カルヴァンのサクラメント論
―Institutes
IV.14-19を中心に―
I.カルヴァンのサクラメント論の基本構造(Inst. IV.14-19)
Institutes(『キリスト教綱要』)第4巻第14~19章は、洗礼と聖餐を軸とするカルヴァンのサクラメント論が体系的に展開される代表箇所である。カルヴァンはここで、しるし(signum)と、しるされた事柄・実体(res
significata)とを区別しつつも分離しない、という中世以来の枠組みを継承しながら、二つの戦線――カトリック・ルター派の客観主義と、再洗礼派・ツヴィングリ主義の霊的主観主義――に対して、独自の中道的立場を彫琢していく。
1.初期カトリックの伝統、特にアウグスティヌスとの連続性(IV.14.26)
カルヴァンは、サクラメントを「見えない恵みの見える形態」とするアウグスティヌスの定義を高く評価し、これを土台としつつも「正しく、良いが、簡潔に過ぎる」としてみずから発展させる。IV.14.26では、旧約のサクラメント(割礼など)と新約のサクラメント(洗礼・聖餐)が、ともにキリストへと導くという同一の実体を指し示す点で本質的に同一であることを、アウグスティヌスの言葉――「旧約のそれらは成就されるべき事柄の約束であり、新約のそれは成就のしるしである」――を引用しつつ論証する。ここにカルヴァンは、初代教会以来のサクラメント論的伝統、すなわちしるしとその指し示す実体とを区別しながらも両者の結びつきを保持するという立場を、みずからの神学の出発点として引き継いでいることが確認できる。
2.カトリック・ルター派の「客観主義」への対抗――聖霊と信仰の必要性
カルヴァンは、サクラメントの効力が儀式の執行それ自体によって自動的・客観的に生じるとするカトリックのex
opere operato理解、およびパンとぶどう酒の実体を保持したままキリストの体と血がその中に・共に・下に(in, cum, sub)実体的・場所的に現臨するとするルター派の共在説(consubstantiatio)をともに退ける。1530年アウグスブルク信仰告白第10条が、キリストの体と血は「食する者に(vescentibus)」客観的に配られ与えられると定めたのに対し、カルヴァンはこれを「信じる者に(credentibus)」と修正すべきだと考えた。サクラメントが恵みを証印し得るのは、あくまで聖霊の働きと受領者の信仰とを媒介としてであり、信仰なきところにサクラメントの効力はない。これによってカルヴァンは、不信者や幼児にまでキリストの体を機械的に「飲み込ませる」という秘跡の自動主義を排除する。
3.再洗礼派と霊的主観主義への対抗――サクラメントの手段・媒介としての側面の強調
他方でカルヴァンは、聖餐を単なる記念・象徴・信仰告白の行為へと還元するツヴィングリ主義、およびそれをさらに徹底し、教会・聖書・儀式といった外的なものそのものを軽視する再洗礼派の霊的主観主義とも対決する。カルヴァンにとってサクラメントは「裸の、空虚なしるし」ではなく、しるしと実体とが不可分に結びついた「呈示的(exhibitive)・道具的(instrumental)」な手段である。しるしは恵みを単に指し示すのみならず、聖霊の働きを通してその恵み自体を実際に運び伝える「道具」として機能する。B.
A. ゲリッシュはこの立場を「象徴的道具主義(symbolic instrumentalism)」と呼び、ツヴィングリの「象徴的記念主義(symbolic
memorialism)」、ブリンガーの「象徴的並行主義(symbolic parallelism)」と対比している。
II.歴史的背景――1520年代のルター・ツヴィングリ論争とその調停
カルヴァンのサクラメント論は、1520年代に先鋭化したルターとツヴィングリの聖餐論争という文脈のなかで、いわば「後発の宗教改革者」として両者の中間を模索する形で形成された。
1.ルターのリアリズム(共在説)
ルターは、神の内在性を重んじるトマス主義的伝統を継承しつつ、「これはわたしのからだである」(マタイ26章)という制定の言葉の文字通りの解釈に立脚し、パンとぶどう酒の実体を保持したまま、その中に・共に・下に(in,
cum, sub)キリストの体と血が実体的・場所的に現臨するという共在説を主張した。この立場は、後継者(とりわけヨハン・ブレンツ)によって、キリストの人間性の遍在(ubiquitas)の教理にまで展開されていく。
2.ツヴィングリのスピリチュアリズム(象徴主義・人間側の態度)
これに対しツヴィングリは、新プラトン主義的・アウグスティヌス的・人文主義的立場から、制定の言葉の「である(est)」を「意味する(significat)」と解釈し、パンとぶどう酒はキリストのからだの記念のしるし・象徴にすぎないとした。ツヴィングリにとって聖餐は、記念の食事(Gedächtnismahl)、兄弟的交わりの確認(Gemeinschaftsmahl)、信仰の誓約(Pflichtzeichen)という、水平的・人間側の態度(神人協働的な信仰応答)を主とするものであり、キリストとの実体的な交わりという贈与的性格を欠いていた。
3.ブツァーによる調停の道、およびカルヴァンとブリンガー
1529年のマールブルク会談でもルターとツヴィングリの対立は解消せず、ストラスブールの改革者マルティン・ブツァーが両陣営の間の「中間の道」を模索した。ブツァーは、キリストの現臨は実在し恵みとして与えられるが、それは「聖霊のありかたにおいて(modo
Spiritus Sancti)」霊的にであって、肉的・場所的にではない、という総合に到達した。1538~1541年のストラスブール滞在中にブツァーから決定的な影響を受けたカルヴァンは、聖霊が天にあるキリストのからだと地上の教会とを結ぶ「絆」であるとするこの理解を、みずからのサクラメント論の中心に据えることになる。他方、ツヴィングリの死後その立場を継いだハインリヒ・ブリンガーは、象徴主義を幾分和らげつつも、口がパンを受けるのと同時に・並行して心がキリストを受ける、という「象徴的並行主義」を基本的に保持し、後述の1549年チューリヒ合意(Consensus
Tigurinus)においてカルヴァンの合意相手となった。
III.gnesio-ルター派、ヨアヒム・ヴェストファールとヘスフシウスによる反論(1552-1561)
1549年のチューリヒ合意(カルヴァンとブリンガーによる、チューリヒとジュネーブの聖餐理解を統一する全26箇条の文書。1551年ラテン語版公刊)が世に問われると、正統ルター派(gnesio-ルター派)から激しい反発が起こった。1552年、ハンブルクの説教者ヨアヒム・ヴェストファールは、チューリヒ合意とカルヴァン、ペトルス・マルティルを攻撃する論考を著し、キリストのからだはパンのうちに実体的に、しかも局所的にではないにせよ遍在的に(extra
locum)現臨しており、ユダもペトロと同様にそれを食した、と主張した。カルヴァンは『聖餐に関する健全で正統な教理の擁護――チューリヒ合意に基づく』(1555年)等で応答した。論争はブレーメンにも波及し、ティレマン・ヘスフシウスと(カルヴァン主義的立場に立つ)アルベルト・ハーデンベルクとの間で激化、ハーデンベルクは職を追われるに至った。1558年にハイデルベルクの総監督となったヘスフシウスは、その後もカルヴァン主義的傾向(いわゆるクリプト・カルヴィニズム)の追及を続けた。カルヴァンは1561年、『ヘスフシウスの迷妄を論駁するための、キリストの肉と血への真のあずかりに関する健全な教理の明晰な説明』(Dilucida
explicatio sanae doctrinae de vera participatione carnis et sanguinis Christi
in Sacra Coena, ad discutiendas Heshusii nebulas)を著し、自身の聖霊論を、ツヴィングリ主義的な「人間の霊とキリストの神性との合一」に解消されるものではなく、キリストの肉と血への実質的なparticipatio(あずかり)を含むものとして弁明した。この一連の論争(第二次聖餐論争)は、1552年のヴェストファールの攻撃に始まり、1561年のヘスフシウス論駁に至るまで、約10年にわたって続いた。
IV.カルヴァンのサクラメント論の形成過程――Institutes諸版の変遷
近年のカルヴァン研究(とりわけWim
Janseの研究)が示すように、カルヴァンの聖餐論は最初から一貫し完成された教理として存在したのではなく、Institutesの改訂を重ねるなかで、いわば振り子のように立場を揺らしながら段階的に形成されていった。
1536-1537年 ツヴィングリ的傾向(Inst.
1536)
最初の『キリスト教綱要』(1536年版)およびこれに近接する時期の文書には、後年のような道具主義的な語彙(exhibere等)がまだ乏しく、ツヴィングリ的な色彩の強い記述が見られる。
1537-1548年 ルター派的傾向(Inst.
1539)
ストラスブール時代(1538-1541年)のブツァーとの接触を経て、1539年版Institutesおよびこの時期の著作(『聖餐に関する信仰告白』1537年、『我らの主イエス・キリストの聖なる晩餐に関する小論』1541年など)には、道具主義的・呈示的(exhibitive)な語彙が導入され、キリストの体と血への実質的なあずかりを強調する、ルター寄りの傾向が顕著になる。カルヴァンはこの時期、1540年の修正アウグスブルク信仰告白(Confessio
Augustana Variata)にも署名している。
1549-1560年 主観主義・霊的傾向の刷新(Inst.
1559)
1549年のブリンガーとのチューリヒ合意交渉の結果、しるしと実体との「並行」を語るツヴィングリ=ブリンガー的な語法が改めて前面に出てくる。同時に、1550年代のヴェストファールとの論争(上記III)を経た成果も1559年版Institutesに組み込まれ、IV.14-19を含む決定版が成立した。カルヴァンは、この時期にブリンガーの圧力の下でツヴィングリ的な要素を取り入れることで、かえってルター派との架橋を果たせると(結果的には誤算であったが)考えていたことが指摘されている。
1561-1562年 ルター派への接近の再開
ヘスフシウスとの論争(1561年、Dilucida
explicatio)を経て、カルヴァンは再びルター派に対する融和的な姿勢――1540年代の「親ルター派的な調子」――に立ち戻り、キリストの体と血への実質的なあずかりを強く前面に出す表現を採るようになる。
結び
以上に見たように、カルヴァンのサクラメント論は、初期カトリック(アウグスティヌス)的な連続性を保持しながら、一方でカトリック・ルター派の客観主義(ex
opere operato・共在説)に対して聖霊と信仰の必要性を、他方で再洗礼派・ツヴィングリ主義的な霊的主観主義に対してサクラメントの手段的・道具的性格を、それぞれ強調するという二正面作戦の産物であった。そしてこの立場そのものが、1536年から1562年に至るInstitutesの改訂過程において、ツヴィングリ的段階(1536-37)→ルター派的段階(1537-48)→主観主義的刷新の段階(1549-60)→ルター派再接近の段階(1561-62)という、振り子のような往復運動を経て徐々に彫琢されていったものである。
主要参考文献
・Wim Janse,
"Calvin's Doctrine of the Lord's Supper," Perichoresis 10.2 (2012):
137-163.(本レジュメの時代区分(1536-37/1537-48/1549-60/1561-62)は、同論文(および同氏 "Calvin's
Eucharistic Theology: Three Dogma-Historical Observations," in Calvinus
sacrarum literarum interpres, 2008)の歴史的分析に基づく。)
・John
Calvin, Institutes of the Christian Religion (1559), IV.14-19.
・Consensus
Tigurinus (1549).
・B. A.
Gerrish, Grace and Gratitude: The Eucharistic Theology of John Calvin,
Minneapolis: Fortress Press, 1993.