信仰を「今日、私たちは何を信じて生きるのか」という告白へと変えていく営みである。
1890年の日本の教会が、受け継いだキリスト教信仰を自らの時代と場所において「我等」の信仰告白としたように、現代の教会もまた、それを「(今を生きる)私たちの告白」として語り直すことを求められている。その意味で、我々は同信仰告白は、これを重んじつつも、常に語り直されていくという形で改革され続けることを我らに求む信仰告白であるし、それを実現する場が、礼拝における同信仰告白講解説教である。


[1] 信条(Creed)――キリスト教会が共有する基本的な信仰内容を簡潔に定式化し、「われらは信ず」と公に告白するもの。礼拝・洗礼・信仰教育などで唱和されることが多い。一般に簡潔であるが、アタナシオス信条のように比較的長いものもある。
[2] 信仰告白(Confession)――特定の歴史的状況で教会・教派の信仰的立場を具体的に表明するもの。一般に信条より詳細で比較的長いが、1890年「信仰ノ告白」やバルメン神学宣言など、簡潔なものもある。
[3] 聖書と教会の伝統に基づいて整理・体系化された信仰上の教え。
[4] 教会が公的・規範的なものとして確定・告白した信仰内容。


信条・信仰告白の講解説教

――1890年「信仰ノ告白」を中心に

1.信条・信仰告白を説教するということ

信条や信仰告白は、キリスト教の教理・教義を簡潔にまとめただけのものではありません。それらの多くは、教理をめぐる論争、異端とされた思想との対立、教派間の競合、あるいは社会や国家との緊張など、具体的な歴史的状況のなかで形成されてきました。

したがって、信条や信仰告白を講解する場合には、まず次のように問う必要があります。

なぜ、その時代の教会は、その内容をあえて告白しなければならなかったのでしょうか。

ここでいう「信条」とは、キリスト教会が共有する基本的な信仰内容を簡潔に定式化し、「われらは信ず」と公に告白するものです。使徒信条のように、礼拝、洗礼、信仰教育などにおいて唱えられることが多く、教会の公同的な信仰を表明します。ただし、アタナシオス信条のように、比較的長いものもあります。

これに対して「信仰告白」とは、教会や教派が、特定の歴史的状況のもとで、自らの信仰的立場を具体的に表明するものです。一般に信条よりも詳細で長い傾向がありますが、1890年の「信仰ノ告白」やバルメン神学宣言のように、比較的簡潔なものもあります。

また、「教理」とは、聖書と教会の伝統に基づいて整理・体系化された信仰上の教えを指します。「教義」とは、そのなかでも教会が公的かつ規範的なものとして確定し、告白してきた信仰内容です。

もっとも、信条や信仰告白の講解説教は、教会史や教理史を説明することだけを目的とするものではありません。大切なのは、過去の教会が具体的な論争や葛藤を通して守ろうとした福音の核心を明らかにし、それを現代の信徒が直面している問題へと結びつけることです。

そのため、講解説教では、まず信条・信仰告白の言葉に注目し、次に、それが成立した歴史的背景や論争を確認します。そのうえで、そこで守ろうとされた福音の内容を見極め、現代においてその福音を脅かすものが何かを問い直します。そして最後に、今日の私たちが「われらは信ず」と告白することの意味を明らかにします。

通常の説教では、聖書箇所が朗読され、その聖書の言葉から福音の内容が説き明かされ、聴衆の生活へと適用されます。信条・信仰告白を扱う説教では、そこに信仰告白という媒介が加わります。すなわち、聖書箇所を読み、その光のもとで信仰告白の内容を解き明かし、さらにその告白が証しする聖書的・福音的内容を、現代の聴衆の生活へと結びつけます。


2.1890年「信仰ノ告白」成立の日本教会史的背景

(1)日本基督公会の成立

1890年の「信仰ノ告白」を理解するためには、まず明治初期の日本プロテスタント教会の形成過程を確認する必要があります。

1859年の開港以後、横浜をはじめとする開港地には、さまざまなプロテスタント教派の宣教師が来日しました。米国長老派のジェームズ・カーティス・ヘボン、米国オランダ改革派のサミュエル・ロビンス・ブラウン、同じく改革派のジェームズ・ハミルトン・バラ、バプテスト系のジョナサン・ゴーブルなどが、その代表的な人物です。

彼らは、直接的な伝道だけでなく、語学教育、医療、聖書翻訳などを通して、日本社会との接点を築いていきました。とりわけ、宣教師の英語学校に集まった日本人青年たちは、学びと祈りの交わりを通してキリスト教信仰に触れるようになりました。

1872年には、バラの英語学校に関わる祈祷会などを背景として、日本人青年たちが洗礼を受け、日本基督公会が形成されました。この教会の成立は、日本におけるプロテスタント教会の歩みにとって重要な出発点となりました。

(2)日本基督一致教会の成立

1877年には、日本基督公会を中心とする教会と、長老派・改革派系の宣教師たちによって形成された諸教会が合同し、日本基督一致教会が成立しました。

この教会は、長老派・改革派の伝統を受け継ぎ、次の文書を重要な教理的基準としていました。

  • ウェストミンスター信仰告白
  • ウェストミンスター小教理問答
  • ハイデルベルク信仰問答
  • ドルト信仰規準

しかし、日本人のキリスト者たちは、やがて次のような問いに直面することになります。

欧米の教会が、それぞれの歴史的論争のなかで形成した信仰告白を、そのまま日本の教会自身の告白として受け入れてよいのでしょうか。

ここで問われていたのは、欧米の信仰告白を否定することではありません。むしろ、それらの信仰的遺産を受け継ぎながら、日本の教会が日本という具体的な状況のなかで、自らの主体的な言葉によって信仰を告白できるかどうかでした。

(3)公会主義と「日本の教会」の形成

明治初期の日本プロテスタント教会には、欧米に存在する教派的区分をそのまま日本に移植するのではなく、キリストにある一つの教会を日本に形成しようとする志向が見られました。

この公会主義的志向は、個々の教派の特色をすべて解消することを意味したわけではありません。それぞれの教派的伝統を踏まえながらも、それ以上に、キリストを信じる者たちの一致と、公同の教会との連続性を重視する姿勢でした。

日本の教会は、単に欧米教会の出先機関であることにとどまらず、日本の地に根ざした教会として、自らの責任において信仰を告白することを求められていました。

(4)日本組合基督教会との合同問題

1880年代後半には、日本基督一致教会と日本組合基督教会との合同が検討されました。その際、重要な課題となったのは、合同後の教会が、どのような信仰的基準のもとに一致するのかという問題でした。

教派ごとに受け継いできた詳細な信仰告白を、そのまま合同教会全体の基準とすることは容易ではありません。そこで、キリスト教信仰の核心を簡潔に表明する信仰告白によって一致するという方向が模索されました。

最終的に両教会の合同は実現しませんでしたが、「簡潔な信仰告白による一致」という理念は、その後も残りました。この理念が、1890年の「信仰ノ告白」の制定へとつながっていきます。

したがって、1890年の信仰告白が簡潔であることは、単に教理的内容を減らしたという意味ではありません。それは、教会の一致にとって不可欠な福音の中心を見極めようとした結果でした。


3.1890年という社会的文脈

1890年は、日本が近代国家として急速に自己形成を進めていた時期でした。その過程では、国家の秩序、教育のあり方、国民の道徳、天皇への忠誠などが、強く意識されるようになりました。

1889年には大日本帝国憲法が発布されました。翌1890年10月30日には、「教育ニ関スル勅語」、いわゆる教育勅語が発布されました。教育勅語は、親への孝行、兄弟姉妹の友愛、夫婦の調和、友人への信義、公益への奉仕などを徳目として掲げ、それらを天皇を中心とする国家秩序のなかに位置づけました。

その年の12月、日本基督一致教会は「信仰ノ告白」を制定し、教会の名称を日本基督教会へと改めました。そして翌1891年1月には、内村鑑三不敬事件が起こりました。

これらの出来事は、国家が「日本人はいかに生きるべきか」を示そうとしていた時代に、教会もまた「誰を主なる神として礼拝し、キリスト者はいかに生きるべきか」を告白していたことを示しています。

ただし、教育勅語の発布が直接の原因となって、1890年の「信仰ノ告白」が制定されたと断定することはできません。両者のあいだに直接的な因果関係を認めるには、慎重な史料的検討が必要です。

それでも、近代国家への忠誠が重視される社会において、キリスト者の信仰的忠誠がどこに向けられるのかという問題が、次第に表面化していたことは見逃せません。内村鑑三不敬事件は、その緊張を象徴的に示す出来事でした。

また、明治政府が宗教を管理し、制度的に位置づけようとしたことも、当時の教会を取り巻く重要な背景でした。教派神道の制度化に見られるように、国家は宗教に対する管理・統制を進めていました。そのような時代に、教会が自らの信仰を公に言葉にすることは、単なる教理上の確認にとどまらない意味をもっていたと考えられます。


4.1890年「信仰ノ告白」の理念

(1)外国の信条から「われわれの告白」へ

1890年の「信仰ノ告白」は、しばしば簡潔な信仰告白として理解されます。しかし、その重要性は、内容が短いという点だけにあるのではありません。

その背後には、次のような根本的な問いがあります。

何を告白すれば、教会は教会として立つことができるのでしょうか。

欧米の教会が長い歴史のなかで形成した信仰告白は、日本の教会にとっても重要な遺産でした。しかし、それらの教派的相違や歴史的論争を詳細に繰り返すことが、そのまま日本の教会の主体的な告白になるわけではありません。

そこで求められたのは、キリスト教信仰の核心を明確に保ちながら、日本の教会が自らの言葉によって「われわれは何を信じるのか」を表明することでした。

この意味で、1890年の「信仰ノ告白」は、外国の教会から受け継いだ信仰を、日本の教会自身の告白として引き受け直す試みであったといえます。

(2)中心に置かれるキリスト

1890年の信仰告白は、次の言葉から始まります。

「我等が神と崇むる主耶蘇基督」

この冒頭の言葉には、信仰告白全体の中心が凝縮されています。すなわち、私たちが神として礼拝する方は誰なのか、私たちが主として従う方は誰なのかという問いです。

「主耶蘇基督」という告白は、イエスを優れた宗教家や道徳的模範として尊敬するだけでは十分ではないことを示しています。ここで告白されているのは、神の子が人となり、私たちの罪のためにご自身を献げ、私たちを救いへと導く方です。

したがって、この告白は、単に教理的に正しいキリスト論を確認するためのものではありません。それは、私たちが人生の根本において誰に信頼し、誰に属し、誰の言葉に従って生きるのかを表明する告白です。

(3)教派的一致から公同的信仰へ

1890年の「信仰ノ告白」は、特定の教派の詳細な教理体系を提示すること以上に、歴史的なキリスト教会が共有してきた信仰との連続性を重視しています。そのことは、「独自の前文」と「使徒信条」を組み合わせる構造に表れています。

前文では、日本の教会が、自らの時代と状況のなかで、キリスト、救い、聖霊、聖書、教会について告白します。そして使徒信条を続けることによって、その告白が、古代以来の公同の教会の信仰と切り離されたものではないことを示します。

つまり、日本的な状況だけを重視して、歴史的教会の伝統から離れるのでもありません。反対に、教会の伝統だけを繰り返して、日本という具体的な文脈を無視するのでもありません。

日本の教会自身の言葉で、公同の教会が受け継いできた信仰を告白します。

1890年の「信仰ノ告白」の理念は、この点に集約されます。


5.1890年「信仰ノ告白」の全体構造

1890年の「信仰ノ告白」の前文は、キリストの告白から始まり、救い、聖霊、聖書、教会、そして使徒信条へと展開していきます。

構成告白される内容神学的主題
我等が神と崇むる主耶蘇基督キリスト告白
神の子が人となる受肉
罪のために完全な犠牲を献げる贖罪
信仰によってキリストと一体となるキリストとの結合
赦され、義とされる罪の赦し・義認
信仰が愛によって働き、心を清める聖化・信仰生活
父・子とともに聖霊を礼拝する三位一体
聖霊がキリストを現す聖霊論
聖霊の恵みによって神の国に入る救済論
預言者・使徒・聖徒に働く聖霊啓示・教会
新旧約聖書に語る聖霊聖書論
聖徒に伝えられた信仰信仰の継承
使徒信条公同教会との一致

第一に、「我等が神と崇むる主耶蘇基督」と告白されます。ここでは、イエス・キリストが神として礼拝される方であることが示されます。信仰告白の出発点は、抽象的な宗教理念ではなく、具体的なキリストの告白です。

第二に、神の子が人となられたことが告白されます。これは受肉を表しています。神は人間の苦しみや歴史から遠く離れた存在ではなく、イエス・キリストにおいて人間の現実のなかへと来られました。

第三に、キリストが私たちの罪のために完全な犠牲を献げられたことが告白されます。ここでは、キリストの十字架が、私たちの罪と神との断絶に関わる救いの出来事として理解されています。

第四に、私たちが信仰によってキリストと一体となることが示されます。救いは、キリストについての知識を得ることだけではありません。キリストと結ばれ、その命にあずかることです。

第五に、その結びつきのなかで、私たちが罪を赦され、神の前に義とされることが告白されます。人間は、自分自身の功績や道徳的努力によって神の前に正しい者とされるのではありません。キリストの恵みによって赦され、受け入れられます。

第六に、その信仰が愛によって働き、人の心を清めていくことが示されます。ここでは、信仰と生活が切り離されていません。神に受け入れられた者は、愛に生きる者として変えられていきます。これが聖化と信仰生活の主題です。

第七に、父と子とともに聖霊を礼拝することが告白されます。これは、父・子・聖霊なる神を礼拝する三位一体信仰の表明です。

第八に、聖霊がキリストを私たちに示し、キリストの救いを現実のものとされることが語られます。キリストについての告白は、過去の出来事を思い出すだけではありません。聖霊の働きによって、キリストが現在の私たちにとって生きた主として示されます。

第九に、聖霊の恵みによって、私たちが神の国に入れられることが示されます。救いは人間自身の能力によるものではなく、神の恵みの働きによるものです。

第十に、聖霊が預言者、使徒、聖徒たちのなかに働いてこられたことが語られます。信仰は、一人ひとりの個人的な経験だけに基づくものではありません。それは、神が歴史のなかで人々に働きかけ、教会を導いてこられたことに根ざしています。

第十一に、新旧約聖書を通して聖霊が語られることが告白されます。聖書は、単なる古代の宗教文書の集まりではなく、聖霊によって教会に語りかける神の言葉を証しする書として受け止められます。

第十二に、その信仰が聖徒たちに伝えられ、歴史を通して受け継がれてきたことが示されます。現在の教会の信仰は、自分たちだけで新しく作り出したものではありません。先立つ教会から受け継いだ信仰に連なっています。

第十三に、使徒信条が置かれます。これによって、日本の教会の告白が、公同の教会の歴史的信仰と一致していることが示されます。

以上の流れは、次のようにまとめられます。

キリストの告白(神・受肉・贖罪)

救い(キリストとの結合・罪の赦し・義認)

聖霊(三位一体・聖化・救いの完成)

聖書(歴史に働く聖霊・聖書の証言)

歴史的教会(信仰の継承)

現在の教会の告白(公同教会との連続性)

なお、キリストの復活や再臨などが前文で個別に詳述されていないとしても、それらが軽視されているという意味ではありません。前文の後に続く使徒信条において、それらの信仰内容が告白されるため、全体として理解する必要があります。


6.1890年「信仰ノ告白」講解説教における現代への適用

信仰告白を現代の説教において語るためには、それぞれの時代の教会が、どのような問いに直面し、何を守ろうとしたのかを考える必要があります。

(1)キリスト論

古代教会にとって重要な問いの一つは、「キリストは真の神であるのか」という問題でした。この問いは、イエス・キリストが単に優れた人間や神に近い存在であるのか、それとも神ご自身として礼拝される方であるのかをめぐるものでした。

明治期の日本の教会にとって、このキリスト告白は、「私たちは誰を究極的な主として礼拝するのか」という問いと結びつきました。国家と天皇への忠誠が強く求められる社会において、キリストを神として礼拝することは、信仰の根本的な帰属先を明らかにすることでした。

現代においても、この問いは失われていません。イエスを立派な道徳教師、愛の模範、あるいは人生の参考になる人物として理解することはできます。しかし、キリスト教信仰は、それだけにとどまりません。

イエス・キリストは、私にとって単なる道徳的模範なのでしょうか。それとも、私の罪、重荷、苦しみを担い、私を救う生ける主なのでしょうか。

キリスト論を語る説教は、「キリストは真の神です」という教理的命題を説明するだけでは十分ではありません。その方が、現実の不安、孤独、罪責、挫折を抱える私たちにとって、どのような救い主であるのかを語る必要があります。

(2)義認

義認をめぐる問いは、「人は、どのようにして神の前に義とされるのか」という問題です。

これは、キリスト教の歴史を通して繰り返し問われ、宗教改革においても特に重要な主題となりました。人間は、自らの善行、功績、宗教的努力によって神に認められるのでしょうか。それとも、神の恵みによって赦され、受け入れられるのでしょうか。

明治期の日本においては、この問いに、「誰が私の価値を最終的に判断するのか」という問題も重なりました。国家や社会から評価されることが、人間の価値を決定するのでしょうか。それとも、神がキリストにおいて私たちを受け入れてくださることが、私たちの存在の基礎となるのでしょうか。

現代社会でも、多くの人が、自分の過ちや負い目に苦しんでいます。また、学歴、職業、収入、社会的成功、周囲からの評価などによって、自分の価値を測ろうとします。

そのなかで義認の福音は、次のように告げます。

あなたの価値は、あなたの成果や評価だけによって決まるのではありません。

自分自身を正当化し続けなければならない社会のなかで、神がキリストを通して私たちを受け入れてくださることが、義認の中心です。

したがって、義認についての講解説教は、「人が神の前に義とされる」という神学的表現を説明するだけではなく、「自分の失敗や負い目を抱えながら、それでも受け入れられて生きるとはどういうことか」という現代的な問いに応える必要があります。

(3)聖書論

聖書論をめぐって、古代教会は、「教会における聖書の権威とは何か」「どの文書を正典として受け入れるのか」という問いに取り組みました。

さまざまな教えや文書が存在するなかで、教会は、使徒たちの証言と福音に根ざした文書を受け継ぎ、それらを信仰と生活の基準としてきました。

明治期の日本では、「国家の理念や社会の価値観が、人間にとっての最終的な真理を語ることができるのか」という問いが生じました。近代化、富国強兵、国家への忠誠が強調される社会において、教会は、神の言葉を聞くべき場所がどこにあるのかを問わなければなりませんでした。

現代社会では、情報があふれ、無数の価値観が同時に流通しています。インターネット、報道、広告、SNSなどは、「こう生きるべきだ」「こうすれば成功できる」「もっと自分を実現すべきだ」と、絶えず人に呼びかけます。

そのなかで問われるのは、次のことです。

私たちは、何を最終的な判断基準として生きるのでしょうか。

聖書を信仰の基準として受け止めることは、社会の情報をすべて拒否することではありません。むしろ、多様な情報や価値観に接しながらも、それらによって自分の存在や生き方を一方的に決定されないために、神の言葉に立ち返ることです。

聖書論の講解説教は、「聖書には権威があります」と述べるだけで終わるべきではありません。絶えず比較され、評価され、自己実現を求められる現代社会において、神の言葉がどのように私たちを自由にし、支えるのかを示す必要があります。


7.1890年信仰告白から現代へ――「誰を主とするのか」

1890年という時代は、富国強兵、近代国家の形成、教育制度の整備、社会の再編が進むなかで、人々に新たな帰属意識や忠誠が求められた時代でした。

その状況のなかで、日本の教会は、次のように告白しました。

「我等が神と崇むる主耶蘇基督」

それは、国家や社会のなかで生活しながらも、人間の究極的な帰属先がどこにあるのかを問い直す言葉でした。

現代社会においても、私たちはさまざまなものから、自分の価値や生きる意味を定義するよう求められています。国家や政治的立場、会社や職業、学歴、収入、社会的評価、SNSでの反応、世論、自己実現などが、私たちに対して問い続けます。

「あなたは何者なのですか」
「何を成し遂げたのですか」
「どれほど認められているのですか」

これらのものは、それ自体が必ずしも悪いわけではありません。しかし、それらが人間の価値を最終的に決定するものとなるとき、私たちは容易に不安や比較、競争や自己否定のなかに閉じ込められます。

そのような状況で、「我等が神と崇むる主耶蘇基督」と告白することは、私たちの存在の中心を改めて確かめることです。

私たちは、社会的評価によってのみ生きる者ではありません。成功や失敗によって最終的に価値づけられる者でもありません。キリストに知られ、キリストに愛され、キリストに属する者として生きるよう招かれています。

この信仰告白は、次の問いに対する教会の答えです。

「私は誰に属するのか」
「何を究極的な価値とするのか」
「誰の言葉によって、どのように生きるのか」


結び

「我等が神と崇むる主耶蘇基督」

このように告白することは、単に古い教理を繰り返すことではありません。それは、現代を生きる私たちが、誰を主とし、何を信じ、どこに自らの存在の根拠を置くのかを表明することです。

したがって、信仰告白の講解説教とは、「昔の教会が何を信じていたのか」を説明するだけの営みではありません。教会が受け継いできた信仰を、**「今日、私たちは何を信じて生きるのか」**という現在の告白へと結びつける営みです。

1890年の日本の教会は、歴史的教会から受け継いだキリスト教信仰を、自らの時代と場所において、「我等」の信仰告白として語り直しました。

同じように、現代の教会もまた、その信仰を、いまを生きる「私たちの告白」として語り直すことを求められています。

信仰告白は、過去から受け継いだ言葉を大切に守るものであると同時に、その言葉がそれぞれの時代に何を意味するのかを問い続けるものでもあります。

その意味で、1890年の「信仰ノ告白」は、教会が伝統を尊重しながら、福音に照らして絶えず自らを問い直し、改革され続けることを促す告白です。

そして、その告白を現在の教会の生きた言葉として響かせる場こそが、礼拝における信仰告白の講解説教なのです。

2026年8月19日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ27:15–26「バラバの釈放とイエスへの死刑判決」

 

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ27:15–26「バラバの釈放とイエスへの死刑判決」


概要

 マタイ27:15–26は、ローマ総督ピラトによるイエスの裁判の中心部分です。前段の27:11–14では、ピラトの尋問に対してイエスがほとんど沈黙していましたが、ここでは物語の焦点がイエス自身の発言から、ピラト、群衆、祭司長・長老たちの選択と責任へと移ります。
 マタイはマルコ15:6–15を基本的な資料としながら、特にピラトの妻の夢(19節)、ピラトの手洗い(24節)、そして群衆の「その血は、われわれとわれわれの子どもたちの上に」(25節)という言葉を加えています。これらによって、マタイは「イエスの無罪」と「イエスを拒絶する側の責任」を強く前景化しています。
 ただし25節は、後世の反ユダヤ主義において極めて深刻な仕方で濫用されてきた箇所です。そのため、この節をユダヤ民族全体に対する恒久的な「神殺し」の責任として読むことは、本文の物語的・歴史的文脈から慎重に区別する必要があります。

27:15

  • 原文: Κατὰ δὲ ἑορτὴν εἰώθει ὁ ἡγεμὼν ἀπολύειν ἕνα τῷ ὄχλῳ δέσμιον ὃν ἤθελον.
  • 私訳: さて、祭りのたびに、総督は群衆が望む囚人一人を彼らに釈放するのを慣例としていた。


文法解析

  • ἑορτήν:ἑορτή「祭り」女性名詞・単数・対格
  • εἰώθει:ἔθω「習慣である、慣例としている」動詞・直説法・能動態・過去完了・3人称単数
  • ἡγεμών:ἡγεμών「総督、支配者」男性名詞・単数・主格
  • ἀπολύειν:ἀπολύω「解放する、釈放する」動詞・現在・能動態・不定法
  • δέσμιον:δέσμιος「囚人、拘束された者」男性名詞/形容詞・単数・対格
  • ἤθελον:θέλω「望む、欲する」動詞・直説法・能動態・未完了過去・3人称複数

注解
  • この節では、過越祭の際に総督が囚人一人を釈放するという「慣例」が物語に導入されます(マルコ15:6も同様)。ただし、過越祭ごとにローマ総督が囚人を一人釈放したという制度については、福音書以外から明確に確認できる史料が乏しく、その歴史的実態については議論があります。一方、ローマ当局が政治的・社会的事情から恩赦や釈放を行うこと自体は知られています。また、ここで決定権を持つのは形式上ピラトです。


27:16

  • 原文: εἶχον δὲ τότε δέσμιον ἐπίσημον λεγόμενον Ἰησοῦν Βαραββᾶν.
  • 私訳: そのころ、彼らには、イエス・バラバと呼ばれる名の知れた囚人がいた。


文法解析

  • εἶχον:ἔχω「持つ、所有する」動詞・直説法・能動態・未完了過去・3人称複数
  • ἐπίσημον:ἐπίσημος「著名な、目立った、悪名高い」形容詞・男性・単数・対格


注解

  • この節には重要な本文批評上の問題があります。バラバの名前を単に「ばらば(Βαραββᾶς)」とする写本と、「イエス・バラバ)(Ἰησοῦς Βαραββᾶς)とする写本が存在します。
  • 「バラバ(Βαραββᾶς)」は一般にアラム語の bar-abbā に由来すると考えられ、「父の子」という意味に理解できます。そうすると物語上、「父の子」と呼ばれるイエス・バラバと神の子であるイエス・キリストという極めて強い対照が生じます。もっとも、マタイ自身がこの語源的対照を意図的に利用しているかどうかは慎重に判断する必要があります。
  • 「名の知れた囚人」:文脈によっては「悪名高い」と訳すことができます。マルコ15:7では、バラバが「暴動の際に殺人を犯した者たち」とともに拘束されていたと説明されますが、マタイはその具体的説明を省き、ἐπίσημοςという一語で彼が名の知られた囚人であったと述べています。

27:17

  • 原文: συνηγμένων οὖν αὐτῶν εἶπεν αὐτοῖς ὁ Πιλᾶτος· Τίνα θέλετε ἀπολύσω ὑμῖν, Ἰησοῦν τὸν Βαραββᾶν ἢ Ἰησοῦν τὸν λεγόμενον Χριστόν;
  • 私訳: そこで、彼らが集まっていると、ピラトは彼らに言った。「あなたがたは、私が誰をあなたがたに釈放することを望むのか。イエス・バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」


文法解析

  • συνηγμένων:συνάγω「集める、集まる」動詞・完了・受動態・分詞・男性・複数・属格

注解

  • ここでピラトは、群衆に明確な二者択一を提示します。「イエス・バラバ」と「キリストと呼ばれるイエス」です。16節で述べた本文を採用した場合、この場面は「バラバかイエスか」という単純な対比ではなく、「どちらのイエスを選ぶのか」という劇的な問いになります。
  • 「キリストと呼ばれている者」:この表現は27:22でも繰り返されます。「キリスト」はギリシア語 Χριστός、ヘブライ語・アラム語の「メシア」に対応し、「油注がれた者」を意味します。マタイ福音書の読者にとって、文学的に言って読者は、群衆がこれから行う選択を、単なる二人の囚人の選択としてではなく、メシアを受け入れるか拒絶するかという選択として読むことになります。

27:18

  • 原文: ᾔδει γὰρ ὅτι διὰ φθόνον παρέδωκαν αὐτόν.
  • 私訳: というのも、彼らが妬みのために彼を引き渡したことを、彼は知っていたからである。


文法解析

  • ᾔδει:οἶδα「知っている」動詞・直説法・能動態・過去完了形・3人称単数
  • φθόνον:φθόνος「妬み、嫉妬」男性名詞・単数・対格
  • παρέδωκαν:παραδίδωμι「引き渡す、委ねる、裏切る」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称複数

注解

  • この節によって、17節におけるピラトの行動の理由が説明されます。
  • 「というのも、彼は知っていたからである」:ピラトはイエスを単純にバラバと並べたのではなく、宗教指導者たちがイエスを告発した背後にφθόνος(妬み)があることを見抜いていた、とマタイは描いています。宗教指導者たちは社会的に恵まれた人たちでしたが、それでも妬みは人を支配するという実例です。
  • 「引き渡した」という語は、受難物語を貫く鍵となる語です。<ユダ → 宗教指導者 → ピラト → 処刑>という形で、イエスが次々と「引き渡されていく」構造が読み取れます。
  • 物語的には、イエスが不当に引き渡されていることを知りながら、最終的には死刑判決を認めたというピラトの責任をかえって際立たせることになります。

ここまでの15–18節では、物語の構図が整えられています。**15節で「釈放の慣例」、16節で「バラバ」、17節で「二人のイエスの選択」、18節で「指導者たちの妬みを知るピラト」**が提示されます。
続く27:19–23では、マタイ独自の「ピラトの妻の夢」が挿入されたのち、祭司長・長老たちが群衆を説得し、バラバの釈放とイエスの処刑を要求する場面へ進みます。さらに24–26節では、「手を洗うピラト」「その血はわれわれとわれわれの子どもたちの上に」という難解な25節、そして鞭打ちと十字架刑への引き渡しを詳しく扱うことになります。


27:19

  • 原文: Καθημένου δὲ αὐτοῦ ἐπὶ τοῦ βήματος ἀπέστειλεν πρὸς αὐτὸν ἡ γυνὴ αὐτοῦ λέγουσα· Μηδὲν σοὶ καὶ τῷ δικαίῳ ἐκείνῳ· πολλὰ γὰρ ἔπαθον σήμερον κατ’ ὄναρ δι’ αὐτόν.
  • 私訳: さて、彼が裁判席に座っていると、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あなたは、あの義しい人と何の関わりも持たないでください。というのも、私は今日、夢の中で彼のために多くの苦しみを受けたのです。」

文法解析

  • Καθημένου:κάθημαι「座る」動詞・現在・中動態/受動態形・分詞・男性・単数・属格
  • βήματος:βῆμα「裁判席、審判席、壇」中性名詞・単数・属格
  • ἀπέστειλεν:ἀποστέλλω「遣わす、送る」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称単数
  • λέγουσα:λέγω「言う」動詞・現在・能動態・分詞・女性・単数・主格
  • ἔπαθον:πάσχω「苦しむ、経験する」動詞・直説法・能動態・アオリスト・1人称単数σήμερον:σήμερον「今日」副詞
κατά:κατά「〜において、〜によって」前置詞+対格
ὄναρ:ὄναρ「夢」中性名詞・単数・対格
κατ’ ὄναρで「夢の中で」という慣用表現です。
διά:διά「〜のために、〜ゆえに」前置詞+対格
αὐτόν:αὐτός「彼」代名詞・男性・単数・対格

注解

  • この節はマタイ独自の挿話であり、マルコ、ルカ、ヨハネにはありません。ピラトの妻がイエスを「あの義しい人」と呼んでいますが、「道徳的に正しい」という意味だけでなく、裁判文脈では「無罪」という意味を帯びます。したがって、ここではイエスの無罪性が、ユダヤ人指導者でも弟子でもなく、異邦人であるピラトの妻によって証言されています。これまで、イエスを取り巻く者たちが次々と彼を拒絶していく一方、意外な人物がイエスの正しさを認識します。ここではその役割をピラトの妻が担っています。
  • 「あなたとあの義しい人との間には何もないように」:Μηδὲν σοὶ καὶ τῷ δικαίῳ ἐκείνῳはセム語的な慣用表現で、直訳すれば「その人に関わってはいけません」というとなります。
  • 「夢」もマタイ福音書において特徴的な神的啓示の手段です。イエスの誕生物語では、ヨセフが夢によって何度も神の指示を受けています(1:20、2:13、2:19、2:22)。したがって27:19の夢も、単なる心理現象ではなく、神的警告を示唆する物語装置として読むことができます。

27:20

  • 原文: Οἱ δὲ ἀρχιερεῖς καὶ οἱ πρεσβύτεροι ἔπεισαν τοὺς ὄχλους ἵνα αἰτήσωνται τὸν Βαραββᾶν τὸν δὲ Ἰησοῦν ἀπολέσωσιν.
  • 私訳: しかし、祭司長たちと長老たちは、バラバを求め、イエスを滅ぼすようにと、群衆を説得した。


文法解析

  • ἔπεισαν:πείθω「説得する」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称複数

  • αἰτήσωνται:αἰτέω「求める、願い求める」動詞・接続法・中動態・アオリスト・3人称複数

  • ἀπολέσωσιν:ἀπόλλυμι「滅ぼす、殺す、失わせる」動詞・接続法・能動態・アオリスト・3人称複数


注解

  • 19節でのピラトの妻の証言とは対照的に、祭司長と長老たちが群衆を動かして、イエス処刑を達成しようとします。よって、マタイ福音書においてはマルコ福音書とやや異なり、群衆の要求は自発的なものとしてではなく、指導者たちの働きかけによって形成されたものとして描かれています。
  • イエスとバラバの二者を対照的に配置する文学的技巧が、ここでも見られます。これにより皮肉がもたらされ、群衆は「罪を犯して拘束されている者」を解放し、一方で「義しい者」を滅ぼすことを求めます。不条理の只中に置かれるイエスの姿は読者に対して、例えば迫害のような理不尽な状況にあるとき、イエスの姿を思い起こせと伝えているようです。

27:21

  • 原文: ἀποκριθεὶς δὲ ὁ ἡγεμὼν εἶπεν αὐτοῖς· Τίνα θέλετε ἀπὸ τῶν δύο ἀπολύσω ὑμῖν; οἱ δὲ εἶπαν· Τὸν Βαραββᾶν.
  • 私訳: そこで総督は彼らに答えて言った。「この二人のうち、どちらを私があなたがたに釈放することを望むのか。」彼らは言った。「バラバを。」


文法解析

  • ἀπολύσω:ἀπολύω「釈放する」動詞・接続法・能動態・アオリスト・1人称単数


注解

  • ピラトは17節ですでにほぼ同じ問いをしていますが、ここでもう一度、「どちらを望むのか」と問い直します。この反復により、群衆には選択肢が繰り返し与えられながらも、最終的には自ら決断していったことが強調されています。
  • 「バラバを。」:ここでは動詞すら省略されていますが、それだけ非常に短い返答であるだけに、群衆の選択の断固たる側面が際立ちます。
  • 「この二人のうち」:二人が明確に比較対象として並べられています。16–17節で「イエス・バラバ」という本文を採用する場合、ここでも読者は「二人のイエス」の対比を意識することになります。
  • マタイの物語では、群衆はかつてイエスを歓迎していました。21:9ではエルサレム入城の際、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいます。しかしここではバラバを選びます。ただし、21章の群衆と27章の群衆が厳密に同一人物集団であると本文が明示しているわけではありません。したがって「同じ群衆が数日で完全に態度を変えた」と根拠が明確でないままに単純化するよりも、マタイが群衆という物語的主体の不安定さを描いている、と理解する方が慎重です。

27:22

  • 原文: λέγει αὐτοῖς ὁ Πιλᾶτος· Τί οὖν ποιήσω Ἰησοῦν τὸν λεγόμενον Χριστόν; λέγουσιν πάντες· Σταυρωθήτω.
  • 私訳: ピラトは彼らに言う。「それでは、キリストと呼ばれるイエスを、私はどうしたらよいのか。」彼らは皆言う。「十字架につけられよ。」


文法解析

  • ποιήσω:ποιέω「する、行う」動詞・接続法・能動態・アオリスト・1人称単数熟議的接続法で、「私はどうしたらよいのか」という問いです。
  • Σταυρωθήτω:σταυρόω「十字架につける」動詞・命令法・受動態・アオリスト・3人称単数

注解

  • ここでピラトは二つ目の問いを発します。第一の問いは、「どちらを釈放するか」でした。第二の問いは、「では、イエスをどうするのか」です。この問いに対して群衆は、「十字架につけられよ」と答えます。この十字架刑はローマ帝国における極めて苛酷で屈辱的な処刑方法でした。したがって群衆は単に「死刑にせよ」と要求しているのではなく、ローマ的な十字架刑を明示的に要求しています。
  • また、ピラトは再びイエスを「キリストと呼ばれる者」と呼びます。この表現は17節と同じです。これによってマタイは、群衆に突きつけられている選択が単なる囚人処遇の問題ではなく、「キリストと呼ばれるイエスをどうするのか」という神学的問いであることを読者に意識させています。

27:23

  • 原文: ὁ δὲ ἔφη· Τί γὰρ κακὸν ἐποίησεν; οἱ δὲ περισσῶς ἔκραζον λέγοντες· Σταυρωθήτω.
  • 私訳: しかし彼は言った。「いったい、彼はどんな悪いことをしたのか。」しかし彼らはますます激しく叫んで言った。「十字架につけられよ。」


文法解析

  • ἔφη:φημί「言う」動詞・直説法・能動態・未完了過去・3人称単数
  • περισσῶς:περισσῶς「ますます、非常に、激しく」副詞
  • ἔκραζον:κράζω「叫ぶ、大声を上げる」動詞・直説法・能動態・未完了過去・3人称複数λέγοντες:λέγω「言う」動詞・現在・能動態・分詞・男性・複数・主格

注解

  • ピラトはここで初めて、イエスに対する具体的な罪状を問い返します。「いったい、彼はどんな悪を行ったのか。」これは非常に重要な問いです。これまでイエスは政治的な反逆者であるかのように訴えられてきましたが、ここではピラト自身が、処刑に値する具体的犯罪を見いだせない状態にあります。したがって19節のピラトの妻の「あの義しい人」という証言と、23節のピラト自身の「どんな悪を行ったのか」という問いが対応しています。こうしてマタイは、イエスの無罪性を二重に強調しています
  • 群衆は、罪状を提示しません。代わりに、「ますます激しく叫んでいた」と描写されます。前節の「言った」から「叫んだ」へとヒートアップしています。議論が理性的な司法判断から群衆の圧力へと移行していることが示されます。こうしてピラトは、要求から圧力へとエスカレートした群衆の熱狂ぶりに晒されることになりました。

27:24

  • 原文: ἰδὼν δὲ ὁ Πιλᾶτος ὅτι οὐδὲν ὠφελεῖ ἀλλὰ μᾶλλον θόρυβος γίνεται, λαβὼν ὕδωρ ἀπενίψατο τὰς χεῖρας ἀπέναντι τοῦ ὄχλου λέγων· Ἀθῷός εἰμι ἀπὸ τοῦ αἵματος τούτου· ὑμεῖς ὄψεσθε.
  • 私訳: しかしピラトは、何の効果もなく、むしろ騒動になりつつあるのを見て、水を取って群衆の前で両手を洗いながら言った。「私はこの血について無罪である。あなたがた自身が見るがよい。」


文法解析

  • ὠφελεῖ:ὠφελέω「益する、役に立つ、効果がある」動詞・直説法・能動態・現在・3人称単数

  • θόρυβος:θόρυβος「騒動、騒乱、騒ぎ」男性名詞・単数・主格
  • γίνεται:γίνομαι「生じる、なる」動詞・直説法・中動態・現在・3人称単数
  • λαβών:λαμβάνω「取る、受け取る」動詞・アオリスト・能動態・分詞・男性・単数・主格
  • ὕδωρ:ὕδωρ「水」中性名詞・単数・対格
  • ἀπενίψατο:ἀπονίπτω「洗い清める、洗う」動詞・直説法・中動態・アオリスト・3人称単数
  • Ἀθῷος:ἀθῷος「無罪の、潔白な」形容詞・男性・単数・主格。εἰμιの補語です。
  • ὄψεσθε:ὁράω「見る」動詞・直説法・中動態・未来・2人称複数。慣用的に「あなたがた自身で処理せよ」「あなたがたの責任だ」という意味になります。


注解

  • ここでピラトは、イエスを釈放しようとする試みを断念します。その直接の理由として示されるのが、「むしろ騒動が生じつつある」という状況です。θόρυβοςは単なる騒がしさではなく、「騒乱」「暴動」にまで発展しうる社会的混乱を意味する語です。ローマ総督にとって、属州の治安維持は重要な責務でした。したがってマタイは、ピラトが正義そのものよりも、群衆の騒乱を避けることを優先したと描いています。
  • ここでピラトは水を取って手を洗います。「彼は両手を洗った」という行為は、象徴的な無罪宣言です。旧約聖書にも、流血の責任からの潔白を象徴する「手を洗う」行為があります。申命記21:6–7では、犯人不明の殺人があった場合、長老たちが犠牲の上で手を洗い、「われわれの手はこの血を流していない」と宣言します。また詩編26:6にも「私は潔白のうちに手を洗う」という表現があります。したがってマタイの描写には、ユダヤ的な潔白宣言のイメージが響いている可能性があります。

27:25

  • 原文: καὶ ἀποκριθεὶς πᾶς ὁ λαὸς εἶπεν· Τὸ αἷμα αὐτοῦ ἐφ’ ἡμᾶς καὶ ἐπὶ τὰ τέκνα ἡμῶν.
  • 私訳: すると民全体が答えて言った。「彼の血は、私たちの上に、そして私たちの子どもたちの上に。」


注解

  • この節は、マタイ福音書の中でも特に慎重に解釈しなければならない箇所です。群衆は、「彼の血は私たちの上に」と答えます。この表現は、聖書においてしばしば流血に対する責任を負うことを意味します。たとえばサムエル記下1:16では「あなたの血はあなたの頭に帰する」という表現が用いられています。したがってここでは群衆が、ピラトが放棄しようとした流血の責任を、自分たちが負うと宣言している構図になっています。
  • この表現は歴史上、ユダヤ人全体がイエスの死について永続的・民族的責任を負っているという形で解釈され、反ユダヤ主義や迫害を正当化するために利用されてきました。しかし、そのような読み方は本文を不当に一般化するものです。
  • ここで発言しているのは、物語世界の特定の場面に集まったλαόςです。マタイがすべての時代の全ユダヤ人に民族的罪責を宣告している、と読む根拠はありません。特定民族への永久的な呪詛として固定することは、福音書全体の射程とも整合しません。


27:26

  • 原文: τότε ἀπέλυσεν αὐτοῖς τὸν Βαραββᾶν, τὸν δὲ Ἰησοῦν φραγελλώσας παρέδωκεν ἵνα σταυρωθῇ.
  • 私訳: そのとき、彼は彼らにバラバを釈放した。しかしイエスを鞭打った後、十字架につけられるために引き渡した。


文法解析

  • ἀπέλυσεν:ἀπολύω「解放する、釈放する」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称単数αὐτοῖς:αὐτός「彼らに」代名詞・男性・複数・与格
  • παρέδωκεν:παραδίδωμι「引き渡す、渡す」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称単数

注解

  • この節で、バラバとイエスの運命が完全に分岐します。「バラバを釈放した」のに対し、「しかしイエスを引き渡した」と記されます。ここには15節以来の物語が結論に達しています。一人の囚人が解放され、もう一人が死へと引き渡されます。
  • 神学的に印象的なのは、罪ある囚人が解放され、義しいイエスがその代わりに死へ赴くという構図です。ただし、本文そのものがバラバを贖罪論の直接的な象徴として説明しているわけではありません。したがって、代償的贖罪との結びつきは説教的・神学的展開としては可能ですが、まずは物語上の逆転として把握する必要があります。
  • 「鞭打つ」:φραγελλόω:はラテン語 flagellum に由来する語で、ローマ式の鞭打ちを指します。軽い懲罰ではなく、十字架刑に先立つ鞭打ちは、受刑者の身体を著しく衰弱させる苛酷な処置でした。マタイはその詳細を描写せず、一語で簡潔に記しています。この簡潔さは受難物語全体の特徴でもあります。福音書は身体的苦痛を詳細に描写することよりも、イエスが誰によって、なぜ、どのように拒絶されていくのかという神学的・物語的意味に重点を置いています。
  • 「再び引き渡した」:「引き渡す」という動詞が使われます。マタイの受難物語では、παραδίδωμιが繰り返されています。ユダがイエスを祭司長たちに引き渡し、宗教指導者たちがピラトに引き渡し、最後にはピラトがイエスを十字架刑へ引き渡します。つまりイエスは、人間の手から人間の手へと「引き渡され」続けています。
  • しかしマタイ福音書全体の神学から見るならば、この人間的な引き渡しの連鎖の背後で、イエスは受難を予告し、自らエルサレムへ進んできました。したがって、イエスは単に事件に巻き込まれた犠牲者ではなく、受難を知りつつ自らその道を歩んでいる人物として描かれています。

27:15–26全体のまとめ

 このペリコーペは、「誰を選ぶのか」という問いを中心に構成されています。バラバは釈放され、イエスは十字架へ向かいます。ピラトはイエスの罪を見いだせず、妻もイエスを「義しい人」と呼びます。それにもかかわらず、祭司長・長老たちの働きかけ、群衆の要求、そしてピラトの政治的妥協によって、無罪のイエスに死刑が決定されます。
 したがって、この箇所の中心は単純な「ユダヤ人対イエス」という構図ではありません。むしろ、宗教的権力、群衆心理、政治的権力がそれぞれ異なる仕方でイエスの死に関与する場面です。そしてその中心には、「キリストと呼ばれるイエスをどうするのか」(22節)という問いがあります。これは物語中のピラトの問いであると同時に、マタイが読者自身に突きつけている問いとしても読むことができます。

<マタイ27:15-26の注解をもとにしての説教の結びとして>

 マタイ27章のこの場面は、単なる歴史的事件の記録ではなく、私たち一人ひとりに向けられた問いとして響きます。ピラトは「キリストと呼ばれるイエスを、私はどうしたらよいのか」と問いました。これは、裁判の場に立つ総督だけの問いではありません。マタイはこの問いを、時代を越えて読む者の胸に置いています。
 この物語には、さまざまな人々が登場します。妬みによってイエスを引き渡した宗教指導者たち。説得され、熱狂し、叫び声を上げた群衆。
正しさを知りながら、騒乱を恐れて妥協したピラト。そして、夢によって「義しい人」を見抜いたピラトの妻。それぞれが異なる理由でイエスを拒み、あるいはイエスを見捨てました。しかし、どの人物も「イエスをどうするか」という問いから逃れることはできませんでした。
 私たちも同じです。イエスを歓迎する時もあれば、群衆のように別のものを選んでしまう時があります。ピラトのように、正しいと知りながら沈黙してしまう時があります。あるいは、指導者たちのように、自分の立場や思いに固執してしまうこともあります。
 しかし、この物語の中心にあるのは、イエスが「義しい方」でありながら、拒絶され、引き渡され、十字架へ向かわれたという事実です。
罪ある者が釈放され、義しい方が死へと渡される――この逆転は、神の救いの働きがどのように進むのかを示しています。人間の妬み、群衆の熱狂、政治的妥協のただ中で、神の御子は沈黙しつつ、救いの道を歩まれました。だからこそ、マタイの物語は私たちに問いかけます。
 「あなたは、キリストと呼ばれるイエスをどうするのか。」
 この問いは、私たちの信仰生活の中心に置かれ続ける問いです。イエスを選ぶとは、ただ「信じます」と言うことだけではなく、妬みや恐れや沈黙に支配されそうになる日々の中で、イエスの道を選び直すことです。バラバが釈放され、イエスが十字架へ向かわれたその日、神は人間の不条理のただ中で救いを進められました。今日も同じです。私たちの弱さや迷いのただ中で、主はなお私たちを招いておられます。
「キリストと呼ばれるイエスを、あなたはどうするのか。」
 この問いに、私たちが日々応答し続ける者でありたいと願います。
 主の十字架の前に立ち、義しい方を選び取る信仰の歩みへと導かれますように。

2026年8月16日日曜日

天理教・金光教・大本 近代日本の神道系新宗教三教団比較

 

<関連動画>
【新宗教解説シリーズ】教派神道(十三派)──幕末・明治期の民衆宗教の誕生と国家統制の歴史
https://youtu.be/jQTLvwNUZ2s

【新宗教・新興宗教解説】天理教の歴史、教祖 中山みきの足跡
https://youtu.be/_movmH6J3RA

【新宗教・新興宗教解説】金光教——大本、天理教と共に日本の新宗教の最古参の一つ

【新宗教・新興宗教解説】大本(大本教、おおもと/おほもと) ーPL、世界救世教の岡田茂吉、崇教真光、生長の家などに影響を与えた教団

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天理教・金光教・大本
近代日本の神道系新宗教三教団比較 レジュメ

1. 概要
天理教・金光教・大本は、いずれも幕末から明治初期にかけて成立した神道系新宗教である。教祖が神懸りや自動書記といった特異な霊的体験を経て神意を伝える媒介者として立教した点、そして飢饉・疫病・身分制の揺らぎといった社会不安のなかで求心力を持った点が共通する。

2. 三教団の共通点
・ 教祖の特異な霊的体験(神懸り・神示・憑依)を経て、神意を伝える媒介者として立教
・ 近世末期〜近代初期の社会不安(飢饉・疫病・身分制の揺らぎ)を背景に、神意を直接伝える人物への需要が拡大
・ 多神教的な神道の枠を超えた根源神・絶対神を中心に据える
・ 教祖の語り・神示がのちに教団によって体系化され、聖典として整備された

3. 三教団の相違点
(1) 国家との関係
天理教・金光教は幕末〜明治初期成立の神道系教団として国家神道との親和性が高く、政府の宗教統制に従うことで教派神道に組み込まれ、国家公認を得た。一方、大本は終末論・世界改造思想が強く、王仁三郎のカリスマ性と政治的影響力が国家神道と競合する脅威とみなされ、1921 年と 1935 年の二度にわたり大弾圧(大本事件)を受けた。

(2) 教義の方向性
・ 天理教:「陽気ぐらし」思想のもと、病気や苦難を心のほこりの反映と捉える生活倫理中心の穏やかな教え
・ 金光教:「助け合い」「立教神伝」を掲げ、神と人との相互関係や祈願・取次ぎの実践を
重視
・ 大本:『霊界物語』に象徴される壮大な宇宙論と予言・世界改造思想を軸に、普遍主義的な世界宗教化を志向

(3) 発展の形
・ 天理教:天理市という都市を形成し、教育機関や病院など社会事業も展開する大規模教団に発展
・ 金光教:大規模化よりも地域密着型で「取次ぎ」の実践を重視し続けた
・ 大本:王仁三郎の指導のもと国際的な活動に広がり、植芝盛平が本拠地・綾部で学んだことから合気道の源流としても知られるなど、芸術・武道への文化的影響も大きい

まとめ
天理教・金光教は国家神道体制に適合し国家公認を得て発展した「体制内」型の教団であるのに対し、大本は終末論・世界改造思想ゆえに国家と衝突し弾圧を受けながらも、国際性・文化的影響力という独自の広がりを見せた点に、三教団の分岐点が最も鮮明に表れている。

2026年8月12日水曜日

【新宗教解説シリーズ】教派神道(十三派)──幕末・明治期の民衆宗教の誕生と国家統制の歴史

 

ーーーレジュメーーー

【新宗教解説シリーズ】教派神道(十三派)──幕末・明治期の民衆宗教の誕生と国家統制の歴史

 江戸時代後期になると、既成の神道や仏教では民衆の宗教的・精神的(現代風に言えばスピリチュアルブーム的な)ニーズに十分応えられなくなり、新たな信仰運動が各地で生まれるようになった。幕末から明治初期にかけては、多くの場合、教祖の宗教的・霊的体験を契機として形成された宗教集団が相次いで誕生した。

 これらのうち、明治政府によって神道系教団として公認された13教団を総称して「教派神道」という。公認とは国家が教義を推奨したという意味ではなく、教団を法的に位置づけ、国家神道体制の下で管理・監督することを目的としていた。明治政府は、宗教団体が社会的・政治的影響力を持つ可能性を警戒し、制度の中に組み込むことで統制を図った。

 教派神道十三派の中でも、天理教・金光教・黒住教は現在でも比較的規模が大きく、広く知られている教団である。

特徴
・教祖の宗教的・霊的体験(神がかり、神託、病気平癒など)を教団成立の契機とする。
・伝統的な神社神道には見られない独自の教義・教典・倫理的実践を備える。
・信仰共同体としての組織を持ち、布教活動を積極的に行う。

 明治政府は、これらの教団が社会的・政治的影響力を持つ可能性を考慮し、国家神道体制のもとで制度的に管理・監督した。ただし、教派神道そのものが一律に弾圧されたわけではない。

教派神道十三派の内訳
神道大教(しんとうたいきょう)
神理教(しんりきょう)
出雲大社教(いずもおおやしろきょう)
神道修成派(しんとうしゅうせいは)
神道大成教(しんとうたいせいきょう)
実行教(じっこうきょう)
扶桑教(ふそうきょう)
御嶽教(おんたけきょう)
神習教(しんしゅうきょう)
禊教(みそぎきょう)
黒住教(くろずみきょう)
金光教(こんこうきょう)
天理教(てんりきょう)

第二スイス信仰告白 日本語訳

  第二スイス信仰告白 日本語訳  第二スイス信仰告白 (1566年) ハインリヒ・ブリンガーおよびスイス諸教会の信仰告白 訳者注: 本訳は、ブリンガーによる1566年の原文(ラテン語、および同年発表のドイツ語版)を典拠とし、パブリックドメインである英訳(フィリップ・シ...