2026年2月13日金曜日

【キリスト教史解説動画】ケルソス(Celsus)― 最古の反キリスト教思想家

ケルソス Kelsos 生没年不詳(3世紀頃)


【キリスト教史解説】ケルソス(Celsus)― 最古の反キリスト教思想家

活動時期:西暦170–180年頃(2世紀後半)
立場:ギリシア系哲学者、初期キリスト教の批判者
主著:『真理の言葉(Λόγος Ἀληθής)』※現存せず
本書は、3世紀の神学者 オリゲネス が著した『ケルソス駁論』(248年)に引用された形でのみ伝存している。
現存最古の体系的なキリスト教批判書である。

思想的立場

  • オリゲネスは彼をエピクロス派と呼んだが、現代研究では否定的。
  • 実際にはプラトン主義を中心とする折衷主義的哲学者と考えられる。
  • 伝統宗教とローマ帝国秩序を擁護する保守的知識人。
  • 神観は単純な多神論ではなく、最高神を頂点とする階層的神観(ヘノテイズム的傾向)。

主な批判内容

1.イエス批判

  • 処女懐胎を否定
  • 出自を不名誉なものと主張
  • 奇跡を魔術と解釈

2.教義批判

  • 受肉思想を非合理とみなす
  • 復活思想を荒唐無稽と批判
  • 聖書解釈を恣意的と指摘

3.社会批判

  • キリスト教徒が国家祭儀を拒否することを問題視
  • 軍務・公共義務を回避する態度を非難
  • キリスト教を新奇で分裂的な宗教とみなす

史料的特徴

  • 『真理の言葉』は448年に禁書とされ消失。
  • 内容はオリゲネスの反駁書から再構成される。
  • オリゲネスの引用は比較的忠実と考えられている。

歴史的意義

  • 最古の本格的反キリスト教哲学的論駁。
  • キリスト教弁証学発展の重要契機。
  • キリスト教がローマ知識層からどのように見られていたかを示す一次的証言。

2026年2月11日水曜日

【小論】マルコ福音書における女性たち

【小論】マルコ福音書における女性たち

1. マルコ福音書に登場する女性の総数と実名性

 マルコ福音書において言及されている女性は、合計で15名に及ぶ。筆者は、イエスの母マリアと「小ヤコブとヨセの母マリア」とを同一人物と考えるが、本稿では差し当たり別個の人物として数える。  この15名のうち、実名が明示されている女性は以下の5名である。

  • イエスの母マリア
  • ヘロディア
  • マグダラのマリア
  • 小ヤコブとヨセの母マリア
  • サロメ

 このことから、マルコ福音書における女性表象は、大多数が匿名のまま描かれているという特徴を有していると言える。匿名性は、女性たちを個人史的存在としてよりも、物語機能的・神学的役割を担う存在として前景化する効果をもたらしている。


2. 「仕える」女性――ディアコニアのモチーフ

 マルコ福音書において、「仕える(διακονεῖν)」という行為を実際に行っている人物として明示的に描かれているのは、シモンの姑と、ガリラヤから従ってきた婦人たちである。  シモンの姑は、癒やしの直後に「彼らに仕えた」と記されており(1:31)、これはイエスの活動開始直後における最初のディアコニアの実践である。一方、十字架記事において言及される婦人たちは、「イエスがガリラヤにいた時に従い、仕えていた」と回顧的に描写される(15:40–41)。  Witherington が指摘するように、これらの婦人たちは単なる観察者ではなく、弟子集団の周縁に位置するもう一つの弟子層として理解されるべき存在である1


3. イエスの母マリアと「真の家族」主題

 マルコ福音書におけるイエスの母マリアへの明瞭な言及は、主として二箇所に限られている。第一は、イエスの身内が彼を取り押さえに来た文脈を引き継ぎつつ、「真の家族」が再定義される場面(3:31–33)であり、第二は、イエスが故郷に帰った際の言及(6:3)である。  特に3章31–35節では、母および兄弟たちが外に立つ一方で、イエスは「神の御心を行う者」こそが自らの家族であると宣言する。この文脈において、マリアは血縁関係のある特権的存在としてではなく、再定義される家族概念の中に位置づけられる存在として描かれている。  なお、イエスの故郷がナザレであることは、すでに1章9節および1章24節において特定されている。


4. マルコ福音書に登場する女性の一覧

 以下に、マルコ福音書で言及される女性を登場順に整理する。

  1. シモンの姑(1:29, 31)
  2. イエスの母マリア(3:31–32; 6:3)
  3. ヤイロの娘(5:23, 35, 41–43)
  4. 長血を患う女性(5:25–34)
  5. イエスの姉妹たち(6:3)
  6. ヘロディア(6:17, 19, 24, 28)
  7. ヘロディアの娘(6:22–28)
  8. シリア・フェニキアの女性(7:25–30)
  9. 「やもめの献金」の女性(12:42–44)
  10. 香油を注いだベタニアの女性(14:3–9)
  11. 大祭司の邸宅にいた女中(14:66, 69)
  12. 十字架のもとに立つ婦人たち(15:40–41)
  13. マグダラのマリア(15:40, 47; 16:1[9])
  14. 小ヤコブとヨセの母マリア(15:40, 47; 16:1)
  15. サロメ(15:40; 16:1)

5. まとめ

 マルコ福音書における女性たちは、物語の周縁に置かれながらも、癒やし、信仰告白、奉仕、証言、そして受難と復活の場面において決定的な役割を果たしている。とりわけ、男性弟子たちが沈黙や逃亡によって描かれるのに対し、婦人たちは「従い」「仕え」「見届ける」存在として一貫して描写されている点は注目に値する。  このことは、マルコ福音書が描く弟子像が、十二弟子の枠に限定されない、多層的構造を有していることを示唆している。


脚注

1:  Ben Witherington III, The Gospel of Mark: A Socio-Rhetorical Commentary, William B. Eerdmans Publishing Company, 2001, p.442.

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ24:36-44「目を覚ましていなさい」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ24:36-44「目を覚ましていなさい」



マタイ24:36

  • 原文: Περὶ δὲ τῆς ἡμέρας ἐκείνης καὶ ὥρας οὐδεὶς οἶδεν, οὐδὲ οἱ ἄγγελοι τῶν οὐρανῶν, οὐδὲ ὁ υἱός, εἰ μὴ ὁ πατὴρ μόνος.
  • 私訳: しかし、その日、その時については、誰も知らない。天の御使いたちも知らず、子も知らない。ただ父のみが(知っている)。
  • 新共同訳: 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。

注解

  • 「しかし、〜については」( Περὶ δὲ):ここは話題の転換点で、24:4–35の「徴の列挙」から、「時の不可知性」へと主題が移行している。
  • 「その日」:終末、人の子の再臨が起こる日。
  • 「誰も知らない」:再臨の時の不可知性を表す。同時に、実現の時を語る偽預言者や惑わす人がいれば、それは虚偽であることを示す。
  • 「子も(知らない)」: 子はキリストを指す。父なる神だけが知る権威があるという、父なる神の主権が強調されている。ただし、「神なるキリストでさえ知り得ないとはどうこうことか?」というキリスト論神学上の問題が生じる箇所で、「受肉した子の知の自己制限」として処理されることが多い。


マタイ24:37

  • 原文:ὥσπερ γὰρ αἱ ἡμέραι τοῦ Νῶε, οὕτως ἔσται ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.
  • 私訳:なぜなら、ノアの日々がそうであったように、人の子の来臨もそのようになるからである。
  • 新共同訳: 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。

注解

  • ノアの洪水の出来事が、人の子の再臨の時の訪れと対比されている。
  • 対比の視点は、洪水という事象ではなく、突然に到来するという点。
  • 「来臨」(ἡ παρουσία):元々は王の訪問を指す語。この文脈では、キリストの再臨が起こり、神の権威をもっての審判と統治の始まりを指して使われ、後にこの語はキリスト教専門用語として定着した。


マタイ24:38

  • 原文:ὥσπερ γὰρ ἦσαν ἐν ταῖς ἡμέραις ταῖς πρὸ τοῦ κατακλυσμοῦ τρώγοντες καὶ πίνοντες, γαμοῦντες καὶ γαμίζοντες, ἄχρι ἧς ἡμέρας εἰσῆλθεν Νῶε εἰς τὴν κιβωτόν,
  • 私訳:というのも、洪水の前のあの日々において、彼らが食べ、飲み、娶り、嫁がせていたように、ノアが箱舟に入るその日まで。
  • 新共同訳: 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

注解

  • τρώγοντες:動詞 τρώγω(食べる)現在・能動・分詞・男性・複数・主格
  • γαμοῦντες:動詞 γαμέω現在分詞「(男が)妻をめとる」、 γαμίζοντες:動詞 γαμίζω「(娘を)嫁がせる」 現在分詞なので、この行動をとり続けていたことを含意する。
  • 列挙される行為はすべて日常生活上の行為。ノアを通しての警告を無視しての日常生活内の自己完結。
  • 「ノアが方舟に入るその日まで」:洪水が始まって手遅れになるまで、彼らが気づくような兆候はなかったということ。

<黙想> 多くの人は、「本当に危機が迫ったら、その時こそ改めよう」と考えがちである。だが実際には、自分が思い描く「いよいよ」という瞬間が訪れた時には、すでに手遅れで、残るのは後悔だけ──それが人生の常である。 だからこそ、「今、この瞬間にその時が来てもよいように」心を整え、希望を抱いて日々を歩むことこそ、キリストの再臨を待ち望む者にとって欠かせない姿勢である。



マタイ24:39

  • 原文: καὶ οὐκ ἔγνωσαν ἕως ἦλθεν ὁ κατακλυσμὸς καὶ ἦρεν ἅπαντας· οὕτως ἔσται καὶ ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.
  • 私訳:そして彼らは悟らなかった、洪水が来て、すべてをさらうまで。人の子の来臨もまた、そのようである。
  • そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。

注解

  • ἦρεν:動詞 αἴρω (持ち上げる、攫う(拐う))のアオリスト能動直説三人称単数
  • 「悟らなかった」「気づかなかった (新共同訳)」(οὐκ ἔγνωσαν):逆に言えば、その時になって「悟った」。無知というよりも、理解することを拒絶し続けた結果である。
  • 「すべてをさらうまで」:審判の徹底性を表す。その強調的表現。
  • 「人の子の来臨もまた」:再臨時の審判がノアの時と同様ということ。すなわち、その突然性と、誰も逃れられない全面性について。


<説教の結びの言葉として>  ノアの時代の人々は、日々の生活に心を奪われ、神が語られる警告に耳を傾けようとしませんでした。彼らは「悟らなかった」のではなく、「悟ろうとしなかった」のです。自分の生活の安定や楽しみを優先し、神の言葉が入り込む余地を失っていたのです。  主イエスは、再臨の時も同じであると語られます。それは突然であり、誰も逃れることのできない現実として訪れます。ですから、私たちに求められているのは、「いつ来るのか」を知ることではなく、「いつ来てもよい者として生きること」です。  「目を覚ましていなさい」という主の招きは、恐れに身構えることではありません。今日という日を神の前に誠実に生きること、与えられた務めを果たし、隣人を愛し、悔い改めと信仰の歩みを続けることです。主が来られるその時、慌てて取り繕う必要がないように、今を整えて歩むことが求められています。  主は必ず来られます。その時は父なる神だけがご存じです。しかし、その確かさゆえに、私たちは今日を希望をもって生きることができます。



マタイ24:40

原文: τότε δύο ἔσονται ἐν τῷ ἀγρῷ, εἷς παραλαμβάνεται καὶ εἷς ἀφίεται· 私訳: そのとき、二人が畑にいて、一人は取られ、そして一人は残される。 新共同訳: そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

注解

  • 「取られ……残され」(παραλαμβάνεται / ἀφίεται):受動態。行為の主体は神。すなわち、神が選んだ人を取り、一方でそのままに残す(ほおっておく)。二人は、同時にその場に居合わせるという同一状況にありながら、その時までに「(終末への)備え」があるか否かによって、劇的な差となって現れる。それが露見する時が、再臨であり終末の時。


マタイ24:41

原文: δύο ἀλήθουσαι ἐν τῷ μύλῳ, μία παραλαμβάνεται καὶ μία ἀφίεται. 私訳: 二人の女が臼を挽いていると、一人は取られ、一人は残される。 新共同訳: 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

注解

  • ἀλήθουσαι: 動詞 ἀλήθω(「挽く、粉をひく」)の現在能動分詞
  • 前節の畑の二人と同じ主旨の例え。畑も臼も、なにげない日常生活のひとこま。いつまでもそれが続くと思われる生活が、突如寸断される。また、畑は男性の労働、臼は女性の労働という男女それぞれの在り方が意識されているかもしれない。いずれにせよ、生活の場・時で、終末は到来するということ。


マタイ24:42

  • 原文: γρηγορεῖτε οὖν, ὅτι οὐκ οἴδατε ποία ἡμέρα ὁ κύριος ὑμῶν ἔρχεται.
  • 私訳: それゆえ、目を覚ましていなさい。あなたがたは、主がどの日に来られるのか知らないからである。
  • 新共同訳: だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

注解

  • γρηγορεῖτε:動詞 γρηγορέω(「目を覚ましている」「警戒している」)現在・能動・命令法・2人称複数。「目を覚ましなさい」という一回的な命令ではなく、「目を覚ましていなさい」という継続性を求める命令。


マタイ24:43

  • 原文: ἐκεῖνο δὲ γινώσκετε, ὅτι εἰ ᾔδει ὁ οἰκοδεσπότης ποίᾳ φυλακῇ ὁ κλέπτης ἔρχεται, ἐγρηγόρησεν ἂν καὶ οὐκ ἂν εἴασεν διορυχθῆναι τὴν οἰκίαν αὐτοῦ.
  • 私訳: もし、家の主人が、どの見張りの時に泥棒が来るのを知っていたら、目を覚まして、彼の家に穴を開けさせることは許さなかっただろう。
  • 新共同訳: このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。

注解

  • εἰ ᾔδειεἰ: 条件節を導く。「もし〜なら」ᾔδει: 動詞 οἶδα(「知っている」)の過去完了・3人称単数。反実仮想(事実に反する仮定) を表し、「もし知っていならば」という意。
  • ὁ οἰκοδεσπότης: 名詞「家の主人、家主」
  • φυλακῇ: 名詞「見張りの時刻、番の時間」女性・与格・単数
  • εἴασεν: 動詞 ἐάω(「許す、放任する」)アオリスト・能動・3人称単数
  • 要は、大丈夫だろうと油断して、目を覚さない状態でいるところを突かれることが大変多いから気をつけなさい、ということ。


マタイ24:44

  • 原文: διὰ τοῦτο καὶ ὑμεῖς γίνεσθε ἕτοιμοι, ὅτι ᾗ οὐ δοκεῖτε ὥρᾳ ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἔρχεται.
  • 私訳: こういうわけで、”あなたがた”(強調形)もまた、備えているようにしなさい。あながたが思いもしない時、人の子は来るからである。
  • 新共同訳: だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。

注解

  • γίνεσθε: 動詞 γίνομαι(「〜になる」)現在・中動態(意味は能動)・命令法・2人称複数。「〜であり続けなさい」「〜になりなさい」
  • ἕτοιμοι: 形容詞「準備のできた」男性・主格・複数。
  • 「思いもしない時」「思いがけない時」:「いつ」というピンポイント予想は不可能ということの一側面で、予想外の時に来るから、常に「用意していない」ということ。結局、予測ではなく、まして油断的な弛緩でもなく、主末を希望とするキリスト者としての基本的な生きる姿勢を、いつもブレずに保っていなさいということ。


説教の結びの言葉と祈り

 今日の主イエスの言葉は、時に油断してしまう私たちの信仰の歩みを、再び目覚めへと呼び戻す招きです。畑で働く二人の男も、臼を挽く二人の女も、どちらも日常のただ中に置かれていました。しかし、その平凡な日々に突然、神の時が差し込むのです。それまでの歩みに油断や驕りがなかったかどうかは、その瞬間に初めて、白日のもとに明らかにされます。  主が求めておられる「備え」とは、特別な行いでも、張りつめた緊張でもありません。主を待ち望む者として、日々を誠実に、基本に忠実に生きる姿勢そのものです。それを難しいと感じるとき、実は私たち自身が、そうした生活から目をそらし、言い訳をしてしまっているのかもしれません。  「目を覚ましていなさい」「備えていなさい」という主の命令は、私たちを縛るためではなく、むしろ自由へと、そして希望へと導く言葉です。私たちは、主がいつ来られるかを知りません。けれども、主が必ず来られることを知っています。それを希望として受け取れないときがあるとすれば、それは今の自分があまりにも「満ち足りている」と感じ、心が緩んでしまっているからかもしれません。  しかし、主の確かな約束があるゆえに、私たちは今日という一日を、主に向かって整えながら歩むことができます。思いがけない時にも揺るがない備えを持つ者として、主の光の中を歩み続ける者とされたいと願います。

祈り

どうか、私たち一人ひとりが、思いがけない時にも揺るがない備えを持つ者として、主の再び来られる日を希望をもって待ち望むことができますように。  主が与えてくださる光の中で、目を覚まして歩み続ける者とされますように。  アーメン。

2026年2月10日火曜日

「真如苑」における「接心」の料金(冥加料)の一覧


「真如苑」における「接心」の料金(冥加料)の一覧

*数値は、週刊ダイヤモンド2018年10月13日号に拠る。 *真如苑の教団成立、教祖、現苑主などについては、概要欄に関連動画のアドレスあり


1. 接心とは

 接心とは、語義的には「心と心を接する」ことを意味し、教団指導者または教団教師が信徒と直接対面し、霊的・信仰的な助言や導きを与える宗教的面談行為を指す。
 真如苑においては、教団によって霊能者として認定された指導的立場の人物が導き手となり、接心を執り行う。  真如苑接心には複数種類あり、信徒の内面状態や生活上の悩みなどを聞き取る過程を含む種の場合、相互的相談やカウンセリングに類似した形式を部分的に取る場合もある。しかし実際には、信徒側が語る量は限定的であり、指導的人物から示される霊的判断(霊視)や言葉を一方向的に受け取る形態が主流である。したがって接心は、対話的実践というよりも、宗教的権威に基づく指示・告知の場として機能していると理解される。 *宗教学的参考:お告げなど、「非対称的コミュニケーション構造」


2. 接心の種類・内容・時間・冥加料一覧

接心の種類 内容 冥加料 所要時間
向上接心 基本修行となる接心 1,000円以上 2〜3分
向上相談接心 自らの修行に対する相談 2,000円以上 3〜5分
相談接心 日常生活での悩み事などの相談 3,000円以上 15〜20分
特別相談接心 相談接心よりも複雑な案件の相談 6,000円以上 20〜30分
鑑定接心 病気・結婚・仕事・土地などについて霊能力を使って行う 8,000円以上 30〜40分
  • 冥加(みょうが):神仏・仏法・超越的存在から受ける加護・功徳
  • 冥加料(みょうがりょう):その冥加に対する感謝として捧げる金銭
 (料金・報酬ではなく、宗教的献納という位置づけ)

2026年2月7日土曜日

【解説】ユグノー(Huguenot)

ユグノー(Huguenot)


1.定義

 ユグノーとは、16~17世紀フランスにおけるカルヴァン派プロテスタントの総称である。彼らは単なる宗教的少数派ではなく、信仰告白・教会制度・政治的自己防衛構造を備えた改革派教会共同体を形成した点に特徴がある。

2.名称の由来

「ユグノー(Huguenot)」という名称は、ドイツ語 Eidgenosse(「誓約仲間」「盟約者」の意)がジュネーヴ訛りで eyguenot と発音されたことに由来するという説が有力である。
 この呼称は当初、カトリック側(特にギーズ家を中心とする勢力)による蔑称として用いられたが、次第に改革派自身もこれを受容し、呼称として定着した。

3.宗教改革とフランス改革派教会の形成

 16世紀半ば以降、カルヴァンの神学はフランスに急速に浸透し、都市部・貴族層を中心に改革派信徒が増加した。しかしフランス王権およびカトリック教会はこれを異端として抑圧し、迫害が恒常化した。
 こうした状況の中でユグノーは組織化を進め、1559年、パリにおいて最初の全国改革派教会会議を開催した。この会議では、
  • 改革派教会の制度的枠組みの確立
  • 信仰告白としての「フランス信条(Confessio Gallicana)」の採択
が行われ、フランス改革派教会が神学的・教会論的に自己規定を行った画期と位置づけられる。

4.ユグノー戦争と宗教暴力

 1562年、バシーにおけるユグノー虐殺事件を契機として、ユグノー戦争(宗教戦争)が勃発した。以後、約30年以上にわたり、フランスは断続的な内戦状態に置かれた。
 特に1572年のサン=バルテルミの虐殺は、国家権力と宗教暴力が結託した象徴的事件であり、プロテスタントにとって「殉教」と「神の摂理」という神学的問いを深く刻み込む出来事となった。

5.ナントの勅令と限定的寛容

 1598年、アンリ4世によって公布されたナントの勅令は、ユグノー戦争を終結させ、
  • ユグノーの信仰の自由(地域限定)
  • 礼拝の公的承認
  • 一定の政治的・軍事的権利
を保障した。
 これは近代国家における政治的妥協としての宗教寛容の典型例と評価される。

6.勅令撤回と弾圧の再燃

 1685年、ルイ14世はフォンテーヌブロー勅令をもってナントの勅令を廃止した。これによりユグノーは再び厳しい弾圧を受け、多数が国外へ亡命した。
 南フランスでは抵抗運動としてカミザール戦争が勃発し、宗教的抵抗と政治的反乱が結びついた形で展開された。
 この不寛容の体制は、フランス革命に至るまで制度的に解消されなかった。

7.神学史的意義

神学史的に見てユグノーは、
  • カルヴァン主義の教会制度化
  • 信仰告白を核とする教会アイデンティティの形成
  • 国家権力と教会の緊張関係の先鋭化
  • 迫害下における殉教神学と抵抗の神学
を体現した存在であり、近代プロテスタント史における重要な一事例である。

【解説】『十二族長の遺訓』

『十二族長の遺訓』


 『十二族長の遺訓』は、形式的には創世記49章におけるヤコブの遺言を踏襲し、ヤコブの十二人の子らがそれぞれ自らの子孫(場合によっては兄弟)に対して遺言を語るという構成を採っている。

 本文書では、創世記に記されている出来事への言及が随所に見られる一方、ヨベル書にのみ伝えられている伝承にも触れられており、複数の聖書外伝承が統合されていることがうかがえる。語りの形式は、各族長自身による直接話法であり、物語全体は連続する遺言集として構成されている。なお、ヨセフを除く十二族長の遺体は、彼ら自身の遺言に従ってヘブロンの洞窟に葬られたとされる。

 本文書を構成する各遺言の配列は、ほとんどの写本において、族長たちの母の系譜――すなわちレア、ビルハ、ジルパ、ラケル――の順序に従っており、創世記的伝統との整合性が意識されている。また、一部の写本では、各族長名を冠した文書の表題に、その内容を要約する主題句が付加されている。

 伝承史的に見ると、本書にはマカベア王朝およびハスモン王朝を支持する思想的要素、クムラン共同体に代表されるエッセネ派的要素、さらには後代のキリスト教的編集を思わせる要素が混在している。この多層的性格から判断して、『十二族長の遺訓』には、マカベア朝・ハスモン朝期、さらにはクムラン共同体の成立以前に遡る原型的伝承が存在していたと考えられる。

「1890年日本基督教会信仰の告白」注解 第6回

「1890年日本基督教会信仰の告白」注解 第6回

【本文】

「往時の教会は聖書によりて左の告白文を作れり。我らもまた聖徒がかつて伝えられたる信仰の道を奉じ、讃美と感謝とをもってその告白に同意を表す。」

【現代語訳(私訳)】

「昔の教会は、聖書に基づいて次(後続の「使徒信条」)の(信仰)告白文を作りました。私たちもまた、聖徒たちが受け継いできた信仰の道に従い、讃美と感謝をもってその告白に同意します。」

【牧師、神学的素養のある人向け解説文】

1. 注解

  • 「往時の教会は聖書によりて告白文を作れり」:使徒信条、ニカイア信条などは、教会が歴史的教義論争の中で、聖書に基づきつつ教会が形成した規範的文書。よって、信仰告白文(信条)は啓示そのものではないし、聖書と同一の権威を持つものではないが 1、ひいては、聖書における聖霊の働きによる神の啓示を指し示すもので、その信仰内容を要約したもの。
  • 「聖書によりて」:ウェストミンスター信仰告白1章の内容と一致する。聖書が信仰と生活における唯一最高の規範であること。
  • 「聖徒がかつて伝えられたる信仰の道」:おそらく、ユダ書3節 を背景にもつ表現である。「ひとたび聖徒に伝えられた信仰」(ἅπαξ παραδοθείσῃ τοῖς ἁγίοις πίστει)。
  • 「ひとたび(ἅπαξ)」の意味:新しい信仰内容を作り出さないということで、 これは直接的には信仰内容の既・決定性を指す表現であるが、改革派神学においては、そこから正典啓示の完結性が含意されてきた。(→信仰内容の”今更後出し”はない)。同時に、聖書は「正典」(カノン)として既に完結しているので、聖書文書を新たに追加しないことも含意する(同時に、減らしてもいけない、改変してもいけない)。
  • 「我らもまた聖徒がかつて伝えられたる……讃美と感謝とをもってその告白に同意を表す」:先の「往時の教会」と共に、使徒時代以来、聖書に基づいて信仰を告白してきた公同の教会(普遍教会)との歴史的連なりを示す。自分たちもまたそれに連なることが表明されている。

2. 内容解説

 この冒頭文は、信仰告白の内容そのものではなく、「信仰告白する主体と態度」を定義する序文である。  次の三点が強調されている。

  1. 信仰告白の規範性の根拠は聖書であること
  2. 信仰告白は歴史的教会との連続性の中で受け取られること
  3. 信仰告白行為は強制ではなく、神を前にしての主体的な同意——「讃美と感謝」——であること

2.1. (告白の規範性の根拠は聖書であること)について

 この箇所の手前の本文において、次のことが述べられていた。

  • 聖書は古の預言者、使徒、聖徒たちの手を通して書かれたこと
  • 彼らは、聖霊なる神の導きによって、聖書文書をしたためたこと
  • 聖書は、信仰上のことについて、最上の権威を持つこと

 以上を受けて、聖書は、信仰告白文の源泉であり、同時に内容上の是非を審判するのは、聖書であることが確認されている。

2.2. (告白は歴史的教会との連続性の中で受け取られること)

  • 「往時の教会」「聖徒がかつて伝えられたる信仰の道」という表現は、
信仰告白が使徒時代以来の普遍的教会の歴史的連なりの中に位置づけられていることを示す。
  • ここで想定されている教会は、特定の時代や地域に限定された教会ではなく、
福音を受け継いできた歴史的・普遍的教会(ecclesia catholica、「エクレシア・カトリカ」今日のカトリック教会の原義)である。
  • 信仰告白は、新たな教理を創出する行為ではなく、既に教会において受容・保持されてきた信仰を、自らの信仰として受け取る行為である。
  • この理解は、信仰を純粋に個人的・主観的なものとする傾向を抑制し、信仰が本質的に共同体的・継承的性格を持つことを明確にする。
  • 「聖徒がかつて伝えられたる信仰の道」という表現は、ユダの手紙3節の「ひとたび聖徒に伝えられた信仰」を想起させ、信仰内容が恣意的に変更されるべきものではないことを示唆する。
  • ここでの「伝えられた信仰」とは、教会に託された遺産(traditio)として守られ、解釈され、継承されるべきものである。
  • したがって、この連続性の強調は単なる伝統主義ではなく、聖書を規範としつつ、歴史的教会の証言に謙虚に連なる信仰姿勢を表している。
  • 個々の信徒や一教派が信仰の最終的裁定者となるのではなく、聖書のもとで、歴史的教会の告白に耳を傾ける態度がここで肯定されている。
小結: これは、日本基督教会が自らを「新宗派」ではなく、「普遍的教会の正統的継承者」として位置づけようとする自己理解を明確に示すものである。

2.3. (告白行為は強制ではなく、神を前にしての主体的な同意——「讃美と感謝」——であること)

  • 本文は、信仰告白を「命令」や「強制」としてではなく、神を前にした主体的な応答行為として位置づけている。
  • 「同意を表す」という表現は、告白が単なる形式的追認や制度的服従ではなく、理解と承認を伴う意志的行為であることを示す。
  • 信仰告白の主体は「我ら」であり、(「我らもまた聖徒がかつて伝えられたる信仰の道を奉じ」の「我ら」) 教会として共同的に告白する一方で、各信徒が自らの責任において個人的にその告白を引き受けることが前提とされている。
  • 「讃美と感謝をもって」という句は、告白が神学的命題の確認にとどまらず、
礼拝的行為信仰的営為であることを明確にする。
  • ここでの「讃美」は、告白される信仰内容の中心が神ご自身に向けられていることを示し、信仰告白が自己表明でも自己完結でもなく、自分から神に向かって為される神中心的行為であることを示唆する。
  • 「感謝」は、信仰が人間の自力のみによる達成や選択の結果ではなく、神から与えられ、教会を通して受け継がれた賜物であるという認識を前提としている。
  • したがって、信仰告白とは、正統的教理への知的同意である以前に、恵みに対する感謝をもってなされる礼拝的応答である。
  • この点において、本信仰告白は、信仰を「信じるか否かの判断」へと還元するのではなく、神との関係における生きた応答行為として理解している。

【キリスト教史解説動画】ケルソス(Celsus)― 最古の反キリスト教思想家

ケルソス Kelsos 生没年不詳(3世紀頃) 【キリスト教史解説】ケルソス(Celsus)― 最古の反キリスト教思想家 活動時期 :西暦170–180年頃(2世紀後半) 立場 :ギリシア系哲学者、初期キリスト教の批判者 主著 :『真理の言葉(Λόγος Ἀληθής)』※現...