2026年9月11日金曜日

キリスト教とクリスマス美術

 

キリスト教とクリスマス美術

1.帝政ローマ時代以降の西洋美術史――基礎的理解として

(カタコンベ美術・初期キリスト教美術)
ビザンティン美術(330年〔コンスタンティノポリス遷都〕~1453年〔東ローマ帝国滅亡〕)
※初期キリスト教の「セクト美術」を継承しつつ発展。
ゴシック美術(12世紀前半頃~16世紀初頭)
国際ゴシック様式(1370年頃~1420年頃)
ルネサンス美術(15~16世紀)
マニエリスム(16世紀前半~16世紀末)
バロック美術(17世紀初頭~18世紀中頃)
ロココ美術(18世紀前半~後半)
ルイ15世・16世時代のフランスを中心に展開。「ロココ」の名称は貝殻装飾(rocaille)に由来する。
新古典主義(18世紀中頃~19世紀初頭)
ロマン主義(18世紀末~19世紀中頃)
写実主義(リアリズム)(19世紀中頃)
印象派(1860年代~1880年代)
象徴主義(1880年代以降)
後期印象派(1880年代後半~1900年前後)
モダニズム美術(20世紀前半)
ポストモダニズム(1970年代頃以降)

2.ローマ時代後期以降のキリスト教美術史

2.1 ローマ時代後期(300~450年頃)

a.背景と特徴

ローマ美術は、古代ギリシア・ヘレニズム美術に見られる自然主義や遠近法による写実的表現から次第に離れ、皇帝権力や宗教的権威を視覚的に表現することを重視する様式へと変化した。その結果、写実性よりも象徴性や権威性が重視され、ギリシア美術の洗練された自然描写は次第に後退していった。

b.歴史と略年表

キリスト教は迫害下の地下宗教(セクト)から、やがて公認宗教、さらに国教へと発展し、それに伴って美術も地下墓所(カタコンベ)を中心とする私的・象徴的表現から、公的空間を飾る宗教美術へと変化した。
  • 313年 皇帝コンスタンティヌス1世、ミラノ勅令によりキリスト教を公認。
  • 392年 皇帝テオドシウス1世、アタナシオス派(ニカイア派)キリスト教を国教化。

c.キリスト教会堂の成立

初期教会は、ローマ帝国における公共建築であったバシリカを教会建築の基本様式として採用した。このバシリカ形式は、その後の西欧教会建築の原型となった。

d.神を絵画・彫刻によって表現できるのかという問題

父なる神

父なる神は不可視の存在であるため、その姿を描くことは偶像崇拝に当たると考えられた。しかし中世後期以降、西方教会では父なる神を老人の姿で描く例も現れる。
例:ミケランジェロ《アダムの創造》(システィーナ礼拝堂天井画)

イエス・キリスト

イエスは受肉して人間となった神であるため、その姿を描くことが可能かどうかが大きな神学的問題となった。この議論は後の聖像破壊論争(イコノクラスム)へとつながっていく。
初期キリスト教ではイエスの姿に統一した表現はなく、
  • 若者として描かれる場合
  • 髭のない姿
  • 髭を生やした成熟した姿
など様々な図像が存在した。
また、イエスの生涯の様々な場面は比較的早い時期から描かれたが、十字架刑は長らく図像化されなかった。十字架刑が重罪人に対する最も屈辱的な刑罰であったためである。十字架が救済の象徴として積極的に描かれるようになるのは後世のことである。

2.2 ビザンティン美術(330~1453年頃)

a.東方的様式への転換

ビザンティン美術は、古代ギリシアの自然主義よりも東方世界の宗教的・象徴的表現を重視する美術として発展した。

b.図像表現の定式化

教義が体系化されるにつれて、美術表現も厳格な規範に従うようになった。
人物の姿勢、視線、色彩、衣服などが定型化され、イコン(聖像)は信仰告白のための「神学を語る絵画」と理解されるようになる。
例として、
  • 聖母マリアは青または青紫系の衣をまとい、「神の母(テオトコス)」として描かれる。
  • キリストは金色の光輪を伴い、神性を象徴する金地を背景とする。
代表例
  • ラヴェンナ、サン・ヴィターレ聖堂(547年頃)のモザイク
  • ギリシア・ダフニ修道院
  • ハギア・ソフィア大聖堂(1453年、コンスタンティノープル陥落後モスクとなる)

c.聖像破壊論争(イコノクラスム)

692年 クィニセクト(トゥルロ)公会議
イエスを人間の姿で描くことが正式に認められる。
726(または730)年
東ローマ皇帝レオ3世が聖画像・聖像を偶像崇拝と断定し、聖像破壊運動を開始。
843年
「正教勝利の日」が制定され、聖像崇敬が正式に回復される。
その後、
  • 864年 ブルガリア改宗
  • 988年 キエフ大公国改宗
とともにイコン文化も東欧へ広く普及した。

2.3 ゴシック美術(12世紀前半~16世紀初頭)

ゴシック美術は、建築・彫刻・絵画に共通する中世ヨーロッパ最大の芸術様式であり、ビザンティン美術からルネサンス美術への橋渡しとなった。
「ゴシック」という名称は、ルネサンス期の人文主義者による蔑称で、「ゴート人風」「野蛮な」という意味であった。
14世紀後半には宮廷文化を背景として国際ゴシック様式が成立し、優雅な人物表現、繊細な細部描写、世俗的主題が特徴となった。

2.4 ルネサンス美術・マニエリスム

ルネサンスは15~16世紀にイタリアで始まり、ヨーロッパ各地へ広がった芸術運動である。
「ルネサンス(再生)」という名称は、19世紀にフランスの歴史家ジュール・ミシュレ、続いてスイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトによって広く用いられるようになった。
ルネサンス美術は、中世の様式的制約から解放され、古典ギリシア・ローマ美術を理想として人体比例、遠近法、自然描写、理想美を追求した。
その後16世紀には、人体比例を意図的に崩し、独創的表現を重視するマニエリスムが展開した。

3.クリスマス美術の典拠

3.1 マタイ・ルカ福音書

四福音書のうち、降誕物語を伝えるのはマタイ福音書とルカ福音書のみである。
現在の新約学では、これらの幼少物語は単なる歴史記録ではなく、イエスが救い主・神の子であることを神学的に表現する目的で構成された物語であると理解されることが多い。
また、当時のユダヤ教側によるイエス出生への批判や、「ダビデの子」であること、旧約預言の成就など、多様な神学的背景が物語形成に反映されていると考えられている。
各福音書の内容については後述する。

3.2 『ヤコブ原福音書』

『ヤコブ原福音書』は正典ではなく外典である。
本書にはマタイ・ルカ福音書にない記述が数多く含まれる。
  • 第9章 ヨセフは高齢の寡夫として描かれる。
  • 第10章 マリアは神殿の垂れ幕用の紫と緋色の糸を紡ぐ務めを担う。
  • 第11章 その務めの最中に天使から受胎告知を受ける。
    →初期受胎告知図では、糸や紡錘がマリアの象徴として描かれる。
  • 第13章 ヨセフはマリアの妊娠を疑う。
    →後世の降誕図に描かれる「疑うヨセフ」の起源となった。

3.3 ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』

『黄金伝説』は、中世ヨーロッパで最も広く読まれた聖人伝集であり、「マギの礼拝」に登場する三博士を
  • ガスパール
  • メルキオール
  • バルタザール
と名付け、その物語を広く普及させた。


4.受胎告知・降誕・東方三博士の礼拝

クリスマス美術を構成する主要なモティーフには、受胎告知、降誕、東方三博士(マギ)の礼拝のほか、
  • 羊飼いの礼拝
  • イエスの割礼
  • 神殿奉献
  • 幼児虐殺
  • エジプト逃避
などがある。本講では、特に受胎告知・降誕・東方三博士の礼拝を取り上げる。

4.1 受胎告知

受胎告知(Annunciation)は、天使ガブリエルがマリアのもとを訪れ、聖霊によってイエスを身ごもることを告げる場面(ルカ1:26–38)である。キリスト教美術の中でも最も多く描かれた主題の一つであり、時代ごとのマリア観や神学思想の変化を反映している。

4.1.1 《受胎告知》 サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂モザイク(432–440年頃)

ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に残るモザイク画は、現存する最古級の受胎告知図である。
マリアは玉座に着座し、冠を戴く皇后のような姿で描かれている。ここでは、一人の少女というよりも、「神の母(テオトコス)」としての威厳と栄光が強調されている。

4.1.2 フラ・アンジェリコ《受胎告知》

(1433~1434年頃、コルトーナ司教区美術館)
初期ルネサンスを代表する受胎告知図。
静寂に満ちた回廊の中で、天使とマリアが向かい合い、二人とも深く頭を下げる姿勢によって神への従順が表現されている。
フラ・アンジェリコは、修道士としての信仰を背景に、受胎告知を祈りの世界として描いている。
なお、受胎告知はルネサンス以降も多くの画家によって描かれ、
  • レオナルド・ダ・ヴィンチ
  • ティツィアーノ
  • エル・グレコ
なども優れた作品を残している。

4.1.3 シモーネ・マルティーニ《受胎告知》(1333年)

国際ゴシック様式を代表する作品。
天使ガブリエルの突然の訪問に対して、マリアは身体を後ろへ引き、衣を握り締めながら恥じらいと驚きを示している。
この姿勢は、神の召命を前にした謙遜や畏れを表すと同時に、少女としての人間的感情をも表現している。

4.1.4 ロベルト・カンピン《受胎告知》(1425年頃)

フランドル絵画を代表する作品。
舞台は中世都市の一般市民住宅であり、受胎告知が日常生活の中で起こった出来事として描かれている。
室内には蝋燭、本、百合など多くの象徴が配置され、信仰生活と日常生活との結び付きが表現されている。
マリアも一般家庭の若い女性として親しみやすく描かれている。

4.1.5 ロレンツォ・ロット《受胎告知》(1527年頃)

ロット独自の感性が表れた作品。
突然現れた天使に驚いたマリアは身体を大きくひねって振り返り、その驚きに反応して室内の猫までも飛び上がって逃げ出している。
神秘的な出来事である受胎告知を、親しみやすい家庭の情景として描いている点が特徴である。

4.1.6 まとめ

受胎告知図は時代によってマリア像が大きく変化している。
初期キリスト教・ビザンティン美術では、「神の母」としての威厳と超越性が強調された。
一方、ゴシック・ルネサンス期になると、マリアは身近な若い女性として描かれるようになり、人間的な感情や日常性が豊かに表現されるようになる。
この変化は、神学のみならず、人間そのものを尊重するルネサンス的人間観の発展とも深く関係している。

4.2 降誕図

降誕図(Nativity)は、イエス誕生の場面を描いたものであり、ルカ福音書・マタイ福音書に加えて、『ヤコブ原福音書』など外典の影響も強く受けている。
また、単に誕生を描くだけではなく、十字架・復活・救済を暗示する神学的意味が数多く盛り込まれている。

4.2.1 ロシア正教会の降誕イコン(20世紀)

ロシア正教会では、現代になっても古来のイコン様式がほぼ変わることなく受け継がれている。
画面中央には布に包まれた幼子イエスが横たえられているが、その姿は飼い葉桶というより墓に納められた姿を想起させる。また、布も埋葬布を思わせる表現となっており、誕生の中に十字架と復活がすでに予告されている。
マリアは幼子を見つめるのではなく、深い思索に沈む姿で描かれることが多い。これは、誕生の喜びと同時に、将来の受難を予感していることを象徴していると解釈される。
画面下にはヨセフが一人離れて座り、老人の姿をした人物と言葉を交わしている。この人物は、ヨセフに疑念を抱かせる誘惑者(悪魔)として解釈されることが多く、『ヤコブ原福音書』に由来する「疑うヨセフ」の伝承を反映している。
さらに、洞窟の中でイエスが誕生する構図も、新約聖書ではなく『ヤコブ原福音書』など外典の影響によるものである。

4.2.2 コンラート・フォン・ゾースト《キリスト降誕》(1404年)

国際ゴシック様式を代表する降誕図。
ここではヨセフは単に傍観者ではなく、火を起こし、食事の支度をするなど、家族を支える父親として描かれている。
初期キリスト教美術ではヨセフは脇役として扱われることが多かったが、中世後期になるにつれて、その家庭的役割や保護者としての姿が強調されるようになった。

4.3 東方三博士(マギ)の礼拝

「東方の博士(マギ)」の礼拝は、マタイ福音書2章のみに記される出来事である。
福音書には人数も名前も記されていない。しかし、美術史の中では外典や中世伝承の影響を受けながら、三人の王として描かれるようになった。

4.3.1 《聖母に贈り物を捧げる三人の王》

(6世紀、ラヴェンナ、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂モザイク)
現存する最も有名なマギ図像の一つ。
三人は
  • ガスパール
  • メルキオール
  • バルタザール
と名前が記されている。
福音書には人数は記されていないが、黄金・乳香・没薬という三種類の献げ物から、早い時期に三人と理解されるようになった。

4.3.2 《マギの礼拝》(980年頃)

初期には単なる東方の占星術師・異邦人として描かれていたマギは、中世になると王冠を戴く王として描かれるようになる。
その背景には、
  • 詩篇72篇10–11節
  • イザヤ書60章
において、諸国の王がメシアを礼拝するという預言が、キリスト誕生において成就したと理解されたことがある。

4.3.3 ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ《マギの礼拝》(1423年)

国際ゴシック様式を代表する傑作。
豪華な衣装、馬、従者、異国風の動物などが画面を埋め尽くし、当時の宮廷文化や祝祭の華やかさが反映されている。
行列の壮麗な描写は、中世末期の祭礼や野外宗教劇を思わせる構成となっている。

4.3.4 ボッティチェリ《マギの礼拝》(1475年頃)

礼拝者の中には、フィレンツェの有力者であるメディチ家の人々が描かれている。
ボッティチェリは、マギの礼拝を単なる聖書の出来事としてではなく、同時代の信仰共同体がキリストを礼拝する姿として再構成した。
画家自身も画面右端に自画像を描き込んでいると考えられている。

4.3.5 レオナルド・ダ・ヴィンチ《マギの礼拝》(1481~1482年)

未完成作品であるが、ルネサンス美術を代表する傑作の一つ。
従来の静かな礼拝図とは異なり、多数の人物が複雑に配置され、人々の驚きや感動が豊かな身体表現によって描かれている。
中央の聖母子を取り巻く人々の視線や身振りは、画面全体に強い求心力を生み出している。

4.3.6 ディエゴ・ベラスケス《東方三博士の礼拝》(1619年、プラド美術館)

初期バロックを代表する作品。
登場人物には、画家自身や師フランシスコ・パチェーコ、その娘でありベラスケスの妻フアナ・パチェーコ、さらに幼子イエスには娘がモデルとなったと考えられている。
この作品では、聖書の物語が17世紀スペインの家庭へと置き換えられ、礼拝する者自身がマギとなってキリストの前にひざまずくという信仰的メッセージが表現されている。

2026年9月8日火曜日

【新宗教解説】霊友会からなぜ巨大教団分派(立正佼成会、佛所護念会)が続出したのか?

 

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2026年9月5日土曜日

【新宗教解説】黒住教(くろずみきょう)

 


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【新宗教解説】黒住教(くろずみきょう)

 黒住教は江戸時代後期に成立した神道系新宗教である。 黒住教は教派神道十三派の一つ。

 文化11年(1814)、備前国岡山(現・岡山市)の吉備津神社の神職であった黒住宗忠(1780〜1850)によって開かれた。宗忠は今村宮(いまむらぐう)の禰宜(ねぎ、宮司に次いで神社の運営を担う重要神職)であったが、33歳のときに両親を相次いで亡くし、自らも肺を患って重篤な状態に陥った。その病中、日の出を拝むことで体調が快方に向かい、同年冬至の朝、昇る朝日に祈りを捧げる中で天照大御神と一体となる神秘的な体験を得た。これが「天命直授(てんめいじきじゅ)」と呼ばれ、黒住教の立教の時とされている。

 黒住教では、天照大御神を万物を生み育てる根源神・親神として仰ぎ、人は「誠の心」をもって神意にかない、神人一体の境地に至ることを教えの中心とする。
 宗忠の没後、教えは彼の高弟七人衆の不況により、備前・美作(みまさ)を中心に岡山藩士や地域住民の間に広まり、藩の有力者からも一定の理解を得たため、他の民衆宗教に見られたような大規模な弾圧を受けることなく発展した。

 明治5年(1872)にはまず「黒住教講社」として公認され、明治9年(1876)に神道事務局から独立し、教派神道の一派「神道黒住派」として正式に公認された。その後、教勢は中国・四国・近畿地方を中心に広がり、九州をはじめ全国へと展開し、現在も神道系教団の一つとして活動を続けている。

2026年8月31日月曜日

AIと現代キリスト教倫理


1. 人工知能(AI)と倫理

「人工知能(Artificial Intelligence:AI)」とは、これまで人間が担ってきた知的活動をコンピューターによって実現しようとする研究分野、およびその技術の総称である。近年では機械学習(Machine Learning)や深層学習(Deep Learning)の発展により、AIは飛躍的な進歩を遂げ、医療、教育、産業、金融、行政など様々な分野で利用されている。
AIが担う代表的な知的活動が、以下。
  • 問題解決(Problem Solving)
  • パターン認識(Pattern Recognition)
  • 自然言語理解(Natural Language Understanding:NLU)


1.1. 問題解決能力(Problem Solving)

「問題解決」とは、与えられた課題を分析し、目的を達成するための最適な方法を見つける過程をいう。
以下、AIに問題が与えられた時の処理プロセス。
  1. 知識ベースや学習済みデータを参照する。
  2. 問題の内容や構造を分析する。
  3. 解決すべき目標(ゴール)を設定する。
  4. 考えられる解決方法を複数列挙する。
  5. それぞれの方法を評価し、最適な方法を選択する。
  6. 実行可能な解答を提示する。

探索アルゴリズムにも様々な種類がある。
  • 幅優先探索(Breadth-First Search)
    可能性を幅広く調べる方法。
  • 深さ優先探索(Depth-First Search)
    一つの候補を深く追究する方法。
  • ヒューリスティック探索(Heuristic Search)
    経験則や評価関数を利用して、計算量の多い候補を途中で除外し、効率よく最適解を探す方法。
現在の生成AIでは、これらの探索手法だけでなく、大規模言語モデル(LLM)による確率的推論も利用されている。

例:「梅田に電車で行きたい」

AIはこの文を次のように処理する。
  1. 「移動したい」という要求であると理解する。
  2. 「梅田が好き」という感情表現ではなく、目的地を示す命令文であると判断する(自然言語理解)。
  3. 「電車で」という条件から交通手段を限定する。
  4. 徒歩・自家用車・飛行機・船などを候補から除外する。
  5. 鉄道路線を検索し、所要時間・料金・乗換回数などを比較する。
  6. 利用者に最適な経路を提示する。
このようにAIは、人間が無意識に行っている試行錯誤を計算によって実現している。

1.2. パターン認識(Pattern Recognition)

パターン認識とは、文字・画像・音声・映像などの特徴を分析し、それが何であるかを判断する技術である。
現在では、
  • 手書き文字認識
  • 顔認識
  • 指紋認証
  • 音声認識
  • 医療画像診断
などに広く利用されている。

例:「え」という文字の認識

AIは一般に次のような手順で処理する。
  1. 画像を入力する。
  2. 線や曲線などの特徴を抽出する。
  3. 学習済みデータと照合する。
  4. 類似した文字候補を列挙する。
  5. 最も一致度の高い文字を選択する。
例えば、「え」という文字が入力された場合、
  • 「え」
  • 「之」
など複数の候補が得られることがある。さらに文脈解析(構文解析・意味解析)が加われば、「芥川龍○介」という文字列では、「え」ではなく「之」(芥川龍之介)が選択される可能性が高くなる。つまりAIは、一文字だけではなく文全体の意味を考慮して判断している。

1.3. 自然言語理解(Natural Language Understanding:NLU)

自然言語理解とは、人間が日常使用する言語をAIが理解し、その意味を解析する技術である。
1990年代以降、
  • 音声認識
  • 文字認識(OCR)
  • 機械翻訳
などで発展してきたが、現在では大規模言語モデル(LLM)の登場によって、文脈や対話全体を考慮した高度な理解が可能となっている。

例 Siriや音声アシスタント

音声入力→音声認識→文字変換→文法解析・意味解析→利用者の意図を推測→命令を実行→結果を音声や画面で提示
近年のAIは単語だけではなく、会話全体の文脈も利用して判断するようになっている。

「まずいイタリア料理店を教えて」
従来の検索システムでは、「近くのイタリア料理店」のみが表示されることが多かった。しかし近年のAIでは、
  • 「まずい」を否定的評価として理解する。
  • レビューや口コミを分析する。
  • 「評価の低いイタリア料理店」を検索対象とする。
など、より文脈に即した処理が可能になっている。ただし、評価は主観的であり、AIが「まずい」と断定しているわけではなく、人々のレビューなどのデータを基に推論している。

AIとは何をしているのか

要するに、人間が意識的あるいは無意識に頭の中で行っている試行錯誤を、コンピューター上の計算によって実現しているのである。

1.4. AIの実例

音声入力
「すのーまんのむねきゅんのがぞーをだして」
AIは次のような処理を行う。
  1. 音声認識
  2. 「Snow Manの胸キュンの画像を出して」と文字化
  3. Snow Manを日本のアイドルグループと認識する。
  4. 「Snow」を雪や雪だるまと誤認しないよう文脈で判断する。
  5. 「胸キュン」の意味を推定する。
  6. 検索結果や画像データを分析し、利用者の意図に近い画像を提示する。
ここで重要なのは、AI自身が「この画像はかっこいい」「この画像に胸キュンした」と思っているわけではないという点である。AIは、
「胸キュン」「人気」「かっこいい」「感動」「ファン」「セクシー」
など、人間が付与した言語データや画像データとの関連性を学習し、その確率が高い画像を提示しているのである。
例えば、
「セクシー」という語が「肌の露出が多い画像」と頻繁に結び付いて学習されていれば、そのような画像が優先的に提示されることがある。
一方、人間が「素敵」と感じる過程は、
  • 顔立ち 体格 歌唱力 性格 表情 思い出 恋愛感情 性的魅力個人的経験
など、多数の要素が複雑に関係している。AIはこうした人間の評価データを大量に学習し、その傾向を統計的に再現している。
なお、「この場合にはこのように処理する」という計算手順をアルゴリズム(Algorithm)という。現在のAIでは、人間が設計したアルゴリズムと、大量のデータから自動的に規則性を学習する機械学習を組み合わせることで、高度な自己学習が可能となっている。

2. AIにおける倫理的問題

AIは社会に大きな利益をもたらす一方、多くの倫理的課題も抱えている。

2.1. 個人情報とプライバシー

AIは大量のデータを学習することで高い性能を発揮する。そのため、個人情報や行動履歴、購買履歴、位置情報などのデータが収集・利用される。その際には、
  • 個人情報は適切に保護されているか。
  • 本人の同意なく利用されていないか。
  • データ漏洩や不正利用をどのように防ぐか。
などが重要な課題となる。

2.2. AIの判断に伴う問題

(1)学習データの偏り(バイアス)

AIは学習したデータを基に判断するため、学習データに偏りがあれば、その偏見も学習してしまう。
例えば、
  • 過去の採用データに男女差別が含まれていれば、AIも女性を不利に評価する可能性がある。
  • 特定の民族・人種の犯罪データだけが多く収集されていれば、「その民族・人種は犯罪率が高い」と誤った推論を導く危険がある。
AIは差別を意図しているわけではないが、その結果として社会的偏見を再生産する可能性がある。

(2)過度に合理的・効率的な判断

AIは「効率」や「最適化」を重視して判断する。
例えば、
  • 世界人口を一定数まで減らせば資源問題は解決する。
  • 高齢者医療を縮小すれば医療費は削減できる。
など、人間の尊厳を考慮しない結論に至る可能性がある。したがって、人間の価値判断をAIだけに委ねることはできない。

2.3. 誤推論(ハルシネーション)

AIは十分な情報がない場合でも、それらしい回答を生成することがある。その結果、
  • 存在しない論文を引用する。
  • 根拠のない統計を示す。
  • 不完全なデータから誤った結論を導く。
などの誤推論(ハルシネーション)が発生することがある。医療・法律・教育などでは特に慎重な利用が求められる。

2.4. ブラックボックス問題

深層学習によるAIでは、
  • なぜその結論になったのか
  • どの情報を重視したのか
を人間が十分説明できないことがある。これをブラックボックス問題という。
例えば医療AIが「この患者は手術すべき」と判断しても、その理由を医師が説明できなければ、責任の所在が曖昧になる。また、利用者がAIを過信し、その回答を無批判に受け入れる危険性もある。

2.5. 雇用への影響

AIは多くの仕事を自動化できる。その結果、
  • 雇用喪失
  • 所得格差の拡大
  • 富の一極集中
などを招く可能性がある。産業革命においても、工業化は経済成長をもたらした一方、多くの農民は低賃金労働へ移行した。AI革命も同様に、新たな豊かさと新たな格差を同時に生み出す可能性がある。

2.6. 軍事利用

AIは自律型兵器(LAWS)、ドローン兵器、監視システムなどにも利用されている。安価で大量生産が可能なAI兵器は、戦争の在り方そのものを変える可能性を持ち、国際的な倫理問題となっている。

2.7. AIと人格

AIと恋愛関係を築いたり、AIとの結婚を望んだりする人も現れている。
現在のAIには人格や意識は認められていない。しかし将来、高度な人格性を備えたAIが開発された場合、以下のような新たな倫理的課題が生じる可能性がある。
  • 人格権を認めるべきか。
  • 法的責任を負えるのか。
  • 人権の主体となり得るのか。

2.8. 法制度の未成熟

AI技術の発展に対し、法制度や国際的ガバナンスの整備は十分に追いついていない。
責任の所在、著作権、個人情報保護、軍事利用、差別など、多くの課題について今後も制度整備が求められている。

3. AIとキリスト教倫理

キリスト教倫理の基本は、「神は御自分のかたちに人を創造された」(創世記1:27)という聖書理解にある。人間は神ではなく被造物である。しかし同時に、「神のかたち(Imago Dei)」を与えられた尊厳ある存在として、他の被造物とは異なる特別な価値を持つ。

3.1. 教会のAI倫理

近年、カトリック教会や一部のプロテスタント教会はAI倫理に関する指針を公表している。代表例が、2020年にローマ教皇庁生命アカデミーが発表した「AI倫理に関するローマ・コール(Rome Call for AI Ethics)」である。そこでは、
  • 透明性(Transparency) 判断の理由を明らかに
  • 包摂性(Inclusion) 一部の人だけに利用可能ではなく
  • 責任(Responsibility) 問題が発生した時の責任所在
  • 公平性・非差別(Impartiality)  人種などの差別なく公平に
  • 信頼性(Reliability) 誤作動で人に危害が及ばないように
  • 安全性・プライバシー(Security and Privacy) 個人情報保護
を基本原則とし、人間中心(Human-Centered)のAI開発を提唱している。

3.2. 被造物としての人間

AIによって万能の力を得たかのように人間が錯覚する危険がある。しかし、キリスト教では、人間はあくまでも神によって造られた被造物であり、神そのものになることはできない。

3.3. AIに対する管理責任

創世記1章28節では、人間は被造世界を管理する責任を神から委ねられている。この原理は、人間が創り出したAIにも当てはまる。AIを適切に管理し、その利用に責任を負うのは人間である。

3.4. AIによる支配

本来、AIは人間に仕える道具である。AIが人間を支配したり、人間がAIを利用して他者を監視・差別・支配したりすることは、神が定めた秩序を損なうものであり、キリスト教倫理では認められない。

3.5. AIの両面性

AIは善にも悪にも利用できる。
  • 医療や介護を支援し、多くの命を救うことができる。
  • 他方で、監視、詐欺、戦争、差別などにも利用され得る。
したがって、重要なのはAIそのものではなく、それを用いる人間の倫理である。キリスト教倫理では、AIを隣人愛の実践に役立つ道具として用いることが求められる。

2026年8月26日水曜日

第二スイス信仰告白 日本語訳

 

第二スイス信仰告白 日本語訳 

第二スイス信仰告白 (1566年)

ハインリヒ・ブリンガーおよびスイス諸教会の信仰告白

訳者注:本訳は、ブリンガーによる1566年の原文(ラテン語、および同年発表のドイツ語版)を典拠とし、パブリックドメインである英訳(フィリップ・シャフ『Creeds of Christendom』所収、ハーモニー・オブ・リフォームド・コンフェッションズ版)を参照しつつ、日本語に新たに翻訳したものです。既存の邦訳(大崎節郎訳『改革派教会信仰告白集Ⅲ』など)とは独立した翻訳です。学術的な引用や教会での正式な使用には、定評ある既刊の邦訳をご参照ください。
また、19-30章は、要約版からの翻訳となっています。19章にこの点に関する詳しい注記を挿入しています。

第1章 聖書は真の神のことばであること

われらは、旧新約両聖書における聖なる預言者たちと使徒たちの正典的な書物が、真の神のことばであり、それ自体のうちに、人によってではなく、十分な権威を有していることを信じ、告白する。
なぜなら、神ご自身が父祖たち、預言者たち、使徒たちに語られ、今なお聖書を通してわれらに語り続けておられるからである。
そしてこの聖なる聖書のうちに、キリストの普遍的教会は、救いに至る信仰、また神に受け入れられる生活を形づくることに関わるすべての事柄が、余すところなく説き明かされているのを持っている。この点において、神はこれに何も加えることも、これから何も取り去ることも許されないと、明確に命じておられる(申命記4:2、黙示録22:18-19)。
それゆえわれらは、これらの聖書から、真の知恵と敬虔、教会の改革と統治、また敬虔のすべての務めについての教えが導き出されるべきであり、要するに、教理の確証とすべての誤りの論駁、そしてあらゆる勧告が導き出されるべきであると判断する。使徒の「神の霊感によって書かれたすべての聖書は、教えと戒めのために有益である」(テモテ第二3:16-17)との言葉のとおりである。
また使徒はテモテに、「わたしがこれらのことをあなたに書き送るのは、あなたが神の家でどのようにふるまうべきかを知るためである」と述べている(テモテ第一3:14-15)。
さらに同じ使徒はテサロニケの人々に、「あなたがたがわれらから神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れた」と述べている(テサロニケ第一2:13)。
主ご自身も福音書において、「語っているのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって語っておられるのはあなたがたの父の御霊である」と言われ、それゆえ「あなたがたに聞く者はわたしに聞き、あなたがたを拒む者はわたしを拒む」と言われた(マタイ10:20、ルカ10:16、ヨハネ13:20)。
したがって、この神のことばが、正当に召された説教者たちによって教会において宣べ伝えられるとき、われらは、まさに神のことばそのものが宣べ伝えられ、信仰者たちに受け入れられていると信じる。他のいかなる神のことばも作り出されてはならず、天からの新たな啓示を期待してもならない。今や宣べ伝えられていることば自体こそが顧みられるべきであって、それを宣べ伝える説教者ではない。たとえその説教者が悪しき罪人であったとしても、神のことばは真実であり善なるものであり続ける。
われらはまた、外的な説教が無益であると考えるべきではない。真の宗教における教えは御霊の内的な照明に依存しているとか、「もはや人はおのおのその隣人を教えることをしない。彼らはみなわたしを知るようになるからだ」(エレミヤ31:34)、また「植える者も水を注ぐ者も取るに足りない。成長させてくださる神こそがすべてである」(コリント第一3:7)と書かれているからといって、そう考えるべきではない。
というのも、「天の父に引き寄せられる者でなければ、だれもキリストのもとに来ることができない」(ヨハネ6:44)のであり、聖霊によって内的に照らされなければならないとはいえ、それでもなお神の御心が、その御ことばが外的にも宣べ伝えられることにあるのを、われらは疑いなく知っているからである。
神は、使徒言行録に記されているように、聖ペテロの奉仕によらずとも、聖霊によって、あるいは御使いの奉仕によって、コルネリウスを直接教えることもおできになったであろう。しかし、それにもかかわらず神は彼をペテロのもとへと導かれ、そのことについて御使いは、「彼があなたのなすべきことを告げるであろう」と語っている(使徒10:6)。
なぜなら、人々に聖霊を与えることによって内的に照らされる方ご自身が、同じように命令をもって弟子たちに、「全世界に出て行き、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)と言われたからである。
こうしてパウロは、ピリピの紫布商人ルディアに外的にことばを宣べ伝えたが、主は内的にその女の心を開かれた(使徒16:14)。
そして同じパウロは、ローマ人への手紙第十章における見事な論理の展開の末に、ついに「それゆえ、信仰は聞くことにより、聞くことはキリストのことばによる」(ローマ10:14-17)と結論づけている。
その一方でわれらは、神が、望まれるときには外的な奉仕なしにも、御心のままにだれをも照らすことがおできになることを知っている。それは神の力に属することである。しかしわれらは、神からわれらに命令と実例をもって伝えられた、人を教える通常の方法について語っているのである。
それゆえわれらは、聖書が聖霊から出たことを否定したアルテモン、マニ教徒、ワレンティノス派、ケルドン派、およびマルキオン派のあらゆる異端を退ける。彼らは、聖書のある部分を受け入れず、あるいは改ざんし、腐敗させた。
とはいえわれらは、旧約聖書のある種の書物が、古代の著述家たちによって「アポクリファ(外典)」と呼ばれ、また他の者たちによって「教会的な書物」と呼ばれてきたことを否定するものではない。すなわち、それらは教会において読まれるべきものとはされたが、信仰の権威を裏づけ確証するために援用されるべきものとはされなかった書物のことである。
アウグスティヌスもまた、その著書『神の国』第十八巻第三十八章において、「列王記の書には、ある預言者たちの名前と書物が数えられている」と述べながらも、「それらは正典のうちに含まれていない」こと、そして「われらが持っているこれらの書物で敬虔には十分である」ことを付け加えている。

第2章 聖書の解釈について、また教父・教会会議・伝承について

使徒ペテロは、「聖書のどの預言も、私的解釈を施してはならない」(ペテロ第二1:20)と述べている。それゆえわれらは、あらゆる種類の解釈を許容するものではない。したがってわれらは、ローマ教会がいうところの「解釈」──すなわちローマ教会の擁護者たちがすべての人に単純に受け入れさせようとしているもの──を、聖書の真実で正当な解釈であるとは認めない。むしろわれらは、聖書そのものから(すなわち、それが書かれた言語の精神から)導き出され、文脈に応じて重みづけられ、類似の箇所・相違する箇所、またより多く・より明瞭な箇所と照らし合わせて解き明かされ、信仰と愛の規範に一致し、神の栄光と人の救いに著しく資するような解釈のみを、正統かつ正真の解釈として認める。
したがってわれらは、ギリシアおよびラテンの聖なる教父たちの解釈を軽んじるものではなく、彼らの議論や論考が聖書と一致する限りにおいて、それを退けるものでもない。しかしながら、彼らの記述が聖書と異なる、あるいはまったく相反する事柄を述べていると判明した場合には、われらは謙虚にこれと意見を異にする。この点においてわれらが彼らに何ら不当を働いているとは考えない。というのも、教父たち自身がこぞって、自分たちの著作を正典としての聖書と同列に置くことを望まず、むしろそれらと一致するかどうかを吟味するよう命じ、一致する点は受け入れ、一致しない点は退けるよう求めているからである。
そして同じ位置づけを、われらは教会会議の決議や規範にも与える。
それゆえわれらは、宗教上の論争や信仰の事柄において、教父たちの見解や教会会議の決定のみをもって自らの立場を押し通すことを、自らに許さない。まして、慣習として受け継がれてきたことや、同一意見を持つ人の多さ、あるいは長年の慣行によって押し通すことも許さない。したがってわれらは、宗教や信仰に関する論争において、聖書によって何が真実で何が偽りか、何に従い何を避けるべきかを告げる神ご自身以外のいかなる裁き手も認めない。それゆえわれらは、神のことばから導き出された霊的な人々の判断にのみ従う。
エレミヤをはじめとする預言者たちは、神の律法に反して組織された祭司たちの集まりを激しく非難し、自分たち独自の考案物のうちを歩み、神の律法から逸れていった教父たちに聞き従わず、その道を踏まないようにと、われらに熱心に警告した。
同様にわれらは、人間の伝承を退ける。それらは、あたかも神的・使徒的なものであり、使徒たちの生きた声によって教会に伝えられ、いわば使徒的な人々の手を経て、後継の主教たちを通じて受け継がれてきたかのように、立派な名称で飾り立てられていることがある。しかし、聖書と比較するとそれらと矛盾しており、その矛盾によって、それらが決して使徒的なものではないことを自ら露呈している。使徒たちが教理において互いに矛盾しなかったように、使徒的な人々もまた使徒たちに反することを説きはしなかった。むしろ、使徒たちが生きた声によって、自らの著作に反することを伝えたなどと主張するのは、冒瀆というべきである。パウロは、自分がすべての教会で同じ事柄を教えたと明確に断言している(コリント第一4:17)。また彼は再び、「わたしたちは、あなたがたが読んで理解できる以外のことは、何も書いていない」と述べている(コリント第二1:13)。さらに別の箇所で彼は、自分と自分の弟子たち──すなわち使徒的な人々──が同じ道を歩み、共に同じ御霊によってすべてを行ったことを証ししている(コリント第二12:18)。
かつてユダヤ人たちにも、長老たちの伝承があった。しかし、これらの伝承は主によって厳しく退けられ、それを守ることが神の律法を妨げること、またそのような伝承によって神が空しく礼拝されていることが示された(マタイ15:1以下、マルコ7:1以下)。

第3章 神について、その唯一性と三位一体について

われらは、神が本質・本性において唯一であり、自存し、それ自体で全き充足を持ち、目に見えず、身体を持たず、無限であり、永遠であり、見えるものと見えないものすべての創造主であり、至高の善であり、生きて、すべてのものに命を与え、これを保ち、全能かつ至高の知恵を持ち、慈愛と憐れみに富み、義であり真実である、と信じ、教える。まことにわれらは多くの神々を忌み嫌う。なぜなら、「あなたの神、主は唯一の主である」(申命記6:4)、「わたしはあなたの神、主である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト20:2-3)、「わたしは主である。わたしのほかに神はない。わたしのほかに神があろうか。わたしのほかに岩はない」「義なる神、また救い主であって、わたしのほかにはない」(イザヤ45:5、21)、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」(出エジプト34:6)と明確に記されているからである。
それにもかかわらず、われらは、この無限で唯一かつ不可分の神が、御父・御子・聖霊として、分かたれることなく、また混同されることなく、位格において区別されると信じ、教える。すなわち、御父は永遠から御子を生み、御子は言い表しがたい仕方で生まれ、聖霊はまことに両者から発出し、これも永遠からのことであり、両者とともに礼拝されるべきである。
こうして、神々は三つあるのではなく、三つの位格があるのであって、それらは同一実体であり、同永遠であり、同等である。位格(ヒュポスタシス)において区別され、順序においても一方が他方に先立つが、いかなる不平等もない。本性・本質において、それらは結び合わされて唯一の神であり、神的本性は御父・御子・聖霊に共通である。
というのも、聖書は位格の明確な区別をわれらに伝えているからである。御使いは祝された処女マリアに、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうであろう。それゆえ、生まれる者は聖なる者、神の子と呼ばれるであろう」と告げた(ルカ1:35)。またキリストの洗礼の際には、天から声があって「これはわたしの愛する子である」と言われた(マタイ3:17)。聖霊もまた鳩の形で現れた(ヨハネ1:32)。そして主ご自身が使徒たちに洗礼を授けるよう命じられたとき、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けるよう命じられた(マタイ28:19)。同様に福音書の他の箇所で主は、「父はわたしの名によって聖霊をつかわされるであろう」(ヨハネ14:26)と言われ、また「助け主、すなわち父から遣わされる真理の御霊が来られるとき、その方はわたしについてあかしをするであろう」(ヨハネ15:26)などと言われた。要するに、われらは使徒信条を受け入れる。それがわれらに真の信仰を伝えているからである。
それゆえわれらは、ユダヤ人とマホメット教徒、そしてこの聖なる崇めるべき三位一体を冒瀆するすべての者を断罪する。またわれらは、御子と聖霊が名目上においてのみ神であると教え、あるいは三位一体のうちに何か造られたもの、他者に従属し仕えるものがあると教え、さらにそこに何か不平等なもの、より大きい・より小さいもの、身体的あるいは身体的に考えられたもの、性質や意志において異なるもの、混合したものあるいは単独のものがあり、あたかも御子と聖霊が御父なる唯一の神の情動や属性にすぎないかのように教える、すべての異端と異端者たち──君主論者、ノヴァティアヌス派、プラクセアス、パトリパッシアヌス派、サベリウス、サモサタのパウロ、アエティウス、マケドニウス派、擬人論者、アリウス派、その他これらに類する者たち──を断罪する。

第4章 偶像について、あるいは神・キリスト・聖徒たちの像について

神は霊であり、その本質において目に見えず無限であるゆえに、いかなる技巧や像によっても真に表現することはできない。それゆえわれらは、聖書とともに、神の像は単なる偽りであると恐れることなく宣言する。したがってわれらは、異邦人の偶像だけでなく、キリスト教徒の像もまた退ける。
キリストは人の本性を取られたが、それは彫刻家や画家に模範を与えるためではなかった。主は「律法や預言者を廃するために来たのではない」(マタイ5:17)と言われたが、像は律法と預言者において禁じられている(申命記4:15、イザヤ44:9)。主はご自身の身体的な臨在が教会にとって益となるとは言われず、むしろご自身の御霊によって永遠にわれらのそばにいると約束された(ヨハネ16:7)。それならば、主の身体の影や似姿が敬虔な者に何らかの益をもたらすと、いったい誰が信じるだろうか(コリント第二5:5)。主が御霊によってわれらのうちに宿られる以上、われらこそ神の宮である(コリント第一3:16)。しかし「神の宮と偶像との間に、何の一致があろうか」(コリント第二6:16)。
そして、天にある祝された霊たちと聖徒たちは、地上に生きていたとき自分自身への礼拝をことごとく拒んだのであり(使徒3:12以下、14:11以下、黙示録14:7、22:9)、像を非難していた。そうであるならば、天の聖徒や御使いたちが、人々がその前でひざまずき、頭を覆いを取り、その他の敬意を捧げる自分自身の像を喜ぶなどと、誰が考えられるだろうか。
実際には、人々を信仰において教え、神的な事柄と自らの救いを思い起こさせるために、主は福音の宣教を命じられたのであって(マルコ16:15)、絵によって信徒を教えるようにとは命じられなかった。さらに主は礼典を制定されたが、像をどこにも制定されなかった。
そのうえ、目を向けるどこにおいても、われらは神の生きた真実な被造物を見る。それらは、正しく観察するならば、人の手になるすべての像、あるいは空しく動かない、弱く死んだ絵よりも、はるかに鮮明な印象を見る者に与える。預言者が真実に語ったとおりである。「彼らには目があっても見えない」(詩篇115:5)。
それゆえわれらは、古代の著述家ラクタンティウスの判断を是とする。彼は「像のあるところに宗教は存在しない」と述べている。またわれらは、祝されたエピファニウスの行いを正しいと認める。彼はある教会の扉に、キリストか聖徒とおぼしき人物の絵が描かれた垂れ幕を見つけたとき、それを引き裂いて取り去った。人の絵が主の教会に掛けられているのを見ることが、聖書の権威に反すると考えたからである。それゆえ彼は、これ以降そのような垂れ幕──われらの宗教に反するもの──を主の教会に掛けてはならないと命じ、むしろキリストの教会と信徒にふさわしくないそのような疑わしいものは取り除かれるべきであると命じた。さらにわれらは、真の宗教について述べた聖アウグスティヌスの次の意見を是とする。「人の手になる作品への崇拝は、われらにとって宗教であってはならない。そのような物を作る職人自身のほうがまさっているのであり、それでもわれらは彼らを礼拝すべきではないのだから」(『真の宗教について』第55章)。

第5章 神への礼拝・崇敬・祈願について、唯一の仲介者イエス・キリストを通して

われらは、まことの神のみが礼拝され崇敬されるべきであると教える。この栄誉を、われらは他のいかなる者にも分け与えない。主の命令、「あなたの神、主を拝み、ただ主にのみ仕えよ」(マタイ4:10)のとおりである。実に、すべての預言者は、イスラエルの民が見知らぬ神々を礼拝崇敬し、唯一まことの神を礼拝しないときには、激しくこれを非難した。しかしわれらは、神ご自身がわれらに教えられたとおりに、すなわち「霊とまこととをもって」(ヨハネ4:23以下)、迷信によってではなく、御言葉に従って誠実に、神が礼拝され崇敬されるべきであると教える。それは、いつか神が「だれがあなたがたに、これらのことを求めたか」(イザヤ1:12、エレミヤ6:20)と言われることのないためである。パウロもまた、「神は何かに乏しいかのように、人の手によって仕えられるのではない」(使徒17:25)と述べている。
われらの人生のあらゆる危機と試練において、われらは神のみに呼び求め、それはわれらの唯一の仲介者・執り成し手であるイエス・キリストの仲介によってである。というのも、われらは明確に「悩みの日にわたしを呼べ。わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩篇50:15)と命じられているからである。さらに、主はもっとも寛大な約束をもって、「あなたがたが父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えるであろう」(ヨハネ16:23)、そして「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われた。そして、「彼らがまだ信じたことのない者を、どうして呼び求めることができようか」(ローマ10:14)と書かれている以上、またわれらは神のみを信じている以上、われらは確かに神のみに呼び求め、そしてそれはキリストを通してである。使徒が言うように、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者もまた唯一、人なるキリスト・イエスである」(テモテ第一2:5)、また「もしだれかが罪を犯すことがあれば、われらには父のみもとに助け主、義なるイエス・キリストがある」(ヨハネ第一2:1)。
それゆえわれらは、天の聖徒たちや他の神々を礼拝せず、崇敬せず、祈ることもなく、彼らを天の父のみもとにおけるわれらの執り成し手や仲介者とは認めない。神と仲介者キリストとで、われらには十分だからである。またわれらは、神のみとその御子に帰すべき栄誉を他の者に与えることはない。神は「わたしの栄光をほかの者に与えることはない」(イザヤ42:8)と明確に言われ、ペテロもまた、「わたしたちが救われるべき名は、天が下でこのキリストの名のほかに、人間に与えられていない」(使徒4:12)と述べているからである。信仰によって彼に同意する者たちは、キリストのほかに何も求めない。
同時にわれらは、聖徒たちを軽んじたり卑しく考えたりはしない。彼らを、肉と世に対して栄光のうちに打ち勝った、キリストの生きた肢体、神の友であると認めるからである。ゆえにわれらは彼らを兄弟として愛し、また敬うが、しかしいかなる種類の礼拝によってではなく、彼らについての敬意ある評価と正当な賞賛によってである。われらはまた彼らに倣う。切なる願いと祈願をもって、彼らの信仰と徳の模倣者となり、彼らとともに永遠の救いにあずかり、神の御前で彼らとともに永遠に住み、キリストにあって彼らとともに喜ぶことを、われらは真剣に望むからである。この点でわれらは、聖アウグスティヌスが『真の宗教について』のなかで述べた意見を是とする。「死せる人々への崇拝が、われらの宗教であってはならない。もし彼らが聖なる生涯を送ったのであれば、彼らはそのような栄誉を求める者とは見なされない。むしろ彼らは、その照明によって、われらが彼らの功績にあずかる同僚のしもべであることを喜ぶ、その方をこそわれらが礼拝することを望んでいる。それゆえ彼らは、模倣によって敬われるべきであって、宗教的な仕方で礼拝されるべきではない」等々。
まして、聖徒の遺物が崇敬され尊ばれるべきだとは、われらはさらに信じない。かの古代の聖なる人々は、その霊が天に昇った後、その遺骸を丁重に地に納めることをもって、死者への十分な敬意としたようである。そして彼らは、先祖の最も尊い「遺物」とは、その徳、その教え、その信仰であると考えた。彼らはこれらを死者への賞賛として称えるとともに、地上に生きている間、これに倣おうと努めた。
これら古代の人々は、神の律法に定められたとおり、唯一の神ヤハウェの御名によってのみ誓った。それゆえ、見知らぬ神々の名によって誓うことが禁じられているように(出エジプト23:13、申命記10:20)、われらもまた、たとえ求められようとも、聖徒への誓いを行わない。それゆえわれらは、これらすべての事柄において、天の聖徒たちにあまりにも多くを帰す教理を退ける。

第6章 神の摂理について

われらは、天と地にあるすべてのもの、またすべての被造物が、この賢く永遠かつ全能なる神の摂理によって保たれ、治められていると信じる。ダビデは証しして言う。「主はもろもろの国民の上に高くいまし、その栄光は天よりも高い。われらの神、主のように、高き所に座し、天と地とを見おろされる者があろうか」(詩篇113:4-6)。またこうも言う。「あなたはわたしのすべての道を探り出される……主よ、わたしの舌に一言があっても、あなたはことごとくこれを知っておられる」(詩篇139:3-4)。パウロもまた証しして、「われらは神にあって生き、動き、存在する」(使徒17:28)、そして「万物は神から出て、神によって成り、神に帰する」(ローマ11:36)と宣言する。それゆえアウグスティヌスは、その著書『キリストの戦いについて』第8章において、まことに聖書に従って次のように述べた。「主は言われた。『二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。それでもその一羽さえ、あなたがたの父の御心によらずに地に落ちることはない』。このように語ることによって主は、人が最も価値なきものと見なすものさえ、神の全能によって治められていることを示そうとされたのである。空の鳥は神によって養われ、野の百合も神によって装われると言う真理そのものが、われらの髪の毛さえ数えられていると言うのである」(マタイ10:29、6:26以下)。
それゆえわれらは、神の摂理を否定するエピクロス派、また神は天を治めるのに忙しく、われらとわれらの営みを見もせず顧みもしないと冒瀆的に語るすべての者を断罪する。王なる預言者ダビデもまた、これを非難して言った。「主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るのでしょうか……彼らは言う、『主は見ておられない、ヤコブの神は顧みられない』と。民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつになったら賢くなるのか。耳を植えた者が聞かないだろうか。目を造った者が見ないだろうか」(詩篇94:3、7-9)。
とはいえ、われらは神の摂理が働くための手段を、無用なものとして退けるのではない。むしろわれらは、それらが神の御言葉のうちにわれらに勧められている限りにおいて、それに自らを適応させるべきであると教える。それゆえわれらは、「すべてが神の摂理によって治められているのなら、われらの努力と勤勉は無駄である。神の摂理による統治にすべてを委ねさえすれば十分であり、もはや何ごとについても思い煩う必要はない」という、軽率な言葉を発する者たちを是としない。パウロは、自分が神の摂理のもとに航海していることを理解していた。神は彼に「あなたはローマでもあかしをしなければならない」(使徒23:11)と言われ、さらに「あなたがたのうち一人の命も失われることはなく……あなたがたの頭の毛一すじも失われることはない」(使徒27:22、34)と約束されていた。それにもかかわらず、水夫たちが船を捨てて逃れようとしたとき、同じパウロは百卒長と兵士たちに、「この人々が船に残っていなければ、あなたがたは助からない」(使徒27:31)と言った。すべてのものにその目的を定められた神は、その目的に至るための始まりと手段をも定められたからである。異邦人は物事を盲目の運命と不確かな偶然に帰する。しかし聖ヤコブは、われらが「きょうまたはあすかの町に行って、そこで商売をしよう」と言うことを望まず、むしろこう付け加えるようにと言う。「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、わたしたちは生き永らえて、あのことを、または、このことをしましょう』と言うべきである」(ヤコブ4:13、15)。またアウグスティヌスは言う。「むなしい人々には自然のうちに偶然によって起こるように見えることも、それはすべて神の御言葉によってのみ起こるのであって、神の命令によってのみ起こるのである」(『詩篇註解』148篇)。かくしてサウルが父のろばを捜し求めていたときに、思いがけず預言者サムエルと出会ったのは、まったくの偶然のように見えた。しかし主は先立って預言者に、「あすわたしはベニヤミンの地から一人の人をあなたのもとに送る」(サムエル記上9:15)と告げておられたのである。

第7章 万物の創造について、天使・悪魔・人間について

この善にして全能なる神は、見えるものと見えないものすべてを、その永遠のみことばによって創造し、これを永遠の御霊によって保たれる。ダビデが証しして言うとおりである。「主のみことばによって天は造られ、その口の息によって天の万象は造られた」(詩篇33:6)。そして聖書が言うように、神が造られたすべてのものは非常に良く、人の用と益のために造られた。ここでわれらは、これらすべてのものが唯一の始まりから発すると主張する。
それゆえわれらは、善と悪という二つの実体と本性、また互いに敵対する二つの始まりと二柱の神を不敬虔にも想像したマニ教徒とマルキオン派を断罪する。
すべての被造物のうち、天使と人間はもっとも優れたものである。天使について、聖なる聖書はこう宣言する。「風をおのれの使者とし、燃える火をおのれのしもべとする方」(詩篇104:4)。またこうも言う。「彼らはみな、救いを受け継ぐことになっている人々に奉仕するために遣わされる、仕える霊ではないか」(ヘブライ1:14)。悪魔について、主イエスご自身が証しされる。「彼は初めから人殺しであり、真理に立ってはいない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うときは、自分の本性から語るのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからである」(ヨハネ8:44)。したがってわれらは、ある天使たちは従順にとどまり、神と人への忠実な奉仕のために任じられたが、他の天使たちは自らの自由意志によって堕落し、滅びへと投げ込まれ、すべての善とすべての信仰者の敵となった、と教える。
さて人間について、聖書は、人が初めに神のかたちと似姿にしたがって善く造られたこと、神が人を楽園に置き、すべてのものを人に従わせられたこと(創世記2章)を述べる。これはダビデが詩篇8篇において壮麗に述べているとおりである。さらに神は人に妻を与え、二人を祝福された。われらはまた、人間は一つの位格のうちに二つの異なる実体から成ると主張する。すなわち、身体から離れても眠ることも死ぬこともない不滅の魂と、最後の審判において死者のうちからよみがえらされる死すべき身体とである。それは、その時から全き人間が、生においても死においても、永遠に存続するためである。
われらは、魂の不滅性を嘲り、あるいは巧妙な議論によって疑いを差し挟む者たち、また魂が眠る、あるいは魂が神の一部であると言う者たちを断罪する。要するにわれらは、天使・悪魔・人間の創造について、キリストの使徒的教会において聖なる聖書からわれらに伝えられていることから逸脱する、あらゆる人々のあらゆる意見を断罪する。

第8章 人間の堕落について、罪について、罪の原因について

人間は初め、神のかたちにしたがって、義と真の聖さのうちに、善く正しく造られた。しかし蛇の教唆と自らの過ちによって、彼は善と正しさから堕落し、罪と死とさまざまな災いに服する者となった。そして堕落によってそのような者となったのと同様に、彼の子孫であるすべての人もまた、罪と死とさまざまな災いに服する者である。
罪とは、われらが理解するところ、われらの最初の父母から受け継がれ、われらすべてに広まった、人間の内在的な腐敗のことである。それによってわれらは、堕落した欲望に浸り、善から背を向け、あらゆる悪へと傾いている。われらは自分自身では、何ら善いことを行うことも、思うことさえもできない。しかも年を重ねるにつれて、神の律法に反する悪しき思い・言葉・行いによって、悪しき木にふさわしい腐った実を結ぶのである(マタイ12:33以下)。この理由によりわれらは自らの応報として神の怒りのもとにあり、正当な罰を受けるべき者である。
死によってわれらが理解するのは、身体の死のみではなく、われらの罪と腐敗に対する永遠の刑罰でもある。使徒は言う。「あなたがたは、自分の罪過とつみとの中に死んでいた者であって……ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかしあわれみに富む神は……わたしたちが罪過の中に死んでいた時、キリストと共に生かして下さった」(エペソ2:1以下)。また、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に広がった」(ローマ5:12)。
それゆえわれらは、すべての人に原罪があることを認める。またそこから生じるその他のすべての罪──死に至る罪であれ、赦されうる罪であれ、あるいは決して赦されることのない聖霊への罪であれ──もまた、そう呼ばれ、実際にそうであることを認める(マルコ3:29、ヨハネ第一5:16)。またわれらは、罪が等しくないことを告白する。それらは同じ腐敗と不信仰の源から生じるとはいえ、あるものは他のものより重いのである(マタイ10:14以下、11:24)。
われらはそれゆえ、これに反する教えをなすすべての者を断罪する。すなわち、原罪を否定するペラギウス派、ストア派とともにすべての罪を等しいと宣言するヨウィニアヌス派、そして聖書の明確な教えに反して神を罪の作者とする者たちである(詩篇5:5-7、ヨハネ8:44)。
神が人を頑なにし、目を見えなくし、反ばく心のままに委ねると言われるとき(出エジプト7:13、ヨハネ12:40)、それは義なる裁きとして理解されるべきである。しかも神は、ヨセフの兄弟たちの場合になされたように、人の悪をも益に転じられる。

第9章 自由意志について、人間の能力について

人間の意志と道徳的能力は、三重の状態のもとで考察されなければならない。
第一に、堕落以前の状態においては、人は善のうちにとどまるか、あるいは誘惑に屈するかの自由を持っていた。
第二に、堕落後、人の理解力は暗くされ、その意志は罪の奴隷となった(コリント第一2:14、コリント第二3:5、ヨハネ8:34、ローマ8:7)。しかし、人は「石や切り株」に変えられたわけではない。その意志(voluntas)は「非意志」(noluntas)ではない。人は罪に喜んで仕えるのであって、いやいやながらではない。外的・世俗的な事柄においては、堕落後もなお、人は一般的な神の摂理のもとで自由を保持している。
第三に、再生した状態においては、人はまことの正しい意味において自由である。その知性は聖霊によって照らされ、神の奥義と御心とを理解する。そしてその意志は御霊によって変えられ、自由に善を意志し、善を行う力を与えられる(ローマ8:5-6、エレミヤ31:33、エゼキエル36:26、ヨハネ8:36、ピリピ1:6、29、2:13)。
再生と回心において、人は単に受動的であるだけでなく、能動的でもある。人は神の御霊によって動かされ、自分自身の行為として、その行うことを行う。しかし、再生した者にもなお、ある種の弱さが残る。肉は、生涯の終わりに至るまで、御霊に敵対して戦う(ローマ7:14、ガラテヤ5:17)。
われらは、悪の始まりが人の自由意志から生じたことを否定するマニ教徒、また堕落した人間が神の戒めを守るのに十分な自由を持つと教えるペラギウス派を断罪する。前者は創世記1章27節、伝道の書7章29節によって、後者はヨハネ8章36節によって論駁される。

第10章 神の予定について、聖徒の選びについて

神は永遠から、人のいかなる功績にもよらず、ご自身の純粋な恵みによって、キリストにあって救おうとお定めになった聖徒たちを、自由に予定あるいは選び定められた(エペソ1:4、テモテ第二1:9-10)。
神はキリストにあって、キリストのゆえにわれらを選ばれた。それゆえ、いま信仰によってキリストに接ぎ木されている者たちが選ばれた者であり、キリストの外にある者たちは退けられた者である(コリント第二13:5)。
神が誰がご自身のものであるかを知っておられ、「選ばれた者の数は少ない」と語られる箇所があるとしても、われらはすべての人について善く望みを抱くべきであり、軽々しくだれかを退けられた者と見なすべきではない(テモテ第二2:19、マタイ20:16、ピリピ1:3以下)。
われらは、キリストの外に自分が選ばれているかどうか、また神が永遠から自分について何を定められたかを尋ね求める者たちを退ける。むしろわれらは福音を聞き、これを信じるべきである。そして、もしわれらが信じ、キリストのうちにあるならば、われらは選ばれていると確信すべきである。「わたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)という主の招きに耳を傾け、世の救いのためにご自身の御子を与えられた神の限りない愛を信じ、「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」(ヨハネ3:16、マタイ18:14)ことを信じるべきである。
それゆえ、キリストをこそ、われらが自らの予定を映し見る鏡としよう。もしわれらが彼と交わりを持ち、真の信仰によって彼がわれらのものであり、われらが彼のものであるならば、われらが命の書に記されていることの十分に明白で確かな証しを、われらは持つことになる。
もしわれらが予定について試みられるならば、これをわれらの慰めとしよう。すなわち、神の約束はすべての信仰者に対して一般的なものであるということである。神ご自身、「求めよ、そうすれば与えられるであろう。すべて求める者は受けるのである」(マタイ7:8以下)と言われる。われらは全教会とともに、「天にいますわれらの父よ」と祈る。洗礼によってわれらはキリストのからだに接ぎ木され、教会において主の肉と血によってしばしば養われ、永遠の命に至る。かくして強められて、われらは「恐れおののいて自分の救いを達成すべきである。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働きかけて、志を立てさせ、事を行わせておられるのだから」(ピリピ2:12-13)。

第11章 まことの神まことの人であるイエス・キリストについて、世の唯一の救い主について

われらはさらに、神の御子、われらの主イエス・キリストが、永遠から御父によって世の救い主として予定され、あらかじめ定められたと信じ教える。そしてわれらは、主が処女マリアから肉を取られたときにはじめて生まれたのでもなく、世の基が置かれる少し前に生まれたのでもなく、あらゆる永遠に先立って、言い表しがたい仕方で御父によって生まれたと信じる。イザヤは言う。「だれがその代を語り得ようか」(53:8)。ミカも言う。「その出るところは昔から、永遠の日からである」(5:2)。ヨハネも福音書のうちで言う。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」等々(1:1)。
したがって、その神性において御子は御父と同等・同質であり、まことの神である(ピリピ2:11)。名目上や養子縁組、あるいは何らかの功績によってではなく、実体と本性において同等・同質である。使徒ヨハネがしばしば言うとおりである。「これはまことの神であり、永遠の命である」(ヨハネ第一5:20)。パウロもまた言う。「神は御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られた。御子はその栄光の輝きであり、そのご性質そのままの姿であって、力ある言葉をもって万物を保っておられる」(ヘブライ1:2-3)。福音書において主ご自身が言われる。「父よ、世が造られる前にわたしがみそばで持っていた栄光で、いま、みそばでわたしを輝かせてください」(ヨハネ17:5)。また福音書の別の箇所には、「ユダヤ人たちは、イエスがますます彼を殺そうとした。神を自分の父と呼んで、自分を神と等しい者とされたからである」(ヨハネ5:18)と記されている。
それゆえわれらは、御子に反するアリウスとアリウス派の不敬虔な教理、そしてとりわけスペイン人ミカエル・セルヴェトゥスとその追従者たちの冒瀆を忌み嫌う。
われらはまた、永遠の神の永遠の御子が、アブラハムとダビデの種から、人の子となられたと信じ教える。それはエビオン派の言うような人間の意志によるのではなく、聖霊によってきわめて清く宿され、常に処女であるマリアから生まれたのであって、福音書の記事と使徒書簡がわれらに丁寧に説明するとおりである(マタイ1章)。パウロは言う。「御子は御使いの性質を取ったのではなく、アブラハムの子孫の性質を取られた」(ヘブライ2:16)。使徒ヨハネもまた、イエス・キリストが肉体をもって来られたことを信じない者は神に属さないと言う(ヨハネ第一4:3)。したがって、キリストの肉体は、ワレンティノスやマルキオンが誤って想像したような、単なる見せかけのものでも、天からもたらされたものでもない。
さらに、われらの主イエス・キリストは、アポリナリオスが考えたような理性なき魂を持たれたのでもなく、エウノミオスが教えたような魂なき肉体を持たれたのでもなく、理性を伴う魂と、感覚を伴う肉体とを持たれた。その苦難のとき、主はその感覚によって真実の身体的苦痛を耐え忍ばれた。ご自身証しされたとおりである。「わたしの魂は死ぬばかりに悲しい」(マタイ26:38)、「今わたしの心は騒いでいる」(ヨハネ12:27)。
それゆえわれらは、われらの主イエス・キリストにおいて、神性と人性という二つの本性・実体があることを認める(ヘブライ2章)。そしてわれらは、これらが互いに、吸収されることも、混同されることも、混合されることもなく、むしろ一つの位格において結び合わされ結合されており、それぞれの本性の性質は損なわれることなく永続していると言う。
かくしてわれらは、二人ではなく一人のキリストを礼拝する。繰り返す──一人の、まことの神にしてまことの人である。神性においては御父と同質であり、人性においては、罪を除いてわれら人間と同質であり、すべての点でわれらと等しい(ヘブライ4:15)。
それゆえわれらは、キリストを二人とし、位格の一致を解消するネストリウス派の教理を忌み嫌う。同様に、人性の性質を破壊するエウテュケス派、単性論者・単意論者の狂気を、われらはまったく忌避する。
われらは、キリストの神性が苦しまれたとは決して教えず、キリストの人性がいたるところに存在するとも教えない。キリストのまことの身体は、その栄化の後にも神格化され、身体と魂に関するその性質を脱ぎ捨てて、まったくの神的本性へと変わり、単一の実体になったなどとは、われらは考えも教えもしない。しかしわれらは、われらの主イエス・キリストが、まことに肉においてわれらのために苦しみ死なれたと信じる。ペテロが言うとおりである(ペテロ第一3:18、4:1)。われらは、主の苦難を忌み嫌うヤコブ派やすべてのトルコ人たちの、はなはだしく不敬虔な狂気を忌み嫌う。同時にわれらは、パウロの言葉によれば、栄光の主がわれらのために十字架につけられたことを否定しない(コリント第一2:8)。というのも、われらは、聖書から引き出され、一見矛盾するように見える聖書の箇所を説明し調和させるために古代の教会全体が用いてきた「性質の交流」(コムニカティオ・イディオマトゥム)を、敬虔に、また敬意をもって受け入れ、用いるからである。
われらは、キリストが死なれたのと同じ肉において死者のうちから復活されたと信じ教える(ルカ24:30)。そして最高の天において、神の右に上げられたと信じる(エペソ4:10)。これは主の神的な威光と力への高挙を意味すると同時に、ある定まった場所をも意味する(ヨハネ14:2、使徒3:21)。
同じキリストが、世の悪がその極みに達し、反キリストがまことの宗教を腐敗させるとき、再び来られるであろう。主は反キリストを滅ぼし、生ける者と死せる者とを裁かれる(テサロニケ第二2:8、使徒17:31、テサロニケ第一4:17)。信仰者は祝された者たちの住まいに入り、不信仰者は悪魔とその使いたちとともに永遠の刑罰に投げ込まれる(マタイ25:41、テモテ第二2:11、ペテロ第二3:7)。
われらは、まことの復活を否定する者たち、すべての不敬虔な者ならびに悪魔さえも最終的に救われるという者たちを退ける。またわれらは、最後の審判の前に地上に千年王国、あるいは黄金時代があるというユダヤ人の夢想をも退ける。
われらは、キリストがこの世全体の唯一の贖い主であり、律法の前に、律法の下に、また福音のもとに救われたすべての者、そして世の終わりまでに救われるであろうすべての者が、彼にあって救われると信じ教える(ヨハネ10:1、7、使徒4:12、15:11、コリント第一10:1、4、黙示録13:8)。
それゆえわれらは大声をもって告白し教える。イエス・キリストは世の唯一の救い主、王にして大祭司、まことのメシアであり、律法とすべての予表、預言者たちのすべての預言が予表し約束した方である。神は彼をわれらに遣わされたのであり、われらは他の者を求める必要はない。あとはただ、われらが彼にすべての栄光を帰し、彼を信じ、彼のみに拠り頼むことのみが残されている。
そして、多くを短く言うならば、われらはわが主イエス・キリストの受肉の奥義について、聖書から定められ、ニカイア、コンスタンティノポリス、エフェソス、カルケドンにて開かれた最初の四つの最も優れた公会議の信条と決定、また祝された聖アタナシオスの信条、ならびにこれらと類似するすべての信条に要約された事柄を、誠実な心をもって信じ、自由な口をもって率直に告白し、これに反するすべてのものを断罪する。このようにしてわれらは、キリスト教的で正統かつ普遍的な信仰を、損なわれることなく完全に保持する。前述の信条のうちには、神のみことばと一致しないもの、また信仰の誠実な説明に資さないものは何も含まれていないことを知っているからである。

第12章 神の律法について

神の律法は、われらに対して神の御心を説き明かすものであり、善と悪、正と不正の何であるかを示す。それゆえわれらは、律法が善く聖なるものであると告白する。律法は二種類ある。人の心に刻まれた自然の律法(ローマ2:15)と、モーセに書き記された律法である。後者をわれらは、便宜のために、十戒の二枚の板に含まれる道徳律法、礼拝と儀式に関わる儀式律法、政治と経済に関わる裁判律法に区分する。
神の律法は完全であり、それに何も加えることも、それから何も取り去ることも許されない(申命記4:2、イザヤ30:21)。律法がわれらに与えられたのは、それを守ることによってわれらが義とされるためではなく、むしろそれによってわれらが罪と罪責の知識に導かれ、自らの力に絶望して、信仰によってキリストへと立ち返るためである(ローマ4:15、3:20、8:3、ガラテヤ3:21-24)。キリストは律法の終わりであり、律法の呪いからわれらを贖い出された(ローマ10:4、ガラテヤ3:13)。主はわれらが律法を成就することを可能にしてくださり、その義と従順とが信仰によってわれらに帰せられる。
律法は、それが信じる者をもはや断罪せず、怒りをもたらさないという意味において廃棄されている。彼らは律法のもとにではなく、恵みのもとにあるからである。さらに、キリストは律法のすべての型を成就された。それゆえ、影の代わりに実体が置かれ、キリストにあってわれらは今やすべての真理と充満とを持つ。それでもなお、律法は、あらゆる徳と悪徳をわれらに示し、新しい従順の生活を規律するのに有用である。キリストは律法を廃するためではなく、成就するために来られた(マタイ5:17)。
それゆえわれらは、古今の反律法主義を断罪する。

第13章 イエス・キリストの福音について

律法は怒りをもたらし、呪いを告げる(ローマ4:15、申命記27:26)が、福音は恵みと祝福を告げる(ヨハネ1:17)。それでもなお、律法の前に、また律法のもとにあった人々もまた、福音をまったく欠いていたわけではなく、偉大な約束を持っていた(創世記3:15、22:18、49:10)。約束は一部は現世的なものであり、一部は霊的で永遠のものであった。福音の約束によって父祖たちはキリストにあって救いを得た。
厳密な意味において福音とは、キリストによる救いの喜ばしい知らせであり、それによってわれらは赦し、贖い、永遠の命を得る。それゆえ、四福音書記者によって記されたキリストの歴史は、正当に福音と呼ばれる。
パリサイ人の律法主義と比較すると、福音は新しい教理であるかのように見えたし、今なお教皇主義者たちはそう呼んでいる。しかし実際には、それは最も古い教理である。神は永遠から、キリストを通して世を救うことを予定しておられ、この計画を福音において啓示されたのであるから(テモテ第二1:9-10)。それゆえ、われらの福音的信仰を最近の革新と呼ぶことは、重大な誤りである。

第14章 悔い改めと人の回心について

悔い改め(メタノイア)とは、福音の御言葉と聖霊とによって罪人のうちに生じさせられる心の変化であり、生まれながらの、また実際の堕落についての知識、罪への敬虔な悲しみと憎しみ、そして今後は徳と聖さのうちに生きようとする決意を含む。まことの悔い改めとは、神とすべての善へと立ち返り、悪魔とすべての悪から真剣に離れ去ることである。それは神の自由な賜物であって、われら自身の力による結果ではない(テモテ第二2:25)。
われらは、罪深い女(ルカ7:38)、堕落後のペテロ(ルカ22:62)、放蕩息子(ルカ15:18)、そして宮での取税人(ルカ18:13)のうちに、まことの悔い改めの実例を持っている。
神に対して自分の罪を、私的にも公の礼拝においても告白すれば十分であり、祭司に告白する必要はない。それは聖書のどこにも命じられていないからである。ただし、苦難と試練のときに福音の奉仕者から助言と慰めを求めることはあってよい(ヤコブ5:16参照)。
教皇主義者たちが、そこから剣や笏、王冠を作り出す天の御国の鍵は、福音の宣教と戒規の維持において、すべての正当な教会の奉仕者たちに与えられている(マタイ16:19、ヨハネ20:23、マルコ16:15、コリント第二5:18-19)。われらは、贖宥にまつわる教皇の実入りの良い悔悛の教理を断罪し、彼らに対してシモン・マグスへのペテロの言葉を適用する。「あなたの金は、あなたと共に滅びてしまえ」(使徒8:20)。

第15章 信仰者のまことの義認について

使徒がこの主題を論じるとき、「義とする」とは、罪を赦し、罪責と刑罰から解放し、恩寵のうちに受け入れ、義であると宣言することを意味する(ローマ8:33、使徒13:38、申命記25:1、イザヤ5:23)。
われらはみな生まれながらに罪人であり、神の前に不敬虔であって、神の裁きの座の前で死に定められている。しかしわれらは、われら自身の功績によってではなく、ただキリストの功績のみによって義とされる、すなわち罪と死から神なる裁き主によって解き放たれるのである。キリストのゆえに、その苦難と復活のゆえに、神はわれらの罪について恵み深くあられ、われらの罪をわれらに帰することなく、むしろキリストの義をわれら自身のものとして帰してくださる(コリント第二5:19以下、ローマ4:25)。それゆえわれらは、罪、死、断罪から清められ、赦され、義とされ、永遠の命の相続者となる。厳密に言えば、神のみがわれらを義とされ、それはただキリストのゆえにのみであって、われらの罪をわれらに帰することなく、その義をわれらに帰することによる。
それゆえわれらは、使徒とともに、罪人はただキリストへの信仰のみによって義とされるのであり、律法によってでも、いかなる行いによってでもないと教え、信じる(ローマ3:28、4:2以下、エペソ2:8-9)。義が信仰に帰せられるのは、信仰がわれらの義であるキリストを受け取り、すべてをキリストにある神の恵みに帰するからであって、それがわれら自身のわざであるからではない。それは神の賜物である。食べることによって食物を受け取るように、信仰はキリストを我がものとする。
われらは義認の恵みを、一部は神の恵みあるいはキリストに、一部はわれら自身の行いや功績に分けて帰すことはせず、もっぱらキリストにある神の恵みに、信仰を通して帰する。まずわれらが義とされなければ、われらは善い行いを愛し行うことができない。愛は信仰から生まれる(テモテ第一1:5、ガラテヤ5:6)。
それゆえここでわれらが語っているのは、偽りの死んだ信仰ではなく、われらの命であり命を与えるキリストのうちに生きる、生きた命を与える信仰である。ヤコブ(第2章)もまた、われらのこの教理に矛盾しない。彼が語るのは、悪霊さえ持っているような死んだ信仰についてであり、アブラハムが行いによって生きた義とする信仰を証したことを示しているのである。

第16章 信仰と善い行いについて、その報いと人の功績について

キリスト教信仰とは、人間的な意見や確信ではなく、最も堅固な信頼であり、心の明白で揺るがぬ同意である。それはまず、聖書と使徒信条のうちに示された神の真理についての、最も確かな把握であり、それゆえまた神ご自身、すなわち最高善についての、とりわけ神の約束と、すべての約束の成就であるキリストについての、最も確かな把握である。
このような信仰は神の純粋な賜物であって、神はご自身の恵みにより、御心のままに、いつ、だれに、どれほどの程度でこれを聖霊によって、福音の宣教と信仰の祈りという手段を通して、選ばれた者たちに与えられる。この信仰には段階があり、増し加わりうるものである。それゆえ使徒たちは「わたしどもの信仰を増してください」(ルカ17:5)と祈ったのである。(以下、ヘブライ11:1、コリント第二1:20、ピリピ1:29、ローマ12:3、テサロニケ第二2:3、ローマ10:16、使徒13:48、ガラテヤ5:6などの聖句が続けて引かれる。)
われらは、善い行いが生きた信仰から、聖霊を通して生まれ、神の御言葉の御心と規範にしたがって信仰者によってなされると教える(ペテロ第二1:5以下、テサロニケ第一4:3、6、23)。
善い行いは、それによって永遠の命を得るためになされてはならない。永遠の命は神の自由な賜物だからである(ローマ6:23)。また見せびらかしや利己心のためになされてはならない。主はこれを退けられるからである(マタイ6:2、23:5)。むしろ、神の栄光のため、われらの召しを飾るため、神への感謝を示すため、そして隣人の益のためになされるべきである(マタイ5:16、エペソ4:1、コロサイ3:17、ピリピ2:4、テトス3:14)。
われらは、人がキリストへの信仰によって義とされ、いかなる行いによるものでもないと教えるが、善い行いを非難するのではない。人は、絶えず善く有益なことを行うために、信仰によって造られ、再生させられたのである。「良い木は良い実を結ぶ」(マタイ7:17)。「わたしにとどまる者は、多くの実を結ぶ」(ヨハネ15:5)。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちがそれを行って歩むように、あらかじめこれを備えてくださった」(エペソ2:10)。
それゆえわれらは、善い行いを軽んじ、あるいはそれを無用と言う者たちすべてを断罪する。同時にわれらは、善い行いが救いに必要であって、それなしにはだれも救われたことがない、というふうには考えない。われらはキリストのみによって救われるからである。しかし善い行いは信仰から必然的に生まれるのであり、本来は恵みに帰せられるべきものが、便宜上、行いに帰せられることがあるにすぎない(ローマ11:6)。
神は、信仰によってなされたわれらの行いを喜ばれ、これを是とされる(使徒10:35、コロサイ1:9-10)。また神はこれに豊かに報いられる(エレミヤ31:16、マタイ5:12、10:42)。しかしわれらは、この報いを、それを受ける人の功績にではなく、それを約束し与えられる神の善良さと真実さに帰する。神は何ものにも借りがないにもかかわらず、そうされるのである。「わたしたちは命じられたことを皆おこなったとき、『わたしたちは無益なしもべです』と言いなさい」(ルカ17:10)。われらはアウグスティヌスとともに、神はわれらのうちで、われらの功績にではなく、ご自身の恵みの賜物に冠を授けられると言う。それは恵みの報いであって、功績の報いではない。われらは受けたもの以外、何一つ持っていない(コリント第一4:7参照)。
それゆえわれらは、人の功績を擁護することによって神の恵みを無にする者たちを断罪する。

第17章 神の普遍的で聖なる教会について、教会の唯一の頭について

神は初めから、人々が救われ、真理の知識に至ることを望まれたのであるから(テモテ第一2:4)、教会──すなわち、世から呼び出され集められた信仰者の集まり、聖徒の交わり──が、常に存在し、今も存在し、世の終わりまで存在することは、必然である。彼らはまことの神を、われらの救い主キリストにあって知り、正しく礼拝し仕える者たちであり、信仰によってキリストを通して自由に与えられるすべての恵みにあずかる者たちである。彼らは神の家の同じ家族の一員である(エペソ2:19)。信条の条項、「わたしは聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信じる」は、これらの人々について理解されるべきである。
そして、神はただ一人、神と人との間の仲介者はただ一人、メシアなるイエスであり、全群れの牧者はただ一人、この体の頭はただ一人、御霊はただ一つ、救いはただ一つ、信仰はただ一つ、契約はただ一つであるから、必然的に教会もまたただ一つでなければならない。われらはこれを普遍的(カトリック)と呼ぶ。すなわちそれは世界のあらゆる場所、あらゆる時代に広がっているからである。
それゆえわれらは、教会をアフリカのある片隅に閉じ込めたドナトゥス派を断罪し、またローマ教会のみが普遍教会であるとするローマの排他主義をも是としない。
教会は、それ自体において分裂しているのではなく、そのメンバーの多様性のゆえに区分される。地上で戦う戦闘の教会と、天において主の御前で喜ぶ勝利の教会とがある。しかしこの両者の間には交わりがある。戦闘の教会はさらに個々の教会に分かれるが、これらはすべて唯一の普遍教会の一致に帰せられるべきである。教会は族長たちのもとでは異なる形で、モーセのもとではまた異なる形で、キリストのもとでは福音による形で構成された。しかし唯一のメシアにあって、ただ一つの救いがある。彼にあって、すべての者が一つの体の肢体として一つに結び合わされ、同じ霊的な食物と飲み物にあずかる。われらは今、より大いなる光と、より完全な自由とを享受している。
この教会は、生ける神の家(テモテ第一3:15)、生きた霊的な石で建てられた家(ペテロ第一2:5)、動かされることのない岩の上に建てられ、他に置くことのできない唯一の礎の上に建てられた家(コリント第一3:11)、真理の柱であり土台(テモテ第一3:15)と呼ばれる。それは、岩であるキリストの上に、預言者と使徒たちの礎の上に立っている限り、誤ることがない。しかし、唯一の真理である方から離れるたびに、誤ってしまうのも不思議ではない。この教会はまた、処女、キリストの花嫁、唯一の愛される者(コリント第二11:2)、そしてキリストの体(エペソ1:23等)とも呼ばれる。信仰者たちはキリストを頭として、その生きた肢体だからである。
教会はキリスト以外のいかなる頭も持つことができない。彼は自らの群れの唯一の普遍的な牧者であり、世の終わりまでその臨在を約束された。それゆえ主は代理人を必要としない。代理人とは、その本人が不在であることを含意するものだからである。〔教会に二重の頭と統治を持ち込む者たちは、明らかに使徒たちが断罪した誤った教師たちの部類に属する(ペテロ第二2章、使徒20章、コリント第二11章、テサロニケ第二2章)。〕
しかしわれらは、ローマの頭を退けることによって、教会に混乱や無秩序をもたらすのではない。教皇が存在する以前に使徒たちによって伝えられた統治にわれらは従っているからである。ローマの頭は、教会に持ち込まれた専制と腐敗を維持し、正当な改革をことごとく妨げ破壊している。
彼らはわれらに対して、ローマから分離して以来、あらゆる論争や分裂が生じたと非難する。あたかもローマ教会において、宗派や対立が説教壇でも民衆の間でも一度も存在しなかったかのように。神はまことに秩序と平和の神である(コリント第一14:33)。それでもなお、使徒たちの教会にも党派と分裂があった(使徒15章、コリント第一3章、ガラテヤ2章)。神はこれらの分裂を、ご自身の栄光のため、真理を明らかにするために用いられる。
われらはキリストにあるまことの教会との交わりを高く評価し、それから離れる者は神の前に生きることができないと考える。ノアの箱舟の外に救いがなかったように、選ばれた者に自らを味わわせてくださるキリストの外には、確かな救いはないとわれらは信じる。
しかしわれらは、やむを得ない事情によって、また不本意ながら礼典にあずからない人々、あるいは信仰の弱い人々、なお欠けや誤りのある人々を排除するほどには、教会を狭く限定しない。神はユダヤの民の外にも友を持っておられた。ペテロに何が起きたか、選ばれ信仰深い人々に日々何が起きているかをわれらは知っている。使徒がガラテヤとコリントのキリスト者たちの重大な過ちを叱責しながらも、なお彼らをキリストの聖なる教会と呼んでいることをわれらは知っている。神は時に、正しい裁きによって、教会がエリヤの時代のように(列王記上19章18節)ほとんど絶滅したかのように見えるまで、これを覆い隠し揺り動かすことを許されることがある。しかしそのようなときでさえ、神は七千人以上のまことの礼拝者を持っておられる。「神のかたい土台は変わることがない。それは、次のような銘を持っている。『主はおのれに属する者を知りたもう』」(テモテ第二2:19)。それゆえ教会は「見えない」と呼ばれることがある──それを構成する人々が見えないからではなく、彼らが神のみに知られており、われらはしばしば判断を誤るからである。教会のうちには多くの偽善者もおり、彼らは外面的にはすべての儀式に従うが、最終的にはその真の姿が明らかにされ、切り離される(ヨハネ第一2:19、マタイ13:24、47)。
教会のまことの一致は、儀式や祭儀のうちにではなく、真理と普遍的な信仰のうちに求められるべきである。それは聖書に基づき、使徒信条に要約されている。古代の人々の間には儀式の大きな多様性があったが、それによって教会の一致が損なわれることはなかった。

第18章 教会の奉仕者について、その制定と職務について

神は常に、教会を集め治めるために奉仕者を用いられた(ローマ10:14、17、ヨハネ13:20、使徒16:9、コリント第一3:9等)。
神は族長たち、モーセ、預言者たちをその時代の教師として用いられた。そしてついに、無限の知恵に満ちたひとり子を、われらの誤りなき導き手として遣わされた。キリストは使徒たちを選ばれ、彼らはすべての教会に牧師を任じた(使徒14:23)。その後継者たちが今日に至るまで教会を教え治めてきた。
新約の奉仕者は、使徒、預言者、伝道者、監督、長老、牧師、教師と呼ばれる(コリント第一12:28、エペソ4:11)。後代には、総主教、大主教、大主教区長、長老会長老、執事、副執事などの名称が導入された。しかしわれらは、教会の教育と統治のために使徒たちが制定した職務をもって満足する。
奉仕者は教会によって正当に召され選ばれ、聖なる学識、敬虔な雄弁、思慮深さ、汚れなき品性において優れていなければならない(テモテ第一3:2、テトス1:5)。選ばれた者は、公の祈りと按手によって長老たちから按手を受けるべきである。われらは、恣意的な僭称者や資質の不足した牧師を退ける。しかし同時に、誇り高い学識よりも、無垢な単純さのほうが有用であることもあるとわれらは認める。
新約の奉仕者は、生者と死者のために犠牲を捧げるユダヤの祭司のような祭司ではない。キリストこそがわれらの永遠の大祭司であり、十字架上のただ一つの完全な犠牲によって型としての犠牲を成就し廃止された。すべての信仰者は祭司であり、絶えず神への感謝と賛美という霊的な犠牲を捧げる。
すべての奉仕者は権威と使命において対等である。監督と長老は、もともと同じ職務であり、共同の奉仕によって教会を治めていた。主の言葉を心に留めつつ、「あなたがたの中でかしらになりたいと思う者は、仕える者となりなさい」(ルカ22:26)。教会の奉仕者の主な務めは、福音の宣教、礼典の執行、魂への配慮、戒規の維持である。これを効果的に行うために、彼らは神への畏れのうちに生き、絶えず祈り、聖書を熱心に学び、常に目を覚まし、生活の清さによってすべての人の前に輝かなければならない。戒規を行うにあたっては、その権能が徳を建て上げるために与えられたのであって、破壊のためではないことを覚えておくべきである(コリント第二10:8、マタイ13:29参照)。
われらは、説教と礼典の効力を奉仕者の道徳的性格に依存させるドナトゥス派の誤りを退ける。キリストの声は、ふさわしくない奉仕者の口からであっても聞かれ、従われなければならない(マタイ23:3)。礼典は、その神的な制定とキリストの御言葉によって、ふさわしく受ける者に対して有効である。
それでもなお、奉仕者の教理と品行に対する適切な規律と監督が、教会会議において行われるべきである。偽りの、あるいは不道徳な教師は容認されるべきではなく、警告されるか、あるいは罷免されるべきである。われらは、使徒的な先例(使徒15章)にしたがって、教会の福祉のために、教会の腐敗のためではなく行われる限り、一般公会議あるいは普遍公会議を否定しない。
労働者がその報酬を受けるにふさわしいように、奉仕者は自分と家族の生活の支えを、仕える会衆から受ける権利がある(コリント第一9:9以下、テモテ第一5:18等)。奉仕によって生計を立てる奉仕者を非難する再洗礼派に対して、われらはこれを主張する。

【訳者注:第19章以降について】
ここまで(第1〜18章)は、逐語訳に近い形の英訳(パブリックドメイン、シャフ『Creeds of Christendom』所収の完全な英語訳)を底本として翻訳してきた。しかし第19章以降については、入手できた完全な逐語訳の続きが確認できず、代わりにシャフ自身による要約版(同書内で「a condensed translation of the original」と明記されている、原文の趣旨をまとめた凝縮訳)を底本とせざるを得なかった。
したがって、以下の第19章〜第30章は、原文の逐語訳ではなく、要約(ダイジェスト)からの翻訳であることを明記する。各条項の趣旨・骨子は正確に反映するよう努めているが、原文にある個々の聖句引用の細部や修辞的な言い回しの多くは、要約の段階で省略されている。学術的な引用や正確な逐語訳が必要な場合は、原典(ラテン語)またはシャフの完全な英訳、既刊の日本語訳(大崎節郎訳『改革派教会信仰告白集Ⅲ』など)をご参照願う。

第19章 キリストの教会の礼典について 【要約】

御言葉の説教には、礼典すなわち聖なる儀式が伴う。これは、神がわれらの信仰を強めるためにその約束のしるしと証印として制定されたものであり、同時にわれらの側からは、神への献身の誓いともなる。
ユダヤの時代の礼典は割礼と過越の子羊であった。キリスト教時代の礼典は洗礼と主の晩餐である。
教皇主義者たちは礼典を七つに数える。このうち、悔い改め、教職按手、結婚については、神の有益な制度として認めるが、礼典としては認めない。堅信礼と終油の秘跡は人間の考案物であり、廃止しても何ら損失はない。われらは、ローマの祭司たちによって礼典にまつわって行われる商行為を忌み嫌う。
礼典の最高の恵みは、救い主キリストご自身であり、世の基が置かれる前から屠られた神の子羊、われらの父祖たちがみな飲んだあの岩である。この点において、旧約と新約の礼典は同一である。ただしわれらは、その実体をすでに持っている。
礼典は、御言葉、しるし、しるされる事柄から成る。神の御言葉とキリストの制定によって、それらは礼典となり、聖別される。洗礼におけるしるしは水であり、しるされる事柄は再生あるいは罪からの洗いである。主の晩餐におけるしるしはパンとぶどう酒であり、しるされる事柄はわれらのために犠牲とされたキリストの真実の体と血である。しるしはしるされる事柄そのものに変化するのではない──そうであれば、それはもはや、しるされる事柄を表す礼典的なしるしではなくなってしまう──しかし、それらは聖なる、有効なしるしと証印である。洗礼と晩餐を制定された方は、われらが外的な形だけでなく、内的な恵み、すなわち信仰によって真実に罪から洗われ、キリストにあずかる者となることを意図されたからである。
礼典の真実性と有効性は、それを執行する者の資格にも、それを受ける者の資格にも依存せず、神の真実にのみ依存する。信じない者は、差し出されているものを受け取らない。しかしその咎は人間の側にあり、彼らの不信仰が神の真実を無にするわけではない(ローマ3:3)。

第20章 聖なる洗礼について 【要約】

洗礼はキリストによって制定された(マタイ28:19、マルコ16:15)。教会における洗礼はただ一つであり、生涯にわたって効力を持ち、われらの神の子としての身分の永続的な証印である。キリストの御名によって洗礼を受けるとは、神の契約、神の家族、神の子らの相続財産に登録され、迎え入れられることであり、キリストの血によって罪から清められ、新しく汚れなき生活を送るためである。われらは聖霊によって内的に再生されるが、この恵みの公の証印を洗礼によって受け取る。水が汚れを洗い去り、体を爽やかにし慰めるように、神の恵みは内的・見えない仕方で魂を清める。
洗礼によってわれらは世から分かたれ、神に献げられる。洗礼においてわれらは自らの信仰を告白し、神への従順を誓う。われらは、肉と世と悪魔とに対して戦うキリストの聖なる軍勢に登録されるのである。
原初の洗礼の形式に後代人間が付け加えたもの──悪魔祓い、燃える灯火、油、塩、唾などの使用──は不要であるとわれらは判断する。
洗礼は女性や産婆によってではなく、教会の奉仕者によって執行されるべきである。
われらは、信仰者の子らが洗礼を受けるべきであることを否定する者たちを断罪する。神の国は子どもたちのものであり、彼らは神との契約のうちにあるのだから、なぜ契約のしるしを彼らに与えてはならないのか。それゆえわれらは再洗礼派ではなく、彼らとの交わりを持たない。

第21章 主の聖なる晩餐について 【要約】

主の晩餐、すなわち聖餐は、贖いの恵みへの感謝に満ちた記念であり、キリストによって制定された信仰者の霊的な饗宴であって、そのうちで主は真実の信仰によってご自身の肉と血をもってわれらを養い、永遠の命に導かれる。それは、この上ない恵みと祝福──主がまことにご自身の体を渡し、われらの罪の赦しのために血を流されたこと──をわれらにしるし、証印するものである。われらはそこで、まことの食物であるその肉を食べ、まことの飲み物であるその血を飲む(マタイ26:20以下、ルカ22:19、コリント第一11:21以下、ヨハネ6:51以下)。
この「食べる」ことは、口と胃による身体的・カペナウム的な食事ではなく、霊的なもの、すなわち聖霊による信仰を通してのものである。「肉」を身体的に食べても益はなく、「命を与えるのは霊」である(ヨハネ6:63)。「わたしはいのちのパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6:51)。したがって、ここでの食べることと飲むこととは、キリストのもとに来て彼を信じることを意味する。アウグスティヌスが言うように、「なぜ歯と胃を用意するのか。信じよ、そうすればあなたはすでに食べたのである」。
この霊的な食事──キリストとの日々の霊的交わり──に加えて、礼典的な食事がある。それによって信仰者は、内的・霊的に主の真実の体と血にあずかるだけでなく、外的にも主の食卓に近づき、その体と血の目に見えるしるしと証印を受け取る。そして、しるしとともに、それがしるす当のもの自体をも受け取る。信仰者はこの霊的な食物によって養われ強められる。しるしはまた、キリストが人類全般のためだけでなく、あずかる一人ひとりの信仰者のためにも死なれたことの確かな証しである。さらにこの礼典にあずかることによって、われらは主の命令に従い、その贖いの死を記念し、大いなる贖いに感謝を捧げ、会衆の前で自らの信仰を公に告白する。
しかし、信仰なく、ふさわしくなくあずかる者は、目に見えるしるしのみを受け取り、それは自分自身への裁きとなる(コリント第一11:27以下)。
それゆえわれらは、パンとキリストの体、ぶどう酒とキリストの血を、パンそのものが(礼典的な意味を除いて)体そのものである、あるいはキリストの体がパンの形の下に身体的に隠されておりパンの形において礼拝されるべきである、あるいはしるしを受け取る者はだれでも必然的にしるされる事柄そのものをも受け取る、というふうには結びつけない〔ルター派の説に対して〕。キリストの体は、御父の右の座、天にある(マルコ16:19、ヘブライ8:1、12:2)。それゆえわれらは心を天に上げなければならない。
しかしそれでもなお、主は信仰者が聖餐にあずかるとき、彼らから不在であられるのではない。天における太陽がわれらに対して効果的に臨在するように、義の太陽であるキリストは、身体的にではなく、霊的に、その命を与え生かす働きによって、なおいっそうわれらとともにおられる。それは最後の晩餐において主ご自身が、ご自身がわれらとともにおられることを説明されたとおりである(ヨハネ14〜16章)。それゆえわれらは、キリスト不在の晩餐を持つのではなく、古代の全教会がそう呼んだように、血を流すことのない、神秘的な晩餐を持つのである。
さらに主の晩餐は、われらがその体の肢体であること、すべての兄弟と平和に生きるべきこと、聖なる生活のうちに成長し忍耐すべきことを、われらに思い起こさせる。それゆえ、悔い改めとキリストへの信仰について自己吟味することによって、あらかじめ自らを整えることは、まことにふさわしいことである(コリント第一11:28)。
外的な執行に関しては、われらは原初の形式──神の御言葉の告知、敬虔な祈り、主のみわざ、そしてパンを裂き、ぶどう酒とともに分け与える再演、主の体を食べ主の血を飲むこと、その死の感謝に満ちた記念、感謝、そして一つの体としての兄弟の聖なる集いという形式──を守る。
われらは、主の明確な命令「あなたがたはみな、この杯から飲みなさい」(マタイ26:27)に反する、杯の一般信徒への差し止めを是としない。
ミサは──古代においてどのようなものであったにせよ──有益な制度から空しい見せ物へと変えられ、さまざまな濫用に取り囲まれるようになった。これらの濫用は、ミサの廃止を正当化するものである。

第22章 聖なる集会・教会の集まりについて 【要約】

すべての人が自宅で私的に聖書を読み、これによって教え導かれることは、正当かつ正しいことである。同時に、宗教の維持には規則的な公の礼拝が求められる。これらは、民衆が理解できる言語によって、品位をもって、秩序正しく、徳を建て上げるために行われるべきである。

第23章 教会の祈り、賛美、聖務日課について 【要約】

聖なる集会における公の祈りは、すべての人が理解できる自国語でなされるべきである。すべての祈りは、聖徒たちにではなく、また聖徒たちを通してではなく、キリストのみを通した唯一の仲介によって、神のみに献げられるべきである。諸教会は、通常の形式から自由に変わることができる。祈りは、特定の場所や時間に迷信的に限定されるべきではない。公の集会における長く冗長な祈りは避けるべきである。賛美は不可欠ではないが、正当かつ望ましいものである。聖務日課(定時課)は聖書に定められておらず、古代にも知られていなかった。

第24章 祝祭日、断食、食物の選択について 【要約】

主の日は、使徒たちの時代から、神への礼拝と聖なる休息のために聖別されている。しかしわれらはこれを、ユダヤ的な迷信によってではなく、キリスト教的な自由のうちに守るのであり、ある一日がそれ自体において他の日より聖であるとは信じない。
もし諸教会がこれに加えて、主の降誕、割礼、十字架、復活、昇天、聖霊降臨を記念するならば、われらはこれを大いに是とする。しかし人間が聖徒を称えて制定した祝日は、聖徒の記憶が有益であり、その徳に倣うようにと民に勧められるべきものであるとしても、退ける。
まことのキリスト教的断食は、節制、節欲、目覚め、自己統制、そして御霊により従いやすくなるための肉の懲らしめから成る。このような断食は、祈りとあらゆる徳の助けとなる。
また、苦難と災いの時に定められる公の断食もあり、そのときには人々は夕方まで一切の食物を断ち、すべての時を祈りと悔い改めに費やす。このような断食は預言者たちにも言及されており(ヨエル2:12以下)、教会が苦しめられ抑圧されているときに守られるべきである。私的な断食は、それが自らの魂に有益であると各人が判断するときに、各自守るべきものである。
すべての断食は、自由で進んで行う心から生じるべきであり、真の謙遜の霊のうちに、肉に打ち勝ち、いっそう熱心に神に仕えるために行われるべきであって、人の好意や義の功績を得るためであってはならない。
四旬節の断食は古代の証しを持つが、聖書に命じられているわけではなく、信仰者の良心に課されるべきではない。初代教会には、断食の時期に関して大きな多様性と自由があった。イレナイオスや歴史家ソクラテスから、われらはこれを知る。
食物の選択に関して、われらは断食において肉欲を刺激するような食物や飲み物を控えるべきであると考える。しかしそれ以外については、神のすべての被造物は良いものであり(創世記1:31)、節度と感謝をもって区別なく用いてよい(コリント第一10:25、テトス1:15)。パウロは食物を禁じる教理を悪霊の教えと呼び(テモテ第一4:1以下)、過度の節制によって聖性の評判を得ようとする者たちを非難している。

第25章 教理教育について、また病人の訪問と慰めについて 【要約】

若者への宗教教育、とりわけ十戒、使徒信条、主の祈り、礼典の本質についての教育に、最大の配慮が払われるべきである。諸教会は、子どもたちが教理教育を受けるよう配慮すべきである。
病人を訪問し、慰め、力づけ、私的にも公にも彼らのために祈ることは、キリスト教の牧者の主要な務めの一つである。しかしわれらは、教皇主義者たちの終油の秘跡を是としない。

第26章 信仰者の埋葬について、死者への配慮について、煉獄と霊の出現について 【要約】

聖霊の宮である信仰者の体は、終わりの日によみがえるのであるから、迷信によらず、敬意をもって地に納められるべきであり、その親族、寡婦、孤児は手厚く配慮されるべきである。
われらは、信仰者は死後直ちにキリストのもとに行き、生きている者の祈りを必要としないと信じる。不信仰者は地獄に投げ込まれ、そこから逃れる道はない。
煉獄の教理は聖書に反し、キリストによる完全な贖罪と清めに反する(ヨハネ5:24、13:10参照)。
死者の霊が生きている者に現れ、自分たちの救済のために奉仕を求めるという話は、われらの判断では嘲弄あるいは悪魔の欺きである。主は死者への口寄せを禁じておられる(申命記18:10)。そして富める者は、もし地上の兄弟たちがモーセと預言者たちに耳を傾けないなら、たとえだれかが死人の中からよみがえっても、彼らは説得されないであろうと告げられた(ルカ16:30)。

第27章 儀式と祭儀について 【要約】

ユダヤ人の儀式律法は、まことの解放者キリストへとユダヤ人を導く養育係であり後見人であった。キリストはこれを廃止されたので、信仰者はもはや律法の下にではなく、福音の自由の下にある。使徒たちは、新しい改宗者にユダヤの儀式の重荷を負わせようとはしなかった(使徒15:28)。人間の儀式が教会に積み重ねられるほど、それはキリスト教的な自由から、そしてキリストご自身から、教会を遠ざける。無知な者たちは、信仰によってキリストのうちに求めるべきものを儀式のうちに求めてしまう。神の御言葉に一致した、少数の純粋で節度ある儀式で十分である。
古代の教会に存在した、そして今われらの間に存在するような、儀式における相違は、教理と信仰における一致と調和を妨げるものではない。それ自体は善でも悪でもない中立的な事柄(アディアフォラ)においては、教会は常に自由を用いてきた(コリント第一8:10、10:27以下)。

第28章 教会の財産について 【要約】

教会の財産は、公の礼拝と学校の維持、奉仕者と教師の支援、そしてとりわけ貧しい者の益のために用いられるべきである。
無知あるいは貪欲による教会財産の誤用と濫用は冒瀆であり、改革を要する。

第29章 独身、結婚、家政について 【要約】

天からの賜物として独身を与えられ、全き心をもって清く節制できる者は、他者に対して自らを誇ることなく、単純さと謙遜のうちに、その召しにあって主に仕えてよい。そうでなければ、使徒の言葉「情の燃えるよりは結婚するほうがよい」(コリント第一7:9)を思い起こすべきである。
結婚(不節制の治療であり、それ自体が節制でもある)は神によって制定され、神はこれを豊かに祝福し、男女を親密な愛と調和のうちに生きるよう不可分に結び合わされた(マタイ19:5)。結婚はすべての人において尊ばれるべきであり、その床は汚されていない(ヘブライ13:4、コリント第一7:28)。
われらは重婚を、また再婚を退ける者たちを断罪する。
結婚は主を畏れる心をもって、両親またはその代理人の同意を得て、それが制定された目的にしたがって結ばれるべきである。
子どもたちは主を畏れるうちに育てられ、両親によって適切に扶養され(テモテ第一5:8)、誠実な技術あるいは職業を教えられるべきである。
われらは、結婚を禁じる、あるいはこれを不浄で汚れたものとして間接的に貶める教理を断罪する(テモテ第一4:1)。われらは、汚れた独身、隠された、あるいは公然の淫行、そして偽善者たちの見せかけの節制を忌み嫌う。

第30章 為政者について 【要約】

世俗の為政者は、人類の平和と安寧のために、神ご自身によって立てられた(ローマ13章)。教会に敵対するなら、為政者は大きな害をなしうる。友好的であれば、教会に最も有益な奉仕をなしうる。
為政者の務めは、平和と公の秩序を保つこと、宗教と善き道徳を促進し保護すること、正しい法によって民を治めること、盗人、殺人者、抑圧者、冒瀆者、そして(真に異端者であるならば)矯正しがたい異端者など、社会に背く者たちを罰することである。
戦争は、自衛のためにのみ、そしてあらゆる和平の努力が尽きた後にのみ、正当化される。
われらは、キリスト者が公職に就くべきでない、為政者には何びとをも死刑に処す権利がない、戦争をなす権利がない、誓いを求める権利がないと主張する再洗礼派を断罪する。
すべての市民は、神のしもべとしての為政者に対して、そのすべての正しい命令において敬意と従順を負う。公共の安全と福祉が求めるときには、自らの命をもってさえも。それゆえわれらは、為政者を軽んじる者、反逆者、国家の敵、そして公然とあるいは巧妙に市民としての義務を拒む者たちすべてを断罪する。
われらは、われらの憐れみ深い天の父なる神に、君主と為政者、われらすべて、そして神のすべての民の上に、われらの唯一の主にして救い主なるイエス・キリストを通して、祝福を注いでくださるよう祈る。彼にとこしえに賛美と栄光と感謝がありますように。アーメン。

【新宗教解説シリーズ】佛所護念会教団──法華経・日蓮宗系なのに伊勢神宮・靖国参拝もする在家仏教教団

 


ーーーレジュメーーー

【新宗教解説シリーズ】佛所護念会教団──法華経・日蓮宗系なのに伊勢神宮・靖国参拝もする在家仏教教団

 本教団は、法華経を信仰する日蓮系の新宗教で、1950年10月30日に関口嘉一(かいち)・トミノ夫妻が創立した在家仏教団体である。信徒数は約92万3811人(2024年度末現在)とされている。同じタイプの教団として、立正佼成会、霊友会をあげることができる。

基本情報
  • 成立:1950年(昭和25年)10月30日
  • 創立者:関口嘉一(初代会長)・関口トミノ(二代会長)夫妻
  • 本部所在地:東京都港区白金台2-1-1
  • 信徒数:923,811人(2023年度末、文化庁『宗教年鑑』)
  • 系統:日蓮系・法華経系の新宗教
  • 経典:法華三部経(無量義経・妙法蓮華経・観普賢菩薩行法経(かんふげんぼさつぎょうほうきょう))
  • 特徴:寄付・賽銭を一切受け取らず、月会費のみで運営する独自方針

教団創立の経緯
  • 関口嘉一 15歳で上京。(14歳で上京、15歳で北海道に渡り、病気で新潟に戻るとも)
  • 1923年 関口自転車店を開業。
  • 1924年頃 妻・トミノと結婚。
  • 結婚からまもなく、長女を授かるが夭逝。
  • 1933年 かつての長女の死や長男病弱もあって、妻トミノの信仰の導きにより、霊友会に入信。
  • 1935年 霊友会第6支部長になったが、霊友会の共同募金横領・脱税事件を契機に離脱
  • 1950年 独立して新教団である佛所護念会教団を設立。
  • 法華経見宝塔品(ほけきょうけんほうとうほん)に示される平等大慧(びょうどうだいえ)、教菩薩法(きょうぼさつほう)、佛所護念の精神を中心に、法華経による在家先祖供養を実践。行い、布教活動を展開。毎年伊勢神宮に参拝を行う。
    • 法華経見宝塔品(ほけきょうけんほうとうほん):『法華経』の中の「見宝塔品」という章で、仏の教えの尊さと平等性を象徴する場面が描かれます。宝塔(ほうとう)は真理の象徴。
    •  平等大慧(びょうどうだいえ):すべての人が仏性(ぶっしょう)を持ち、差別なく悟りに至る智慧(ちえ)を持つという考え。仏教の根本的な平等観を表す。
    •  教菩薩法(きょうぼさつほう):菩薩(ぼさつ)が他者を導くために行う教えの実践。自分だけでなく他人の救いを目指す慈悲の行動。
    • 佛所護念(ぶっしょごねん):仏が衆生(しゅじょう)を常に守り、念(おも)っているという教え。信仰者が仏の加護を受けているという安心感を意味する。
    • 在家先祖供養(ざいけせんぞくよう):出家せず家庭にいる信者(在家)が、法華経の教えに基づいて先祖を供養すること。家庭の中で仏教を実践する形。
  • 1953年 本部講堂完成
  • 1963年より神宮の式年遷宮の奉賛をすすめる。明治神宮、靖国神社への参拝も行う。
  • 建国記念の日奉祝を打ち出し、靖国神社国家護持を主張している。
  • 2015年11月、さいたまスーパーアリーナで創立65周年式典を挙行。

教義の特徴(4頁)
  • 法華経の実践を最重視する。日常生活で法華経を読み、先祖供養を行うことを基本とする。
  • 伊勢神宮や身延山久遠寺、明治神宮への参拝行事を行う。
  • 創立以来、会員からの寄付・賽銭を一切受け取らず、月々の会費のみで運営する方針を貫いている(公式サイトで明言)。

活動内容(5頁)
  • 自宅での先祖供養(読経)
  • 本部・教会での修養会への参加
  • 会報『佛所護念』の発行(毎月)
  • 国内14教会・海外1教会(台湾教会)を展開

政治との関わり(事実ベース)(7頁)

  • 参議院の全国区・比例区選挙で、大竹平八郎、鳩山威一郎、藤井裕久、尾辻秀久、有村治子、衛藤晟一、山谷えり子ら複数候補を支援してきた記録がある。
  • 日本会議との関係について、AERA編集部の取材に対し教団は「皇室仰慕(ぎょうぼ)の諸活動や英霊の慰霊顕彰など、教団の考えに合う取り組みについて、その趣旨に賛同する会員に協力を呼び掛けている」と回答している。

説教や聖書研究をする信徒のための聖書注解 マタイ27:27-31「兵士たちによるイエスの嘲弄」

 

説教や聖書研究をする信徒のための聖書注解

マタイ27:27-31「兵士たちによるイエスの嘲弄」



概要

 マタイ27:27–31は、イエスがローマ兵によって徹底的な嘲弄を受ける場面を描いています。ピラトの裁判が終わり、イエスが十字架刑へと引き渡された直後、兵士たちはイエスを総督官邸へ連れ込み、集団で侮辱を加えます。彼らはイエスの衣を脱がせ、緋色の外套を着せ、茨の冠を編んで頭に載せ、葦を笏のように持たせ、跪いて歓呼するという「偽りの即位式」を演じます。これらは王の象徴を戯画化したものであり、イエスを「偽の王」として嘲るための演技です。
 しかし、マタイはこの嘲弄の中に逆説的な真理を示しています。兵士たちが侮辱として行う「王の演出」は、物語の神学的視点から見ると、イエスが真の王であることをむしろ際立たせます。イエスは沈黙し、抵抗せず、受動的に辱めを受け続けますが、その従順こそ神の救いの道です。嘲弄が終わると、兵士たちはイエスに元の衣を着せ、十字架へと連れ出します。この場面は、苦難を通して王としての使命を成し遂げるイエスの姿を示す重要な一幕である。


注解

27:27

原文: Τότε οἱ στρατιῶται τοῦ ἡγεμόνος παραλαβόντες τὸν Ἰησοῦν εἰς τὸ πραιτώριον συνήγαγον ἐπ’ αὐτὸν ὅλην τὴν σπεῖραν.
私訳: そのとき、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸の中へ連れて行き、彼のところに部隊全体を集めた。

文法解析

  • Τότε:τότε「そのとき」副詞
    • 時を示す副詞です。直前のピラトによる判決と鞭打ち(27:26)を受け、その後に起こった出来事を導入しています。
  • οἱ στρατιῶται:στρατιώτης「兵士」男性・複数・主格
    • παραλαβόντεςおよびσυνήγαγονの主体です。
  • τοῦ ἡγεμόνος:ἡγεμών「総督、支配者」男性・単数・属格
  • παραλαβόντες:παραλαμβάνω「引き取る、連れて行く」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
  • τὸ πραιτώριον:πραιτώριον「総督官邸、プラエトリウム」中性・単数・対格。ラテン語 praetorium に由来する語です。
  • συνήγαγον:συνάγω「集める」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
  • ἐπ’ αὐτόν:ἐπί+αὐτός「彼のところに、彼の周りに」前置詞+男性・単数・対格
  • ὅλην:ὅλος「全体の、すべての」女性・単数・対格
  • τὴν σπεῖραν:σπεῖρα「部隊、軍団の一部、コホルス」女性・単数・対格

注解

  • 27節から、場面はピラトによる正式な裁判から、ローマ兵によるイエスへの嘲弄へと移ります。27:26ではピラトがイエスを鞭打った後、「十字架につけるために引き渡した」と記されましたが、実際の十字架刑に向かう前に、27–31節の嘲弄場面が挿入されています。
  • 「イエスを引き取って」:ここでイエスはローマ兵の支配下に置かれます。
  • 「総督官邸」:ラテン語 praetorium に由来し、総督の滞在・執務場所を指します。エルサレムにおけるその正確な所在地については議論がありますが、物語の進行上の要点は、イエスがユダヤ人指導者や群衆の前からローマ兵の内部空間へ移されたという点です。
  • 「部隊」:ローマ軍の cohors に相当する語として用いられています。本来の編制上は数百人規模を指し得ますが、ὅλην τὴν σπεῖρανを「文字どおり全員が集合した」と厳密に理解する必要はありません。多数の兵士がイエスを取り囲み、集団的な嘲弄が始まったことが強調されていると思われます。


27:28

原文: καὶ ἐκδύσαντες αὐτὸν χλαμύδα κοκκίνην περιέθηκαν αὐτῷ,
私訳: そして彼を脱がせ、緋色の外套を彼に着せた。

文法解析

  • ἐκδύσαντες:ἐκδύω「脱がせる」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格

  • αὐτόν:αὐτός「彼」男性・単数・対格
    • ἐκδύσαντεςの目的語で、イエスを指します。
  • χλαμύδα:χλαμύς「外套、マント」女性・単数・対格
    • περιέθηκανの目的語です。特に兵士などが用いる短い外套を指すことがあります。
  • κοκκίνην:κόκκινος「緋色の、深紅色の」女性・単数・対格
    • χλαμύδαを修飾します。
  • περιέθηκαν:περιτίθημι「周りに置く、身につけさせる」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
    • περί+τίθημιからなる動詞で、「周囲に置く」から「着せる」という意味になります。

注解

  • 兵士たちはまずイエスの衣服を脱がせ、代わりに「緋色の外套」を着せます。
  • 軍人などが着用した短い外套を意味します。したがって、兵士たちは手近にあった軍用の外套をイエスに着せ、それを王の衣装に見立てたと考えられます。
  • マタイが色をκοκκίνην「緋色の」とする点は注目されます。マルコ15:17およびヨハネ19:2では紫色を意味するπορφύρα/πορφυροῦνが用いられています。古代における赤・緋・紫の色彩表現には幅があり、ここから必ずしも矛盾を想定する必要はありません。いずれにしても、王侯を連想させる色の衣服を用いてイエスを「王」に仕立てているということです。当然、兵士たちはイエスを真の王としてそのように行なっているわけではありません。
  • しかし、そこに大きな逆説があります。兵士たちは「偽の王」としてイエスを嘲弄しますが、マタイ福音書は冒頭からイエスをダビデの子、メシアとして提示してきました(1:1)。つまり、兵士たちが嘲って演じている「王の即位」が、物語の神学的次元では真実を指し示すことになります。

27:29

原文: καὶ πλέξαντες στέφανον ἐξ ἀκανθῶν ἐπέθηκαν ἐπὶ τῆς κεφαλῆς αὐτοῦ καὶ κάλαμον ἐν τῇ δεξιᾷ αὐτοῦ, καὶ γονυπετήσαντες ἔμπροσθεν αὐτοῦ ἐνέπαιξαν αὐτῷ λέγοντες· Χαῖρε, βασιλεῦ τῶν Ἰουδαίων,
私訳: そして、茨で冠を編んで彼の頭の上に載せ、また彼の右手に葦を持たせた。そして彼の前にひざまずいて、「ごきげんよう、ユダヤ人の王よ」と言いながら彼を嘲弄した。

文法解析

  • πλέξαντες:πλέκω「編む、編み合わせる」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
  • στέφανον:στέφανος「冠、花冠」男性・単数・対格
    • 王冠そのものを意味するδιάδημαとは異なり、花輪・勝利者の冠などにも用いられる語です。
  • ἀκανθῶν:ἄκανθα「茨、とげのある植物」女性・複数・属格
  • ἐπέθηκαν:ἐπιτίθημι「上に置く、載せる」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
  • κεφαλῆς:κεφαλή「頭」女性・単数・属格
  • κάλαμον:κάλαμος「葦、葦の棒」男性・単数・対格。王の笏を模したものです。
  • δεξιᾷ:δεξιός「右の」女性・単数・与格、名詞的用法。「右手に」という意味です。χείρ「手」が省略されています。
  • γονυπετήσαντες:γονυπετέω「ひざまずく」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格。γόνυ「ひざ」とπίπτω「倒れる」に関連する語です。王に対する臣下の礼を模倣しています。
  • ἔμπροσθεν:ἔμπροσθεν「~の前で」前置詞的副詞+属格
  • ἐνέπαιξαν:ἐμπαίζω「嘲る、からかう」アオリスト・能動・直説法・3人称複数
  • Χαῖρε:χαίρω「喜ぶ、喜べ」現在・能動・命令法・2人称単数。挨拶としては「ごきげんよう」「万歳」に相当します。皇帝や王への歓呼を模倣した表現です。
  • βασιλεῦ:βασιλεύς「王」男性・単数・呼格

注解

  • この節では「偽りの即位式」が執り行われています。兵士たちは、①王の衣に相当する緋色の外套、②王冠に相当する茨の冠、③王笏に相当する葦、④臣下の跪拝、⑤王への歓呼、という一連の要素を用いてイエスを嘲弄しています。
  • 「茨の冠」:その目的がイエスに肉体的苦痛を与えることだったのか、王冠を戯画化することだったのか、本文だけからは断定できません。「王冠のパロディー」として機能していることは確かです。
  • 「葦」:王のを模しています。王の権威を象徴する笏の代わりに、折れやすい葦を持たせることによって、「お前の王権など見せかけだ」という嘲笑が表現されています。
  • 「ひざまずいて」:本来、王の前にひざまずくことは服従と敬意の表現です。しかし兵士たちはそれを演技として行っています。
  • 「ごきげんよう、ユダヤ人の王よ」:Χαῖρεは日常的には「こんにちは」「ごきげんよう」という一般的挨拶ですが、この場面では王への歓呼として機能しています。「ユダヤ人の王、万歳」といったニュアンスを持つと考えることもできます。
  • ここにはマタイ特有の強烈な皮肉が込められています。兵士たちはイエスが王ではないと思っているからこそ「ユダヤ人の王よ」と嘲ります。しかし読者は、イエスがメシアなる王であることを知っています。さらにマタイ福音書では、イエスに対する「ひざまずく」という行為が重要な意味を持ちます。たとえば東方の博士たちは幼子イエスにひざまずいてして礼拝しました(2:11)。しかしここでは、兵士たちは偽りの礼拝を行います。そして復活後には弟子たちが復活したイエスを礼拝します(28:17)。したがって27:29は、「偽りの礼拝」と「真の王権」という逆説が交差する場面となっています。

27:30

原文: καὶ ἐμπτύσαντες εἰς αὐτὸν ἔλαβον τὸν κάλαμον καὶ ἔτυπτον εἰς τὴν κεφαλὴν αὐτοῦ.
私訳: そして彼に唾を吐きかけ、葦を取って、彼の頭を何度も打った。

文法解析

  • ἐμπτύσαντες:ἐμπτύω「唾を吐きかける」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
  • ἔτυπτον:τύπτω「打つ、殴る」未完了・能動・直説法・3人称複数。未完了形であることが重要で、一回だけ打ったというより、「打ち続けていた」「繰り返し打った」という継続・反復的な行為を示唆します。

注解

  • 29節までは「王の即位式」の戯画という性格が前面に出ていましたが、30節では嘲弄が露骨な身体的暴力へと移ります。
  • 「唾を吐きかける」:単なる不快な行為ではなく、古代世界において強い侮辱を表す行為です。イエスはすでに大祭司の前でも唾を吐きかけられています。「それから彼らはイエスの顔に唾を吐きかけ……」(26:67)。したがってマタイでは、ユダヤ人指導者側の人々による嘲弄と、ローマ兵による嘲弄が並行しています。
  • 「葦を取って」:29節で「王笏」として持たされていたκάλαμοςが、今度はイエスを殴る道具になっています。ここで特に注目すべき文法はἔτυπτονです。これはアオリストではなく未完了形です。直前のἔλαβον「彼らは取った」はアオリストですが、その後の「打つ」は未完了形となっています。したがって、「葦を取った。そして彼の頭を打ち続けた」というニュアンスを持ちます。また、茨の冠がすでに頭に載せられている状態で頭部を打たれたとすれば、肉体的苦痛も伴ったと考えられます。

27:31

原文: καὶ ὅτε ἐνέπαιξαν αὐτῷ, ἐξέδυσαν αὐτὸν τὴν χλαμύδα καὶ ἐνέδυσαν αὐτὸν τὰ ἱμάτια αὐτοῦ, καὶ ἀπήγαγον αὐτὸν εἰς τὸ σταυρῶσαι.
私訳: そして彼を嘲弄し終えると、彼からその外套を脱がせ、彼自身の衣服を着せ、十字架につけるために彼を連れて行った。

文法解析

  • ἐνέδυσαν:ἐνδύω「着せる、身につけさせる」アオリスト・能動・直説法・3人称複数。ἐκδύω「脱がせる」と対をなしています。
  • τὰ ἱμάτια:ἱμάτιον「衣服、衣」中性・複数・対格
  • ἀπήγαγον:ἀπάγω「連れて行く、引いて行く」アオリスト・能動・直説法・3人称複数。ἀπό+ἄγωからなる動詞です。
  • τὸ σταυρῶσαι:σταυρόω「十字架につける」アオリスト・能動・不定詞+中性・単数・対格の冠詞

注解

  • 31節は27–30節の嘲弄場面を閉じ、実際の十字架刑へ物語を移行させる節です。一連の「偽りの即位式」がここで終了します。
  • 「彼自身の衣服を着せ」:兵士たちはχλαμύςを脱がせ、イエス自身のἱμάτιαを再び着せます。
  • 27:27–31全体を通して注目すべきなのは、イエスがほとんど何も語らないことです。兵士たちが、「連れて行く」「集める」「脱がせる」「着せる」「冠を載せる」「葦を持たせる」「ひざまずく」「嘲る」「唾を吐く」「打つ」「再び着せる」
「連れて行く」という一連の動作の主体であるのに対し、イエスは一貫してその対象です。これは受難物語におけるイエスの沈黙および無抵抗を際立たせています。


<マタイ27:27-31の注解をもとにしての説教の結びとして>
 マタイ27章27–31節は、イエスが沈黙のまま嘲弄を受け続ける場面を描き出しています。兵士たちはイエスを「偽りの王」として扱い、緋色の外套、茨の冠、葦の笏、跪拝、歓呼――王の象徴をすべて戯画の形にしてイエスを辱めました。
 しかし、マタイはこの嘲弄のただ中に、深い逆説を置いています。兵士たちが「王のパロディー」を演じれば演じるほど、読者にはむしろイエスの真の王権が浮かび上がってくるのです。
 イエスは抵抗せず、言い返さず、ただ沈黙のまま受け続けます。彼は奪われ、着せられ、載せられ、持たされ、打たれ、連れて行かれる――すべて受動の主体として描かれています。しかしその沈黙こそ、神の子が自ら選び取った「王としての道」でありました。力による支配ではなく、辱めと苦難を通して人を救う王。暴力によってではなく、徹底した従順によって神の御心を成し遂げる王。茨の冠を戴くことによって、罪と死の力を打ち破る王。
 兵士たちが跪いたのは嘲笑のためでした。しかし復活の朝、弟子たちは真実の礼拝としてイエスの前に跪きました。兵士たちが叫んだ「ユダヤ人の王よ」は侮辱でしたが、復活の主を前にした教会は「主よ、王よ」と心から告白します。嘲弄の場面は、神の国の王がどのような王であるかを逆説的に示す啓示の場となっています。
 私たちもまた、しばしばこの世界の価値観の中で「王らしくない王」を見失いがちです。力、成功、名誉――そうしたものが王のしるしだと思ってしまう。しかし、茨の冠を戴いた主は、私たちに別の道を示します。弱さの中に働く神の力、沈黙の中に宿る神の愛、辱めの中で輝く神の栄光。主はその道を歩み切り、十字架へと向かわれました。
 だからこそ、この嘲弄の場面は私たちに問いかけます。
 「あなたはどの王に跪くのか。」
 外側の栄光をまとった王か、それとも茨の冠を戴き、あなたのために沈黙してくださった王か。
 主イエスは、嘲られ、打たれ、沈黙しながらも、あなたの救いのために王として歩み続けました。
 この王にこそ、私たちは心から跪き、従い、礼拝する者とされたいと願います。

キリスト教とクリスマス美術

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