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2025年11月17日月曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解  マタイ23:13–36 ⑤ 23:25–26

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36 ⑤ 23:25–26


 25節

新共同訳
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。

原文
Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι καθαρίζετε τὸ ἔξωθεν τοῦ ποτηρίου καὶ τῆς παροψίδος, ἔσωθεν δὲ γέμουσιν ἁρπαγῆς καὶ ἀκρασίας.

7つの災いの宣言の5個目。律法学者とファリサイ派における、外側の取り繕いと内側の腐敗のギャップが非難されている。

「杯(ποτήριον)や皿(παροψίς)」:いずれも食卓に置かれるもの。これまでの例えと同様、日常生活から例えが引き出されている。外側が念入りに洗われていても、内側に汚れが残っているというのは滑稽である。そのように、外側は宗教的、あるいは信仰的で綺麗な装いがなされていても、自分自身の人間としての内側が汚れていることに注意を払わない彼らが、皮肉的に批判されている。

「強欲と放縦(ἁρπαγή, ἀκρασία)」:ἁρπαγήは、七十人訳聖書の箴言5:14、ミカ2:2において「略奪」「強奪」を意味する。ἀκρασίαは、語としては節制の欠如を表す。神の前において外面ではなく内面が問われるという、マタイ神学と一致している。


 26節

新共同訳
ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

原文
Φαρισαῖε τυφλέ, καθάρισον πρῶτον τὸ ἐντὸς τοῦ ποτηρίου, ἵνα γένηται καὶ τὸ ἔξωθεν αὐτοῦ καθαρόν.

「ものの見えないファリサイ派の人々(Φαρισαῖε τυφλέ)」:これまでと同様、瑣末なことに宗教的注意を注いでいても、肝心なことには無頓着である態度を示す。

「まず……内側をきれいにせよ」: 「まず(πρῶτον)」は最優先事項を意味する。同様の用例として、マタイ6:33(「まず神の国と神の義を求めなさい」)が挙げられる。

「外側もきれいになる」:「外側」とはこれまでの流れでは、彼らの細かなことに至るまでの律法遵守を指す。「外側」が否定されているわけではないことに注意したい。これらも必要ではあるが、最重要事項が空洞化していては意味がない、というスタンスである。


 説教の結びの言葉として

 主イエスは律法学者やファリサイ派の人々に向かって、外側ばかりを飾り立て、内側の汚れに目を向けない姿勢を戒められました。杯や皿の外側を洗っても、私たちの内側が強欲と放縦に満ちているなら、それは神の前にあって何の意味もありません。それこそ主がおっしゃっているように、「災い」であります。

 私たちもまた、信仰生活の中で「外側」を整えることに心を奪われがちです。礼拝に出席し、祈りを口にし、奉仕に携わることは大切です。しかし、もし心の内側に自己中心や欲望が支配しているなら——というよりも、自分がそんな状態にあることにすら気づいていないなら——外側の美しさというものは、滑稽なほどに虚しいものとなります。

 イエスは「まず、杯の内側をきれいにせよ」と命じられました。これは、私たちの心を神の前に差し出し、悔い改めと赦しを受けることを最優先にせよという、神の招きです。内側が清められるとき、外側の行いも自然に整えられ、真実な信仰の姿が現れていきます。

 ですから今日、私たちは自分の心の内側に目を向けたいと思います。神の光に照らされ、自らの隠れた面を見つめ直し、キリストの十字架の赦しにあずかりましょう。そのとき、私たちの外側もまた、神の栄光を映し出す器とされます。

2025年11月16日日曜日

第2パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistles)

第2パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistles)

1. 第2パウロ書簡の定義

 第2パウロ書簡とは、パウロ自身が執筆したと判断されている、いわゆる「真正パウロ書簡」とは異なり、パウロの弟子や後継者、あるいはパウロ系の共同体が、パウロの思想を継承しつつ、パウロ書簡を模倣する形で執筆した書簡群を指す学術用語である。

 一般的には、以下の6書が第2パウロ書簡とされる。

  • エフェソの信徒への手紙

  • コロサイの信徒への手紙

  • テサロニケの信徒への手紙二

  • テモテへの手紙一

  • テモテへの手紙二

  • テトスへの手紙


2. 第2パウロ書簡の特徴

1. 語彙や文体、内容の相違
 第1テサロニケ書やロマ書といったパウロ真正書簡の語彙、文体、内容と似てはいるが、異なる点が複数指摘される。

2. パウロ以降の教会の教義や教会構造の反映
 教義内容や教会構造が、パウロの時代よりも後代のものであることが観察される。またその内容は、個々の教会の特別な事情に絡むものよりも、より一般化された内容に慣らされている。
3. 神学的特徴
 内容の神学的特徴としては、発展した教会論、再臨遅延に対する対応(2テサロニケなど)、宇宙論的な救済論(エフェソ、コロサイ)、パウロ的な義認論、ユダヤ人の救済論の後退が


3. 成立時期

  • 第2パウロ書簡はパウロ書簡を元に執筆されるので、パウロ書簡成立以降の成立も考えられるが、通常はパウロの死後からしばらく、早くて60年代後半以降、遅くて牧会書簡(1テモテ、2テモテ、テトス)の成立時期と推定される1世紀末とされる。



説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」


概要

4:1-9の「蒔かれた種の例え」の直後、4:10で「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた」とあった。4:11-12では例え話論が挟み込まれているが、展開としては4:10に直接続くようにして本箇所が展開されている。ここでは、弟子たちの質問に答えるようにして、先の例えの解説が為されていく。

注解

13節

新共同訳 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」
原文 καὶ λέγει αὐτοῖς· Οὐκ οἴδατε τὴν παραβολὴν ταύτην; καὶ πῶς πάσας τὰς παραβολὰς γνώσεσθε;
 理解が及ばない「十二人」に対する叱責の言葉となっている。マルコのいわゆる「弟子の無理解」のモティーフが鮮明な箇所。
  • 「このたとえが分からないのか(Οὐκ οἴδατε...)」:「十二人」は群衆以上に教えまたは啓示を受けられる立場にありながら、理解(γινώσκω「知る」)できないことが叱責されている。否定疑問文によってそれが強調されている。弟子の無理解のモティーフは、彼らを貶めたり、その権威を否定することが目的の批判というよりも、権威を持つ持たないではなく、誰であれ理解していく弟子こそ真の弟子として相応しいということを主張するもの。マルコ福音書の読み手が彼らの役を担っていくように、という意図が込められているのではないか。
  • 「どうして……理解できるだろうか」:未来形の疑問文が使われている。未来における可能性が問われている。

14–15節

新共同訳 14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
原文 14 ὁ σπείρων τὸν λόγον σπείρει.
15 οὗτοι δέ εἰσιν οἱ παρὰ τὴν ὁδὸν ὅπου σπείρεται ὁ λόγος· καὶ ὅταν ἀκούσωσιν, εὐθὺς ἔρχεται ὁ Σατανᾶς καὶ αἴρει τὸν λόγον τὸν ἐσπαρμένον εἰς αὐτούς.
 蒔かれた種の例えの解説が、本節より開始されている。
  • 「種を蒔く人(ὁ σπείρων)」:「神の言葉を蒔く」、すなわち神の言葉を宣べ伝える弟子たち、宣教者、信徒たちを指す。現在分詞が使われていて、”今も蒔き続けている”というニュアンスを持つ。
  • 「言葉(ὁ λόγος)」:新共同訳では「神の言葉」とあるが、原文では冠詞付きの「言葉」のみ。イエスの言葉、教え、神の国、啓示、福音、これらを総合的に指す。
  • 「サタン(ὁ Σατανᾶς)」:マルコでは「イエスの誘惑」の1:13 他、3:23, 26、またイエスによるペトロ叱責の言葉(8:33)で見られる。人を神から引き離す超自然的な霊的存在。ここでは人々を聴従から引き離す原因としてサタンが挙げられているが、15節以降が示しているように、総じて人々の心掛けが焦点とされている。
  • 「道端のもの(οἱ παρὰ τὴν ὁδόν「道の傍にいる者たち」)」:固く踏み締められた道が種を弾く、すなわち神の言葉を柔らかい土のように受け止めることができない態度を意味する。たとえ聞いたとしても、聞き入れるわけではないということ。
  • 「すぐに(εὐθύς)」:マルコが好む語。事態は急速に変化するゆえに、信仰者は決断も「すぐに」せねばならない。

16–17節

新共同訳 16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
原文 καὶ οὗτοι ὁμοίως εἰσιν οἱ ἐπὶ τὰ πετρώδη σπειρόμενοι, οἳ ὅταν ἀκούσωσιν τὸν λόγον, εὐθὺς μετὰ χαρᾶς λαμβάνουσιν αὐτόν·
καὶ οὐκ ἔχουσιν ῥίζαν ἐν ἑαυτοῖς ἀλλὰ πρόσκαιροί εἰσιν, εἶτα γενομένης θλίψεως ἢ διωγμοῦ διὰ τὸν λόγον, εὐθὺς σκανδαλίζονται.
 艱難や迫害、つまり試練に対する耐性がなく、挫折するタイプについて述べられている。
  • 「石だらけの所に(ἐπὶ τὰ πετρώδη)」:岩地の上に土層が薄く載っただけの場所。一時的な感情の高まり(「すぐに喜んで(εὐθὺς μετὰ χαρᾶς)」)で「御言葉」を受け入れるものの、それはあくまで一時的で「根(ῥίζα)」を持つものではないために成長せず、「つまずいてしまう」(σκανδαλίζω)事例を表す。
  • 「しばらく(πρόσκαιροί)」:一時的という意味。πρός(前置詞「〜へ、〜に対して」)+ καιρός(時、好機)という語の構造から言えば、「その時へ」、すなわちその時だけの一時しのぎのような意味合い。
  • 「艱難や迫害が起こると(γενομένης θλίψεως ἢ διωγμοῦ διὰ τὸν)」:属格絶対構文で、状況的な条件を表す。
  • 「つまずいてしまう」:語源は、人を罠にかけて転ばせる棒。この語はマルコで8回使用されている(4:17; 6:3; 9:42, 43, 45, 47; 14:27, 29)。いずれも信仰の営みが頓挫する事態を意味する。マルコ福音書の執筆時、マルコの教会が経験していた迫害と、信仰からの離反を背景としている可能性が高い。

18–19節

新共同訳 18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
原文 18 καὶ ἄλλοι εἰσιν οἱ εἰς τὰς ἀκάνθας σπειρόμενοι· οὗτοί εἰσιν οἱ τὸν λόγον ἀκούσαντες,
19 καὶ αἱ μέριμναι τοῦ αἰῶνος καὶ ἡ ἀπάτη τοῦ πλούτου καὶ αἱ περὶ τὰ λοιπὰ ἐπιθυμίαι εἰσπορευόμεναι συνπνίγουσιν τὸν λόγον, καὶ ἄκαρπος γίνεται.
  • 「茨(ἀκάνθη)」:「この世の思い煩い(αἱ μέριμναι τοῦ αἰῶνος)」「富の誘惑(ἡ ἀπάτη τοῦ πλούτου)」「その他いろいろな欲望」(αἱ ἐπιθυμίαι)を指すと述べられている。
  • 「御言葉を覆いふさいで(συνπνίγουσιν)」:原語は「窒息死する」という意味合いを持つ。その人の信仰者としての成長を阻み、また生活というライフばかりか、命という意味でのライフをも死に至らせるという主旨。

20節

新共同訳 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
原文 καὶ ἐκεῖνοί εἰσιν οἱ ἐπὶ τὴν καλὴν γῆν σπαρέντες, οἳ ἀκούουσιν τὸν λόγον καὶ παραδέχονται καὶ καρποφοροῦσιν, ἓν τριάκοντα καὶ ἓν ἑξήκοντα καὶ ἓν ἑκατόν.
  • 「良い土地(蒔かれた)(ἐπὶ τὴν καλὴν γῆν)」:倫理的に「良い」ということではない。神の言葉を聞き(ἀκούουσιν)、受け入れ(παραδέχονται)、そして「実を結ぶ(καρποφοροῦσιν)」人たちとされている。成長の3段階が意識されていて、それぞれ「聞く」「受け入れる」「実践」に対応する。また、明記されていることではないが、土地は種を受け止めるのが役割で、実を結ぶ力そのものは種に内包されている。実を結ぼうとする実践は大事だが、種、すなわち神の言葉の力が豊作を実現することを意識したい。
  • 「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」:誇張された文学的表現(参照:創世記26:12)。4章全体の例えの基調である成長する神の国という主題を象徴する文言でもある。

説教の結びとしての言葉

 今日、主イエスがお語りになった「蒔かれた種の例え」は、単なる農夫の物語ではありません。私たちと関係のない人の話でもありません。これは、私たち一人ひとりの心の状態、あるいは信仰的な態度を映し出す鏡のようなものです。
 道端のように固く閉ざされた心、岩地に土が薄く載っただけの浅い心、種々の茨に覆われた心――それらは、神の言葉という種を受けても実を結ぶことができません。しかし「良い土地」とは、御言葉を聞き、受け入れ、そして実を結ぶ心です。
 ここで大切なことは、実を結ぶ力が私たち自身の努力だけにあるのではなく、むしろ蒔かれた「種」そのものにあるということです。私たちはただ、その言葉を受け入れる柔らかな土となるように心を整えるのです。すると、その種は私たちの人生において、三十倍、六十倍、百倍の実を結び、私たちの人生を豊かにし、また周囲の人々をも豊かにします。
今日、私たちが問われているのは――「私の心はどのような土地なのか」ということです。固く閉ざされた道端ではなく、浅い石地でもなく、茨に覆われた心でもなく、神の言葉を受け入れ、育み、実を結ぶ「良い土地」となりましょう。
 「聞く者は聞きなさい」(マルコ4:9)――この呼びかけに応えて、私たちの心を良い土地とし、神の言葉の種を豊かに実らせる者となろうではありませんか。

学術的ノート

(※内容不変。文献名・スペース・句読点などを整形)
  • マルコ4:13 エルサレム教会の系譜に由来する4:11-12の伝承に対して、マルコは4:13をもって批判。弟子の無理解を表す。
     田川建三『マルコ福音書 上巻』292–293頁。
  • 4:13 マタイとルカは、イエスによる弟子たちへの批判を削除。要確認。並行箇所付加。
     マタイは4:13を削除(マタイ13:10-17)。ルカも4:13を削除(ルカ8:9-10)。
  • 4:13 種蒔きの譬えが他の譬えを理解するのに決定的であることを意味するとする。
     Witherington, Mark, 168.
  • 4:13 kai legei autois = 前マルコ伝承。
     Pesch, Markus 1, 241.
     Gnilka, Markus 1, 173.
     一方、Guelich はどちらとも判断し難いとしている(Guelich Mark, 219)。
  • 4:13b 伝承:Pesch, Markus 1, 243。マルコ:Grundmann, 125。
     Schweizer, ZNW 56 (1965), 6–7。
     元々伝承でも、マルコによって構成されている(Guelich, Mark, 219)。
  • ギノースケイン(γινώσκειν)は伝承に見出される:6:38; 13:28f; 15:10, 15
     Schweizer, "Mark's Theological Achievement," 59。
  • 4:13 弟子の無理解が示されているが、4:34 によってマルコの読者は、この問題が解決されていることに思い至るという。
     Tannehill, "The Disciples in Mark: The Function of a Narrative Role," 146。
  • 4:13b Bock によれば、否定疑問文は積極的な意味を持つ応答で、譬えの聞き手がやがて理解するようになることが暗示されているという。だが根拠は明示されていない。
     Bock, Mark, 177。
  • マルコの編集とする説:「神の国を打ち明けられている」(11節)はずの弟子たちが理解できていないという批判。
     川島貞雄『マルコによる福音書』101頁。
  • 比喩や幻が特別な人によって後から解説されるという黙示文学的特色。用語から見て伝承に属する導入句(川島貞雄『マルコによる福音書』98頁)。
     「ひとりに」(κατὰ μόνας)に対して、マルコは通常 kat’ idian。
     尋ねる erōtan に対して、マルコは通常 eperōtan。
  • マルコ4:13
     前マルコ伝承:Pesch 1:241、Gnilka 1:173。
     編集:Räsänen, Parabeltheorie 102–106。
     ダブルクエスチョン:7:18; 8:17。
  • 「この譬えを理解できないのか」
     伝承:Gnilka, Verstockung, 33; Pesch 1:243。
     編集:Grundmann, 125; Schweizer, ZNW 56 (1965), 6–7。
     asunetos, synienai:6:52; 7:18; 8:17, 21(Guelich, Mark, 219)。
  • 4:14-20 の解釈:新約書簡に典型的語。後の教会による解釈。教会の内側にこそ石、茨がある。
     E. シュヴァイツァー『イエス・神の譬え』82頁。

2025年11月12日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:13–16(④ 23:23–24)

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36 ④ 23:23–24


 23節

新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
原文 Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι ἀποδεκατοῦτε τὸ ἡδύοσμον καὶ τὸ ἄνηθον καὶ τὸ κύμινον, καὶ ἀφήκατε τὰ βαρύτερα τοῦ νόμου, τὴν κρίσιν καὶ τὸ ἔλεος καὶ τὴν πίστιν· ταῦτα δὲ ἔδει ποιῆσαι κἀκεῖνα μὴ ἀφιέναι.

 イエスは、神への誠実さなど内面的なものこそ、律法における最重要事項であるとする。他方、それを欠いた律法遵守に終始する律法学者、ファリサイ派の人々を批判している。
  • 「十分の一(ἀποδεκατοῦτε)」:薄荷(ἡδύοσμον)、いのんど(ἄνηθον)、茴香(κύμινον)は料理に使う香草類。これらが少量で細々とした物の代表例として挙げられ、彼らはこんな細かな物に至るまで、収入の「十分の一」を神殿に捧げる十分の一税(参照:レビ記27:30)を励行していると指摘。同時に、それが滑稽であるとイエスは批判している。
  • 「正義(κρίσις)、慈悲(ἔλεος)、誠実(πίστις)」:ユダヤ教における三つの徳。ミカ書6:8「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」を起源とする。なお、「誠実」と訳されているπίστιςは「信仰」とも訳される語。
  • 「十分の一の献げ物もないがしろにしてはならない(κἀκεῖνα μὴ ἀφιέναι)」:直訳では「そちらもまたおろそかにするべきではない」。句末の「これこそ行うべきことである。しかも、ほかのこともおろそかにしてはならない」(ἔδει…ταῦτα δὲ ἔδει ποιῆσαι κἀκεῖνα μὴ ἀφιέναι)は、律法廃棄ではなく、価値の優先順位を説く言葉である。イエスは細部の遵守そのものを否定せず、それを律法の核心(神への忠実さと隣人愛)と結びつけるよう求めている。

 24節

新共同訳 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
原文 ὁδηγοὶ τυφλοί, οἱ διϋλίζοντες τὸν κώνωπα, τὴν δὲ κάμηλον καταπίνουσιν.

 細則にこだわるわりには、本義を見失っていることが指摘されている。誇張された比喩によって、彼らの真理に対する盲目ぶりが描かれている。
  • 「ものの見えない案内人(ὁδηγοὶ τυφλοί)」:先の16節でも使用されていた呼称。自分は見えていると思い込んで人々を導こうとする彼らへの皮肉。
  • 「ぶよ(κώνωψ)」と「らくだ(κάμηλος)」:レビ記11章で汚れた動物とされている。κώνωψは κῶνος(円錐)と ὤψ(顔)の合成語。「ぶよ」は日本語では渓流などに生息する小虫を指すので、「蚊」の方が適切。それが溜めた水やワインにつくため、これらを飲む際には「漉す」必要があった。律法学者やファリサイ派が、蚊を漉すように律法の細部にこだわりながらも、遥かに重大な「正義、慈悲、誠実」をないがしろにする滑稽さが語られている。また、κώνωψは κάμηλος と発音上似ていることから、ギリシャ語テキスト上で語呂合わせが意図されている可能性がある。

 説教の結びの言葉として

 今日、私たちは、イエスが律法学者とファリサイ派の人々に向けて語られた厳しい言葉に耳を傾けました。彼らは律法の細部に熱心でありながら、神が本当に求めておられる「正義」「慈悲」「誠実」を見失っていました。
 イエスは、律法の細かな実践を否定されたのではありません。イエスも仰っている通り、それらもまた大切なことです。しかし、それ以上に、神と人とに対する愛と誠実さ、隣人への思いやり、そして正しい裁きを行う心が、信仰の根幹であると教えておられます。
 「ぶよを漉してらくだを飲み込む」――この誇張された比喩は、私たち自身の姿を映す鏡でもあります。私たちもまた、形式や習慣にとらわれるあまり、神の御心、神の定めの本義を見失ってはいないでしょうか。
 どうか今日から、私たちの信仰が外側の行いだけでなく、内なる誠実さと愛に根ざしたものとなりますように。神の御前において、私たちが真に重んじるべきものを見極め、それを実践する者とされますように。

2025年11月9日日曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイによる福音書 28章1-10節

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイによる福音書 28章1–10節


 1節

新共同訳 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
原文 Ὀψὲ δὲ σαββάτων, τῇ ἐπιφωσκούσῃ εἰς μίαν σαββάτων, ἦλθεν Μαρία ἡ Μαγδαληνὴ καὶ ἡ ἄλλη Μαρία θεωρῆσαι τὸν τάφον.
  • 「マグダラのマリアともう一人のマリア」:後者については27:56において「ヤコブとヨセの母マリア」とされる。当時の社会において、証言者としての地位が低かった女性が、イエスの十字架・埋葬・復活の目撃者とされている点は注目される。マルコでは、彼女たちが墓を訪れた理由を遺体に香料を塗るためとしていたが、三日目にそれを行う不自然さを考慮してか、マタイでは単に「見に行った」と書き換えられている。
  • 「安息日が終わって……週の初めの日(Ὀψὲ δὲ σαββάτων…εἰς μίαν σαββάτων)」:文字通りには「安息日の後」あるいは「安息日の遅く」。日没をもって安息日は終わり、日没後から新しい週の第一日が始まる。
  • 「明け方(τῇ ἐπιφωσκούσῃ)」:ἐπιφώσκω は、接頭辞 ἐπι-(〜の上に、〜に向かって)と動詞 φώσκω(光る、夜が明ける)の複合語。すなわち「夜明けに向かう時」を意味する。地平線の上に太陽の光が差し込み始める情景を描写している可能性がある。並行箇所ルカ23:54でも同様の表現が用いられている。

 2節

新共同訳 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
原文 καὶ ἰδοὺ σεισμὸς ἐγένετο μέγας· ἄγγελος γὰρ κυρίου καταβὰς ἐξ οὐρανοῦ καὶ προσελθὼν ἀπεκύλισε τὸν λίθον καὶ ἐκάθητο ἐπάνω αὐτοῦ.
  • 「大きな地震(σεισμὸς μέγας)」:神的介入を象徴する典型的事象の一つであり、神の臨在や意志の表れを示す場合がある。27:51におけるイエスの絶命時にも同様の描写がある。
  • 「主の天使(ἄγγελος κυρίου)」:ἄγγελος は「遣わされた者」の意で、「使い」「御使い」とも訳される。マルコでは「白い長い衣を着た若者」(16:5)、ルカとヨハネでは二人の天使が登場するが、マタイでは一人に簡略化されている。
  • 「その上(石)に座った(ἐκάθητο ἐπάνω αὐτοῦ)」:転がされた石の上に天使が座る場面は、不可能に思われる出来事に対する神の勝利を象徴する。

 3節

新共同訳 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
原文 ἦν δὲ ἡ εἰδέα αὐτοῦ ὡς ἀστραπὴ καὶ τὸ ἔνδυμα αὐτοῦ λευκὸν ὡς χιών.
  • 「稲妻のように(ὡς ἀστραπὴ)」:地震と同様、稲妻もしばしば神の介入や栄光の象徴として用いられる(参照:ダニエル書10:6)。
  • 「雪のように白かった(λευκὸν ὡς χιών)」:「白」は神性・聖性・栄光の象徴であり、「雪」はその純粋さを強調する。

 4節

新共同訳 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
原文 ἀπὸ δὲ τοῦ φόβου αὐτοῦ ἐσείσθησαν οἱ τηροῦντες καὶ ἐγενήθησαν ὡς νεκροί.
  • 「番兵たち(οἱ τηροῦντες)」:27:65–66において、ピラトから墓の警備を命じられた兵士たちを指す。マタイ独自の記述であり、キリスト教徒がイエスの遺体を隠したとするユダヤ側の批判への反論的要素を含むと考えられる。
  • 「死人のようになった(ἐγενήθησαν ὡς νεκροί)」:神的出来事を前にした人間の無力さを象徴する。生者が「死人」となり、死人が甦るという対比的構図を形成している可能性がある。

 5–6節

新共同訳
5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」
原文 5 ἀποκριθεὶς δὲ ὁ ἄγγελος εἶπεν ταῖς γυναιξίν· Μὴ φοβεῖσθε ὑμεῖς· οἶδα γὰρ ὅτι Ἰησοῦν τὸν ἐσταυρωμένον ζητεῖτε· 6 οὐκ ἔστιν ὧδε· ἠγέρθη γὰρ καθὼς εἶπεν· δεῦτε ἴδετε τὸν τόπον ὅπου ἔκειτο.
  • 「恐れることはない」:原文では「あなたたちは恐れるな」と強調されており(ὑμεῖς)、恐怖に震える番兵との対比が意識されている。
  • 「十字架につけられたイエス(Ἰησοῦν τὸν ἐσταυρωμένον)」:完了分詞が用いられ、婦人たちの認識ではイエスは依然として十字架につけられた存在であるが、神の現実においてはすでに復活しておられる。「ここにおられない」という不在の事実が、復活の証拠として語られている。
  • 「復活なさったのだ(ἠγέρθη)」:アオリスト受動態であり、「神によって復活させられた」という意味を含む。
  • 「かねて言われていたとおり(καθὼς εἶπεν)」:イエスによる受難と復活の予告(16:21、17:23、20:19)を指す。
  • 「さあ、見なさい(δεῦτε ἴδετε)」:直訳では「来て見よ」。遺体なき場所を見ることにより、復活の現実を悟るよう促している。

7節

新共同訳 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。
原文 καὶ ταχὺ πορευθεῖσαι εἴπατε τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ ὅτι ἠγέρθη ἀπὸ τῶν νεκρῶν, καὶ ἰδοὺ προάγει ὑμᾶς εἰς τὴν Γαλιλαίαν· ἐκεῖ αὐτὸν ὄψεσθε· ἰδοὺ εἶπον ὑμῖν.
  • 「急いで行って(ταχὺ πορευθεῖσαι)」:マルコ神学と同様に、神の出来事に応答する行動の迅速さが強調される。喜ばしい知らせに駆り立てられるようなスピード感も含意される。
  • 「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」:「先に行く」(προάγει)は「導く」の意味もあり、イエスが弟子たちを先導するニュアンスがある。この復活顕現の予告は26:32にすでに述べられている。
  • 「確かに、あなたがたに伝えました(ἰδοὺ εἶπον ὑμῖν)」:直訳すれば「見よ、私はあなたたちに言った」。復活の知らせが確かに伝えられたことを強調している。

 8節

新共同訳 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
原文 καὶ ἀπελθοῦσαι ταχὺ ἀπὸ τοῦ μνημείου μετὰ φόβου καὶ χαρᾶς μεγάλης ἔδραμον ἀπαγγεῖλαι τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ.
  • 「恐れながらも大いに喜び(μετὰ φόβου καὶ χαρᾶς μεγάλης)」:直訳では「恐れと共に、大きな喜び」。神の臨在に対する畏れと喜びが同時に生起する(詩篇2:11、歴代誌下20:27–29)。
  • 「急いで墓を立ち去り……走って行った」:復活の出来事を知らせる行動が、迅速かつ情熱的に描かれている。

 9節

新共同訳 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
原文 καὶ ἰδοὺ Ἰησοῦς ὑπήντησεν αὐταῖς λέγων· Χαίρετε· αἱ δὲ προσελθοῦσαι ἐκράτησαν αὐτοῦ τοὺς πόδας καὶ προσεκύνησαν αὐτῷ.
  • 「おはよう」:原文では「喜びなさい」(Χαίρετε)。日常の挨拶であると同時に、復活の「喜び」を象徴する言葉となっている。
  • 「足を抱き」:原語は「足をつかんで」。復活のイエスが霊ではなく身体を持つ存在であることを示す。
  • 「ひれ伏した(προσεκύνησαν)」:礼拝を意味する行為であり、イエスを神として崇める教会の信仰を象徴する。婦人たちは最初の「復活の証人」にして、最初の「復活のイエスへの礼拝者」とされた。

 10節

新共同訳 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
原文 τότε λέγει αὐταῖς ὁ Ἰησοῦς· Μὴ φοβεῖσθε· ὑπάγετε ἀπαγγείλατε τοῖς ἀδελφοῖς μου ἵνα ἀπέλθωσιν εἰς τὴν Γαλιλαίαν, κἀκεῖ με ὄψονται.

 マルコ福音書の本文(後代の付加を除く)では、ガリラヤでの顕現記事が欠落しているが、マタイはこれを補完し、28:16–20のいわゆる「大宣教命令」に至る構成としている。
 イエスを見捨てた弟子たちは、再び呼び戻され、宣教の使命を託される。ここに、赦しと再任命の福音的展開が示されている。


2025年11月5日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③16-22)

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36(① 23:13-15、② 23:15)

 概要

 マタイ23:13-36には、各部の冒頭にいわゆる「七つの災い(οὐαί)」の宣言が置かれ、律法学者とファリサイ派に対するイエスの批判の言葉が七つ連続して並んでいる。


 ① マタイ23:13–15

 13節

新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
原文 οὐαὶ δὲ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι κλείετε τὴν βασιλείαν τῶν οὐρανῶν ἔμπροσθεν τῶν ἀνθρώπων· ὑμεῖς γὰρ οὐκ εἰσέρχεσθε οὐδὲ τοὺς εἰσερχομένους ἀφίετε εἰσελθεῖν.
  • 「不幸だ」(οὐαί):律法学者とファリサイ派の人々が「偽善者」と呼ばれて断罪されている(23:15、23、25、29)。そのトーンは預言者による神の裁きの宣告である。彼らの言動は「天の国を閉ざす」ものであり、開くどころではない。
  • 「入ろうとする人をも入らせない」:「入らせない」(ἀφίετε εἰσελθεῖν)においては「赦す」と訳される動詞が使われているが、ここでは「妨げる」という意味で用いられている。入らせるのが使命であるはずのユダヤ教の教師が、かえって妨げると言われている点に、痛烈な皮肉が込められている。

 14節

新共同訳 学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。
原文 οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι κατεσθίετε τὰς οἰκίας τῶν χηρῶν καὶ προφάσει μακρὰ προσεύχεσθε· διὰ τοῦτο λήμψεσθε περισσότερον κρίμα.
 後代のビザンティン系などの写本には上記の原文が含まれているが、シナイ写本・バチカン写本などには見られない。本文批評上の観点から、Nestle–Aland第28版およびUBS第5版では本文から除外されている。マルコ12:40およびルカ20:47に並行箇所があるため、写本家による付加と考えられる。

 ② マタイ23:15

 15節

新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
原文 οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι περιάγετε τὴν θάλασσαν καὶ τὴν ξηρὰν ποιῆσαι ἕνα προσήλυτον, καὶ ὅταν γένηται, ποιεῖτε αὐτὸν υἱὸν γεέννης διπλότερον ὑμῶν.

マタイ福音書における「偽善者(ὑποκριτής)」
 マタイ福音書に特徴的な用語であり、マタイ神学の中心的柱の一つである。
同語は元来「俳優・役者」を意味し、「演じる」を意味するὑποκρίνομαιから派生した。古代ギリシャ演劇では俳優が仮面を装着して演じたことから、外面は整っていても内面が伴わない様を表す語として定着した。
 マタイはこれを、表面上は敬虔な宗教者を演じながらも、内実は虚栄心と私利私欲にまみれた律法学者・ファリサイ派を批判するイエスの言葉に取り入れている。イエスの時代のこととして語られているが、マタイ自身の時代における宗教的偽善への批判も込められている。
 マタイ福音書における使用回数は群を抜いて多く、とくに本章では「不幸だ」という宣告と共に繰り返し用いられている。主な用例として、人に見せるための偽善的行為(6:2、5、16)、自分の落ち度に気づかず人のそれを取ろうとする行為(7:5)、口先だけの崇敬(15:7)、イエスを陥れようとするファリサイ派への呼びかけ(22:18)などがある。

  • 「改宗者」(προσήλυτος):ユダヤ教に改宗した異邦人を指す。ユダヤ教は閉鎖的な民族宗教ではなく、改宗者を受け入れることにも一定の熱意を持っていた。その様子が「海と陸を巡り歩く」と皮肉を込めて描写されている。ただし、男性の改宗者には割礼が要求された。
  • 「自分よりも倍も悪い地獄の子」(ποιεῖτε αὐτὸν υἱὸν γεέννης διπλότερον):直訳すれば「彼を二倍の地獄の子にする」。彼らよりもさらに悪い偽善者が再生産されることを皮肉っている。
  • 「地獄」(γέεννα)は、ヨシュア記15:8における「ベン・ヒンノムの谷」(גֵּיא בֶן־הִנֹּם, gê ben-Hinnom、「ヒンノムの子の谷」)に由来する。人身供犠が行われた場所として悪名高く(列王記下23:10、エレミヤ7:31–32)、後に発音上の類似から「地獄」を意味する語へと転化した。

 ③23:16–22

 16節
新共同訳 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と言う。
原文 οὐαὶ ὑμῖν, ὁδηγοὶ τυφλοί, οἱ λέγοντες· ὃς ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ ναῷ, οὐδέν ἐστιν· ὃς δ' ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ χρυσῷ τοῦ ναοῦ, ὀφείλει.
 「何かを証人として立てての誓い」については、すでに5:33–37で述べられていた。「誓う」という主題はこの箇所と共通し、内容的にも連なっている。
  • 「ものの見えない案内人」(ὁδηγοὶ τυφλοί):直訳は「盲目の案内者たち」。何が見えていないのかが、以下で明らかにされる。
  • 『神殿にかけて誓えば……だが、神殿の黄金にかけて誓えば……』:「誓う」(ὀμνύω)行為は敬虔な宗教行為の代表であり、基本的には神を証人として立てるもの(参照:レビ19:12、マタイ5:33以下)。イエスの時代にはこれが細則化され、誓いの対象によって次のようなランクづけがなされていた。
  1. 「神の名」による誓い=最高度の義務性
  2. 「神殿の黄金」「祭壇の供え物」による誓い=中程度の義務性
  3. 「神殿」「祭壇」による誓い=低程度の義務性
 総じて、神殿や祭壇といった建物は低く、神そのものが最高位に置かれた。

 17–18節
新共同訳 17 愚かで、ものの見えない者たち。黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。18 また、「祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と言う。
原文 17 μωροὶ καὶ τυφλοί· τίς γὰρ μείζων, ὁ χρυσός ἢ ὁ ναὸς ὁ ἁγιάζων τὸν χρυσόν;
18 καί· ὃς ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ θυσιαστηρίῳ, οὐδέν ἐστιν· ὃς δ' ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ δώρῳ τῷ ἐπάνω αὐτοῦ, ὀφείλει.
  • 「愚かで目の見えぬ人たち」(μωροὶ καὶ τυφλοί):ここでは、物事に対する盲目性に加えて愚かさが指摘されている。
  • 「黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」:イエスは、神殿よりも黄金のほうが価値があるとする論理を逆転させ、神殿が黄金を清めるゆえに神殿のほうが尊いと論じている。ここでの神殿は単なる建物ではなく、神と結びつくものとして位置づけられている。黄金という物質的価値よりも神性のほうが重要であるという基本原則を理解していない彼らの「盲目」を、イエスは指摘している。

 19–20節
新共同訳 19 ものの見えない者たち。供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
原文 19 τυφλοί· τίς γὰρ μείζων, τὸ δῶρον ἢ τὸ θυσιαστήριον τὸ ἁγιάζον τὸ δῶρον;
20 ὁ οὖν ὀμόσας ἐν τῷ θυσιαστηρίῳ, ὀμνύει ἐν αὐτῷ καὶ ἐν πᾶσι τοῖς ἐπάνω αὐτοῦ.
 論理の構造は先の神殿の黄金の件と同様である。供え物よりも、それを清める祭壇のほうが尊いという論理であるが、根底にある意図は、清める力の源は神にあり、律法学者たちはその点を見失い、数量化された物の比較に目を奪われているということにある。
  • 「祭壇とその上のすべてのものにかけて誓う」:祭壇か供え物か、という議論自体が無意味であると結論づけられている。

 21節
新共同訳 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。
καὶ ὁ ὀμόσας ἐν τῷ ναῷ, ὀμνύει ἐν αὐτῷ καὶ ἐν τῷ κατοικοῦντι ἐν αὐτῷ.
神殿にかけて誓うとは、その神殿に臨在する神に誓うことを意味する。
  • 「住んでおられる方にかけて」(ἐν τῷ κατοικοῦντι):「住む」「居住する」「定住する」を意味する κατοικέω が用いられている。七十人訳聖書の語彙に由来し、旧約において神が住まう場所としては、①イスラエルの民の中(出25:8、29:45)、②聖所・幕屋(出25:8)、③エルサレム(詩135:21)、④いと高きところ(詩113:5)、⑤暗雲(列王上8:12–13)などが挙げられる。
 神殿にかけて誓うとは、すなわち神に誓うのと同じことである。5:33–37における「誓ってはならない」という主題との関連で言えば、何に誓うかをくどくど語るのではなく、事実を直裁に語ればよい、という結論に至る。

 22節
新共同訳 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
καὶ ὁ ὀμόσας ἐν τῷ οὐρανῷ, ὀμνύει ἐν τῷ θρόνῳ τοῦ θεοῦ καὶ ἐν τῷ καθημένῳ ἐπάνω αὐτοῦ.
 21節と同様、天にかけて誓うとは、すなわち「神の玉座に座しておられる」神に誓うことを意味する。神を証人として立てているという一点に集約される。誓いを立てる者は、それを深く心に留めておくべきであり、神不在の誓いをなさないよう戒められている。

説教の結びの言葉として

 マタイ23章に記されたイエスの言葉は、単なる過去の宗教指導者への批判ではなく、今を生きる私たちへの深い問いかけでもあります。
 イエスは、外見だけの敬虔さや形式的な信仰を厳しく戒め、神の国への真の道を閉ざす偽善を断罪されました。誓いの問題においても、イエスは物質や儀式よりも、神ご自身との関係の本質を見失ってはならないと教えてくださいました。神殿に誓うことは、そこに住まわれる神に誓うこと。天に誓うことは、神の玉座に座しておられる方に誓うこと。つまり、私たちの言葉も行いも、すべて神の御前にあるということです。この一点こそ大切です。
 今日の箇所を通して、イエスは私たちにこう語りかけておられます。「あなたの信仰は、仮面をかぶったものではないか。あなたの言葉は、神の臨在を意識したものか」
 どうか私たちが、外見ではなく心から神を求め、真実に生きる者となれますように。神の国の門を閉ざす者ではなく、開く者として、隣人を導く光となれますように。主の憐れみにより、私たちが偽善から離れ、誠実な信仰者として歩むことができますように。

2025年11月2日日曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解  マルコ4:1–9「蒔かれた種の例え」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 

マルコ4:1–9「蒔かれた種の例え」

並行箇所:マタイ13:1–9、ルカ8:4–8

 概要

 マルコ4:1–34は例え話集となっていて、最初の「蒔かれた種の例え」のほか、成長する種の例え、からし種の例えが収録されている。同時に、この例え話の解説(4:13–20)および例えを用いて語る理由(4:10–12、4:33–34)も記されている。
種を蒔く人の譬え話は、例えやその解説の中で「土地」に注目されていることもあって、種が蒔かれた土地、すなわち神の言葉を聞いた人々の話として理解されてきた。だが、近年はこの解釈が見直され、種を蒔く側の人々、すなわち神の言葉を宣べ伝える者の労苦を物語る例えとして読む見解もある。
 例えの構造としては、四種類の地面と種の運命が描かれており、4種の土地は神の言葉という種を聞いた4タイプの人間の寓意である。

参考文献(注解書などを除いた研究論文などの一部)

上村静「蒔かれた種のたとえ(マルコ4:3–8)―神の支配の光と影―」『新約学研究』第42巻、日本新約学会、2014年。

 1節

新共同訳 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆がそばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
Καὶ πάλιν ἤρξατο διδάσκειν παρὰ τὴν θάλασσαν· καὶ συνάγεται πρὸς αὐτὸν ὄχλος πλεῖστος, ὥστε αὐτὸν εἰς πλοῖον ἐμβάντα καθῆσθαι ἐν τῇ θαλάσσῃ, καὶ πᾶς ὁ ὄχλος πρὸς τὴν θάλασσαν ἐπὶ τῆς γῆς ἦσαν.
  • 「イエスは、再び……」:Καὶ πάλινはマルコに特徴的な接続句(2:13など参照)。複数回にわたり、イエスが弟子たちや群衆に教えられたことを示している。
黙想:人に伝える、教えるということは容易ではない。イエスでさえも繰り返し教えを続けねばならず、失敗も多かったことがうかがえる。
「おびただしい群衆が……集まって来た」:群衆が集まった理由が、イエスの奇跡の業を求めたのか、教えを聞こうとしたのかは判然としない。「おびただしい群衆」(ὄχλος πλεῖστος)は直訳すると「大勢の群衆」であり、冗長的ではあるが、イエスの人気と宣教の影響力を強調する表現である。
  • 「湖のほとりで」:ガリラヤ湖のこと。「再び」という語も暗示するように、イエスの宣教活動の中心地の一つ。
  • 「舟に乗って腰を下ろし」:ユダヤ教におけるラビは講話の際に座して語った。教師としての基本姿勢である。舟上から語る理由としては、①殺到する群衆を避けるため、②湖面の反響を利用して声を届かせるため、が考えられる。象徴的には、舟を教会の象徴、群衆をその言葉を聞く者とみなす解釈も可能である。

 2節

新共同訳 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
καὶ ἐδίδασκεν αὐτοὺς ἐν παραβολαῖς πολλά, καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς ἐν τῇ διδαχῇ αὐτοῦ·
  • 「たとえでいろいろと教えられ」:イエスが例えを用いた理由は後の4:10–12で述べられる。「例え」(παραβολή)は本来「並べて置く」「対比する」の意。身近な事象を通して神の真理を悟らせることが目的である。イエスは日常の出来事を入口として、神の真理を理解させようとした。
  • 「その中で」:直訳では「その教えにおいて」。διδαχή(教え)はイエスの宣教の中核であり、旧約聖書の言葉の解釈や神の愛についての教えであったと考えられる。

 3節

新共同訳「『よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。』」
Ἀκούετε· ἰδοὺ ἐξῆλθεν ὁ σπείρων σπεῖραι.
  • 「よく聞きなさい」:原文は命令形で「聞け」。話の冒頭における注意喚起であり、この例えの根底にある「神の言葉を聞く」主題にもつながる。
  • 「種を蒔く人」(ὁ σπείρων):ここでは農夫を指すが、象徴的には神の言葉を蒔く者、すなわちイエス、弟子たち、後の宣教者たちを意味する。

 4節

新共同訳「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」
καὶ ἐγένετο ἐν τῷ σπείρειν, ὃ μὲν ἔπεσεν παρὰ τὴν ὁδόν, καὶ ἦλθεν τὰ πετεινὰ καὶ κατέφαγεν αὐτό.
  • 「ある種は……」:ὃ μὲν… ここから種のそれぞれの運命が描かれる。
  • 「道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」:道端は踏み固められており、種が土に入らず外に晒されるため、鳥に食べられてしまう。後の4:15では、この鳥がサタンとして解釈される。

 5–6節

新共同訳「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」
καὶ ἄλλο ἔπεσεν ἐπὶ τὸ πετρῶδες...
  • 「石だらけで土の少ない所」:直訳は「岩地の上」。パレスチナでは岩地が多く、薄く土が堆積した地形も珍しくない。
  • 「すぐ芽を出した」(εὐθὺς ἐξανέτειλεν):εὐθύςはマルコ特有の語。迅速な行動を意味するが、ここでは「短絡的・持続しない信仰」の暗示。岩盤が熱を保持しやすく、発芽が早いことも背景にある。
  • 「日(ὁ ἥλιος)」:試練や迫害の象徴。「焼けて」(ἐκαυματίσθη)は信仰の試練に耐えられない状態を示す。

 7節

新共同訳「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」
καὶ ἄλλο ἔπεσεν εἰς τὰς ἀκάνθας...
  • 「茨」(ἀκάνθαι):複数形。世の思い煩いや富の誘惑(4:18–19参照)を象徴する。
  • 「覆いふさいだ」(συνέπνιξαν):原義は「窒息させる」。信仰の成長を妨げるさまざまな要素を表す。
  • 「実を結ばなかった」(οὐκ ἔδωκεν καρπόν):信仰が人生に実を結ばなかったことを示す。

 8節

新共同訳「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
καὶ ἄλλα ἔπεσεν εἰς τὴν γῆν τὴν καλὴν...
  • 「良い土地」(τὴν γῆν τὴν καλὴν):καλήνは「良い」「美しい」の意。良い土地とは人間の善悪を指すのではなく、「聞く耳をもつ人」を意味する(9節参照)。
  • 「芽生え、育って」(ἀναβαίνοντα καὶ αὐξανόμενον):マルコ独自の表現。成長が途絶えることなく続いた結果を描く。
  • 「三十倍・六十倍・百倍」:当時の農業収穫の常識を超える値であり、神の恵みの豊かさを象徴する。
 3つの失敗例の後に1つの成功例が示されている。確率的な幸運ではなく、「成長が持続するときに実りは大きい」という教訓として理解されるべきである。豊かな実りは、育てる側と受ける側の双方の継続的な働きによってもたらされる。

 9節

新共同訳 そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。
καὶ ἔλεγεν· ὃς ἔχει ὦτα ἀκούειν ἀκουέτω.
  • 「聞く耳のある者は聞きなさい」:典型的な預言者的警句。「聞く」とは、単に聴くことではなく、聞いたことを行うことを含意する(マタイ7:24–29参照)。
  • 「聞く耳のある者」(ὃς ἔχει ὦτα):類似表現はマタイ11:15、黙示録2:7などに見られる。

 礼拝説教の結びとして

 イエスは、種を蒔く人の姿を通して、神の言葉を宣べ伝える者の労苦と希望を語られました。種が落ちる地面の違いは、私たち一人ひとりの心のあり方を映し出しています。
 道端のように心が閉ざされていると、言葉は根を張ることができない。岩地のように浅い信仰では、試練に耐えられない。茨のように世の誘惑に心を奪われると、実を結ぶことはできない。しかし、良い土地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶとイエスは仰っています。
 私たちの心が神の言葉を受け入れる「良い土地」となるよう、日々整えられていこう。聞く耳を持ち、聞いたことを行う者となることこそ、主の御心にかなう歩みです。

 祈りの言葉

 恵み深い天の父なる神様、
 あなたの御言葉を今日、私たちの心に蒔いてくださったことを感謝します。どうか私たちの心を耕し、あなたの言葉が根を張り、芽を出し、豊かに実を結ぶように、聖霊の働きによって導いてください。
 私たちが世の誘惑や試練に負けることなく、あなたの真理に立ち続けることができますように。宣教する者として、また聞く者として、あなたの御国の働きに忠実に仕える者としてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2025年11月1日土曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:10-12 「例えで語る理由」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:10-12 「例えで語る理由」

並行箇所 マタイ13:10-17、ルカ8:9-10


概要

 4:10-12は、「蒔かれた種の例え」の後に続く位置にあり、イエスが例えを用いて話す理由を内容上の中心とする。場面は、イエスが群衆から離れて「ひとりになられたとき」(4:10)でありつつも、周囲には弟子たちがいて、彼らだけに語られた「神の国の秘密」(4:11)とされている。すなわち、イエスのここでの言葉は、群衆に対して公になされた説教ではなく、弟子たちに限定して語られた言葉であることを念頭に置きたい。すなわち、奇跡目当てに集まっている、必ずしもイエスの言葉を聞くつもりのない人も含む群衆ではなく、聞く耳のある弟子たち、言い換えれば、聞く意志のある人たちを対象とした言葉である。
 イエスが例えをもって語る目的は、端的に言えば、聞こうとする耳を持ち、理解しようとする心を持つ人には神の真理は開かれるが、それを望まない人には閉ざされるということである。この二重性が、イザヤ6:9-10の引用をもって宣言されている。


10節

新共同訳 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
Καὶ ὅτε ἐγένετο κατὰ μόνας, ἠρώτων αὐτὸν οἱ περὶ αὐτὸν σὺν τοῖς δώδεκα τὰς παραβολάς.

  • 「ひとりに」(κατὰ μόνας)
     公の場面から、私的な場面への転換を示す。マルコでは他に、9:28にも同様の場面転換が見られる。

  • 「十二人と一緒にイエスの周りにいた人」
     十二人の使徒たち以外の弟子たちも含む。イエスの一行は、使徒たち以外の弟子たちもいる集団であった。あるいは、使徒たち以外の弟子=マルコの読者をも含む広い弟子共同体を意識しているのかもしれない。

  • 「たとえ(τὰς παραβολάς、複数形)」
     単に4:3–9における蒔かれた種の例えを指すのではなく、イエスの語った他の譬え全体を網羅する。


11節

新共同訳 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」
καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς· Ὑμῖν τὸ μυστήριον δέδοται τῆς βασιλείας τοῦ θεοῦ· ἐκείνοις δὲ τοῖς ἔξω ἐν παραβολαῖς τὰ πάντα γίνεται,

  • 「あなたがたには」(Ὑμῖν):人称代名詞が文頭で使用され、強調構文になっている。「外の人々」と弟子たちとの対照が意識されている。
  • 「(神の国の)秘密」μυστήριον:奥義とも。ヘレニズム的には秘儀宗教の「秘儀」を指す語。ユダヤ教では神の計画や啓示を意味する(参照、ダニエル2:18-19など)。

  • 「外の人々には」(τοῖς ἔξω)
     先行箇所の3:31-32では、家の「外」と内とが意識され、家の中でイエスを囲んで教えに耳を傾ける人々が、家族として呼ばれていた(3:34)。初期教会時代では、教会の信徒以外の一般社会を指す用語として定着した(参照、コロサイ4:5)。

  • 「すべてがたとえで示される」
     原語の直訳では「すべてが例えによって生じる」(ἐν παραβολαῖς τὰ πάντα γίνεται)。


 弟子たちや信徒、神の教えに喜んで耳を傾ける者たちには、神の真理が教え示される。一方、外部の人たちにも伝えられないわけではないが、聞く気がある人とない人とで、受容するか拒絶するかの結果がより出やすい「例え」で語られるということ。

12節

新共同訳 それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。
ἵνα βλέποντες βλέπωσιν καὶ μὴ ἴδωσιν, καὶ ἀκούοντες ἀκούωσιν καὶ μὴ συνιῶσιν, μήποτε ἐπιστρέψωσιν καὶ ἀφεθῇ αὐτοῖς.

  • イザヤ書の七十人訳聖書6:9-10からの引用句。ἵνα... μήποτε 構文が使用されていて、通常は<〜するために〜してはならない>という意味だが、ここでは、「してはならない」が結果節として用いられている。

  • 「彼らは見るには見るが、認めず」
     直訳では、「彼らは見るには見て、認識せず」。見ても認識するに至らずという結果に終わるということ。平たく言えば、もしやる気がないならば、その結果がはっきりと出る結果になるということ。私たちにおいても、「聞く気がないなら分かるわけがない」と思うだろう。分からないという結末が、よりはっきりと出るというニュアンス。

  • 「聞くには聞くが、理解できず」
     「見るには見るが」と同様で、繰り返しによって意味合いが強調されている。

  • 「『立ち帰って赦されることがない』ようになるため」
     「立ち帰って」と訳されている語は、「悔い改める」(ἐπιστρέφω)とも翻訳される語。罪の赦しの主題は、マルコ1:4、2:5などにも現れる。
     文字通りに読むと意味不明となるが、私たちにおいても、「聞く気がないならもういい」との思いを抱くことがあるだろう。本人がそのように望んでいるのだから、赦しを得たくなければ赦されない結果となれ、というニュアンス。


まとめ

 聞く意志のない人たちは、当人が聞くことを望まないのだから、望み通り、理解せずに終わる結果となれ、という趣旨のこの宣言は、一種の神の審判の告知である。積極的な審判ではなく、消極的な裁きであると言える。同時に、語られ、聞かれず、理解や信仰に至らず、という一連のプロセスが、神の意志に基づく神の計画として示されていることにも留意するべきである。


 礼拝説教の結びの言葉として

 主イエスの教えや言葉は、すべての人に語られ、同時に、理解と信仰へと開かれています。イエスはその際、例えを用いてお語りになりました。それは、「聞きたい」「もっと知りたい」「理解したい」「そうして信仰を持つようになりたい」、そう願う人たちが、真理へと導かれるようになるためです。
 そして同時に、聞く耳を持たない人、分かろうと望まない人、そうした人たちが、自分たちの望む末路へと至るようになるためです。一言で言えば、白黒がはっきりと出るため、とも言えます。
 しかし、主イエスが今日、このように語られたのは、単にそのように自業自得の結末で終わるためではありません。たとえ聞く気のない人でも、そこで何事かを思い、聞く耳を持つようにと願われてのことです。
 すべての人は招かれており、すべての人に扉は開かれています。しかし、そこを通る人は一部です。通らない人も、神のご計画と相応しい時が来れば、通るようになることも現実にあります。そのように願われ、すべての人に招きの言葉を語られています。
 イエスは今日も、私たちに語りかけておられます。「聞く耳のある者は聞きなさい」(4:9)。

2025年10月29日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:1-12

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:1-12

並行箇所: マルコ12:38–40、ルカ11:37–52、20:45–47

 概要

 この箇所では、律法学者とファリサイ派に対する批判が展開されている。その焦点は、彼らの言行不一致(3節「言うだけで実行しない」)にあり、なおかつその遵守を他者に要求する点(23:4)にもある。
 また、律法を形式的に守るだけで内面の誠実さを欠いていること(23:23)、人に見せびらかす姿勢(23:5–7)も問題とされる。これらが総じて「偽善」(23:25、27、29など)と呼ばれている。
さらに、律法学者とファリサイ派に対して、七つの「災い」が宣言されている。

 1節

新共同訳 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
Τότε ὁ Ἰησοῦς ἐλάλησεν τοῖς ὄχλοις καὶ τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ.
  • 「それから」(τότε)は、前章の論争物語集(22:15–46)との連続性を示す。
  • 「群衆と弟子たち」──イエスの批判が弟子たちだけでなく、一般の人々への警告でもあることを示す。

 2–3節

新共同訳 2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」
2 ἐπὶ τῆς Μωϋσέως καθέδρας ἐκάθισαν οἱ γραμματεῖς καὶ οἱ Φαρισαῖοι·
3 πάντα οὖν ὅσα ἂν εἴπωσιν ὑμῖν ποιήσατε καὶ τηρεῖτε· κατὰ δὲ τὰ ἔργα αὐτῶν μὴ ποιεῖτε· λέγουσιν γὰρ καὶ οὐ ποιοῦσιν.
  • 「モーセの座」(καθέδρα Μωϋσέως)とは、律法の解釈と教えにおける権威の象徴であり、シナゴーグに実際に設けられていたとされる。イエスはこの権威そのものを否定していない。「彼らが言うことは守りなさい」と命じる一方で、「彼らの行いは見倣うな」と警告している。言行不一致(λέγουσιν γὰρ καὶ οὐ ποιοῦσιν)こそが批判の中心である。

 4節

新共同訳 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
δεσμεύουσιν δὲ φορτία βαρέα καὶ δυσβάστακτα καὶ ἐπιτιθέασιν ἐπὶ τοὺς ὤμους τῶν ἀνθρώπων, αὐτοὶ δὲ τῷ δακτύλῳ αὐτῶν οὐ θέλουσιν κινῆσαι αὐτά.
  • 「重荷」(φορτία)は、律法やその派生規定を含む。
  • 「人の肩に載せる」は、他者に義務を課す比喩表現。
  • 「指一本貸そうともしない」は直訳で「自分の指を動かそうとしない」。自らは実践せず、人にだけ義務を課す姿勢を示す。

 5節

新共同訳 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
πάντα δὲ τὰ ἔργα αὐτῶν ποιοῦσιν πρὸς τὸ θεαθῆναι τοῖς ἀνθρώποις· πλατύνουσιν γὰρ τὰ φυλακτήρια αὐτῶν καὶ μεγαλύνουσιν τὰ κράσπεδα.
 行為の目的が「人に見せるため」であることが非難される。
  • 「聖句の入った小箱」(φυλακτήρια)は申命記6:8に基づく信仰具。
  • 「衣服の房」(κράσπεδα)は民数15:38に由来する。どちらも本来は信仰のしるしだが、自己顕示に堕している。

 6–7節

新共同訳 6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7 また、広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む。
6 φιλοῦσιν δὲ τὴν πρωτοκλισίαν ἐν τοῖς δείπνοις καὶ τὰς πρωτοκαθεδρίας ἐν ταῖς συναγωγαῖς,
7 καὶ τοὺς ἀσπασμοὺς ἐν ταῖς ἀγοραῖς καὶ καλείσθαι ὑπὸ τῶν ἀνθρώπων ῥαββί.
  • 「上座」「上席」は社会的名誉の象徴。
  • 「広場(ἀγορά)」は公共空間で、社会的地位が可視化される場所。
  • 「先生(ῥαββί)」と呼ばれることを喜ぶ姿勢は、宗教的権威が自己顕示の手段と化したことを示す。イエスは11節でこの価値観を反転させる。

 8–10節

新共同訳 8 だが、あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。9 また、地上の者を「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10 「教師」と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
ὑμεῖς δὲ μὴ κληθῆτε ῥαββί· εἷς γάρ ἐστιν ὑμῶν ὁ διδάσκαλος, πάντες δὲ ὑμεῖς ἀδελφοί ἐστε.
καὶ πατέρα μὴ καλέσητε ὑμῶν ἐπὶ τῆς γῆς· εἷς γάρ ἐστιν ὑμῶν ὁ πατὴρ ὁ οὐράνιος.
μηδὲ κληθῆτε καθηγηταί· ὅτι καθηγητὴς ὑμῶν ἐστιν εἷς, ὁ χριστός.
  • 「呼ばれてはならない」(μὴ κληθῆτε)は外的行為の全面禁止ではなく、地位による優越感を戒める内面的命令。
  • 「皆兄弟」──神の前では誰もが平等であり、上下関係は存在しない。
  • 「あなたがたの師は一人」──冠詞つきのὁ διδάσκαλοςは特定の存在、すなわちキリストを指す。「父と呼ぶな」「教師と呼ばれるな」も同様に、社会的称号による自己顕示を退ける表現である。

 11節

新共同訳 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
ὁ δὲ μείζων ὑμῶν ἔσται ὑμῶν διάκονος.
  • 「偉い人」(μείζων)とは権威ある者を意味する。しかしイエスは価値観を逆転させ、そうした者こそ「仕える者」(διάκονος)であるべきと説く。20:28では、イエス自身が「仕えるために来た」と述べており、この教えを体現している。

 12節

新共同訳 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ὅστις δὲ ὑψώσει ἑαυτὸν ταπεινωθήσεται, καὶ ὅστις ταπεινώσει ἑαυτὸν ὑψωθήσεται.

 この逆転の論理はルカ14:11、18:14、22:26にも並行する。マリアの讃歌(ルカ1:52)やマタイ20:26–27も同様の思想を表す。神の国の価値観では、謙遜が真の高貴とされる。

 現代的関連

 現代の教会でも、牧師などを「先生」と呼ぶことがある。本箇所のことをしらないわけでもなく、「これは尊敬を込めた言い方だから」「この言葉は我々のそういう慣例とは主旨が違う」などとして、自分たちの間での「先生」という語の使用はよしとされている。役職名(「〇〇牧師」「〇〇神父」)で呼べば済むことだが、そうすると、「〇〇牧師と呼ぶと、なにか呼びつけのような雑な感じがする」などといって、結局、「先生」と呼ぶのを止められない。こうしたややこしい人間の性(さが)というものが、「先生」と互いに呼び合って自尊心をくすぐり合い、真理から離れる原因の一つであろう。

 礼拝説教の結びとして

 イエス・キリストは、律法学者やファリサイ派の偽善を鋭く指摘されました。しかしその批判は、単なる非難ではなく、私たち自身への問いかけでもあります。
 私たちは、神の言葉を語る者・聞く者として、言葉と行いが一致しているでしょうか。人に見せるためではなく、神に仕えるために生きているでしょうか。
 主は言われました──「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と。
 高ぶる者ではなく、へりくだる者こそが神の国で高められる。私たちが互いに兄弟姉妹として歩む時、そこにキリストの御心が現れます。
 どうかこの週も、誠実な心で主に仕え、隣人に仕える者となれますように。肩に重荷を負わせるのではなく、共に担い、共に祈り、共に歩む者となれますように。
 私たちの教師はただ一人、キリストです。主の御言葉に従い、へりくだって歩みましょう。

祈り

 恵み深い天の父なる神よ。あなたの御言葉によって私たちの心を照らしてくださり感謝いたします。
 主イエスが語られたように、私たちが言葉だけでなく行いにおいても誠実である者となれますように。
 人に見せるためではなく、あなたに仕えるために、へりくだった心をもって歩むことができますように。
 私たちが誰かに重荷を負わせるのではなく、共に担い、祈り、励まし合う兄弟姉妹として生きることができますように。
 あなたの前では私たちは皆平等です。どうか私たちの中の高ぶりを取り除き、仕える喜びを教えてください。

 私たちの教師はただ一人、キリストです。主の教えに従い、日々の歩みの中であなたの光を映す者とならせてください。
 偽善ではなく、真実の愛と謙遜をもって、あなたに栄光を帰す者となれますように。
 この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。

2025年10月22日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ22:41-46

説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ22:41–46


注解

41節

新共同訳 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
Συναχθέντων δὲ τῶν Φαρισαίων ἐπηρώτησεν αὐτοὺς ὁ Ἰησοῦς,
 大抵の場合、ファリサイ派やサドカイ派といったイエスに批判的な勢力の人々が、イエスに質問する側である(22:15–22、22:23–33)。しかし、ここでは反対に、イエスが彼らに質問する側となっている。しかもイエスが問いを投げかけた対象は、ファリサイ派の集団であった(συναχθέντων「彼らが集まっているとき」)。

42節

新共同訳 あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。
彼らが「ダビデの子です」と言うと、
λέγων· Τί ὑμῖν δοκεῖ περὶ τοῦ Χριστοῦ; τίνος υἱός ἐστιν; λέγουσιν αὐτῷ· Τοῦ Δαυίδ.
 イエスの質問内容は、「メシア」が「誰の子」であるか、すなわちメシアの出自に関する事柄であった。
  • 「メシアのことをどう思うか」:直訳では「キリストとはあなたがたにとって誰か」(Τί ὑμῖν δοκεῖ περὶ τοῦ Χριστοῦ;)。
  • 「メシア」:原文では Χριστός。直訳すれば「キリスト」であるが、新共同訳では当時の文脈を考慮して、“油注がれた者”、すなわち“救世主”を意味する「メシア」と訳出している。
  • 「だれの子だろうか」:前述のように、メシアの出自を問う質問である。原文では「ダビデの」(Τοῦ Δαυίδ)とあるのみ。ファリサイ派は、メシアがダビデの家系から生まれるという当時の理解を踏襲し、それをメシアの視点から言い直して「ダビデの子」と答えた。

43–44節

新共同訳
43「イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。』
44『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』」
λέγει αὐτοῖς· Πῶς οὖν Δαυὶδ ἐν Πνεύματι καλεῖ αὐτὸν Κύριον, λέγων·
44 Εἶπεν Κύριος τῷ Κυρίῳ μου· Κάθου ἐκ δεξιῶν μου, ἕως ἂν θῶ τοὺς ἐχθρούς σου ὑποπόδιον τῶν ποδῶν σου.
 イエスは詩編110:1(LXX 109:1)を引用し、ファリサイ派のメシア理解の矛盾点を突こうとしている。
  • 「霊を受けて」:直訳では「霊において」(ἐν Πνεύματι)。神の霊によってダビデが真理を語ったという趣旨であり、新約時代の神学的言い方をすれば「聖霊に導かれて」となる。すなわち、ダビデが語ったことは神の意志に基づく真理であるという意味である。
  • 「メシアを主と呼んでいる」:44節の詩編引用「主は、わたしの主にお告げになった」(Εἶπεν Κύριος τῷ Κυρίῳ μου)に基づく。ダビデが神の霊により、自分の子孫を「主」と呼んでいることになる。この矛盾をイエスは指摘している。すなわち、メシアは単なる人間的存在ではなく、神的な「主」であることを暗示している。
  • 「主は、わたしの主に」:Κύριος τῷ Κυρίῳ μου
  • 「主」が二度現れる表現で、第一の Κύριος はヤハウェ(神)、第二の Κύριος μου(わたしの主)はメシアを指す。イエスの議論は、「もしメシアが単なる『ダビデの子』であるなら、なぜダビデが彼を『主』と呼ぶのか」という逆説にある。
  • 「わたしの右の座に」(ἐκ δεξιῶν μου)とは、神の栄誉と権威を帯びる座であり、新約文書ではキリストが昇天して着いた座とされている(マルコ16:19、ヘブライ1:3など参照)。

45節

新共同訳
「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
εἰ οὖν Δαυὶδ καλεῖ αὐτὸν Κύριον, πῶς υἱὸς αὐτοῦ ἐστίν;
 イエスの論理上では、メシアがダビデの子という命題は矛盾しているため、改めて「どうして」と問う必要はない。しかし、あえて修辞的疑問文「どうして(πῶς)」を用いることで、聞き手にその命題の妥当性を再考させている。ただし、メシアがダビデの家系から出現すること自体を否定しているのではない。メシアを単に「ダビデの血統の末裔」としてのみ捉える狭い見方を退けている。それは同時に、「メシア=イスラエルをローマから救う政治的・民族的救済者」とする理解の否定でもある。また、この記事ではイエスこそがメシアであり、「わたしの主」であることが暗示されている。

46節

新共同訳
「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」
καὶ οὐδεὶς ἐδύνατο ἀποκριθῆναι αὐτῷ λόγον, οὐδὲ ἐτόλμησέν τις ἀπ’ ἐκείνης τῆς ἡμέρας ἐπερωτῆσαι αὐτὸν οὐκέτι.
 マタイ22:15以降、ファリサイ派やサドカイ派との論争物語が連続しているが、本節はその最後であり、この記事の結びであると同時に、論争物語集全体の結語でもある。
  • 「だれ一人……できず」:ファリサイ派でさえ、イエスの知恵を上回ることができず、彼を陥れようとする企てが完全に潰えたことを示す。
  • 「その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」:敵対者たちの攻撃が止んだわけではない。論争を仕掛けることはなくなったものの、イエスを亡き者にしようとする計画へと転じたことが暗示される。すなわち、ユダの裏切りから受難へと展開していく転換点であり、十字架への伏線となっている。
 神学的には、論争や論破によって神の真理が証明される段階から、十字架と復活という啓示の出来事によってメシア性が明らかにされる歴史的転換点である。

黙想

 「誰か」「誰の子か」というメシアをめぐる問いは、人々が抱く普遍的な問いである。人はその問いから始めて真のキリストを知り、三位一体の神を知り、信仰に至る。
 信仰告白は、「誰か?」という問いではなく、「イエスは主です、メシアです、キリストです、神の子です」という告白である。
 人がその告白に至ることができるのは、ダビデもそうであったように「霊によって」、すなわち聖霊の働きによる。イエスを「主」と呼ぶ信仰は、聖霊によって与えられるのである。
 人の狭い見方・考え・思い込みが破綻したとき、人は沈黙を余儀なくされる。その沈黙から神を否定しようとする殺意が生じることもあれば、他方で神の啓示を目の当たりにして、聖霊によって信仰的理解に到達することもある。
 イエスがメシアであるという出来事としての啓示――それが十字架と復活である。

礼拝説教のむすびとして

 今日、私たちはイエスがファリサイ派に投げかけた問いを通して、メシアとは誰かという根源的な問いに向き合いました。人々が「ダビデの子」として期待していたメシア像は、政治的・民族的な救済者でした。しかしイエスは、詩編の言葉をもって、メシアが「主」であることを示されました。すなわち、メシアは単なる人間の子ではなく、神の右に座する方、神の権威と栄光を帯びた存在なのです。
 この問いは、私たちにも向けられています。「あなたにとって、キリストとは誰か」。それは単なる神学的な問いではなく、私たちの信仰の告白を問うものです。イエスは主です。神の子です。私たちの救い主です。この告白に至るためには、聖霊の導きが必要です。ダビデが「霊によって」メシアを主と呼んだように、私たちも聖霊によってイエスを主と告白する者とされるのです。
 ファリサイ派は沈黙しました。彼らの知識や論理では、イエスの問いに答えることができなかったからです。しかし、私たちは沈黙するのではなく、告白する者となりましょう。イエスこそが主であると、十字架と復活によって示された神の啓示に応えて、信仰をもって歩む者となりましょう。
 この週も、聖霊の導きのうちに、イエスを主と告白し、その主に従って歩む者とされますように。


祈りの言葉

主なる神よ、
御子イエス・キリストに沈黙させられたファリサイ派のように、キリストを一面的にしか捉えられない心の狭さに陥らないようお守りください。
むしろ、聖霊の働きによって私たちの理解と心を広げ、神の真理を悟らせてください。
十字架と復活のイエスこそ、神の子、キリスト、主なる方であることを知り、そのことを証しする者とならせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


2025年10月15日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ3:31–35

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコによる福音書 3章31–35節
並行箇所 マタイ12:46–50、ルカ8:19–21

概要

先行箇所の3:21における身内の訪問が伏線となっている。その箇所では、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」とあり、家族でさえもイエスを理解できない現実が述べられていた。
後述のように、家族が「イエスとは遠くに」または「家の外」に立ち、家族でない者が「イエスのそばに」または「家の中」に座ってイエスの言葉を聞いている。この「外」と「内」という構図が本箇所において明瞭に示されており、同時に前節の伏線回収ともなっている。

注解

31節

新共同訳 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
Καὶ ἔρχεται ἡ μήτηρ αὐτοῦ καὶ οἱ ἀδελφοὶ αὐτοῦ, καὶ ἔξω στήκοντες ἀπέστειλαν πρὸς αὐτὸν καλούντες αὐτόν.
 3:21では「身内」とのみ記されていたが、3:31では「イエスの母と兄弟」と具体的に述べられている。
  • 「イエスの母と兄弟たち」──6:3によれば、イエスの母の名はマリアであり、兄弟は4人で、「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」と名付けられている。また6:3には「姉妹たち」の存在も示唆されており、彼女たちは次の32節で言及される。
  • 「外に立ち」──「外」(ἔξω)。32節では「イエスの周りに座っている」、すなわち<家の内>にいてイエスの言葉に耳を傾けている人々が描かれる。ここには明確な象徴的意味があり、「外」と「内」の距離や位置の違いは、単なる物理的なものではなく、信仰的理解の決定的な差異を表している。

32節

新共同訳 大勢の人がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
Καὶ ἐκάθητο περὶ αὐτὸν πλῆθος· καὶ λέγουσιν αὐτῷ· Ἰδοὺ ἡ μήτηρ σου καὶ οἱ ἀδελφοί σου καὶ αἱ ἀδελφαί σου ἔξω ζητοῦσίν σε.
  • 「イエスの周りに座っていた」──原文では「彼の周囲に」(ἐκάθητο περὶ αὐτὸν)。当時、ラビ(教師)が人々に教えを語るとき、ラビは座り、聴衆は立つのが習慣であった。上下関係の中で、上位者が下位者に教える形式である。しかし、やがて聴衆も座るスタイルが広まり、上下関係よりも、共に学ぶ姿勢が意識されるようになった。
 この場面で人々が「座って」いる理由は明示されていないが、イエスと聞き手との距離が近く、親密な関係であることが示唆されている。もしそうであれば、この記事の主題──すなわち「イエスの家族」とは誰か──の象徴的意味がここに込められていると考えられる。
  • 「母上と兄弟姉妹」──ここで再び「姉妹」も含めて言及され、血縁的な家族の概念が強調されている。

33節

新共同訳 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
Καὶ ἀποκριθεὶς αὐτοῖς λέγει· Τίς ἐστιν ἡ μήτηρ μου καὶ οἱ ἀδελφοί μου;
 家族とは通常、血縁関係によって定義されるが、イエスはその関係性を問い直し、新たに定義しようとしている。イエスは「神の国」の接近を宣べ伝えたが(1:15参照)、神の国における信仰者の関係は「家族」であると示した。
 ユダヤ社会では、旧約時代から、親しい関係や同盟関係、同じ信仰共同体の成員同士を「兄弟」と呼ぶ習慣があった。しかし、弟子がラビを「父」と呼ぶ例は稀であり、家族でない者を「父」や「母」と呼ぶことはほとんどなかった。女性的な呼称(母・姉妹・妻など)も用いられることは少なく、神の愛を母にたとえる(イザヤ66:13など)程度である。
 ところがイエスはここで、男性的・女性的な呼称を包括的に扱い、信仰共同体全体を新しい「家族」と見なしている。この点にイエスの教えの革新性がある。後にパウロも、ある女性信徒を敬意をもって「母」と呼んでいる(ローマ16:13参照)。

34–35節

新共同訳 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである。」
原文: Καὶ περιβλεψάμενος τοὺς περὶ αὐτὸν καθημένους λέγει· Ἰδοὺ ἡ μήτηρ μου καὶ οἱ ἀδελφοί μου. 35 Ὃς ἂν ποιήσῃ τὸ θέλημα τοῦ Θεοῦ, οὗτος ἀδελφός μου καὶ ἀδελφὴ καὶ μήτηρ ἐστίν.
 イエスは、自身の周りに座って神の言葉を聞く人々こそを「わたしの母」「兄弟」と呼び、新しい意味づけを行った。ここでは、イエスの真の家族とは、イエスを通して語られる神の言葉を聞き、それに従って生きる者たちである。
 後にキリスト教会が互いを「兄弟姉妹」と呼び合うようになった神学的根拠は、以下の二点に要約される。
  1. 神が父であり、信徒はその子どもであること。
  2. キリストが父なる神の長子、すなわち長男であり、私たちがその弟・妹であること。

まとめ

 マルコ3:31–35は、イエスが血縁を超えて「神の御心を行う者」を真の家族と呼ばれた場面である。この箇所は、信仰共同体の本質を明らかにする。イエスの周囲に座る者たちは、単なる聴衆ではなく、神の言葉に耳を傾け、心を開き、従おうとする人々である。彼らこそがイエスにとっての「母」「兄弟」「姉妹」であり、神の家族の一員である。
 この教えは、私たちが互いを「兄弟姉妹」と呼び合う根拠であり、教会が血縁や社会的区分を超えて、神の愛によって結ばれた共同体であることを示している。私たちもまた、神の御心を求め、イエスの言葉に耳を傾けることで、この家族の中に生きる者とされる。

礼拝説教の結びとして

 今日の御言葉は、イエスが「神の御心を行う者こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と語られた場面でした。血縁による家族の枠を超えて、神の言葉に耳を傾け、それに従って生きる者こそが、イエスにとっての真の家族であると宣言されたのです。
 この言葉は、私たちにとって大きな慰めであり、同時に挑戦でもあります。私たちは、神の家族として招かれています。ただ教えを聞くだけでなく、神の御心を行う者として、イエスのそばに座る者となるよう求められているのです。
 教会とは、血縁や立場を超えて、神の愛によって結ばれた共同体です。互いを兄弟姉妹と呼び合い、共に神の言葉に生きる者として歩むとき、私たちはイエスの家族としての喜びと責任を担うことになります。
この週も、神の御心を求め、イエスの言葉に耳を傾け、従う者として歩んでまいりましょう。私たちがどこにいても、何をしていても、神の家族としてのアイデンティティを忘れずに、主にある交わりを深めていけますように。

祈りの言葉

天の父なる神よ、あなたが私たちをキリストにあって一つの家族として呼び集めてくださったことを感謝します。
私たちが血縁や立場を越えて互いを兄弟姉妹として受け入れ、あなたの御心を行う者として歩むことができますように。
イエスの言葉に耳を傾け、心を開き、従う者となるよう、聖霊によって導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ22:34-40

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイによる福音書 22章34–40節

 並行箇所:マルコ12:28–34

概要

 直前の記事(22:23–33)において、イエスの返答に返す言葉のなかったサドカイ派の論客の無力さが描かれていた。本記事では、ファリサイ派とサドカイ派が結託することで、イエスに敵対する人々の構図が明瞭とされている。

注解

34節

新共同訳「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。」
Ἀκούσαντες δὲ οἱ Φαρισαῖοι ὅτι ἐφίμωσεν τοὺς Σαδδουκαίους, συνήχθησαν ἐπὶ τὸ αὐτό.
  • 「サドカイ派」:直前の記事の22:23–33を参照。ここでの「言い込められた」場面が伏線となっている。
  • 「一緒に集まった」:前述のとおり、ファリサイ派とサドカイ派は政治信条的に競合関係にあるが、敵同士がイエスを陥れるために協働している。詩編2:2における神に逆らう者たちの結束が、ここでイメージされているかもしれない(「支配者は結束して主に逆らい」)。

35節

新共同訳 そして、そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
καὶ ἐπηρώτησεν εἷς ἐξ αὐτῶν νομικός, πειράζων αὐτόν.
  • 「律法の専門家」(νομικός):ユダヤ教の教師(ラビ)を指す。
 4:1–11における「荒野の誘惑(πειράζω)」の「誘惑(試み、πειράζω)」は、本節での「試そうとして」と同じ動詞。悪魔による試みと、ユダヤ教のラビのそれとが同列的に扱われているのかもしれない。

36節

新共同訳 先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。
Διδάσκαλε, ποία ἐντολὴ μεγάλη ἐν τῷ νόμῳ;
  • 「最も重要な戒め」:ユダヤ教のすべての戒めの中で最も重要なものは、申命記6:4–5における律法、通称シェマー。

シェマー:同箇所の冒頭の言葉「聞け」と訳されているヘブライ語の動詞 שָׁמַע に由来。「聞く」「従う」の意。
 申命記6:4–5:「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

37–38節

新共同訳 イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な、第一の戒めである。
ὁ δὲ Ἰησοῦς ἔφη αὐτῷ· Ἀγαπήσεις Κύριον τὸν Θεόν σου ἐν ὅλῃ τῇ καρδίᾳ σου καὶ ἐν ὅλῃ τῇ ψυχῇ σου καὶ ἐν ὅλῃ τῇ διανοίᾳ σου. αὕτη ἐστὶν ἡ μεγάλη καὶ πρώτη ἐντολή.
  • 「心を尽くし……主を愛しなさい」:申命記6:5からの引用。ユダヤ人はこれを唱えることを日課としていた。
  • 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」:自分の全存在をもって神を愛すること。

39節

新共同訳 第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」
δευτέρα ὁμοία αὐτῇ· Ἀγαπήσεις τὸν πλησίον σου ὡς σεαυτόν.

  • 「隣人を自分のように……」:レビ記19:18からの引用。いわゆる隣人愛。
  • 「第二も…重要である」:原文の直訳では「第二もそれを同様」となる。双方は「同様」の重要性を持つものの、「第一」「第二」と序列が設けられている点に留意したい。隣人愛については、先のシェマーに直接含まれているものではない。しかし、ユダヤ教ではこれもシェマーと並べて重要なものとされていた。

40節

新共同訳 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。
ἐν ταύταις ταῖς δυσὶν ἐντολαῖς ὅλος ὁ νόμος ἐντέταται καὶ οἱ προφῆται.
 「律法全体と預言者」:「律法と預言」は旧約聖書全体を指す表現。イエスは、第一に神を愛すること、第二に隣人を愛することを、人の生きる道、すなわち倫理とした。

まとめ

 イエスの返答は、ユダヤ教のラビにとって基本的なものである。種々の質問に対するイエスの回答は、奇抜なものばかりとは限らない。この記事では、基本中の基本を直裁に語ることによって、最重要事項の本質を示した。

黙想

 神を愛することと、隣人を愛すること。両者は重要性においては同様としても、二つに順序がある点は展開のしどころが豊富である。
 たとえば、神を愛することによって人を愛することを知る、あるいは、神を愛し神に愛されることで、人を愛することが可能になる、といった理解ができる。
 また、「世界は人間が中心ではなく、まずは神があり、それが中心にあり、そこに人間がいる」という構図としても考えられる。
 キリスト教の教義と絡めるなら、人が神と人とを愛することができるようになるために、その人の内面に働く聖霊の力が用意されていることに触れてもよい。

説教風の結び

 主イエスが語られた「最も重要な戒め」。その言葉は、私たちにとって新しい教えではないかもしれません。むしろ、信仰の基本中の基本です。しかし、イエスはこの基本を、敵意に満ちた問いかけの中で、揺るぎない真理として語られました。それは、私たちがどんな時代にあっても、どんな問いに直面しても、信仰の中心を見失わないようにとの招きでもあります。
 神を愛すること。それは、私たちの存在の根源に向き合うことです。神がまず私たちを愛してくださったからこそ、私たちは神を愛し返すことができるのです。そして、その神の愛に生かされている私たちは、隣人をも自分のように愛するようにと招かれています。
 この二つの愛は、決して切り離せるものではありません。神を愛することによって、私たちは隣人を愛する力を与えられます。そして、隣人を愛することによって、私たちの神への愛もまた深められていくのです。
 この週、私たちが出会う一人ひとりに、神の愛を映し出す者として歩んでいけますように。神を愛し、隣人を愛するという、この信仰の中心に立ち返りながら、日々の生活を歩んでまいりましょう。

2025年10月9日木曜日

論文 「パウロの全体教会政治学」

 「パウロの全体教会政治学」


 序 「全体教会政治学」とは

 「教会政治学」とは通例、教会の統治や運営方法、または統治が為される組織の構造に関する学を指す用語である。そして、その統治形態として長老制や監督制、会衆制などが挙げられ、それぞれの教会政治の仕組みが他の教会政治と比較されながら議論されるといった形が多い。また、国家という既存の支配体制、そしてそれが行う政治の状況にあって、教会政治がいかに行われてきたのかを考察する学として、教会政治学が位置づけられているのが通例だ。

 しかし本稿では、単に「パウロの教会政治学」とはせず、「全体教会政治学」とした。この名称は二重の意味合いを含む。まず一つ、例えば一方で異邦人教会、他方でエルサレム教会という、両者統治形態も文化も神学も異なる教会群を包括する全体を一つの教会として捉え、一つの全体教会としての統合を企図したグランド構想が、パウロの全体教会観には観察される。さらに、例えば異邦人教会とエルサレム教会との関係について、分裂しかねない両者の関係性を維持するために採用された経済支援策といった、パウロの政治的手法が観察される。ここには、「政治」という語が持つニュアンスの一つ、すなわち指導的存在が統治する対象全体に施す施策という意味が含まれている。そしてもう一つ、一方の果てはスペイン宣教に象徴される異邦人宣教、もう一方の果てはエルサレム教会を足がかりにしてのユダヤ人伝道という、パウロが抱いていた壮大な宣教・伝道の全体構想には、当時の文化やローマ皇帝による政治を見据えつつ、その支配の影響圏にある政治的状況・社会環境にこれを最適化させようという戦略性が認められる。こうした国家の権力作用の影響範囲においては、国家の利害と福音の原理が衝突することは必然である。こうした軋轢を未然に調整しようという意味での政治という意味もまた、「全体教会政治学」に含まれる。こうした理由から上記の二つを総合し、本稿のタイトルを「パウロの全体教会政治学」とした。

 

 1. 初めから共同体として存在していた「家」の教会

 教会の草創期からして既に、教会は複数名の者たちによって共同で信仰生活が営まれていた。これこそ教会の原初の姿であるという認識を、ルカも述べている(使徒2:46「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし……」)。パウロがフィレモン個人に宛てた書簡を見ても、彼が「家」の教会に連なっていたことは明らかだ(フィレ1:1-2「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」)。教会史においては、例えばアントニオスによって個別修道制が考案されたが、彼は終生弟子たちの指導に努めて105歳を生き切った、とアタナシオスは伝えている(Vita S. Antoni『アントニオスの生涯』)。厳格な個別修道制でさえ、共同性は決して失われていなかったのだ。マタイがイエスの言葉として語っている通り、信仰生活とは一人で営むものではなく、共同で営むものであり、その中にキリストが立つものとして認識されていたのである(マタイ18:20「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」)。

 そうした複数名の弟子たちによってコミュニティが形成されて営まれ、礼拝も捧げられていた。但しその場所は、建築物としての教会でも礼拝堂でもない。初期のキリスト教会は、古代時代に現れるカテドラル(司教座聖堂)のような巨大な専用建築物を持たず、有力な信徒たちの「家」において、礼拝、祈り、聖餐式の原型的な儀式、会議など、教会として機能するための必要な営みを為していたというのが定説である。また、そうした「家の教会」の多くは、フィオレンツァが指摘しているように、女性が指導的役割を担っていたことも興味深い(「クロエの家の人たち」(一コリ一・一一)、「ニンファと彼女の家にある教会」(コロ四・一五))。


 2. 初期段階から地域教会として存在していた教会

 教会の最初期時代に誕生した最初にして単一の教会共同体は、やがてその規模を大きくしていく。単一の家の教会は、「家」という建築上の制限、すなわち収容人員の制限を伴う。よって、信徒の数が増すにつれ、当該地域に複数の家の教会が形成されていくことは必然である。例えばローマの教会は、パウロがスペイン伝道の橋頭堡にしようと考えていたことから推測して、それを実現するに足る規模、人員、そして経済力を有していたことになる。この点の他、巨大な都市人口を誇るローマという地理的要因を考慮しても、ローマの教会がたった一つの「家の教会」であったとは考えにくい。現にローマの信徒への手紙16章を見ても、プリスカとアキラ、そしてその家に集まる信徒たちに挨拶した後、彼らと並ぶような関係者の名前を次々と挙げ、それぞれの家の指導者に挨拶をしていっている。つまり、「家の教会」が複数あったということだ。その数はパウロによる他の真正書簡における言及数と比しても相当多く、さすがはローマといった感がある。まとめると、地域に誕生した単一の教会は、やがて地域に複数の教会を展開することになり、それらはネットワークを保ちつつ、「地域教会」として存在していった。


 3. 地域教会から複数地域間教会へ

 「家の教会」が単一教会より始まり、その地域での伝道活動の種蒔きが実りを結び、やがて地域に複数の家の教会を展開するようになった。そうして成立した地域教会共同体は、遠隔地に出向いての宣教活動によってその地に単一教会を生み出し、その単一教会がまた増加しつつ各個教会同士でネットワークが構築され、同地で地域教会を形成していった。こうした連鎖反応が地域から地域へと及び、初期キリスト教会はその勢力を拡大していった。そして、複数の地域教会同士が互いに繋がり合うことにより、そこに「複数地域間教会」というインターリージョナルな大ネットワークが誕生する。

 こうした複数地域間教会の具体的モデルとして、ヨハネ系統のそれを挙げ得る。ヨハネ黙示録は、「アジア州にある七つの教会」(黙1:4)、つまり広域地域に含まれる複数の地域教会へ送られたものであり、各地域における基幹的な教会を拠点に、さらに周辺の各個教会へと回覧されたものと推定される。本書が複数地域を含む広域地域レベルで共有されていたことは、「七つの教会」において広大なネットワークが構築されていたことの証左である。そこでは、共通のヨハネ系統の神学や福音理解が共有されていたということになる。

 複数地域間教会が生まれていくムーブメントは、パウロおいてはさらに明瞭に認められる。パウロの最初の伝道旅行は、バルナバと共にアンティオキア教会によって派遣される形で着手された。ルカの証言によれば、その二人に対し礼拝時に聖霊によって神意が示された後、教会に祈られ、手を置かれ、そうして任職されて出発したという(使徒13:1-3)。第二次宣教旅行もまた、使徒言行録の記述ではパウロの発案という形にはなっているものの(使徒15:36以下)、アンティオキア教会の同意と協力があったことは、「兄弟たちから主の恵みにゆだねられて」(使徒15:40)という記述から明らかだ。パウロが従事した宣教・伝道は、決してパウロの独壇場ではなかったのである。

 当初、第二次宣教旅行の目的は、第一次宣教旅行の際に建てられた諸教会の様子を見るためのものであった(使徒15:36)。第一次の際に形成された諸教会の相互で自発的に連携がとられていたかどうかまでは定かではないが、他の教会の営為を別の地域の教会でも称賛するのが常であったパウロの行動から推察して、”彼を介して”それらの教会が繋がりを保っていた可能性は高い。少なくとも、パウロを仲介しつつアンティオキア教会をセンター教会として、ある程度の教会間ネットワークが構築されていたことは間違いない。

 第二次伝道旅行においてパウロは、既に創設されたデルベ、リストラを訪問し、その過程でテモテもメンバーに加えられた。ところが、当初の計画と想定外の事態が生じた。著名な「聖霊による禁止」である。これによりに宣教旅行は変更を余儀なくされ、ガラテヤ、フリギアを経由して、マケドニア州に到達することになった。そうして、第二次並びに第三次宣教旅行が、キリキア、ガラテヤ、フリギア、マケドニア、アカイアという、長径千キロは越えるであろう楕円形の領域で展開されることになったのだ。各地域では、創設された単一教会を拠点に伝道が為され、周辺に複数の教会が誕生して地域教会が形成され、これが別の地域でも生じることにより、各地域に地域教会が複数形成されるに至った。その後、各地の教会、地域教会は、後述するように互いに情報共有や支援を交わし合うことにより、複数の地域教会同士が連携し合うようになっていく。複数地域間教会という、インターリージョナルな教会の成立である。

 ここまでの結論として、表題の通り、教会はその初期時代より複数地域間教会として存在していた。情報共有があれば、そこには互いの状況を思い巡らしての祈りが生まれる。祈りはまた、愛に根ざす行動を生み出す。実際、祈りと献金を中心にしての愛の働きがもたらされた。


 4. 地域教会・複数地域間教会のネットワーク化

 これまで、単一教会から地域教会、そして複数地域間教会へという拡大のプロセスを見てきた。この実現には、既に幾度か本稿に現れているキーワードである「ネットワーク化」が必須である。本パートでは、パウロがいかなる方法によって地域教会並びに複数地域間教会の実質化を推し進め、教会間のネットワーク化が形作られていったのかについて、パウロの全体教会政治的な戦術も含めて述べたい。焦点は主に以下の三つに絞られる。1、訪問・派遣と書簡を通じての指導と助言。2、励ましと祈りを通しての教会間の結束強化。3、献金を通じての複数地域間教会同士の関係構築。


 4.1. 訪問・派遣と書簡を通じての指導

 4.1.1. 自らの訪問と弟子の派遣による指導

 パウロが自ら現地の教会に出向き、顔と顔とを合わせての指導に努めていたことは、先に述べたところの第二次宣教旅行における当初の目的からも明らかである(使徒言行録一五・三六)。自らが赴くことができない場合には、彼は弟子たちを地域教会に派遣した。実例としてはテモテ(一コリ四・一七、一テサ三・二、フィリ二・一九)、テトス(フィリ二・二二、テト一・五)が挙げられる。パウロが派遣するのとは逆に、教会側がパウロに助け手を派遣し、その人をまた返すというケースもある(エパフロディト、フィリ二・二五以下)。以上、訪問と派遣による指導が、人を仲介としての人と教会、並びに教会間、地域教会間のネットーワーク化に寄与したことは確かである。


 4.1.2. 書簡を通しての共通福音理解の指導

 次は書簡を通じての指導である。ローマ、コリント、ガラテヤ、フィリピなど、パウロが複数の地域教会に書簡を送り、福音理解、生活上の指導、勧告、励ましを行なったことは、パウロ書簡が一様に物語っていることである。一般に書簡とは、特定の個人または集団に対して、特定の事情を背景に特定の目的をもって書き送られるものである。しかし、回覧されるスタイルの書簡となると事情は違ってくる。例えばフィレモン書のようにフィレモン個人とその関係者、さらにフィレモンが所属する家の教会にも宛てて書かれた書簡もそうなるが、ある地域教会に送られた書簡がその地域に点在する各個教会にも回覧されていたであろうことは、かねてより有力な説として知られている。古くはシカゴ学派の新約聖書学者であるジョン・ノックスにより”Philemon Among the Letters of Paul”において、フィレモン書がフィレモン個人にのみ宛てたものではなく、彼の家の教会で読まれ、複数の教会で回覧されることを前提に執筆されたものであることが提唱された。パウロの真正七書簡には含まれない「偽名書簡」になるものの、コロサイの信徒への手紙にはオネシモに言及されている点から、諸説あるがフィレモン書とコロサイの教会との関係性が示唆されている。加えて、コロサイ四・一六には「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください」と記されている。したがって、少なくともパウロの書簡が模倣されるようになった時期には、パウロ書簡が複数教会で回覧されるようになっていたことは確実であり、上述のパウロ真正書簡のフィレモン書から推測しても、おそらくはパウロの時代から書簡の回覧が行われ始め、パウロもまたある程度それを前提に手紙をしたためたということになる。ということは、書簡を通じての指示や指導によって、複数の教会に共通の指示、あるいは共通の福音理解を根付かせようという全体教会政治的戦術が認められることになる。そう考えると、パウロがガラテヤやテサロニケの教会、コリントの教会に対して、時に懇切丁寧に、時に手厳しく福音理解の修正を指導したのも、教会間で共通の福音理解が保持されるようにとの意図から執られた行動であるとの洞察が導かれる。


 4.1.3. ロマ書における全体教会政治の戦略性

 パウロのこのような戦略に基づく行動は、彼の管轄下にある教会だけに留まらない。その代表例が、既に2Aで触れているところのローマの教会である。ローマ一五・二二に「イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います……イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです」と書かれている通り、パウロはローマをスペイン宣教の足がかりとしたいと考えていた。察するに彼は、ガラテヤやコリントの教会における福音理解の齟齬という苦い経験から、それまでの書簡における福音に関する論述を綜合させ、一つの書でもって福音の全容を提示しようと企図したのであろう。従来の書簡の中でも最大規模にして、なおかつ最も内容的に整備された大書簡を完成させた。それこそ、ローマの信徒への手紙である。その論述は深遠ではあるものの、順序立てて整然と整えられたその様は、さながら「福音入門書」である。この「入門書」という体裁こそ、個別の教会への指導における各個教会という限定範囲を越えた、地域教会レベル、複数地域間教会レベルでの共通の福音理解を目指す戦略性の表れであろう。


 4.2. 励ましと祈りを通しての教会間の結束強化

 パウロは自らの訪問、弟子の派遣によって、あるいは書簡によって、他の教会の情報を別の教会へと知らせ、教会の信仰と愛の業に関する情報共有を行なった。例えば、「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至った」(一テサ一・六-八)とあるように、テサロニケの教会の奮闘がパウロを介して諸教会に知らされることにより、祈りと励まし、信仰と愛と希望(一テサ一・三)とによる教会間の結束が強化された。


 4.3. 支援や献金を通じての複数地域間教会同士の関係構築

 フィリピの教会は、パウロの宣教活動を支援することを介して結果的に諸教会を支援した(フィリピ四・一五-一六「もののやり取りでわたしの働きに参加した教会……テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして……」)。エフェソの教会は、同地におけるパウロの二年以上に及ぶ長期滞在活動を支援した(使徒一九・一以下)。ガラテヤの教会もまた、パウロが病を患っていた時、彼を手厚く看病した(ガラテヤ四・一三-一四)。これらの地域教会は、パウロの活動を支えることを通じて持てる力を他の教会に捧げ、教会相互の愛の交わりに自身を置いていたのだ。教会のこうした支援を書簡の中で言及することによって、各個教会、地域教会、複数地域間教会の全てを一つの教会として繋げようとするパウロの全体教会構想と、それを達成するための全体教会政治的戦略を読み取ることができる。

 地域教会や複数地域間教会が他系統の地域教会を献金によって支えようとする実例は、何と言ってもエルサレム教会支援プロジェクトであろう。パウロはマケドニア州やアカイア州の地域教会群に働きかけ、エルサレム教会のための献金を実に積極的に促した(二コリ八・一以下「自分から進んで聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出た」、ローマ一五・二六-二七「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意した」)。このプロジェクトについてパウロは、「異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ一五・二七)と述べてはいるものの、この理由だけに留まるものではあるまい。パウロの全体教会のグランド構想において、エルサレム教会は決して欠くことのできないものであり、それゆえに、無理にでも異邦人教会とエルサレム教会との関係性を維持しようと努めたのだろう。このテーマについては、後述の5Aで個別に扱うものとする。


 5. エルサレム教会

 パウロがエルサレム教会のために、広域の複数地域間教会に献金を呼びかけたことは彼の書簡が物語るところである。その目的として当然、災害や飢饉、あるいは恒常的な貧困といった困難の渦中に、エルサレム教会がおかれていたからであろう。ただ、それだけでもないように思われる。先ほど引用したロマ書の箇所には、エルサレム教会が霊的なものをもたらし、異邦人教会が肉のものをもって応えるという主旨の文言が綴られていた。ここから察するに、彼はエルサレム教会を全教会の霊的なルーツ、歴史的なレガシーとして、なくてはならないものと見なしていたという見方が導かれる。

 それでいて、ファリサイ派のエリートであったあのパウロが、紙数に限りがあるため詳述は避けるが、おそらくは今後の異邦人宣教・伝道を熟慮してのことにしても、その大きな障害となると予測される割礼を、異邦人の律法遵守事項から外したことは衝撃だ。その着想には、非ユダヤ人にとどまりながらもユダヤ教信仰を持つ、通称「神を恐れるものたち」、ゴッドフィアラーの現状を見ての経験則と、割礼が今後の異邦人宣教にとって大きな障害となるだろうとの予測が影響した可能性がある。律法の最重要事項にしてユダヤ人のアイデンティティであり気高き誇りである割礼を、メンバーシップ必要要件から除外するなど、私でさえ信じがたい大ナタ捌き、入会規定に関する神学上のコペルニクス的転回である。なおかつエルサレム教会に乗り込み、いわゆる「エルサレム会議」で合意を取りつけようなど、無謀にも程がある。それでも彼は、その場で合意をもぎ取ったのも驚きだ。その会議の際にも多額の献金をエルサレム会議の議員たちの目の前に積み上げ、政治的豪腕でもって交渉を成功させたのではあるまいか、とさえ下衆の勘ぐりをしてしまう。さすがにそれはないとしても、異邦人伝道というビジョンを抱き、これほどまでの信仰的・神学的豹変ぶり、そしてその大胆な行動、政治的駆け引きには、尋常ならざるものがある。

 こうしたパウロの一連の言動が、彼の全体教会のグランドビジョンに起因するというのが私のテーゼである。エルサレム教会の少なくとも一部からは、強烈に嫌われもし、反対もされもし、嫌がらせまで受けもしていたパウロであれば、早々にエルサレム教会に見切りをつけてもいいはずである。にもかかわらず、彼はエルサレム教会と是が非でも関係を維持しようと粉骨砕身し、文字通り複数の州を股にかけて東奔西走して支援プロジェクトを達成しようとしたのだ。 

 特筆すべきは、彼の奔走と祈りは、エルサレム教会というユダヤ人キリスト教徒のみに向けられてはいないという点である。ロマ書の九-一一章において、パウロは長々と非キリスト教徒のユダヤ人の救済を論じているし、終生、ユダヤ教徒の救済を諦めることはなかった。パウロの全体構想において、ユダヤ人の救済もまた欠かすことのできないものであったのだ。推測の域を出ないが、異邦人伝道の橋頭堡にローマの教会を選んだように、ユダヤ人伝道のために、ユダヤ人には定評のあったエルサレム教会を足がかりとしようと企図していたのではないか。これを失えば、元よりユダヤ人から迫害を受けていたパウロは、ユダヤ人伝道の取っ掛かりを完全に失うことになる。よって、ユダヤ人キリスト教徒との一体のためにも、そしてユダヤ人伝道の展開のためにも、エルサレム教会は彼にとって必要不可欠なものだった可能性がある。とすると、パウロの全体教会のグランド構想は、異邦人を果てしなく教会に抱き込み、かつ、全イスラエル(ユダヤ教シナゴーグ)を包含するものである。発想の実像としては、ユダヤ教から完全分離して独自存在となったキリスト教が、ユダヤ教に伝道のモーションをかけていくという一般的構図よりも、むしろユダヤ教の正統後継者となるべきユダヤ教の亜種であった教会が、旧来のユダヤ教をも巻き込むことで、イスラエル全体の刷新が図られるというものだ。この構想は、自らの教会こそイスラエルの真の正統継承者という自己理解を持つマタイと似ている。尤もマタイは、パウロの時代よりもユダヤ教からのキリスト教会の分離が進行した時代にあったし、パウロ系とは若干の距離を置いているようにも見えるが。

 もう一つ、彼のグランド構想で特筆すべき点は、既にエルサレム会議に持ちかけた彼の提案に示されているように、入会必要要件として、一方で異邦人は割礼なしとし、他方でユダヤ人の割礼文化は否定せず、というダブルスタンダードを導入していることだ。ダブルスタンダードが、律法に関する彼の神学と馴染んでいるとは思えない。その理由は、双方の文化上の特性を考慮し、グランド全体教会の中で双方の住み分けを保とうという全体教会政治的判断があるからではないか。住み分けの乱立はカオスを招来するから、住み分けに伴うダブルスタンダードの背後には、グランド全体教会を貫く公同的な基準を必要とする。

 以上が、「パウロの全体教会政治学」という主題に関する私のテーゼである。この5章については詳細を書き切れず、私としても論述の組み立て途上にあるが、この視点をもって改めてパウロの宣教・伝道活動の意図を再構築する学問的余地はあるように思える。


【新約聖書学関連】

論文

「パウロの全体教会政治学」(2024年)


『信徒の友』2018年4月号-2019年3月号所収「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」全12回

第1回 「イエスの復活」

第2回「イエスの洗礼」

第3回「嵐の中での弟子たち」

第4回「五千人の供食」

第5回「ヤイロの娘とイエスの服に触れた女性」

第6回「エルサレム入城」



史的イエス研究史        

マタイ福音書緒論        マタイ福音書神学           

イスカリオテのユダとは何者か(大学講義レジュメ)

【キリスト教解説】『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)とその悲惨な末路 ーイエスはイスカリオテのユダの裏切りを評価した?

猫にもわかる「マタイ福音書」入門


『教会学校教案』の元原稿の改訂版

創世記 37章1-11節 「ヨセフ1」(2013年7月7日)
創世記 42-45章 「ヨセフ3」(2013年7月21日)
ルツ記 「ルツ」(2013年9月22日)


ガラテヤの信徒への手紙        

ヘロデ派    マグダラのマリア    

エルンスト・ケーゼマン        ゲツセマネ(ゲッセマネ)        ゴルゴタ       

サドカイ派    サマリア人        


「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第6回「エルサレム入城」

 「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第6回「エルサレム入城」

(『信徒の友』2018年7月号所収)


 今回取り上げている福音書の場面は、イエスのエルサレム入城の際に多くの人々が迎え出て歓呼の声を上げたという出来事です。四つの福音書すべてにおいて記されている共通のエピソードの数は限られていますが、今回の記事はそうした数少ない中の1つです(マタイ21・1-11、マルコ11・1-11、ルカ19・28-40、ヨハネ12・12-19)。また、今日の教会では、復活祭の1週前、エルサレム入城の出来事を記念する礼拝が行われるのが通例です(多くのプロテスタント教会では「棕櫚の主日」、教派によって「枝の主日」「受難の主日」「聖枝祭」と呼ばれています)。


 ガリラヤからついにエルサレムへ

 ガリラヤを中心に、時には周辺の異邦人世界にまで足を延ばして活動されたイエスと弟子たちは、ついに十字架と復活の場所となるエルサレム入りを果たします。互いに共通している点が多いために”共観福音書”と呼ばれているマタイ、マルコ、ルカにおいては、イエスの活動はガリラヤから始まってエルサレムに至るという流れになっていて、エルサレム入りする回数は1回限りです。ところがヨハネにおいては、イエスがエルサレムに上って行ったことが3回記されています(ヨハネ2・13、5・1、11・55)。多くの研究者は、イエスは実際には数回に渡ってエルサレムへと赴いたであろうと考え、ヨハネの記述の方が史実を反映していると見なしています。マタイとルカはマルコを参考にしてそれぞれ自分の福音書を執筆したというのが定説ですから、ガリラヤからエルサレムへの1回限りの旅程はマルコに由来するということになりますが、その動機については様々に議論されています。筆者自身は、エルサレムへと至る道、すなわち受難死へと繋がる道をイエスが決意をもって歩んでいったことを劇的に描き出すために、マルコがそのような物語構成にしたのではないかと考えています。


 真の王として即位したイエス

 物語の進行順に従って見ていくと、まず、マタイ、マルコ、ルカが、「オリーブ山」のふもとにある「ベトファゲとベタニア」に一行が差し掛かった時のことを述べています(マタイ21・1-6、マルコ11・1-6、ルカ19・28-34)。その後の展開である「子ロバ」のエピソードに目が行きがちですが、オリーブ山からエルサレムへと近づいていく行程は重要です。その理由は、旧約時代、エルサレムで即位する新王は、オリーブ山からキドロンの谷を下ってギホンの泉で王となる油注ぎを受けて、そこからまた上ってエルサレムへ入っていったからです(参照、列王記上1・28-40)。

 エルサレム入城には、かつてのダビデを想起させるような戦勝後の凱旋をイメージすることが多いでしょうし、実際、このエピソードはエルサレムへの勝利の入城とも呼び習わされています。これと共に、この物語のルーツとして考えられるもう一つの主題が、王の即位です。イエスは即位した王としてエルサレム入りを果たされたということが、エルサレム入城の物語に被せられていると思われます。


 「子ろば」の意味

 マタイ、マルコ、ルカは一致して、「二人の弟子」がイエスによって派遣され、「ろば」を連れて来るよう命じられたことを記しています。「子ろば」についても一致しており、ゼカリヤ書9・9の記述が意識されています。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」


 「子ろば」には預言の成就も意図されていますが、やって来る新しき「王」が「高ぶる」ことのない柔和な方であることも暗示されています。他方、マルコとルカには「だれも乗ったことのない(子ろば)」、「なぜ、そんなことをするのか」(マルコ)、「なぜほどくのか」(ルカ)等の言葉が含まれていますが、自分が主張したい以外の事は物語からカットする傾向のあるマタイでは省かれ、その代わりに、マルコとルカが書いていない預言の言葉を明記しています(ヨハネ12・15でも引用されています)。

「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」(マタイ21・4)

この言葉は基本的には先ほどのゼカリヤ書9・9の引用ですが、イザヤ62・11等と混合されて内容が改変されています。さらにマタイは、ゼカリヤ書の引用に符合するように、「雌ろば」を登場させています(マタイ21・7)。こうした旧約聖書における預言との一致を強調する点は、マタイに見られる顕著な特徴です。

 また、「荷を負うろばの子」という表現に、勇壮な軍馬が象徴する戦いや勝利ではなく、平和のイメージを感じ取ることが出来ます。戦いでの勝利の凱旋と聞くと、凱旋門を思い起こすのではないでしょうか。著名な凱旋門の1つ、パリのエトワール凱旋門は、ナポレオン・ボナパルトの命により建築されましたが、彼が生きてその門をくぐることはありませんでした。それが実現したのは、彼の死後、パリに移葬された時でした。ナポレオンとは対照的に、イエスは勇猛と勝利に代えて、平和を実現する柔和な王であることが示されています。

 エルサレム入城の際、イエスを迎えた多くの人々が採った行動は、各福音書で小さな相違はあるものの、概ね一致しています。すなわち、「自分の服を道に敷き」(マタイ、マルコ、ルカ)、「枝を切って道に敷き」(マタイ、マルコ)、人々は「ダビデの子にホサナ」(マタイ)、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」(マルコ)と叫びました。人々が棕櫚の葉を振っているイメージは、ヨハネ12・13における「なつめやしの枝を持って迎えに出た」という言葉に由来しています。


 ヨハネとルカの独自部分

 ヨハネの後半部分では、後に弟子たちがエルサレム入城をゼカリヤ書9・9の預言の成就として悟ったという事後談が付記され、群衆が参集した理由がラザロの甦りと結び付けられて説明されています(ヨハネ12・16-19)。この箇所には、「栄光」「しるし」「証し」というヨハネに特徴的な用語が含まれています。同時に、この箇所には、「栄光」 「証し」「しるし」というヨハネに特徴的な用語が含まれています。ヨハネ福音書の読者に復活の出来事を改めて想起させることで、イエスが復活の力を持つ、神と等しい方として入城を果たしたことを「証し」しているのでしょう。

 ルカにのみ見られる記述が、「お弟子たちを叱ってください」というファリサイ派からの要求に対してイエスが返答した「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」という言葉と(ルカ19・39-40)、エルサレム神殿崩壊預言です(ルカ19・41-44)。前者は、主を褒めたたえる声を誰も封じることはできないということです。後者は、紀元70年、ローマ軍によってエルサレムが破壊された出来事を指しています。当時、イエスを王として迎えて歓喜に沸いた美しき都エルサレムが、40年後には破壊の限りを尽くされたことを思うたびに、運命の悲哀を感じてやみません。


 絵画紹介

 今回紹介する一枚は、19世紀のフランスの画家ジャン=イッポリ・フランドラン(1809ー64)による『エルサレム入城』(1842年)です。彼はフランスの新古典主義の継承者であるジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの弟子で、彼自身も新古典主義の道を踏襲しています。フランドリンは肖像画や宗教画を多く手掛け、アングルが裸婦像を多く描いたのとは対照的に、男性の裸体画を好む傾向があります。

 『エルサレム入城』を一見して驚くのは、とても19世紀の絵画とは思えないことです。平面的な構図とフレスコ画のような配色、そして真横からのイエスの描画が特徴的で、まるでゴシック時代の絵画を見ているかのようです。“新古典主義”の彼はルネサンスやバロック風の宗教画も描いているので、ゴシック画を意識していることは明らかで、また、イエスの真横からのアングルは、彼の手による男性の裸体画や肖像画にも見られる手法です。静謐で一見単調な絵の中には、ひざまづく者、手を合わせて祈りの姿勢を取る者、乳児を高く挙げる者といった歓迎する人々が画面の右側に展開している一方で、左側のやや暗い空間は、いぶかしげな表情で隣の人に意思表示する者や硬い表情を浮かべている人等、歓迎ムードとは程遠い様相を呈しています。これぞまさに、イエスを囲む人々の“群像”と言えます。


『エルサレム入城』1842年 ヒポリット・フランドリン Entry into Jerusalem, Hippolyte Flandrin

2025年10月8日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 ヨハネ15:26-27

ヨハネ15:26-27


 注解

 26節

新共同訳「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」

Ὅταν ἔλθῃ ὁ Παράκλητος, ὃν ἐγὼ πέμψω ὑμῖν παρὰ τοῦ Πατρός, τὸ Πνεῦμα τῆς ἀληθείας, ὃ παρὰ τοῦ Πατρὸς ἐκπορεύεται, ἐκεῖνος μαρτυρήσει περὶ ἐμοῦ.


「弁護者」:「Παράκλητος」(パラクレートス)。「傍に」「呼ぶ」という語が組み合わさったもの。傍に呼ばれる存在、ということで、「弁護者」「助け主」「慰め主」などと訳される。ヨハネ福音書の文脈では聖霊を指す。父なる神からキリストを通して信徒に派遣され、信徒の神理解を深め、真理を人々に「証し」して悟らせる存在。


「父のもとから出る真理の霊」:「真理の霊」は、聖霊についての別の呼び方。この箇所以外の用例については下記の通り。

14:17「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」

16:13「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」


 聖霊の父からの発出という教義ーフィリオクエ問題

「父のもとから出る」:聖霊の起源が父なる神にあることが強調され、ニカイア・コンスタンティノポリス信条においては、聖霊が父から発出することが明記された。

6世紀、スペインのトレド公会議において、従来の文言である「父から」(qui ex Patre)に加えて、「子からも」(Filioque)語が西方教会で付加され始め、9世紀のカール大帝時代にはこのバージョンが西方で広く使われるようになった。1054年における東西教会分裂(Great Schism)は、西方側のこの追加が一因となった。


「その方がわたしについて証をなさる」:証するの原語は、μαρτυρέωで、証言するの意。ヨハネ福音書の神学を象徴する用語の一つ。イエスの神性や使命を人々に証言するという意味で使用され、その語の主語は、洗礼者ヨハネ(1:7)、イエス自身(5:31-32)、聖霊(15:26)、弟子たち(15:27)があり、イエスの十字架や復活の目撃者もまた、証をする主体とされている(19:35)。

 つまり、聖霊がイエスを人に証をすることで真理へと導かれ、聖霊の働きにより人はイエスを証する主体ともなる、ということである。



 27節

新共同訳「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」

καὶ ὑμεῖς δὲ μαρτυρεῖτε, ὅτι ἀπ’ ἀρχῆς μετ’ ἐμοῦ ἐστε.


「あなたがたも……証しをする」:弟子たちもイエスの生涯と教えの目撃者であり、聖霊の働きによって、聖霊と共に証人とされていく。

「初めからわたしと一緒にいた」:弟子たちがイエスの公生涯の最初期から同行し、イエスの活動を体験してきたことを指す。彼らの経験、目撃体験は、「証」の真実性を裏打ちする。


説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ25:23–33

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイによる福音書 22:23–33

並行箇所:マルコ12:18-27、ルカ20:27-40

概要

サドカイ派との復活論争の記事。マタイはマルコの並行箇所を踏襲しつつ、マルコの「『柴』の個所」などの記述を省略して叙述している。

注解

23節

その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
Ἐν ἐκείνῃ τῇ ἡμέρᾳ προσῆλθον αὐτῷ Σαδδουκαῖοι, λέγοντες μὴ εἶναι ἀνάστασιν, καὶ ἐπηρώτησαν αὐτόν
「その同じ日」:その日がいつ始まったのかは定かではないが、21:17-18において宿泊を経て朝からの記述が始まっている。日付の設定というよりは、直前の記事の「ファリサイ派」との論争を意識して、本箇所でサドカイ派との一幕を記すという意識が反映されている。
「サドカイ派」:前2世紀頃に発生したと推定されるユダヤ教内の一派で、貴族層(エルサレム貴族層、地方の貴族層)、地主などの富裕層によって構成される。元々は有力な祭司一族のザドク(ツァドク)家の子孫とこれに関連のある者たちに由来する(エゼキエル40:46)。なお、ザドク(ツァドク)はソロモン時代の大祭司であった同名の人物から採られたものだろう(列王記上2:35)。イエス時代以前から以後しばらく、ユダヤの最高議会(サンヘドリン)における多数派として、政治的および宗教的支配権を手にしていた。文化的にはオープンであったが、自分たちの基盤を揺るがすような改革は望まないため、現状維持には保守的であった。神学的には保守的で、律法理解については旧約における「トーラー」(=モーセ五書)のみを正典と見なし、律法学者やファリサイ派とは異なり、律法から派生した伝統的な解釈の権威を否定した。死者の復活、天使や霊の活動の否定(必ずしも存在自体を否定しているわけではない。この世における活動には否定的)を特徴としている。後70年のエルサレム神殿崩壊時、当時の最高議会サンヘドリンの瓦解と共に、事実上その存在は消滅した。
サドカイ派は彼らの信仰内容に基づいてイエスを論破しようと試み、質問を投げかけた。

24節

「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
λέγοντες· Διδάσκαλε, Μωϋσῆς εἶπεν, Ἐάν τις ἀποθάνῃ μὴ ἔχων τέκνα, ἐπιγαμβρεύσει ὁ ἀδελφὸς αὐτοῦ τὴν γυναῖκα αὐτοῦ καὶ ἀναστήσει σπέρμα τῷ ἀδελφῷ αὐτοῦ.
レビラート婚(レビラト婚、申命記25:5–10を参照):子供のいない夫妻において夫が死亡した場合、夫の弟が未亡人と結婚し、家系を存続させる制度をレビラート婚という(参照、申命記25:5-10)。これにより、名前の継承、土地の継続的保持が意図されている。
彼らは律法におけるレビラート婚と呼ばれる制度を引用し、復活の教えの矛盾を突こうとしている。

25節

「さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。」
Ἦσαν δὲ παρ’ ἡμῖν ἑπτὰ ἀδελφοί· καὶ ὁ πρῶτος γαμήσας ἐτελεύτησεν, καὶ μὴ ἔχων σπέρμα ἀφῆκεν τὴν γυναῖκα αὐτοῦ τῷ ἀδελφῷ αὐτοῦ·
「七人の兄弟」という極端なケースが設定されている。もし復活があるとすれば、「妻」が「七人」全員を夫として持つことになるとして、その教義が理不尽であると主張されている。

26–28節

26「次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。27 最後にその女も死にました。28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
26 ὡσαύτως καὶ ὁ δεύτερος καὶ ὁ τρίτος ἕως τῶν ἑπτά. 27 ὕστερον δὲ πάντων ἀπέθανεν ἡ γυνή. 28 ἐν τῇ ἀναστάσει οὖν τίνος τῶν ἑπτά ἔσται γυνή; πάντες γὰρ εἶχον αὐτήν.
サドカイ派の主張は、復活の教義が婚姻制度と矛盾するという一点に集約される。彼らはまた、復活後も婚姻関係がそのまま継続されるということを前提としている。

29節

「イエスはお答えになった。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
ἀποκριθεὶς δὲ ὁ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτοῖς· Πλανᾶσθε, μὴ εἰδότες τὰς γραφὰς μηδὲ τὴν δύναμιν τοῦ θεοῦ.
サドカイ派もまた律法学者と同様、聖書を読んで独自の解釈を深め、神の力を信じている。しかしイエスは、聖書に対する彼らの無理解、神の力に対する無知を指摘する。
復活後はそれまでの地上の制度とは次元を異にするものであり、他方、サドカイ派は地上と復活後の世界を混同している。

30節

「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
ἐν γὰρ τῇ ἀναστάσει οὔτε γαμοῦσιν οὔτε γαμίζονται, ἀλλ’ ὡς ἄγγελοι ἐν οὐρανῷ εἰσίν.
復活後の人間は、もはや地上の婚姻制度に拘束されることはなく、「天使」のような霊的存在に変容するという。復活は単なる肉体の再生や生き返りではない。新しい次元の生としての新しい誕生であり、創造である。
復活後の人間の形としては、ヨハネの手紙一3:2に「御子に似た者となる」という表現がある。

31–32節

31 「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。」32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
31 περὶ δὲ τῆς ἀναστάσεως τῶν νεκρῶν, οὐκ ἀνέγνωτε τὸ ῥηθὲν ὑμῖν ὑπὸ τοῦ θεοῦ λέγοντος· 32 Ἐγώ εἰμι ὁ θεὸς Ἀβραὰμ καὶ ὁ θεὸς Ἰσαὰκ καὶ ὁ θεὸς Ἰακώβ; οὐκ ἔστιν ὁ θεὸς νεκρῶν ἀλλὰ ζώντων.
イエスは、サドカイ派が根拠の拠り所としている聖書(旧約)の「言葉」を引用して問う。32節の旧約引用は出エジプト記3:6。元々の文脈上の意味から外れるものの、イエスはその文言を、<神がアブラハムらをそのように呼ぶことは、神が今なお彼らと生きた関係性を持っていることを意味する>→<アブラハムらが今なお生きていることの証左>という論理で再解釈している。
この論理が少し納得のいかない読者も多いだろう。その場合は、32節の冒頭が「私(こそ)は、アブラハムの神……である」と現在形で書かれていて、過去形ではない、すなわち、既にアブラハムなどが死んだ人として過去の出来事として扱われておらず、現在進行の事柄として語られていることを意識すると、わかりやすいかもしれない。

33節

「群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。」
καὶ ἀκούσαντες οἱ ὄχλοι ἐξεπλήσσοντο ἐπὶ τῇ διδαχῇ αὐτοῦ.
群衆はイエスの聖書理解と知恵に驚嘆した。サドカイ派の表面的な理屈ではなく、斬新な解釈がもたらす腑に落ちる感覚に驚きを覚えたのだろう。サドカイ派が敗北したとは明言されていないが、群衆が驚いた事実の報告のみをもって、これ以上彼らが太刀打ちできなかったことが暗示されている。

説教や奨励のための黙想

とかく私たちは、神の教えや聖書の言葉を自分の狭い頭の中で弄り回し、堂々巡りの考えに陥りがちである。自分の理屈に捕らわれてしまうのである。それは、この箇所におけるサドカイ派もそうだった。
イエスは彼らの復活否定の主張に対して、神の力や真理の世界が、我々の次元を超越するものであることを示す。
復活後の夫婦関係について述べれば、死後や復活後も、それまでの夫婦関係が継続されることを望む人も少なくない。それをむげに否定する必要はないとは思うが、地上における夫婦関係以上の関係性が用意されていることを思い、希望と期待を抱いて、復活後の新しい命の次元を待ち望みたい。

祈りの言葉

天の父なる神よ、
あなたの御言葉に耳を傾けるとき、私たちは自らの理解の限界を思い知らされます。サドカイ派の人々が復活を否定し、地上の制度に囚われていたように、私たちもまた、自分の理屈や経験に縛られ、あなたの力と真理の広がりを見失ってしまうことがあります。
どうか私たちの心の目を開いてください。あなたの御力が、死を超え、時を超え、私たちを新しい命へと導くことを信じることができますように。復活の命が、ただの延長ではなく、あなたの創造による新しい次元であることを、希望をもって受け入れられますように。
地上で築いた関係や絆を大切にしながらも、それを超えるあなたの愛と交わりに心を向けることができますように。復活の命において、あなたと共にあることの喜びを、今から味わい始めることができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

2025年10月6日月曜日

サドカイ派 Sudducees

サドカイ派 Sudducees


 前2世紀頃に発生したと推定される、ユダヤ教内の一派で、貴族層(エルサレム貴族層、地方の貴族層)、地主などの富裕層によって主に構成される。元々は有力な祭司一族のザドク(ツァドク)家の子孫とこれに関連のある者たちに由来するものと思われる(エゼキエル40:46)。なお、ザドク(ツァドク)はソロモン時代の大祭司であった同名の人物から採られたものだろう(列王記上2:35)。


 イエス時代以前から以後しばらく、ユダヤの最高議会(サンヘドリン)における多数派として、政治的および宗教的支配権を手にしていた。


 文化的にはオープンであったが、自分たちの基盤を揺るがすような改革は望まないため、現状維持には保守的であった。神学的には保守的で、律法理解については旧約における「トーラー」(=モーセ五書)のみを正典と見なし、律法学者やファリサイ派とは異なって、律法から派生した伝統的な解釈の権威を否定した。死者の復活、天使や霊の活動の否定(必ずしも存在自体を否定しているわけではない。この世における活動には否定的)を特徴としている。


 後70年のエルサレム神殿崩壊時、当時の最高議会サンヘドリンの瓦解と共に、事実上その存在は消滅した。


2025年10月1日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコによる福音書 3章20-30節

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコによる福音書 3章20–30節


概要

新共同訳聖書が付している表題「ベルゼブル論争」というタイトルは、20節から30節までを区切るのが適切である。ただし、この箇所では、イエスの身内が「気が変になった」と思って取り押さえに来ている一方で、31–35節では、身内でない人たちがイエスから「家族」と呼ばれている。すなわち、前者と後者とで、「家族なのに理解しない者たち」と「家族でないのに理解している者たち」という鮮烈な対比が描かれている。その場合、20–35節をひとまとまりとして、30節までと31節以降に分けるのが適切である。

20節

新共同訳 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
Καὶ ἔρχεται εἰς οἶκον· καὶ συνέρχεται πάλιν τὸ πλῆθος, ὥστε μὴ δύνασθαι αὐτοὺς μηδὲ ἄρτον φαγεῖν.
  • 「家に帰られると」──自分の家ではなく、拠点としていた家のこと。
  • 「群衆がまた集まって来て」──「また」(πάλιν)は、これまでも群衆が押し寄せる事態が繰り返されてきたことを意味する。
  • 「一同は食事をする暇もない」──同様の記述は6:31にも見られる。「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」日常生活すらままならない状況が示されている。イエスの教えを聞きたい人々もいたが、多くは病気の癒しや悪霊払いの奇跡を求めて殺到していた。「安住できる場所もない」といった趣旨の言葉としては、マタイ8:20「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」がある。

21節

新共同訳 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
Καὶ ἀκούσαντες οἱ παρ' αὐτοῦ ἐξῆλθον κρατῆσαι αὐτόν· ἔλεγον γὰρ ὅτι ἐξέστη.
  • 「身内の人たち」──イエスの家族とされる。イエスの風評を耳にした身内が、活動をやめさせ、故郷ナザレに連れ戻すためにやって来た。節の後半では、その理由が述べられている。
  • 「あの男は気が変になっている」──文法上、この「気が変に」と言っている主語(3人称複数形)は特定されていないため、これがイエスの身内なのか、それとも第三者なのかは定かでない。新共同訳は後者と解釈して訳出している。いずれにせよ、「身内」はイエスを取り押さえるという行動に出ているのだから、彼らも少なからずそう考えていたと読むのが自然である。
 神の働きを行う際、聖書にしばしば示されるように、周囲がそれを理解してくれるとは限らない。社会、さらには家族でさえ、同意を得られず反対されることがあることを肝に銘じる必要がある。

22節

新共同訳 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
Καὶ οἱ γραμματεῖς οἱ ἀπὸ Ἱεροσολύμων καταβάντες ἔλεγον ὅτι Βεελζεβοὺλ ἔχει, καὶ ὅτι ἐν τῷ ἄρχοντι τῶν δαιμονίων ἐκβάλλει τὰ δαιμόνια.
  • ベルゼブル(Beelzebul)──新約聖書で悪魔を指す呼称。他にはサタン、ベリアルなどがある。「悪霊の頭」とされている(マタイ12:24参照)。もとはペリシテ人の都市神「バアル・ゼブル」(Baal-Zebul、「崇高なバアル」の意)であったが、ヘブライ語ではこれを蔑称化し「バアル・ゼブブ」(Baal-Zebub、「蠅のバアル」)とした(列王記下1章)。なお、メソポタミアの主要都市神としてはマルドゥク(バビロン)、イシュタル(ニネベ)などが挙げられる。
 イエスは、人々に取り憑いたり病気にさせたりする悪霊を追い出していた。イエスに批判的な人々は、それを神の力による奇跡と認めたくなく、「悪霊の頭の力による」とこじつけて考えた。もしイエスの業が神の権威によるものだとすれば、彼ら自身が神の意志に逆らっていることになり、責めを負う立場になるからである。

23–25節

新共同訳 そこで、イエスは彼らを呼び寄せ、たとえを用いて語られた。「どうしてサタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。」
Καὶ προσκαλεσάμενος αὐτοὺς ἐν παραβολαῖς ἔλεγεν αὐτοῖς· Πῶς δύναται Σατανᾶς Σατανᾶν ἐκβάλλειν; Καὶ ἐὰν βασιλεία ἐφ' ἑαυτὴν μερισθῇ, οὐ δύναται σταθῆναι ἡ βασιλεία ἐκείνη.
 我々の社会にも、自分の本音を隠しつつ、表面上は正論を掲げて批判する場面がある。イエスは彼らの裏の心を見抜き、その矛盾を明らかにされた。悪魔が悪魔を追い出すというのは自己矛盾であり、国が内部で「争って」(μερίζω=分ける、分裂させる)いては成り立たないという比喩を示された。

26節

新共同訳 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
Καὶ εἰ ὁ Σατανᾶς ἀνέστη ἐφ' ἑαυτὸν καὶ μεμέρισται, οὐ δύναται σταθῆναι, ἀλλὰ τέλος ἔχει.
 すなわち、「サタンの頭が手下のサタンを追い出している」という理屈は筋が通らず、自己矛盾した論理であるとイエスは宣言している。

27節

新共同訳 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれもその人の家に押し入って家財道具を奪うことはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
Ἀλλ' οὐ δύναται οὐδεὶς εἰς τὴν οἰκίαν τοῦ ἰσχυροῦ εἰσελθὼν τὰ σκεύη αὐτοῦ διαρπάσαι, ἐὰν μὴ πρῶτον τὸν ἰσχυρὸν δήσῃ, καὶ τότε τὴν οἰκίαν αὐτοῦ διαρπάσει.
 押入り強盗の常套手段は、まず「強い人」を縛ることである。ここでの「強い人」とは、悪霊を支配するサタンを指す。そのサタンの力を封じなければ悪霊払いはできない。逆に言えば、イエスがサタンさえも封じているならば、それは神の権威によるほかなく、イエスが神の権威を帯びていることを示す。「悪霊の頭の力だ」という批判を逆手に取り、イエスが神の力を帯びる方であることを示す天才的な論理転換がここに見られる。

28節

新共同訳 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪や、どんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。
Ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι πάντα ἀφεθήσεται τοῖς υἱοῖς τῶν ἀνθρώπων τὰ ἁμαρτήματα καὶ αἱ βλασφημίαι ὅσα ἐὰν βλασφημήσωσιν·
  • 「はっきり言っておく」──直訳では「アーメン、私はあなたがたに言う」。
  • 「人の子」──この文脈では、一般的な人々を指す。
 人間が犯す罪も、神への冒瀆の言葉も、すべて赦されるという神の赦しの無限の広さがここに宣言されている。しかし次節で、その例外が示される。

29–30節

新共同訳 しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。イエスがこう言われたのは、彼らが「イエスは汚れた霊に取りつかれている」と言っていたからである。
ὃς δ' ἂν βλασφημήσῃ εἰς τὸ Πνεῦμα τὸ Ἅγιον, οὐκ ἔχει ἄφεσιν εἰς τὸν αἰῶνα, ἀλλὰ ἔνοχός ἐστιν αἰωνίου ἁμαρτήματος· ὅτι ἔλεγον· Πνεῦμα ἀκάθαρτον ἔχει.
 この節は解釈上の難点が多い。
  • 「聖霊」──キリスト教の教義上、父なる神、子なる神キリストと共に三位一体をなす神。マルコにおける用例は、1:8「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」、12:36「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている」、13:11「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊」であるほか、1:10,12でも“霊”として登場する。これらから、聖霊は人の内面に宿り、言葉や意志を与えて動かすものと理解される。
  • 「聖霊を冒瀆する者」──聖霊の働きを否定する者。この文脈では、聖霊の働きを悪霊の力と揶揄した人々を指す。
 解釈としては、①この言葉を当時の状況に限定し、イエスを揶揄した人々への警告と見る立場、②普遍的に適用し、罪の赦しを拒み続ける者・神の教えを曲解する者を指すとする立場がある。

説教のための黙想

この箇所でイエスを取り巻く人々は、神の働きを自分の目で見ながらも、理解と信仰に至ることができなかった。身内も批判者も、いずれも心を閉ざしていたのである。信仰とは「見たら信じる」という単純な話ではなく、心を開くことが必要である。
イエスは批判者たちの揶揄を通して、かえって神の力の真実を明らかにされた。サタンがサタンを追い出すことはあり得ず、悪の力を退けることができるのは神の権威によるのみである。
イエスのうちに働いていたのは、悪霊の力ではなく聖霊の力であった。その聖霊の力は私たちにも与えられ、信仰と理解を生み出す。イエスを否定することは、神ご自身の働きを否定することにほかならない。
聖霊を冒瀆するとは、神の恵みと真理を自ら拒み、赦しの道を閉ざすことである。聖霊のささやきを疑わず、その導きに耳を傾け、神の力を信じて歩もう。

礼拝説教の結びとして

 今日の聖書の言葉は、イエスを取り巻く人々の反応を通して、信仰の本質を私たちに問いかけています。イエスの身内でさえ、その働きを理解できず、「気が変になった」と言って取り押さえようとしました。律法学者たちは、イエスの奇跡を神の力ではなく、悪霊の頭ベルゼブルの力によるものだと決めつけました。
 しかし、イエスはその誤解と批判に対して、たとえを用いて静かに、しかし力強く語られました。「サタンがサタンを追い出すことはできない」。この言葉は、神の働きを否定する者たちの矛盾を明らかにし、イエスのうちに働く聖霊の力こそが、悪を打ち破る真の力であることを示しています。
 私たちもまた、神の働きを見ながらも、それを疑い、否定してしまうことがあるかもしれません。しかし、聖霊は私たちの内に語りかけ、導き、真理へと招いてくださいます。その声に耳を傾けること、それが信仰の第一歩です。
 聖霊を冒瀆するとは、神の恵みを拒み、赦しの道を自ら閉ざすことです。だからこそ、私たちは心を開き、聖霊のささやきに敏感でありたい。イエスのうちに働いていた聖霊の力は、今も私たちのうちに働いています。神の力を信じ、神の導きに従って歩む者となりましょう。
 この週も、聖霊の導きに信頼し、神の働きを喜びのうちに受け止める者として、主にある歩みを続けてまいりましょう。 

祈りの言葉(祈祷)

恵みとまことに満ちた主なる神よ。
御子イエス・キリストを通して私たちのうちに聖霊を送り、真理と命の光を与えてくださることを感謝いたします。
主よ、私たちはしばしばあなたの働きを理解できず、自分の思いによってあなたの御業を疑います。どうか聖霊の力によって私たちの心の目を開き、あなたを正しく見分ける信仰と謙遜をお与えください。聖霊の声を拒まず、あなたの導きに従う者でいられますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン。

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイによる福音書 22章15-22節

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ22:15–22

並行箇所: マルコ12:13–17、ルカ20:20–26

概要

イエスとファリサイ派との論争物語の一つ。

注解

15節
新共同訳 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
15 Τότε πορευθέντες οἱ Φαρισαῖοι συμβούλιον ἔλαβον ὅπως αὐτὸν παγιδεύσωσιν ἐν λόγῳ.
イエスを罠に嵌め、その身を捕えようと意図して、ファリサイ派は謀議した。キリスト捕縛への伏線の一つ。
  • 「イエスの言葉じりを捉えて」──具体的には、律法に対する毀損や神への冒涜的発言を捉えようとしたものである。16節以降でその策略が展開される。新共同訳では「言葉じり」とあるが、原文は単に「言葉において」である。

16節
新共同訳 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」
16 καὶ ἀποστέλλουσιν αὐτῷ τοὺς μαθητὰς αὐτῶν μετὰ τῶν Ἡρῳδιανῶν λέγοντες· Διδάσκαλε, οἴδαμεν ὅτι ἀληθὴς εἶ καὶ τὴν ὁδὸν τοῦ θεοῦ ἐν ἀληθείᾳ διδάσκεις, καὶ οὐ μέλει σοι περὶ οὐδενός· οὐ γὰρ βλέπεις εἰς πρόσωπον ἀνθρώπων.
「弟子たち」──謀議を企てたのはファリサイ派の上層部であり、下の者たちが実働部隊としてイエスのもとに派遣された。
  • 「ファリサイ派」──律法重視・神中心の立場を取るため、基本的に反ローマ的である。
  • 「ヘロデ派」──親ローマ的傾向をもつヘロデ家の支持者とされる。両者は本来政治的に対立関係にあるが、ここでは共闘してイエスを陥れようとしている点に、人間の闇の深さが示される。
※マタイでヘロデ派が登場するのはこの一箇所のみ(他はマルコ3:6、12:13)。ヘロデ派とは、ユダヤにおけるヘロデ大王家(37 BCE–92 CE)を支持する1世紀の政治的一派を指すと考えられる(Horst Balz & Gerhard Schneider [eds.], Exegetical Dictionary of the New Testament, vol. 2, Grand Rapids: Eerdmans, 1991, 124–125)。
イエスに対する「弟子たち」の発言には敬意が込められているように見えるが、それは偽りである。「真実」「真理」「分け隔てしない」というイエスの特質を群衆に印象づけた上で、次節の罠の質問にイエスが嵌まれば、人々の失望を一層大きくすることを狙っている。この表敬は罠の一部である。

17節
新共同訳 「ところで、どうお思いでしょうか。お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
17 εἰπὲ οὖν ἡμῖν, τί σοι δοκεῖ; ἔξεστιν δοῦναι κῆνσον Καίσαρι ἢ οὔ;
  • 「税金」──人頭税(κῆνσος)。紀元6年、アウグストゥス皇帝がユダヤを属州とした際に導入された一人当たりの定額税。成人男子に一律で課され、デナリオン銀貨で納入された。その貨幣にはティベリウス皇帝の肖像と「神の子」との銘が刻まれており、皇帝崇拝を意味することからユダヤ人には忌避感が強かった。
  • 「律法に適っているか」──「適っている」と答えればローマ支配の容認と受け取られ、「適っていない」と答えれば反逆罪に問われる。いずれの答えでもイエスを窮地に追い込むことができる巧妙な二者択一の罠である。政治的問題を宗教的忠誠の問題へと意図的に結びつけている。

18節
新共同訳 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜわたしを試そうとするのか。」
18 γνοὺς δὲ ὁ Ἰησοῦς τὴν πονηρίαν αὐτῶν εἶπεν· Τί με πειράζετε, ὑποκριταί;
  • 「偽善者」──新約での使用はマタイ13回、マルコ1回、ルカ3回で、マタイにおいて際立って多い。ファリサイ派や律法学者に対する批判の語として用いられ、外面の敬虔と内面の悪意との乖離を指摘する。

19–20節
新共同訳 「税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは言われた。「これは、だれの肖像と銘か。」
19 ἐπιδείξατέ μοι τὸ νόμισμα τοῦ κήνσου. οἱ δὲ προσήνεγκαν αὐτῷ δηνάριον.
20 καὶ λέγει αὐτοῖς· Τίνος ἡ εἰκὼν αὕτη καὶ ἡ ἐπιγραφή;
  • デナリオン銀貨──ローマの人頭税支払いに用いられた標準的貨幣。
イエスは罠の質問を単に回避するのではなく、相手を自らの誘導尋問へと導き、その答えの中に真理を語らせている。

21節
新共同訳 彼らは「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
21 λέγουσιν· Καίσαρος. τότε λέγει αὐτοῖς· Ἀπόδοτε οὖν τὰ Καίσαρος Καίσαρι, καὶ τὰ τοῦ θεοῦ τῷ θεῷ.
  • 「皇帝のものです」──イエスの誘導に自ら答えてしまう彼ら。
  • 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」──皇帝に税を納めること自体は信仰の放棄を意味しない。世俗の義務を果たしつつも、神への忠誠を第一とすることが求められる。二者択一を超え、価値の優先順位を示す言葉である。なお、もし権力が信仰否定を強いるならば、「自分を捨て、自分の十字架を背負って従う」(16:24)の覚悟、すなわち殉教の精神をも含意する(参照:5:11)。

22節
新共同訳 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
22 καὶ ἀκούσαντες ἐθαύμασαν, καὶ ἀφέντες αὐτὸν ἀπῆλθαν.
「驚き」──「悔しがる」ではなく「驚いた」とあり、反論もなく立ち去った。イエスの言葉に完全に打ち負かされたというよりも、言葉の深みに圧倒され、反論不能となったことを示している。

説教・奨励のためのポイント

  • 世俗の権威への妥協が容認されているのではない。
  • どのような世俗の権威にも最高主権はなく、主権は神にある。
  • 神の主権・忠誠・信仰が侵されない限り、世俗の義務を果たすことは悪ではない。むしろ、信仰生活の維持に必要な場合もある(参照:ローマ13:1–7)。
  • キリスト者は世にありながら、その国籍は天にある(ピリピ3:20)。神と世の二重性の中で、時に対立しつつも両立を模索する姿勢が求められている(参照:ヨハネ1:10–11)。