説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ福音書
23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)
マタイ福音書は、共観福音書の中でもとりわけマルコ福音書を主要資料として用いていると広く認識されている。しかしマタイは、マルコを単純に踏襲するのではなく、叙述の整理、神学的観点に基づく修正、物語構造の再編成を加えながら、自身の福音書を構築している。本章では、マルコに対するマタイの修正・改変の主要な特徴を整理し、そこに見られる神学的方向性(特に律法理解とイエス像・弟子像)を明らかにする。
マルコに対するマタイの編集方針は、概ね以下の六点に集約できる。
マルコに対するマタイの修正は多岐に及ぶが、概ね以下の通りに集約される。
1 記事内容の簡潔化および文体・表現の修正
2 旧約引用・成就句の付加によるユダヤ的正統性の強調
3 ユダヤ教指導者批判の強化
4 イエス像の修正・補足
5 弟子像の修正・補足
6 律法理解の修正・補足
*2はマタイ独自の神学的要素の付加。3以下は主にマルコ神学の調整・修正に関わる。
マタイは、マルコに比べて冗長な表現や物語展開を削ぎ落とし、文体を整える傾向を示す。語彙選択や文法構造を調整し、論点が明確に伝わるよう再構成している。以下、その代表的な用例を抽出する。
・マルコ1:32 // マタイ8:16
ἔφερον πρὸς αὐτὸν πάντας τοὺς κακῶς ἔχοντας καὶ τοὺς δαιμονιζομένους
「彼らは彼のもとに、悪いところを持つ人々、そして悪霊憑きの全ての人々を運んで来ていた」
→ προσήνεγκαν αὐτῷ δαιμονιζομένους πολλούς·
「彼らは彼のもとに、多くの悪霊憑きの人々を運んで来た」
・マルコ4:38 // マタイ8:25
Διδάσκαλε, οὐ μέλει σοι ὅτι ἀπολλύμεθα;
「先生、私たちが滅びても構わないのですか?」
→Κύριε, σῶσον, ἀπολλύμεθα.「主よ、救ってください、滅びそうです」
弟子たちの不安表現を、祈願文形式へと転換。
・マルコ2:10-11 // マタイ9:6
冗長な命令文が、マタイ9:6では簡素化されている。
・マルコ1:41 // マタイ8:3
「深く憐れんで」という感情描写を削除。
・マルコ5:8 // マタイ8:29
ἔλεγεν γὰρ αὐτῷ· Ἔξελθε τὸ πνεῦμα τὸ ἀκάθαρτον ἐκ τοῦ ἀνθρώπου
「彼(イエス)は彼(悪霊)に言っていた(からである)。出て行け、穢れた霊よ、その人から」
→マタイ8:29。削除。
・マルコ5:23 // マタイ9:18
ἵνα σωθῇ καὶ ζήσῃ(彼女が救われ、生きるように)の削除。
・マルコ5:35-36 // マタイ9:23
二段階描写の削除
・マルコ6:48 // マタイ14:24
場面描写の簡素化など。
マルコ福音書において εὐθύς(27回)および εὐθέως(14回)は合計41回使用されており、マタイでは18回、ルカ14回、ヨハネ6回と比較しても際立って多い。これらの語は、マルコ1:15 における「神の国の接近」を受け、物語が急展開していくことを示す機能を担っている。そのため、読者および登場人物へ向けて、即時の決断と行動が求められる状況を強調する語彙として働くものであり、マルコ神学を特徴づける重要な語の一つと位置づけられる。だが、マタイは上述のマルコ的意味合いをある程度は保持しながらも、不必要と思われるものについては大幅にカットしている。
・マルコ1:12 //マタイ4:1
καὶ εὐθὺς τὸ πνεῦμα αὐτὸν ἐκβάλλει 「そしてすぐに霊が彼を追いやった」
→Τότε ὁ Ἰησοῦς ἀνήχθη… 「その時、イエスは導かれて」
その他に、マルコ1:10 //マタイ3:16、マルコ1:30 //マタイ8:14などがある。他方、保持している箇所としては、例えば弟子たちの召命記事が挙げられる(マルコ1:18 // マタイ4:20、マルコ1:20 //マタイ4:22)。
マルコ福音書における五千人の供食(6:30–44)と四千人の供食(8:1–10)を、マタイは 14:13–21 と 15:32–39において保持している。しかしマタイは、マルコに顕著に見られる弟子叱責のモティーフを削除し、両記事に共通のテンプレートを与えることで、同じような出来事が二度あったにすぎないとの印象を読者に与える編集を行っている。
マルコが示す強い弟子批判の動機づけを、この処理によってマタイは弱化していると見なすことができる。また、この用例は「マルコにおける弟子像の変更(マタイによる弟子像の穏当化)」という視点からも重要である。
マタイの特徴的神学要素として、旧約聖書の引用および「〜が成就するためであった」という成就句の頻繁な挿入が挙げられる。これにより、イエスの生涯と行為とを、イスラエルの救済史の連続線上に明確に位置づけ、イスラエル史における教会の正統性が主張されている。
誕生物語から受難記事に至るまで、マタイはマルコにはない旧約引用を加えている。
マタイがマルコに対して独自に付加した旧約引用、また、マルコに記載されている旧約引用を長文化、もしくは改変している用例は、以下の通り。
マタイ1:22-23(イザヤ7:14)、2:5-6(ミカ5:1)、2:15(ホセア11:1)、2:17-18(エレミヤ31:15)、2:23(イザヤ11:1、士師13:5?)、マタイ4:14-16(イザヤ8:23-9:1 LXX9:1-2)、8:17(イザヤ53:4)、9:13(ホセア6:6)、マタイ12:17-21(イザヤ42:1-4)、マタイ13:14-15(イザヤ6:9-10、長文化)、21:4-5(イザヤ62:11、ゼカリヤ9:9)、27:9-10(ゼカリヤ11:12-13、エレミヤと表記されている)、27:46(マルコ15:34の詩編引用をアレンジ)。
・マタイ1:1-17での系図の付加。
・イエスの出生地をベツレヘムとする誕生関連記事の追加(2:1-12)。
・マタイ23章における、ファリサイ派と律法学者への「不幸だ」宣言の追加。
・イエス殺害のユダヤ人の責任を明確化(27:25)。
・マルコ3:21 「身内が取り押さえに来た」「気が変になっていると思った」
→マタイ12:46-50において削除
・マルコ6:5 // マタイ13:58
οὐκ ἐδύνατο ἐκεῖ ποιῆσαι οὐδεμίαν δύναμιν「力ある業を何一つ行うことができなかった」
→οὐκ ἐποίησεν ἐκεῖ δυνάμεις πολλὰς
「多くの力ある業をしなかった」へ修正
イエスの万能性に疑義が生じる記述を、マタイはイエスの意志として書き換えている。
マルコ6:3 // マタイ13:55
οὐχ οὗτός ἐστιν ὁ τέκτων 「この人は職人ではないか?」
→οὐχ οὗτός ἐστιν ὁ τοῦ τέκτονος υἱός; 「この人は職人の息子ではないか?」
イエスを労働者階級の人間とするマルコの表現を、マタイは父親がそうであったと変更している。神格化が進む過程で、マタイはマルコの表現を直裁過ぎると判断したと考えられる。
・マルコ4:13 // マタイ13:18
Οὐκ οἴδατε τὴν παραβολὴν ταύτην; καὶ πῶς πάσας τὰς παραβολὰς γνώσεσθε;
「この譬えも分からないのか?どうして全ての例えを理解できようか?」
→マタイ13:18では、二重の修辞疑問文による激しい批判を、全削除している。
・マルコ6:52 // マタイ14:33
οὐ γὰρ συνῆκαν ἐπὶ τοῖς ἄρτοις, ἀλλ᾽ ἦν αὐτῶν ἡ καρδία πεπωρωμένη.
「パンのことを理解せず、心が固くなっていた」
→マタイはマルコの無理解モティーフを削除し、神の子礼拝に置換している。
・マルコ8:17-21 // マタイ16:8-12
マルコにおける弟子の無理解のモティーフ→マタイは大幅に緩和。
・マルコ8:29-30 // マタイ16:17-23
ペトロに対する「この岩の上に私の教会を建てる」宣言が新規に付加されている。
・マルコ7:19
καὶ εἰς τὸν ἀφεδρῶνα ἐκπορεύεται…καθαρίζων πάντα τὰ βρώματα
「便所に出て行く……全ての食べ物を清いとした」
→食物規定を無意味化しかねないこの文言を、マタイは削除。
・マルコ2:27 // マタイ12:1-8
Τὸ σάββατον διὰ τὸν ἄνθρωπον ἐγένετο, καὶ οὐχ ὁ ἄνθρωπος διὰ τὸ σάββατον·
「安息日は人のために生じた、人が安息日のためではない」
→安息日論争は保持しつつも、マタイはこれを削除。
・マルコ10:11-12 // マタイ5:32, 19:9
「自分の妻を離縁し、他の女性と結婚する者は誰でも、彼女に対して姦淫を犯す」
→παρεκτὸς λόγου πορνείας(「不貞の場合を除いて」)を付加
マルコにおける無条件的な離婚禁止を、「不貞」場合の例外を加えて実用的に。
・マルコ1:40-45 // マタイ8:1-4 「重い皮膚病を患っている人の癒し」
祭司による完治チェックと清めの献げ物の遵守を指示した後、患者が言い広める
→言い広めの展開を削除し、遵守規定の指示をもって整然と結ぶ。
・マタイ5:17-20の追加
マタイは、マルコにはない同箇所を追加している。
「わたしが律法や預言者を廃するために来たと思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである……律法から一点一画も決して消え去ることはない」
上述のマルコにおけるマタイの反応から見て、律法を既に廃棄されたもののように扱うマルコの神学的方向性を修正し、律法の一点一画の有効性を強調している。
マルコにおける律法の神学的方向性に対する、マタイの修正点は下記のとおり。
マタイは、マルコに見られる律法の相対化・境界越境的傾向を調整し、律法の有効性と継続性を明示的に肯定する神学を打ち出している。その結果、
・律法は廃されるのではなく成就されるべきこと。
・イエスは律法破壊者ではなく完成者として描かれる。・
教会はイスラエル信仰の正統継承者として位置づけられる。
以上の点において、マタイ福音書は、マルコ神学を継承しつつも、明確な修正と再解釈を施した神学的再構成と評価できる。
マタイ福音書はマルコ福音書を主要資料としつつ、叙述の簡潔化と神学的再構成を通して独自の方向性を打ち出している。とくに旧約引用と成就句の付加によって教会のユダヤ的正統性を強調し、イエス像・弟子像を整え、律法の相対化に見えるマルコ的傾向を修正した。律法は廃されるのではなく成就されるものとされ、イエスは律法破壊者ではなく完成者として描かれる。
イエス時代の1世紀のユダヤにおいて、自らをユダヤにおいて到来が待ち望まれていたところのメシアと僭称した偽メシア(ψευδόχριστοι、偽キリスト)」は、マタイ福音書24:5, 11, 24においても言及されている。同時代のユダヤ人歴史家ヨセフスに基づき、代表的な偽メシアたちを以下に列挙する。
参照、使徒言行録 5:36「以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。」
「さて、フェストゥスがユダヤの総督であった間に、ある詐欺師が現れ、自分は預言者であると称し、民衆に対して、「私に従ってヨルダン川へ行けば、神の言葉によって川が分かれ、容易に渡ることができるようになる」と約束した。多くの人々が彼の言葉に惑わされ、彼に従った。
20.97 フェストゥスがユダヤの総督であった時代に、一人の詐欺師が現れ、自分は預言者であると名乗り、人々に向かってこう語った。「私に従ってヨルダン川へ行けば、神の言葉によって川は分かれ、あなたがたは容易に渡ることができるようになる」と。多くの人々が彼の言葉に惑わされ、彼に従った。20.98 しかしフェストゥスは、このような行動が反乱に発展するのを防ぐため、騎兵部隊を派遣した。その結果、多くの者が殺され、また多くが捕らえられた。その詐欺師自身も捕らえられ、首を斬られ、その首はエルサレムへ運ばれた。20.99 このように、人々を惑わし、神の力を自分自身の業であるかのように装う者たちは、民衆の無知と愚かさにつけ込み、彼らをしばしば破滅へと導いたのである。
2.259 さて、この時代には、民衆を扇動して騒乱へと導く者たちが数多く現れた。彼らは、神の霊感を受けているかのように装い、荒野へ出るよう人々に勧め、そこで神が彼らに救済のしるしを示してくださると約束した。2.260 しかしこれらの者たちは、真理を語る者ではなく、民衆の心を惑わし、彼らを破滅へと導く詐欺師であった。多くの人々が彼らに従い、正気を失ったかのように振る舞った。2.261 総督フェリクスは、これらの集団行動が反乱へと発展することを恐れ、騎兵部隊と歩兵部隊を派遣した。その結果、多くの者が殺され、また多くが捕らえられた。2.262 中でも、エジプト人と呼ばれる者は、 自分は預言者であると称し、三万人もの人々を引き連れて荒野からオリーブ山へと登った。2.263 彼は、そこからエルサレムへ侵入し、ローマ軍を打ち倒し、自らが民衆の支配者となることを目論んでいた。しかしフェリクスはこれを未然に察知し、軍をもって迎え撃ち、多くを殺し、また捕らえた。その首謀者は逃亡したが、二度と姿を現すことはなかった。
20.167 フェリクスの統治下においても、詐欺師や偽預言者たちが次々と現れ、民衆を扇動して荒野へと導いた。彼らは、神がそこで自由のしるしを示してくださると告げ、人々に彼らを救済者であるかのように信じ込ませた。20.168 しかしフェリクスは、これらの動きが反乱に結びつくことを恐れ、軍を派遣して彼らを討ち、多くの者を殺し、また捕らえた。このようにして、民衆を惑わす者たちは、自らの虚偽によって滅びを招いたのである。
2.433–434そのころ、ガリラヤのユダの子であるメナヘムという者がいた。彼は仲間を率いてマサダ要塞を奇襲し、そこに保管されていた武器を奪取した。そしてその武器を配下の者たちに分け与え、彼らの指導者となった。2.435–437メナヘムは武装した一団を引き連れてエルサレムに入城した。彼は次第に王であるかのように振る舞い、尊大な態度を取り始め、人々に対しても、他の反乱指導者たちに対しても、専制的に命令するようになった。2.438–440その傲慢な振る舞いのために、彼は多くの反感を買った。とりわけ、神殿を掌握していたエレアザル一派との間に深刻な対立が生じ、反乱勢力の内部で主導権を巡る争いが激化した。2.441–445やがて神殿での混乱の中で、メナヘムは捕らえられた。彼は人々の前で引きずり回され、王のように装っていた衣装を剥ぎ取られ、激しい辱めを受けた。2.446–448その後、メナヘムは拷問を加えられた末に殺害された。こうして、王を僭称した者の支配は、完全に終わりを告げた。彼の仲間たちも散り散りになり、その勢力は瓦解した。
4:1以降、「蒔かれた種」の例えに始まり、「例えで話す理由」「『蒔かれた種』の解説」と続き、その後に「秤の例え」「ともし火の例え」が記されている。本箇所は、その流れを受けて、新たに「神の国」を主題とする例え話が展開されていく。
「26 また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。』」
26 Καὶ ἔλεγεν· Οὕτως ἐστὶν ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ ὡς ἄνθρωπος βάλλῃ τὸν σπόρον ἐπὶ τῆς γῆς,
27 καὶ καθεύδῃ καὶ ἐγείρηται νύκτα καὶ ἡμέραν, καὶ ὁ σπόρος βλαστᾷ καὶ μηκύνηται, ὡς οὐκ οἶδεν αὐτός.
すなわち、種を蒔いた人間側の介入なしに、種が自力で芽を出し、勝手に成長していくことが強調されている。人の関与は種蒔きまでであり、その後の種の自発的な成長──すなわち人知れず進む「神の国」の成長・進展・進行──こそが本箇所の主題である。それゆえ、「蒔かれた種」の例えのように受け取り側の問題ではなく、神の働きの神秘がここでは強調されている。
「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」
αὐτομάτη ἡ γῆ καρποφορεῖ, πρῶτον χόρτον, εἶτα στάχυν, εἶτα πλήρη σῖτον ἐν τῷ στάχυϊ.
神の国の自律的な成長について、植物の豊かな表現とともに語られている。核心となる語は「ひとりでに」(αὐτομάτη)である。植物の自律的な成長に例えられてはいるが、その本質は、神が成長を実現するということであり、別の言葉でいえば、人の手を介さずに行われる神の主権的な働きである。
「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
ὅταν δὲ παραδῷ ὁ καρπός, εὐθὺς ἀποστέλλει τὸ δρέπανον, ὅτι παρέστηκεν ὁ θερισμός.
「早速、鎌を入れる(εὐθὺς ἀποστέλλει τὸ δρέπανον)」:新共同訳の「早速」は、マルコが好んで使用する「すぐに」(εὐθύς)に対応する語である。マルコ福音書では、事態が待ったなしに進行するため、人が即時の決断を迫られることがしばしば示されている。
ここまでの文脈は「神の国の成長」であるが、本節では、神による収穫、すなわち神の審判、あるいは救済の到来、神の支配の完成といった側面が暗示されている。
今日の「成長する種」のたとえは、私たちに二つの大切な真理を示しています。
一つは、神の国の成長は人の理解や努力を超えて進むということです。人は種を蒔くことはできますが、その後の芽吹きや成長そのものは、人の手によるものではありません。神の国も同じように、人知れず、しかし確実に、神の御業によって進展していきます。私たちが見えないところで神は働いておられるのです。それゆえ、私たちには「待つこと」が求められます。成長や進展が見えなくても、背後に神の働きがあることを信じ、信仰的な忍耐が必要です。
もう一つは、神の国の成長には段階があるということです。茎が出て、穂ができ、やがて実が熟すように、神の国も一足飛びではなく、時を経て完成へと向かいます。私たちはその過程を待ち望み、やはり先と同様に、忍耐をもって歩むよう招かれています。
そして最後に、収穫の時は必ず来るということです。神の国の完成、すなわち神の裁きと救いの時は、突然に、しかし確実に訪れます。その時、神は「すぐに」鎌を入れられるのです。だからこそ、私たちは今の時を大切にし、神の国のために備え、信仰をもって歩むことが求められています。
「パウロの全体教会政治学」(2024年)
【キリスト教解説】『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)とその悲惨な末路 ーイエスはイスカリオテのユダの裏切りを評価した?
『信徒の友』2018年10月号所収、「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第7回「イエスに香油を注いだ女性」
タイトル:イエスに香油を注いだ女性
聖句:「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12:3)
絵画のデータ:シャンパーニュ「ファリサイ派シモンの家でのキリスト」、1656年頃、musée des beaux arts de nantes。
今回のエピソードは、ある一人の女性がイエスに香油を注ぎかけた出来事です。この物語は、マタイ26・6-13、マルコ14:3-9、ヨハネ12・1-8において記されています。また、ルカ7・36-50には、女性がイエスに香油を注ぐという点で共通するこのエピソードによく似た記事が見られますが、場面設定や物語の背後に秘められたメッセージ等、相違点も多く認められ、マタイやマルコの記事とは別物として扱われることが多いです。ルカについては後ほどまとめて触れるとして、まずはマタイ、マルコ、ヨハネそれぞれの記述を追っていきましょう。
マタイ、マルコ、ヨハネは、このエピソードの場所をエルサレムにほど近い「ベタニア」としている点で一致しています。このことから、この逸話は「ベタニアでの香油注ぎ」というように呼び習わされています。ただし、マタイとマルコは香油注ぎの舞台となった家を「重い皮膚病の人シモンの家」(マタイ26・6、マルコ14・3-9)とし、この出来事が生じたタイミングをエルサレム入城以後の受難が間近い頃としている一方で、ヨハネは「イエスが死者の中からよみがえらせたラザロ」とその姉妹であるマリアとマルタが住んでいた村という説明を加え、その時期を「過越祭の六日前」と設定しています(ヨハネ12・1)。ヨハネではエルサレム入城はヨハネ12・12-19に書かれていますから、マタイ、マルコと相違してこの出来事はエルサレム入城“以前”ということになります。さらに、マタイとマルコは香油を注いだ女性のことを「一人の女」と呼んでいますが、ヨハネでは上記の「マリア」と明記しています。
読者の多くの方々は、今回のエピソードについて「女性がイエスに香油を注いだあの物語・・・」といったように記憶されているでしょう。ところが実は、福音書をそれぞれ見比べてみると、場面設定だけでもこんなにも違うのです。なぜこのようなことが起きるのでしょうか。簡単に言えば、福音書に記されている物語の背後に“伝承”と呼ばれるものがあって、それが異なった場所や時代において流布していく過程で、様々に変化を遂げていったためでしょう。このことを踏まえて、物語の先を読んでいきましょう。
イエスが家の中にいると(マルコとヨハネは「食事の席に着いて」いた時としています)、かの女性が「高価」な「香油」を携えて近づいてきました。マルコとヨハネはこの香油について、「純粋」「ナルドの香油」と説明しています(マルコ14・3、ヨハネ12・3)。「ナルド」はインド産の植物で、その根茎からは香料が採取され当時の世界で珍重された他、富裕なユダヤ人女性も愛用したことで知られています。彼女はイエスに香油を捧げるのですが、福音書ごとに香油を注いだ(塗った)箇所が異なります。マタイとマルコは「イエスの頭に(香油を)注ぎかけた」と記している一方、ヨハネは「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12・3)と書いています。頭に香油を注ぐシーンは、後述の受難死の暗示だけではなく、古代のイスラエルにおける王の任職式の際の油注ぎをも想起させます。“王の王”という暗示的なメッセージと、受難死という対極的な主題との間に、激烈なコントラストが秘められています。他方、足に香油を塗って自分の髪で拭う場面は、足の塵を払う仕事は奴隷でさえも負わなかったという慣習と合わせて考えると、謙遜の極みの姿勢を意味すると同時に、“謙遜”や“親愛”といった単体の言葉では表現できない、愛も悲しみも何もかも入り混じったような複雑で劇的な叙情性をもたらしています。特に、「家は香油の香りでいっぱいになった」という言葉ほど芳しい(かぐわしい)香り立つ表現は、世界中どこを探しても見つけることはできないでしょう。
ところが、そんな激しいまでの情愛と思慕の世界を粉々に打ち砕く展開が続きます。マタイでは「弟子たち」、マルコでは「そこにいた人の何人か」、ヨハネでは「イスカリオテのユダ」が、「なぜ、こんな無駄使いをするのか」と難癖をつけます。マルコとヨハネで述べられている彼(彼ら)の言葉は正論です。「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マルコ14・5、マタイはこれを要約し「売って、貧しい人々に施すことができたのに」)。上述の通り、ヨハネにおいてこの言葉はイスカリオテのユダによって発せられており、彼の魂胆もまた詳らかにされています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(12・6)。
イエスは、こうした批判から彼女をかばいます。「なぜこの人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(マタイ26・11、マルコ14・6)。そして、マタイ、マルコ、ヨハネは一致して、彼女の香油注ぎを、埋葬時に遺体に塗油する習慣と自身の受難死の予告とに巧みに結び合せています。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」(マタイ26・12)。
マルコ福音書を参考にして自分の福音書を書いたと考えられているルカは、本来ならルカ22章2節と3節の間に配置されるはずの香油注ぎの記事を採用していません。その代わりに彼は、これと似ている別の記事を、イエスのガリラヤでの活動期に相当する7章に置いています。その記事は、女性がイエスに香油を塗り、居合わせた人が不満を抱くという点では香油注ぎと共通しているものの、場所もタイミングもまるで違う物語となっています(場所は「ファリサイ派の人」の「家」、時期はガリラヤでの宣教活動時代というエルサレム入城より遙か以前)。
マタイ、マルコ、ヨハネでは、受難を目前にしたタイミングということも相まって、受難死の予兆としての色彩が強い一方で、ルカではこれら三書にはない“愛と赦しの相関関係”という主題が展開されています(ルカ7・47「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」)。また、彼女は「罪深い女」(娼婦を意味するのでしょう)と表記され、ヨハネと同様にイエスの頭ではなく足に塗油して、自らの髪の毛で拭っています。そうして、“多く赦された者は、より深く主を愛する”というテーマが鮮烈に示されています。
後代、この「罪深い女」は、ルカ8・2の「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と同一視されるようになりました。実際のところ、「罪深い女」がマグダラのマリアである根拠は何もありません。しかし、いつしかそのような見方が定着し、マグダラのマリアは長い髪を持つ美しい女性というイメージが形成され、やがて荒れ野の女性修道士その他の伝説とも結合して、最終的には、本誌4月号の特集で紹介されたようなマグダラのマリアをモティーフとした多くの絵画が生み出されていったのです。
今回ご紹介する絵画は、17世紀のフランス古典主義時代における画家シャンパーニュが描いた「ファリサイ派シモンの家でのキリスト」です。4月号で紹介した「エマオの食事」以来、シャンパーニュは2回目となります。彼はエレガントで艶っぽい人物表現を得意とし、マグダラのマリアやヨハネ福音書4章の“サマリアの女性”も描いており、この絵でもその才能が遺憾なく発揮されています。イエスとシモンが向き合う構図と明瞭な色彩、そして、それを際立たせるボンヤリとした後景の人物描写が巧みです。
「エマオの食事」の絵画中には猫が書き込まれていたのですが、こちらの絵では猫ばかりか犬も登場しています。一般的な解釈として、犬は忠実の証で、猫は疑念の象徴です。よって、すがりつく犬はイエスに対する信頼を表し、物陰から顔を覗かせる猫は、愛の欠如と不満の思いを象徴すると解釈されます。ただ、個人的な印象としては、彼自身は犬や猫を素朴に愛していて、こうした象徴論は犬や猫を自分の絵画に描き込むための口実に近く、遊び心の表れのように感じます。他人の真摯な言動に腹を立てぬよう、遊び心を大切にしたいものです。
文脈としては、4:1–20「種蒔く人」の例え話の続きであり、「聞く者」「理解する者」について強調された直後。この箇所では、神の国の秘儀は隠されるべきものではなく、明らかにされるためにあるという主題が提示される。
全7個の「あなたがたは不幸だ」(Οὐαὶ ὑμῖν)宣言の6個目である。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι παρομοιάζετε τάφοις κεκονιαμένοις, οἵτινες ἔξωθεν μὲν φαίνονται ὡραῖοι, ἔσωθεν δὲ μεστοί εἰσιν ὀστέων νεκρῶν καὶ πάσης ἀκαθαρσίας.
「白く塗った墓(τάφοις κεκονιαμένοις)」:葬りの時期(アダルの月の15日)に墓跡を石灰で白く塗る習慣があった。これは、巡礼者が墓に触れて穢れを受けることを避けるためである。「白く塗る」という意味の κονιάω という動詞が用いられている。
穢れた墓を白く塗って外観を美しく整える様をもって、ファリサイ派が内面の醜さを隠し、外面のみを装う滑稽さが痛烈に皮肉られている。
このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
οὕτως καὶ ὑμεῖς, ἔξωθεν μὲν φαίνεσθε τοῖς ἀνθρώποις δίκαιοι, ἔσωθεν δὲ ἐστε μεστοὶ ὑποκρίσεως καὶ ἀνομίας.
ファリサイ派や律法学者すべてが偽善的であったわけではない。しかし、イエスに批判的・敵対的であった彼らの多くが、外側だけの美しさを保ちながら、内面を顧みることなく細部や外面ばかりに注力していた。その皮肉な様が、白く塗られた墓という強烈なイメージをもって示されている。明示されてはいないが、この皮肉・滑稽さを決定的にしている要素は、彼ら自身がそのことを自覚していない点にある。
今日の箇所で語られている主イエスの言葉は、単なる過去の宗教指導者への批判ではありません。白く塗られた墓の譬えは、私たち自身の心を映す鏡でもあります。外側を整え、正しく見せることは容易ですが、主なる神が見ておられるのは、その内側です。そこに偽善や不法が満ちているなら、いえ、それらが私たちの内面にあるのは必然であるとしても、その事実に自分が気づいていないのならば、どれほど外見を飾っても意味はありませんし、滑稽でしかありません。
イエスは私たちに、外側の美しさではなく、内側の真実を求めておられます。その真実さ、あるいは誠実さとは、自分のありのままの姿を自覚し、それでも神が愛してくださることを感謝する思いに他なりません。それこそが、真の「正しさ」、すなわち「義」を生み出します。律法を教える者であっても、信仰を語る者であっても、まず自らの内を主に照らしていただくことが必要です。
ですから、この御言葉は私たちに問いかけます。私たちは人の目にどう見えるかを気にして歩んでいないでしょうか。主の前に正しくあることを第一とし、心の奥にまで福音を染み込ませているでしょうか。
白く塗られた墓ではなく、内も外も主にあって清められた器として歩む者となりましょう。偽善ではなく誠実を、不法ではなく神の義を、外側の飾りではなく内側の真実を求めるとき、私たちは主に喜ばれる生き方をすることができます。
旧約聖書には、「人は外の姿を見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)という言葉あります。そのように、私たちの日々の営みを主の光に照らしていただきつつ、真実な信仰者として生きる者となりましょう。
新共同訳
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
原文
Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι καθαρίζετε τὸ ἔξωθεν τοῦ ποτηρίου καὶ τῆς παροψίδος, ἔσωθεν δὲ γέμουσιν ἁρπαγῆς καὶ ἀκρασίας.
7つの災いの宣言の5個目。律法学者とファリサイ派における、外側の取り繕いと内側の腐敗のギャップが非難されている。
「杯(ποτήριον)や皿(παροψίς)」:いずれも食卓に置かれるもの。これまでの例えと同様、日常生活から例えが引き出されている。外側が念入りに洗われていても、内側に汚れが残っているというのは滑稽である。そのように、外側は宗教的、あるいは信仰的で綺麗な装いがなされていても、自分自身の人間としての内側が汚れていることに注意を払わない彼らが、皮肉的に批判されている。
「強欲と放縦(ἁρπαγή, ἀκρασία)」:ἁρπαγήは、七十人訳聖書の箴言5:14、ミカ2:2において「略奪」「強奪」を意味する。ἀκρασίαは、語としては節制の欠如を表す。神の前において外面ではなく内面が問われるという、マタイ神学と一致している。
新共同訳
ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
原文
Φαρισαῖε τυφλέ, καθάρισον πρῶτον τὸ ἐντὸς τοῦ ποτηρίου, ἵνα γένηται καὶ τὸ ἔξωθεν αὐτοῦ καθαρόν.
「ものの見えないファリサイ派の人々(Φαρισαῖε τυφλέ)」:これまでと同様、瑣末なことに宗教的注意を注いでいても、肝心なことには無頓着である態度を示す。
「まず……内側をきれいにせよ」: 「まず(πρῶτον)」は最優先事項を意味する。同様の用例として、マタイ6:33(「まず神の国と神の義を求めなさい」)が挙げられる。
「外側もきれいになる」:「外側」とはこれまでの流れでは、彼らの細かなことに至るまでの律法遵守を指す。「外側」が否定されているわけではないことに注意したい。これらも必要ではあるが、最重要事項が空洞化していては意味がない、というスタンスである。
主イエスは律法学者やファリサイ派の人々に向かって、外側ばかりを飾り立て、内側の汚れに目を向けない姿勢を戒められました。杯や皿の外側を洗っても、私たちの内側が強欲と放縦に満ちているなら、それは神の前にあって何の意味もありません。それこそ主がおっしゃっているように、「災い」であります。
私たちもまた、信仰生活の中で「外側」を整えることに心を奪われがちです。礼拝に出席し、祈りを口にし、奉仕に携わることは大切です。しかし、もし心の内側に自己中心や欲望が支配しているなら——というよりも、自分がそんな状態にあることにすら気づいていないなら——外側の美しさというものは、滑稽なほどに虚しいものとなります。
イエスは「まず、杯の内側をきれいにせよ」と命じられました。これは、私たちの心を神の前に差し出し、悔い改めと赦しを受けることを最優先にせよという、神の招きです。内側が清められるとき、外側の行いも自然に整えられ、真実な信仰の姿が現れていきます。
ですから今日、私たちは自分の心の内側に目を向けたいと思います。神の光に照らされ、自らの隠れた面を見つめ直し、キリストの十字架の赦しにあずかりましょう。そのとき、私たちの外側もまた、神の栄光を映し出す器とされます。
第2パウロ書簡とは、パウロ自身が執筆したと判断されている、いわゆる「真正パウロ書簡」とは異なり、パウロの弟子や後継者、あるいはパウロ系の共同体が、パウロの思想を継承しつつ、パウロ書簡を模倣する形で執筆した書簡群を指す学術用語である。
一般的には、以下の6書が第2パウロ書簡とされる。
エフェソの信徒への手紙
コロサイの信徒への手紙
テサロニケの信徒への手紙二
テモテへの手紙一
テモテへの手紙二
テトスへの手紙
第2パウロ書簡はパウロ書簡を元に執筆されるので、パウロ書簡成立以降の成立も考えられるが、通常はパウロの死後からしばらく、早くて60年代後半以降、遅くて牧会書簡(1テモテ、2テモテ、テトス)の成立時期と推定される1世紀末とされる。
説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ福音書 22 :15-22 22:23-33 22:34-40 22:41-46「ダビデの子についての問答」 23:1-12「律法学者とファリサイ派の人々を批判する」 23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:...