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2025年12月10日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 【目次】

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ福音書

22:15-22

22:23-33

22:34-40

22:41-46「ダビデの子についての問答」

23:1-12「律法学者とファリサイ派の人々を批判する」

23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)

23:13-36(④23:23-24)

23:13-36(⑤23:25-26)

23:13-36(⑥23:27-28)

マタイ23:13-36(⑦マタイ23:29–36)

マタイ23:37-39「エルサレムのために嘆く」

マタイ24:1-2「神殿の崩壊を予告する」

28:1-10「復活する」


マルコ福音書

3:20-30

3:31-35

4:1-9

4:10-12「例えで語る理由」

4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」

4:21-25「『ともし火』と『秤り』の例え」

4:26-29「『成長する種』の例え」

4:30-32「『からし種』の例え」


ヨハネ福音書

15:26-27


ペトロの手紙二

1:16–21「キリストの栄光、預言の言葉」


説教や聖書注解をする人のための聖書注解 ペトロの手紙二 1:16–21節「キリストの栄光、預言の言葉」

説教や聖書注解をする人のための聖書注解 

ペトロの手紙二 1:16–21「キリストの栄光、預言の言葉」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ24:1-2「神殿の崩壊を予告する」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ24:1-2「神殿の崩壊を予告する」

2025年12月5日金曜日

2025年12月3日水曜日

2025年11月29日土曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:26–29 「『成長する種』の例え」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:26–29 「『成長する種』の例え」

概要

 4:1以降、「蒔かれた種」の例えに始まり、「例えで話す理由」「『蒔かれた種』の解説」と続き、その後に「秤の例え」「ともし火の例え」が記されている。本箇所は、その流れを受けて、新たに「神の国」を主題とする例え話が展開されていく。


注解

26–27節

新共同訳

「26 また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。』」

原文

26 Καὶ ἔλεγεν· Οὕτως ἐστὶν ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ ὡς ἄνθρωπος βάλλῃ τὸν σπόρον ἐπὶ τῆς γῆς,
27 καὶ καθεύδῃ καὶ ἐγείρηται νύκτα καὶ ἡμέραν, καὶ ὁ σπόρος βλαστᾷ καὶ μηκύνηται, ὡς οὐκ οἶδεν αὐτός.

解説

  • 「また、イエスは言われた」:蒔かれた種の例え、直前のともし火と秤の例えに続く、一連の流れであることを示している。
  • 「神の国は次のようなものである」:ここで、これが「神の国」の例えであることが最初に宣言される。神の国の例えは、次の記事(4:30–32)でも展開されている。
  • 「人が土に種を蒔いて」:土に種を蒔く行為は、先の「蒔かれた種の例え」と同じ設定である。ただし、この例えでは成長を阻害する要素は登場せず、専ら、種が自然に成長する側面に焦点が置かれている。
  • 「夜昼、寝起きしているうちに(καθεύδῃ καὶ ἐγείρηται νύκτα καὶ ἡμέραν)」:日常生活における反復行動を示す、ヘブライ語的な語法。また、「日常生活の反復」という点で、人がほとんど意識しない間に、種が人知れず成長している側面が暗示されているといえよう。

 すなわち、種を蒔いた人間側の介入なしに、種が自力で芽を出し、勝手に成長していくことが強調されている。人の関与は種蒔きまでであり、その後の種の自発的な成長──すなわち人知れず進む「神の国」の成長・進展・進行──こそが本箇所の主題である。それゆえ、「蒔かれた種」の例えのように受け取り側の問題ではなく、神の働きの神秘がここでは強調されている。

  • 「(どうしてそうなるのか、)その人は知らない(οὐκ οἶδεν αὐτός)」:神の国が陰で進展していくことは、人の理解を超えているということ。


28節

新共同訳

「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」

原文

αὐτομάτη ἡ γῆ καρποφορεῖ, πρῶτον χόρτον, εἶτα στάχυν, εἶτα πλήρη σῖτον ἐν τῷ στάχυϊ.

解説

 神の国の自律的な成長について、植物の豊かな表現とともに語られている。核心となる語は「ひとりでに」(αὐτομάτη)である。植物の自律的な成長に例えられてはいるが、その本質は、神が成長を実現するということであり、別の言葉でいえば、人の手を介さずに行われる神の主権的な働きである。

  • 「まず茎、次に穂、そしてその穂(πρῶτον χόρτον, εἶτα στάχυν, εἶτα ... ἐν τῷ στάχυϊ)」:<茎 → 穂 → 実>という段階的な成長を示す。終末の実現のように瞬時に成し遂げられる場合もある一方で、神の国は一足飛びではなく、段階を経て進展する。そこには、「待つことが大事」というニュアンスが織り込まれているかもしれない。


29節

新共同訳

「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

原文

ὅταν δὲ παραδῷ ὁ καρπός, εὐθὺς ἀποστέλλει τὸ δρέπανον, ὅτι παρέστηκεν ὁ θερισμός.

解説

「早速、鎌を入れる(εὐθὺς ἀποστέλλει τὸ δρέπανον)」:新共同訳の「早速」は、マルコが好んで使用する「すぐに」(εὐθύς)に対応する語である。マルコ福音書では、事態が待ったなしに進行するため、人が即時の決断を迫られることがしばしば示されている。

  • 「収穫の時が来た(παρέστηκεν ὁ θερισμός)」:「収穫」(ὁ θερισμός)は、旧約および黙示文学において、しばしば神の審判を象徴する。

 ここまでの文脈は「神の国の成長」であるが、本節では、神による収穫、すなわち神の審判、あるいは救済の到来、神の支配の完成といった側面が暗示されている。

  • 「鎌を入れる(ἀποστέλλει τὸ δρέπανον)」:直訳では「鎌を送る/派遣する/差し向ける」。実現の時は「待ったなし」であるという緊張感がこもった表現である。


説教の結びの言葉として

 今日の「成長する種」のたとえは、私たちに二つの大切な真理を示しています。

 一つは、神の国の成長は人の理解や努力を超えて進むということです。人は種を蒔くことはできますが、その後の芽吹きや成長そのものは、人の手によるものではありません。神の国も同じように、人知れず、しかし確実に、神の御業によって進展していきます。私たちが見えないところで神は働いておられるのです。それゆえ、私たちには「待つこと」が求められます。成長や進展が見えなくても、背後に神の働きがあることを信じ、信仰的な忍耐が必要です。

 もう一つは、神の国の成長には段階があるということです。茎が出て、穂ができ、やがて実が熟すように、神の国も一足飛びではなく、時を経て完成へと向かいます。私たちはその過程を待ち望み、やはり先と同様に、忍耐をもって歩むよう招かれています。

 そして最後に、収穫の時は必ず来るということです。神の国の完成、すなわち神の裁きと救いの時は、突然に、しかし確実に訪れます。その時、神は「すぐに」鎌を入れられるのです。だからこそ、私たちは今の時を大切にし、神の国のために備え、信仰をもって歩むことが求められています。

2025年11月26日水曜日

説教や聖書注解をする人ための聖書注解 マタイ23:13-36(⑦マタイ23:29–36)

説教や聖書注解をする人ための聖書注解

マタイ23:13-36(⑦マタイ23:29–36)

概要

 7個の災いの宣告の7番目。

2025年11月22日土曜日

【新約聖書学関連】

論文

「パウロの全体教会政治学」(2024年)


『信徒の友』2018年4月号-2019年3月号所収

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」全12回

第1回 「イエスの復活」

第2回「イエスの洗礼」

第3回「嵐の中での弟子たち」

第4回「五千人の供食」

第5回「ヤイロの娘とイエスの服に触れた女性」

第6回「エルサレム入城」


事典項目

第2パウロ書簡

史的イエス研究史        

マタイ福音書緒論        マタイ福音書神学           

イスカリオテのユダとは何者か(大学講義レジュメ)

【キリスト教解説】『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)とその悲惨な末路 ーイエスはイスカリオテのユダの裏切りを評価した?

猫にもわかる「マタイ福音書」入門


『教会学校教案』の元原稿の改訂版

創世記 37章1-11節 「ヨセフ1」(2013年7月7日)
創世記 42-45章 「ヨセフ3」(2013年7月21日)
ルツ記 「ルツ」(2013年9月22日)


ガラテヤの信徒への手紙        

ヘロデ派    マグダラのマリア    

エルンスト・ケーゼマン        ゲツセマネ(ゲッセマネ)        ゴルゴタ       

サドカイ派    サマリア人        


「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第7回「イエスに香油を注いだ女性」

 『信徒の友』2018年10月号所収、「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第7回「イエスに香油を注いだ女性」

タイトル:イエスに香油を注いだ女性

聖句:「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12:3)

絵画のデータ:シャンパーニュ「ファリサイ派シモンの家でのキリスト」、1656年頃、musée des beaux arts de nantes。


 序

 今回のエピソードは、ある一人の女性がイエスに香油を注ぎかけた出来事です。この物語は、マタイ26・6-13、マルコ14:3-9、ヨハネ12・1-8において記されています。また、ルカ7・36-50には、女性がイエスに香油を注ぐという点で共通するこのエピソードによく似た記事が見られますが、場面設定や物語の背後に秘められたメッセージ等、相違点も多く認められ、マタイやマルコの記事とは別物として扱われることが多いです。ルカについては後ほどまとめて触れるとして、まずはマタイ、マルコ、ヨハネそれぞれの記述を追っていきましょう。


 場面設定の違い

 マタイ、マルコ、ヨハネは、このエピソードの場所をエルサレムにほど近い「ベタニア」としている点で一致しています。このことから、この逸話は「ベタニアでの香油注ぎ」というように呼び習わされています。ただし、マタイとマルコは香油注ぎの舞台となった家を「重い皮膚病の人シモンの家」(マタイ26・6、マルコ14・3-9)とし、この出来事が生じたタイミングをエルサレム入城以後の受難が間近い頃としている一方で、ヨハネは「イエスが死者の中からよみがえらせたラザロ」とその姉妹であるマリアとマルタが住んでいた村という説明を加え、その時期を「過越祭の六日前」と設定しています(ヨハネ12・1)。ヨハネではエルサレム入城はヨハネ12・12-19に書かれていますから、マタイ、マルコと相違してこの出来事はエルサレム入城“以前”ということになります。さらに、マタイとマルコは香油を注いだ女性のことを「一人の女」と呼んでいますが、ヨハネでは上記の「マリア」と明記しています。

 読者の多くの方々は、今回のエピソードについて「女性がイエスに香油を注いだあの物語・・・」といったように記憶されているでしょう。ところが実は、福音書をそれぞれ見比べてみると、場面設定だけでもこんなにも違うのです。なぜこのようなことが起きるのでしょうか。簡単に言えば、福音書に記されている物語の背後に“伝承”と呼ばれるものがあって、それが異なった場所や時代において流布していく過程で、様々に変化を遂げていったためでしょう。このことを踏まえて、物語の先を読んでいきましょう。

 

 慕情、香り立つ

 イエスが家の中にいると(マルコとヨハネは「食事の席に着いて」いた時としています)、かの女性が「高価」な「香油」を携えて近づいてきました。マルコとヨハネはこの香油について、「純粋」「ナルドの香油」と説明しています(マルコ14・3、ヨハネ12・3)。「ナルド」はインド産の植物で、その根茎からは香料が採取され当時の世界で珍重された他、富裕なユダヤ人女性も愛用したことで知られています。彼女はイエスに香油を捧げるのですが、福音書ごとに香油を注いだ(塗った)箇所が異なります。マタイとマルコは「イエスの頭に(香油を)注ぎかけた」と記している一方、ヨハネは「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12・3)と書いています。頭に香油を注ぐシーンは、後述の受難死の暗示だけではなく、古代のイスラエルにおける王の任職式の際の油注ぎをも想起させます。“王の王”という暗示的なメッセージと、受難死という対極的な主題との間に、激烈なコントラストが秘められています。他方、足に香油を塗って自分の髪で拭う場面は、足の塵を払う仕事は奴隷でさえも負わなかったという慣習と合わせて考えると、謙遜の極みの姿勢を意味すると同時に、“謙遜”や“親愛”といった単体の言葉では表現できない、愛も悲しみも何もかも入り混じったような複雑で劇的な叙情性をもたらしています。特に、「家は香油の香りでいっぱいになった」という言葉ほど芳しい(かぐわしい)香り立つ表現は、世界中どこを探しても見つけることはできないでしょう。


 ところが、そんな激しいまでの情愛と思慕の世界を粉々に打ち砕く展開が続きます。マタイでは「弟子たち」、マルコでは「そこにいた人の何人か」、ヨハネでは「イスカリオテのユダ」が、「なぜ、こんな無駄使いをするのか」と難癖をつけます。マルコとヨハネで述べられている彼(彼ら)の言葉は正論です。「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マルコ14・5、マタイはこれを要約し「売って、貧しい人々に施すことができたのに」)。上述の通り、ヨハネにおいてこの言葉はイスカリオテのユダによって発せられており、彼の魂胆もまた詳らかにされています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(12・6)。

 イエスは、こうした批判から彼女をかばいます。「なぜこの人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(マタイ26・11、マルコ14・6)。そして、マタイ、マルコ、ヨハネは一致して、彼女の香油注ぎを、埋葬時に遺体に塗油する習慣と自身の受難死の予告とに巧みに結び合せています。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」(マタイ26・12)。


 ルカにおける「罪深い女」

 マルコ福音書を参考にして自分の福音書を書いたと考えられているルカは、本来ならルカ22章2節と3節の間に配置されるはずの香油注ぎの記事を採用していません。その代わりに彼は、これと似ている別の記事を、イエスのガリラヤでの活動期に相当する7章に置いています。その記事は、女性がイエスに香油を塗り、居合わせた人が不満を抱くという点では香油注ぎと共通しているものの、場所もタイミングもまるで違う物語となっています(場所は「ファリサイ派の人」の「家」、時期はガリラヤでの宣教活動時代というエルサレム入城より遙か以前)。

 マタイ、マルコ、ヨハネでは、受難を目前にしたタイミングということも相まって、受難死の予兆としての色彩が強い一方で、ルカではこれら三書にはない“愛と赦しの相関関係”という主題が展開されています(ルカ7・47「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」)。また、彼女は「罪深い女」(娼婦を意味するのでしょう)と表記され、ヨハネと同様にイエスの頭ではなく足に塗油して、自らの髪の毛で拭っています。そうして、“多く赦された者は、より深く主を愛する”というテーマが鮮烈に示されています。

 後代、この「罪深い女」は、ルカ8・2の「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と同一視されるようになりました。実際のところ、「罪深い女」がマグダラのマリアである根拠は何もありません。しかし、いつしかそのような見方が定着し、マグダラのマリアは長い髪を持つ美しい女性というイメージが形成され、やがて荒れ野の女性修道士その他の伝説とも結合して、最終的には、本誌4月号の特集で紹介されたようなマグダラのマリアをモティーフとした多くの絵画が生み出されていったのです。


 今回の一枚


 今回ご紹介する絵画は、17世紀のフランス古典主義時代における画家シャンパーニュが描いた「ファリサイ派シモンの家でのキリスト」です。4月号で紹介した「エマオの食事」以来、シャンパーニュは2回目となります。彼はエレガントで艶っぽい人物表現を得意とし、マグダラのマリアやヨハネ福音書4章の“サマリアの女性”も描いており、この絵でもその才能が遺憾なく発揮されています。イエスとシモンが向き合う構図と明瞭な色彩、そして、それを際立たせるボンヤリとした後景の人物描写が巧みです。

 「エマオの食事」の絵画中には猫が書き込まれていたのですが、こちらの絵では猫ばかりか犬も登場しています。一般的な解釈として、犬は忠実の証で、猫は疑念の象徴です。よって、すがりつく犬はイエスに対する信頼を表し、物陰から顔を覗かせる猫は、愛の欠如と不満の思いを象徴すると解釈されます。ただ、個人的な印象としては、彼自身は犬や猫を素朴に愛していて、こうした象徴論は犬や猫を自分の絵画に描き込むための口実に近く、遊び心の表れのように感じます。他人の真摯な言動に腹を立てぬよう、遊び心を大切にしたいものです。

2025年11月21日金曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ 4:21–25 「『ともし火』と『秤』の例え」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ 4:21–25 「『ともし火』と『秤』の例え」

■ 概要

 文脈としては、4:1–20「種蒔く人」の例え話の続きであり、「聞く者」「理解する者」について強調された直後。この箇所では、神の国の秘儀は隠されるべきものではなく、明らかにされるためにあるという主題が提示される。

2025年11月18日火曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:13–36 ⑥ 23:27–28

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36 ⑥ 23:27–28

概要

全7個の「あなたがたは不幸だ」(Οὐαὶ ὑμῖν)宣言の6個目である。


27節

新共同訳

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。

原文

Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι παρομοιάζετε τάφοις κεκονιαμένοις, οἵτινες ἔξωθεν μὲν φαίνονται ὡραῖοι, ἔσωθεν δὲ μεστοί εἰσιν ὀστέων νεκρῶν καὶ πάσης ἀκαθαρσίας.

注解

「白く塗った墓(τάφοις κεκονιαμένοις)」:葬りの時期(アダルの月の15日)に墓跡を石灰で白く塗る習慣があった。これは、巡礼者が墓に触れて穢れを受けることを避けるためである。「白く塗る」という意味の κονιάω という動詞が用いられている。

  • 「似ている(παρομοιάζω)」:原語は「〜に例えられる」とも訳される。
  • 「死者の骨(ὀστέων νεκρῶν)」:最高度の不浄の象徴である。

 穢れた墓を白く塗って外観を美しく整える様をもって、ファリサイ派が内面の醜さを隠し、外面のみを装う滑稽さが痛烈に皮肉られている。


28節

新共同訳

このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

原文

οὕτως καὶ ὑμεῖς, ἔξωθεν μὲν φαίνεσθε τοῖς ἀνθρώποις δίκαιοι, ἔσωθεν δὲ ἐστε μεστοὶ ὑποκρίσεως καὶ ἀνομίας.

注解

  • 「このようにあなたたちも」:ここで改めて、白く塗った墓の譬えが彼ら自身に適用される。
  • 「正しい(δίκαιοι)」:原語は「義なる人々」「義人」の意。義人として他者には見える彼らの本質が、白い墓の喩えをもって暴かれている。
  • 「不法」(ἀνομίας):律法・法を意味する νόμος に否定辞が付いた語。したがって「非律法的」と取ると、律法を教える教師たちに対するラディカルな否定となる。

 ファリサイ派や律法学者すべてが偽善的であったわけではない。しかし、イエスに批判的・敵対的であった彼らの多くが、外側だけの美しさを保ちながら、内面を顧みることなく細部や外面ばかりに注力していた。その皮肉な様が、白く塗られた墓という強烈なイメージをもって示されている。明示されてはいないが、この皮肉・滑稽さを決定的にしている要素は、彼ら自身がそのことを自覚していない点にある。


礼拝説教の結びの言葉として

 今日の箇所で語られている主イエスの言葉は、単なる過去の宗教指導者への批判ではありません。白く塗られた墓の譬えは、私たち自身の心を映す鏡でもあります。外側を整え、正しく見せることは容易ですが、主なる神が見ておられるのは、その内側です。そこに偽善や不法が満ちているなら、いえ、それらが私たちの内面にあるのは必然であるとしても、その事実に自分が気づいていないのならば、どれほど外見を飾っても意味はありませんし、滑稽でしかありません。

 イエスは私たちに、外側の美しさではなく、内側の真実を求めておられます。その真実さ、あるいは誠実さとは、自分のありのままの姿を自覚し、それでも神が愛してくださることを感謝する思いに他なりません。それこそが、真の「正しさ」、すなわち「義」を生み出します。律法を教える者であっても、信仰を語る者であっても、まず自らの内を主に照らしていただくことが必要です。

 ですから、この御言葉は私たちに問いかけます。私たちは人の目にどう見えるかを気にして歩んでいないでしょうか。主の前に正しくあることを第一とし、心の奥にまで福音を染み込ませているでしょうか。

 白く塗られた墓ではなく、内も外も主にあって清められた器として歩む者となりましょう。偽善ではなく誠実を、不法ではなく神の義を、外側の飾りではなく内側の真実を求めるとき、私たちは主に喜ばれる生き方をすることができます。

 旧約聖書には、「人は外の姿を見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)という言葉あります。そのように、私たちの日々の営みを主の光に照らしていただきつつ、真実な信仰者として生きる者となりましょう。

2025年11月17日月曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解  マタイ23:13–36 ⑤ 23:25–26

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36 ⑤ 23:25–26


 25節

新共同訳
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。

原文
Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι καθαρίζετε τὸ ἔξωθεν τοῦ ποτηρίου καὶ τῆς παροψίδος, ἔσωθεν δὲ γέμουσιν ἁρπαγῆς καὶ ἀκρασίας.

7つの災いの宣言の5個目。律法学者とファリサイ派における、外側の取り繕いと内側の腐敗のギャップが非難されている。

「杯(ποτήριον)や皿(παροψίς)」:いずれも食卓に置かれるもの。これまでの例えと同様、日常生活から例えが引き出されている。外側が念入りに洗われていても、内側に汚れが残っているというのは滑稽である。そのように、外側は宗教的、あるいは信仰的で綺麗な装いがなされていても、自分自身の人間としての内側が汚れていることに注意を払わない彼らが、皮肉的に批判されている。

「強欲と放縦(ἁρπαγή, ἀκρασία)」:ἁρπαγήは、七十人訳聖書の箴言5:14、ミカ2:2において「略奪」「強奪」を意味する。ἀκρασίαは、語としては節制の欠如を表す。神の前において外面ではなく内面が問われるという、マタイ神学と一致している。


 26節

新共同訳
ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

原文
Φαρισαῖε τυφλέ, καθάρισον πρῶτον τὸ ἐντὸς τοῦ ποτηρίου, ἵνα γένηται καὶ τὸ ἔξωθεν αὐτοῦ καθαρόν.

「ものの見えないファリサイ派の人々(Φαρισαῖε τυφλέ)」:これまでと同様、瑣末なことに宗教的注意を注いでいても、肝心なことには無頓着である態度を示す。

「まず……内側をきれいにせよ」: 「まず(πρῶτον)」は最優先事項を意味する。同様の用例として、マタイ6:33(「まず神の国と神の義を求めなさい」)が挙げられる。

「外側もきれいになる」:「外側」とはこれまでの流れでは、彼らの細かなことに至るまでの律法遵守を指す。「外側」が否定されているわけではないことに注意したい。これらも必要ではあるが、最重要事項が空洞化していては意味がない、というスタンスである。


 説教の結びの言葉として

 主イエスは律法学者やファリサイ派の人々に向かって、外側ばかりを飾り立て、内側の汚れに目を向けない姿勢を戒められました。杯や皿の外側を洗っても、私たちの内側が強欲と放縦に満ちているなら、それは神の前にあって何の意味もありません。それこそ主がおっしゃっているように、「災い」であります。

 私たちもまた、信仰生活の中で「外側」を整えることに心を奪われがちです。礼拝に出席し、祈りを口にし、奉仕に携わることは大切です。しかし、もし心の内側に自己中心や欲望が支配しているなら——というよりも、自分がそんな状態にあることにすら気づいていないなら——外側の美しさというものは、滑稽なほどに虚しいものとなります。

 イエスは「まず、杯の内側をきれいにせよ」と命じられました。これは、私たちの心を神の前に差し出し、悔い改めと赦しを受けることを最優先にせよという、神の招きです。内側が清められるとき、外側の行いも自然に整えられ、真実な信仰の姿が現れていきます。

 ですから今日、私たちは自分の心の内側に目を向けたいと思います。神の光に照らされ、自らの隠れた面を見つめ直し、キリストの十字架の赦しにあずかりましょう。そのとき、私たちの外側もまた、神の栄光を映し出す器とされます。

2025年11月16日日曜日

第2パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistles)

第2パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistles)

1. 第2パウロ書簡の定義

 第2パウロ書簡とは、パウロ自身が執筆したと判断されている、いわゆる「真正パウロ書簡」とは異なり、パウロの弟子や後継者、あるいはパウロ系の共同体が、パウロの思想を継承しつつ、パウロ書簡を模倣する形で執筆した書簡群を指す学術用語である。

 一般的には、以下の6書が第2パウロ書簡とされる。

  • エフェソの信徒への手紙

  • コロサイの信徒への手紙

  • テサロニケの信徒への手紙二

  • テモテへの手紙一

  • テモテへの手紙二

  • テトスへの手紙


2. 第2パウロ書簡の特徴

1. 語彙や文体、内容の相違
 第1テサロニケ書やロマ書といったパウロ真正書簡の語彙、文体、内容と似てはいるが、異なる点が複数指摘される。

2. パウロ以降の教会の教義や教会構造の反映
 教義内容や教会構造が、パウロの時代よりも後代のものであることが観察される。またその内容は、個々の教会の特別な事情に絡むものよりも、より一般化された内容に慣らされている。
3. 神学的特徴
 内容の神学的特徴としては、発展した教会論、再臨遅延に対する対応(2テサロニケなど)、宇宙論的な救済論(エフェソ、コロサイ)、パウロ的な義認論、ユダヤ人の救済論の後退が


3. 成立時期

  • 第2パウロ書簡はパウロ書簡を元に執筆されるので、パウロ書簡成立以降の成立も考えられるが、通常はパウロの死後からしばらく、早くて60年代後半以降、遅くて牧会書簡(1テモテ、2テモテ、テトス)の成立時期と推定される1世紀末とされる。



説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」


概要

4:1-9の「蒔かれた種の例え」の直後、4:10で「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた」とあった。4:11-12では例え話論が挟み込まれているが、展開としては4:10に直接続くようにして本箇所が展開されている。ここでは、弟子たちの質問に答えるようにして、先の例えの解説が為されていく。

注解

13節

新共同訳 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」
原文 καὶ λέγει αὐτοῖς· Οὐκ οἴδατε τὴν παραβολὴν ταύτην; καὶ πῶς πάσας τὰς παραβολὰς γνώσεσθε;
 理解が及ばない「十二人」に対する叱責の言葉となっている。マルコのいわゆる「弟子の無理解」のモティーフが鮮明な箇所。
  • 「このたとえが分からないのか(Οὐκ οἴδατε...)」:「十二人」は群衆以上に教えまたは啓示を受けられる立場にありながら、理解(γινώσκω「知る」)できないことが叱責されている。否定疑問文によってそれが強調されている。弟子の無理解のモティーフは、彼らを貶めたり、その権威を否定することが目的の批判というよりも、権威を持つ持たないではなく、誰であれ理解していく弟子こそ真の弟子として相応しいということを主張するもの。マルコ福音書の読み手が彼らの役を担っていくように、という意図が込められているのではないか。
  • 「どうして……理解できるだろうか」:未来形の疑問文が使われている。未来における可能性が問われている。

14–15節

新共同訳 14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
原文 14 ὁ σπείρων τὸν λόγον σπείρει.
15 οὗτοι δέ εἰσιν οἱ παρὰ τὴν ὁδὸν ὅπου σπείρεται ὁ λόγος· καὶ ὅταν ἀκούσωσιν, εὐθὺς ἔρχεται ὁ Σατανᾶς καὶ αἴρει τὸν λόγον τὸν ἐσπαρμένον εἰς αὐτούς.
 蒔かれた種の例えの解説が、本節より開始されている。
  • 「種を蒔く人(ὁ σπείρων)」:「神の言葉を蒔く」、すなわち神の言葉を宣べ伝える弟子たち、宣教者、信徒たちを指す。現在分詞が使われていて、”今も蒔き続けている”というニュアンスを持つ。
  • 「言葉(ὁ λόγος)」:新共同訳では「神の言葉」とあるが、原文では冠詞付きの「言葉」のみ。イエスの言葉、教え、神の国、啓示、福音、これらを総合的に指す。
  • 「サタン(ὁ Σατανᾶς)」:マルコでは「イエスの誘惑」の1:13 他、3:23, 26、またイエスによるペトロ叱責の言葉(8:33)で見られる。人を神から引き離す超自然的な霊的存在。ここでは人々を聴従から引き離す原因としてサタンが挙げられているが、15節以降が示しているように、総じて人々の心掛けが焦点とされている。
  • 「道端のもの(οἱ παρὰ τὴν ὁδόν「道の傍にいる者たち」)」:固く踏み締められた道が種を弾く、すなわち神の言葉を柔らかい土のように受け止めることができない態度を意味する。たとえ聞いたとしても、聞き入れるわけではないということ。
  • 「すぐに(εὐθύς)」:マルコが好む語。事態は急速に変化するゆえに、信仰者は決断も「すぐに」せねばならない。

16–17節

新共同訳 16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
原文 καὶ οὗτοι ὁμοίως εἰσιν οἱ ἐπὶ τὰ πετρώδη σπειρόμενοι, οἳ ὅταν ἀκούσωσιν τὸν λόγον, εὐθὺς μετὰ χαρᾶς λαμβάνουσιν αὐτόν·
καὶ οὐκ ἔχουσιν ῥίζαν ἐν ἑαυτοῖς ἀλλὰ πρόσκαιροί εἰσιν, εἶτα γενομένης θλίψεως ἢ διωγμοῦ διὰ τὸν λόγον, εὐθὺς σκανδαλίζονται.
 艱難や迫害、つまり試練に対する耐性がなく、挫折するタイプについて述べられている。
  • 「石だらけの所に(ἐπὶ τὰ πετρώδη)」:岩地の上に土層が薄く載っただけの場所。一時的な感情の高まり(「すぐに喜んで(εὐθὺς μετὰ χαρᾶς)」)で「御言葉」を受け入れるものの、それはあくまで一時的で「根(ῥίζα)」を持つものではないために成長せず、「つまずいてしまう」(σκανδαλίζω)事例を表す。
  • 「しばらく(πρόσκαιροί)」:一時的という意味。πρός(前置詞「〜へ、〜に対して」)+ καιρός(時、好機)という語の構造から言えば、「その時へ」、すなわちその時だけの一時しのぎのような意味合い。
  • 「艱難や迫害が起こると(γενομένης θλίψεως ἢ διωγμοῦ διὰ τὸν)」:属格絶対構文で、状況的な条件を表す。
  • 「つまずいてしまう」:語源は、人を罠にかけて転ばせる棒。この語はマルコで8回使用されている(4:17; 6:3; 9:42, 43, 45, 47; 14:27, 29)。いずれも信仰の営みが頓挫する事態を意味する。マルコ福音書の執筆時、マルコの教会が経験していた迫害と、信仰からの離反を背景としている可能性が高い。

18–19節

新共同訳 18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
原文 18 καὶ ἄλλοι εἰσιν οἱ εἰς τὰς ἀκάνθας σπειρόμενοι· οὗτοί εἰσιν οἱ τὸν λόγον ἀκούσαντες,
19 καὶ αἱ μέριμναι τοῦ αἰῶνος καὶ ἡ ἀπάτη τοῦ πλούτου καὶ αἱ περὶ τὰ λοιπὰ ἐπιθυμίαι εἰσπορευόμεναι συνπνίγουσιν τὸν λόγον, καὶ ἄκαρπος γίνεται.
  • 「茨(ἀκάνθη)」:「この世の思い煩い(αἱ μέριμναι τοῦ αἰῶνος)」「富の誘惑(ἡ ἀπάτη τοῦ πλούτου)」「その他いろいろな欲望」(αἱ ἐπιθυμίαι)を指すと述べられている。
  • 「御言葉を覆いふさいで(συνπνίγουσιν)」:原語は「窒息死する」という意味合いを持つ。その人の信仰者としての成長を阻み、また生活というライフばかりか、命という意味でのライフをも死に至らせるという主旨。

20節

新共同訳 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
原文 καὶ ἐκεῖνοί εἰσιν οἱ ἐπὶ τὴν καλὴν γῆν σπαρέντες, οἳ ἀκούουσιν τὸν λόγον καὶ παραδέχονται καὶ καρποφοροῦσιν, ἓν τριάκοντα καὶ ἓν ἑξήκοντα καὶ ἓν ἑκατόν.
  • 「良い土地(蒔かれた)(ἐπὶ τὴν καλὴν γῆν)」:倫理的に「良い」ということではない。神の言葉を聞き(ἀκούουσιν)、受け入れ(παραδέχονται)、そして「実を結ぶ(καρποφοροῦσιν)」人たちとされている。成長の3段階が意識されていて、それぞれ「聞く」「受け入れる」「実践」に対応する。また、明記されていることではないが、土地は種を受け止めるのが役割で、実を結ぶ力そのものは種に内包されている。実を結ぼうとする実践は大事だが、種、すなわち神の言葉の力が豊作を実現することを意識したい。
  • 「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」:誇張された文学的表現(参照:創世記26:12)。4章全体の例えの基調である成長する神の国という主題を象徴する文言でもある。

説教の結びとしての言葉

 今日、主イエスがお語りになった「蒔かれた種の例え」は、単なる農夫の物語ではありません。私たちと関係のない人の話でもありません。これは、私たち一人ひとりの心の状態、あるいは信仰的な態度を映し出す鏡のようなものです。
 道端のように固く閉ざされた心、岩地に土が薄く載っただけの浅い心、種々の茨に覆われた心――それらは、神の言葉という種を受けても実を結ぶことができません。しかし「良い土地」とは、御言葉を聞き、受け入れ、そして実を結ぶ心です。
 ここで大切なことは、実を結ぶ力が私たち自身の努力だけにあるのではなく、むしろ蒔かれた「種」そのものにあるということです。私たちはただ、その言葉を受け入れる柔らかな土となるように心を整えるのです。すると、その種は私たちの人生において、三十倍、六十倍、百倍の実を結び、私たちの人生を豊かにし、また周囲の人々をも豊かにします。
今日、私たちが問われているのは――「私の心はどのような土地なのか」ということです。固く閉ざされた道端ではなく、浅い石地でもなく、茨に覆われた心でもなく、神の言葉を受け入れ、育み、実を結ぶ「良い土地」となりましょう。
 「聞く者は聞きなさい」(マルコ4:9)――この呼びかけに応えて、私たちの心を良い土地とし、神の言葉の種を豊かに実らせる者となろうではありませんか。

学術ノート

(※内容不変。文献名・スペース・句読点などを整形)
  • マルコ4:13 エルサレム教会の系譜に由来する4:11-12の伝承に対して、マルコは4:13をもって批判。弟子の無理解を表す。
     田川建三『マルコ福音書 上巻』292–293頁。
  • 4:13 マタイとルカは、イエスによる弟子たちへの批判を削除。要確認。並行箇所付加。
     マタイは4:13を削除(マタイ13:10-17)。ルカも4:13を削除(ルカ8:9-10)。
  • 4:13 種蒔きの譬えが他の譬えを理解するのに決定的であることを意味するとする。
     Witherington, Mark, 168.
  • 4:13 kai legei autois = 前マルコ伝承。
     Pesch, Markus 1, 241.
     Gnilka, Markus 1, 173.
     一方、Guelich はどちらとも判断し難いとしている(Guelich Mark, 219)。
  • 4:13b 伝承:Pesch, Markus 1, 243。マルコ:Grundmann, 125。
     Schweizer, ZNW 56 (1965), 6–7。
     元々伝承でも、マルコによって構成されている(Guelich, Mark, 219)。
  • ギノースケイン(γινώσκειν)は伝承に見出される:6:38; 13:28f; 15:10, 15
     Schweizer, "Mark's Theological Achievement," 59。
  • 4:13 弟子の無理解が示されているが、4:34 によってマルコの読者は、この問題が解決されていることに思い至るという。
     Tannehill, "The Disciples in Mark: The Function of a Narrative Role," 146。
  • 4:13b Bock によれば、否定疑問文は積極的な意味を持つ応答で、譬えの聞き手がやがて理解するようになることが暗示されているという。だが根拠は明示されていない。
     Bock, Mark, 177。
  • マルコの編集とする説:「神の国を打ち明けられている」(11節)はずの弟子たちが理解できていないという批判。
     川島貞雄『マルコによる福音書』101頁。
  • 比喩や幻が特別な人によって後から解説されるという黙示文学的特色。用語から見て伝承に属する導入句(川島貞雄『マルコによる福音書』98頁)。
     「ひとりに」(κατὰ μόνας)に対して、マルコは通常 kat’ idian。
     尋ねる erōtan に対して、マルコは通常 eperōtan。
  • マルコ4:13
     前マルコ伝承:Pesch 1:241、Gnilka 1:173。
     編集:Räsänen, Parabeltheorie 102–106。
     ダブルクエスチョン:7:18; 8:17。
  • 「この譬えを理解できないのか」
     伝承:Gnilka, Verstockung, 33; Pesch 1:243。
     編集:Grundmann, 125; Schweizer, ZNW 56 (1965), 6–7。
     asunetos, synienai:6:52; 7:18; 8:17, 21(Guelich, Mark, 219)。
  • 4:14-20 の解釈:新約書簡に典型的語。後の教会による解釈。教会の内側にこそ石、茨がある。
     E. シュヴァイツァー『イエス・神の譬え』82頁。

2025年11月12日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:13–36(④ 23:23–24)

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36 ④ 23:23–24


 23節

新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
原文 Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι ἀποδεκατοῦτε τὸ ἡδύοσμον καὶ τὸ ἄνηθον καὶ τὸ κύμινον, καὶ ἀφήκατε τὰ βαρύτερα τοῦ νόμου, τὴν κρίσιν καὶ τὸ ἔλεος καὶ τὴν πίστιν· ταῦτα δὲ ἔδει ποιῆσαι κἀκεῖνα μὴ ἀφιέναι.

 イエスは、神への誠実さなど内面的なものこそ、律法における最重要事項であるとする。他方、それを欠いた律法遵守に終始する律法学者、ファリサイ派の人々を批判している。
  • 「十分の一(ἀποδεκατοῦτε)」:薄荷(ἡδύοσμον)、いのんど(ἄνηθον)、茴香(κύμινον)は料理に使う香草類。これらが少量で細々とした物の代表例として挙げられ、彼らはこんな細かな物に至るまで、収入の「十分の一」を神殿に捧げる十分の一税(参照:レビ記27:30)を励行していると指摘。同時に、それが滑稽であるとイエスは批判している。
  • 「正義(κρίσις)、慈悲(ἔλεος)、誠実(πίστις)」:ユダヤ教における三つの徳。ミカ書6:8「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」を起源とする。なお、「誠実」と訳されているπίστιςは「信仰」とも訳される語。
  • 「十分の一の献げ物もないがしろにしてはならない(κἀκεῖνα μὴ ἀφιέναι)」:直訳では「そちらもまたおろそかにするべきではない」。句末の「これこそ行うべきことである。しかも、ほかのこともおろそかにしてはならない」(ἔδει…ταῦτα δὲ ἔδει ποιῆσαι κἀκεῖνα μὴ ἀφιέναι)は、律法廃棄ではなく、価値の優先順位を説く言葉である。イエスは細部の遵守そのものを否定せず、それを律法の核心(神への忠実さと隣人愛)と結びつけるよう求めている。

 24節

新共同訳 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
原文 ὁδηγοὶ τυφλοί, οἱ διϋλίζοντες τὸν κώνωπα, τὴν δὲ κάμηλον καταπίνουσιν.

 細則にこだわるわりには、本義を見失っていることが指摘されている。誇張された比喩によって、彼らの真理に対する盲目ぶりが描かれている。
  • 「ものの見えない案内人(ὁδηγοὶ τυφλοί)」:先の16節でも使用されていた呼称。自分は見えていると思い込んで人々を導こうとする彼らへの皮肉。
  • 「ぶよ(κώνωψ)」と「らくだ(κάμηλος)」:レビ記11章で汚れた動物とされている。κώνωψは κῶνος(円錐)と ὤψ(顔)の合成語。「ぶよ」は日本語では渓流などに生息する小虫を指すので、「蚊」の方が適切。それが溜めた水やワインにつくため、これらを飲む際には「漉す」必要があった。律法学者やファリサイ派が、蚊を漉すように律法の細部にこだわりながらも、遥かに重大な「正義、慈悲、誠実」をないがしろにする滑稽さが語られている。また、κώνωψは κάμηλος と発音上似ていることから、ギリシャ語テキスト上で語呂合わせが意図されている可能性がある。

 説教の結びの言葉として

 今日、私たちは、イエスが律法学者とファリサイ派の人々に向けて語られた厳しい言葉に耳を傾けました。彼らは律法の細部に熱心でありながら、神が本当に求めておられる「正義」「慈悲」「誠実」を見失っていました。
 イエスは、律法の細かな実践を否定されたのではありません。イエスも仰っている通り、それらもまた大切なことです。しかし、それ以上に、神と人とに対する愛と誠実さ、隣人への思いやり、そして正しい裁きを行う心が、信仰の根幹であると教えておられます。
 「ぶよを漉してらくだを飲み込む」――この誇張された比喩は、私たち自身の姿を映す鏡でもあります。私たちもまた、形式や習慣にとらわれるあまり、神の御心、神の定めの本義を見失ってはいないでしょうか。
 どうか今日から、私たちの信仰が外側の行いだけでなく、内なる誠実さと愛に根ざしたものとなりますように。神の御前において、私たちが真に重んじるべきものを見極め、それを実践する者とされますように。

2025年11月9日日曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ28:1-10

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ28:1-10



注解

 1節

新共同訳 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
原文 Ὀψὲ δὲ σαββάτων, τῇ ἐπιφωσκούσῃ εἰς μίαν σαββάτων, ἦλθεν Μαρία ἡ Μαγδαληνὴ καὶ ἡ ἄλλη Μαρία θεωρῆσαι τὸν τάφον.
  • 「マグダラのマリアともう一人のマリア」:後者については27:56において「ヤコブとヨセの母マリア」とされる。当時の社会において、証言者としての地位が低かった女性が、イエスの十字架・埋葬・復活の目撃者とされている点は注目される。マルコでは、彼女たちが墓を訪れた理由を遺体に香料を塗るためとしていたが、三日目にそれを行う不自然さを考慮してか、マタイでは単に「見に行った」と書き換えられている。
  • 「安息日が終わって……週の初めの日(Ὀψὲ δὲ σαββάτων…εἰς μίαν σαββάτων)」:文字通りには「安息日の後」あるいは「安息日の遅く」。日没をもって安息日は終わり、日没後から新しい週の第一日が始まる。
  • 「明け方(τῇ ἐπιφωσκούσῃ)」:ἐπιφώσκω は、接頭辞 ἐπι-(〜の上に、〜に向かって)と動詞 φώσκω(光る、夜が明ける)の複合語。すなわち「夜明けに向かう時」を意味する。地平線の上に太陽の光が差し込み始める情景を描写している可能性がある。並行箇所ルカ23:54でも同様の表現が用いられている。

 2節

新共同訳 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
原文 καὶ ἰδοὺ σεισμὸς ἐγένετο μέγας· ἄγγελος γὰρ κυρίου καταβὰς ἐξ οὐρανοῦ καὶ προσελθὼν ἀπεκύλισε τὸν λίθον καὶ ἐκάθητο ἐπάνω αὐτοῦ.
  • 「大きな地震(σεισμὸς μέγας)」:神的介入を象徴する典型的事象の一つであり、神の臨在や意志の表れを示す場合がある。27:51におけるイエスの絶命時にも同様の描写がある。
  • 「主の天使(ἄγγελος κυρίου)」:ἄγγελος は「遣わされた者」の意で、「使い」「御使い」とも訳される。マルコでは「白い長い衣を着た若者」(16:5)、ルカとヨハネでは二人の天使が登場するが、マタイでは一人に簡略化されている。
  • 「その上(石)に座った(ἐκάθητο ἐπάνω αὐτοῦ)」:転がされた石の上に天使が座る場面は、不可能に思われる出来事に対する神の勝利を象徴する。

 3節

新共同訳 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
原文 ἦν δὲ ἡ εἰδέα αὐτοῦ ὡς ἀστραπὴ καὶ τὸ ἔνδυμα αὐτοῦ λευκὸν ὡς χιών.
  • 「稲妻のように(ὡς ἀστραπὴ)」:地震と同様、稲妻もしばしば神の介入や栄光の象徴として用いられる(参照:ダニエル書10:6)。
  • 「雪のように白かった(λευκὸν ὡς χιών)」:「白」は神性・聖性・栄光の象徴であり、「雪」はその純粋さを強調する。

 4節

新共同訳 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
原文 ἀπὸ δὲ τοῦ φόβου αὐτοῦ ἐσείσθησαν οἱ τηροῦντες καὶ ἐγενήθησαν ὡς νεκροί.
  • 「番兵たち(οἱ τηροῦντες)」:27:65–66において、ピラトから墓の警備を命じられた兵士たちを指す。マタイ独自の記述であり、キリスト教徒がイエスの遺体を隠したとするユダヤ側の批判への反論的要素を含むと考えられる。
  • 「死人のようになった(ἐγενήθησαν ὡς νεκροί)」:神的出来事を前にした人間の無力さを象徴する。生者が「死人」となり、死人が甦るという対比的構図を形成している可能性がある。

 5–6節

新共同訳
5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」
原文 5 ἀποκριθεὶς δὲ ὁ ἄγγελος εἶπεν ταῖς γυναιξίν· Μὴ φοβεῖσθε ὑμεῖς· οἶδα γὰρ ὅτι Ἰησοῦν τὸν ἐσταυρωμένον ζητεῖτε· 6 οὐκ ἔστιν ὧδε· ἠγέρθη γὰρ καθὼς εἶπεν· δεῦτε ἴδετε τὸν τόπον ὅπου ἔκειτο.
  • 「恐れることはない」:原文では「あなたたちは恐れるな」と強調されており(ὑμεῖς)、恐怖に震える番兵との対比が意識されている。
  • 「十字架につけられたイエス(Ἰησοῦν τὸν ἐσταυρωμένον)」:完了分詞が用いられ、婦人たちの認識ではイエスは依然として十字架につけられた存在であるが、神の現実においてはすでに復活しておられる。「ここにおられない」という不在の事実が、復活の証拠として語られている。
  • 「復活なさったのだ(ἠγέρθη)」:アオリスト受動態であり、「神によって復活させられた」という意味を含む。
  • 「かねて言われていたとおり(καθὼς εἶπεν)」:イエスによる受難と復活の予告(16:21、17:23、20:19)を指す。
  • 「さあ、見なさい(δεῦτε ἴδετε)」:直訳では「来て見よ」。遺体なき場所を見ることにより、復活の現実を悟るよう促している。

 7節

新共同訳 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。
原文 καὶ ταχὺ πορευθεῖσαι εἴπατε τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ ὅτι ἠγέρθη ἀπὸ τῶν νεκρῶν, καὶ ἰδοὺ προάγει ὑμᾶς εἰς τὴν Γαλιλαίαν· ἐκεῖ αὐτὸν ὄψεσθε· ἰδοὺ εἶπον ὑμῖν.
  • 「急いで行って(ταχὺ πορευθεῖσαι)」:マルコ神学と同様に、神の出来事に応答する行動の迅速さが強調される。喜ばしい知らせに駆り立てられるようなスピード感も含意される。
  • 「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」:「先に行く」(προάγει)は「導く」の意味もあり、イエスが弟子たちを先導するニュアンスがある。この復活顕現の予告は26:32にすでに述べられている。
  • 「確かに、あなたがたに伝えました(ἰδοὺ εἶπον ὑμῖν)」:直訳すれば「見よ、私はあなたたちに言った」。復活の知らせが確かに伝えられたことを強調している。

 8節

新共同訳 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
原文 καὶ ἀπελθοῦσαι ταχὺ ἀπὸ τοῦ μνημείου μετὰ φόβου καὶ χαρᾶς μεγάλης ἔδραμον ἀπαγγεῖλαι τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ.
  • 「恐れながらも大いに喜び(μετὰ φόβου καὶ χαρᾶς μεγάλης)」:直訳では「恐れと共に、大きな喜び」。神の臨在に対する畏れと喜びが同時に生起する(詩篇2:11、歴代誌下20:27–29)。
  • 「急いで墓を立ち去り……走って行った」:復活の出来事を知らせる行動が、迅速かつ情熱的に描かれている。

 9節

新共同訳 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
原文 καὶ ἰδοὺ Ἰησοῦς ὑπήντησεν αὐταῖς λέγων· Χαίρετε· αἱ δὲ προσελθοῦσαι ἐκράτησαν αὐτοῦ τοὺς πόδας καὶ προσεκύνησαν αὐτῷ.
  • 「おはよう」:原文では「喜びなさい」(Χαίρετε)。日常の挨拶であると同時に、復活の「喜び」を象徴する言葉となっている。
  • 「足を抱き」:原語は「足をつかんで」。復活のイエスが霊ではなく身体を持つ存在であることを示す。
  • 「ひれ伏した(προσεκύνησαν)」:礼拝を意味する行為であり、イエスを神として崇める教会の信仰を象徴する。婦人たちは最初の「復活の証人」にして、最初の「復活のイエスへの礼拝者」とされた。

 10節

新共同訳 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
原文 τότε λέγει αὐταῖς ὁ Ἰησοῦς· Μὴ φοβεῖσθε· ὑπάγετε ἀπαγγείλατε τοῖς ἀδελφοῖς μου ἵνα ἀπέλθωσιν εἰς τὴν Γαλιλαίαν, κἀκεῖ με ὄψονται.

 マルコ福音書の本文(後代の付加を除く)では、ガリラヤでの顕現記事が欠落しているが、マタイはこれを補完し、28:16–20のいわゆる「大宣教命令」に至る構成としている。
 イエスを見捨てた弟子たちは、再び呼び戻され、宣教の使命を託される。ここに、赦しと再任命の福音的展開が示されている。


2025年11月5日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)

 概要

 マタイ23:13-36には、各部の冒頭にいわゆる「七つの災い(οὐαί)」の宣言が置かれ、律法学者とファリサイ派に対するイエスの批判の言葉が七つ連続して並んでいる。


 ① マタイ23:13–15

 13節

新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
原文 οὐαὶ δὲ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι κλείετε τὴν βασιλείαν τῶν οὐρανῶν ἔμπροσθεν τῶν ἀνθρώπων· ὑμεῖς γὰρ οὐκ εἰσέρχεσθε οὐδὲ τοὺς εἰσερχομένους ἀφίετε εἰσελθεῖν.
  • 「不幸だ」(οὐαί):律法学者とファリサイ派の人々が「偽善者」と呼ばれて断罪されている(23:15、23、25、29)。そのトーンは預言者による神の裁きの宣告である。彼らの言動は「天の国を閉ざす」ものであり、開くどころではない。
  • 「入ろうとする人をも入らせない」:「入らせない」(ἀφίετε εἰσελθεῖν)においては「赦す」と訳される動詞が使われているが、ここでは「妨げる」という意味で用いられている。入らせるのが使命であるはずのユダヤ教の教師が、かえって妨げると言われている点に、痛烈な皮肉が込められている。

 14節

新共同訳 学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。
原文 οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι κατεσθίετε τὰς οἰκίας τῶν χηρῶν καὶ προφάσει μακρὰ προσεύχεσθε· διὰ τοῦτο λήμψεσθε περισσότερον κρίμα.
 後代のビザンティン系などの写本には上記の原文が含まれているが、シナイ写本・バチカン写本などには見られない。本文批評上の観点から、Nestle–Aland第28版およびUBS第5版では本文から除外されている。マルコ12:40およびルカ20:47に並行箇所があるため、写本家による付加と考えられる。

 ② マタイ23:15

 15節

新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
原文 οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι περιάγετε τὴν θάλασσαν καὶ τὴν ξηρὰν ποιῆσαι ἕνα προσήλυτον, καὶ ὅταν γένηται, ποιεῖτε αὐτὸν υἱὸν γεέννης διπλότερον ὑμῶν.

マタイ福音書における「偽善者(ὑποκριτής)」
 マタイ福音書に特徴的な用語であり、マタイ神学の中心的柱の一つである。
同語は元来「俳優・役者」を意味し、「演じる」を意味するὑποκρίνομαιから派生した。古代ギリシャ演劇では俳優が仮面を装着して演じたことから、外面は整っていても内面が伴わない様を表す語として定着した。
 マタイはこれを、表面上は敬虔な宗教者を演じながらも、内実は虚栄心と私利私欲にまみれた律法学者・ファリサイ派を批判するイエスの言葉に取り入れている。イエスの時代のこととして語られているが、マタイ自身の時代における宗教的偽善への批判も込められている。
 マタイ福音書における使用回数は群を抜いて多く、とくに本章では「不幸だ」という宣告と共に繰り返し用いられている。主な用例として、人に見せるための偽善的行為(6:2、5、16)、自分の落ち度に気づかず人のそれを取ろうとする行為(7:5)、口先だけの崇敬(15:7)、イエスを陥れようとするファリサイ派への呼びかけ(22:18)などがある。

  • 「改宗者」(προσήλυτος):ユダヤ教に改宗した異邦人を指す。ユダヤ教は閉鎖的な民族宗教ではなく、改宗者を受け入れることにも一定の熱意を持っていた。その様子が「海と陸を巡り歩く」と皮肉を込めて描写されている。ただし、男性の改宗者には割礼が要求された。
  • 「自分よりも倍も悪い地獄の子」(ποιεῖτε αὐτὸν υἱὸν γεέννης διπλότερον):直訳すれば「彼を二倍の地獄の子にする」。彼らよりもさらに悪い偽善者が再生産されることを皮肉っている。
  • 「地獄」(γέεννα)は、ヨシュア記15:8における「ベン・ヒンノムの谷」(גֵּיא בֶן־הִנֹּם, gê ben-Hinnom、「ヒンノムの子の谷」)に由来する。人身供犠が行われた場所として悪名高く(列王記下23:10、エレミヤ7:31–32)、後に発音上の類似から「地獄」を意味する語へと転化した。

 ③23:16–22

 16節
新共同訳 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と言う。
原文 οὐαὶ ὑμῖν, ὁδηγοὶ τυφλοί, οἱ λέγοντες· ὃς ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ ναῷ, οὐδέν ἐστιν· ὃς δ' ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ χρυσῷ τοῦ ναοῦ, ὀφείλει.
 「何かを証人として立てての誓い」については、すでに5:33–37で述べられていた。「誓う」という主題はこの箇所と共通し、内容的にも連なっている。
  • 「ものの見えない案内人」(ὁδηγοὶ τυφλοί):直訳は「盲目の案内者たち」。何が見えていないのかが、以下で明らかにされる。
  • 『神殿にかけて誓えば……だが、神殿の黄金にかけて誓えば……』:「誓う」(ὀμνύω)行為は敬虔な宗教行為の代表であり、基本的には神を証人として立てるもの(参照:レビ19:12、マタイ5:33以下)。イエスの時代にはこれが細則化され、誓いの対象によって次のようなランクづけがなされていた。
  1. 「神の名」による誓い=最高度の義務性
  2. 「神殿の黄金」「祭壇の供え物」による誓い=中程度の義務性
  3. 「神殿」「祭壇」による誓い=低程度の義務性
 総じて、神殿や祭壇といった建物は低く、神そのものが最高位に置かれた。

 17–18節
新共同訳 17 愚かで、ものの見えない者たち。黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。18 また、「祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と言う。
原文 17 μωροὶ καὶ τυφλοί· τίς γὰρ μείζων, ὁ χρυσός ἢ ὁ ναὸς ὁ ἁγιάζων τὸν χρυσόν;
18 καί· ὃς ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ θυσιαστηρίῳ, οὐδέν ἐστιν· ὃς δ' ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ δώρῳ τῷ ἐπάνω αὐτοῦ, ὀφείλει.
  • 「愚かで目の見えぬ人たち」(μωροὶ καὶ τυφλοί):ここでは、物事に対する盲目性に加えて愚かさが指摘されている。
  • 「黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」:イエスは、神殿よりも黄金のほうが価値があるとする論理を逆転させ、神殿が黄金を清めるゆえに神殿のほうが尊いと論じている。ここでの神殿は単なる建物ではなく、神と結びつくものとして位置づけられている。黄金という物質的価値よりも神性のほうが重要であるという基本原則を理解していない彼らの「盲目」を、イエスは指摘している。

 19–20節
新共同訳 19 ものの見えない者たち。供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
原文 19 τυφλοί· τίς γὰρ μείζων, τὸ δῶρον ἢ τὸ θυσιαστήριον τὸ ἁγιάζον τὸ δῶρον;
20 ὁ οὖν ὀμόσας ἐν τῷ θυσιαστηρίῳ, ὀμνύει ἐν αὐτῷ καὶ ἐν πᾶσι τοῖς ἐπάνω αὐτοῦ.
 論理の構造は先の神殿の黄金の件と同様である。供え物よりも、それを清める祭壇のほうが尊いという論理であるが、根底にある意図は、清める力の源は神にあり、律法学者たちはその点を見失い、数量化された物の比較に目を奪われているということにある。
  • 「祭壇とその上のすべてのものにかけて誓う」:祭壇か供え物か、という議論自体が無意味であると結論づけられている。

 21節
新共同訳 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。
καὶ ὁ ὀμόσας ἐν τῷ ναῷ, ὀμνύει ἐν αὐτῷ καὶ ἐν τῷ κατοικοῦντι ἐν αὐτῷ.
神殿にかけて誓うとは、その神殿に臨在する神に誓うことを意味する。
  • 「住んでおられる方にかけて」(ἐν τῷ κατοικοῦντι):「住む」「居住する」「定住する」を意味する κατοικέω が用いられている。七十人訳聖書の語彙に由来し、旧約において神が住まう場所としては、①イスラエルの民の中(出25:8、29:45)、②聖所・幕屋(出25:8)、③エルサレム(詩135:21)、④いと高きところ(詩113:5)、⑤暗雲(列王上8:12–13)などが挙げられる。
 神殿にかけて誓うとは、すなわち神に誓うのと同じことである。5:33–37における「誓ってはならない」という主題との関連で言えば、何に誓うかをくどくど語るのではなく、事実を直裁に語ればよい、という結論に至る。

 22節
新共同訳 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
καὶ ὁ ὀμόσας ἐν τῷ οὐρανῷ, ὀμνύει ἐν τῷ θρόνῳ τοῦ θεοῦ καὶ ἐν τῷ καθημένῳ ἐπάνω αὐτοῦ.
 21節と同様、天にかけて誓うとは、すなわち「神の玉座に座しておられる」神に誓うことを意味する。神を証人として立てているという一点に集約される。誓いを立てる者は、それを深く心に留めておくべきであり、神不在の誓いをなさないよう戒められている。

説教の結びの言葉として

 マタイ23章に記されたイエスの言葉は、単なる過去の宗教指導者への批判ではなく、今を生きる私たちへの深い問いかけでもあります。
 イエスは、外見だけの敬虔さや形式的な信仰を厳しく戒め、神の国への真の道を閉ざす偽善を断罪されました。誓いの問題においても、イエスは物質や儀式よりも、神ご自身との関係の本質を見失ってはならないと教えてくださいました。神殿に誓うことは、そこに住まわれる神に誓うこと。天に誓うことは、神の玉座に座しておられる方に誓うこと。つまり、私たちの言葉も行いも、すべて神の御前にあるということです。この一点こそ大切です。
 今日の箇所を通して、イエスは私たちにこう語りかけておられます。「あなたの信仰は、仮面をかぶったものではないか。あなたの言葉は、神の臨在を意識したものか」
 どうか私たちが、外見ではなく心から神を求め、真実に生きる者となれますように。神の国の門を閉ざす者ではなく、開く者として、隣人を導く光となれますように。主の憐れみにより、私たちが偽善から離れ、誠実な信仰者として歩むことができますように。

2025年11月2日日曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解  マルコ4:1–9「蒔かれた種の例え」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 

マルコ4:1–9「蒔かれた種の例え」

並行箇所:マタイ13:1–9、ルカ8:4–8

 概要

 マルコ4:1–34は例え話集となっていて、最初の「蒔かれた種の例え」のほか、成長する種の例え、からし種の例えが収録されている。同時に、この例え話の解説(4:13–20)および例えを用いて語る理由(4:10–12、4:33–34)も記されている。
種を蒔く人の譬え話は、例えやその解説の中で「土地」に注目されていることもあって、種が蒔かれた土地、すなわち神の言葉を聞いた人々の話として理解されてきた。だが、近年はこの解釈が見直され、種を蒔く側の人々、すなわち神の言葉を宣べ伝える者の労苦を物語る例えとして読む見解もある。
 例えの構造としては、四種類の地面と種の運命が描かれており、4種の土地は神の言葉という種を聞いた4タイプの人間の寓意である。

参考文献(注解書などを除いた研究論文などの一部)

上村静「蒔かれた種のたとえ(マルコ4:3–8)―神の支配の光と影―」『新約学研究』第42巻、日本新約学会、2014年。

 1節

新共同訳 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆がそばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
Καὶ πάλιν ἤρξατο διδάσκειν παρὰ τὴν θάλασσαν· καὶ συνάγεται πρὸς αὐτὸν ὄχλος πλεῖστος, ὥστε αὐτὸν εἰς πλοῖον ἐμβάντα καθῆσθαι ἐν τῇ θαλάσσῃ, καὶ πᾶς ὁ ὄχλος πρὸς τὴν θάλασσαν ἐπὶ τῆς γῆς ἦσαν.
  • 「イエスは、再び……」:Καὶ πάλινはマルコに特徴的な接続句(2:13など参照)。複数回にわたり、イエスが弟子たちや群衆に教えられたことを示している。
黙想:人に伝える、教えるということは容易ではない。イエスでさえも繰り返し教えを続けねばならず、失敗も多かったことがうかがえる。
「おびただしい群衆が……集まって来た」:群衆が集まった理由が、イエスの奇跡の業を求めたのか、教えを聞こうとしたのかは判然としない。「おびただしい群衆」(ὄχλος πλεῖστος)は直訳すると「大勢の群衆」であり、冗長的ではあるが、イエスの人気と宣教の影響力を強調する表現である。
  • 「湖のほとりで」:ガリラヤ湖のこと。「再び」という語も暗示するように、イエスの宣教活動の中心地の一つ。
  • 「舟に乗って腰を下ろし」:ユダヤ教におけるラビは講話の際に座して語った。教師としての基本姿勢である。舟上から語る理由としては、①殺到する群衆を避けるため、②湖面の反響を利用して声を届かせるため、が考えられる。象徴的には、舟を教会の象徴、群衆をその言葉を聞く者とみなす解釈も可能である。

 2節

新共同訳 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
καὶ ἐδίδασκεν αὐτοὺς ἐν παραβολαῖς πολλά, καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς ἐν τῇ διδαχῇ αὐτοῦ·
  • 「たとえでいろいろと教えられ」:イエスが例えを用いた理由は後の4:10–12で述べられる。「例え」(παραβολή)は本来「並べて置く」「対比する」の意。身近な事象を通して神の真理を悟らせることが目的である。イエスは日常の出来事を入口として、神の真理を理解させようとした。
  • 「その中で」:直訳では「その教えにおいて」。διδαχή(教え)はイエスの宣教の中核であり、旧約聖書の言葉の解釈や神の愛についての教えであったと考えられる。

 3節

新共同訳「『よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。』」
Ἀκούετε· ἰδοὺ ἐξῆλθεν ὁ σπείρων σπεῖραι.
  • 「よく聞きなさい」:原文は命令形で「聞け」。話の冒頭における注意喚起であり、この例えの根底にある「神の言葉を聞く」主題にもつながる。
  • 「種を蒔く人」(ὁ σπείρων):ここでは農夫を指すが、象徴的には神の言葉を蒔く者、すなわちイエス、弟子たち、後の宣教者たちを意味する。

 4節

新共同訳「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」
καὶ ἐγένετο ἐν τῷ σπείρειν, ὃ μὲν ἔπεσεν παρὰ τὴν ὁδόν, καὶ ἦλθεν τὰ πετεινὰ καὶ κατέφαγεν αὐτό.
  • 「ある種は……」:ὃ μὲν… ここから種のそれぞれの運命が描かれる。
  • 「道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」:道端は踏み固められており、種が土に入らず外に晒されるため、鳥に食べられてしまう。後の4:15では、この鳥がサタンとして解釈される。

 5–6節

新共同訳「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」
καὶ ἄλλο ἔπεσεν ἐπὶ τὸ πετρῶδες...
  • 「石だらけで土の少ない所」:直訳は「岩地の上」。パレスチナでは岩地が多く、薄く土が堆積した地形も珍しくない。
  • 「すぐ芽を出した」(εὐθὺς ἐξανέτειλεν):εὐθύςはマルコ特有の語。迅速な行動を意味するが、ここでは「短絡的・持続しない信仰」の暗示。岩盤が熱を保持しやすく、発芽が早いことも背景にある。
  • 「日(ὁ ἥλιος)」:試練や迫害の象徴。「焼けて」(ἐκαυματίσθη)は信仰の試練に耐えられない状態を示す。

 7節

新共同訳「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」
καὶ ἄλλο ἔπεσεν εἰς τὰς ἀκάνθας...
  • 「茨」(ἀκάνθαι):複数形。世の思い煩いや富の誘惑(4:18–19参照)を象徴する。
  • 「覆いふさいだ」(συνέπνιξαν):原義は「窒息させる」。信仰の成長を妨げるさまざまな要素を表す。
  • 「実を結ばなかった」(οὐκ ἔδωκεν καρπόν):信仰が人生に実を結ばなかったことを示す。

 8節

新共同訳「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
καὶ ἄλλα ἔπεσεν εἰς τὴν γῆν τὴν καλὴν...
  • 「良い土地」(τὴν γῆν τὴν καλὴν):καλήνは「良い」「美しい」の意。良い土地とは人間の善悪を指すのではなく、「聞く耳をもつ人」を意味する(9節参照)。
  • 「芽生え、育って」(ἀναβαίνοντα καὶ αὐξανόμενον):マルコ独自の表現。成長が途絶えることなく続いた結果を描く。
  • 「三十倍・六十倍・百倍」:当時の農業収穫の常識を超える値であり、神の恵みの豊かさを象徴する。
 3つの失敗例の後に1つの成功例が示されている。確率的な幸運ではなく、「成長が持続するときに実りは大きい」という教訓として理解されるべきである。豊かな実りは、育てる側と受ける側の双方の継続的な働きによってもたらされる。

 9節

新共同訳 そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。
καὶ ἔλεγεν· ὃς ἔχει ὦτα ἀκούειν ἀκουέτω.
  • 「聞く耳のある者は聞きなさい」:典型的な預言者的警句。「聞く」とは、単に聴くことではなく、聞いたことを行うことを含意する(マタイ7:24–29参照)。
  • 「聞く耳のある者」(ὃς ἔχει ὦτα):類似表現はマタイ11:15、黙示録2:7などに見られる。

 礼拝説教の結びとして

 イエスは、種を蒔く人の姿を通して、神の言葉を宣べ伝える者の労苦と希望を語られました。種が落ちる地面の違いは、私たち一人ひとりの心のあり方を映し出しています。
 道端のように心が閉ざされていると、言葉は根を張ることができない。岩地のように浅い信仰では、試練に耐えられない。茨のように世の誘惑に心を奪われると、実を結ぶことはできない。しかし、良い土地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶとイエスは仰っています。
 私たちの心が神の言葉を受け入れる「良い土地」となるよう、日々整えられていこう。聞く耳を持ち、聞いたことを行う者となることこそ、主の御心にかなう歩みです。

 祈りの言葉

 恵み深い天の父なる神様、
 あなたの御言葉を今日、私たちの心に蒔いてくださったことを感謝します。どうか私たちの心を耕し、あなたの言葉が根を張り、芽を出し、豊かに実を結ぶように、聖霊の働きによって導いてください。
 私たちが世の誘惑や試練に負けることなく、あなたの真理に立ち続けることができますように。宣教する者として、また聞く者として、あなたの御国の働きに忠実に仕える者としてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2025年11月1日土曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:10-12 「例えで語る理由」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:10-12 「例えで語る理由」

並行箇所 マタイ13:10-17、ルカ8:9-10


概要

 4:10-12は、「蒔かれた種の例え」の後に続く位置にあり、イエスが例えを用いて話す理由を内容上の中心とする。場面は、イエスが群衆から離れて「ひとりになられたとき」(4:10)でありつつも、周囲には弟子たちがいて、彼らだけに語られた「神の国の秘密」(4:11)とされている。すなわち、イエスのここでの言葉は、群衆に対して公になされた説教ではなく、弟子たちに限定して語られた言葉であることを念頭に置きたい。すなわち、奇跡目当てに集まっている、必ずしもイエスの言葉を聞くつもりのない人も含む群衆ではなく、聞く耳のある弟子たち、言い換えれば、聞く意志のある人たちを対象とした言葉である。
 イエスが例えをもって語る目的は、端的に言えば、聞こうとする耳を持ち、理解しようとする心を持つ人には神の真理は開かれるが、それを望まない人には閉ざされるということである。この二重性が、イザヤ6:9-10の引用をもって宣言されている。


10節

新共同訳 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
Καὶ ὅτε ἐγένετο κατὰ μόνας, ἠρώτων αὐτὸν οἱ περὶ αὐτὸν σὺν τοῖς δώδεκα τὰς παραβολάς.

  • 「ひとりに」(κατὰ μόνας)
     公の場面から、私的な場面への転換を示す。マルコでは他に、9:28にも同様の場面転換が見られる。

  • 「十二人と一緒にイエスの周りにいた人」
     十二人の使徒たち以外の弟子たちも含む。イエスの一行は、使徒たち以外の弟子たちもいる集団であった。あるいは、使徒たち以外の弟子=マルコの読者をも含む広い弟子共同体を意識しているのかもしれない。

  • 「たとえ(τὰς παραβολάς、複数形)」
     単に4:3–9における蒔かれた種の例えを指すのではなく、イエスの語った他の譬え全体を網羅する。


11節

新共同訳 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」
καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς· Ὑμῖν τὸ μυστήριον δέδοται τῆς βασιλείας τοῦ θεοῦ· ἐκείνοις δὲ τοῖς ἔξω ἐν παραβολαῖς τὰ πάντα γίνεται,

  • 「あなたがたには」(Ὑμῖν):人称代名詞が文頭で使用され、強調構文になっている。「外の人々」と弟子たちとの対照が意識されている。
  • 「(神の国の)秘密」μυστήριον:奥義とも。ヘレニズム的には秘儀宗教の「秘儀」を指す語。ユダヤ教では神の計画や啓示を意味する(参照、ダニエル2:18-19など)。

  • 「外の人々には」(τοῖς ἔξω)
     先行箇所の3:31-32では、家の「外」と内とが意識され、家の中でイエスを囲んで教えに耳を傾ける人々が、家族として呼ばれていた(3:34)。初期教会時代では、教会の信徒以外の一般社会を指す用語として定着した(参照、コロサイ4:5)。

  • 「すべてがたとえで示される」
     原語の直訳では「すべてが例えによって生じる」(ἐν παραβολαῖς τὰ πάντα γίνεται)。


 弟子たちや信徒、神の教えに喜んで耳を傾ける者たちには、神の真理が教え示される。一方、外部の人たちにも伝えられないわけではないが、聞く気がある人とない人とで、受容するか拒絶するかの結果がより出やすい「例え」で語られるということ。

12節

新共同訳 それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。
ἵνα βλέποντες βλέπωσιν καὶ μὴ ἴδωσιν, καὶ ἀκούοντες ἀκούωσιν καὶ μὴ συνιῶσιν, μήποτε ἐπιστρέψωσιν καὶ ἀφεθῇ αὐτοῖς.

  • イザヤ書の七十人訳聖書6:9-10からの引用句。ἵνα... μήποτε 構文が使用されていて、通常は<〜するために〜してはならない>という意味だが、ここでは、「してはならない」が結果節として用いられている。

  • 「彼らは見るには見るが、認めず」
     直訳では、「彼らは見るには見て、認識せず」。見ても認識するに至らずという結果に終わるということ。平たく言えば、もしやる気がないならば、その結果がはっきりと出る結果になるということ。私たちにおいても、「聞く気がないなら分かるわけがない」と思うだろう。分からないという結末が、よりはっきりと出るというニュアンス。

  • 「聞くには聞くが、理解できず」
     「見るには見るが」と同様で、繰り返しによって意味合いが強調されている。

  • 「『立ち帰って赦されることがない』ようになるため」
     「立ち帰って」と訳されている語は、「悔い改める」(ἐπιστρέφω)とも翻訳される語。罪の赦しの主題は、マルコ1:4、2:5などにも現れる。
     文字通りに読むと意味不明となるが、私たちにおいても、「聞く気がないならもういい」との思いを抱くことがあるだろう。本人がそのように望んでいるのだから、赦しを得たくなければ赦されない結果となれ、というニュアンス。


まとめ

 聞く意志のない人たちは、当人が聞くことを望まないのだから、望み通り、理解せずに終わる結果となれ、という趣旨のこの宣言は、一種の神の審判の告知である。積極的な審判ではなく、消極的な裁きであると言える。同時に、語られ、聞かれず、理解や信仰に至らず、という一連のプロセスが、神の意志に基づく神の計画として示されていることにも留意するべきである。


 礼拝説教の結びの言葉として

 主イエスの教えや言葉は、すべての人に語られ、同時に、理解と信仰へと開かれています。イエスはその際、例えを用いてお語りになりました。それは、「聞きたい」「もっと知りたい」「理解したい」「そうして信仰を持つようになりたい」、そう願う人たちが、真理へと導かれるようになるためです。
 そして同時に、聞く耳を持たない人、分かろうと望まない人、そうした人たちが、自分たちの望む末路へと至るようになるためです。一言で言えば、白黒がはっきりと出るため、とも言えます。
 しかし、主イエスが今日、このように語られたのは、単にそのように自業自得の結末で終わるためではありません。たとえ聞く気のない人でも、そこで何事かを思い、聞く耳を持つようにと願われてのことです。
 すべての人は招かれており、すべての人に扉は開かれています。しかし、そこを通る人は一部です。通らない人も、神のご計画と相応しい時が来れば、通るようになることも現実にあります。そのように願われ、すべての人に招きの言葉を語られています。
 イエスは今日も、私たちに語りかけておられます。「聞く耳のある者は聞きなさい」(4:9)。

2025年10月29日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:1-12

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:1-12

並行箇所: マルコ12:38–40、ルカ11:37–52、20:45–47

 概要

 この箇所では、律法学者とファリサイ派に対する批判が展開されている。その焦点は、彼らの言行不一致(3節「言うだけで実行しない」)にあり、なおかつその遵守を他者に要求する点(23:4)にもある。
 また、律法を形式的に守るだけで内面の誠実さを欠いていること(23:23)、人に見せびらかす姿勢(23:5–7)も問題とされる。これらが総じて「偽善」(23:25、27、29など)と呼ばれている。
さらに、律法学者とファリサイ派に対して、七つの「災い」が宣言されている。

 1節

新共同訳 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
Τότε ὁ Ἰησοῦς ἐλάλησεν τοῖς ὄχλοις καὶ τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ.
  • 「それから」(τότε)は、前章の論争物語集(22:15–46)との連続性を示す。
  • 「群衆と弟子たち」──イエスの批判が弟子たちだけでなく、一般の人々への警告でもあることを示す。

 2–3節

新共同訳 2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」
2 ἐπὶ τῆς Μωϋσέως καθέδρας ἐκάθισαν οἱ γραμματεῖς καὶ οἱ Φαρισαῖοι·
3 πάντα οὖν ὅσα ἂν εἴπωσιν ὑμῖν ποιήσατε καὶ τηρεῖτε· κατὰ δὲ τὰ ἔργα αὐτῶν μὴ ποιεῖτε· λέγουσιν γὰρ καὶ οὐ ποιοῦσιν.
  • 「モーセの座」(καθέδρα Μωϋσέως)とは、律法の解釈と教えにおける権威の象徴であり、シナゴーグに実際に設けられていたとされる。イエスはこの権威そのものを否定していない。「彼らが言うことは守りなさい」と命じる一方で、「彼らの行いは見倣うな」と警告している。言行不一致(λέγουσιν γὰρ καὶ οὐ ποιοῦσιν)こそが批判の中心である。

 4節

新共同訳 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
δεσμεύουσιν δὲ φορτία βαρέα καὶ δυσβάστακτα καὶ ἐπιτιθέασιν ἐπὶ τοὺς ὤμους τῶν ἀνθρώπων, αὐτοὶ δὲ τῷ δακτύλῳ αὐτῶν οὐ θέλουσιν κινῆσαι αὐτά.
  • 「重荷」(φορτία)は、律法やその派生規定を含む。
  • 「人の肩に載せる」は、他者に義務を課す比喩表現。
  • 「指一本貸そうともしない」は直訳で「自分の指を動かそうとしない」。自らは実践せず、人にだけ義務を課す姿勢を示す。

 5節

新共同訳 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
πάντα δὲ τὰ ἔργα αὐτῶν ποιοῦσιν πρὸς τὸ θεαθῆναι τοῖς ἀνθρώποις· πλατύνουσιν γὰρ τὰ φυλακτήρια αὐτῶν καὶ μεγαλύνουσιν τὰ κράσπεδα.
 行為の目的が「人に見せるため」であることが非難される。
  • 「聖句の入った小箱」(φυλακτήρια)は申命記6:8に基づく信仰具。
  • 「衣服の房」(κράσπεδα)は民数15:38に由来する。どちらも本来は信仰のしるしだが、自己顕示に堕している。

 6–7節

新共同訳 6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7 また、広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む。
6 φιλοῦσιν δὲ τὴν πρωτοκλισίαν ἐν τοῖς δείπνοις καὶ τὰς πρωτοκαθεδρίας ἐν ταῖς συναγωγαῖς,
7 καὶ τοὺς ἀσπασμοὺς ἐν ταῖς ἀγοραῖς καὶ καλείσθαι ὑπὸ τῶν ἀνθρώπων ῥαββί.
  • 「上座」「上席」は社会的名誉の象徴。
  • 「広場(ἀγορά)」は公共空間で、社会的地位が可視化される場所。
  • 「先生(ῥαββί)」と呼ばれることを喜ぶ姿勢は、宗教的権威が自己顕示の手段と化したことを示す。イエスは11節でこの価値観を反転させる。

 8–10節

新共同訳 8 だが、あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。9 また、地上の者を「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10 「教師」と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
ὑμεῖς δὲ μὴ κληθῆτε ῥαββί· εἷς γάρ ἐστιν ὑμῶν ὁ διδάσκαλος, πάντες δὲ ὑμεῖς ἀδελφοί ἐστε.
καὶ πατέρα μὴ καλέσητε ὑμῶν ἐπὶ τῆς γῆς· εἷς γάρ ἐστιν ὑμῶν ὁ πατὴρ ὁ οὐράνιος.
μηδὲ κληθῆτε καθηγηταί· ὅτι καθηγητὴς ὑμῶν ἐστιν εἷς, ὁ χριστός.
  • 「呼ばれてはならない」(μὴ κληθῆτε)は外的行為の全面禁止ではなく、地位による優越感を戒める内面的命令。
  • 「皆兄弟」──神の前では誰もが平等であり、上下関係は存在しない。
  • 「あなたがたの師は一人」──冠詞つきのὁ διδάσκαλοςは特定の存在、すなわちキリストを指す。「父と呼ぶな」「教師と呼ばれるな」も同様に、社会的称号による自己顕示を退ける表現である。

 11節

新共同訳 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
ὁ δὲ μείζων ὑμῶν ἔσται ὑμῶν διάκονος.
  • 「偉い人」(μείζων)とは権威ある者を意味する。しかしイエスは価値観を逆転させ、そうした者こそ「仕える者」(διάκονος)であるべきと説く。20:28では、イエス自身が「仕えるために来た」と述べており、この教えを体現している。

 12節

新共同訳 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ὅστις δὲ ὑψώσει ἑαυτὸν ταπεινωθήσεται, καὶ ὅστις ταπεινώσει ἑαυτὸν ὑψωθήσεται.

 この逆転の論理はルカ14:11、18:14、22:26にも並行する。マリアの讃歌(ルカ1:52)やマタイ20:26–27も同様の思想を表す。神の国の価値観では、謙遜が真の高貴とされる。

 現代的関連

 現代の教会でも、牧師などを「先生」と呼ぶことがある。本箇所のことをしらないわけでもなく、「これは尊敬を込めた言い方だから」「この言葉は我々のそういう慣例とは主旨が違う」などとして、自分たちの間での「先生」という語の使用はよしとされている。役職名(「〇〇牧師」「〇〇神父」)で呼べば済むことだが、そうすると、「〇〇牧師と呼ぶと、なにか呼びつけのような雑な感じがする」などといって、結局、「先生」と呼ぶのを止められない。こうしたややこしい人間の性(さが)というものが、「先生」と互いに呼び合って自尊心をくすぐり合い、真理から離れる原因の一つであろう。

 礼拝説教の結びとして

 イエス・キリストは、律法学者やファリサイ派の偽善を鋭く指摘されました。しかしその批判は、単なる非難ではなく、私たち自身への問いかけでもあります。
 私たちは、神の言葉を語る者・聞く者として、言葉と行いが一致しているでしょうか。人に見せるためではなく、神に仕えるために生きているでしょうか。
 主は言われました──「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と。
 高ぶる者ではなく、へりくだる者こそが神の国で高められる。私たちが互いに兄弟姉妹として歩む時、そこにキリストの御心が現れます。
 どうかこの週も、誠実な心で主に仕え、隣人に仕える者となれますように。肩に重荷を負わせるのではなく、共に担い、共に祈り、共に歩む者となれますように。
 私たちの教師はただ一人、キリストです。主の御言葉に従い、へりくだって歩みましょう。

祈り

 恵み深い天の父なる神よ。あなたの御言葉によって私たちの心を照らしてくださり感謝いたします。
 主イエスが語られたように、私たちが言葉だけでなく行いにおいても誠実である者となれますように。
 人に見せるためではなく、あなたに仕えるために、へりくだった心をもって歩むことができますように。
 私たちが誰かに重荷を負わせるのではなく、共に担い、祈り、励まし合う兄弟姉妹として生きることができますように。
 あなたの前では私たちは皆平等です。どうか私たちの中の高ぶりを取り除き、仕える喜びを教えてください。

 私たちの教師はただ一人、キリストです。主の教えに従い、日々の歩みの中であなたの光を映す者とならせてください。
 偽善ではなく、真実の愛と謙遜をもって、あなたに栄光を帰す者となれますように。
 この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。