『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)概説
要約
『ユダ福音書』は、1970年代に発見された通称「チャコス写本」に含まれる福音書の一つであり、グノーシス主義的キリスト教の一派によって著された文書である。本書は、正典福音書においてイエスを裏切った人物として描かれるユダの行為を、イエス自身によって肯定的に評価するという、特異なキリスト理解を提示している。反異端文献における言及から、遅くとも2世紀後半までには成立していたと考えられる。
本文
『ユダ福音書』は、1970年代にエジプトで発見された「チャコス写本」に含まれる文書群の一つであり、グノーシス主義的思想を背景とするキリスト教文書である。本書は、グノーシス主義に特徴的な二元論的世界観に基づき、イエスを死へと引き渡したユダの行為を、救済史的観点から積極的に評価するという内容を含む。2006年にナショナルジオグラフィック協会の主導により本文が公開されたことで、一般社会においても大きな注目を集めた。
1.「チャコス写本」に含まれる文書群
チャコス写本には、以下の四文書が収められている。
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『フィリポに送ったペトロの手紙』
ナグ・ハマディ文書に含まれる同名文書とほぼ同一内容。
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『ヤコブ』
ナグ・ハマディ文書の『ヤコブの黙示録』とほぼ一致する。
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『ユダ福音書』
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『アロゲネース』
これらはいずれも、グノーシス主義的思想の影響を強く受けた文書であり、チャコス写本全体が、特定のグノーシス主義的キリスト教集団によって編纂・伝承された可能性が高い。
2.グノーシス主義的思想と『ユダ福音書』
『ユダ福音書』の神学的前提には、典型的なグノーシス主義的二元論が認められる。すなわち、「肉体=悪」「霊=善」という対立構図であり、肉体は「魂の牢獄」、死はそこからの「解放」と理解される。
この世界観においては、至高神とは別に、被造世界を形成した創造神デミウルゴスが想定される。デミウルゴスは人間を創造するが、人間にはソフィア(知恵)を媒介として至高神から霊的要素が与えられている。一方、肉体はその霊を閉じ込める拘束として理解される。したがって、人間の救済とは、霊が肉体的束縛から解放されることに他ならない。
この神学的枠組みに基づき、『ユダ福音書』は、ユダによるイエスの引き渡しを、単なる裏切りではなく、イエスの霊を肉体の拘束から解放する決定的行為として肯定的に評価する。ここに、本書が提示する独自のキリスト理解が集約されている。
3.反異端文書における『ユダ福音書』の証言
3.1 エイレナイオスの証言
『ユダ福音書』に関する最も重要な古代証言は、リヨンの司教エイレナイオスによる『不当にもそう呼ばれている「グノーシス」の罪状立証とその反駁』(通称『異端駁論』)に見出される。彼は次のように述べている。
「さらに他の人々は、カインが上なる権威に由来すると言い、…このことを裏切り者ユダもよく知っていたと主張する。彼のみが真理を知っていたため、裏切りの秘儀を成就したのであり、彼によって天上のものと地上のものが解消されたという。彼らはこの種の虚構を作り上げ、それを『ユダの福音書』と呼んでいる。」(『異端駁論』1.31.1)
エイレナイオスが言及する『ユダの福音書』と、現存する『ユダ福音書』との間には相違点も指摘されているが、文書名の逐語的一致と思想的共通性を考慮すれば、両者を同一文書、もしくは密接に関連する伝承とみなす可能性は高い。
3.2 「カイン派」に関する他の証言
エイレナイオスの記述を踏まえ、このグノーシス主義的集団を「カイン派」と呼ぶ反異端論者として、以下の人物が知られている。
4.成立年代
『異端駁論』の成立年代が約180年とされることから、これが『ユダ福音書』成立の下限となる。一方、本書は『使徒言行録』1:15–26に記される補欠選挙の記事を前提としていると考えられるため、『使徒言行録』成立後、すなわち90年代以降が上限と見なされる。
また、チャコス写本自体については、放射性炭素年代測定により、西暦280年±60年と推定されており、この結果はコプト語書体や装丁の年代判断とも概ね一致している。
5.発見から公開までの経緯
(※以下、史実整理として簡潔化)
1970年代、エジプト中部ミニヤー県において、『ユダ福音書』を含む写本が発見された(盗掘の可能性が高い)。その後、古美術市場を転々とし、長期間不適切な保管状態に置かれたことで深刻な劣化を被った。1999年以降、フリーダー・チャコスの関与を経て、スイスのマエケナス古美術財団に引き渡され、保存・修復作業が開始された。2006年、ナショナルジオグラフィック協会の支援により、コプト語原文と英訳が公開され、その後、学術的公刊に至った。
5.発見、公開に至るまでの経緯
1970年代 エジプト中部ミニヤー県にて、『ユダ福音書』(または『ユダの福音書』)を含む写本が発見される。恐らく盗掘による。
1980年 カイロの古美術商に売却されるが、盗難により紛失。
1982年 カイロの古美術商、ジュネーブにて写本を取り返す。
1983年 カイロの古美術商、大学研究者に300万ドルでの売却を持ちかける。交渉は決裂。
1984年 カイロの古美術商、写本をニューヨークのシティバンク貸金庫に16年間に渡り保管し、写本は劣化。
1999年 古美術商フリーダー・チャコス、カイロの古美術商より300万ドルで写本を購入。エール大学に調査を依頼。『ユダ福音書』と判明。
2000年 アメリカの古美術商ブルース・フェリーニ、写本を購入。一部を売却。残りを冷凍保存。
2001年 フェリーニ、代金支払いができず、チャコスに返却。チャコスにより、マエケナス古美術財団(スイス)に引き渡される。
2006年4月 ナショナルジオグラフィック協会の援助によりコプト語本文と英訳、インターネットで公開。その後公刊。
2006年6月 公刊本の邦訳『原典 ユダ福音書』(R. カッセル、M. マイヤー、G. ウルスト、B. D. アーマン編著)、日経ナショナルジオグラフィック社、2006年)発刊。
参考文献