大石アーカイブス
2026年8月26日水曜日
第二スイス信仰告白 日本語訳
【新宗教解説シリーズ】佛所護念会教団──法華経・日蓮宗系なのに伊勢神宮・靖国参拝もする在家仏教教団
- 成立:1950年(昭和25年)10月30日
- 創立者:関口嘉一(初代会長)・関口トミノ(二代会長)夫妻
- 本部所在地:東京都港区白金台2-1-1
- 信徒数:923,811人(2023年度末、文化庁『宗教年鑑』)
- 系統:日蓮系・法華経系の新宗教
- 経典:法華三部経(無量義経・妙法蓮華経・観普賢菩薩行法経(かんふげんぼさつぎょうほうきょう))
- 特徴:寄付・賽銭を一切受け取らず、月会費のみで運営する独自方針
- 関口嘉一 15歳で上京。(14歳で上京、15歳で北海道に渡り、病気で新潟に戻るとも)
- 1923年 関口自転車店を開業。
- 1924年頃 妻・トミノと結婚。
- 結婚からまもなく、長女を授かるが夭逝。
- 1933年 かつての長女の死や長男病弱もあって、妻トミノの信仰の導きにより、霊友会に入信。
- 1935年 霊友会第6支部長になったが、霊友会の共同募金横領・脱税事件を契機に離脱
- 1950年 独立して新教団である佛所護念会教団を設立。
- 法華経見宝塔品(ほけきょうけんほうとうほん)に示される平等大慧(びょうどうだいえ)、教菩薩法(きょうぼさつほう)、佛所護念の精神を中心に、法華経による在家先祖供養を実践。行い、布教活動を展開。毎年伊勢神宮に参拝を行う。
- 法華経見宝塔品(ほけきょうけんほうとうほん):『法華経』の中の「見宝塔品」という章で、仏の教えの尊さと平等性を象徴する場面が描かれます。宝塔(ほうとう)は真理の象徴。
- 平等大慧(びょうどうだいえ):すべての人が仏性(ぶっしょう)を持ち、差別なく悟りに至る智慧(ちえ)を持つという考え。仏教の根本的な平等観を表す。
- 教菩薩法(きょうぼさつほう):菩薩(ぼさつ)が他者を導くために行う教えの実践。自分だけでなく他人の救いを目指す慈悲の行動。
- 佛所護念(ぶっしょごねん):仏が衆生(しゅじょう)を常に守り、念(おも)っているという教え。信仰者が仏の加護を受けているという安心感を意味する。
- 在家先祖供養(ざいけせんぞくよう):出家せず家庭にいる信者(在家)が、法華経の教えに基づいて先祖を供養すること。家庭の中で仏教を実践する形。
- 1953年 本部講堂完成
- 1963年より神宮の式年遷宮の奉賛をすすめる。明治神宮、靖国神社への参拝も行う。
- 建国記念の日奉祝を打ち出し、靖国神社国家護持を主張している。
- 2015年11月、さいたまスーパーアリーナで創立65周年式典を挙行。
- 法華経の実践を最重視する。日常生活で法華経を読み、先祖供養を行うことを基本とする。
- 伊勢神宮や身延山久遠寺、明治神宮への参拝行事を行う。
- 創立以来、会員からの寄付・賽銭を一切受け取らず、月々の会費のみで運営する方針を貫いている(公式サイトで明言)。
- 自宅での先祖供養(読経)
- 本部・教会での修養会への参加
- 会報『佛所護念』の発行(毎月)
- 国内14教会・海外1教会(台湾教会)を展開
- 参議院の全国区・比例区選挙で、大竹平八郎、鳩山威一郎、藤井裕久、尾辻秀久、有村治子、衛藤晟一、山谷えり子ら複数候補を支援してきた記録がある。
- 日本会議との関係について、AERA編集部の取材に対し教団は「皇室仰慕(ぎょうぼ)の諸活動や英霊の慰霊顕彰など、教団の考えに合う取り組みについて、その趣旨に賛同する会員に協力を呼び掛けている」と回答している。
説教や聖書研究をする信徒のための聖書注解 マタイ27:27-31「兵士たちによるイエスの嘲弄」
説教や聖書研究をする信徒のための聖書注解
マタイ27:27-31「兵士たちによるイエスの嘲弄」
概要
注解
27:27
文法解析
- Τότε:τότε「そのとき」副詞
- 時を示す副詞です。直前のピラトによる判決と鞭打ち(27:26)を受け、その後に起こった出来事を導入しています。
- οἱ στρατιῶται:στρατιώτης「兵士」男性・複数・主格
- παραλαβόντεςおよびσυνήγαγονの主体です。
- τοῦ ἡγεμόνος:ἡγεμών「総督、支配者」男性・単数・属格
- παραλαβόντες:παραλαμβάνω「引き取る、連れて行く」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
- τὸ πραιτώριον:πραιτώριον「総督官邸、プラエトリウム」中性・単数・対格。ラテン語 praetorium に由来する語です。
- συνήγαγον:συνάγω「集める」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
- ἐπ’ αὐτόν:ἐπί+αὐτός「彼のところに、彼の周りに」前置詞+男性・単数・対格
- ὅλην:ὅλος「全体の、すべての」女性・単数・対格
- τὴν σπεῖραν:σπεῖρα「部隊、軍団の一部、コホルス」女性・単数・対格
注解
- 27節から、場面はピラトによる正式な裁判から、ローマ兵によるイエスへの嘲弄へと移ります。27:26ではピラトがイエスを鞭打った後、「十字架につけるために引き渡した」と記されましたが、実際の十字架刑に向かう前に、27–31節の嘲弄場面が挿入されています。
- 「イエスを引き取って」:ここでイエスはローマ兵の支配下に置かれます。
- 「総督官邸」:ラテン語 praetorium に由来し、総督の滞在・執務場所を指します。エルサレムにおけるその正確な所在地については議論がありますが、物語の進行上の要点は、イエスがユダヤ人指導者や群衆の前からローマ兵の内部空間へ移されたという点です。
- 「部隊」:ローマ軍の cohors に相当する語として用いられています。本来の編制上は数百人規模を指し得ますが、ὅλην τὴν σπεῖρανを「文字どおり全員が集合した」と厳密に理解する必要はありません。多数の兵士がイエスを取り囲み、集団的な嘲弄が始まったことが強調されていると思われます。
27:28
文法解析
- ἐκδύσαντες:ἐκδύω「脱がせる」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
- αὐτόν:αὐτός「彼」男性・単数・対格
- ἐκδύσαντεςの目的語で、イエスを指します。
- χλαμύδα:χλαμύς「外套、マント」女性・単数・対格
- περιέθηκανの目的語です。特に兵士などが用いる短い外套を指すことがあります。
- κοκκίνην:κόκκινος「緋色の、深紅色の」女性・単数・対格
- χλαμύδαを修飾します。
- περιέθηκαν:περιτίθημι「周りに置く、身につけさせる」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
- περί+τίθημιからなる動詞で、「周囲に置く」から「着せる」という意味になります。
注解
- 兵士たちはまずイエスの衣服を脱がせ、代わりに「緋色の外套」を着せます。
- 軍人などが着用した短い外套を意味します。したがって、兵士たちは手近にあった軍用の外套をイエスに着せ、それを王の衣装に見立てたと考えられます。
- マタイが色をκοκκίνην「緋色の」とする点は注目されます。マルコ15:17およびヨハネ19:2では紫色を意味するπορφύρα/πορφυροῦνが用いられています。古代における赤・緋・紫の色彩表現には幅があり、ここから必ずしも矛盾を想定する必要はありません。いずれにしても、王侯を連想させる色の衣服を用いてイエスを「王」に仕立てているということです。当然、兵士たちはイエスを真の王としてそのように行なっているわけではありません。
- しかし、そこに大きな逆説があります。兵士たちは「偽の王」としてイエスを嘲弄しますが、マタイ福音書は冒頭からイエスをダビデの子、メシアとして提示してきました(1:1)。つまり、兵士たちが嘲って演じている「王の即位」が、物語の神学的次元では真実を指し示すことになります。
27:29
文法解析
- πλέξαντες:πλέκω「編む、編み合わせる」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
- στέφανον:στέφανος「冠、花冠」男性・単数・対格
- 王冠そのものを意味するδιάδημαとは異なり、花輪・勝利者の冠などにも用いられる語です。
- ἀκανθῶν:ἄκανθα「茨、とげのある植物」女性・複数・属格
- ἐπέθηκαν:ἐπιτίθημι「上に置く、載せる」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
- κεφαλῆς:κεφαλή「頭」女性・単数・属格
- κάλαμον:κάλαμος「葦、葦の棒」男性・単数・対格。王の笏を模したものです。
- δεξιᾷ:δεξιός「右の」女性・単数・与格、名詞的用法。「右手に」という意味です。χείρ「手」が省略されています。
- γονυπετήσαντες:γονυπετέω「ひざまずく」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格。γόνυ「ひざ」とπίπτω「倒れる」に関連する語です。王に対する臣下の礼を模倣しています。
- ἔμπροσθεν:ἔμπροσθεν「~の前で」前置詞的副詞+属格
- ἐνέπαιξαν:ἐμπαίζω「嘲る、からかう」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
- Χαῖρε:χαίρω「喜ぶ、喜べ」現在・能動・命令法・2人称単数。挨拶としては「ごきげんよう」「万歳」に相当します。皇帝や王への歓呼を模倣した表現です。
- βασιλεῦ:βασιλεύς「王」男性・単数・呼格
注解
- この節では「偽りの即位式」が執り行われています。兵士たちは、①王の衣に相当する緋色の外套、②王冠に相当する茨の冠、③王笏に相当する葦、④臣下の跪拝、⑤王への歓呼、という一連の要素を用いてイエスを嘲弄しています。
- 「茨の冠」:その目的がイエスに肉体的苦痛を与えることだったのか、王冠を戯画化することだったのか、本文だけからは断定できません。「王冠のパロディー」として機能していることは確かです。
- 「葦」:王の笏を模しています。王の権威を象徴する笏の代わりに、折れやすい葦を持たせることによって、「お前の王権など見せかけだ」という嘲笑が表現されています。
- 「ひざまずいて」:本来、王の前にひざまずくことは服従と敬意の表現です。しかし兵士たちはそれを演技として行っています。
- 「ごきげんよう、ユダヤ人の王よ」:Χαῖρεは日常的には「こんにちは」「ごきげんよう」という一般的挨拶ですが、この場面では王への歓呼として機能しています。「ユダヤ人の王、万歳」といったニュアンスを持つと考えることもできます。
- ここにはマタイ特有の強烈な皮肉が込められています。兵士たちはイエスが王ではないと思っているからこそ「ユダヤ人の王よ」と嘲ります。しかし読者は、イエスがメシアなる王であることを知っています。さらにマタイ福音書では、イエスに対する「ひざまずく」という行為が重要な意味を持ちます。たとえば東方の博士たちは幼子イエスにひざまずいてして礼拝しました(2:11)。しかしここでは、兵士たちは偽りの礼拝を行います。そして復活後には弟子たちが復活したイエスを礼拝します(28:17)。したがって27:29は、「偽りの礼拝」と「真の王権」という逆説が交差する場面となっています。
27:30
文法解析
- ἐμπτύσαντες:ἐμπτύω「唾を吐きかける」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
- ἔτυπτον:τύπτω「打つ、殴る」未完了・能動・直説法・3人称複数。未完了形であることが重要で、一回だけ打ったというより、「打ち続けていた」「繰り返し打った」という継続・反復的な行為を示唆します。
注解
- 29節までは「王の即位式」の戯画という性格が前面に出ていましたが、30節では嘲弄が露骨な身体的暴力へと移ります。
- 「唾を吐きかける」:単なる不快な行為ではなく、古代世界において強い侮辱を表す行為です。イエスはすでに大祭司の前でも唾を吐きかけられています。「それから彼らはイエスの顔に唾を吐きかけ……」(26:67)。したがってマタイでは、ユダヤ人指導者側の人々による嘲弄と、ローマ兵による嘲弄が並行しています。
- 「葦を取って」:29節で「王笏」として持たされていたκάλαμοςが、今度はイエスを殴る道具になっています。ここで特に注目すべき文法はἔτυπτονです。これはアオリストではなく未完了形です。直前のἔλαβον「彼らは取った」はアオリストですが、その後の「打つ」は未完了形となっています。したがって、「葦を取った。そして彼の頭を打ち続けた」というニュアンスを持ちます。また、茨の冠がすでに頭に載せられている状態で頭部を打たれたとすれば、肉体的苦痛も伴ったと考えられます。
27:31
文法解析
- ἐνέδυσαν:ἐνδύω「着せる、身につけさせる」アオリスト・能動・直説法・3人称複数。ἐκδύω「脱がせる」と対をなしています。
- τὰ ἱμάτια:ἱμάτιον「衣服、衣」中性・複数・対格
- ἀπήγαγον:ἀπάγω「連れて行く、引いて行く」アオリスト・能動・直説法・3人称複数。ἀπό+ἄγωからなる動詞です。
- τὸ σταυρῶσαι:σταυρόω「十字架につける」アオリスト・能動・不定詞+中性・単数・対格の冠詞
注解
- 31節は27–30節の嘲弄場面を閉じ、実際の十字架刑へ物語を移行させる節です。一連の「偽りの即位式」がここで終了します。
- 「彼自身の衣服を着せ」:兵士たちはχλαμύςを脱がせ、イエス自身のἱμάτιαを再び着せます。
- 27:27–31全体を通して注目すべきなのは、イエスがほとんど何も語らないことです。兵士たちが、「連れて行く」「集める」「脱がせる」「着せる」「冠を載せる」「葦を持たせる」「ひざまずく」「嘲る」「唾を吐く」「打つ」「再び着せる」
イエスは抵抗せず、言い返さず、ただ沈黙のまま受け続けます。彼は奪われ、着せられ、載せられ、持たされ、打たれ、連れて行かれる――すべて受動の主体として描かれています。しかしその沈黙こそ、神の子が自ら選び取った「王としての道」でありました。力による支配ではなく、辱めと苦難を通して人を救う王。暴力によってではなく、徹底した従順によって神の御心を成し遂げる王。茨の冠を戴くことによって、罪と死の力を打ち破る王。
兵士たちが跪いたのは嘲笑のためでした。しかし復活の朝、弟子たちは真実の礼拝としてイエスの前に跪きました。兵士たちが叫んだ「ユダヤ人の王よ」は侮辱でしたが、復活の主を前にした教会は「主よ、王よ」と心から告白します。嘲弄の場面は、神の国の王がどのような王であるかを逆説的に示す啓示の場となっています。
私たちもまた、しばしばこの世界の価値観の中で「王らしくない王」を見失いがちです。力、成功、名誉――そうしたものが王のしるしだと思ってしまう。しかし、茨の冠を戴いた主は、私たちに別の道を示します。弱さの中に働く神の力、沈黙の中に宿る神の愛、辱めの中で輝く神の栄光。主はその道を歩み切り、十字架へと向かわれました。
「あなたはどの王に跪くのか。」
外側の栄光をまとった王か、それとも茨の冠を戴き、あなたのために沈黙してくださった王か。
主イエスは、嘲られ、打たれ、沈黙しながらも、あなたの救いのために王として歩み続けました。
この王にこそ、私たちは心から跪き、従い、礼拝する者とされたいと願います。
2026年8月21日金曜日
<レジュメ版と文章版>信条・信仰告白の講解説教 ――1890年「信仰ノ告白」を中心に
- ウェストミンスター信仰告白
- ウェストミンスター小教理問答
- ハイデルベルク信仰問答
- ドルト信仰規準
| 構成 | 内容 | 神学的主題 |
| ① | 我等が神と崇むる主耶蘇基督 | キリスト告白 |
| ② | 神の子が人となる | 受肉 |
| ③ | 罪のために完全な犠牲を献げる | 贖罪 |
| ④ | 信仰によってキリストと一体となる | キリストとの結合 |
| ⑤ | 赦され、義とされる | 罪の赦し・義認 |
| ⑥ | 信仰が愛によって働き、心を清める | 聖化・信仰生活 |
| ⑦ | 父・子と共に聖霊を礼拝する | 三位一体 |
| ⑧ | 聖霊がキリストを現す | 聖霊論 |
| ⑨ | 聖霊の恵みによって神の国に入る | 救済論 |
| ⑩ | 預言者・使徒・聖徒に働く聖霊 | 啓示・教会 |
| ⑪ | 新旧約聖書に語る聖霊 | 聖書論 |
| ⑫ | 聖徒に伝えられた信仰 | 信仰の継承 |
| ⑬ | 使徒信条 | 公同教会との一致 |
↓
救い(キリストとの結合、贖罪、義認)
↓
聖霊(三位一体論、信徒とされて以降の救済論)
↓
聖書(聖霊による歴史介入と霊感、聖書の正典性)
↓
歴史的教会(信仰の継承)
↓
現在の教会の告白(教会の伝統との連続性)
信条・信仰告白の講解説教
――1890年「信仰ノ告白」を中心に
1.信条・信仰告白を説教するということ
信条や信仰告白は、キリスト教の教理・教義を簡潔にまとめただけのものではありません。それらの多くは、教理をめぐる論争、異端とされた思想との対立、教派間の競合、あるいは社会や国家との緊張など、具体的な歴史的状況のなかで形成されてきました。
したがって、信条や信仰告白を講解する場合には、まず次のように問う必要があります。
なぜ、その時代の教会は、その内容をあえて告白しなければならなかったのでしょうか。
ここでいう「信条」とは、キリスト教会が共有する基本的な信仰内容を簡潔に定式化し、「われらは信ず」と公に告白するものです。使徒信条のように、礼拝、洗礼、信仰教育などにおいて唱えられることが多く、教会の公同的な信仰を表明します。ただし、アタナシオス信条のように、比較的長いものもあります。
これに対して「信仰告白」とは、教会や教派が、特定の歴史的状況のもとで、自らの信仰的立場を具体的に表明するものです。一般に信条よりも詳細で長い傾向がありますが、1890年の「信仰ノ告白」やバルメン神学宣言のように、比較的簡潔なものもあります。
また、「教理」とは、聖書と教会の伝統に基づいて整理・体系化された信仰上の教えを指します。「教義」とは、そのなかでも教会が公的かつ規範的なものとして確定し、告白してきた信仰内容です。
もっとも、信条や信仰告白の講解説教は、教会史や教理史を説明することだけを目的とするものではありません。大切なのは、過去の教会が具体的な論争や葛藤を通して守ろうとした福音の核心を明らかにし、それを現代の信徒が直面している問題へと結びつけることです。
そのため、講解説教では、まず信条・信仰告白の言葉に注目し、次に、それが成立した歴史的背景や論争を確認します。そのうえで、そこで守ろうとされた福音の内容を見極め、現代においてその福音を脅かすものが何かを問い直します。そして最後に、今日の私たちが「われらは信ず」と告白することの意味を明らかにします。
通常の説教では、聖書箇所が朗読され、その聖書の言葉から福音の内容が説き明かされ、聴衆の生活へと適用されます。信条・信仰告白を扱う説教では、そこに信仰告白という媒介が加わります。すなわち、聖書箇所を読み、その光のもとで信仰告白の内容を解き明かし、さらにその告白が証しする聖書的・福音的内容を、現代の聴衆の生活へと結びつけます。
2.1890年「信仰ノ告白」成立の日本教会史的背景
(1)日本基督公会の成立
1890年の「信仰ノ告白」を理解するためには、まず明治初期の日本プロテスタント教会の形成過程を確認する必要があります。
1859年の開港以後、横浜をはじめとする開港地には、さまざまなプロテスタント教派の宣教師が来日しました。米国長老派のジェームズ・カーティス・ヘボン、米国オランダ改革派のサミュエル・ロビンス・ブラウン、同じく改革派のジェームズ・ハミルトン・バラ、バプテスト系のジョナサン・ゴーブルなどが、その代表的な人物です。
彼らは、直接的な伝道だけでなく、語学教育、医療、聖書翻訳などを通して、日本社会との接点を築いていきました。とりわけ、宣教師の英語学校に集まった日本人青年たちは、学びと祈りの交わりを通してキリスト教信仰に触れるようになりました。
1872年には、バラの英語学校に関わる祈祷会などを背景として、日本人青年たちが洗礼を受け、日本基督公会が形成されました。この教会の成立は、日本におけるプロテスタント教会の歩みにとって重要な出発点となりました。
(2)日本基督一致教会の成立
1877年には、日本基督公会を中心とする教会と、長老派・改革派系の宣教師たちによって形成された諸教会が合同し、日本基督一致教会が成立しました。
この教会は、長老派・改革派の伝統を受け継ぎ、次の文書を重要な教理的基準としていました。
- ウェストミンスター信仰告白
- ウェストミンスター小教理問答
- ハイデルベルク信仰問答
- ドルト信仰規準
しかし、日本人のキリスト者たちは、やがて次のような問いに直面することになります。
欧米の教会が、それぞれの歴史的論争のなかで形成した信仰告白を、そのまま日本の教会自身の告白として受け入れてよいのでしょうか。
ここで問われていたのは、欧米の信仰告白を否定することではありません。むしろ、それらの信仰的遺産を受け継ぎながら、日本の教会が日本という具体的な状況のなかで、自らの主体的な言葉によって信仰を告白できるかどうかでした。
(3)公会主義と「日本の教会」の形成
明治初期の日本プロテスタント教会には、欧米に存在する教派的区分をそのまま日本に移植するのではなく、キリストにある一つの教会を日本に形成しようとする志向が見られました。
この公会主義的志向は、個々の教派の特色をすべて解消することを意味したわけではありません。それぞれの教派的伝統を踏まえながらも、それ以上に、キリストを信じる者たちの一致と、公同の教会との連続性を重視する姿勢でした。
日本の教会は、単に欧米教会の出先機関であることにとどまらず、日本の地に根ざした教会として、自らの責任において信仰を告白することを求められていました。
(4)日本組合基督教会との合同問題
1880年代後半には、日本基督一致教会と日本組合基督教会との合同が検討されました。その際、重要な課題となったのは、合同後の教会が、どのような信仰的基準のもとに一致するのかという問題でした。
教派ごとに受け継いできた詳細な信仰告白を、そのまま合同教会全体の基準とすることは容易ではありません。そこで、キリスト教信仰の核心を簡潔に表明する信仰告白によって一致するという方向が模索されました。
最終的に両教会の合同は実現しませんでしたが、「簡潔な信仰告白による一致」という理念は、その後も残りました。この理念が、1890年の「信仰ノ告白」の制定へとつながっていきます。
したがって、1890年の信仰告白が簡潔であることは、単に教理的内容を減らしたという意味ではありません。それは、教会の一致にとって不可欠な福音の中心を見極めようとした結果でした。
3.1890年という社会的文脈
1890年は、日本が近代国家として急速に自己形成を進めていた時期でした。その過程では、国家の秩序、教育のあり方、国民の道徳、天皇への忠誠などが、強く意識されるようになりました。
1889年には大日本帝国憲法が発布されました。翌1890年10月30日には、「教育ニ関スル勅語」、いわゆる教育勅語が発布されました。教育勅語は、親への孝行、兄弟姉妹の友愛、夫婦の調和、友人への信義、公益への奉仕などを徳目として掲げ、それらを天皇を中心とする国家秩序のなかに位置づけました。
その年の12月、日本基督一致教会は「信仰ノ告白」を制定し、教会の名称を日本基督教会へと改めました。そして翌1891年1月には、内村鑑三不敬事件が起こりました。
これらの出来事は、国家が「日本人はいかに生きるべきか」を示そうとしていた時代に、教会もまた「誰を主なる神として礼拝し、キリスト者はいかに生きるべきか」を告白していたことを示しています。
ただし、教育勅語の発布が直接の原因となって、1890年の「信仰ノ告白」が制定されたと断定することはできません。両者のあいだに直接的な因果関係を認めるには、慎重な史料的検討が必要です。
それでも、近代国家への忠誠が重視される社会において、キリスト者の信仰的忠誠がどこに向けられるのかという問題が、次第に表面化していたことは見逃せません。内村鑑三不敬事件は、その緊張を象徴的に示す出来事でした。
また、明治政府が宗教を管理し、制度的に位置づけようとしたことも、当時の教会を取り巻く重要な背景でした。教派神道の制度化に見られるように、国家は宗教に対する管理・統制を進めていました。そのような時代に、教会が自らの信仰を公に言葉にすることは、単なる教理上の確認にとどまらない意味をもっていたと考えられます。
4.1890年「信仰ノ告白」の理念
(1)外国の信条から「われわれの告白」へ
1890年の「信仰ノ告白」は、しばしば簡潔な信仰告白として理解されます。しかし、その重要性は、内容が短いという点だけにあるのではありません。
その背後には、次のような根本的な問いがあります。
何を告白すれば、教会は教会として立つことができるのでしょうか。
欧米の教会が長い歴史のなかで形成した信仰告白は、日本の教会にとっても重要な遺産でした。しかし、それらの教派的相違や歴史的論争を詳細に繰り返すことが、そのまま日本の教会の主体的な告白になるわけではありません。
そこで求められたのは、キリスト教信仰の核心を明確に保ちながら、日本の教会が自らの言葉によって「われわれは何を信じるのか」を表明することでした。
この意味で、1890年の「信仰ノ告白」は、外国の教会から受け継いだ信仰を、日本の教会自身の告白として引き受け直す試みであったといえます。
(2)中心に置かれるキリスト
1890年の信仰告白は、次の言葉から始まります。
「我等が神と崇むる主耶蘇基督」
この冒頭の言葉には、信仰告白全体の中心が凝縮されています。すなわち、私たちが神として礼拝する方は誰なのか、私たちが主として従う方は誰なのかという問いです。
「主耶蘇基督」という告白は、イエスを優れた宗教家や道徳的模範として尊敬するだけでは十分ではないことを示しています。ここで告白されているのは、神の子が人となり、私たちの罪のためにご自身を献げ、私たちを救いへと導く方です。
したがって、この告白は、単に教理的に正しいキリスト論を確認するためのものではありません。それは、私たちが人生の根本において誰に信頼し、誰に属し、誰の言葉に従って生きるのかを表明する告白です。
(3)教派的一致から公同的信仰へ
1890年の「信仰ノ告白」は、特定の教派の詳細な教理体系を提示すること以上に、歴史的なキリスト教会が共有してきた信仰との連続性を重視しています。そのことは、「独自の前文」と「使徒信条」を組み合わせる構造に表れています。
前文では、日本の教会が、自らの時代と状況のなかで、キリスト、救い、聖霊、聖書、教会について告白します。そして使徒信条を続けることによって、その告白が、古代以来の公同の教会の信仰と切り離されたものではないことを示します。
つまり、日本的な状況だけを重視して、歴史的教会の伝統から離れるのでもありません。反対に、教会の伝統だけを繰り返して、日本という具体的な文脈を無視するのでもありません。
日本の教会自身の言葉で、公同の教会が受け継いできた信仰を告白します。
1890年の「信仰ノ告白」の理念は、この点に集約されます。
5.1890年「信仰ノ告白」の全体構造
1890年の「信仰ノ告白」の前文は、キリストの告白から始まり、救い、聖霊、聖書、教会、そして使徒信条へと展開していきます。
| 構成 | 告白される内容 | 神学的主題 |
|---|---|---|
| ① | 我等が神と崇むる主耶蘇基督 | キリスト告白 |
| ② | 神の子が人となる | 受肉 |
| ③ | 罪のために完全な犠牲を献げる | 贖罪 |
| ④ | 信仰によってキリストと一体となる | キリストとの結合 |
| ⑤ | 赦され、義とされる | 罪の赦し・義認 |
| ⑥ | 信仰が愛によって働き、心を清める | 聖化・信仰生活 |
| ⑦ | 父・子とともに聖霊を礼拝する | 三位一体 |
| ⑧ | 聖霊がキリストを現す | 聖霊論 |
| ⑨ | 聖霊の恵みによって神の国に入る | 救済論 |
| ⑩ | 預言者・使徒・聖徒に働く聖霊 | 啓示・教会 |
| ⑪ | 新旧約聖書に語る聖霊 | 聖書論 |
| ⑫ | 聖徒に伝えられた信仰 | 信仰の継承 |
| ⑬ | 使徒信条 | 公同教会との一致 |
第一に、「我等が神と崇むる主耶蘇基督」と告白されます。ここでは、イエス・キリストが神として礼拝される方であることが示されます。信仰告白の出発点は、抽象的な宗教理念ではなく、具体的なキリストの告白です。
第二に、神の子が人となられたことが告白されます。これは受肉を表しています。神は人間の苦しみや歴史から遠く離れた存在ではなく、イエス・キリストにおいて人間の現実のなかへと来られました。
第三に、キリストが私たちの罪のために完全な犠牲を献げられたことが告白されます。ここでは、キリストの十字架が、私たちの罪と神との断絶に関わる救いの出来事として理解されています。
第四に、私たちが信仰によってキリストと一体となることが示されます。救いは、キリストについての知識を得ることだけではありません。キリストと結ばれ、その命にあずかることです。
第五に、その結びつきのなかで、私たちが罪を赦され、神の前に義とされることが告白されます。人間は、自分自身の功績や道徳的努力によって神の前に正しい者とされるのではありません。キリストの恵みによって赦され、受け入れられます。
第六に、その信仰が愛によって働き、人の心を清めていくことが示されます。ここでは、信仰と生活が切り離されていません。神に受け入れられた者は、愛に生きる者として変えられていきます。これが聖化と信仰生活の主題です。
第七に、父と子とともに聖霊を礼拝することが告白されます。これは、父・子・聖霊なる神を礼拝する三位一体信仰の表明です。
第八に、聖霊がキリストを私たちに示し、キリストの救いを現実のものとされることが語られます。キリストについての告白は、過去の出来事を思い出すだけではありません。聖霊の働きによって、キリストが現在の私たちにとって生きた主として示されます。
第九に、聖霊の恵みによって、私たちが神の国に入れられることが示されます。救いは人間自身の能力によるものではなく、神の恵みの働きによるものです。
第十に、聖霊が預言者、使徒、聖徒たちのなかに働いてこられたことが語られます。信仰は、一人ひとりの個人的な経験だけに基づくものではありません。それは、神が歴史のなかで人々に働きかけ、教会を導いてこられたことに根ざしています。
第十一に、新旧約聖書を通して聖霊が語られることが告白されます。聖書は、単なる古代の宗教文書の集まりではなく、聖霊によって教会に語りかける神の言葉を証しする書として受け止められます。
第十二に、その信仰が聖徒たちに伝えられ、歴史を通して受け継がれてきたことが示されます。現在の教会の信仰は、自分たちだけで新しく作り出したものではありません。先立つ教会から受け継いだ信仰に連なっています。
第十三に、使徒信条が置かれます。これによって、日本の教会の告白が、公同の教会の歴史的信仰と一致していることが示されます。
以上の流れは、次のようにまとめられます。
キリストの告白(神・受肉・贖罪)
↓
救い(キリストとの結合・罪の赦し・義認)
↓
聖霊(三位一体・聖化・救いの完成)
↓
聖書(歴史に働く聖霊・聖書の証言)
↓
歴史的教会(信仰の継承)
↓
現在の教会の告白(公同教会との連続性)
なお、キリストの復活や再臨などが前文で個別に詳述されていないとしても、それらが軽視されているという意味ではありません。前文の後に続く使徒信条において、それらの信仰内容が告白されるため、全体として理解する必要があります。
6.1890年「信仰ノ告白」講解説教における現代への適用
信仰告白を現代の説教において語るためには、それぞれの時代の教会が、どのような問いに直面し、何を守ろうとしたのかを考える必要があります。
(1)キリスト論
古代教会にとって重要な問いの一つは、「キリストは真の神であるのか」という問題でした。この問いは、イエス・キリストが単に優れた人間や神に近い存在であるのか、それとも神ご自身として礼拝される方であるのかをめぐるものでした。
明治期の日本の教会にとって、このキリスト告白は、「私たちは誰を究極的な主として礼拝するのか」という問いと結びつきました。国家と天皇への忠誠が強く求められる社会において、キリストを神として礼拝することは、信仰の根本的な帰属先を明らかにすることでした。
現代においても、この問いは失われていません。イエスを立派な道徳教師、愛の模範、あるいは人生の参考になる人物として理解することはできます。しかし、キリスト教信仰は、それだけにとどまりません。
イエス・キリストは、私にとって単なる道徳的模範なのでしょうか。それとも、私の罪、重荷、苦しみを担い、私を救う生ける主なのでしょうか。
キリスト論を語る説教は、「キリストは真の神です」という教理的命題を説明するだけでは十分ではありません。その方が、現実の不安、孤独、罪責、挫折を抱える私たちにとって、どのような救い主であるのかを語る必要があります。
(2)義認
義認をめぐる問いは、「人は、どのようにして神の前に義とされるのか」という問題です。
これは、キリスト教の歴史を通して繰り返し問われ、宗教改革においても特に重要な主題となりました。人間は、自らの善行、功績、宗教的努力によって神に認められるのでしょうか。それとも、神の恵みによって赦され、受け入れられるのでしょうか。
明治期の日本においては、この問いに、「誰が私の価値を最終的に判断するのか」という問題も重なりました。国家や社会から評価されることが、人間の価値を決定するのでしょうか。それとも、神がキリストにおいて私たちを受け入れてくださることが、私たちの存在の基礎となるのでしょうか。
現代社会でも、多くの人が、自分の過ちや負い目に苦しんでいます。また、学歴、職業、収入、社会的成功、周囲からの評価などによって、自分の価値を測ろうとします。
そのなかで義認の福音は、次のように告げます。
あなたの価値は、あなたの成果や評価だけによって決まるのではありません。
自分自身を正当化し続けなければならない社会のなかで、神がキリストを通して私たちを受け入れてくださることが、義認の中心です。
したがって、義認についての講解説教は、「人が神の前に義とされる」という神学的表現を説明するだけではなく、「自分の失敗や負い目を抱えながら、それでも受け入れられて生きるとはどういうことか」という現代的な問いに応える必要があります。
(3)聖書論
聖書論をめぐって、古代教会は、「教会における聖書の権威とは何か」「どの文書を正典として受け入れるのか」という問いに取り組みました。
さまざまな教えや文書が存在するなかで、教会は、使徒たちの証言と福音に根ざした文書を受け継ぎ、それらを信仰と生活の基準としてきました。
明治期の日本では、「国家の理念や社会の価値観が、人間にとっての最終的な真理を語ることができるのか」という問いが生じました。近代化、富国強兵、国家への忠誠が強調される社会において、教会は、神の言葉を聞くべき場所がどこにあるのかを問わなければなりませんでした。
現代社会では、情報があふれ、無数の価値観が同時に流通しています。インターネット、報道、広告、SNSなどは、「こう生きるべきだ」「こうすれば成功できる」「もっと自分を実現すべきだ」と、絶えず人に呼びかけます。
そのなかで問われるのは、次のことです。
私たちは、何を最終的な判断基準として生きるのでしょうか。
聖書を信仰の基準として受け止めることは、社会の情報をすべて拒否することではありません。むしろ、多様な情報や価値観に接しながらも、それらによって自分の存在や生き方を一方的に決定されないために、神の言葉に立ち返ることです。
聖書論の講解説教は、「聖書には権威があります」と述べるだけで終わるべきではありません。絶えず比較され、評価され、自己実現を求められる現代社会において、神の言葉がどのように私たちを自由にし、支えるのかを示す必要があります。
7.1890年信仰告白から現代へ――「誰を主とするのか」
1890年という時代は、富国強兵、近代国家の形成、教育制度の整備、社会の再編が進むなかで、人々に新たな帰属意識や忠誠が求められた時代でした。
その状況のなかで、日本の教会は、次のように告白しました。
「我等が神と崇むる主耶蘇基督」
それは、国家や社会のなかで生活しながらも、人間の究極的な帰属先がどこにあるのかを問い直す言葉でした。
現代社会においても、私たちはさまざまなものから、自分の価値や生きる意味を定義するよう求められています。国家や政治的立場、会社や職業、学歴、収入、社会的評価、SNSでの反応、世論、自己実現などが、私たちに対して問い続けます。
「あなたは何者なのですか」
「何を成し遂げたのですか」
「どれほど認められているのですか」
これらのものは、それ自体が必ずしも悪いわけではありません。しかし、それらが人間の価値を最終的に決定するものとなるとき、私たちは容易に不安や比較、競争や自己否定のなかに閉じ込められます。
そのような状況で、「我等が神と崇むる主耶蘇基督」と告白することは、私たちの存在の中心を改めて確かめることです。
私たちは、社会的評価によってのみ生きる者ではありません。成功や失敗によって最終的に価値づけられる者でもありません。キリストに知られ、キリストに愛され、キリストに属する者として生きるよう招かれています。
この信仰告白は、次の問いに対する教会の答えです。
「私は誰に属するのか」
「何を究極的な価値とするのか」
「誰の言葉によって、どのように生きるのか」
結び
「我等が神と崇むる主耶蘇基督」
このように告白することは、単に古い教理を繰り返すことではありません。それは、現代を生きる私たちが、誰を主とし、何を信じ、どこに自らの存在の根拠を置くのかを表明することです。
したがって、信仰告白の講解説教とは、「昔の教会が何を信じていたのか」を説明するだけの営みではありません。教会が受け継いできた信仰を、**「今日、私たちは何を信じて生きるのか」**という現在の告白へと結びつける営みです。
1890年の日本の教会は、歴史的教会から受け継いだキリスト教信仰を、自らの時代と場所において、「我等」の信仰告白として語り直しました。
同じように、現代の教会もまた、その信仰を、いまを生きる「私たちの告白」として語り直すことを求められています。
信仰告白は、過去から受け継いだ言葉を大切に守るものであると同時に、その言葉がそれぞれの時代に何を意味するのかを問い続けるものでもあります。
その意味で、1890年の「信仰ノ告白」は、教会が伝統を尊重しながら、福音に照らして絶えず自らを問い直し、改革され続けることを促す告白です。
そして、その告白を現在の教会の生きた言葉として響かせる場こそが、礼拝における信仰告白の講解説教なのです。
2026年8月19日水曜日
説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ27:15–26「バラバの釈放とイエスへの死刑判決」
説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ27:15–26「バラバの釈放とイエスへの死刑判決」
概要
27:15
- 原文: Κατὰ δὲ ἑορτὴν εἰώθει ὁ ἡγεμὼν ἀπολύειν ἕνα τῷ ὄχλῳ δέσμιον ὃν ἤθελον.
- 私訳: さて、祭りのたびに、総督は群衆が望む囚人一人を彼らに釈放するのを慣例としていた。
文法解析
- ἑορτήν:ἑορτή「祭り」女性名詞・単数・対格
- εἰώθει:ἔθω「習慣である、慣例としている」動詞・直説法・能動態・過去完了・3人称単数
- ἡγεμών:ἡγεμών「総督、支配者」男性名詞・単数・主格
- ἀπολύειν:ἀπολύω「解放する、釈放する」動詞・現在・能動態・不定法
- δέσμιον:δέσμιος「囚人、拘束された者」男性名詞/形容詞・単数・対格
- ἤθελον:θέλω「望む、欲する」動詞・直説法・能動態・未完了過去・3人称複数
- この節では、過越祭の際に総督が囚人一人を釈放するという「慣例」が物語に導入されます(マルコ15:6も同様)。ただし、過越祭ごとにローマ総督が囚人を一人釈放したという制度については、福音書以外から明確に確認できる史料が乏しく、その歴史的実態については議論があります。一方、ローマ当局が政治的・社会的事情から恩赦や釈放を行うこと自体は知られています。また、ここで決定権を持つのは形式上ピラトです。
27:16
- 原文: εἶχον δὲ τότε δέσμιον ἐπίσημον λεγόμενον Ἰησοῦν Βαραββᾶν.
- 私訳: そのころ、彼らには、イエス・バラバと呼ばれる名の知れた囚人がいた。
文法解析
- εἶχον:ἔχω「持つ、所有する」動詞・直説法・能動態・未完了過去・3人称複数
- ἐπίσημον:ἐπίσημος「著名な、目立った、悪名高い」形容詞・男性・単数・対格
注解
- この節には重要な本文批評上の問題があります。バラバの名前を単に「ばらば(Βαραββᾶς)」とする写本と、「イエス・バラバ)(Ἰησοῦς Βαραββᾶς)とする写本が存在します。
- 「バラバ(Βαραββᾶς)」は一般にアラム語の bar-abbā に由来すると考えられ、「父の子」という意味に理解できます。そうすると物語上、「父の子」と呼ばれるイエス・バラバと神の子であるイエス・キリストという極めて強い対照が生じます。もっとも、マタイ自身がこの語源的対照を意図的に利用しているかどうかは慎重に判断する必要があります。
- 「名の知れた囚人」:文脈によっては「悪名高い」と訳すことができます。マルコ15:7では、バラバが「暴動の際に殺人を犯した者たち」とともに拘束されていたと説明されますが、マタイはその具体的説明を省き、ἐπίσημοςという一語で彼が名の知られた囚人であったと述べています。
27:17
- 原文: συνηγμένων οὖν αὐτῶν εἶπεν αὐτοῖς ὁ Πιλᾶτος· Τίνα θέλετε ἀπολύσω ὑμῖν, Ἰησοῦν τὸν Βαραββᾶν ἢ Ἰησοῦν τὸν λεγόμενον Χριστόν;
- 私訳: そこで、彼らが集まっていると、ピラトは彼らに言った。「あなたがたは、私が誰をあなたがたに釈放することを望むのか。イエス・バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
文法解析
- συνηγμένων:συνάγω「集める、集まる」動詞・完了・受動態・分詞・男性・複数・属格
注解
- ここでピラトは、群衆に明確な二者択一を提示します。「イエス・バラバ」と「キリストと呼ばれるイエス」です。16節で述べた本文を採用した場合、この場面は「バラバかイエスか」という単純な対比ではなく、「どちらのイエスを選ぶのか」という劇的な問いになります。
- 「キリストと呼ばれている者」:この表現は27:22でも繰り返されます。「キリスト」はギリシア語 Χριστός、ヘブライ語・アラム語の「メシア」に対応し、「油注がれた者」を意味します。マタイ福音書の読者にとって、文学的に言って読者は、群衆がこれから行う選択を、単なる二人の囚人の選択としてではなく、メシアを受け入れるか拒絶するかという選択として読むことになります。
27:18
- 原文: ᾔδει γὰρ ὅτι διὰ φθόνον παρέδωκαν αὐτόν.
- 私訳: というのも、彼らが妬みのために彼を引き渡したことを、彼は知っていたからである。
文法解析
- ᾔδει:οἶδα「知っている」動詞・直説法・能動態・過去完了形・3人称単数
- φθόνον:φθόνος「妬み、嫉妬」男性名詞・単数・対格
- παρέδωκαν:παραδίδωμι「引き渡す、委ねる、裏切る」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称複数
注解
- この節によって、17節におけるピラトの行動の理由が説明されます。
- 「というのも、彼は知っていたからである」:ピラトはイエスを単純にバラバと並べたのではなく、宗教指導者たちがイエスを告発した背後にφθόνος(妬み)があることを見抜いていた、とマタイは描いています。宗教指導者たちは社会的に恵まれた人たちでしたが、それでも妬みは人を支配するという実例です。
- 「引き渡した」という語は、受難物語を貫く鍵となる語です。<ユダ → 宗教指導者 → ピラト → 処刑>という形で、イエスが次々と「引き渡されていく」構造が読み取れます。
- 物語的には、イエスが不当に引き渡されていることを知りながら、最終的には死刑判決を認めたというピラトの責任をかえって際立たせることになります。
27:19
- 原文: Καθημένου δὲ αὐτοῦ ἐπὶ τοῦ βήματος ἀπέστειλεν πρὸς αὐτὸν ἡ γυνὴ αὐτοῦ λέγουσα· Μηδὲν σοὶ καὶ τῷ δικαίῳ ἐκείνῳ· πολλὰ γὰρ ἔπαθον σήμερον κατ’ ὄναρ δι’ αὐτόν.
- 私訳: さて、彼が裁判席に座っていると、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あなたは、あの義しい人と何の関わりも持たないでください。というのも、私は今日、夢の中で彼のために多くの苦しみを受けたのです。」
文法解析
- Καθημένου:κάθημαι「座る」動詞・現在・中動態/受動態形・分詞・男性・単数・属格
- βήματος:βῆμα「裁判席、審判席、壇」中性名詞・単数・属格
- ἀπέστειλεν:ἀποστέλλω「遣わす、送る」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称単数
- λέγουσα:λέγω「言う」動詞・現在・能動態・分詞・女性・単数・主格
- ἔπαθον:πάσχω「苦しむ、経験する」動詞・直説法・能動態・アオリスト・1人称単数σήμερον:σήμερον「今日」副詞
κατ’ ὄναρで「夢の中で」という慣用表現です。
注解
- この節はマタイ独自の挿話であり、マルコ、ルカ、ヨハネにはありません。ピラトの妻がイエスを「あの義しい人」と呼んでいますが、「道徳的に正しい」という意味だけでなく、裁判文脈では「無罪」という意味を帯びます。したがって、ここではイエスの無罪性が、ユダヤ人指導者でも弟子でもなく、異邦人であるピラトの妻によって証言されています。これまで、イエスを取り巻く者たちが次々と彼を拒絶していく一方、意外な人物がイエスの正しさを認識します。ここではその役割をピラトの妻が担っています。
- 「あなたとあの義しい人との間には何もないように」:Μηδὲν σοὶ καὶ τῷ δικαίῳ ἐκείνῳはセム語的な慣用表現で、直訳すれば「その人に関わってはいけません」というとなります。
- 「夢」もマタイ福音書において特徴的な神的啓示の手段です。イエスの誕生物語では、ヨセフが夢によって何度も神の指示を受けています(1:20、2:13、2:19、2:22)。したがって27:19の夢も、単なる心理現象ではなく、神的警告を示唆する物語装置として読むことができます。
27:20
- 原文: Οἱ δὲ ἀρχιερεῖς καὶ οἱ πρεσβύτεροι ἔπεισαν τοὺς ὄχλους ἵνα αἰτήσωνται τὸν Βαραββᾶν τὸν δὲ Ἰησοῦν ἀπολέσωσιν.
- 私訳: しかし、祭司長たちと長老たちは、バラバを求め、イエスを滅ぼすようにと、群衆を説得した。
文法解析
ἔπεισαν:πείθω「説得する」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称複数
αἰτήσωνται:αἰτέω「求める、願い求める」動詞・接続法・中動態・アオリスト・3人称複数
ἀπολέσωσιν:ἀπόλλυμι「滅ぼす、殺す、失わせる」動詞・接続法・能動態・アオリスト・3人称複数
注解
- 19節でのピラトの妻の証言とは対照的に、祭司長と長老たちが群衆を動かして、イエス処刑を達成しようとします。よって、マタイ福音書においてはマルコ福音書とやや異なり、群衆の要求は自発的なものとしてではなく、指導者たちの働きかけによって形成されたものとして描かれています。
- イエスとバラバの二者を対照的に配置する文学的技巧が、ここでも見られます。これにより皮肉がもたらされ、群衆は「罪を犯して拘束されている者」を解放し、一方で「義しい者」を滅ぼすことを求めます。不条理の只中に置かれるイエスの姿は読者に対して、例えば迫害のような理不尽な状況にあるとき、イエスの姿を思い起こせと伝えているようです。
27:21
- 原文: ἀποκριθεὶς δὲ ὁ ἡγεμὼν εἶπεν αὐτοῖς· Τίνα θέλετε ἀπὸ τῶν δύο ἀπολύσω ὑμῖν; οἱ δὲ εἶπαν· Τὸν Βαραββᾶν.
- 私訳: そこで総督は彼らに答えて言った。「この二人のうち、どちらを私があなたがたに釈放することを望むのか。」彼らは言った。「バラバを。」
文法解析
- ἀπολύσω:ἀπολύω「釈放する」動詞・接続法・能動態・アオリスト・1人称単数
注解
- ピラトは17節ですでにほぼ同じ問いをしていますが、ここでもう一度、「どちらを望むのか」と問い直します。この反復により、群衆には選択肢が繰り返し与えられながらも、最終的には自ら決断していったことが強調されています。
- 「バラバを。」:ここでは動詞すら省略されていますが、それだけ非常に短い返答であるだけに、群衆の選択の断固たる側面が際立ちます。
- 「この二人のうち」:二人が明確に比較対象として並べられています。16–17節で「イエス・バラバ」という本文を採用する場合、ここでも読者は「二人のイエス」の対比を意識することになります。
- マタイの物語では、群衆はかつてイエスを歓迎していました。21:9ではエルサレム入城の際、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいます。しかしここではバラバを選びます。ただし、21章の群衆と27章の群衆が厳密に同一人物集団であると本文が明示しているわけではありません。したがって「同じ群衆が数日で完全に態度を変えた」と根拠が明確でないままに単純化するよりも、マタイが群衆という物語的主体の不安定さを描いている、と理解する方が慎重です。
27:22
- 原文: λέγει αὐτοῖς ὁ Πιλᾶτος· Τί οὖν ποιήσω Ἰησοῦν τὸν λεγόμενον Χριστόν; λέγουσιν πάντες· Σταυρωθήτω.
- 私訳: ピラトは彼らに言う。「それでは、キリストと呼ばれるイエスを、私はどうしたらよいのか。」彼らは皆言う。「十字架につけられよ。」
文法解析
- ποιήσω:ποιέω「する、行う」動詞・接続法・能動態・アオリスト・1人称単数熟議的接続法で、「私はどうしたらよいのか」という問いです。
- Σταυρωθήτω:σταυρόω「十字架につける」動詞・命令法・受動態・アオリスト・3人称単数
注解
- ここでピラトは二つ目の問いを発します。第一の問いは、「どちらを釈放するか」でした。第二の問いは、「では、イエスをどうするのか」です。この問いに対して群衆は、「十字架につけられよ」と答えます。この十字架刑はローマ帝国における極めて苛酷で屈辱的な処刑方法でした。したがって群衆は単に「死刑にせよ」と要求しているのではなく、ローマ的な十字架刑を明示的に要求しています。
- また、ピラトは再びイエスを「キリストと呼ばれる者」と呼びます。この表現は17節と同じです。これによってマタイは、群衆に突きつけられている選択が単なる囚人処遇の問題ではなく、「キリストと呼ばれるイエスをどうするのか」という神学的問いであることを読者に意識させています。
27:23
- 原文: ὁ δὲ ἔφη· Τί γὰρ κακὸν ἐποίησεν; οἱ δὲ περισσῶς ἔκραζον λέγοντες· Σταυρωθήτω.
- 私訳: しかし彼は言った。「いったい、彼はどんな悪いことをしたのか。」しかし彼らはますます激しく叫んで言った。「十字架につけられよ。」
文法解析
- ἔφη:φημί「言う」動詞・直説法・能動態・未完了過去・3人称単数
- περισσῶς:περισσῶς「ますます、非常に、激しく」副詞
- ἔκραζον:κράζω「叫ぶ、大声を上げる」動詞・直説法・能動態・未完了過去・3人称複数λέγοντες:λέγω「言う」動詞・現在・能動態・分詞・男性・複数・主格
注解
- ピラトはここで初めて、イエスに対する具体的な罪状を問い返します。「いったい、彼はどんな悪を行ったのか。」これは非常に重要な問いです。これまでイエスは政治的な反逆者であるかのように訴えられてきましたが、ここではピラト自身が、処刑に値する具体的犯罪を見いだせない状態にあります。したがって19節のピラトの妻の「あの義しい人」という証言と、23節のピラト自身の「どんな悪を行ったのか」という問いが対応しています。こうしてマタイは、イエスの無罪性を二重に強調しています
- 群衆は、罪状を提示しません。代わりに、「ますます激しく叫んでいた」と描写されます。前節の「言った」から「叫んだ」へとヒートアップしています。議論が理性的な司法判断から群衆の圧力へと移行していることが示されます。こうしてピラトは、要求から圧力へとエスカレートした群衆の熱狂ぶりに晒されることになりました。
27:24
- 原文: ἰδὼν δὲ ὁ Πιλᾶτος ὅτι οὐδὲν ὠφελεῖ ἀλλὰ μᾶλλον θόρυβος γίνεται, λαβὼν ὕδωρ ἀπενίψατο τὰς χεῖρας ἀπέναντι τοῦ ὄχλου λέγων· Ἀθῷός εἰμι ἀπὸ τοῦ αἵματος τούτου· ὑμεῖς ὄψεσθε.
- 私訳: しかしピラトは、何の効果もなく、むしろ騒動になりつつあるのを見て、水を取って群衆の前で両手を洗いながら言った。「私はこの血について無罪である。あなたがた自身が見るがよい。」
文法解析
ὠφελεῖ:ὠφελέω「益する、役に立つ、効果がある」動詞・直説法・能動態・現在・3人称単数
- θόρυβος:θόρυβος「騒動、騒乱、騒ぎ」男性名詞・単数・主格
- γίνεται:γίνομαι「生じる、なる」動詞・直説法・中動態・現在・3人称単数
- λαβών:λαμβάνω「取る、受け取る」動詞・アオリスト・能動態・分詞・男性・単数・主格
- ὕδωρ:ὕδωρ「水」中性名詞・単数・対格
- ἀπενίψατο:ἀπονίπτω「洗い清める、洗う」動詞・直説法・中動態・アオリスト・3人称単数
- Ἀθῷος:ἀθῷος「無罪の、潔白な」形容詞・男性・単数・主格。εἰμιの補語です。
- ὄψεσθε:ὁράω「見る」動詞・直説法・中動態・未来・2人称複数。慣用的に「あなたがた自身で処理せよ」「あなたがたの責任だ」という意味になります。
注解
- ここでピラトは、イエスを釈放しようとする試みを断念します。その直接の理由として示されるのが、「むしろ騒動が生じつつある」という状況です。θόρυβοςは単なる騒がしさではなく、「騒乱」「暴動」にまで発展しうる社会的混乱を意味する語です。ローマ総督にとって、属州の治安維持は重要な責務でした。したがってマタイは、ピラトが正義そのものよりも、群衆の騒乱を避けることを優先したと描いています。
- ここでピラトは水を取って手を洗います。「彼は両手を洗った」という行為は、象徴的な無罪宣言です。旧約聖書にも、流血の責任からの潔白を象徴する「手を洗う」行為があります。申命記21:6–7では、犯人不明の殺人があった場合、長老たちが犠牲の上で手を洗い、「われわれの手はこの血を流していない」と宣言します。また詩編26:6にも「私は潔白のうちに手を洗う」という表現があります。したがってマタイの描写には、ユダヤ的な潔白宣言のイメージが響いている可能性があります。
27:25
- 原文: καὶ ἀποκριθεὶς πᾶς ὁ λαὸς εἶπεν· Τὸ αἷμα αὐτοῦ ἐφ’ ἡμᾶς καὶ ἐπὶ τὰ τέκνα ἡμῶν.
- 私訳: すると民全体が答えて言った。「彼の血は、私たちの上に、そして私たちの子どもたちの上に。」
注解
- この節は、マタイ福音書の中でも特に慎重に解釈しなければならない箇所です。群衆は、「彼の血は私たちの上に」と答えます。この表現は、聖書においてしばしば流血に対する責任を負うことを意味します。たとえばサムエル記下1:16では「あなたの血はあなたの頭に帰する」という表現が用いられています。したがってここでは群衆が、ピラトが放棄しようとした流血の責任を、自分たちが負うと宣言している構図になっています。
- この表現は歴史上、ユダヤ人全体がイエスの死について永続的・民族的責任を負っているという形で解釈され、反ユダヤ主義や迫害を正当化するために利用されてきました。しかし、そのような読み方は本文を不当に一般化するものです。
- ここで発言しているのは、物語世界の特定の場面に集まったλαόςです。マタイがすべての時代の全ユダヤ人に民族的罪責を宣告している、と読む根拠はありません。特定民族への永久的な呪詛として固定することは、福音書全体の射程とも整合しません。
27:26
- 原文: τότε ἀπέλυσεν αὐτοῖς τὸν Βαραββᾶν, τὸν δὲ Ἰησοῦν φραγελλώσας παρέδωκεν ἵνα σταυρωθῇ.
- 私訳: そのとき、彼は彼らにバラバを釈放した。しかしイエスを鞭打った後、十字架につけられるために引き渡した。
文法解析
- ἀπέλυσεν:ἀπολύω「解放する、釈放する」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称単数αὐτοῖς:αὐτός「彼らに」代名詞・男性・複数・与格
- παρέδωκεν:παραδίδωμι「引き渡す、渡す」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称単数
注解
- この節で、バラバとイエスの運命が完全に分岐します。「バラバを釈放した」のに対し、「しかしイエスを引き渡した」と記されます。ここには15節以来の物語が結論に達しています。一人の囚人が解放され、もう一人が死へと引き渡されます。
- 神学的に印象的なのは、罪ある囚人が解放され、義しいイエスがその代わりに死へ赴くという構図です。ただし、本文そのものがバラバを贖罪論の直接的な象徴として説明しているわけではありません。したがって、代償的贖罪との結びつきは説教的・神学的展開としては可能ですが、まずは物語上の逆転として把握する必要があります。
- 「鞭打つ」:φραγελλόω:はラテン語 flagellum に由来する語で、ローマ式の鞭打ちを指します。軽い懲罰ではなく、十字架刑に先立つ鞭打ちは、受刑者の身体を著しく衰弱させる苛酷な処置でした。マタイはその詳細を描写せず、一語で簡潔に記しています。この簡潔さは受難物語全体の特徴でもあります。福音書は身体的苦痛を詳細に描写することよりも、イエスが誰によって、なぜ、どのように拒絶されていくのかという神学的・物語的意味に重点を置いています。
- 「再び引き渡した」:「引き渡す」という動詞が使われます。マタイの受難物語では、παραδίδωμιが繰り返されています。ユダがイエスを祭司長たちに引き渡し、宗教指導者たちがピラトに引き渡し、最後にはピラトがイエスを十字架刑へ引き渡します。つまりイエスは、人間の手から人間の手へと「引き渡され」続けています。
- しかしマタイ福音書全体の神学から見るならば、この人間的な引き渡しの連鎖の背後で、イエスは受難を予告し、自らエルサレムへ進んできました。したがって、イエスは単に事件に巻き込まれた犠牲者ではなく、受難を知りつつ自らその道を歩んでいる人物として描かれています。
27:15–26全体のまとめ
<マタイ27:15-26の注解をもとにしての説教の結びとして>
この物語には、さまざまな人々が登場します。妬みによってイエスを引き渡した宗教指導者たち。説得され、熱狂し、叫び声を上げた群衆。
正しさを知りながら、騒乱を恐れて妥協したピラト。そして、夢によって「義しい人」を見抜いたピラトの妻。それぞれが異なる理由でイエスを拒み、あるいはイエスを見捨てました。しかし、どの人物も「イエスをどうするか」という問いから逃れることはできませんでした。
私たちも同じです。イエスを歓迎する時もあれば、群衆のように別のものを選んでしまう時があります。ピラトのように、正しいと知りながら沈黙してしまう時があります。あるいは、指導者たちのように、自分の立場や思いに固執してしまうこともあります。
罪ある者が釈放され、義しい方が死へと渡される――この逆転は、神の救いの働きがどのように進むのかを示しています。人間の妬み、群衆の熱狂、政治的妥協のただ中で、神の御子は沈黙しつつ、救いの道を歩まれました。だからこそ、マタイの物語は私たちに問いかけます。
「あなたは、キリストと呼ばれるイエスをどうするのか。」
この問いは、私たちの信仰生活の中心に置かれ続ける問いです。イエスを選ぶとは、ただ「信じます」と言うことだけではなく、妬みや恐れや沈黙に支配されそうになる日々の中で、イエスの道を選び直すことです。バラバが釈放され、イエスが十字架へ向かわれたその日、神は人間の不条理のただ中で救いを進められました。今日も同じです。私たちの弱さや迷いのただ中で、主はなお私たちを招いておられます。
「キリストと呼ばれるイエスを、あなたはどうするのか。」
この問いに、私たちが日々応答し続ける者でありたいと願います。
主の十字架の前に立ち、義しい方を選び取る信仰の歩みへと導かれますように。
2026年8月16日日曜日
天理教・金光教・大本 近代日本の神道系新宗教三教団比較
2026年8月12日水曜日
【新宗教解説シリーズ】教派神道(十三派)──幕末・明治期の民衆宗教の誕生と国家統制の歴史
ーーーレジュメーーー
教派神道十三派の中でも、天理教・金光教・黒住教は現在でも比較的規模が大きく、広く知られている教団である。
特徴
・教祖の宗教的・霊的体験(神がかり、神託、病気平癒など)を教団成立の契機とする。
・伝統的な神社神道には見られない独自の教義・教典・倫理的実践を備える。
・信仰共同体としての組織を持ち、布教活動を積極的に行う。
教派神道十三派の内訳
神道大教(しんとうたいきょう)
神理教(しんりきょう)
出雲大社教(いずもおおやしろきょう)
神道修成派(しんとうしゅうせいは)
神道大成教(しんとうたいせいきょう)
実行教(じっこうきょう)
扶桑教(ふそうきょう)
御嶽教(おんたけきょう)
神習教(しんしゅうきょう)
禊教(みそぎきょう)
黒住教(くろずみきょう)
金光教(こんこうきょう)
天理教(てんりきょう)
第二スイス信仰告白 日本語訳
第二スイス信仰告白 日本語訳 第二スイス信仰告白 (1566年) ハインリヒ・ブリンガーおよびスイス諸教会の信仰告白 訳者注: 本訳は、ブリンガーによる1566年の原文(ラテン語、および同年発表のドイツ語版)を典拠とし、パブリックドメインである英訳(フィリップ・シ...
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ーーーレジュメーーー 【真如苑】「接心」について ー霊能者との対面カウンセリング 1 接心とは 霊能力を育成された指導者が、信徒と対面で行う相談的システム。 ・指導者が複数の信徒と行う形式や、一対一で行う形式などあり。 ・「接心」における様々な献立 ーーー以下、一対複数...
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ーーーレジュメーーー 1 基本データ 名称:大山ねずの命神示教会 「ねず」の漢字は、示偏に「一」がない「氏」をつくりとする。 創始者:供丸斎(ともまるさい) 本名 稲飯定雄(いないさだお)、1906-88年 第二代後継者:供丸姫(ともまるひめ、本名:森日出子)、-2...
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<AIによる内容の客観的説明> 安野貴博氏の経歴と仏教用語との関連性 「チームみらい」の中心人物・安野氏が関わった企業(ベドア/PKSHA Works、PKSHA Technology)の社名に、仏教由来の語が用いられている点を紹介。 真如苑系財団との接点の可能性 真...