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2026年1月28日水曜日

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」『信徒の友』2018年4月ー2019年3月所収

『信徒の友』2018年4月号-2019年3月号所収

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」全12回

第1回 「イエスの復活」

第2回「イエスの洗礼」

第3回「嵐の中での弟子たち」

第4回「五千人の供食」

第5回「ヤイロの娘とイエスの服に触れた女性」

第6回「エルサレム入城」



説教や聖書研究をする人のための聖書注解 【目次】

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ福音書

22:15-22

22:23-33

22:34-40

22:41-46「ダビデの子についての問答」

23:1-12「律法学者とファリサイ派の人々を批判する」

23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)

23:13-36(④23:23-24)

23:13-36(⑤23:25-26)

23:13-36(⑥23:27-28)

マタイ23:13-36(⑦マタイ23:29–36)

マタイ23:37-39「エルサレムのために嘆く」

マタイ24:1-2「神殿の崩壊を予告する」

マタイ24:3-14「終末の徴」

マタイ24:15-28「大きな苦難を予告する」

マタイ24:29-31「人の子が来る」

マタイ24:32-35「いちじくの木の教え」

28:1-10「復活する」


マルコ福音書

3:20-30

3:31-35

4:1-9

4:10-12「例えで語る理由」

4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」

4:21-25「『ともし火』と『秤り』の例え」

4:26-29「『成長する種』の例え」

4:30-32「『からし種』の例え」

マルコ4:33-34

マルコ4:35-41「突風を静める」


ヨハネ福音書

15:26-27


ペトロの手紙二

1:16–21「キリストの栄光、預言の言葉」


説教者聖書注解をする人ための聖書注解 マタイ24:32-35

説教者聖書注解をする人ための聖書注解

マタイ24:32-35「いちじくの木の教え」


2026年1月21日水曜日

説教や聖書注解をする人のための聖書注解 マタイ24:29-31「人の子が来る」

説教や聖書注解をする人のための聖書注解

マタイ24:29-31「人の子が来る」


【小論】「マルコ福音書に対するマタイ福音書の主な修正・改変」

1. マタイ福音書におけるマルコ福音書資料の編集意図と神学的修正——律法理解・イエス像・弟子像を中心に


序論

 マタイ福音書がマルコ福音書を主要資料として用いていることは、資料仮説の枠組みにおいて広く合意されている。しかしながら、マタイはマルコ資料を単純に踏襲するのではなく、叙述の整理、語彙・文体の修正、さらには神学的観点に基づく取捨選択と再構成を通して、自身の福音書を構築している。
 本章は、マルコ福音書に対するマタイの編集操作を詳細に検討することにより、マタイ福音書がいかなる神学的要請のもとでマルコ神学を再解釈し、再構成したのかを明らかにすることを目的とする。とりわけ、律法理解、イエス像、弟子像の三点に注目し、両福音書の神学的方向性の差異を検討する。
 マルコに対するマタイの編集方針は、概ね以下の六点に整理できる。
 1. 記事内容の簡潔化および文体・表現の修正
 2. 旧約引用・成就句の付加によるユダヤ的正統性の強調
 3. ユダヤ教指導者批判の強化
 4. イエス像の修正・補足
 5. 弟子像の修正・補足
 6. 律法理解の修正・補足
  このうち2はマタイ独自の神学的付加を最も端的に示す要素であり、3以下は主にマルコ神学の調整・修正に関わるものである

1. 記事内容の簡潔化および文体や表現の修正(改善、省略、簡略化など)

 マタイは、マルコに特徴的な冗長な描写や感情表現を削減し、叙述を整理する傾向を示す。語彙選択や文法構造の調整を通して、物語の焦点を明確化し、全体として秩序だった叙述を志向している。

1.1. 詳細表現の簡略化

 例えば、マルコ1:32における
「彼らは彼のもとに、悪いところを持つ人々、そして悪霊憑きの全ての人々を運んで来ていた」(ἔφερον πρὸς αὐτὸν πάντας τοὺς κακῶς ἔχοντας καὶ τοὺς δαιμονιζομένους)
という包括的表現は、マタイ8:16では
「彼らは彼のもとに、多くの悪霊憑きの人々を運んで来た」(προσήνεγκαν αὐτῷ δαιμονιζομένους πολλούς)
と簡略化され、叙述の焦点が整理されている。

1.2. 感情表現の簡略化、冗長表現の簡素化

 マルコ4:38における弟子たちの問い

「先生、私たちが滅びても構わないのですか」(Διδάσκαλε, οὐ μέλει σοι ὅτι ἀπολλύμεθα;)
は、マタイ8:25では
「主よ、救ってください」(Κύριε, σῶσον)
という祈願文形式へと転換され、感情的訴えよりも信仰告白的表現が前景化されている。
 同様に、マルコ1:41の「深く憐れんで」という感情描写は、マタイ8:3では削除されている。

1.3. 物語的説明の整理

 マルコに5:8におけるγὰρを伴っての理由説明の挿入は、マタイ8:29では省略され、叙述の流れが単純化されている。また、マルコ5:35–36に見られる会堂長の娘の治癒奇跡における二段階的展開も、マタイ9:23では簡潔に処理されている。他、説明句の削除(マルコ5:23 // マタイ9:18)、場面描写の簡素化(マルコ6:48 // マタイ14:24)などが挙げられる。

1.4. 「εὐθύς」「εὐθέως」の削減

 マルコ福音書において頻出する副詞 εὐθύς/εὐθέως は、神の国の切迫性と即時的応答を強調する重要な語彙である 。しかしマタイは、これらの語を大幅に削減し(マルコ41回に対しマタイ18回)、物語の緊迫性を緩和している。
 例えば、マルコ1:12の
「そしてすぐに霊が彼を追いやった」(καὶ εὐθὺς τὸ πνεῦμα αὐτὸν ἐκβάλλει)
は、マタイ4:1において
「その時、イエスは導かれて」(τότε ὁ Ἰησοῦς ἀνήχθη)
と書き換えられ、即時性よりも秩序だった導きが強調されている。
 その他の例として、マルコ1:10 //マタイ3:16、マルコ1:30 //マタイ8:14などが挙げられる。他方、εὐθύςを保持している箇所としては、例えば弟子たちの召命記事がある(マルコ1:18 // マタイ4:20、マルコ1:20 //マタイ4:22)。

1.5. 供食の記事の削減

 マルコにおける2回の供食の記事(6:30–44, 8:1–10)を、マタイはルカのように1回に削減することなく、双方を保持している(14:13–21, 15:32–39)。しかし、マルコに顕著な弟子の無理解と叱責のモティーフを弱化している 。

2. 旧約引用・成就句の付加によるユダヤ的正統性の強調

 マタイ福音書の最も顕著な特徴の一つは、旧約聖書の引用と「~が成就するためであった」という成就句の反復的使用である。これにより、イエスの生と働きはイスラエルの救済史の連続線上に明確に位置づけられる。

2.1. 旧約引用の付加・長文化・改変

 誕生物語(1-2章)から受難記事に至るまで、マタイはマルコにはない旧約引用を多数付加している。これらは、イエス理解を「聖書の成就」という枠組みに統合する進学的意図を示している 。
 マタイがマルコに対して独自に付加した旧約引用、また、マルコに記載されている旧約引用を長文化、もしくは改変している用例は、以下の通り。
マタイ1:22-23(イザヤ7:14)、2:5-6(ミカ5:1)、2:15(ホセア11:1)、2:17-18(エレミヤ31:15)、2:23(イザヤ11:1、士師13:5?)、マタイ4:14-16(イザヤ8:23-9:1 LXX9:1-2)、8:17(イザヤ53:4)、9:13(ホセア6:6)、マタイ12:17-21(イザヤ42:1-4)、マタイ13:14-15(イザヤ6:9-10、長文化)、21:4-5(イザヤ62:11、ゼカリヤ9:9)、27:9-10(ゼカリヤ11:12-13、エレミヤと表記されている)、27:46(マルコ15:34の詩編引用をアレンジ)。

2.2. 家系や表現などのユダヤ的要素の強化

 系図(マタイ1:1–17)の付加、イエスのベツレヘム誕生の強調(2:1-12)などは、イエスをダビデ的メシアとして位置づけ、教会のユダヤ的正統性を主張する機能を果たしている。

3. ユダヤ教批判の強化

 マタイ23章における律法学者・ファリサイ派への「不幸だ」宣告は、彼らに対するマルコ福音書以上の批判の度合いを示す。また、27:25における群衆の発言(「その血の責任は、我々と子孫にある」)は、イエス殺害の責任をユダヤ人側に集約する叙述となっている。
 これらは、シナゴーグとの緊張関係の中で形成されたマタイ教会の自己規定を反映する論争的言説として理解されるべきである 。

4. イエス像の修正

4.1. 否定的描写の削除

 マルコ3:21における「身内が取り押さえに来た」「正気を失ったと思われた」という記述は、マタイ12:46–50では完全に削除されている。

4.2. 能力制限表現の修正

 マルコ6:5の
「力ある業を何一つ行うことができなかった」(οὐκ ἐδύνατο ἐκεῖ ποιῆσαι οὐδεμίαν δύναμιν)
という表現は、マタイ13:58において
「多くの力ある業をしなかった」(οὐκ ἐποίησεν ἐκεῖ δυνάμεις πολλὰς)
へ修正され、イエスの能力に起因するものではなく、意志的選択として再解釈されている。

4.3. 職業表現の修正

 マルコ6:3におけるイエスを「職人(τέκτων)」と同定する表現は、マタイ13:55では「職人の息子」とされ、イエスの社会的身分に関する直裁な表現があえて避けられている。

5. 弟子像の修正

 マタイは、マルコに顕著な弟子の無理解モティーフを一貫して緩和または削除する。
 マルコ4:13の厳しい二重修辞疑問文(「この譬えも分からないのか?どうして全ての例えを理解できようか?」)は、マタイ13:18では削除されている。
 マルコ6:52の「パンのことを理解せず、心が固くなっていた」という評価も、マタイ14:33では信仰告白へと置換されている。
 さらに、マタイ16:17–19におけるペトロへの祝福と教会建立宣言は、ペトロと弟子団の肯定的再定位を象徴する付加である。

6. 律法観の修正、律法破棄に見える記述の削除

 マルコ7:19における、食物規定を無意味化しかねない急進的発言
「便所に出て行く……全ての食べ物を清いとした」(καὶ εἰς τὸν ἀφεδρῶνα ἐκπορεύεται…καθαρίζων πάντα τὰ βρώματα)
は、マタイでは回避されている 。
 また、マルコ2:27
「安息日は人のために設けられたのであって、人が安息日のためにあるのではない」(Τὸ σάββατον διὰ τὸν ἄνθρωπον ἐγένετο, καὶ οὐχ ὁ ἄνθρωπος διὰ τὸ σάββατον)
という安息日論争の核心的な言葉を、マタイは物語構造を維持しつつも意図的に削除している。
 一方、離婚規定(マルコ10:11–12)には、「不定の場合を除いて」という例外条項(マタイ5:32; 19:9)が付加されている。この付加は、単に律法の厳格さを緩和するためではなく、むしろ現実的な運用可能性を高めることで、律法遵守を持続させる意図を示唆している。
 決定的なのは、マタイ5:17–20の追加である。
「わたしが律法や預言者を廃するために来たと思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである……律法から一点一画も決して消え去ることはない」
 ここで律法は廃されるものではなく、成就されるべきものとして、明瞭に再定義される。律法を既に廃棄されたもののように扱うマルコの神学的方向性を修正し、律法の有効性を強調している。

7. 結論

 マタイ福音書は、マルコ福音書を主要な資料として用いながらも、叙述の整理・簡潔化と神学的再構成を通して、独自の方向性を明確に打ち出している。とりわけ、旧約聖書引用および成就句の反復的配置は、教会のユダヤ的正統性を強調する機能を担っており、またイエス像および弟子像の修正は、マタイ共同体が志向する権威理解および共同体秩序を神学的に裏づける役割を果たしていると考えられる。律法理解に関しても、マタイはマルコに見られる律法相対化の傾向を一定程度修正し、律法を廃棄の対象ではなく、「成就」という枠組みの中で再定位している。
 このように、マルコ福音書に対するマタイの修正は決して限定的なものではない。しかしながら、マタイが全体構造においてマルコ福音書を基本的に踏襲している以上、その態度をマルコに対する全面的な拒絶と理解することは困難である。仮にマタイが、マルコに類似した福音書を新たに提示することによってマルコの権威を上書き的に消去しようとしたのであれば、マルコの叙述や神学を明示的に否定する表現が、より多く含まれていて然るべきであろう。
 一方で、マタイがマルコ福音書の部分的編集や補足にとどまらず、独立した福音書の執筆に踏み切った理由は、自身の神学的構想のもとでマルコ福音書全体を再構成する必要性を認識していた点に求められる。マタイは部分的にはマルコと競合的な立場を示しつつも、その基盤を維持したまま包括的な改訂を試みており、この点において両者の関係は、対立ではなく「協働的」関係の範疇に位置づけられると結論づけることができる。

2026年1月16日金曜日

【小論】ヨハネ福音書における共観福音書資料の編集意図と神学的修正

ヨハネ福音書における共観福音書資料の編集意図と神学的修正


 ヨハネ福音書が共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)を知っていたかどうかについては、古くから議論の対象とされてきた。文献学的には、ヨハネ福音書が共観福音書に直接依存していることを証明するのはほぼ不可能であるというのが、現在の定説である。しかし、物語構造・神学的語彙・人物像の相違を精査すると、ヨハネ福音書の著者が共観福音書の存在と内容を意識しつつ、自身の福音書を構成したと考える方が説得力が高いとする説が、今日では多数派を占めている。
 本章の目的は、ヨハネ福音書が共観福音書の物語と神学を意識的に再構成している可能性を明らかにしつつ、ヨハネの共観福音書に対する姿勢が、やや対抗的ではありつつも排除的ではなく、むしろ「協同」的であること――すなわち、共観福音書の伝承を尊重しつつ、それを深化・拡張する形で自身の福音書とその神学を再構築していること――を論証することにある。
 この目的のために、本章では、ヨハネ福音書が共観福音書の存在を前提としながら、意図的に神学的・物語的修正を施していると推定される箇所を取り上げ、その特徴と意図を分析する。具体的には、以下の四つの観点から検討を行う。

  1.  物語配置の修正:出来事の時系列・位置づけを変更、また、記事自体を変更することで、物語全体の神学的焦点を再構成している点を扱う。
  2. 神学的用語・神学的焦点の修正:共観福音書の概念(例、「神の国」)を別のもの(例、「永遠の命」)に置換するなど、神学的枠組みの再構成を検討する。
  3. 人物像の修正:主要人物の描かれ方の違いを通して、ヨハネ独自の神学的意図を探る。

1 物語配置の修正

1.1. 宮清め(マタイ21:12-17、マルコ11:15-18、ルカ // ヨハネ2:13-22)

1.1.1 配置の相違:終盤から冒頭へ
 共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では、宮清めはイエスのエルサレム入城直後に置かれ、宗教指導者との対立、神殿体制との決別を決定的にする事件として描かれている。すなわち、物語構造上「受難物語の引き金」として機能している。
 これに対し、ヨハネ福音書では同じ出来事が公生涯の最初期(2章)に移動している。もしヨハネが共観福音書の伝承を知っていたとすれば、この配置転換は単なる編集上の偶然ではなく、明確な神学的意図に基づく再構成と考えられる。以下では、その意図を考察する。

1.1.2 ヨハネが配置を変えた理由:主要な学説

1.1.2.1 史実としての宮清めはいつ起こったか
 かつては「宮清めは二度あった」とする調和的解釈が提唱されたが、現在の研究ではほぼ退けられ、宮清めは1回限りで、受難の前に起こったとする説が一般的である。その主な理由は以下の通り。
・ヨハネ福音書が後発であるため、先行する共観福音書の伝承を知った上で再配置したと考えるのが自然である。
・宮清めの史実が公生涯初期にあったと仮定した場合、体制側との対立が著しく、その後の伝道活動に重大な支障をきたすることになり、現実的ではないこと。
 以上を踏まえると、宮清めは史実としては受難直前に起こった出来事であり、ヨハネが神学的意図により冒頭へ移したと理解する方が合理的である。

1.1.2.2. ヨハネの神学的意図:イエスを「真の神殿」として提示する
 今日の主流の学説では、ヨハネが宮清めを冒頭に置いた理由は、イエスこそ真の神殿であるという神学的主張を早期に提示するためとされている。
 共観福音書では受難物語の中で、イエスを揶揄する証言として登場する「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」というモティーフ(マルコ14:58 ほか)が、ヨハネでは序盤においてイエス自身の言葉として提示される(ヨハネ2:19–21)。すなわち、共観福音書では敵対者の証言として扱われる言葉が、ヨハネでは神学的意味を帯びた啓示として再構成されている。
 ヨハネ福音書はもともと、イエスのアイデンティティを物語の冒頭から積極的に開示する傾向がある。「言(ロゴス)」(1:1)、「神の子」(1:34)、「世の光」(1:9)といった称号が早期に提示されるのと同様に、宮清めも「イエスの本質を示す啓示的出来事」として冒頭に置かれていると考えられる。
 これに対し、マルコ福音書ではイエスの正体は十字架に至るまで徐々に明らかになる(いわゆる「メシアの秘密」)。ヨハネはこの構造を意図的に反転させ、イエスの本質を早期に提示する物語構造を採用している。
 このように、ヨハネは宮清めを単なる「受難の原因」としてではなく、福音書全体のキリスト論的テーマを提示する象徴的出来事として再構成しているということになる。

1.2. 受難死の日付の変更

1.2.1. 受難死の日付をめぐる共観福音書とヨハネ福音書の相違
 共観福音書は、イエスが弟子たちと共に過越の食事をとった直後に逮捕され、その翌日に十字架刑に処されたと報告している。これによれば、イエスの十字架死はニサン月15日となる。これに対してヨハネ福音書は、イエスの十字架刑を過越祭の準備の日(ニサン月14日)に位置づける(ヨハネ19:14)。すなわち、過越の小羊が屠られる時刻にイエスが死に至るという構図が描かれる。この日付設定は、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29,36)、すなわち、祭儀犠牲として屠られる小羊として理解するヨハネ神学の中心的主張と一致する。ヨハネ19:36において引用される「その骨は一本も折られない」という記述は、出エジプト記12:46における過越の小羊の規定を想起させ、イエスの死が過越祭儀の成就であることを強調する。
 このように、小羊の屠殺時刻とイエスの死の時を一致させる構図は、神殿祭儀の終焉とキリストの犠牲の完成を重ね合わせるヨハネ神学の中心的主題と整合する。

1.2.2. 史実的観点からの検討
 史実としては、ヨハネ福音書の年代設定(ニサン月14日)がより妥当であるとする見解が多数派を占める。その理由として以下の点が挙げられる。
・過越祭当日に死刑執行が行われる可能性の低さ
過越祭はユダヤにおける最重要祭儀にして大規模なものであり、ユダヤ当局が祭りの最中に死刑を執行することは、治安維持の観点からも現実的ではない。聖なる祝祭期間中の死刑執行についても同様である。
・共観福音書による過越の食事の新たな意味づけ
 最後の晩餐を過越の食事とする描写は、イエスの死を新しい契約の制定と結びつける意図が反映されたものであり、ヨハネの編集的構成と考えられる。ただ、共観福音書の伝承を否定しているわけではなく、最後の晩餐における“イエス自身が与えられる食物(パン)”というモティーフは、「屠られる小羊」と過越の食事という主題にも内包されているし、また、イエスが「命のパン」(6:35, 48)、「天から降って来たパン」(6:41, 50)、特に「私が与えるパンは世を生かすための私の肉」という記述にも織り込まれているように見える。

1.3. 最後の晩餐における聖餐制定語の欠如と洗足記事による置換

1.3.1. 共観福音書における聖餐制定記事
 共観福音書における最後の晩餐と聖餐制定語(マタイ26:26–29、マルコ14:22–25、ルカ22:14–20)は、イエスの死を「契約の血」として解釈し、ユダヤ教における過越の食事の後継として、共同体の儀礼的中心に聖餐式を位置づけるものである。
 これに対し、ヨハネ福音書は最後の晩餐を完全に欠いている。最後の晩餐に相当する場面であるヨハネ13章には、パンと杯に関する言及が存在せず、代わりに洗足記事(13:1–20)が配置されている。13:1には、「過越祭の前」と場面設定が為されており、イエスの十字架死は過越祭の準備の日(ニサン月14日)であるから、過越の食事そのものが存在しないことになる。

1.3.2. 洗足記事の導入と神学的意図
 ヨハネが聖餐制定語を削除し、洗足記事を導入した経緯として、以下のようにまとめられる。
・過越の食事が存在しないことによる物語構造的必然性
 上述のように、イエスの死は過越の小羊の屠殺日(ニサン14日)に一致するよう再構成されているため(ヨハネ19:14)、「過越の食事=最後の晩餐」という構図がそもそも成立しない。
・別伝承としての洗足記事の採用
 洗足記事(13:1–20)は共観福音書には存在しない独自伝承であり、ヨハネはこれを最後の晩餐の中心的行為として配置したと考えられる。
 こうして、聖餐制定語が象徴する「儀礼的・祭儀的要素」に対し、洗足記事は、相互奉仕(13:14–15)、愛の模範(13:1「最後まで愛された」)、共同体倫理の形成(13:34「互いに愛し合いなさい」)というモティーフを導入している。つまり、ヨハネは聖餐の儀礼的側面をこの箇所では廃し、イエスの受難死を倫理的実践(愛と奉仕)として再解釈するという神学的方向性を再構築している。

1.3.3. 結論
 ヨハネ福音書は、共観福音書に見られる聖餐制定語を意図的に削除し、代わりに洗足記事を配置することで、最後の晩餐の神学的意味を大きく再構成している。
その背景には、
・過越の食事を欠く物語構造
・独自伝承の採用
・儀礼中心から倫理中心への神学的転換
という複合的要因が存在する。
 この編集方針は、ヨハネ福音書がイエスの死を過越の小羊の犠牲として描きつつ、共同体における愛と奉仕の倫理を聖餐制定の代わりに中心に据えるという、ヨハネ的キリスト論並びに教会論を形成するものである。


2. 神学的用語・神学的焦点の修正

2.1. 共観福音書の例え話のヨハネ福音書における不採用――「聞く者」から「信じる者」への転換

 ヨハネ福音書は、共観福音書に特徴的な例え話(παραβολή)、すなわち農業など日常的事象を素材とする比喩的教説を、基本的には採用していない。もっとも、比喩表現そのものが完全に排除されているわけではなく、ヨハネ10:1–18(良い羊飼い)、15:1–8(まことのぶどうの木)、6:35–58(命のパン)、8:12(世の光)、11:25(復活と命)に見られるように、ἐγώ εἰμι 宣言を伴う自己啓示的・象徴的講話(παροιμία、10:6)を独自に導入している点は注目に値する。
 以上の不採用と導入は、共観福音書、特にマルコ4章に典型的に見られる「聞く者/悟る者」という例え話の受容構造からの意図的転換を示している。ヨハネにおいて一転して中心化されるのは、教えを「理解する」主体ではなく、イエスを「信じる」主体である。すなわち、例え話を通した段階的理解の過程から、啓示に対する信仰の決断への転換が図られている。
 この神学的重点の移動は、「信じる/信じない」という二分法的構図として福音書全体に体系的に配置されている。ヨハネ1:12では、信じる者に「神の子となる権利」が与えられ、3:16–18では信じる者の救済と信じない者の裁きが対置される。3:36においては、信仰の有無が命の有無に直結することが明言される。さらに、ヨハネ特有の「しるし(σημεῖον)」の神学も、理解よりも信仰を指向している。2:11では最初のしるしによって弟子たちが信じ、4:48–53では役人がイエスの言葉を信じることによって出来事が成就する。6:29においては、「神の業」が明確に「遣わされた者を信じること」と定義される。これらは20:31――「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスを信じるためである」――において、福音書全体の目的として総括される。
 この信仰中心の構図は、イエスとの個人的出会いを軸とする物語群においても顕著である。サマリアの女(4:39–42)、生まれつきの盲人(9:35–38)、マルタの信仰告白(11:25–27)、そしてトマスの告白(20:24–29、とりわけ20:28「わたしの主、わたしの神」)は、いずれも理解の深化ではなく、イエスの人格的な出会いを経て、人格的応答としての信仰告白へと導かれる物語である。
 同様の傾向は復活顕現記事にも認められる。共観福音書において強調される集団的顕現に比して、ヨハネではマグダラのマリア、トマスといった個人への顕現が前景化され、信仰の告白へと結び合わせられている。
 以上を総合すると、ヨハネ福音書は、
・例え話(聞く/悟る)から、象徴的講話(信じる)へ
・弟子の無理解から、信じる/信じないの二分法へ
・集団への顕現から、個人への顕現へ
という一連の神学的再構成を行っていると言える。結果として、理解と無理解のモティーフは後景化され、信じることと信仰の決断そのものが、ヨハネ福音書全体を規定する原理として前景化されている。


2.2. 共観福音書の「神の国」からヨハネ福音書の「永遠の命」への転換

 共観福音書、とりわけマルコ福音書において、イエスの宣教の中心的主題を構成するのは「神の国」である(参照、マルコ1:15)。「神の国」(マタイ福音書では「天の国」)とは、終末論的かつ歴史的次元における神の支配の到来を指し示す概念であり、その実現は将来に属しつつも、イエスの宣教と行為においてすでに開始されているといういわゆる「既に―未だ」の時間構造を特徴としている。

 これに対して、ヨハネ福音書においては、「神の国」という表現は例外的で、わずか二回(3:3, 5)用いられるにすぎない。その一方で、「永遠の命」(ζωὴ αἰώνιος)および「命」(ζωή)が頻繁に現れる。「永遠の命」は17回(3:15, 16, 36; 4:14, 36; 5:24, 39; 6:27, 40, 47, 54, 68; 10:28; 12:25, 50; 17:2, 3)、「命」は約36回用いられており、共観福音書における用例数(マタイ3回、マルコ2回、ルカ3回)と比較すると、その差は顕著である。この語彙的偏重は、ヨハネ福音書においてイエスの宣教内容を表現する神学的中心語が、「神の国」から「永遠の命」へと移行していることを示唆している。
 さらに重要なのは、ヨハネ福音書における「永遠の命」が、未来に実現される報酬としてではなく、現在においてすでに成立している現実として理解されている点である。ヨハネ5:24において、「永遠の命を持つ」と訳される ἔχει ζωὴν αἰώνιον は現在形で用いられており、信じる者はすでに永遠の命に参与している存在として描かれている。この理解は、ヨハネ3:16において示されるように、神の愛と「独り子を与えた」という神の自己贈与に根差しており、永遠の命が神との関係性そのものとして成立していることを明らかにしている。
 ヨハネ福音書における数少ない「神の国」の用例(3:3「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」、3:5「水と霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない」)もまた、共観福音書に見られるような終末論的支配の到来を告知するものではない。これらの箇所では、「神の国」は「新生」というヨハネ的主題のもとで再解釈され、信仰によって成立する存在の変容を表す概念として用いられている。したがって、「神の国」はヨハネ福音書において否定されているのではなく、「永遠の命」という中心概念に吸収され、その意味内容を変容させていると理解することができる。
 以上の点から、ヨハネ福音書は共観福音書における「神の国」終末論を単に継承するのではなく、それを関係論的・存在論的枠組みにおいて再構成していると結論づけられる。共観福音書において前景化していた神の支配の歴史介入性は後景に退き、代わって、神の愛と自己贈与に基づく、現在において成立する救済理解が前面に押し出されている。

3. 人物像の修正

3.1.「十二人」像の修正

3.1.1.共観福音書とヨハネ福音書における「十二人」位置づけの相違
 共観福音書において「十二人」は、マルコ3:13–19、マタイ10:1–4、ルカ6:12–16に見られるように、イエス自身によって選任されたことが明確に強調されている。イエス運動に追随した弟子集団の中でも、十二人は中核的存在として位置づけられ、悪霊払い、治癒、宣教といったイエスの権威を代理的に行使する集団として描かれている(マルコ6:7–13 ほか)。
 一方で、共観福音書は、弟子たちがイエスの正体や意図をしばしば理解できない存在であること、さらには受難時に全員が逃亡すること(マルコ14:50)を描写することにより、いわゆる「弟子の無理解」あるいは「弟子批判」のモティーフを物語の中に組み込んでいる。また、各福音書に差異はあるものの、十二人の中でも特にペトロ、ヤコブ、ヨハネが中心的使徒として前景化され、ペトロは筆頭者、あるいはスポークスマン的存在として描かれる点において、共観福音書はおおむね一致している。ここでの「十二人」は、歴史的・象徴的・権威的・制度的集団として理解されていると言える。
 これに対して、ヨハネ福音書では「十二人」への明示的言及は少数にとどまり(例:6:67、6:70–71、20:24)、弟子たちは共観福音書の集団的描写とは異なり、主として個人単位で叙述される。総じて、共観福音書において前面に出ていた「十二人」という制度的・集団的側面は、ヨハネ福音書では相対化されている。

3.1.2.個々の使徒を物語化するヨハネ福音書
 このような傾向は、ヨハネ福音書における個々の使徒の描写において、より顕著に確認される。共観福音書では、主として「十二人」の名簿において言及されるにとどまり、ほとんど物語化されない使徒たちが、ヨハネにおいては独自の個性と神学的役割を与えられ、物語の中で具体的に描写されている。以下にその代表例を挙げる。

3.1.2.1.アンデレ
・1:40–42 イエスに従った最初の弟子として登場し、ペトロをイエスのもとへ導く。
・6:8–9 五千人供食物語において、少年をイエスに紹介する。
・12:20–22 ギリシア人とイエスとを仲介する役割を担う。

3.1.2.2.フィリポ
・1:43–46 ナタナエルをイエスのもとへ導く。
・6:5–7 供食物語において現実的な計算に基づく発言を行う。
・12:21–22 ギリシア人の要請を受け、イエスへの取り次ぎを行う。
・14:8–9 「父をお示しください」と願い、イエスから教示を受ける。

3.1.2.3.トマス
・11:16 ラザロ物語において、死をも覚悟する発言を行う。
・14:5 イエスの「道」を理解できないことを率直に表明する。
・20:24–29 復活顕現物語において、疑いから信仰告白へと導かれる。

3.1.2.4.ナタナエル(使徒バルトロマイと同定される場合)
・1:45–51 「いちじくの木の下」での出来事を通して信仰告白を行う。
・21:2 七人の弟子の一人として復活顕現の場面に立ち会う。
 他方、ヤコブとヨハネは「ゼベダイの子ら」として簡略的に記されるにとどまる。

3.1.2.5.「イエスの愛しておられた弟子」(使徒ヨハネ説か、無名弟子説かによる)
・13:23–26 最後の晩餐において、イエスの胸元に位置する。
・19:26–27 十字架上のイエスから母を託される。
・20:2–8 ペトロと墓へ走り、最初に内部を見て信じた者として描かれる。
・21:7 復活のイエスを最初に認識する。
・21:20–24 ペトロと対比されつつ、証言者としての権威を示される。

3.2.ペトロ中心の権威構図の相対化

 以上の検討から明らかになるのは、ヨハネ福音書においてペトロが依然として重要な位置を占めつつも、他の弟子たちの物語が重層的に配置されることによって、その中心性が相対化されている点である。
 たとえば、トマスはヨハネ20:24–29において、復活顕現物語の核心的人物として登場し、「私の主、私の神」(20:28)という同福音書中でも最も明確なキリスト論的告白を担う。この点において、トマスはペトロ以上に前景化されていると評価できる。
 また、復活物語においては、「イエスの愛しておられた弟子」がペトロよりも先に墓に到着し、内部を見て信じた者として描かれる(20:8)。さらに、マグダラのマリアは十二人の誰よりも先に復活のイエスに出会い、「行って、わたしの兄弟たちに告げなさい」(20:17)との委託を受ける最初の復活証人、ひいては最初の宣教者として位置づけられている。
 確かにペトロもまた、「わたしの羊を飼いなさい」(21:15–17)との委任を受け、重要な役割を保持している。しかし同時に、彼は「この人について、あなたは何を気にするのか」(21:22)との言葉によって、「愛しておられた弟子」への詮索を退けられている。これらの描写を総合すると、ヨハネ福音書においては、復活信仰や宣教の起点が、使徒集団やその代表者であるペトロから、共観福音書では周縁的であった人物たちへと再配置されていることが確認される。

4. 結論

 本章の検討から明らかになったのは、ヨハネ福音書が共観福音書の伝承を否定的に乗り越えようとするのでも、単純に補完しようとするのでもなく、それらを前提として意識的に再配置・再定義することによって、独自の神学的総合を提示しているという点である。
 宮清めの配置転換、受難死の日付の再構成、聖餐制定語の不採用と洗足記事の導入は、いずれも史実の恣意的改変ではなく、イエスを真の神殿、過越の小羊、愛と奉仕のイエスとして提示するための神学的再編として理解されるべきである。
 また、「神の国」から「永遠の命」への神学的焦点の移行、例え話から信仰告白への構造転換は、ヨハネ福音書が救済を、キリストとの関係性において現在的に成立する命として把握していることを示している。
 このように、ヨハネ福音書は共観福音書と緊張関係を保ちつつも、それを排除することなく、多声的伝承の中でキリスト理解を深化させる協同的営みとして成立している。この点において、ヨハネ福音書は初期キリスト教における正典形成過程――すなわち、単一基準による選別ではなく、分散的証言の協同的収斂――を最も高度な形で体現する文書の一つであると言えよう。

2026年1月13日火曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ24:15-28

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ24:15-28「大きな苦難を予告する」


【小論】共観福音書の「神の国」からヨハネ福音書の「永遠の命」への転換

共観福音書の「神の国」からヨハネ福音書の「永遠の命」への転換

 共観福音書、とりわけマルコ福音書において、イエスの宣教の中心的主題を構成するのは「神の国」である(参照、マルコ1:15)。「神の国」(マタイ福音書では「天の国」)とは、終末論的かつ歴史的次元における神の支配の到来を指し示す概念であり、その実現は将来に属しつつも、イエスの宣教と行為においてすでに開始されているといういわゆる「既に―未だ」の時間構造を特徴としている。

 これに対して、ヨハネ福音書においては、「神の国」という表現は例外的で、わずか二回(3:3, 5)用いられるにすぎない。その一方で、「永遠の命」(ζωὴ αἰώνιος)および「命」(ζωή)が頻繁に現れる。「永遠の命」は17回(3:15, 16, 36; 4:14, 36; 5:24, 39; 6:27, 40, 47, 54, 68; 10:28; 12:25, 50; 17:2, 3)、「命」は約36回用いられており、共観福音書における用例数(マタイ3回、マルコ2回、ルカ3回)と比較すると、その差は顕著である。この語彙的偏重は、ヨハネ福音書においてイエスの宣教内容を表現する神学的中心語が、「神の国」から「永遠の命」へと移行していることを示唆している。

 さらに重要なのは、ヨハネ福音書における「永遠の命」が、未来に実現される報酬としてではなく、現在においてすでに成立している現実として理解されている点である。ヨハネ5:24において、「永遠の命を持つ」と訳される ἔχει ζωὴν αἰώνιον は現在形で用いられており、信じる者はすでに永遠の命に参与している存在として描かれている。この理解は、ヨハネ3:16において示されるように、神の愛と「独り子を与えた」という神の自己贈与に根差しており、永遠の命が神との関係性そのものとして成立していることを明らかにしている。

 ヨハネ福音書における数少ない「神の国」の用例(3:3「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」、3:5「水と霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない」)もまた、共観福音書に見られるような終末論的支配の到来を告知するものではない。これらの箇所では、「神の国」は「新生」というヨハネ的主題のもとで再解釈され、信仰によって成立する存在の変容を表す概念として用いられている。したがって、「神の国」はヨハネ福音書において否定されているのではなく、「永遠の命」という中心概念に吸収され、その意味内容を変容させていると理解することができる。

 以上の点から、ヨハネ福音書は共観福音書における「神の国」終末論を単に継承するのではなく、それを関係論的・存在論的枠組みにおいて再構成していると結論づけられる。共観福音書において前景化していた神の支配の歴史介入性は後景に退き、代わって、神の愛と自己贈与に基づく、現在において成立する救済理解が前面に押し出されている。


2026年1月10日土曜日

【小論】共観福音書の例え話のヨハネ福音書における不採用の理由――「聞く者」から「信じる者」への転換

共観福音書の例え話のヨハネ福音書における不採用の理由――「聞く者」から「信じる者」への転換


 ヨハネ福音書は、共観福音書に特徴的な例え話(παραβολή)、すなわち農業など日常的事象を素材とする比喩的教説を、基本的には採用していない。もっとも、比喩表現そのものが完全に排除されているわけではなく、ヨハネ10:1–18(良い羊飼い)、15:1–8(まことのぶどうの木)、6:35–58(命のパン)、8:12(世の光)、11:25(復活と命)に見られるように、ἐγώ εἰμι 宣言を伴う自己啓示的・象徴的講話(παροιμία、10:6)を独自に導入している点は注目に値する。

 以上の不採用と導入は、共観福音書、特にマルコ4章に典型的に見られる「聞く者/悟る者」という例え話の受容構造からの意図的転換を示している。ヨハネにおいて一転して中心化されるのは、教えを「理解する」主体ではなく、イエスを「信じる」主体である。すなわち、例え話を通した段階的理解の過程から、啓示に対する信仰の決断への転換が図られている。

 この神学的重点の移動は、「信じる/信じない」という二分法的構図として福音書全体に体系的に配置されている。ヨハネ1:12では、信じる者に「神の子となる権利」が与えられ、3:16–18では信じる者の救済と信じない者の裁きが対置される。3:36においては、信仰の有無が命の有無に直結することが明言される。さらに、ヨハネ特有の「しるし(σημεῖον)」の神学も、理解よりも信仰を指向している。2:11では最初のしるしによって弟子たちが信じ、4:48–53では役人がイエスの言葉を信じることによって出来事が成就する。6:29においては、「神の業」が明確に「遣わされた者を信じること」と定義される。これらは20:31――「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスを信じるためである」――において、福音書全体の目的として総括される。

 この信仰中心の構図は、イエスとの個人的出会いを軸とする物語群においても顕著である。サマリアの女(4:39–42)、生まれつきの盲人(9:35–38)、マルタの信仰告白(11:25–27)、そしてトマスの告白(20:24–29、とりわけ20:28「わたしの主、わたしの神」)は、いずれも理解の深化ではなく、イエスの人格的な出会いを経て、人格的応答としての信仰告白へと導かれる物語である。

 同様の傾向は復活顕現記事にも認められる。共観福音書において強調される集団的顕現に比して、ヨハネではマグダラのマリア、トマスといった個人への顕現が前景化され、信仰の告白へと結び合わせられている。

 以上を総合すると、ヨハネ福音書は、

・例え話(聞く/悟る)から、象徴的講話(信じる)へ

・弟子の無理解から、信じる/信じないの二分法へ

・集団への顕現から、個人への顕現へ

という一連の神学的再構成を行っていると言える。結果として、理解と無理解のモティーフは後景化され、信じることと信仰の決断そのものが、ヨハネ福音書全体を規定する原理として前景化されている。

2026年1月7日水曜日

【小論】最後の晩餐と受難日設定をめぐる神学的・歴史的考察 ― 共観福音書とヨハネ福音書の相違とその神学的意図 ―

 最後の晩餐と受難日設定をめぐる神学的・歴史的考察

― 共観福音書とヨハネ福音書の相違とその神学的意図 ―

1. はじめに

 イエスの最後の晩餐および受難死の日付をめぐる記述は、共観福音書とヨハネ福音書の間で顕著な差異を示す。本稿では、両者の相違点を整理し、その背景にある神学的意図を検討するとともに、歴史的観点からどの記述が史実に近いと考えられるかを論じる。


2. 最後の晩餐の儀式的性格

 共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)は、最後の晩餐を過越の食事(Seder)として描写する。この描写は、イエスがパンと杯を弟子たちに分け与える行為を通して、相互奉仕の精神および自己犠牲的愛の模範を示すという神学的意図を有している。特に、パンと杯の制定は、後のキリスト教共同体における聖餐(エウカリスティア)の起源として理解される。

 一方、ヨハネ福音書は、最後の晩餐を過越の食事として描かず、代わりに弟子の足を洗うイエスの姿を強調する(ヨハネ13章)。ここでは、イエスの奉仕の精神が象徴的に示され、共同体倫理の基礎が提示されている。


3. 受難死の日付をめぐる相違

3.1 共観福音書の記述

 共観福音書によれば、最後の晩餐は過越の食事としてニサン月15日の夜に行われ、その翌日、すなわち過越祭の最中にイエスは十字架刑に処される。この構図は、最後の晩餐と聖餐の制定を密接に結びつける神学的意図を反映している。


3.2 ヨハネ福音書の記述

 これに対し、ヨハネ福音書は、イエスの十字架刑を過越祭の準備の日(ニサン月14日)に位置づける(ヨハネ19:14)。すなわち、過越の子羊が屠られる時刻にイエスが死に至るという構図が描かれる。この日付設定は、イエスを「屠られる過越の子羊」として理解するヨハネ神学の中心的主張と一致する。

 ヨハネ19:36において引用される「その骨は一本も折られない」という記述は、出エジプト記12:46における過越の子羊の規定を想起させ、イエスの死が過越祭儀の成就であることを強調する。


4. 神学的意図の比較

 共観福音書は、最後の晩餐を過越の食事として描くことで、聖餐の起源と新しい契約の制定を中心に据える。一方、ヨハネ福音書は、イエスの死を神殿祭儀の完成として位置づけ、神殿犠牲制度の終焉を宣言する神学的構図を採用する。

 このように、両者の相違は単なる年代記的矛盾ではなく、それぞれの福音書が有する神学的目的の違いに由来するものである。


5. 歴史的観点からの検討

 歴史的観点からは、過越祭当日に死刑が執行される可能性は低いと考えられる。ユダヤ当局およびローマ当局は、祭りの混乱を避けるため、重大な処刑を祭日中に行うことを避けたと推測される。この点から、多くの研究者は、ヨハネ福音書のニサン月14日説の方が史実に近いと判断する傾向にある。

 すなわち、ヨハネは共観福音書の伝承をそのまま踏襲せず、神学的意図に基づいて受難日を再構成し、イエスの死を過越祭と重ね合わせることで、キリストの死を救済史的クライマックスとして描き出したと考えられる。


6. 結論

 最後の晩餐および受難死の日付をめぐる共観福音書とヨハネ福音書の相違は、単なる歴史的矛盾ではなく、それぞれの福音書が有する神学的意図の違いに起因する。共観福音書は聖餐の制定を中心に据え、ヨハネ福音書はイエスを過越の子羊として描くことで、神殿祭儀の完成と終焉を強調する。歴史的観点からは、ヨハネの記述がより合理的であると評価されるが、両者の相違は初代教会における多様なキリスト理解を反映するものとして重要である。


7. 影響史

 以上に見た受難日を巡る相違は、2世紀に顕在化したいわゆる「復活日論争(クァルトデキマン論争)」と深く結びついていると考えられる。小アジアの諸教会においては、ニサン月14日を復活祭日として祝う慣習が広く定着していた。この慣習に従えば、復活祭は曜日に関わらず、毎年ニサン月14日に固定されることになる。一方、ローマ教会をはじめとする多くの西方教会では、ニサン月14日以降に到来する最初の日曜日を復活祭日とする伝統が確立していたため、両者の間に典礼上の齟齬が生じるようになった。

 154年頃、使徒ヨハネの弟子と伝えられるスミュルナの監督ポリュカルポスがローマを訪れ、当時のローマ司教アニケトゥスと会談した際、この問題は初めて公的な形で議論された。両者は互いの慣習が使徒的伝承に基づくと主張しつつも一致には至らず、しかしながら交わりを断つことなく相互の伝統を尊重したと伝えられる。この出来事を契機として、復活祭日をめぐる議論は以後数世紀にわたり継続することとなった。

 小アジア教会とローマ教会の間に生じた教会論的相違と緊張関係は、単なる典礼日程の不一致にとどまらず、共観福音書伝承よりもヨハネ伝承を濃厚に継承する小アジア側の神学的傾向に由来すると考えられる。すなわち、ニサン月14日を重視する小アジアの伝統は、イエスを「過越の子羊」として描くヨハネ福音書の受難日理解と親和性が高く、これがローマ側の復活中心の典礼理解と対照をなしていたのである。このように、復活日論争は、初期教会における典礼理解・福音書伝承・教会論の多様性が交錯する場として重要な意義を持つ。

【解説】第2パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistles)

第2パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistles)

1. 第2パウロ書簡の定義

 第2パウロ書簡とは、パウロ自身が執筆したと判断されている、いわゆる「真正パウロ書簡」とは異なり、パウロの弟子や後継者、あるいはパウロ系の共同体が、パウロの思想を継承しつつ、パウロ書簡を模倣する形で執筆した書簡群を指す学術用語である。

 一般的には、以下の6書が第2パウロ書簡とされる。

  • エフェソの信徒への手紙

  • コロサイの信徒への手紙

  • テサロニケの信徒への手紙二

  • テモテへの手紙一

  • テモテへの手紙二

  • テトスへの手紙


2. 第2パウロ書簡の特徴

1. 語彙や文体、内容の相違
 第1テサロニケ書やロマ書といったパウロ真正書簡の語彙、文体、内容と似てはいるが、異なる点が複数指摘される。

2. パウロ以降の教会の教義や教会構造の反映
 教義内容や教会構造が、パウロの時代よりも後代のものであることが観察される。またその内容は、個々の教会の特別な事情に絡むものよりも、より一般化された内容に慣らされている。
3. 神学的特徴
 内容の神学的特徴としては、発展した教会論、再臨遅延に対する対応(2テサロニケなど)、宇宙論的な救済論(エフェソ、コロサイ)、パウロ的な義認論、ユダヤ人の救済論の後退が


3. 成立時期

  • 第2パウロ書簡はパウロ書簡を元に執筆されるので、パウロ書簡成立以降の成立も考えられるが、通常はパウロの死後からしばらく、早くて60年代後半以降、遅くて牧会書簡(1テモテ、2テモテ、テトス)の成立時期と推定される1世紀末とされる。



2026年1月1日木曜日

【小論】「マルコ福音書に対するルカ福音書による主な修正・改変」 英文つき"The Editorial Intent and Theological Reconfiguration of Markan Material in the Gospel of Luke"

ルカ福音書におけるマルコ福音書資料の編集意図と神学的再構築

ルカ福音書は、マルコ福音書を主軸の資料として用いながらも(参照、ルカ1:1–4)、その文体・構成・神学的表現に対して多様な編集を施している。本稿では、ルカによるマルコ改変の特徴を、文体的・物語的・神学的観点から整理し、その編集意図を「競合」や「否定的修正」ではなく、解釈的適用として位置づけることを目的とする。

 ルカによるマルコの改変は、以下に集約される。
1. 文体的・叙述的編集——簡潔化と明瞭化
2. 読者理解を妨げる要素の削除
3. イエス像の再構成——感情的表現の抑制と模範的・威厳ある像の強調
4. 弟子像・イエスの家族像の修正——教会共同体と読者への配慮

 以下、これらを順に解説する。

1. 文体的・叙述的編集——簡潔化と明瞭化の実例(一部)
 1.2. マルコ1:32–34 // ルカ4:40–41
 ルカは、マルコの冗長描写や詳細描写、繰り返しを削除し、叙述を簡潔化する傾向が顕著に認められる。

 1.3. マルコ5:41 // ルカ8:54 アラム語表現の削除
 マルコにとりわけ特徴的なアラム語の逐語引用が、ルカでは削除されている。この箇所では「起きなさい」のみに整理されている。これは、ギリシャ語読者には不要な異言語表現をカットする簡潔化と見なされる。ギリシャ語を使う読者向けにアラム語の再音表現は必要なし、とルカは判断したと思われる。他、後述の7:34「エッファタ」、15:34「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」なども削除されている。ただし、15:34は、イエス像の変更とも関係していて、複合的理由によるものである。

 1.4. マルコ6:30-44(五千人)、8:1-10(四千人) // ルカ9:10-17 二重記事の集約
 マルコは、五千人の供食(6:30–44)と四千人の供食(8:1–10)という二つの供食記事を伝えている。さらにマルコ8:19–20において、イエスが弟子たちを叱責する文脈の中で、この二度の供食を明示的に読み手に想起させており、供食記事の重複は偶発的ではなく、意図的に構成されたものであると判断される。これら二つの供食は、弟子たちの理解の鈍さを浮き彫りにするというマルコ固有の弟子批判のモティーフと密接に結びついた、不可欠な構成要素である。
これに対してルカは、五千人の供食記事(9:10–17)のみを採用し、四千人の供食記事を省略することによって、マルコにおける二重の供食伝承を一つの記事に集約している。それと同時に、マルコ8章に見られるような弟子批判の叙述も大幅に削減されており、ルカの編集方針が、叙述の簡潔化と弟子批判の相対的緩和に向けられていることが明らかとなる。

2. 読者理解を妨げる要素の削除
 2.1. マルコ7:33-34 呪術的所作の削除
ἔβαλεν τοὺς δακτύλους αὐτοῦ εἰς τὰ ὦτα αὐτοῦ, καὶ πτύσας ἥψατο τῆς γλώσσης αὐτοῦ·
「彼は彼の指を彼の耳に入れ、唾して彼の舌に触れた」
→マルコの奇跡物語における呪術的動作の記述を、ルカは削除。

2.2. マルコ7:3-4 ユダヤ的慣習の省略
そもそもルカは、ユダヤの慣習的色彩の濃いマルコ7:1以下を採用していないが、この箇所の手洗いの規定に関する説明的編集句(マルコ7:33-34)に言及していない。ルカの読者には不要との判断だろう。

3. イエス像の修正——感情的表現の抑制と模範的・威厳ある像の強調
 3.1. マルコ1:41 // ルカ5:12-16 激情的憐れみの感情の削除
καὶ σπλαγχνισθεὶς ἐκτείνας τὴν χεῖρα αὐτοῦ ἥψατο
「彼は深く憐んで彼の手を伸ばして触れた」
→καὶ ἐκτείνας τὴν χεῖρα ἥψατο「彼は手を伸ばして触れた」
 マルコにおける感情表現(深く憐む)が削除されている。

 3.2. マルコ3:5 // ルカ6:10 怒りの感情の削除
καὶ περιβλεψάμενος αὐτοὺς μετ’ ὀργῆς, συλλυπούμενος
「そこで彼は彼らを怒りをもって見回して」
→καὶ περιβλεψάμενος πάντας αὐτοὺς εἶπεν…
 「そこで彼は彼ら皆を見回して言った」

 3.3. マルコ14:33 // ルカ22:39-46 苦悩の感情の削除
καὶ ἤρξατο ἐκθαμβεῖσθαι καὶ ἀδημονεῖν.
「彼はひどく恐れて苦悩し始めて」
→イエスの苦悩の削除。代わりに、別伝承の「血の汗」と「天使」を付加。

 3.4. マルコ8:24-25 // 並行箇所なし 段階的治癒の削除
マルコにおける段階的な治癒を、ルカは記事ごと採用していない。イエスが一度では病を癒せなかったことが、読者の理解の妨げとなることを考慮した可能性がある。

 総じて、マルコにおける感情的で、驚き、怒り、恐れ、苦悩する人間的イエス像を、冷静沈着で威厳を持ち、動揺せずに感情を制御し、模範的な信徒像を提示する神的イエス像へと変更されている。

4 弟子像・イエスの家族像の修正——教会共同体と読者への配慮
 4.1. マルコ6:52 // ルカ9:45 弟子批判の緩和
οὐ γὰρ συνῆκαν ἐπὶ τοῖς ἄρτοις, ἀλλ’ ἦν αὐτῶν ἡ καρδία πεπωρωμένη
「彼らはパンについて理解せず、心が頑なになっていたから」
→οἱ δὲ ἠγνόουν τὸ ῥῆμα τοῦτο, καὶ ἦν παρακεκαλυμμένον ἀπ’ αὐτῶν ἵνα μὴ αἴσθωνται αὐτό…
「彼らはこの言葉が分からず、彼らから隠されていた、彼らが悟らないように」
 ルカはマルコの無理解の状況は保持しつつも、批判的な描写は避け、彼らの無理解を啓示の問題に変換している。

 4.2. マルコ8:17–21 // ルカ9:12–17 弟子批判の緩和
Τί διαλογίζεσθε, ὅτι ἄρτους οὐκ ἔχετε; οὔπω νοεῖτε οὐδὲ συνίετε; πεπωρωμένην ἔχετε τὴν καρδίαν ὑμῶν;
「なぜパンを持っていないことで議論するのか?まだ分からないのか、悟らないのか?なたがたの心が頑なになっているのか?」
→マルコにおける修辞疑問文の連続による叱責を、削除。
 ルカは教会形成期の読者のために、弟子の威信を損なう描写を弱めたと考えられる。

 4.3. マルコ3:21 // ルカ11:14-23
「気が変になった」→ルカでは不採用
 初代教会におけるイエスの家族の評価を下げ、読者を戸惑わせる可能性のある記述を、ルカは避けたと考えられる。

 総じて、ルカは本福音書第2巻である使徒言行録において、使徒たちやイエスの家族を教会の基礎として描くため、彼らを貶めるような批判的叙述を削除するか緩和していると見られる。

結論
 ルカ福音書は、マルコ福音書を資料としつつ、読者配慮と神学的意図に基づき、以下のような編集を加えている。
1. 物語的における叙述的配慮
 ・冗長な描写や繰り返しを削除し、要点を整理(例:病人の癒し、供食記事の集約)。
 ・アラム語表現の削除
 ・呪術的動作やユダヤ的慣習の描写を省略(例:唾を使った癒し、手洗い規定)。
 ・二重記事の整理

2. 神学的・教会共同体的配慮
 ・イエス像の再構成——感情表現の抑制
 ・弟子批判の緩和
 ・イエスの家族の否定的描写の削除

 以上のように、ルカの編集は、物語の明快化と神学的再構成を通じて、読者にとって受容しやすい福音像を提示している。よって、ルカ福音書のマルコ改変は「競合的」でも「否定的批判」でもなく、解釈的・教会論的配慮に基づく編集的修正と位置づけるのが妥当である。
ルカはマルコを、修正が必要な書とおそらくは見ているが(ルカ1:1-4)、基本的には信頼ある権威ある資料として前提し、その基本的枠組みを維持している。マルコを否定する独立的叙述を意図してはいない。また、マルコの神学や物語構成を大きな誤りとして、是正するような修正も、明示的な批判も行っていない。むしろ、マルコに固有の緊張感や弟子批判、人間的イエス像が、後代の読者共同体に混乱や躓きを与える可能性を考慮し、それらに限定して緩和・再配置する形で再提示している。
 したがって、ルカの編集は、マルコ伝承を否定する「批判的修正」ではなく、また上書き消去を目指す「競合」でもない。むしろそれは、同一伝承を異なる読者層と神学的関心に即して再解釈する、協同的かつ解釈的継承として

2025年12月17日水曜日

コラム 1世紀のユダヤにおける偽メシアの一覧ーーメシア僭称者たち

コラム 1世紀のユダヤにおける偽メシアの一覧ーーメシア僭称者たち。


 イエス時代の1世紀のユダヤにおいて、自らをユダヤにおいて到来が待ち望まれていたところのメシアと僭称した偽メシア(ψευδόχριστοι、偽キリスト)」は、マタイ福音書24:5, 11, 24においても言及されている。同時代のユダヤ人歴史家ヨセフスに基づき、代表的な偽メシアたちを以下に列挙する。


1. テウダ(Θευδᾶς)

参照、使徒言行録 5:36「以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。」

  • ガマリエルの演説において言及されている、自分をメシア的人物と自称したカリスマ的指導者。
  • ヨセフス『ユダヤ古代誌』20.97–99 に見られるテウダスとは年代に相違し、同名の別人、あるいは資料上の錯綜の可能性がある。

「さて、フェストゥスがユダヤの総督であった間に、ある詐欺師が現れ、自分は預言者であると称し、民衆に対して、「私に従ってヨルダン川へ行けば、神の言葉によって川が分かれ、容易に渡ることができるようになる」と約束した。多くの人々が彼の言葉に惑わされ、彼に従った。

 

2.  エジプト人(ὁ Αἰγύπτιος)

  • 使徒言行録 21:38「それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか」
  • エルサレムで蜂起し、群衆を荒野へと導いた、テウダス同様のモーセ型偽メシア運動首謀者。
  • 『ユダヤ古代誌』20.97–99

3. テウダス(Θευδᾶς)

  • ヨセフス『ユダヤ古代誌』20.97-99

20.97 フェストゥスがユダヤの総督であった時代に、一人の詐欺師が現れ、自分は預言者であると名乗り、人々に向かってこう語った。「私に従ってヨルダン川へ行けば、神の言葉によって川は分かれ、あなたがたは容易に渡ることができるようになる」と。多くの人々が彼の言葉に惑わされ、彼に従った。20.98 しかしフェストゥスは、このような行動が反乱に発展するのを防ぐため、騎兵部隊を派遣した。その結果、多くの者が殺され、また多くが捕らえられた。その詐欺師自身も捕らえられ、首を斬られ、その首はエルサレムへ運ばれた。20.99 このように、人々を惑わし、神の力を自分自身の業であるかのように装う者たちは、民衆の無知と愚かさにつけ込み、彼らをしばしば破滅へと導いたのである。

  • モーセ再来・再現型の偽メシア。捕縛後に処刑され、その首はエルサレムへ運ばれた。


4. 無名の偽メシア扇動者的な預言者たち

  • 『ユダヤ戦記』2.259–263

2.259 さて、この時代には、民衆を扇動して騒乱へと導く者たちが数多く現れた。彼らは、神の霊感を受けているかのように装い、荒野へ出るよう人々に勧め、そこで神が彼らに救済のしるしを示してくださると約束した。2.260 しかしこれらの者たちは、真理を語る者ではなく、民衆の心を惑わし、彼らを破滅へと導く詐欺師であった。多くの人々が彼らに従い、正気を失ったかのように振る舞った。2.261 総督フェリクスは、これらの集団行動が反乱へと発展することを恐れ、騎兵部隊と歩兵部隊を派遣した。その結果、多くの者が殺され、また多くが捕らえられた。2.262 中でも、エジプト人と呼ばれる者は、 自分は預言者であると称し、三万人もの人々を引き連れて荒野からオリーブ山へと登った。2.263 彼は、そこからエルサレムへ侵入し、ローマ軍を打ち倒し、自らが民衆の支配者となることを目論んでいた。しかしフェリクスはこれを未然に察知し、軍をもって迎え撃ち、多くを殺し、また捕らえた。その首謀者は逃亡したが、二度と姿を現すことはなかった。

  • 『ユダヤ古代誌』20.167–168

20.167 フェリクスの統治下においても、詐欺師や偽預言者たちが次々と現れ、民衆を扇動して荒野へと導いた。彼らは、神がそこで自由のしるしを示してくださると告げ、人々に彼らを救済者であるかのように信じ込ませた。20.168 しかしフェリクスは、これらの動きが反乱に結びつくことを恐れ、軍を派遣して彼らを討ち、多くの者を殺し、また捕らえた。このようにして、民衆を惑わす者たちは、自らの虚偽によって滅びを招いたのである。


5. メナヘム(メシア的王の僭称者)

  • 『ユダヤ戦記』2.433–448

2.433–434

そのころ、ガリラヤのユダの子であるメナヘムという者がいた。
彼は仲間を率いてマサダ要塞を奇襲し、そこに保管されていた武器を奪取した。
そしてその武器を配下の者たちに分け与え、彼らの指導者となった。

2.435–437

メナヘムは武装した一団を引き連れてエルサレムに入城した。
彼は次第に王であるかのように振る舞い、尊大な態度を取り始め、
人々に対しても、他の反乱指導者たちに対しても、専制的に命令するようになった。

2.438–440

その傲慢な振る舞いのために、彼は多くの反感を買った。
とりわけ、神殿を掌握していたエレアザル一派との間に深刻な対立が生じ、
反乱勢力の内部で主導権を巡る争いが激化した。

2.441–445

やがて神殿での混乱の中で、メナヘムは捕らえられた。
彼は人々の前で引きずり回され、
王のように装っていた衣装を剥ぎ取られ、激しい辱めを受けた。

2.446–448

その後、メナヘムは拷問を加えられた末に殺害された。
こうして、王を僭称した者の支配は、完全に終わりを告げた。
彼の仲間たちも散り散りになり、その勢力は瓦解した。

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