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2026年1月1日木曜日

小論文「マルコ福音書に対するルカ福音書による主な修正・改変」 英文つき"The Editorial Intent and Theological Reconfiguration of Markan Material in the Gospel of Luke"

ルカ福音書におけるマルコ福音書資料の編集意図と神学的再構築

ルカ福音書は、マルコ福音書を主軸の資料として用いながらも(参照、ルカ1:1–4)、その文体・構成・神学的表現に対して多様な編集を施している。本稿では、ルカによるマルコ改変の特徴を、文体的・物語的・神学的観点から整理し、その編集意図を「競合」や「否定的修正」ではなく、解釈的適用として位置づけることを目的とする。

 ルカによるマルコの改変は、以下に集約される。
1. 文体的・叙述的編集——簡潔化と明瞭化
2. 読者理解を妨げる要素の削除
3. イエス像の再構成——感情的表現の抑制と模範的・威厳ある像の強調
4. 弟子像・イエスの家族像の修正——教会共同体と読者への配慮

 以下、これらを順に解説する。

1. 文体的・叙述的編集——簡潔化と明瞭化の実例(一部)
 1.2. マルコ1:32–34 // ルカ4:40–41
 ルカは、マルコの冗長描写や詳細描写、繰り返しを削除し、叙述を簡潔化する傾向が顕著に認められる。

 1.3. マルコ5:41 // ルカ8:54 アラム語表現の削除
 マルコにとりわけ特徴的なアラム語の逐語引用が、ルカでは削除されている。この箇所では「起きなさい」のみに整理されている。これは、ギリシャ語読者には不要な異言語表現をカットする簡潔化と見なされる。ギリシャ語を使う読者向けにアラム語の再音表現は必要なし、とルカは判断したと思われる。他、後述の7:34「エッファタ」、15:34「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」なども削除されている。ただし、15:34は、イエス像の変更とも関係していて、複合的理由によるものである。

 1.4. マルコ6:30-44(五千人)、8:1-10(四千人) // ルカ9:10-17 二重記事の集約
 マルコは、五千人の供食(6:30–44)と四千人の供食(8:1–10)という二つの供食記事を伝えている。さらにマルコ8:19–20において、イエスが弟子たちを叱責する文脈の中で、この二度の供食を明示的に読み手に想起させており、供食記事の重複は偶発的ではなく、意図的に構成されたものであると判断される。これら二つの供食は、弟子たちの理解の鈍さを浮き彫りにするというマルコ固有の弟子批判のモティーフと密接に結びついた、不可欠な構成要素である。
これに対してルカは、五千人の供食記事(9:10–17)のみを採用し、四千人の供食記事を省略することによって、マルコにおける二重の供食伝承を一つの記事に集約している。それと同時に、マルコ8章に見られるような弟子批判の叙述も大幅に削減されており、ルカの編集方針が、叙述の簡潔化と弟子批判の相対的緩和に向けられていることが明らかとなる。

2. 読者理解を妨げる要素の削除
 2.1. マルコ7:33-34 呪術的所作の削除
ἔβαλεν τοὺς δακτύλους αὐτοῦ εἰς τὰ ὦτα αὐτοῦ, καὶ πτύσας ἥψατο τῆς γλώσσης αὐτοῦ·
「彼は彼の指を彼の耳に入れ、唾して彼の舌に触れた」
→マルコの奇跡物語における呪術的動作の記述を、ルカは削除。

2.2. マルコ7:3-4 ユダヤ的慣習の省略
そもそもルカは、ユダヤの慣習的色彩の濃いマルコ7:1以下を採用していないが、この箇所の手洗いの規定に関する説明的編集句(マルコ7:33-34)に言及していない。ルカの読者には不要との判断だろう。

3. イエス像の修正——感情的表現の抑制と模範的・威厳ある像の強調
 3.1. マルコ1:41 // ルカ5:12-16 激情的憐れみの感情の削除
καὶ σπλαγχνισθεὶς ἐκτείνας τὴν χεῖρα αὐτοῦ ἥψατο
「彼は深く憐んで彼の手を伸ばして触れた」
→καὶ ἐκτείνας τὴν χεῖρα ἥψατο「彼は手を伸ばして触れた」
 マルコにおける感情表現(深く憐む)が削除されている。

 3.2. マルコ3:5 // ルカ6:10 怒りの感情の削除
καὶ περιβλεψάμενος αὐτοὺς μετ’ ὀργῆς, συλλυπούμενος
「そこで彼は彼らを怒りをもって見回して」
→καὶ περιβλεψάμενος πάντας αὐτοὺς εἶπεν…
 「そこで彼は彼ら皆を見回して言った」

 3.3. マルコ14:33 // ルカ22:39-46 苦悩の感情の削除
καὶ ἤρξατο ἐκθαμβεῖσθαι καὶ ἀδημονεῖν.
「彼はひどく恐れて苦悩し始めて」
→イエスの苦悩の削除。代わりに、別伝承の「血の汗」と「天使」を付加。

 3.4. マルコ8:24-25 // 並行箇所なし 段階的治癒の削除
マルコにおける段階的な治癒を、ルカは記事ごと採用していない。イエスが一度では病を癒せなかったことが、読者の理解の妨げとなることを考慮した可能性がある。

 総じて、マルコにおける感情的で、驚き、怒り、恐れ、苦悩する人間的イエス像を、冷静沈着で威厳を持ち、動揺せずに感情を制御し、模範的な信徒像を提示する神的イエス像へと変更されている。

4 弟子像・イエスの家族像の修正——教会共同体と読者への配慮
 4.1. マルコ6:52 // ルカ9:45 弟子批判の緩和
οὐ γὰρ συνῆκαν ἐπὶ τοῖς ἄρτοις, ἀλλ’ ἦν αὐτῶν ἡ καρδία πεπωρωμένη
「彼らはパンについて理解せず、心が頑なになっていたから」
→οἱ δὲ ἠγνόουν τὸ ῥῆμα τοῦτο, καὶ ἦν παρακεκαλυμμένον ἀπ’ αὐτῶν ἵνα μὴ αἴσθωνται αὐτό…
「彼らはこの言葉が分からず、彼らから隠されていた、彼らが悟らないように」
 ルカはマルコの無理解の状況は保持しつつも、批判的な描写は避け、彼らの無理解を啓示の問題に変換している。

 4.2. マルコ8:17–21 // ルカ9:12–17 弟子批判の緩和
Τί διαλογίζεσθε, ὅτι ἄρτους οὐκ ἔχετε; οὔπω νοεῖτε οὐδὲ συνίετε; πεπωρωμένην ἔχετε τὴν καρδίαν ὑμῶν;
「なぜパンを持っていないことで議論するのか?まだ分からないのか、悟らないのか?なたがたの心が頑なになっているのか?」
→マルコにおける修辞疑問文の連続による叱責を、削除。
 ルカは教会形成期の読者のために、弟子の威信を損なう描写を弱めたと考えられる。

 4.3. マルコ3:21 // ルカ11:14-23
「気が変になった」→ルカでは不採用
 初代教会におけるイエスの家族の評価を下げ、読者を戸惑わせる可能性のある記述を、ルカは避けたと考えられる。

 総じて、ルカは本福音書第2巻である使徒言行録において、使徒たちやイエスの家族を教会の基礎として描くため、彼らを貶めるような批判的叙述を削除するか緩和していると見られる。

結論
 ルカ福音書は、マルコ福音書を資料としつつ、読者配慮と神学的意図に基づき、以下のような編集を加えている。
1. 物語的における叙述的配慮
 ・冗長な描写や繰り返しを削除し、要点を整理(例:病人の癒し、供食記事の集約)。
 ・アラム語表現の削除
 ・呪術的動作やユダヤ的慣習の描写を省略(例:唾を使った癒し、手洗い規定)。
 ・二重記事の整理

2. 神学的・教会共同体的配慮
 ・イエス像の再構成——感情表現の抑制
 ・弟子批判の緩和
 ・イエスの家族の否定的描写の削除

 以上のように、ルカの編集は、物語の明快化と神学的再構成を通じて、読者にとって受容しやすい福音像を提示している。よって、ルカ福音書のマルコ改変は「競合的」でも「否定的批判」でもなく、解釈的・教会論的配慮に基づく編集的修正と位置づけるのが妥当である。
ルカはマルコを、修正が必要な書とおそらくは見ているが(ルカ1:1-4)、基本的には信頼ある権威ある資料として前提し、その基本的枠組みを維持している。マルコを否定する独立的叙述を意図してはいない。また、マルコの神学や物語構成を大きな誤りとして、是正するような修正も、明示的な批判も行っていない。むしろ、マルコに固有の緊張感や弟子批判、人間的イエス像が、後代の読者共同体に混乱や躓きを与える可能性を考慮し、それらに限定して緩和・再配置する形で再提示している。
 したがって、ルカの編集は、マルコ伝承を否定する「批判的修正」ではなく、また上書き消去を目指す「競合」でもない。むしろそれは、同一伝承を異なる読者層と神学的関心に即して再解釈する、協同的かつ解釈的継承として

小論文「マルコ福音書に対するマタイ福音書の主な修正・改変」

マルコ福音書に対するマタイ福音書の主な修正・改変


 マタイ福音書は、共観福音書の中でもとりわけマルコ福音書を主要資料として用いていると広く認識されている。しかしマタイは、マルコを単純に踏襲するのではなく、叙述の整理、神学的観点に基づく修正、物語構造の再編成を加えながら、自身の福音書を構築している。本章では、マルコに対するマタイの修正・改変の主要な特徴を整理し、そこに見られる神学的方向性(特に律法理解とイエス像・弟子像)を明らかにする。

 マルコに対するマタイの編集方針は、概ね以下の六点に集約できる。


 マルコに対するマタイの修正は多岐に及ぶが、概ね以下の通りに集約される。

1 記事内容の簡潔化および文体・表現の修正

2 旧約引用・成就句の付加によるユダヤ的正統性の強調

3 ユダヤ教指導者批判の強化

4 イエス像の修正・補足

5 弟子像の修正・補足

6 律法理解の修正・補足


*2はマタイ独自の神学的要素の付加。3以下は主にマルコ神学の調整・修正に関わる。


1. 記事内容の簡潔化および文体や表現の修正(改善、省略、簡略化など)

マタイは、マルコに比べて冗長な表現や物語展開を削ぎ落とし、文体を整える傾向を示す。語彙選択や文法構造を調整し、論点が明確に伝わるよう再構成している。以下、その代表的な用例を抽出する。


1.1. 詳細表現の簡略化

・マルコ1:32 // マタイ8:16

ἔφερον πρὸς αὐτὸν πάντας τοὺς κακῶς ἔχοντας καὶ τοὺς δαιμονιζομένους

「彼らは彼のもとに、悪いところを持つ人々、そして悪霊憑きの全ての人々を運んで来ていた」

→ προσήνεγκαν αὐτῷ δαιμονιζομένους πολλούς·

 「彼らは彼のもとに、多くの悪霊憑きの人々を運んで来た」


1.2. 感情表現の簡略化、冗長表現の簡素化

・マルコ4:38 // マタイ8:25

Διδάσκαλε, οὐ μέλει σοι ὅτι ἀπολλύμεθα;

「先生、私たちが滅びても構わないのですか?」

→Κύριε, σῶσον, ἀπολλύμεθα.「主よ、救ってください、滅びそうです」

弟子たちの不安表現を、祈願文形式へと転換。

・マルコ2:10-11 // マタイ9:6

冗長な命令文が、マタイ9:6では簡素化されている。

・マルコ1:41 // マタイ8:3

「深く憐れんで」という感情描写を削除。


1.3. 物語的説明の整理

・マルコ5:8 // マタイ8:29

ἔλεγεν γὰρ αὐτῷ· Ἔξελθε τὸ πνεῦμα τὸ ἀκάθαρτον ἐκ τοῦ ἀνθρώπου

「彼(イエス)は彼(悪霊)に言っていた(からである)。出て行け、穢れた霊よ、その人から」

→マタイ8:29。削除。

・マルコ5:23 // マタイ9:18

ἵνα σωθῇ καὶ ζήσῃ(彼女が救われ、生きるように)の削除。

・マルコ5:35-36 // マタイ9:23

 二段階描写の削除

・マルコ6:48 // マタイ14:24

場面描写の簡素化など。


1.4. マルコの頻出語「εὐθύς(すぐに)」「εὐθέως(同義の別形)」の削減

マルコ福音書において εὐθύς(27回)および εὐθέως(14回)は合計41回使用されており、マタイでは18回、ルカ14回、ヨハネ6回と比較しても際立って多い。これらの語は、マルコ1:15 における「神の国の接近」を受け、物語が急展開していくことを示す機能を担っている。そのため、読者および登場人物へ向けて、即時の決断と行動が求められる状況を強調する語彙として働くものであり、マルコ神学を特徴づける重要な語の一つと位置づけられる。だが、マタイは上述のマルコ的意味合いをある程度は保持しながらも、不必要と思われるものについては大幅にカットしている。

・マルコ1:12 //マタイ4:1

καὶ εὐθὺς τὸ πνεῦμα αὐτὸν ἐκβάλλει 「そしてすぐに霊が彼を追いやった」

→Τότε ὁ Ἰησοῦς ἀνήχθη… 「その時、イエスは導かれて」


その他に、マルコ1:10 //マタイ3:16、マルコ1:30 //マタイ8:14などがある。他方、保持している箇所としては、例えば弟子たちの召命記事が挙げられる(マルコ1:18 // マタイ4:20、マルコ1:20 //マタイ4:22)。


1.5. 供食の記事の削減

 マルコ福音書における五千人の供食(6:30–44)と四千人の供食(8:1–10)を、マタイは 14:13–21 と 15:32–39において保持している。しかしマタイは、マルコに顕著に見られる弟子叱責のモティーフを削除し、両記事に共通のテンプレートを与えることで、同じような出来事が二度あったにすぎないとの印象を読者に与える編集を行っている。

 マルコが示す強い弟子批判の動機づけを、この処理によってマタイは弱化していると見なすことができる。また、この用例は「マルコにおける弟子像の変更(マタイによる弟子像の穏当化)」という視点からも重要である。


2. 旧約引用・成就の明記、ユダヤ的要素の強化、教会のユダヤ的正統性の強調

 マタイの特徴的神学要素として、旧約聖書の引用および「〜が成就するためであった」という成就句の頻繁な挿入が挙げられる。これにより、イエスの生涯と行為とを、イスラエルの救済史の連続線上に明確に位置づけ、イスラエル史における教会の正統性が主張されている。


2.1. 旧約引用の付加・長文化・改変

 誕生物語から受難記事に至るまで、マタイはマルコにはない旧約引用を加えている。

マタイがマルコに対して独自に付加した旧約引用、また、マルコに記載されている旧約引用を長文化、もしくは改変している用例は、以下の通り。

マタイ1:22-23(イザヤ7:14)、2:5-6(ミカ5:1)、2:15(ホセア11:1)、2:17-18(エレミヤ31:15)、2:23(イザヤ11:1、士師13:5?)、マタイ4:14-16(イザヤ8:23-9:1 LXX9:1-2)、8:17(イザヤ53:4)、9:13(ホセア6:6)、マタイ12:17-21(イザヤ42:1-4)、マタイ13:14-15(イザヤ6:9-10、長文化)、21:4-5(イザヤ62:11、ゼカリヤ9:9)、27:9-10(ゼカリヤ11:12-13、エレミヤと表記されている)、27:46(マルコ15:34の詩編引用をアレンジ)。


2.2. 家系や表現など、ユダヤ的要素の強化

・マタイ1:1-17での系図の付加。

・イエスの出生地をベツレヘムとする誕生関連記事の追加(2:1-12)。


3. ユダヤ教批判の強化

・マタイ23章における、ファリサイ派と律法学者への「不幸だ」宣言の追加。

・イエス殺害のユダヤ人の責任を明確化(27:25)。


4. イエス像の修正

4.1. イエスに関する悪い表現を修正

・マルコ3:21 「身内が取り押さえに来た」「気が変になっていると思った」

 →マタイ12:46-50において削除


4.2. イエスの不能に関する記述の修正

・マルコ6:5 // マタイ13:58

οὐκ ἐδύνατο ἐκεῖ ποιῆσαι οὐδεμίαν δύναμιν「力ある業を何一つ行うことができなかった」

 →οὐκ ἐποίησεν ἐκεῖ δυνάμεις πολλὰς

「多くの力ある業をしなかった」へ修正

 イエスの万能性に疑義が生じる記述を、マタイはイエスの意志として書き換えている。


4.3. イエスの職業に関する記述を修正

マルコ6:3 // マタイ13:55

οὐχ οὗτός ἐστιν ὁ τέκτων 「この人は職人ではないか?」

→οὐχ οὗτός ἐστιν ὁ τοῦ τέκτονος υἱός; 「この人は職人の息子ではないか?」

イエスを労働者階級の人間とするマルコの表現を、マタイは父親がそうであったと変更している。神格化が進む過程で、マタイはマルコの表現を直裁過ぎると判断したと考えられる。


5. 弟子像の修正

5.1. 弟子批判のモティーフを弱化または削除

・マルコ4:13 // マタイ13:18

Οὐκ οἴδατε τὴν παραβολὴν ταύτην; καὶ πῶς πάσας τὰς παραβολὰς γνώσεσθε;

「この譬えも分からないのか?どうして全ての例えを理解できようか?」

→マタイ13:18では、二重の修辞疑問文による激しい批判を、全削除している。


・マルコ6:52 // マタイ14:33

οὐ γὰρ συνῆκαν ἐπὶ τοῖς ἄρτοις, ἀλλ᾽ ἦν αὐτῶν ἡ καρδία πεπωρωμένη.

「パンのことを理解せず、心が固くなっていた」

→マタイはマルコの無理解モティーフを削除し、神の子礼拝に置換している。


・マルコ8:17-21 // マタイ16:8-12

マルコにおける弟子の無理解のモティーフ→マタイは大幅に緩和。


・マルコ8:29-30 // マタイ16:17-23

ペトロに対する「この岩の上に私の教会を建てる」宣言が新規に付加されている。


6. 律法観の修正、律法破棄に見える記述の削除

・マルコ7:19

καὶ εἰς τὸν ἀφεδρῶνα ἐκπορεύεται…καθαρίζων πάντα τὰ βρώματα

「便所に出て行く……全ての食べ物を清いとした」

→食物規定を無意味化しかねないこの文言を、マタイは削除。


・マルコ2:27 // マタイ12:1-8

Τὸ σάββατον διὰ τὸν ἄνθρωπον ἐγένετο, καὶ οὐχ ὁ ἄνθρωπος διὰ τὸ σάββατον·

「安息日は人のために生じた、人が安息日のためではない」

→安息日論争は保持しつつも、マタイはこれを削除。


・マルコ10:11-12 // マタイ5:32, 19:9

「自分の妻を離縁し、他の女性と結婚する者は誰でも、彼女に対して姦淫を犯す」

→παρεκτὸς λόγου πορνείας(「不貞の場合を除いて」)を付加

 マルコにおける無条件的な離婚禁止を、「不貞」場合の例外を加えて実用的に。


・マルコ1:40-45 //  マタイ8:1-4 「重い皮膚病を患っている人の癒し」

祭司による完治チェックと清めの献げ物の遵守を指示した後、患者が言い広める

→言い広めの展開を削除し、遵守規定の指示をもって整然と結ぶ。


・マタイ5:17-20の追加

 マタイは、マルコにはない同箇所を追加している。

「わたしが律法や預言者を廃するために来たと思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである……律法から一点一画も決して消え去ることはない」

 上述のマルコにおけるマタイの反応から見て、律法を既に廃棄されたもののように扱うマルコの神学的方向性を修正し、律法の一点一画の有効性を強調している。


まとめ

 マルコにおける律法の神学的方向性に対する、マタイの修正点は下記のとおり。



 マタイは、マルコに見られる律法の相対化・境界越境的傾向を調整し、律法の有効性と継続性を明示的に肯定する神学を打ち出している。その結果、

・律法は廃されるのではなく成就されるべきこと。

・イエスは律法破壊者ではなく完成者として描かれる。・

教会はイスラエル信仰の正統継承者として位置づけられる。

以上の点において、マタイ福音書は、マルコ神学を継承しつつも、明確な修正と再解釈を施した神学的再構成と評価できる。


結論

 マタイ福音書はマルコ福音書を主要資料としつつ、叙述の簡潔化と神学的再構成を通して独自の方向性を打ち出している。とくに旧約引用と成就句の付加によって教会のユダヤ的正統性を強調し、イエス像・弟子像を整え、律法の相対化に見えるマルコ的傾向を修正した。律法は廃されるのではなく成就されるものとされ、イエスは律法破壊者ではなく完成者として描かれる。


2025年12月17日水曜日

コラム 1世紀のユダヤにおける偽メシアの一覧ーーメシア僭称者たち

コラム 1世紀のユダヤにおける偽メシアの一覧ーーメシア僭称者たち。


 イエス時代の1世紀のユダヤにおいて、自らをユダヤにおいて到来が待ち望まれていたところのメシアと僭称した偽メシア(ψευδόχριστοι、偽キリスト)」は、マタイ福音書24:5, 11, 24においても言及されている。同時代のユダヤ人歴史家ヨセフスに基づき、代表的な偽メシアたちを以下に列挙する。


1. テウダ(Θευδᾶς)

参照、使徒言行録 5:36「以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。」

  • ガマリエルの演説において言及されている、自分をメシア的人物と自称したカリスマ的指導者。
  • ヨセフス『ユダヤ古代誌』20.97–99 に見られるテウダスとは年代に相違し、同名の別人、あるいは資料上の錯綜の可能性がある。

「さて、フェストゥスがユダヤの総督であった間に、ある詐欺師が現れ、自分は預言者であると称し、民衆に対して、「私に従ってヨルダン川へ行けば、神の言葉によって川が分かれ、容易に渡ることができるようになる」と約束した。多くの人々が彼の言葉に惑わされ、彼に従った。

 

2.  エジプト人(ὁ Αἰγύπτιος)

  • 使徒言行録 21:38「それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか」
  • エルサレムで蜂起し、群衆を荒野へと導いた、テウダス同様のモーセ型偽メシア運動首謀者。
  • 『ユダヤ古代誌』20.97–99

3. テウダス(Θευδᾶς)

  • ヨセフス『ユダヤ古代誌』20.97-99

20.97 フェストゥスがユダヤの総督であった時代に、一人の詐欺師が現れ、自分は預言者であると名乗り、人々に向かってこう語った。「私に従ってヨルダン川へ行けば、神の言葉によって川は分かれ、あなたがたは容易に渡ることができるようになる」と。多くの人々が彼の言葉に惑わされ、彼に従った。20.98 しかしフェストゥスは、このような行動が反乱に発展するのを防ぐため、騎兵部隊を派遣した。その結果、多くの者が殺され、また多くが捕らえられた。その詐欺師自身も捕らえられ、首を斬られ、その首はエルサレムへ運ばれた。20.99 このように、人々を惑わし、神の力を自分自身の業であるかのように装う者たちは、民衆の無知と愚かさにつけ込み、彼らをしばしば破滅へと導いたのである。

  • モーセ再来・再現型の偽メシア。捕縛後に処刑され、その首はエルサレムへ運ばれた。


4. 無名の偽メシア扇動者的な預言者たち

  • 『ユダヤ戦記』2.259–263

2.259 さて、この時代には、民衆を扇動して騒乱へと導く者たちが数多く現れた。彼らは、神の霊感を受けているかのように装い、荒野へ出るよう人々に勧め、そこで神が彼らに救済のしるしを示してくださると約束した。2.260 しかしこれらの者たちは、真理を語る者ではなく、民衆の心を惑わし、彼らを破滅へと導く詐欺師であった。多くの人々が彼らに従い、正気を失ったかのように振る舞った。2.261 総督フェリクスは、これらの集団行動が反乱へと発展することを恐れ、騎兵部隊と歩兵部隊を派遣した。その結果、多くの者が殺され、また多くが捕らえられた。2.262 中でも、エジプト人と呼ばれる者は、 自分は預言者であると称し、三万人もの人々を引き連れて荒野からオリーブ山へと登った。2.263 彼は、そこからエルサレムへ侵入し、ローマ軍を打ち倒し、自らが民衆の支配者となることを目論んでいた。しかしフェリクスはこれを未然に察知し、軍をもって迎え撃ち、多くを殺し、また捕らえた。その首謀者は逃亡したが、二度と姿を現すことはなかった。

  • 『ユダヤ古代誌』20.167–168

20.167 フェリクスの統治下においても、詐欺師や偽預言者たちが次々と現れ、民衆を扇動して荒野へと導いた。彼らは、神がそこで自由のしるしを示してくださると告げ、人々に彼らを救済者であるかのように信じ込ませた。20.168 しかしフェリクスは、これらの動きが反乱に結びつくことを恐れ、軍を派遣して彼らを討ち、多くの者を殺し、また捕らえた。このようにして、民衆を惑わす者たちは、自らの虚偽によって滅びを招いたのである。


5. メナヘム(メシア的王の僭称者)

  • 『ユダヤ戦記』2.433–448

2.433–434

そのころ、ガリラヤのユダの子であるメナヘムという者がいた。
彼は仲間を率いてマサダ要塞を奇襲し、そこに保管されていた武器を奪取した。
そしてその武器を配下の者たちに分け与え、彼らの指導者となった。

2.435–437

メナヘムは武装した一団を引き連れてエルサレムに入城した。
彼は次第に王であるかのように振る舞い、尊大な態度を取り始め、
人々に対しても、他の反乱指導者たちに対しても、専制的に命令するようになった。

2.438–440

その傲慢な振る舞いのために、彼は多くの反感を買った。
とりわけ、神殿を掌握していたエレアザル一派との間に深刻な対立が生じ、
反乱勢力の内部で主導権を巡る争いが激化した。

2.441–445

やがて神殿での混乱の中で、メナヘムは捕らえられた。
彼は人々の前で引きずり回され、
王のように装っていた衣装を剥ぎ取られ、激しい辱めを受けた。

2.446–448

その後、メナヘムは拷問を加えられた末に殺害された。
こうして、王を僭称した者の支配は、完全に終わりを告げた。
彼の仲間たちも散り散りになり、その勢力は瓦解した。

2025年11月29日土曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:26–29 「『成長する種』の例え」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:26–29 「『成長する種』の例え」

概要

 4:1以降、「蒔かれた種」の例えに始まり、「例えで話す理由」「『蒔かれた種』の解説」と続き、その後に「秤の例え」「ともし火の例え」が記されている。本箇所は、その流れを受けて、新たに「神の国」を主題とする例え話が展開されていく。


注解

26–27節

新共同訳

「26 また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。』」

原文

26 Καὶ ἔλεγεν· Οὕτως ἐστὶν ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ ὡς ἄνθρωπος βάλλῃ τὸν σπόρον ἐπὶ τῆς γῆς,
27 καὶ καθεύδῃ καὶ ἐγείρηται νύκτα καὶ ἡμέραν, καὶ ὁ σπόρος βλαστᾷ καὶ μηκύνηται, ὡς οὐκ οἶδεν αὐτός.

解説

  • 「また、イエスは言われた」:蒔かれた種の例え、直前のともし火と秤の例えに続く、一連の流れであることを示している。
  • 「神の国は次のようなものである」:ここで、これが「神の国」の例えであることが最初に宣言される。神の国の例えは、次の記事(4:30–32)でも展開されている。
  • 「人が土に種を蒔いて」:土に種を蒔く行為は、先の「蒔かれた種の例え」と同じ設定である。ただし、この例えでは成長を阻害する要素は登場せず、専ら、種が自然に成長する側面に焦点が置かれている。
  • 「夜昼、寝起きしているうちに(καθεύδῃ καὶ ἐγείρηται νύκτα καὶ ἡμέραν)」:日常生活における反復行動を示す、ヘブライ語的な語法。また、「日常生活の反復」という点で、人がほとんど意識しない間に、種が人知れず成長している側面が暗示されているといえよう。

 すなわち、種を蒔いた人間側の介入なしに、種が自力で芽を出し、勝手に成長していくことが強調されている。人の関与は種蒔きまでであり、その後の種の自発的な成長──すなわち人知れず進む「神の国」の成長・進展・進行──こそが本箇所の主題である。それゆえ、「蒔かれた種」の例えのように受け取り側の問題ではなく、神の働きの神秘がここでは強調されている。

  • 「(どうしてそうなるのか、)その人は知らない(οὐκ οἶδεν αὐτός)」:神の国が陰で進展していくことは、人の理解を超えているということ。


28節

新共同訳

「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」

原文

αὐτομάτη ἡ γῆ καρποφορεῖ, πρῶτον χόρτον, εἶτα στάχυν, εἶτα πλήρη σῖτον ἐν τῷ στάχυϊ.

解説

 神の国の自律的な成長について、植物の豊かな表現とともに語られている。核心となる語は「ひとりでに」(αὐτομάτη)である。植物の自律的な成長に例えられてはいるが、その本質は、神が成長を実現するということであり、別の言葉でいえば、人の手を介さずに行われる神の主権的な働きである。

  • 「まず茎、次に穂、そしてその穂(πρῶτον χόρτον, εἶτα στάχυν, εἶτα ... ἐν τῷ στάχυϊ)」:<茎 → 穂 → 実>という段階的な成長を示す。終末の実現のように瞬時に成し遂げられる場合もある一方で、神の国は一足飛びではなく、段階を経て進展する。そこには、「待つことが大事」というニュアンスが織り込まれているかもしれない。


29節

新共同訳

「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

原文

ὅταν δὲ παραδῷ ὁ καρπός, εὐθὺς ἀποστέλλει τὸ δρέπανον, ὅτι παρέστηκεν ὁ θερισμός.

解説

「早速、鎌を入れる(εὐθὺς ἀποστέλλει τὸ δρέπανον)」:新共同訳の「早速」は、マルコが好んで使用する「すぐに」(εὐθύς)に対応する語である。マルコ福音書では、事態が待ったなしに進行するため、人が即時の決断を迫られることがしばしば示されている。

  • 「収穫の時が来た(παρέστηκεν ὁ θερισμός)」:「収穫」(ὁ θερισμός)は、旧約および黙示文学において、しばしば神の審判を象徴する。

 ここまでの文脈は「神の国の成長」であるが、本節では、神による収穫、すなわち神の審判、あるいは救済の到来、神の支配の完成といった側面が暗示されている。

  • 「鎌を入れる(ἀποστέλλει τὸ δρέπανον)」:直訳では「鎌を送る/派遣する/差し向ける」。実現の時は「待ったなし」であるという緊張感がこもった表現である。


説教の結びの言葉として

 今日の「成長する種」のたとえは、私たちに二つの大切な真理を示しています。

 一つは、神の国の成長は人の理解や努力を超えて進むということです。人は種を蒔くことはできますが、その後の芽吹きや成長そのものは、人の手によるものではありません。神の国も同じように、人知れず、しかし確実に、神の御業によって進展していきます。私たちが見えないところで神は働いておられるのです。それゆえ、私たちには「待つこと」が求められます。成長や進展が見えなくても、背後に神の働きがあることを信じ、信仰的な忍耐が必要です。

 もう一つは、神の国の成長には段階があるということです。茎が出て、穂ができ、やがて実が熟すように、神の国も一足飛びではなく、時を経て完成へと向かいます。私たちはその過程を待ち望み、やはり先と同様に、忍耐をもって歩むよう招かれています。

 そして最後に、収穫の時は必ず来るということです。神の国の完成、すなわち神の裁きと救いの時は、突然に、しかし確実に訪れます。その時、神は「すぐに」鎌を入れられるのです。だからこそ、私たちは今の時を大切にし、神の国のために備え、信仰をもって歩むことが求められています。

2025年11月26日水曜日

2025年11月22日土曜日

【新約聖書学関連】

論文

「パウロの全体教会政治学」(2024年)


『信徒の友』2018年4月号-2019年3月号所収

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」全12回

第1回 「イエスの復活」

第2回「イエスの洗礼」

第3回「嵐の中での弟子たち」

第4回「五千人の供食」

第5回「ヤイロの娘とイエスの服に触れた女性」

第6回「エルサレム入城」


事典項目

第2パウロ書簡

史的イエス研究史        

マタイ福音書緒論        マタイ福音書神学           

イスカリオテのユダとは何者か(大学講義レジュメ)

【キリスト教解説】『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)とその悲惨な末路 ーイエスはイスカリオテのユダの裏切りを評価した?

猫にもわかる「マタイ福音書」入門


『教会学校教案』の元原稿の改訂版

創世記 37章1-11節 「ヨセフ1」(2013年7月7日)
創世記 42-45章 「ヨセフ3」(2013年7月21日)
ルツ記 「ルツ」(2013年9月22日)


ガラテヤの信徒への手紙        

ヘロデ派    マグダラのマリア    

エルンスト・ケーゼマン        ゲツセマネ(ゲッセマネ)        ゴルゴタ       

サドカイ派    サマリア人        


「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第7回「イエスに香油を注いだ女性」

 『信徒の友』2018年10月号所収、「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第7回「イエスに香油を注いだ女性」

タイトル:イエスに香油を注いだ女性

聖句:「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12:3)

絵画のデータ:シャンパーニュ「ファリサイ派シモンの家でのキリスト」、1656年頃、musée des beaux arts de nantes。


 序

 今回のエピソードは、ある一人の女性がイエスに香油を注ぎかけた出来事です。この物語は、マタイ26・6-13、マルコ14:3-9、ヨハネ12・1-8において記されています。また、ルカ7・36-50には、女性がイエスに香油を注ぐという点で共通するこのエピソードによく似た記事が見られますが、場面設定や物語の背後に秘められたメッセージ等、相違点も多く認められ、マタイやマルコの記事とは別物として扱われることが多いです。ルカについては後ほどまとめて触れるとして、まずはマタイ、マルコ、ヨハネそれぞれの記述を追っていきましょう。


 場面設定の違い

 マタイ、マルコ、ヨハネは、このエピソードの場所をエルサレムにほど近い「ベタニア」としている点で一致しています。このことから、この逸話は「ベタニアでの香油注ぎ」というように呼び習わされています。ただし、マタイとマルコは香油注ぎの舞台となった家を「重い皮膚病の人シモンの家」(マタイ26・6、マルコ14・3-9)とし、この出来事が生じたタイミングをエルサレム入城以後の受難が間近い頃としている一方で、ヨハネは「イエスが死者の中からよみがえらせたラザロ」とその姉妹であるマリアとマルタが住んでいた村という説明を加え、その時期を「過越祭の六日前」と設定しています(ヨハネ12・1)。ヨハネではエルサレム入城はヨハネ12・12-19に書かれていますから、マタイ、マルコと相違してこの出来事はエルサレム入城“以前”ということになります。さらに、マタイとマルコは香油を注いだ女性のことを「一人の女」と呼んでいますが、ヨハネでは上記の「マリア」と明記しています。

 読者の多くの方々は、今回のエピソードについて「女性がイエスに香油を注いだあの物語・・・」といったように記憶されているでしょう。ところが実は、福音書をそれぞれ見比べてみると、場面設定だけでもこんなにも違うのです。なぜこのようなことが起きるのでしょうか。簡単に言えば、福音書に記されている物語の背後に“伝承”と呼ばれるものがあって、それが異なった場所や時代において流布していく過程で、様々に変化を遂げていったためでしょう。このことを踏まえて、物語の先を読んでいきましょう。

 

 慕情、香り立つ

 イエスが家の中にいると(マルコとヨハネは「食事の席に着いて」いた時としています)、かの女性が「高価」な「香油」を携えて近づいてきました。マルコとヨハネはこの香油について、「純粋」「ナルドの香油」と説明しています(マルコ14・3、ヨハネ12・3)。「ナルド」はインド産の植物で、その根茎からは香料が採取され当時の世界で珍重された他、富裕なユダヤ人女性も愛用したことで知られています。彼女はイエスに香油を捧げるのですが、福音書ごとに香油を注いだ(塗った)箇所が異なります。マタイとマルコは「イエスの頭に(香油を)注ぎかけた」と記している一方、ヨハネは「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12・3)と書いています。頭に香油を注ぐシーンは、後述の受難死の暗示だけではなく、古代のイスラエルにおける王の任職式の際の油注ぎをも想起させます。“王の王”という暗示的なメッセージと、受難死という対極的な主題との間に、激烈なコントラストが秘められています。他方、足に香油を塗って自分の髪で拭う場面は、足の塵を払う仕事は奴隷でさえも負わなかったという慣習と合わせて考えると、謙遜の極みの姿勢を意味すると同時に、“謙遜”や“親愛”といった単体の言葉では表現できない、愛も悲しみも何もかも入り混じったような複雑で劇的な叙情性をもたらしています。特に、「家は香油の香りでいっぱいになった」という言葉ほど芳しい(かぐわしい)香り立つ表現は、世界中どこを探しても見つけることはできないでしょう。


 ところが、そんな激しいまでの情愛と思慕の世界を粉々に打ち砕く展開が続きます。マタイでは「弟子たち」、マルコでは「そこにいた人の何人か」、ヨハネでは「イスカリオテのユダ」が、「なぜ、こんな無駄使いをするのか」と難癖をつけます。マルコとヨハネで述べられている彼(彼ら)の言葉は正論です。「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マルコ14・5、マタイはこれを要約し「売って、貧しい人々に施すことができたのに」)。上述の通り、ヨハネにおいてこの言葉はイスカリオテのユダによって発せられており、彼の魂胆もまた詳らかにされています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(12・6)。

 イエスは、こうした批判から彼女をかばいます。「なぜこの人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(マタイ26・11、マルコ14・6)。そして、マタイ、マルコ、ヨハネは一致して、彼女の香油注ぎを、埋葬時に遺体に塗油する習慣と自身の受難死の予告とに巧みに結び合せています。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」(マタイ26・12)。


 ルカにおける「罪深い女」

 マルコ福音書を参考にして自分の福音書を書いたと考えられているルカは、本来ならルカ22章2節と3節の間に配置されるはずの香油注ぎの記事を採用していません。その代わりに彼は、これと似ている別の記事を、イエスのガリラヤでの活動期に相当する7章に置いています。その記事は、女性がイエスに香油を塗り、居合わせた人が不満を抱くという点では香油注ぎと共通しているものの、場所もタイミングもまるで違う物語となっています(場所は「ファリサイ派の人」の「家」、時期はガリラヤでの宣教活動時代というエルサレム入城より遙か以前)。

 マタイ、マルコ、ヨハネでは、受難を目前にしたタイミングということも相まって、受難死の予兆としての色彩が強い一方で、ルカではこれら三書にはない“愛と赦しの相関関係”という主題が展開されています(ルカ7・47「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」)。また、彼女は「罪深い女」(娼婦を意味するのでしょう)と表記され、ヨハネと同様にイエスの頭ではなく足に塗油して、自らの髪の毛で拭っています。そうして、“多く赦された者は、より深く主を愛する”というテーマが鮮烈に示されています。

 後代、この「罪深い女」は、ルカ8・2の「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と同一視されるようになりました。実際のところ、「罪深い女」がマグダラのマリアである根拠は何もありません。しかし、いつしかそのような見方が定着し、マグダラのマリアは長い髪を持つ美しい女性というイメージが形成され、やがて荒れ野の女性修道士その他の伝説とも結合して、最終的には、本誌4月号の特集で紹介されたようなマグダラのマリアをモティーフとした多くの絵画が生み出されていったのです。


 今回の一枚


 今回ご紹介する絵画は、17世紀のフランス古典主義時代における画家シャンパーニュが描いた「ファリサイ派シモンの家でのキリスト」です。4月号で紹介した「エマオの食事」以来、シャンパーニュは2回目となります。彼はエレガントで艶っぽい人物表現を得意とし、マグダラのマリアやヨハネ福音書4章の“サマリアの女性”も描いており、この絵でもその才能が遺憾なく発揮されています。イエスとシモンが向き合う構図と明瞭な色彩、そして、それを際立たせるボンヤリとした後景の人物描写が巧みです。

 「エマオの食事」の絵画中には猫が書き込まれていたのですが、こちらの絵では猫ばかりか犬も登場しています。一般的な解釈として、犬は忠実の証で、猫は疑念の象徴です。よって、すがりつく犬はイエスに対する信頼を表し、物陰から顔を覗かせる猫は、愛の欠如と不満の思いを象徴すると解釈されます。ただ、個人的な印象としては、彼自身は犬や猫を素朴に愛していて、こうした象徴論は犬や猫を自分の絵画に描き込むための口実に近く、遊び心の表れのように感じます。他人の真摯な言動に腹を立てぬよう、遊び心を大切にしたいものです。

2025年11月21日金曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ 4:21–25 「『ともし火』と『秤』の例え」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ 4:21–25 「『ともし火』と『秤』の例え」

■ 概要

 文脈としては、4:1–20「種蒔く人」の例え話の続きであり、「聞く者」「理解する者」について強調された直後。この箇所では、神の国の秘儀は隠されるべきものではなく、明らかにされるためにあるという主題が提示される。

2025年11月18日火曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:13–36 ⑥ 23:27–28

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36 ⑥ 23:27–28

概要

全7個の「あなたがたは不幸だ」(Οὐαὶ ὑμῖν)宣言の6個目である。


27節

新共同訳

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。

原文

Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι παρομοιάζετε τάφοις κεκονιαμένοις, οἵτινες ἔξωθεν μὲν φαίνονται ὡραῖοι, ἔσωθεν δὲ μεστοί εἰσιν ὀστέων νεκρῶν καὶ πάσης ἀκαθαρσίας.

注解

「白く塗った墓(τάφοις κεκονιαμένοις)」:葬りの時期(アダルの月の15日)に墓跡を石灰で白く塗る習慣があった。これは、巡礼者が墓に触れて穢れを受けることを避けるためである。「白く塗る」という意味の κονιάω という動詞が用いられている。

  • 「似ている(παρομοιάζω)」:原語は「〜に例えられる」とも訳される。
  • 「死者の骨(ὀστέων νεκρῶν)」:最高度の不浄の象徴である。

 穢れた墓を白く塗って外観を美しく整える様をもって、ファリサイ派が内面の醜さを隠し、外面のみを装う滑稽さが痛烈に皮肉られている。


28節

新共同訳

このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

原文

οὕτως καὶ ὑμεῖς, ἔξωθεν μὲν φαίνεσθε τοῖς ἀνθρώποις δίκαιοι, ἔσωθεν δὲ ἐστε μεστοὶ ὑποκρίσεως καὶ ἀνομίας.

注解

  • 「このようにあなたたちも」:ここで改めて、白く塗った墓の譬えが彼ら自身に適用される。
  • 「正しい(δίκαιοι)」:原語は「義なる人々」「義人」の意。義人として他者には見える彼らの本質が、白い墓の喩えをもって暴かれている。
  • 「不法」(ἀνομίας):律法・法を意味する νόμος に否定辞が付いた語。したがって「非律法的」と取ると、律法を教える教師たちに対するラディカルな否定となる。

 ファリサイ派や律法学者すべてが偽善的であったわけではない。しかし、イエスに批判的・敵対的であった彼らの多くが、外側だけの美しさを保ちながら、内面を顧みることなく細部や外面ばかりに注力していた。その皮肉な様が、白く塗られた墓という強烈なイメージをもって示されている。明示されてはいないが、この皮肉・滑稽さを決定的にしている要素は、彼ら自身がそのことを自覚していない点にある。


礼拝説教の結びの言葉として

 今日の箇所で語られている主イエスの言葉は、単なる過去の宗教指導者への批判ではありません。白く塗られた墓の譬えは、私たち自身の心を映す鏡でもあります。外側を整え、正しく見せることは容易ですが、主なる神が見ておられるのは、その内側です。そこに偽善や不法が満ちているなら、いえ、それらが私たちの内面にあるのは必然であるとしても、その事実に自分が気づいていないのならば、どれほど外見を飾っても意味はありませんし、滑稽でしかありません。

 イエスは私たちに、外側の美しさではなく、内側の真実を求めておられます。その真実さ、あるいは誠実さとは、自分のありのままの姿を自覚し、それでも神が愛してくださることを感謝する思いに他なりません。それこそが、真の「正しさ」、すなわち「義」を生み出します。律法を教える者であっても、信仰を語る者であっても、まず自らの内を主に照らしていただくことが必要です。

 ですから、この御言葉は私たちに問いかけます。私たちは人の目にどう見えるかを気にして歩んでいないでしょうか。主の前に正しくあることを第一とし、心の奥にまで福音を染み込ませているでしょうか。

 白く塗られた墓ではなく、内も外も主にあって清められた器として歩む者となりましょう。偽善ではなく誠実を、不法ではなく神の義を、外側の飾りではなく内側の真実を求めるとき、私たちは主に喜ばれる生き方をすることができます。

 旧約聖書には、「人は外の姿を見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)という言葉あります。そのように、私たちの日々の営みを主の光に照らしていただきつつ、真実な信仰者として生きる者となりましょう。

2025年11月17日月曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解  マタイ23:13–36 ⑤ 23:25–26

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36 ⑤ 23:25–26


 25節

新共同訳
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。

原文
Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι καθαρίζετε τὸ ἔξωθεν τοῦ ποτηρίου καὶ τῆς παροψίδος, ἔσωθεν δὲ γέμουσιν ἁρπαγῆς καὶ ἀκρασίας.

7つの災いの宣言の5個目。律法学者とファリサイ派における、外側の取り繕いと内側の腐敗のギャップが非難されている。

「杯(ποτήριον)や皿(παροψίς)」:いずれも食卓に置かれるもの。これまでの例えと同様、日常生活から例えが引き出されている。外側が念入りに洗われていても、内側に汚れが残っているというのは滑稽である。そのように、外側は宗教的、あるいは信仰的で綺麗な装いがなされていても、自分自身の人間としての内側が汚れていることに注意を払わない彼らが、皮肉的に批判されている。

「強欲と放縦(ἁρπαγή, ἀκρασία)」:ἁρπαγήは、七十人訳聖書の箴言5:14、ミカ2:2において「略奪」「強奪」を意味する。ἀκρασίαは、語としては節制の欠如を表す。神の前において外面ではなく内面が問われるという、マタイ神学と一致している。


 26節

新共同訳
ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

原文
Φαρισαῖε τυφλέ, καθάρισον πρῶτον τὸ ἐντὸς τοῦ ποτηρίου, ἵνα γένηται καὶ τὸ ἔξωθεν αὐτοῦ καθαρόν.

「ものの見えないファリサイ派の人々(Φαρισαῖε τυφλέ)」:これまでと同様、瑣末なことに宗教的注意を注いでいても、肝心なことには無頓着である態度を示す。

「まず……内側をきれいにせよ」: 「まず(πρῶτον)」は最優先事項を意味する。同様の用例として、マタイ6:33(「まず神の国と神の義を求めなさい」)が挙げられる。

「外側もきれいになる」:「外側」とはこれまでの流れでは、彼らの細かなことに至るまでの律法遵守を指す。「外側」が否定されているわけではないことに注意したい。これらも必要ではあるが、最重要事項が空洞化していては意味がない、というスタンスである。


 説教の結びの言葉として

 主イエスは律法学者やファリサイ派の人々に向かって、外側ばかりを飾り立て、内側の汚れに目を向けない姿勢を戒められました。杯や皿の外側を洗っても、私たちの内側が強欲と放縦に満ちているなら、それは神の前にあって何の意味もありません。それこそ主がおっしゃっているように、「災い」であります。

 私たちもまた、信仰生活の中で「外側」を整えることに心を奪われがちです。礼拝に出席し、祈りを口にし、奉仕に携わることは大切です。しかし、もし心の内側に自己中心や欲望が支配しているなら——というよりも、自分がそんな状態にあることにすら気づいていないなら——外側の美しさというものは、滑稽なほどに虚しいものとなります。

 イエスは「まず、杯の内側をきれいにせよ」と命じられました。これは、私たちの心を神の前に差し出し、悔い改めと赦しを受けることを最優先にせよという、神の招きです。内側が清められるとき、外側の行いも自然に整えられ、真実な信仰の姿が現れていきます。

 ですから今日、私たちは自分の心の内側に目を向けたいと思います。神の光に照らされ、自らの隠れた面を見つめ直し、キリストの十字架の赦しにあずかりましょう。そのとき、私たちの外側もまた、神の栄光を映し出す器とされます。

2025年11月16日日曜日

第2パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistles)

第2パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistles)

1. 第2パウロ書簡の定義

 第2パウロ書簡とは、パウロ自身が執筆したと判断されている、いわゆる「真正パウロ書簡」とは異なり、パウロの弟子や後継者、あるいはパウロ系の共同体が、パウロの思想を継承しつつ、パウロ書簡を模倣する形で執筆した書簡群を指す学術用語である。

 一般的には、以下の6書が第2パウロ書簡とされる。

  • エフェソの信徒への手紙

  • コロサイの信徒への手紙

  • テサロニケの信徒への手紙二

  • テモテへの手紙一

  • テモテへの手紙二

  • テトスへの手紙


2. 第2パウロ書簡の特徴

1. 語彙や文体、内容の相違
 第1テサロニケ書やロマ書といったパウロ真正書簡の語彙、文体、内容と似てはいるが、異なる点が複数指摘される。

2. パウロ以降の教会の教義や教会構造の反映
 教義内容や教会構造が、パウロの時代よりも後代のものであることが観察される。またその内容は、個々の教会の特別な事情に絡むものよりも、より一般化された内容に慣らされている。
3. 神学的特徴
 内容の神学的特徴としては、発展した教会論、再臨遅延に対する対応(2テサロニケなど)、宇宙論的な救済論(エフェソ、コロサイ)、パウロ的な義認論、ユダヤ人の救済論の後退が


3. 成立時期

  • 第2パウロ書簡はパウロ書簡を元に執筆されるので、パウロ書簡成立以降の成立も考えられるが、通常はパウロの死後からしばらく、早くて60年代後半以降、遅くて牧会書簡(1テモテ、2テモテ、テトス)の成立時期と推定される1世紀末とされる。



説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」


概要

4:1-9の「蒔かれた種の例え」の直後、4:10で「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた」とあった。4:11-12では例え話論が挟み込まれているが、展開としては4:10に直接続くようにして本箇所が展開されている。ここでは、弟子たちの質問に答えるようにして、先の例えの解説が為されていく。

注解

13節

新共同訳 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」
原文 καὶ λέγει αὐτοῖς· Οὐκ οἴδατε τὴν παραβολὴν ταύτην; καὶ πῶς πάσας τὰς παραβολὰς γνώσεσθε;
 理解が及ばない「十二人」に対する叱責の言葉となっている。マルコのいわゆる「弟子の無理解」のモティーフが鮮明な箇所。
  • 「このたとえが分からないのか(Οὐκ οἴδατε...)」:「十二人」は群衆以上に教えまたは啓示を受けられる立場にありながら、理解(γινώσκω「知る」)できないことが叱責されている。否定疑問文によってそれが強調されている。弟子の無理解のモティーフは、彼らを貶めたり、その権威を否定することが目的の批判というよりも、権威を持つ持たないではなく、誰であれ理解していく弟子こそ真の弟子として相応しいということを主張するもの。マルコ福音書の読み手が彼らの役を担っていくように、という意図が込められているのではないか。
  • 「どうして……理解できるだろうか」:未来形の疑問文が使われている。未来における可能性が問われている。

14–15節

新共同訳 14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
原文 14 ὁ σπείρων τὸν λόγον σπείρει.
15 οὗτοι δέ εἰσιν οἱ παρὰ τὴν ὁδὸν ὅπου σπείρεται ὁ λόγος· καὶ ὅταν ἀκούσωσιν, εὐθὺς ἔρχεται ὁ Σατανᾶς καὶ αἴρει τὸν λόγον τὸν ἐσπαρμένον εἰς αὐτούς.
 蒔かれた種の例えの解説が、本節より開始されている。
  • 「種を蒔く人(ὁ σπείρων)」:「神の言葉を蒔く」、すなわち神の言葉を宣べ伝える弟子たち、宣教者、信徒たちを指す。現在分詞が使われていて、”今も蒔き続けている”というニュアンスを持つ。
  • 「言葉(ὁ λόγος)」:新共同訳では「神の言葉」とあるが、原文では冠詞付きの「言葉」のみ。イエスの言葉、教え、神の国、啓示、福音、これらを総合的に指す。
  • 「サタン(ὁ Σατανᾶς)」:マルコでは「イエスの誘惑」の1:13 他、3:23, 26、またイエスによるペトロ叱責の言葉(8:33)で見られる。人を神から引き離す超自然的な霊的存在。ここでは人々を聴従から引き離す原因としてサタンが挙げられているが、15節以降が示しているように、総じて人々の心掛けが焦点とされている。
  • 「道端のもの(οἱ παρὰ τὴν ὁδόν「道の傍にいる者たち」)」:固く踏み締められた道が種を弾く、すなわち神の言葉を柔らかい土のように受け止めることができない態度を意味する。たとえ聞いたとしても、聞き入れるわけではないということ。
  • 「すぐに(εὐθύς)」:マルコが好む語。事態は急速に変化するゆえに、信仰者は決断も「すぐに」せねばならない。

16–17節

新共同訳 16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
原文 καὶ οὗτοι ὁμοίως εἰσιν οἱ ἐπὶ τὰ πετρώδη σπειρόμενοι, οἳ ὅταν ἀκούσωσιν τὸν λόγον, εὐθὺς μετὰ χαρᾶς λαμβάνουσιν αὐτόν·
καὶ οὐκ ἔχουσιν ῥίζαν ἐν ἑαυτοῖς ἀλλὰ πρόσκαιροί εἰσιν, εἶτα γενομένης θλίψεως ἢ διωγμοῦ διὰ τὸν λόγον, εὐθὺς σκανδαλίζονται.
 艱難や迫害、つまり試練に対する耐性がなく、挫折するタイプについて述べられている。
  • 「石だらけの所に(ἐπὶ τὰ πετρώδη)」:岩地の上に土層が薄く載っただけの場所。一時的な感情の高まり(「すぐに喜んで(εὐθὺς μετὰ χαρᾶς)」)で「御言葉」を受け入れるものの、それはあくまで一時的で「根(ῥίζα)」を持つものではないために成長せず、「つまずいてしまう」(σκανδαλίζω)事例を表す。
  • 「しばらく(πρόσκαιροί)」:一時的という意味。πρός(前置詞「〜へ、〜に対して」)+ καιρός(時、好機)という語の構造から言えば、「その時へ」、すなわちその時だけの一時しのぎのような意味合い。
  • 「艱難や迫害が起こると(γενομένης θλίψεως ἢ διωγμοῦ διὰ τὸν)」:属格絶対構文で、状況的な条件を表す。
  • 「つまずいてしまう」:語源は、人を罠にかけて転ばせる棒。この語はマルコで8回使用されている(4:17; 6:3; 9:42, 43, 45, 47; 14:27, 29)。いずれも信仰の営みが頓挫する事態を意味する。マルコ福音書の執筆時、マルコの教会が経験していた迫害と、信仰からの離反を背景としている可能性が高い。

18–19節

新共同訳 18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
原文 18 καὶ ἄλλοι εἰσιν οἱ εἰς τὰς ἀκάνθας σπειρόμενοι· οὗτοί εἰσιν οἱ τὸν λόγον ἀκούσαντες,
19 καὶ αἱ μέριμναι τοῦ αἰῶνος καὶ ἡ ἀπάτη τοῦ πλούτου καὶ αἱ περὶ τὰ λοιπὰ ἐπιθυμίαι εἰσπορευόμεναι συνπνίγουσιν τὸν λόγον, καὶ ἄκαρπος γίνεται.
  • 「茨(ἀκάνθη)」:「この世の思い煩い(αἱ μέριμναι τοῦ αἰῶνος)」「富の誘惑(ἡ ἀπάτη τοῦ πλούτου)」「その他いろいろな欲望」(αἱ ἐπιθυμίαι)を指すと述べられている。
  • 「御言葉を覆いふさいで(συνπνίγουσιν)」:原語は「窒息死する」という意味合いを持つ。その人の信仰者としての成長を阻み、また生活というライフばかりか、命という意味でのライフをも死に至らせるという主旨。

20節

新共同訳 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
原文 καὶ ἐκεῖνοί εἰσιν οἱ ἐπὶ τὴν καλὴν γῆν σπαρέντες, οἳ ἀκούουσιν τὸν λόγον καὶ παραδέχονται καὶ καρποφοροῦσιν, ἓν τριάκοντα καὶ ἓν ἑξήκοντα καὶ ἓν ἑκατόν.
  • 「良い土地(蒔かれた)(ἐπὶ τὴν καλὴν γῆν)」:倫理的に「良い」ということではない。神の言葉を聞き(ἀκούουσιν)、受け入れ(παραδέχονται)、そして「実を結ぶ(καρποφοροῦσιν)」人たちとされている。成長の3段階が意識されていて、それぞれ「聞く」「受け入れる」「実践」に対応する。また、明記されていることではないが、土地は種を受け止めるのが役割で、実を結ぶ力そのものは種に内包されている。実を結ぼうとする実践は大事だが、種、すなわち神の言葉の力が豊作を実現することを意識したい。
  • 「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」:誇張された文学的表現(参照:創世記26:12)。4章全体の例えの基調である成長する神の国という主題を象徴する文言でもある。

説教の結びとしての言葉

 今日、主イエスがお語りになった「蒔かれた種の例え」は、単なる農夫の物語ではありません。私たちと関係のない人の話でもありません。これは、私たち一人ひとりの心の状態、あるいは信仰的な態度を映し出す鏡のようなものです。
 道端のように固く閉ざされた心、岩地に土が薄く載っただけの浅い心、種々の茨に覆われた心――それらは、神の言葉という種を受けても実を結ぶことができません。しかし「良い土地」とは、御言葉を聞き、受け入れ、そして実を結ぶ心です。
 ここで大切なことは、実を結ぶ力が私たち自身の努力だけにあるのではなく、むしろ蒔かれた「種」そのものにあるということです。私たちはただ、その言葉を受け入れる柔らかな土となるように心を整えるのです。すると、その種は私たちの人生において、三十倍、六十倍、百倍の実を結び、私たちの人生を豊かにし、また周囲の人々をも豊かにします。
今日、私たちが問われているのは――「私の心はどのような土地なのか」ということです。固く閉ざされた道端ではなく、浅い石地でもなく、茨に覆われた心でもなく、神の言葉を受け入れ、育み、実を結ぶ「良い土地」となりましょう。
 「聞く者は聞きなさい」(マルコ4:9)――この呼びかけに応えて、私たちの心を良い土地とし、神の言葉の種を豊かに実らせる者となろうではありませんか。

学術ノート

(※内容不変。文献名・スペース・句読点などを整形)
  • マルコ4:13 エルサレム教会の系譜に由来する4:11-12の伝承に対して、マルコは4:13をもって批判。弟子の無理解を表す。
     田川建三『マルコ福音書 上巻』292–293頁。
  • 4:13 マタイとルカは、イエスによる弟子たちへの批判を削除。要確認。並行箇所付加。
     マタイは4:13を削除(マタイ13:10-17)。ルカも4:13を削除(ルカ8:9-10)。
  • 4:13 種蒔きの譬えが他の譬えを理解するのに決定的であることを意味するとする。
     Witherington, Mark, 168.
  • 4:13 kai legei autois = 前マルコ伝承。
     Pesch, Markus 1, 241.
     Gnilka, Markus 1, 173.
     一方、Guelich はどちらとも判断し難いとしている(Guelich Mark, 219)。
  • 4:13b 伝承:Pesch, Markus 1, 243。マルコ:Grundmann, 125。
     Schweizer, ZNW 56 (1965), 6–7。
     元々伝承でも、マルコによって構成されている(Guelich, Mark, 219)。
  • ギノースケイン(γινώσκειν)は伝承に見出される:6:38; 13:28f; 15:10, 15
     Schweizer, "Mark's Theological Achievement," 59。
  • 4:13 弟子の無理解が示されているが、4:34 によってマルコの読者は、この問題が解決されていることに思い至るという。
     Tannehill, "The Disciples in Mark: The Function of a Narrative Role," 146。
  • 4:13b Bock によれば、否定疑問文は積極的な意味を持つ応答で、譬えの聞き手がやがて理解するようになることが暗示されているという。だが根拠は明示されていない。
     Bock, Mark, 177。
  • マルコの編集とする説:「神の国を打ち明けられている」(11節)はずの弟子たちが理解できていないという批判。
     川島貞雄『マルコによる福音書』101頁。
  • 比喩や幻が特別な人によって後から解説されるという黙示文学的特色。用語から見て伝承に属する導入句(川島貞雄『マルコによる福音書』98頁)。
     「ひとりに」(κατὰ μόνας)に対して、マルコは通常 kat’ idian。
     尋ねる erōtan に対して、マルコは通常 eperōtan。
  • マルコ4:13
     前マルコ伝承:Pesch 1:241、Gnilka 1:173。
     編集:Räsänen, Parabeltheorie 102–106。
     ダブルクエスチョン:7:18; 8:17。
  • 「この譬えを理解できないのか」
     伝承:Gnilka, Verstockung, 33; Pesch 1:243。
     編集:Grundmann, 125; Schweizer, ZNW 56 (1965), 6–7。
     asunetos, synienai:6:52; 7:18; 8:17, 21(Guelich, Mark, 219)。
  • 4:14-20 の解釈:新約書簡に典型的語。後の教会による解釈。教会の内側にこそ石、茨がある。
     E. シュヴァイツァー『イエス・神の譬え』82頁。

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 【目次】

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ福音書 22 :15-22 22:23-33 22:34-40 22:41-46「ダビデの子についての問答」 23:1-12「律法学者とファリサイ派の人々を批判する」 23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:...