2024年5月2日木曜日

キプリアヌス

キプリアヌス Thascius Caecilius Cyprianus, c. 200-258 CE


【要約】


西方教会の教父。ラテン教父。修辞学者からカルタゴの司教に。デキウス帝の迫害を忍び、ワレリアヌス帝治下、殉教。教会会議の開催、教会制度、組織の整備等、実践的領域に貢献。「教会の外に救いはなし」の言葉で知られる。


本文


 西方教会の教父。修辞学者であったキプリアヌスは、246年頃に回心、249年にカルタゴの司教となる。デキウス帝による迫害下にあって教会を守り続けたが、ワレリアヌス帝の迫害により殉教。思想的には、テルトゥリアヌスを継承している。ただ、彼のように教理における輝かしい神学的構築を行った代わりに、キプリアヌスは教会の制度的側面の神学的位置づけをおこない、教会会議の開催、教会制度、組織の整備など、実践的な神学領域における貢献が大きい。また、背信者の受け入れを巡って、ローマと対立することもあった。帝国による迫害下にあって、棄教者の発生、復帰者の受け入れという問題に教会が直面していた時代であった。


(デキウス帝治下の迫害において殉教死できなかったことを悔いていたようであるが、ワレリアヌス帝時代に殉教の願いを叶えた。)


 教会の外に救いはなし


 「教会の外に救いはなし」「教会を母として持たない者は、神を父として持ち得ない」等の言葉で知られる。『カトリック教会の統一』(251年)によれば、教会とは、正典、教理、典礼、聖職者を持つ見える教会であり、恩恵の唯一の機関である故、「教会の外に救いはない」。元々この言葉は、非キリスト者により授けられた洗礼の有効性を巡って、教会によって立てられた司教・監督が執行する聖礼典においてのみ神の恵みは有効に働くことを理由にその洗礼を無効とした際の彼の論述を基盤としている。


 ローマ教皇はペトロを継承すると言われるが、ペトロは教会統一のしるしであって担い手ではなく、それは教会という法的機関であり、教会は法的であると同時に霊的でなければならず、それはキリストの犠牲の反復としての聖餐において確保されると主張した。カトリック教会の公同性と聖性という側面を展開。


キプリアヌスの疫病(キプリアヌスの病)ーー講話「死を免れないこと」について


 「キプリアヌスの疫病」と呼ばれる感染症が大流行したことで知られる。北アフリカ沿岸の都市カルタゴで司教を務めたキプリアヌスの記述によれば、この疫病にかかると「絶え間ない嘔吐(おうと)に腸は震え、目には感染した血液の炎が燃え、場合によっては足あるいは手足の一部が腐って落ちる」とされ、多くは失明したり聴覚障害が残った。


 ローマだけで1日に推定5000人がこの疫病のために死亡し、当時のローマ皇帝ホスティリアヌスとクラウディウス2世も犠牲になったほか、エジプトのアレクサンドリアでは人口の3分の2が死滅したと見る研究者もいる。


 天然痘だったと思われるこの疫病の流行は、世界の終末を告げる予兆と考えられた。しかしキプリアヌスは、キリスト教徒は恐れを抱く必要はないと記述。人々の間には患者の姿や死者を火葬する光景に地獄のイメージが重なって世界終末への恐怖心が広がり、死後に地獄に落ちたくないとの思いから、キリスト教の信者が増えたとみられている。

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