2026年2月24日火曜日

【小論】「マタイ福音書におけるマルコ福音書資料の編集と神学的修正」

マタイ福音書におけるマルコ福音書資料の編集と神学的修正

 

序論

 マタイ福音書がマルコ福音書を主要資料として用いていることは、二資料仮説を基盤とする共観福音書研究において広く承認されている[1]。マタイはマルコを単純に踏襲するのではなく、叙述の整理、語彙・文体の修正、神学的観点に基づく再構成を通して独自の福音書を形成している[2]。本稿の目的は、マルコ福音書に対するマタイの編集操作を検討し、マタイがどのような点からマルコを再解釈し、再構成したのかを明らかにすることである。
 マタイの編集方針は、おおむね以下の六点に整理できる。
1. 記事内容の簡潔化および文体修正
2. 旧約引用・成就句の付加
3. ユダヤ教指導者批判の強化
4. イエス像の修正
5. 弟子像の修正
6. 律法理解の再定位
 本章は第1章で提示した「協働」と「競合」という関係類型の枠組みに立脚する。すなわち、マタイのマルコ使用を、単なる依存や対立ではなく、競合的緊張を内包した協働的再構成として位置づける。
 さらに重要なのは、マタイのマルコ改訂の度合いが、ルカに比して一層包括的かつ神学的である点である(第3章にて後述)。この傾向は、語録資料Qに対する編集操作においても同様に認められ、マタイは与えられた伝承を体系的に再構成する編集者であることを示唆する。本章は、こうした資料横断的編集傾向の一貫性を視野に入れつつ、マタイのマルコ使用を検討する。
 
 

1. 記事内容の簡潔化および文体や表現の修正(改善、省略、簡略化など)

1.1. 詳細表現の簡略化

 マルコ1:32における「彼らは彼のもとに、悪いところを持つ人々、そして悪霊憑きの全ての人々を運んで来ていた」という包括的表現は、マタイ8:16では「彼らは彼のもとに、多くの悪霊憑きの人々を運んで来た」と簡略化され、焦点が整理されている。マタイは冗長な並列表現を削減し、物語の統一性を高める傾向を示す。

1.2. 感情表現の簡略化

 マルコ4:38における弟子たちの感情的な問い「先生、私たちが滅びることをよしとするのか」は、マタイ8:25では「主よ、救ってください」(Κύριε, σῶσον)という祈願文形式が前景化されている。同様に、マルコ1:41の「深く憐れんで」という感情描写は、マタイ8:3では削除され、簡略化されている。

1.3. 物語的説明の整理

 マルコに5:8における γάρ を伴っての理由説明の挿入は、マタイ8:29では省略され、叙述の流れが単純化されている。また、会堂長の娘の治癒奇跡における二段階的展開も(マルコ5:35–36)、マタイ9:23では簡潔に処理されている。他、説明句の削除(マルコ5:23//マタイ9:18)、場面描写の簡素化(マルコ6:48//マタイ14:24)も挙げられ、物語性よりも秩序を優先する傾向が見られる。

1.4. 「εὐθύς」「εὐθέως」の削減

 マルコに頻出する副詞 εὐθύς/εὐθέως(41回)は、マタイでは18回に減少する。例えば、マルコ1:12の「そしてすぐに霊が彼を追いやった」は、マタイ4:1では「その時、イエスは導かれて」と書き換えられ、即時性に代えて摂理性が強調されている。他、冗長さの削減例として、マルコ1:10//マタイ3:16、マルコ1:30//マタイ8:14などが挙げられる。

1.5. 供食の記事の削減

 マルコにおける二度の供食物語(6:30–44; 8:1–10)について、ルカは第一供食(9:10–17)のみを伝えているのに対し、マタイは双方を保持しているが(14:13–21; 15:32–39)、マルコ6:52の「心の頑なさ」への言及は削除され、マルコ8:17–21における強い叱責はマタイ16:5–12において新たな文脈の中に組み替えられつつ、その調子も穏やかなものへと修正されている。すなわち、マタイはマルコの弟子の無理解モティーフを弱化している[3]。これらの編集操作は、共同体の自己理解に適合する物語的再調整と見るべきであり、ここにマルコとの神学的緊張を保持しつつも物語構造を維持する「生産的競合」の様相が認められる。
 

2.  旧約引用・成就句の付加によるユダヤ的正統性の強調

2.1. 旧約引用の付加・長文化・改変

 誕生物語(1-2章)から受難記事に至るまで、マタイはマルコにはない旧約引用を多数付加し、イエスの出来事を救済史的枠組みの中に統合する。
 マタイが独自に付加した旧約引用と、引用の長文化または改変の用例は、以下の通り。
マタイ1:22-23(イザヤ7:14)、2:5-6(ミカ5:1)、2:15(ホセア11:1)、2:17-18(エレミヤ31:15)、2:23(イザヤ11:1、士師13:5?)、マタイ4:14-16(イザヤ8:23-9:1 LXX9:1-2)、8:17(イザヤ53:4)、9:13(ホセア6:6)、マタイ12:17-21(イザヤ42:1-4)、マタイ13:14-15(イザヤ6:9-10、長文化)、21:4-5(イザヤ62:11、ゼカリヤ9:9)、27:9-10(ゼカリヤ11:12-13、エレミヤと表記されている)、27:46(マルコ15:34の詩編引用をアレンジ)。
2.2. 家系や表現などのユダヤ的要素の強化
 系図(マタイ1:1–17)およびベツレヘム誕生の強調(2:1-12)は、イエスのダビデ的血統性を明確化する。これらの操作は、イエスをイスラエル史の連続性に再配置し、その正統性を主張する機能を果たす。マタイがマルコを否定することなく異なる点を強化する点において、両者は神学的協働関係にある。
 

3. ユダヤ教批判の強化

 マタイ23章における律法学者・ファリサイ派への7個の「不幸」宣告は、マルコを超える論争的展開を示す。また27:25における群衆の発言(「その血の責任は、我々と子孫にある」)は、イエス殺害の責任をユダヤ人側に集約する叙述である[4]。これらはシナゴーグとの緊張関係の中で形成されたマタイ教会の自己規定を反映する論争的言説として理解されるべきであり[5]、マタイの置かれた状況に対応するための付加的要素である。
 

4. イエス像の修正

4.1. 否定的描写の削除

 マルコ3:21における「身内が取り押さえに来た」「正気を失ったと思われた」という記述は、マタイ12:46–50では削除されている。

4.2. 能力制限表現の修正

 マルコ6:5の「力ある業を何一つ行うことができなかった」という表現は、マタイ13:58において「多くの力ある業をしなかった」へ修正され、イエスの能力に起因するものではない意志的選択として再解釈されている。

4.3. 職業表現の修正

 マルコ6:3におけるイエスを「職人(τέκτων)」と同定する表現は、マタイ13:55では「職人の息子」とされ、イエスの尊厳保持の意図と解される。

4.4. まとめ

 これらの編集は、イエス像に含まれる否定的・制限的要素を整理し、キリスト論の高揚化を目的とした最適化と位置づけられる。マタイはマルコの基本構造を保持しつつ、その内在的緊張を調整し、イエスを一層権威あるメシアとして提示している。ゆえに、この修正はマルコ神学の単純な否定ではなく、深化させる「協働的競合」の具体例と評価できる。
 

5. 弟子像の修正

 マルコに顕著な弟子の無理解モティーフは、マタイでは体系的に緩和・削除される。マルコ4:13の二重修辞疑問文(「この譬えも分からないのか?どうして全ての例えを理解できようか?」)はマタイ13:18では削除され、マルコ6:52の「パンのことを理解せず、心が固くなっていた」という評価も、マタイ14:33では信仰告白へと置換されている。さらに、マタイ16:17–19におけるペトロへの祝福と教会建立宣言は、ペトロと弟子団の再定位を示す独自付加である。
 

6. 律法観の修正、律法破棄に見える記述の削除

6.1. 律法相対化表現の回避

 マルコ7:19の「便所に出て行く……全ての食べ物を清いとした」という編集的注記は、マタイでは回避されている[6]。また、マルコ2:27「安息日は人のために設けられたのであって、人が安息日のためにあるのではない」という安息日論争の核心的な言葉も削除される。

6.2. 例外条項の付加

 離婚規定(マルコ10:11–12)に対する「不貞の場合を除いて」という例外条項(マタイ5:32; 19:9)の付加は、現実的な持続的運用を高める実践的調整と理解し得る。
6.3. マタイ5:17-20の付加の意義
 「わたしが律法や預言者を廃するために来たと思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである……律法から一点一画も決して消え去ることはない。」という律法廃棄の否定と成就概念の提示は、マルコ的相対化を「成就」概念によって包含する形で再定義するものであり、競合を通して神学的地平を拡張する協働的再構成の典型例と評価できる[7]
 

7. 結論

 マタイ福音書は、マルコ福音書を叙述的枠組みとして受け継ぎつつ、編集的整理と神学的再構成を通して独自の方向性を明確化している。旧約聖書引用および成就句の反復的配置は、イエスの出来事をイスラエル史の連続性の中に位置づけると同時に、教会のユダヤ的正統性を神学的に根拠づける機能を担っている。また、イエス像および弟子像の修正は、マタイ共同体が志向する権威理解および共同体秩序を物語的・神学的に裏づける編集操作として理解される。
 律法理解に関しては、マタイはマルコに見られる律法相対化の傾向を部分的に修正し、律法を廃棄の対象ではなく、「成就」という枠組みの中で再定位している。この点において、両福音書の間には相応の神学的緊張が認められる。
 この律法理解の差異について、David C. Simらは、マルコやパウロ的伝統に見られる律法相対化傾向に対して、マタイが対抗的立場を取っていると主張する。マタイはモーセ律法の継続的妥当性を強く保持する点で、他の多くの新約文書と一線を画しているという[8]。とりわけヤコブ書との神学的近接性は注目されるべきであり、さらにディダケーとの関連、ならびにそれらがシリア的環境(milieu)に属する可能性と相まって、一定の地域的・思想的連関を想定する研究動向も存在する。
 もっとも、マタイとマルコの関係は「排除的競合」には至らない(第1章)。マタイのマルコ改訂は広範囲に及ぶものの、物語構造の骨格、受難・復活の神学、そしてイエス理解の根幹においてはマルコを踏襲している。したがって、ここで確認されるのは全面的否定ではなく、高度の神学的緊張を内包した「生産的競合」と呼ぶべき関係である。マタイはマルコの権威を前提としつつ、その神学的含意を再解釈し、共同体的要請に即して再構成したのである。
 マタイがマルコの部分的改訂にとどまらず、独立した福音書の執筆に踏み切った理由は、マルコ全体を包括的に再配置する必要を認識していた点に求められる。この点は、ルカによるマルコの全面改訂としてのルカ福音書と共通する。すなわちマタイは、マルコを排除するのではなく、その神学を別の方向へと展開させる再創造的営為を行ったのであり、この意味で両者の関係は、対立的拒絶ではなく「協働的競合」として理解される。
 さらに、新約文書全体の中で見るならば、マタイ(およびヤコブ書)は、正典文書全体において、律法理解の点では主流的立場に位置するとは言い難い。しかしながら、四福音書の正典的形成過程においてマタイが「第一福音書」として受容された事実は、その再構成の神学的統合力と文学的完成度が高く評価された結果であったと考えられる。歴史的帰結の観点から見るならば、こうした競合は最終的に排除へと収斂するのではなく、複数の神学的声部を保持するかたちで正典内部に組み込まれたのであり、ここに初期キリスト教文書間の「協働的」関係の成熟した姿を見出すことができる。


[1] 小河陽, 「マタイによる福音書」, in 『新版 総説 新約聖書』(東京: 日本キリスト教団出版局, 2003年), 90. / G. タイセン『新約聖書——歴史・文学・宗教』, 大貫隆訳(東京: 教文館, 2003年), 153.
[2] 小河陽, 「マタイによる福音書」, 96.
[3] U. ルツ, 『マタイの神学』原口尚彰訳(教文館, 1996年), 135頁. 「マルコ的弟子理解を、マタイは継承してはいない。彼にとって弟子たちは、無理解なのではなく、まだ理解していないのである。」
[4] なお、本節で扱う27:25は後代の反ユダヤ主義的言説に利用された歴史を有するが、本論はその受容史的問題には立ち入らず、第一世紀の福音書編集という文脈に限定して検討する。
[5] Udo Schnelle, Einleitung in das Neue Testament. 7. Auflage (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht / UTB, 2019), 265. マタイとユダヤ教との対立構造については、次を参照。David C. Sim, "Reconstructing the Social and Religious Milieu of Matthew: Methods, Sources and Possible Results in Matthew, James, and Didache——Three Related Documents in Their Jewish and Christian Settings, ed. Huub van de Sandt, and Jürgen Zangenberg (The Society of Biblical Literature, 2008), 13-32.
[6] 小河陽『マタイによる福音書——旧約の完成者イエス』,「福音書のイエス・キリスト」1, (東京: 日本基督教団出版局, 1996年), 251-252. 律法の無効宣言とも解されかねないマルコの言葉や、洗礼者ヨハネの出現で律法と預言者が効力を失ったかのような印象を与える伝承(ルカ16:16)に対して、マタイは削除や挿入などの編集を施している。
[7] Udo Schnelle, Einleitung in das Neue Testament, 7 Auflage (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht / UTB, 2019), 274. イエスは律法の廃止ではなく、成就として語り(マタイ5:17–20)、山上の説教では従来の律法を越える倫理的要求を提示する。
[8] Joseph Verheyden, Jens Schröter, and David C. Sim, eds., The Composition, Theology, and Early Reception of Matthew’s Gospel, Wissenschaftliche Untersuchungen zum Neuen Testament 477 (Tübingen: Mohr Siebeck, 2022).

2026年2月17日火曜日

【動画】政党「チームみらい」と「真如苑」の関係性の「噂」に関する考察

 

<AIによる内容の客観的説明>


安野貴博氏の経歴と仏教用語との関連性  

「チームみらい」の中心人物・安野氏が関わった企業(ベドア/PKSHA Works、PKSHA Technology)の社名に、仏教由来の語が用いられている点を紹介。


真如苑系財団との接点の可能性  

真如苑関連団体「ユニベール財団」が、高齢者福祉やAIを活用した傾聴支援などに助成していることを踏まえ、安野氏の事業との共通点を検討。ただし、助成を受けたと断定できる書面などの確証は見つからず。


名称の共通性について  

「チームみらい」の“みらい”という表記が、真如苑の活動(未来祭、未来財など)でも使われている点に触れつつ、直接的な関係を示す証拠は確認されていないと説明。


総合的な結論  

関係者の中に真如苑の信徒がいる可能性や、思想的影響が社名等に反映されている可能性は否定できないものの、「チームみらい」が真如苑の組織的な“手先”として政治展開していると示す強い証拠は見当たらないと結論づけています。

また、真如苑は福祉的な社会貢献に重きを置く傾向があり、政治的野心は比較的薄いと分析されています。

2026年2月13日金曜日

【キリスト教史解説動画】ケルソス(Celsus)― 最古の反キリスト教思想家

ケルソス Kelsos 生没年不詳(3世紀頃)


【キリスト教史解説】ケルソス(Celsus)― 最古の反キリスト教思想家

活動時期:西暦170–180年頃(2世紀後半)
立場:ギリシア系哲学者、初期キリスト教の批判者
主著:『真理の言葉(Λόγος Ἀληθής)』※現存せず
本書は、3世紀の神学者 オリゲネス が著した『ケルソス駁論』(248年)に引用された形でのみ伝存している。
現存最古の体系的なキリスト教批判書である。

思想的立場

  • オリゲネスは彼をエピクロス派と呼んだが、現代研究では否定的。
  • 実際にはプラトン主義を中心とする折衷主義的哲学者と考えられる。
  • 伝統宗教とローマ帝国秩序を擁護する保守的知識人。
  • 神観は単純な多神論ではなく、最高神を頂点とする階層的神観(ヘノテイズム的傾向)。

主な批判内容

1.イエス批判

  • 処女懐胎を否定
  • 出自を不名誉なものと主張
  • 奇跡を魔術と解釈

2.教義批判

  • 受肉思想を非合理とみなす
  • 復活思想を荒唐無稽と批判
  • 聖書解釈を恣意的と指摘

3.社会批判

  • キリスト教徒が国家祭儀を拒否することを問題視
  • 軍務・公共義務を回避する態度を非難
  • キリスト教を新奇で分裂的な宗教とみなす

史料的特徴

  • 『真理の言葉』は448年に禁書とされ消失。
  • 内容はオリゲネスの反駁書から再構成される。
  • オリゲネスの引用は比較的忠実と考えられている。

歴史的意義

  • 最古の本格的反キリスト教哲学的論駁。
  • キリスト教弁証学発展の重要契機。
  • キリスト教がローマ知識層からどのように見られていたかを示す一次的証言。

2026年2月11日水曜日

【小論】マルコ福音書における女性たち

【小論】マルコ福音書における女性たち

1. マルコ福音書に登場する女性の総数と実名性

 マルコ福音書において言及されている女性は、合計で15名に及ぶ。筆者は、イエスの母マリアと「小ヤコブとヨセの母マリア」とを同一人物と考えるが、本稿では差し当たり別個の人物として数える。  この15名のうち、実名が明示されている女性は以下の5名である。

  • イエスの母マリア
  • ヘロディア
  • マグダラのマリア
  • 小ヤコブとヨセの母マリア
  • サロメ

 このことから、マルコ福音書における女性表象は、大多数が匿名のまま描かれているという特徴を有していると言える。匿名性は、女性たちを個人史的存在としてよりも、物語機能的・神学的役割を担う存在として前景化する効果をもたらしている。


2. 「仕える」女性――ディアコニアのモチーフ

 マルコ福音書において、「仕える(διακονεῖν)」という行為を実際に行っている人物として明示的に描かれているのは、シモンの姑と、ガリラヤから従ってきた婦人たちである。  シモンの姑は、癒やしの直後に「彼らに仕えた」と記されており(1:31)、これはイエスの活動開始直後における最初のディアコニアの実践である。一方、十字架記事において言及される婦人たちは、「イエスがガリラヤにいた時に従い、仕えていた」と回顧的に描写される(15:40–41)。  Witherington が指摘するように、これらの婦人たちは単なる観察者ではなく、弟子集団の周縁に位置するもう一つの弟子層として理解されるべき存在である1


3. イエスの母マリアと「真の家族」主題

 マルコ福音書におけるイエスの母マリアへの明瞭な言及は、主として二箇所に限られている。第一は、イエスの身内が彼を取り押さえに来た文脈を引き継ぎつつ、「真の家族」が再定義される場面(3:31–33)であり、第二は、イエスが故郷に帰った際の言及(6:3)である。  特に3章31–35節では、母および兄弟たちが外に立つ一方で、イエスは「神の御心を行う者」こそが自らの家族であると宣言する。この文脈において、マリアは血縁関係のある特権的存在としてではなく、再定義される家族概念の中に位置づけられる存在として描かれている。  なお、イエスの故郷がナザレであることは、すでに1章9節および1章24節において特定されている。


4. マルコ福音書に登場する女性の一覧

 以下に、マルコ福音書で言及される女性を登場順に整理する。

  1. シモンの姑(1:29, 31)
  2. イエスの母マリア(3:31–32; 6:3)
  3. ヤイロの娘(5:23, 35, 41–43)
  4. 長血を患う女性(5:25–34)
  5. イエスの姉妹たち(6:3)
  6. ヘロディア(6:17, 19, 24, 28)
  7. ヘロディアの娘(6:22–28)
  8. シリア・フェニキアの女性(7:25–30)
  9. 「やもめの献金」の女性(12:42–44)
  10. 香油を注いだベタニアの女性(14:3–9)
  11. 大祭司の邸宅にいた女中(14:66, 69)
  12. 十字架のもとに立つ婦人たち(15:40–41)
  13. マグダラのマリア(15:40, 47; 16:1[9])
  14. 小ヤコブとヨセの母マリア(15:40, 47; 16:1)
  15. サロメ(15:40; 16:1)

5. まとめ

 マルコ福音書における女性たちは、物語の周縁に置かれながらも、癒やし、信仰告白、奉仕、証言、そして受難と復活の場面において決定的な役割を果たしている。とりわけ、男性弟子たちが沈黙や逃亡によって描かれるのに対し、婦人たちは「従い」「仕え」「見届ける」存在として一貫して描写されている点は注目に値する。  このことは、マルコ福音書が描く弟子像が、十二弟子の枠に限定されない、多層的構造を有していることを示唆している。


脚注

1:  Ben Witherington III, The Gospel of Mark: A Socio-Rhetorical Commentary, William B. Eerdmans Publishing Company, 2001, p.442.

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ24:36-44「目を覚ましていなさい」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ24:36-44「目を覚ましていなさい」



マタイ24:36

  • 原文: Περὶ δὲ τῆς ἡμέρας ἐκείνης καὶ ὥρας οὐδεὶς οἶδεν, οὐδὲ οἱ ἄγγελοι τῶν οὐρανῶν, οὐδὲ ὁ υἱός, εἰ μὴ ὁ πατὴρ μόνος.
  • 私訳: しかし、その日、その時については、誰も知らない。天の御使いたちも知らず、子も知らない。ただ父のみが(知っている)。
  • 新共同訳: 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。

注解

  • 「しかし、〜については」( Περὶ δὲ):ここは話題の転換点で、24:4–35の「徴の列挙」から、「時の不可知性」へと主題が移行している。
  • 「その日」:終末、人の子の再臨が起こる日。
  • 「誰も知らない」:再臨の時の不可知性を表す。同時に、実現の時を語る偽預言者や惑わす人がいれば、それは虚偽であることを示す。
  • 「子も(知らない)」: 子はキリストを指す。父なる神だけが知る権威があるという、父なる神の主権が強調されている。ただし、「神なるキリストでさえ知り得ないとはどうこうことか?」というキリスト論神学上の問題が生じる箇所で、「受肉した子の知の自己制限」として処理されることが多い。


マタイ24:37

  • 原文:ὥσπερ γὰρ αἱ ἡμέραι τοῦ Νῶε, οὕτως ἔσται ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.
  • 私訳:なぜなら、ノアの日々がそうであったように、人の子の来臨もそのようになるからである。
  • 新共同訳: 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。

注解

  • ノアの洪水の出来事が、人の子の再臨の時の訪れと対比されている。
  • 対比の視点は、洪水という事象ではなく、突然に到来するという点。
  • 「来臨」(ἡ παρουσία):元々は王の訪問を指す語。この文脈では、キリストの再臨が起こり、神の権威をもっての審判と統治の始まりを指して使われ、後にこの語はキリスト教専門用語として定着した。


マタイ24:38

  • 原文:ὥσπερ γὰρ ἦσαν ἐν ταῖς ἡμέραις ταῖς πρὸ τοῦ κατακλυσμοῦ τρώγοντες καὶ πίνοντες, γαμοῦντες καὶ γαμίζοντες, ἄχρι ἧς ἡμέρας εἰσῆλθεν Νῶε εἰς τὴν κιβωτόν,
  • 私訳:というのも、洪水の前のあの日々において、彼らが食べ、飲み、娶り、嫁がせていたように、ノアが箱舟に入るその日まで。
  • 新共同訳: 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

注解

  • τρώγοντες:動詞 τρώγω(食べる)現在・能動・分詞・男性・複数・主格
  • γαμοῦντες:動詞 γαμέω現在分詞「(男が)妻をめとる」、 γαμίζοντες:動詞 γαμίζω「(娘を)嫁がせる」 現在分詞なので、この行動をとり続けていたことを含意する。
  • 列挙される行為はすべて日常生活上の行為。ノアを通しての警告を無視しての日常生活内の自己完結。
  • 「ノアが方舟に入るその日まで」:洪水が始まって手遅れになるまで、彼らが気づくような兆候はなかったということ。

<黙想> 多くの人は、「本当に危機が迫ったら、その時こそ改めよう」と考えがちである。だが実際には、自分が思い描く「いよいよ」という瞬間が訪れた時には、すでに手遅れで、残るのは後悔だけ──それが人生の常である。 だからこそ、「今、この瞬間にその時が来てもよいように」心を整え、希望を抱いて日々を歩むことこそ、キリストの再臨を待ち望む者にとって欠かせない姿勢である。



マタイ24:39

  • 原文: καὶ οὐκ ἔγνωσαν ἕως ἦλθεν ὁ κατακλυσμὸς καὶ ἦρεν ἅπαντας· οὕτως ἔσται καὶ ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.
  • 私訳:そして彼らは悟らなかった、洪水が来て、すべてをさらうまで。人の子の来臨もまた、そのようである。
  • そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。

注解

  • ἦρεν:動詞 αἴρω (持ち上げる、攫う(拐う))のアオリスト能動直説三人称単数
  • 「悟らなかった」「気づかなかった (新共同訳)」(οὐκ ἔγνωσαν):逆に言えば、その時になって「悟った」。無知というよりも、理解することを拒絶し続けた結果である。
  • 「すべてをさらうまで」:審判の徹底性を表す。その強調的表現。
  • 「人の子の来臨もまた」:再臨時の審判がノアの時と同様ということ。すなわち、その突然性と、誰も逃れられない全面性について。


<説教の結びの言葉として>  ノアの時代の人々は、日々の生活に心を奪われ、神が語られる警告に耳を傾けようとしませんでした。彼らは「悟らなかった」のではなく、「悟ろうとしなかった」のです。自分の生活の安定や楽しみを優先し、神の言葉が入り込む余地を失っていたのです。  主イエスは、再臨の時も同じであると語られます。それは突然であり、誰も逃れることのできない現実として訪れます。ですから、私たちに求められているのは、「いつ来るのか」を知ることではなく、「いつ来てもよい者として生きること」です。  「目を覚ましていなさい」という主の招きは、恐れに身構えることではありません。今日という日を神の前に誠実に生きること、与えられた務めを果たし、隣人を愛し、悔い改めと信仰の歩みを続けることです。主が来られるその時、慌てて取り繕う必要がないように、今を整えて歩むことが求められています。  主は必ず来られます。その時は父なる神だけがご存じです。しかし、その確かさゆえに、私たちは今日を希望をもって生きることができます。



マタイ24:40

原文: τότε δύο ἔσονται ἐν τῷ ἀγρῷ, εἷς παραλαμβάνεται καὶ εἷς ἀφίεται· 私訳: そのとき、二人が畑にいて、一人は取られ、そして一人は残される。 新共同訳: そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

注解

  • 「取られ……残され」(παραλαμβάνεται / ἀφίεται):受動態。行為の主体は神。すなわち、神が選んだ人を取り、一方でそのままに残す(ほおっておく)。二人は、同時にその場に居合わせるという同一状況にありながら、その時までに「(終末への)備え」があるか否かによって、劇的な差となって現れる。それが露見する時が、再臨であり終末の時。


マタイ24:41

原文: δύο ἀλήθουσαι ἐν τῷ μύλῳ, μία παραλαμβάνεται καὶ μία ἀφίεται. 私訳: 二人の女が臼を挽いていると、一人は取られ、一人は残される。 新共同訳: 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

注解

  • ἀλήθουσαι: 動詞 ἀλήθω(「挽く、粉をひく」)の現在能動分詞
  • 前節の畑の二人と同じ主旨の例え。畑も臼も、なにげない日常生活のひとこま。いつまでもそれが続くと思われる生活が、突如寸断される。また、畑は男性の労働、臼は女性の労働という男女それぞれの在り方が意識されているかもしれない。いずれにせよ、生活の場・時で、終末は到来するということ。


マタイ24:42

  • 原文: γρηγορεῖτε οὖν, ὅτι οὐκ οἴδατε ποία ἡμέρα ὁ κύριος ὑμῶν ἔρχεται.
  • 私訳: それゆえ、目を覚ましていなさい。あなたがたは、主がどの日に来られるのか知らないからである。
  • 新共同訳: だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

注解

  • γρηγορεῖτε:動詞 γρηγορέω(「目を覚ましている」「警戒している」)現在・能動・命令法・2人称複数。「目を覚ましなさい」という一回的な命令ではなく、「目を覚ましていなさい」という継続性を求める命令。


マタイ24:43

  • 原文: ἐκεῖνο δὲ γινώσκετε, ὅτι εἰ ᾔδει ὁ οἰκοδεσπότης ποίᾳ φυλακῇ ὁ κλέπτης ἔρχεται, ἐγρηγόρησεν ἂν καὶ οὐκ ἂν εἴασεν διορυχθῆναι τὴν οἰκίαν αὐτοῦ.
  • 私訳: もし、家の主人が、どの見張りの時に泥棒が来るのを知っていたら、目を覚まして、彼の家に穴を開けさせることは許さなかっただろう。
  • 新共同訳: このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。

注解

  • εἰ ᾔδειεἰ: 条件節を導く。「もし〜なら」ᾔδει: 動詞 οἶδα(「知っている」)の過去完了・3人称単数。反実仮想(事実に反する仮定) を表し、「もし知っていならば」という意。
  • ὁ οἰκοδεσπότης: 名詞「家の主人、家主」
  • φυλακῇ: 名詞「見張りの時刻、番の時間」女性・与格・単数
  • εἴασεν: 動詞 ἐάω(「許す、放任する」)アオリスト・能動・3人称単数
  • 要は、大丈夫だろうと油断して、目を覚さない状態でいるところを突かれることが大変多いから気をつけなさい、ということ。


マタイ24:44

  • 原文: διὰ τοῦτο καὶ ὑμεῖς γίνεσθε ἕτοιμοι, ὅτι ᾗ οὐ δοκεῖτε ὥρᾳ ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἔρχεται.
  • 私訳: こういうわけで、”あなたがた”(強調形)もまた、備えているようにしなさい。あながたが思いもしない時、人の子は来るからである。
  • 新共同訳: だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。

注解

  • γίνεσθε: 動詞 γίνομαι(「〜になる」)現在・中動態(意味は能動)・命令法・2人称複数。「〜であり続けなさい」「〜になりなさい」
  • ἕτοιμοι: 形容詞「準備のできた」男性・主格・複数。
  • 「思いもしない時」「思いがけない時」:「いつ」というピンポイント予想は不可能ということの一側面で、予想外の時に来るから、常に「用意していない」ということ。結局、予測ではなく、まして油断的な弛緩でもなく、主末を希望とするキリスト者としての基本的な生きる姿勢を、いつもブレずに保っていなさいということ。


説教の結びの言葉と祈り

 今日の主イエスの言葉は、時に油断してしまう私たちの信仰の歩みを、再び目覚めへと呼び戻す招きです。畑で働く二人の男も、臼を挽く二人の女も、どちらも日常のただ中に置かれていました。しかし、その平凡な日々に突然、神の時が差し込むのです。それまでの歩みに油断や驕りがなかったかどうかは、その瞬間に初めて、白日のもとに明らかにされます。  主が求めておられる「備え」とは、特別な行いでも、張りつめた緊張でもありません。主を待ち望む者として、日々を誠実に、基本に忠実に生きる姿勢そのものです。それを難しいと感じるとき、実は私たち自身が、そうした生活から目をそらし、言い訳をしてしまっているのかもしれません。  「目を覚ましていなさい」「備えていなさい」という主の命令は、私たちを縛るためではなく、むしろ自由へと、そして希望へと導く言葉です。私たちは、主がいつ来られるかを知りません。けれども、主が必ず来られることを知っています。それを希望として受け取れないときがあるとすれば、それは今の自分があまりにも「満ち足りている」と感じ、心が緩んでしまっているからかもしれません。  しかし、主の確かな約束があるゆえに、私たちは今日という一日を、主に向かって整えながら歩むことができます。思いがけない時にも揺るがない備えを持つ者として、主の光の中を歩み続ける者とされたいと願います。

祈り

どうか、私たち一人ひとりが、思いがけない時にも揺るがない備えを持つ者として、主の再び来られる日を希望をもって待ち望むことができますように。  主が与えてくださる光の中で、目を覚まして歩み続ける者とされますように。  アーメン。

2026年2月10日火曜日

「真如苑」における「接心」の料金(冥加料)の一覧


「真如苑」における「接心」の料金(冥加料)の一覧

*数値は、週刊ダイヤモンド2018年10月13日号に拠る。 *真如苑の教団成立、教祖、現苑主などについては、概要欄に関連動画のアドレスあり


1. 接心とは

 接心とは、語義的には「心と心を接する」ことを意味し、教団指導者または教団教師が信徒と直接対面し、霊的・信仰的な助言や導きを与える宗教的面談行為を指す。
 真如苑においては、教団によって霊能者として認定された指導的立場の人物が導き手となり、接心を執り行う。  真如苑接心には複数種類あり、信徒の内面状態や生活上の悩みなどを聞き取る過程を含む種の場合、相互的相談やカウンセリングに類似した形式を部分的に取る場合もある。しかし実際には、信徒側が語る量は限定的であり、指導的人物から示される霊的判断(霊視)や言葉を一方向的に受け取る形態が主流である。したがって接心は、対話的実践というよりも、宗教的権威に基づく指示・告知の場として機能していると理解される。 *宗教学的参考:お告げなど、「非対称的コミュニケーション構造」


2. 接心の種類・内容・時間・冥加料一覧

接心の種類 内容 冥加料 所要時間
向上接心 基本修行となる接心 1,000円以上 2〜3分
向上相談接心 自らの修行に対する相談 2,000円以上 3〜5分
相談接心 日常生活での悩み事などの相談 3,000円以上 15〜20分
特別相談接心 相談接心よりも複雑な案件の相談 6,000円以上 20〜30分
鑑定接心 病気・結婚・仕事・土地などについて霊能力を使って行う 8,000円以上 30〜40分
  • 冥加(みょうが):神仏・仏法・超越的存在から受ける加護・功徳
  • 冥加料(みょうがりょう):その冥加に対する感謝として捧げる金銭
 (料金・報酬ではなく、宗教的献納という位置づけ)

【小論】「マタイ福音書におけるマルコ福音書資料の編集と神学的修正」

マタイ福音書におけるマルコ福音書資料の編集と神学的修正   序論  マタイ福音書がマルコ福音書を主要資料として用いていることは、二資料仮説を基盤とする共観福音書研究において広く承認されている [1] 。マタイはマルコを単純に踏襲するのではなく、叙述の整理、語彙・文体の修正、神学的...