2024年5月2日木曜日

トップページ(目次)

(このページは只今、部分的に工事中です)

管理人について

日本基督教団茨木春日丘教会(礼拝堂の建物名「光の教会」)牧師

関西学院大学非常勤講師


【茨木春日丘教会関連】

建物見学の当面の停止について        Suspension of Building Tours

教会創立50周年記念礼拝説教 全文


【キリスト教史関連】

ーー古代教会時代ーー

(古代教会における聖書)「正典」の確定        信条の形成

70/82-156/168年 ポリュカルポス        2世紀初期 エビオン派 エビオン派福音書

100頃-163/167年 ユスティノス

2世紀中葉 モンタヌス・モンタヌス主義        2世紀中葉 マルキオン

160頃-220年以降 テルトゥリアヌス        130頃-202年頃 リヨンのエイレナイオス

200頃-258年 キプリアヌス


ーー宗教改革時代ーー

1524-25年 ドイツ農民戦争        

1534年 アングリカンチャーチ(英国国教会)        





その他の原稿・読み物など



『信徒の友』掲載原稿の改訂版



『教会学校教案』の元原稿の改訂版
創世記 37章1-11節 「ヨセフ1」(2013年7月7日)
創世記 42-45章 「ヨセフ3」(2013年7月21日)
ルツ記 「ルツ」(2013年9月22日)


#旧「大石アーカイブス」

アングリカンチャーチ(英国国教会)

アングリカン・チャーチ(英国国教会) Anglican Church


 【要約】

ヘンリー8世の離婚問題に対するローマ教皇クレメンス7世の批判を契機に、ウィクリフ以来の宗教改革的な運動を背景としてカトリックからの離脱運動が加速。エドワード6世を経て、エリザベス1世と大主教パーカーのもとに成立。


 【本文】

 英国国王ヘンリー8世の離婚問題、および侍女であったアン・ブーリンとの結婚に関し、ローマ教皇クレメンス7世が批判したことを契機となり、ヘンリー8世はカトリック支配からの離脱を企図するようになった。この背景には、ジョン・ウィクリフ以来のイギリスにおける宗教改革的な運動が背景にある。

 エドワード6世と大主教クランマーにより第1祈祷書(1549)、第2祈祷書(1552)、信仰大綱『四十二個条』が起草され、その後に揺り戻しはあったものの、エリザベス1世と大主教パーカーのもとに「祈祷書」「三十九信仰個条」が制定されることで、公式に英国国教会が成立した。


ドイツ農民戦争

ドイツ農民戦争 Deutscher Bauernkrieg, 1524-25


 【要約】

1524-25年。南部および中部ドイツに生じた大規模な農民蜂起。ブントシュー一揆を背景にボーデンゼーにて納税反対運動発生、宗教改革の影響を受け12ヶ条の要求が提示。各領邦の農民は団結できず、シュヴァーベン同盟に参与する諸侯軍により撃破された。


 【本文】

 1524-25年、南部および中部ドイツに生じた大規模な農民による蜂起。


 15世紀末、アルザス地方にてヨス・フリッツによって指揮されたブントシュー一揆が生じていた。こうした散発的な農民一揆は既に15世紀末期よりスイス、西南ドイツにて生じており、ドイツ農民戦争はその延長線上にある。


 1524年5月、ボーデンゼーにおいて納税反対の運動が発生し、これが宗教改革と連動することによって、各地に拡大していった。1525年3月、主導者側より12ヶ条の要求が提示され、農奴制や十分の一税の廃止が要求された。しかし、各領邦の農民は団結することができず、シュヴァーベン同盟に参与する諸侯軍により、次々と反乱軍は各個撃破されていった。


 再洗礼派の聖職者トマス・ミュンツァーもまた、千年王国論に立つ社会改革を求め、中部ドイツの農民戦争を指揮したが、マルティン・ルターは一揆の沈静化を望み、1525年5月、フランケンハイゼンの戦いにて敗れて捕らえられ、ミュールハウゼンにて斬首された。


 ティロルにおけるガイスマイアー指導による農民蜂起も失敗に終わった。


キプリアヌス

キプリアヌス Thascius Caecilius Cyprianus, c. 200-258 CE


【要約】


西方教会の教父。ラテン教父。修辞学者からカルタゴの司教に。デキウス帝の迫害を忍び、ワレリアヌス帝治下、殉教。教会会議の開催、教会制度、組織の整備等、実践的領域に貢献。「教会の外に救いはなし」の言葉で知られる。


本文


 西方教会の教父。修辞学者であったキプリアヌスは、246年頃に回心、249年にカルタゴの司教となる。デキウス帝による迫害下にあって教会を守り続けたが、ワレリアヌス帝の迫害により殉教。思想的には、テルトゥリアヌスを継承している。ただ、彼のように教理における輝かしい神学的構築を行った代わりに、キプリアヌスは教会の制度的側面の神学的位置づけをおこない、教会会議の開催、教会制度、組織の整備など、実践的な神学領域における貢献が大きい。また、背信者の受け入れを巡って、ローマと対立することもあった。帝国による迫害下にあって、棄教者の発生、復帰者の受け入れという問題に教会が直面していた時代であった。


(デキウス帝治下の迫害において殉教死できなかったことを悔いていたようであるが、ワレリアヌス帝時代に殉教の願いを叶えた。)


 教会の外に救いはなし


 「教会の外に救いはなし」「教会を母として持たない者は、神を父として持ち得ない」等の言葉で知られる。『カトリック教会の統一』(251年)によれば、教会とは、正典、教理、典礼、聖職者を持つ見える教会であり、恩恵の唯一の機関である故、「教会の外に救いはない」。元々この言葉は、非キリスト者により授けられた洗礼の有効性を巡って、教会によって立てられた司教・監督が執行する聖礼典においてのみ神の恵みは有効に働くことを理由にその洗礼を無効とした際の彼の論述を基盤としている。


 ローマ教皇はペトロを継承すると言われるが、ペトロは教会統一のしるしであって担い手ではなく、それは教会という法的機関であり、教会は法的であると同時に霊的でなければならず、それはキリストの犠牲の反復としての聖餐において確保されると主張した。カトリック教会の公同性と聖性という側面を展開。


キプリアヌスの疫病(キプリアヌスの病)ーー講話「死を免れないこと」について


 「キプリアヌスの疫病」と呼ばれる感染症が大流行したことで知られる。北アフリカ沿岸の都市カルタゴで司教を務めたキプリアヌスの記述によれば、この疫病にかかると「絶え間ない嘔吐(おうと)に腸は震え、目には感染した血液の炎が燃え、場合によっては足あるいは手足の一部が腐って落ちる」とされ、多くは失明したり聴覚障害が残った。


 ローマだけで1日に推定5000人がこの疫病のために死亡し、当時のローマ皇帝ホスティリアヌスとクラウディウス2世も犠牲になったほか、エジプトのアレクサンドリアでは人口の3分の2が死滅したと見る研究者もいる。


 天然痘だったと思われるこの疫病の流行は、世界の終末を告げる予兆と考えられた。しかしキプリアヌスは、キリスト教徒は恐れを抱く必要はないと記述。人々の間には患者の姿や死者を火葬する光景に地獄のイメージが重なって世界終末への恐怖心が広がり、死後に地獄に落ちたくないとの思いから、キリスト教の信者が増えたとみられている。

リヨンのエイレナイオス

リヨンのエイレナイオス Irenaeus, ca. 130-ca. 202 CE


 【要約】

130年頃-202年頃。リヨンの司教。ポリュカルポスに師事。使徒権の継承、ローマ首位権等、正統主義神学を確立。グノーシス主義、モンタヌス主義を論駁。対グノーシスの書『異端駁論』。

https://church-of-the-light.blogspot.com/2024/02/blog-post_69.html


 【本文】

 小アジアのスミルナ(スミュルナ)に生まれる。


 少年時代、使徒教父ポリュカルポスに接し、ヨハネやヨハネが語るイエスの話を聞いたという(エウセビオス『教会史』、第5巻20章)。


 ヨハネの弟子とされるポリュカルポスに師事。その後、リヨンの司教となった。1世紀後半以降の時代における異端との戦いで、正統主義神学を確立。使徒教父を重んじ、聖職における使徒権の継承と、ローマ首位権を主張した。


 ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの統治時代、リヨンでキリスト教徒が迫害され、処刑された時期と重なるが、エイレナイオスはこの時ローマに滞在していたため、難を免れた。


 最後は殉教したと言われているが、詳細は不明。


 エイレナイオスの正統主義は、異端に対する徹底した攻撃にも表されており、グノーシス主義に対抗して、『異端駁論』を執筆した他、熱狂的終末論や千年王国説を展開したモンタヌス主義と対立した(対モンタヌス主義)。


 主要著作

『異端反駁』(『対異端駁論』)全5巻、 180年頃。ワレンティヌスやバシレイデスといった、2世紀におけるグノーシス主義者に対して為された論争書。正式名称:『不当にもグノーシスと呼ばれているものの罪状立証と反駁』。プトレマイオス派によれば、イエスは30歳で公生涯を開始、12ヶ月後にユダの裏切りにより十字架刑に処せられたとされている。エイレナイオスは30歳について否定しないが、活動期間を10年以上としている。



イエスの公生涯に関するエイレナイオスによる議論

Adversus Haereses, 2.22.5-6.   異端駁論の第2巻第22章5節から6節の引用です(英訳)。


5. They, however, that they may establish their false opinion regarding that which is written, to proclaim the acceptable year of the Lord, maintain that He preached for one year only, and then suffered in the twelfth month. [In speaking thus,] they are forgetful to their own disadvantage, destroying His whole work, and robbing Him of that age which is both more necessary and more honourable than any other; that more advanced age, I mean, during which also as a teacher He excelled all others. For how could He have had disciples, if He did not teach? And how could He have taught, unless He had reached the age of a Master? For when He came to be baptized, He had not yet completed His thirtieth year, but was beginning to be about thirty years of age (for thus Luke, who has mentioned His years, has expressed it: Now Jesus was, as it were, beginning to be thirty years old, Luke 3:23 when He came to receive baptism); and, [according to these men,] He preached only one year reckoning from His baptism. On completing His thirtieth year He suffered, being in fact still a young man, and who had by no means attained to advanced age. Now, that the first stage of early life embraces thirty years, and that this extends onwards to the fortieth year, every one will admit; but from the fortieth and fiftieth year a man begins to decline towards old age, which our Lord possessed while He still fulfilled the office of a Teacher, even as the Gospel and all the elders testify; those who were conversant in Asia with John, the disciple of the Lord, [affirming] that John conveyed to them that information. And he remained among them up to the times of Trajan. Some of them, moreover, saw not only John, but the other apostles also, and heard the very same account from them, and bear testimony as to the [validity of] the statement. Whom then should we rather believe? Whether such men as these, or Ptolemaus, who never saw the apostles, and who never even in his dreams attained to the slightest trace of an apostle?



6. But, besides this, those very Jews who then disputed with the Lord Jesus Christ have most clearly indicated the same thing. For when the Lord said to them, Your father Abraham rejoiced to see My day; and he saw it, and was glad, they answered Him, You are not yet fifty years old, and have You seen Abraham? John 8:56-57 Now, such language is fittingly applied to one who has already passed the age of forty, without having as yet reached his fiftieth year, yet is not far from this latter period. But to one who is only thirty years old it would unquestionably be said, You are not yet forty years old. For those who wished to convict Him of falsehood would certainly not extend the number of His years far beyond the age which they saw He had attained; but they mentioned a period near His real age, whether they had truly ascertained this out of the entry in the public register, or simply made a conjecture from what they observed that He was above forty years old, and that He certainly was not one of only thirty years of age. For it is altogether unreasonable to suppose that they were mistaken by twenty years, when they wished to prove Him younger than the times of Abraham. For what they saw, that they also expressed; and He whom they beheld was not a mere phantasm, but an actual being of flesh and blood. He did not then want much of being fifty years old; and, in accordance with that fact, they said to Him, You are not yet fifty years old, and have You seen Abraham? He did not therefore preach only for one year, nor did He suffer in the twelfth month of the year. For the period included between the thirtieth and the fiftieth year can never be regarded as one year, unless indeed, among their Aons, there be so long years assigned to those who sit in their ranks with Bythus in the Pleroma; of which beings Homer the poet, too, has spoken, doubtless being inspired by the Mother of their [system of] error:?


http://www.newadvent.org/fathers/index.html

テルトゥリアヌス

テルトゥリアヌス Quintus Septimius Florens Tertullianus ca. 160 ‐ after 220 CE *


【要約】

西方教会最初の(ラテン)教父、護教家。マルキオン、グノーシス主義に対する論駁書を著す。ペルソナ概念、史上最初となる三位一体論的表現は後の正統神学に影響。教会の職制の権威を主張し、初期カトリシズム的な職制論の基礎に。

https://church-of-the-light.blogspot.com/2024/02/blog-post_5.html


【本文】

 西方教会最初の教父にして護教家(ラテン教父)。北アフリカのカルタゴ出身。修辞学と法律を学び、ローマで法律家となる。ca. 195 CEに回心し、カルタゴに帰国。マルキオン、プラクセアス、グノーシス主義等の異教的思想に対抗して論陣を張り、対異教的な著作を著した。後に、キリスト者として厳格な生活の在り方を求め、終末思想と禁欲主義的生活を志向するモンタヌス主義に傾倒したが、そこからも離反したと推測されている。


 思想

 ギリシャ哲学を「異端の父」としつつも、ギリシャ哲学的霊魂観やストア学派的な思考の影響を受けており、例えばこれにより肉体と霊の二元論的な彼の人間論が構築されている。しかし、基本的にテルトゥリアヌスは正典的文書(聖書)を基盤としつつ、そこから三位一体論やキリスト論、救済史を展開し、その過程で生まれたペルソナ概念、経綸の思考は後の正統哲学に摂取されるところとなった。


 また、史上初めての三位一体論の萌芽が現れていると言われている『プラクセアス反駁』において、父が子となったというような単神論的思想に対してテルトゥリアヌスは反論を試みており、その中で「三位一体」や「位格」「実体」等のテクニカルタームを彼は使用している。これが、後の三位一体論的用語の始まりとなった。


 テルトゥリアヌスはまた、初代教会における霊的権威を継承しつつ同時にこれに代わるものとしての職制の権威を主張し、これは後の初期カトリシズム的な職制論の基礎となり、西方教会的な教会論の基礎をもたらした。また、元法律家としての知識を生かし、救済論を法律的な観点から組織的に論じた。

 なお、『キリストの肉について』における「キリストは肉となった。これは愚かであるが故に信じ得る。」という言葉は、credo, quia absurdum est「不合理なるが故に我信ず」の典拠とされる。


 補足

 テルトゥリアヌスは、受難者イエス・キリストが異教世界のプロメテウスにおいて予示されていると述べている。


 主要著作

『護教論』 カルタゴで執筆。言語はラテン語。

『プラクセアス反駁』

『マルキオン反駁』

マルキオン

マルキオン Marcion


 【要約】

150年前後に活動。一時ローマ教会に属するも、144年、異端的教会を設立。神の本質を愛とし、応報的な神を主張する旧約、並びにその影響の色濃い新約の一部を排除。肉体の蔑視し、キリストの人間性の否定という仮現説(ドケティズム)が特徴的。


 【本文】

 150年前後に活動。生没年不詳。異端視されたキリスト教指導者。小アジアのシノぺで船主をした後、一時ローマ教会に属するも、144年、正統的立場から異端とされる教会を設立。


 神の本質を愛とし、応報的な神を主張する旧約、並びにその影響の色濃い新約の一部を排除した。パウロ書簡とルカ福音書のみを改変した上で正典として位置づけた。旧約の神は、キリストをも知らずして断罪したが、キリストは陰府で救済を果たしたという。


 また、肉体を蔑視し、キリストの人間性を否定するという、グノーシス的仮現説(ドケティズム)を採った。