大石アーカイブス
2026年9月8日火曜日
【新宗教解説】霊友会からなぜ巨大教団分派(立正佼成会、佛所護念会)が続出したのか?
2026年9月5日土曜日
【新宗教解説】黒住教(くろずみきょう)
2026年8月31日月曜日
AIと現代キリスト教倫理
1. 人工知能(AI)と倫理
- 問題解決(Problem Solving)
- パターン認識(Pattern Recognition)
- 自然言語理解(Natural Language Understanding:NLU)
1.1. 問題解決能力(Problem Solving)
- 知識ベースや学習済みデータを参照する。
- 問題の内容や構造を分析する。
- 解決すべき目標(ゴール)を設定する。
- 考えられる解決方法を複数列挙する。
- それぞれの方法を評価し、最適な方法を選択する。
- 実行可能な解答を提示する。
- 幅優先探索(Breadth-First Search)
可能性を幅広く調べる方法。 - 深さ優先探索(Depth-First Search)
一つの候補を深く追究する方法。 - ヒューリスティック探索(Heuristic Search)
経験則や評価関数を利用して、計算量の多い候補を途中で除外し、効率よく最適解を探す方法。
例:「梅田に電車で行きたい」
- 「移動したい」という要求であると理解する。
- 「梅田が好き」という感情表現ではなく、目的地を示す命令文であると判断する(自然言語理解)。
- 「電車で」という条件から交通手段を限定する。
- 徒歩・自家用車・飛行機・船などを候補から除外する。
- 鉄道路線を検索し、所要時間・料金・乗換回数などを比較する。
- 利用者に最適な経路を提示する。
1.2. パターン認識(Pattern Recognition)
- 手書き文字認識
- 顔認識
- 指紋認証
- 音声認識
- 医療画像診断
例:「え」という文字の認識
- 画像を入力する。
- 線や曲線などの特徴を抽出する。
- 学習済みデータと照合する。
- 類似した文字候補を列挙する。
- 最も一致度の高い文字を選択する。
- 「え」
- 「之」
1.3. 自然言語理解(Natural Language Understanding:NLU)
- 音声認識
- 文字認識(OCR)
- 機械翻訳
例 Siriや音声アシスタント
例
- 「まずい」を否定的評価として理解する。
- レビューや口コミを分析する。
- 「評価の低いイタリア料理店」を検索対象とする。
AIとは何をしているのか
1.4. AIの実例
「すのーまんのむねきゅんのがぞーをだして」
- 音声認識
- 「Snow Manの胸キュンの画像を出して」と文字化
- Snow Manを日本のアイドルグループと認識する。
- 「Snow」を雪や雪だるまと誤認しないよう文脈で判断する。
- 「胸キュン」の意味を推定する。
- 検索結果や画像データを分析し、利用者の意図に近い画像を提示する。
- 顔立ち 体格 歌唱力 性格 表情 思い出 恋愛感情 性的魅力個人的経験
2. AIにおける倫理的問題
2.1. 個人情報とプライバシー
- 個人情報は適切に保護されているか。
- 本人の同意なく利用されていないか。
- データ漏洩や不正利用をどのように防ぐか。
2.2. AIの判断に伴う問題
(1)学習データの偏り(バイアス)
- 過去の採用データに男女差別が含まれていれば、AIも女性を不利に評価する可能性がある。
- 特定の民族・人種の犯罪データだけが多く収集されていれば、「その民族・人種は犯罪率が高い」と誤った推論を導く危険がある。
(2)過度に合理的・効率的な判断
- 世界人口を一定数まで減らせば資源問題は解決する。
- 高齢者医療を縮小すれば医療費は削減できる。
2.3. 誤推論(ハルシネーション)
- 存在しない論文を引用する。
- 根拠のない統計を示す。
- 不完全なデータから誤った結論を導く。
2.4. ブラックボックス問題
- なぜその結論になったのか
- どの情報を重視したのか
2.5. 雇用への影響
- 雇用喪失
- 所得格差の拡大
- 富の一極集中
2.6. 軍事利用
2.7. AIと人格
- 人格権を認めるべきか。
- 法的責任を負えるのか。
- 人権の主体となり得るのか。
2.8. 法制度の未成熟
3. AIとキリスト教倫理
3.1. 教会のAI倫理
- 透明性(Transparency) 判断の理由を明らかに
- 包摂性(Inclusion) 一部の人だけに利用可能ではなく
- 責任(Responsibility) 問題が発生した時の責任所在
- 公平性・非差別(Impartiality) 人種などの差別なく公平に
- 信頼性(Reliability) 誤作動で人に危害が及ばないように
- 安全性・プライバシー(Security and Privacy) 個人情報保護
3.2. 被造物としての人間
3.3. AIに対する管理責任
3.4. AIによる支配
3.5. AIの両面性
- 医療や介護を支援し、多くの命を救うことができる。
- 他方で、監視、詐欺、戦争、差別などにも利用され得る。
2026年8月26日水曜日
第二スイス信仰告白 日本語訳
第二スイス信仰告白 日本語訳
第二スイス信仰告白 (1566年)
第1章 聖書は真の神のことばであること
第2章 聖書の解釈について、また教父・教会会議・伝承について
第3章 神について、その唯一性と三位一体について
第4章 偶像について、あるいは神・キリスト・聖徒たちの像について
第5章 神への礼拝・崇敬・祈願について、唯一の仲介者イエス・キリストを通して
第6章 神の摂理について
第7章 万物の創造について、天使・悪魔・人間について
第8章 人間の堕落について、罪について、罪の原因について
第9章 自由意志について、人間の能力について
第10章 神の予定について、聖徒の選びについて
第11章 まことの神まことの人であるイエス・キリストについて、世の唯一の救い主について
第12章 神の律法について
第13章 イエス・キリストの福音について
第14章 悔い改めと人の回心について
第15章 信仰者のまことの義認について
第16章 信仰と善い行いについて、その報いと人の功績について
第17章 神の普遍的で聖なる教会について、教会の唯一の頭について
第18章 教会の奉仕者について、その制定と職務について
第19章 キリストの教会の礼典について 【要約】
第20章 聖なる洗礼について 【要約】
第21章 主の聖なる晩餐について 【要約】
第22章 聖なる集会・教会の集まりについて 【要約】
第23章 教会の祈り、賛美、聖務日課について 【要約】
第24章 祝祭日、断食、食物の選択について 【要約】
第25章 教理教育について、また病人の訪問と慰めについて 【要約】
第26章 信仰者の埋葬について、死者への配慮について、煉獄と霊の出現について 【要約】
第27章 儀式と祭儀について 【要約】
第28章 教会の財産について 【要約】
第29章 独身、結婚、家政について 【要約】
第30章 為政者について 【要約】
【新宗教解説シリーズ】佛所護念会教団──法華経・日蓮宗系なのに伊勢神宮・靖国参拝もする在家仏教教団
- 成立:1950年(昭和25年)10月30日
- 創立者:関口嘉一(初代会長)・関口トミノ(二代会長)夫妻
- 本部所在地:東京都港区白金台2-1-1
- 信徒数:923,811人(2023年度末、文化庁『宗教年鑑』)
- 系統:日蓮系・法華経系の新宗教
- 経典:法華三部経(無量義経・妙法蓮華経・観普賢菩薩行法経(かんふげんぼさつぎょうほうきょう))
- 特徴:寄付・賽銭を一切受け取らず、月会費のみで運営する独自方針
- 関口嘉一 15歳で上京。(14歳で上京、15歳で北海道に渡り、病気で新潟に戻るとも)
- 1923年 関口自転車店を開業。
- 1924年頃 妻・トミノと結婚。
- 結婚からまもなく、長女を授かるが夭逝。
- 1933年 かつての長女の死や長男病弱もあって、妻トミノの信仰の導きにより、霊友会に入信。
- 1935年 霊友会第6支部長になったが、霊友会の共同募金横領・脱税事件を契機に離脱
- 1950年 独立して新教団である佛所護念会教団を設立。
- 法華経見宝塔品(ほけきょうけんほうとうほん)に示される平等大慧(びょうどうだいえ)、教菩薩法(きょうぼさつほう)、佛所護念の精神を中心に、法華経による在家先祖供養を実践。行い、布教活動を展開。毎年伊勢神宮に参拝を行う。
- 法華経見宝塔品(ほけきょうけんほうとうほん):『法華経』の中の「見宝塔品」という章で、仏の教えの尊さと平等性を象徴する場面が描かれます。宝塔(ほうとう)は真理の象徴。
- 平等大慧(びょうどうだいえ):すべての人が仏性(ぶっしょう)を持ち、差別なく悟りに至る智慧(ちえ)を持つという考え。仏教の根本的な平等観を表す。
- 教菩薩法(きょうぼさつほう):菩薩(ぼさつ)が他者を導くために行う教えの実践。自分だけでなく他人の救いを目指す慈悲の行動。
- 佛所護念(ぶっしょごねん):仏が衆生(しゅじょう)を常に守り、念(おも)っているという教え。信仰者が仏の加護を受けているという安心感を意味する。
- 在家先祖供養(ざいけせんぞくよう):出家せず家庭にいる信者(在家)が、法華経の教えに基づいて先祖を供養すること。家庭の中で仏教を実践する形。
- 1953年 本部講堂完成
- 1963年より神宮の式年遷宮の奉賛をすすめる。明治神宮、靖国神社への参拝も行う。
- 建国記念の日奉祝を打ち出し、靖国神社国家護持を主張している。
- 2015年11月、さいたまスーパーアリーナで創立65周年式典を挙行。
- 法華経の実践を最重視する。日常生活で法華経を読み、先祖供養を行うことを基本とする。
- 伊勢神宮や身延山久遠寺、明治神宮への参拝行事を行う。
- 創立以来、会員からの寄付・賽銭を一切受け取らず、月々の会費のみで運営する方針を貫いている(公式サイトで明言)。
- 自宅での先祖供養(読経)
- 本部・教会での修養会への参加
- 会報『佛所護念』の発行(毎月)
- 国内14教会・海外1教会(台湾教会)を展開
- 参議院の全国区・比例区選挙で、大竹平八郎、鳩山威一郎、藤井裕久、尾辻秀久、有村治子、衛藤晟一、山谷えり子ら複数候補を支援してきた記録がある。
- 日本会議との関係について、AERA編集部の取材に対し教団は「皇室仰慕(ぎょうぼ)の諸活動や英霊の慰霊顕彰など、教団の考えに合う取り組みについて、その趣旨に賛同する会員に協力を呼び掛けている」と回答している。
説教や聖書研究をする信徒のための聖書注解 マタイ27:27-31「兵士たちによるイエスの嘲弄」
説教や聖書研究をする信徒のための聖書注解
マタイ27:27-31「兵士たちによるイエスの嘲弄」
概要
注解
27:27
文法解析
- Τότε:τότε「そのとき」副詞
- 時を示す副詞です。直前のピラトによる判決と鞭打ち(27:26)を受け、その後に起こった出来事を導入しています。
- οἱ στρατιῶται:στρατιώτης「兵士」男性・複数・主格
- παραλαβόντεςおよびσυνήγαγονの主体です。
- τοῦ ἡγεμόνος:ἡγεμών「総督、支配者」男性・単数・属格
- παραλαβόντες:παραλαμβάνω「引き取る、連れて行く」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
- τὸ πραιτώριον:πραιτώριον「総督官邸、プラエトリウム」中性・単数・対格。ラテン語 praetorium に由来する語です。
- συνήγαγον:συνάγω「集める」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
- ἐπ’ αὐτόν:ἐπί+αὐτός「彼のところに、彼の周りに」前置詞+男性・単数・対格
- ὅλην:ὅλος「全体の、すべての」女性・単数・対格
- τὴν σπεῖραν:σπεῖρα「部隊、軍団の一部、コホルス」女性・単数・対格
注解
- 27節から、場面はピラトによる正式な裁判から、ローマ兵によるイエスへの嘲弄へと移ります。27:26ではピラトがイエスを鞭打った後、「十字架につけるために引き渡した」と記されましたが、実際の十字架刑に向かう前に、27–31節の嘲弄場面が挿入されています。
- 「イエスを引き取って」:ここでイエスはローマ兵の支配下に置かれます。
- 「総督官邸」:ラテン語 praetorium に由来し、総督の滞在・執務場所を指します。エルサレムにおけるその正確な所在地については議論がありますが、物語の進行上の要点は、イエスがユダヤ人指導者や群衆の前からローマ兵の内部空間へ移されたという点です。
- 「部隊」:ローマ軍の cohors に相当する語として用いられています。本来の編制上は数百人規模を指し得ますが、ὅλην τὴν σπεῖρανを「文字どおり全員が集合した」と厳密に理解する必要はありません。多数の兵士がイエスを取り囲み、集団的な嘲弄が始まったことが強調されていると思われます。
27:28
文法解析
- ἐκδύσαντες:ἐκδύω「脱がせる」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
- αὐτόν:αὐτός「彼」男性・単数・対格
- ἐκδύσαντεςの目的語で、イエスを指します。
- χλαμύδα:χλαμύς「外套、マント」女性・単数・対格
- περιέθηκανの目的語です。特に兵士などが用いる短い外套を指すことがあります。
- κοκκίνην:κόκκινος「緋色の、深紅色の」女性・単数・対格
- χλαμύδαを修飾します。
- περιέθηκαν:περιτίθημι「周りに置く、身につけさせる」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
- περί+τίθημιからなる動詞で、「周囲に置く」から「着せる」という意味になります。
注解
- 兵士たちはまずイエスの衣服を脱がせ、代わりに「緋色の外套」を着せます。
- 軍人などが着用した短い外套を意味します。したがって、兵士たちは手近にあった軍用の外套をイエスに着せ、それを王の衣装に見立てたと考えられます。
- マタイが色をκοκκίνην「緋色の」とする点は注目されます。マルコ15:17およびヨハネ19:2では紫色を意味するπορφύρα/πορφυροῦνが用いられています。古代における赤・緋・紫の色彩表現には幅があり、ここから必ずしも矛盾を想定する必要はありません。いずれにしても、王侯を連想させる色の衣服を用いてイエスを「王」に仕立てているということです。当然、兵士たちはイエスを真の王としてそのように行なっているわけではありません。
- しかし、そこに大きな逆説があります。兵士たちは「偽の王」としてイエスを嘲弄しますが、マタイ福音書は冒頭からイエスをダビデの子、メシアとして提示してきました(1:1)。つまり、兵士たちが嘲って演じている「王の即位」が、物語の神学的次元では真実を指し示すことになります。
27:29
文法解析
- πλέξαντες:πλέκω「編む、編み合わせる」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
- στέφανον:στέφανος「冠、花冠」男性・単数・対格
- 王冠そのものを意味するδιάδημαとは異なり、花輪・勝利者の冠などにも用いられる語です。
- ἀκανθῶν:ἄκανθα「茨、とげのある植物」女性・複数・属格
- ἐπέθηκαν:ἐπιτίθημι「上に置く、載せる」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
- κεφαλῆς:κεφαλή「頭」女性・単数・属格
- κάλαμον:κάλαμος「葦、葦の棒」男性・単数・対格。王の笏を模したものです。
- δεξιᾷ:δεξιός「右の」女性・単数・与格、名詞的用法。「右手に」という意味です。χείρ「手」が省略されています。
- γονυπετήσαντες:γονυπετέω「ひざまずく」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格。γόνυ「ひざ」とπίπτω「倒れる」に関連する語です。王に対する臣下の礼を模倣しています。
- ἔμπροσθεν:ἔμπροσθεν「~の前で」前置詞的副詞+属格
- ἐνέπαιξαν:ἐμπαίζω「嘲る、からかう」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
- Χαῖρε:χαίρω「喜ぶ、喜べ」現在・能動・命令法・2人称単数。挨拶としては「ごきげんよう」「万歳」に相当します。皇帝や王への歓呼を模倣した表現です。
- βασιλεῦ:βασιλεύς「王」男性・単数・呼格
注解
- この節では「偽りの即位式」が執り行われています。兵士たちは、①王の衣に相当する緋色の外套、②王冠に相当する茨の冠、③王笏に相当する葦、④臣下の跪拝、⑤王への歓呼、という一連の要素を用いてイエスを嘲弄しています。
- 「茨の冠」:その目的がイエスに肉体的苦痛を与えることだったのか、王冠を戯画化することだったのか、本文だけからは断定できません。「王冠のパロディー」として機能していることは確かです。
- 「葦」:王の笏を模しています。王の権威を象徴する笏の代わりに、折れやすい葦を持たせることによって、「お前の王権など見せかけだ」という嘲笑が表現されています。
- 「ひざまずいて」:本来、王の前にひざまずくことは服従と敬意の表現です。しかし兵士たちはそれを演技として行っています。
- 「ごきげんよう、ユダヤ人の王よ」:Χαῖρεは日常的には「こんにちは」「ごきげんよう」という一般的挨拶ですが、この場面では王への歓呼として機能しています。「ユダヤ人の王、万歳」といったニュアンスを持つと考えることもできます。
- ここにはマタイ特有の強烈な皮肉が込められています。兵士たちはイエスが王ではないと思っているからこそ「ユダヤ人の王よ」と嘲ります。しかし読者は、イエスがメシアなる王であることを知っています。さらにマタイ福音書では、イエスに対する「ひざまずく」という行為が重要な意味を持ちます。たとえば東方の博士たちは幼子イエスにひざまずいてして礼拝しました(2:11)。しかしここでは、兵士たちは偽りの礼拝を行います。そして復活後には弟子たちが復活したイエスを礼拝します(28:17)。したがって27:29は、「偽りの礼拝」と「真の王権」という逆説が交差する場面となっています。
27:30
文法解析
- ἐμπτύσαντες:ἐμπτύω「唾を吐きかける」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
- ἔτυπτον:τύπτω「打つ、殴る」未完了・能動・直説法・3人称複数。未完了形であることが重要で、一回だけ打ったというより、「打ち続けていた」「繰り返し打った」という継続・反復的な行為を示唆します。
注解
- 29節までは「王の即位式」の戯画という性格が前面に出ていましたが、30節では嘲弄が露骨な身体的暴力へと移ります。
- 「唾を吐きかける」:単なる不快な行為ではなく、古代世界において強い侮辱を表す行為です。イエスはすでに大祭司の前でも唾を吐きかけられています。「それから彼らはイエスの顔に唾を吐きかけ……」(26:67)。したがってマタイでは、ユダヤ人指導者側の人々による嘲弄と、ローマ兵による嘲弄が並行しています。
- 「葦を取って」:29節で「王笏」として持たされていたκάλαμοςが、今度はイエスを殴る道具になっています。ここで特に注目すべき文法はἔτυπτονです。これはアオリストではなく未完了形です。直前のἔλαβον「彼らは取った」はアオリストですが、その後の「打つ」は未完了形となっています。したがって、「葦を取った。そして彼の頭を打ち続けた」というニュアンスを持ちます。また、茨の冠がすでに頭に載せられている状態で頭部を打たれたとすれば、肉体的苦痛も伴ったと考えられます。
27:31
文法解析
- ἐνέδυσαν:ἐνδύω「着せる、身につけさせる」アオリスト・能動・直説法・3人称複数。ἐκδύω「脱がせる」と対をなしています。
- τὰ ἱμάτια:ἱμάτιον「衣服、衣」中性・複数・対格
- ἀπήγαγον:ἀπάγω「連れて行く、引いて行く」アオリスト・能動・直説法・3人称複数。ἀπό+ἄγωからなる動詞です。
- τὸ σταυρῶσαι:σταυρόω「十字架につける」アオリスト・能動・不定詞+中性・単数・対格の冠詞
注解
- 31節は27–30節の嘲弄場面を閉じ、実際の十字架刑へ物語を移行させる節です。一連の「偽りの即位式」がここで終了します。
- 「彼自身の衣服を着せ」:兵士たちはχλαμύςを脱がせ、イエス自身のἱμάτιαを再び着せます。
- 27:27–31全体を通して注目すべきなのは、イエスがほとんど何も語らないことです。兵士たちが、「連れて行く」「集める」「脱がせる」「着せる」「冠を載せる」「葦を持たせる」「ひざまずく」「嘲る」「唾を吐く」「打つ」「再び着せる」
イエスは抵抗せず、言い返さず、ただ沈黙のまま受け続けます。彼は奪われ、着せられ、載せられ、持たされ、打たれ、連れて行かれる――すべて受動の主体として描かれています。しかしその沈黙こそ、神の子が自ら選び取った「王としての道」でありました。力による支配ではなく、辱めと苦難を通して人を救う王。暴力によってではなく、徹底した従順によって神の御心を成し遂げる王。茨の冠を戴くことによって、罪と死の力を打ち破る王。
兵士たちが跪いたのは嘲笑のためでした。しかし復活の朝、弟子たちは真実の礼拝としてイエスの前に跪きました。兵士たちが叫んだ「ユダヤ人の王よ」は侮辱でしたが、復活の主を前にした教会は「主よ、王よ」と心から告白します。嘲弄の場面は、神の国の王がどのような王であるかを逆説的に示す啓示の場となっています。
私たちもまた、しばしばこの世界の価値観の中で「王らしくない王」を見失いがちです。力、成功、名誉――そうしたものが王のしるしだと思ってしまう。しかし、茨の冠を戴いた主は、私たちに別の道を示します。弱さの中に働く神の力、沈黙の中に宿る神の愛、辱めの中で輝く神の栄光。主はその道を歩み切り、十字架へと向かわれました。
「あなたはどの王に跪くのか。」
外側の栄光をまとった王か、それとも茨の冠を戴き、あなたのために沈黙してくださった王か。
主イエスは、嘲られ、打たれ、沈黙しながらも、あなたの救いのために王として歩み続けました。
この王にこそ、私たちは心から跪き、従い、礼拝する者とされたいと願います。
2026年8月21日金曜日
<レジュメ版と文章版>信条・信仰告白の講解説教 ――1890年「信仰ノ告白」を中心に
- ウェストミンスター信仰告白
- ウェストミンスター小教理問答
- ハイデルベルク信仰問答
- ドルト信仰規準
| 構成 | 内容 | 神学的主題 |
| ① | 我等が神と崇むる主耶蘇基督 | キリスト告白 |
| ② | 神の子が人となる | 受肉 |
| ③ | 罪のために完全な犠牲を献げる | 贖罪 |
| ④ | 信仰によってキリストと一体となる | キリストとの結合 |
| ⑤ | 赦され、義とされる | 罪の赦し・義認 |
| ⑥ | 信仰が愛によって働き、心を清める | 聖化・信仰生活 |
| ⑦ | 父・子と共に聖霊を礼拝する | 三位一体 |
| ⑧ | 聖霊がキリストを現す | 聖霊論 |
| ⑨ | 聖霊の恵みによって神の国に入る | 救済論 |
| ⑩ | 預言者・使徒・聖徒に働く聖霊 | 啓示・教会 |
| ⑪ | 新旧約聖書に語る聖霊 | 聖書論 |
| ⑫ | 聖徒に伝えられた信仰 | 信仰の継承 |
| ⑬ | 使徒信条 | 公同教会との一致 |
↓
救い(キリストとの結合、贖罪、義認)
↓
聖霊(三位一体論、信徒とされて以降の救済論)
↓
聖書(聖霊による歴史介入と霊感、聖書の正典性)
↓
歴史的教会(信仰の継承)
↓
現在の教会の告白(教会の伝統との連続性)
信条・信仰告白の講解説教
――1890年「信仰ノ告白」を中心に
1.信条・信仰告白を説教するということ
信条や信仰告白は、キリスト教の教理・教義を簡潔にまとめただけのものではありません。それらの多くは、教理をめぐる論争、異端とされた思想との対立、教派間の競合、あるいは社会や国家との緊張など、具体的な歴史的状況のなかで形成されてきました。
したがって、信条や信仰告白を講解する場合には、まず次のように問う必要があります。
なぜ、その時代の教会は、その内容をあえて告白しなければならなかったのでしょうか。
ここでいう「信条」とは、キリスト教会が共有する基本的な信仰内容を簡潔に定式化し、「われらは信ず」と公に告白するものです。使徒信条のように、礼拝、洗礼、信仰教育などにおいて唱えられることが多く、教会の公同的な信仰を表明します。ただし、アタナシオス信条のように、比較的長いものもあります。
これに対して「信仰告白」とは、教会や教派が、特定の歴史的状況のもとで、自らの信仰的立場を具体的に表明するものです。一般に信条よりも詳細で長い傾向がありますが、1890年の「信仰ノ告白」やバルメン神学宣言のように、比較的簡潔なものもあります。
また、「教理」とは、聖書と教会の伝統に基づいて整理・体系化された信仰上の教えを指します。「教義」とは、そのなかでも教会が公的かつ規範的なものとして確定し、告白してきた信仰内容です。
もっとも、信条や信仰告白の講解説教は、教会史や教理史を説明することだけを目的とするものではありません。大切なのは、過去の教会が具体的な論争や葛藤を通して守ろうとした福音の核心を明らかにし、それを現代の信徒が直面している問題へと結びつけることです。
そのため、講解説教では、まず信条・信仰告白の言葉に注目し、次に、それが成立した歴史的背景や論争を確認します。そのうえで、そこで守ろうとされた福音の内容を見極め、現代においてその福音を脅かすものが何かを問い直します。そして最後に、今日の私たちが「われらは信ず」と告白することの意味を明らかにします。
通常の説教では、聖書箇所が朗読され、その聖書の言葉から福音の内容が説き明かされ、聴衆の生活へと適用されます。信条・信仰告白を扱う説教では、そこに信仰告白という媒介が加わります。すなわち、聖書箇所を読み、その光のもとで信仰告白の内容を解き明かし、さらにその告白が証しする聖書的・福音的内容を、現代の聴衆の生活へと結びつけます。
2.1890年「信仰ノ告白」成立の日本教会史的背景
(1)日本基督公会の成立
1890年の「信仰ノ告白」を理解するためには、まず明治初期の日本プロテスタント教会の形成過程を確認する必要があります。
1859年の開港以後、横浜をはじめとする開港地には、さまざまなプロテスタント教派の宣教師が来日しました。米国長老派のジェームズ・カーティス・ヘボン、米国オランダ改革派のサミュエル・ロビンス・ブラウン、同じく改革派のジェームズ・ハミルトン・バラ、バプテスト系のジョナサン・ゴーブルなどが、その代表的な人物です。
彼らは、直接的な伝道だけでなく、語学教育、医療、聖書翻訳などを通して、日本社会との接点を築いていきました。とりわけ、宣教師の英語学校に集まった日本人青年たちは、学びと祈りの交わりを通してキリスト教信仰に触れるようになりました。
1872年には、バラの英語学校に関わる祈祷会などを背景として、日本人青年たちが洗礼を受け、日本基督公会が形成されました。この教会の成立は、日本におけるプロテスタント教会の歩みにとって重要な出発点となりました。
(2)日本基督一致教会の成立
1877年には、日本基督公会を中心とする教会と、長老派・改革派系の宣教師たちによって形成された諸教会が合同し、日本基督一致教会が成立しました。
この教会は、長老派・改革派の伝統を受け継ぎ、次の文書を重要な教理的基準としていました。
- ウェストミンスター信仰告白
- ウェストミンスター小教理問答
- ハイデルベルク信仰問答
- ドルト信仰規準
しかし、日本人のキリスト者たちは、やがて次のような問いに直面することになります。
欧米の教会が、それぞれの歴史的論争のなかで形成した信仰告白を、そのまま日本の教会自身の告白として受け入れてよいのでしょうか。
ここで問われていたのは、欧米の信仰告白を否定することではありません。むしろ、それらの信仰的遺産を受け継ぎながら、日本の教会が日本という具体的な状況のなかで、自らの主体的な言葉によって信仰を告白できるかどうかでした。
(3)公会主義と「日本の教会」の形成
明治初期の日本プロテスタント教会には、欧米に存在する教派的区分をそのまま日本に移植するのではなく、キリストにある一つの教会を日本に形成しようとする志向が見られました。
この公会主義的志向は、個々の教派の特色をすべて解消することを意味したわけではありません。それぞれの教派的伝統を踏まえながらも、それ以上に、キリストを信じる者たちの一致と、公同の教会との連続性を重視する姿勢でした。
日本の教会は、単に欧米教会の出先機関であることにとどまらず、日本の地に根ざした教会として、自らの責任において信仰を告白することを求められていました。
(4)日本組合基督教会との合同問題
1880年代後半には、日本基督一致教会と日本組合基督教会との合同が検討されました。その際、重要な課題となったのは、合同後の教会が、どのような信仰的基準のもとに一致するのかという問題でした。
教派ごとに受け継いできた詳細な信仰告白を、そのまま合同教会全体の基準とすることは容易ではありません。そこで、キリスト教信仰の核心を簡潔に表明する信仰告白によって一致するという方向が模索されました。
最終的に両教会の合同は実現しませんでしたが、「簡潔な信仰告白による一致」という理念は、その後も残りました。この理念が、1890年の「信仰ノ告白」の制定へとつながっていきます。
したがって、1890年の信仰告白が簡潔であることは、単に教理的内容を減らしたという意味ではありません。それは、教会の一致にとって不可欠な福音の中心を見極めようとした結果でした。
3.1890年という社会的文脈
1890年は、日本が近代国家として急速に自己形成を進めていた時期でした。その過程では、国家の秩序、教育のあり方、国民の道徳、天皇への忠誠などが、強く意識されるようになりました。
1889年には大日本帝国憲法が発布されました。翌1890年10月30日には、「教育ニ関スル勅語」、いわゆる教育勅語が発布されました。教育勅語は、親への孝行、兄弟姉妹の友愛、夫婦の調和、友人への信義、公益への奉仕などを徳目として掲げ、それらを天皇を中心とする国家秩序のなかに位置づけました。
その年の12月、日本基督一致教会は「信仰ノ告白」を制定し、教会の名称を日本基督教会へと改めました。そして翌1891年1月には、内村鑑三不敬事件が起こりました。
これらの出来事は、国家が「日本人はいかに生きるべきか」を示そうとしていた時代に、教会もまた「誰を主なる神として礼拝し、キリスト者はいかに生きるべきか」を告白していたことを示しています。
ただし、教育勅語の発布が直接の原因となって、1890年の「信仰ノ告白」が制定されたと断定することはできません。両者のあいだに直接的な因果関係を認めるには、慎重な史料的検討が必要です。
それでも、近代国家への忠誠が重視される社会において、キリスト者の信仰的忠誠がどこに向けられるのかという問題が、次第に表面化していたことは見逃せません。内村鑑三不敬事件は、その緊張を象徴的に示す出来事でした。
また、明治政府が宗教を管理し、制度的に位置づけようとしたことも、当時の教会を取り巻く重要な背景でした。教派神道の制度化に見られるように、国家は宗教に対する管理・統制を進めていました。そのような時代に、教会が自らの信仰を公に言葉にすることは、単なる教理上の確認にとどまらない意味をもっていたと考えられます。
4.1890年「信仰ノ告白」の理念
(1)外国の信条から「われわれの告白」へ
1890年の「信仰ノ告白」は、しばしば簡潔な信仰告白として理解されます。しかし、その重要性は、内容が短いという点だけにあるのではありません。
その背後には、次のような根本的な問いがあります。
何を告白すれば、教会は教会として立つことができるのでしょうか。
欧米の教会が長い歴史のなかで形成した信仰告白は、日本の教会にとっても重要な遺産でした。しかし、それらの教派的相違や歴史的論争を詳細に繰り返すことが、そのまま日本の教会の主体的な告白になるわけではありません。
そこで求められたのは、キリスト教信仰の核心を明確に保ちながら、日本の教会が自らの言葉によって「われわれは何を信じるのか」を表明することでした。
この意味で、1890年の「信仰ノ告白」は、外国の教会から受け継いだ信仰を、日本の教会自身の告白として引き受け直す試みであったといえます。
(2)中心に置かれるキリスト
1890年の信仰告白は、次の言葉から始まります。
「我等が神と崇むる主耶蘇基督」
この冒頭の言葉には、信仰告白全体の中心が凝縮されています。すなわち、私たちが神として礼拝する方は誰なのか、私たちが主として従う方は誰なのかという問いです。
「主耶蘇基督」という告白は、イエスを優れた宗教家や道徳的模範として尊敬するだけでは十分ではないことを示しています。ここで告白されているのは、神の子が人となり、私たちの罪のためにご自身を献げ、私たちを救いへと導く方です。
したがって、この告白は、単に教理的に正しいキリスト論を確認するためのものではありません。それは、私たちが人生の根本において誰に信頼し、誰に属し、誰の言葉に従って生きるのかを表明する告白です。
(3)教派的一致から公同的信仰へ
1890年の「信仰ノ告白」は、特定の教派の詳細な教理体系を提示すること以上に、歴史的なキリスト教会が共有してきた信仰との連続性を重視しています。そのことは、「独自の前文」と「使徒信条」を組み合わせる構造に表れています。
前文では、日本の教会が、自らの時代と状況のなかで、キリスト、救い、聖霊、聖書、教会について告白します。そして使徒信条を続けることによって、その告白が、古代以来の公同の教会の信仰と切り離されたものではないことを示します。
つまり、日本的な状況だけを重視して、歴史的教会の伝統から離れるのでもありません。反対に、教会の伝統だけを繰り返して、日本という具体的な文脈を無視するのでもありません。
日本の教会自身の言葉で、公同の教会が受け継いできた信仰を告白します。
1890年の「信仰ノ告白」の理念は、この点に集約されます。
5.1890年「信仰ノ告白」の全体構造
1890年の「信仰ノ告白」の前文は、キリストの告白から始まり、救い、聖霊、聖書、教会、そして使徒信条へと展開していきます。
| 構成 | 告白される内容 | 神学的主題 |
|---|---|---|
| ① | 我等が神と崇むる主耶蘇基督 | キリスト告白 |
| ② | 神の子が人となる | 受肉 |
| ③ | 罪のために完全な犠牲を献げる | 贖罪 |
| ④ | 信仰によってキリストと一体となる | キリストとの結合 |
| ⑤ | 赦され、義とされる | 罪の赦し・義認 |
| ⑥ | 信仰が愛によって働き、心を清める | 聖化・信仰生活 |
| ⑦ | 父・子とともに聖霊を礼拝する | 三位一体 |
| ⑧ | 聖霊がキリストを現す | 聖霊論 |
| ⑨ | 聖霊の恵みによって神の国に入る | 救済論 |
| ⑩ | 預言者・使徒・聖徒に働く聖霊 | 啓示・教会 |
| ⑪ | 新旧約聖書に語る聖霊 | 聖書論 |
| ⑫ | 聖徒に伝えられた信仰 | 信仰の継承 |
| ⑬ | 使徒信条 | 公同教会との一致 |
第一に、「我等が神と崇むる主耶蘇基督」と告白されます。ここでは、イエス・キリストが神として礼拝される方であることが示されます。信仰告白の出発点は、抽象的な宗教理念ではなく、具体的なキリストの告白です。
第二に、神の子が人となられたことが告白されます。これは受肉を表しています。神は人間の苦しみや歴史から遠く離れた存在ではなく、イエス・キリストにおいて人間の現実のなかへと来られました。
第三に、キリストが私たちの罪のために完全な犠牲を献げられたことが告白されます。ここでは、キリストの十字架が、私たちの罪と神との断絶に関わる救いの出来事として理解されています。
第四に、私たちが信仰によってキリストと一体となることが示されます。救いは、キリストについての知識を得ることだけではありません。キリストと結ばれ、その命にあずかることです。
第五に、その結びつきのなかで、私たちが罪を赦され、神の前に義とされることが告白されます。人間は、自分自身の功績や道徳的努力によって神の前に正しい者とされるのではありません。キリストの恵みによって赦され、受け入れられます。
第六に、その信仰が愛によって働き、人の心を清めていくことが示されます。ここでは、信仰と生活が切り離されていません。神に受け入れられた者は、愛に生きる者として変えられていきます。これが聖化と信仰生活の主題です。
第七に、父と子とともに聖霊を礼拝することが告白されます。これは、父・子・聖霊なる神を礼拝する三位一体信仰の表明です。
第八に、聖霊がキリストを私たちに示し、キリストの救いを現実のものとされることが語られます。キリストについての告白は、過去の出来事を思い出すだけではありません。聖霊の働きによって、キリストが現在の私たちにとって生きた主として示されます。
第九に、聖霊の恵みによって、私たちが神の国に入れられることが示されます。救いは人間自身の能力によるものではなく、神の恵みの働きによるものです。
第十に、聖霊が預言者、使徒、聖徒たちのなかに働いてこられたことが語られます。信仰は、一人ひとりの個人的な経験だけに基づくものではありません。それは、神が歴史のなかで人々に働きかけ、教会を導いてこられたことに根ざしています。
第十一に、新旧約聖書を通して聖霊が語られることが告白されます。聖書は、単なる古代の宗教文書の集まりではなく、聖霊によって教会に語りかける神の言葉を証しする書として受け止められます。
第十二に、その信仰が聖徒たちに伝えられ、歴史を通して受け継がれてきたことが示されます。現在の教会の信仰は、自分たちだけで新しく作り出したものではありません。先立つ教会から受け継いだ信仰に連なっています。
第十三に、使徒信条が置かれます。これによって、日本の教会の告白が、公同の教会の歴史的信仰と一致していることが示されます。
以上の流れは、次のようにまとめられます。
キリストの告白(神・受肉・贖罪)
↓
救い(キリストとの結合・罪の赦し・義認)
↓
聖霊(三位一体・聖化・救いの完成)
↓
聖書(歴史に働く聖霊・聖書の証言)
↓
歴史的教会(信仰の継承)
↓
現在の教会の告白(公同教会との連続性)
なお、キリストの復活や再臨などが前文で個別に詳述されていないとしても、それらが軽視されているという意味ではありません。前文の後に続く使徒信条において、それらの信仰内容が告白されるため、全体として理解する必要があります。
6.1890年「信仰ノ告白」講解説教における現代への適用
信仰告白を現代の説教において語るためには、それぞれの時代の教会が、どのような問いに直面し、何を守ろうとしたのかを考える必要があります。
(1)キリスト論
古代教会にとって重要な問いの一つは、「キリストは真の神であるのか」という問題でした。この問いは、イエス・キリストが単に優れた人間や神に近い存在であるのか、それとも神ご自身として礼拝される方であるのかをめぐるものでした。
明治期の日本の教会にとって、このキリスト告白は、「私たちは誰を究極的な主として礼拝するのか」という問いと結びつきました。国家と天皇への忠誠が強く求められる社会において、キリストを神として礼拝することは、信仰の根本的な帰属先を明らかにすることでした。
現代においても、この問いは失われていません。イエスを立派な道徳教師、愛の模範、あるいは人生の参考になる人物として理解することはできます。しかし、キリスト教信仰は、それだけにとどまりません。
イエス・キリストは、私にとって単なる道徳的模範なのでしょうか。それとも、私の罪、重荷、苦しみを担い、私を救う生ける主なのでしょうか。
キリスト論を語る説教は、「キリストは真の神です」という教理的命題を説明するだけでは十分ではありません。その方が、現実の不安、孤独、罪責、挫折を抱える私たちにとって、どのような救い主であるのかを語る必要があります。
(2)義認
義認をめぐる問いは、「人は、どのようにして神の前に義とされるのか」という問題です。
これは、キリスト教の歴史を通して繰り返し問われ、宗教改革においても特に重要な主題となりました。人間は、自らの善行、功績、宗教的努力によって神に認められるのでしょうか。それとも、神の恵みによって赦され、受け入れられるのでしょうか。
明治期の日本においては、この問いに、「誰が私の価値を最終的に判断するのか」という問題も重なりました。国家や社会から評価されることが、人間の価値を決定するのでしょうか。それとも、神がキリストにおいて私たちを受け入れてくださることが、私たちの存在の基礎となるのでしょうか。
現代社会でも、多くの人が、自分の過ちや負い目に苦しんでいます。また、学歴、職業、収入、社会的成功、周囲からの評価などによって、自分の価値を測ろうとします。
そのなかで義認の福音は、次のように告げます。
あなたの価値は、あなたの成果や評価だけによって決まるのではありません。
自分自身を正当化し続けなければならない社会のなかで、神がキリストを通して私たちを受け入れてくださることが、義認の中心です。
したがって、義認についての講解説教は、「人が神の前に義とされる」という神学的表現を説明するだけではなく、「自分の失敗や負い目を抱えながら、それでも受け入れられて生きるとはどういうことか」という現代的な問いに応える必要があります。
(3)聖書論
聖書論をめぐって、古代教会は、「教会における聖書の権威とは何か」「どの文書を正典として受け入れるのか」という問いに取り組みました。
さまざまな教えや文書が存在するなかで、教会は、使徒たちの証言と福音に根ざした文書を受け継ぎ、それらを信仰と生活の基準としてきました。
明治期の日本では、「国家の理念や社会の価値観が、人間にとっての最終的な真理を語ることができるのか」という問いが生じました。近代化、富国強兵、国家への忠誠が強調される社会において、教会は、神の言葉を聞くべき場所がどこにあるのかを問わなければなりませんでした。
現代社会では、情報があふれ、無数の価値観が同時に流通しています。インターネット、報道、広告、SNSなどは、「こう生きるべきだ」「こうすれば成功できる」「もっと自分を実現すべきだ」と、絶えず人に呼びかけます。
そのなかで問われるのは、次のことです。
私たちは、何を最終的な判断基準として生きるのでしょうか。
聖書を信仰の基準として受け止めることは、社会の情報をすべて拒否することではありません。むしろ、多様な情報や価値観に接しながらも、それらによって自分の存在や生き方を一方的に決定されないために、神の言葉に立ち返ることです。
聖書論の講解説教は、「聖書には権威があります」と述べるだけで終わるべきではありません。絶えず比較され、評価され、自己実現を求められる現代社会において、神の言葉がどのように私たちを自由にし、支えるのかを示す必要があります。
7.1890年信仰告白から現代へ――「誰を主とするのか」
1890年という時代は、富国強兵、近代国家の形成、教育制度の整備、社会の再編が進むなかで、人々に新たな帰属意識や忠誠が求められた時代でした。
その状況のなかで、日本の教会は、次のように告白しました。
「我等が神と崇むる主耶蘇基督」
それは、国家や社会のなかで生活しながらも、人間の究極的な帰属先がどこにあるのかを問い直す言葉でした。
現代社会においても、私たちはさまざまなものから、自分の価値や生きる意味を定義するよう求められています。国家や政治的立場、会社や職業、学歴、収入、社会的評価、SNSでの反応、世論、自己実現などが、私たちに対して問い続けます。
「あなたは何者なのですか」
「何を成し遂げたのですか」
「どれほど認められているのですか」
これらのものは、それ自体が必ずしも悪いわけではありません。しかし、それらが人間の価値を最終的に決定するものとなるとき、私たちは容易に不安や比較、競争や自己否定のなかに閉じ込められます。
そのような状況で、「我等が神と崇むる主耶蘇基督」と告白することは、私たちの存在の中心を改めて確かめることです。
私たちは、社会的評価によってのみ生きる者ではありません。成功や失敗によって最終的に価値づけられる者でもありません。キリストに知られ、キリストに愛され、キリストに属する者として生きるよう招かれています。
この信仰告白は、次の問いに対する教会の答えです。
「私は誰に属するのか」
「何を究極的な価値とするのか」
「誰の言葉によって、どのように生きるのか」
結び
「我等が神と崇むる主耶蘇基督」
このように告白することは、単に古い教理を繰り返すことではありません。それは、現代を生きる私たちが、誰を主とし、何を信じ、どこに自らの存在の根拠を置くのかを表明することです。
したがって、信仰告白の講解説教とは、「昔の教会が何を信じていたのか」を説明するだけの営みではありません。教会が受け継いできた信仰を、**「今日、私たちは何を信じて生きるのか」**という現在の告白へと結びつける営みです。
1890年の日本の教会は、歴史的教会から受け継いだキリスト教信仰を、自らの時代と場所において、「我等」の信仰告白として語り直しました。
同じように、現代の教会もまた、その信仰を、いまを生きる「私たちの告白」として語り直すことを求められています。
信仰告白は、過去から受け継いだ言葉を大切に守るものであると同時に、その言葉がそれぞれの時代に何を意味するのかを問い続けるものでもあります。
その意味で、1890年の「信仰ノ告白」は、教会が伝統を尊重しながら、福音に照らして絶えず自らを問い直し、改革され続けることを促す告白です。
そして、その告白を現在の教会の生きた言葉として響かせる場こそが、礼拝における信仰告白の講解説教なのです。
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