2025年10月22日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ22:41-46

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ22:41-46


 注解

 41節

新共同訳「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。」

Συναχθέντων δὲ τῶν Φαρισαίων ἐπηρώτησεν αὐτοὺς ὁ Ἰησοῦς,


大抵の場合、ファリサイ派やサドカイ派といったイエスに批判的な勢力の人々が、イエスに質問をする側である(22:15-22、22:23-33)。しかし、ここでは反対に、イエスが彼らに質問する側となっている。しかも、イエスが問いを投げかけた対象は、ファリサイ派の集団であった(συναχθέντων「彼らが集まっていると」)。


 42節

新共同訳「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、」

λέγων· Τί ὑμῖν δοκεῖ περὶ τοῦ Χριστοῦ; τίνος υἱός ἐστιν; λέγουσιν αὐτῷ· Τοῦ Δαυίδ.


 イエスの質問内容は、「メシア」が「誰の子」かということ、すなわち、メシアの出自に関する事柄であった。


「メシアのことをどう思うか」:直訳では、「キリストとはあなたがたにとって誰か」(Τί ὑμῖν δοκεῖ περὶ τοῦ Χριστοῦ;)。

「メシア」:原文ではΧριστός。直訳では「キリスト」となるが、新共同訳聖書では当時の文脈を考慮して、”油注がれた者”、”救世主”を意味する「メシア」と訳出している。


「誰の子か」:前述のように、メシアが誰の子なのかという、メシアの出自を問う質問となっている。


「だれの子だろうか」:原文では、「ダビデの」(Τοῦ Δαυίδ)。ファリサイ派は、メシアがダビデの家系から生まれるという当時のメシア理解を踏襲し、これをメシアの視点から言い直して、「ダビデの子」と回答した。


 43-44節

新共同訳 43「イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。」44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』」

λέγει αὐτοῖς· Πῶς οὖν Δαυὶδ ἐν Πνεύματι καλεῖ αὐτὸν Κύριον, λέγων· 44 Εἶπεν Κύριος τῷ Κυρίῳ μου· Κάθου ἐκ δεξιῶν μου, ἕως ἂν θῶ τοὺς ἐχθρούς σου ὑποπόδιον τῶν ποδῶν σου.

 イエスは詩編110:1(LXX 109:1)を引用し、ファリサイ派のメシア理解の矛盾点を突こうとする


「霊を受けて」:直訳では「霊において」(ἐν Πνεύματι)。神の霊によってダビデが真理を語ったという趣旨だが、新約時代のキリスト教の教義的な言い方をすれば、「聖霊」となる。言うなれば「聖霊に導かれて」となるだろうか。つまり、ダビデがそうして語ったことは、神の意志に基づく真理であることに他ならない、という意。

「メシアを主と呼んでいる」:44節の詩編引用における「主は、わたしの主にお告げになった」(Εἶπεν Κύριος τῷ Κυρίῳ μου)という文言に基づいている。そうすると、ダビデが神の「霊を受けて」、すなわち誤りなき真理として、彼が自分の子孫を「主」と呼んでいることになる。イエスは、その矛盾を指摘している。これは同時に、メシアが単なるダビデの末裔としての人間的存在ではなく、神的な「主」という存在であることを暗示する。


「主は、わたしの主に」:Κύριος τῷ Κυρίῳ μου 「主」が二重に現れる表現。第一の「Κύριος」はヤハウェ(神)。第二の「Κύριος μου」(わたしの主)は、メシアを指す。

 

イエスの議論は、もしメシアが単なる「ダビデの子」であるなら、なぜダビデが彼を「主」と呼ぶのか、という逆説。

「わたしの右の座」(ἐκ δεξιῶν μου):神の栄誉と権威を帯びる、ナンバーツー相当の座位。新約文書において、キリストが昇天して着いた座とされている。(参照、マルコ16:19、ヘブライ1:3など)。



 45節

新共同訳「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

εἰ οὖν Δαυὶδ καλεῖ αὐτὸν Κύριον, πῶς υἱὸς αὐτοῦ ἐστίν;


 イエスのロジック上では、メシアがダビデの子という命題は矛盾しているので、改めて「どうして」と問う必要はない。だが彼は、あえて「どうして」(πῶς)と問うという修辞的疑問文を用いることにより、聞き手がその命題の妥当性を再考するよう誘導している。

 ただし、メシアがダビデの家系から出現すること自体を否定しているわけではない。メシアをダビデの血統の末裔であるという次元でのみ捉えようとする、彼らの狭い物の見方を退けている。それはまた、<メシア=イスラエルをローマから救うといった政治的・民族的救済者?というメシア理解の否定でもある。

 また、この記事においては、イエスがメシアであり、「わたしの主」であることが暗示されているだろう。



 46節

新共同訳「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」

καὶ οὐδεὶς ἐδύνατο ἀποκριθῆναι αὐτῷ λόγον, οὐδὲ ἐτόλμησέν τις ἀπ’ ἐκείνης τῆς ἡμέρας ἐπερωτῆσαι αὐτὸν οὐκέτι.


 マタイ22:15以降、ファリサイ派やサドカイ派との論争物語が連続しているが、当記事はその最後のものであり、本節はこの記事の結びであると同時に、論争物語集の結語ともなっている。

「だれ一人……できず」:ファリサイ派でさえ、イエスの知恵を上回ることができず、彼を陥れようとする彼らの企みが、完全に潰えたことを示す。


「その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」:敵対者たちからの攻撃が止んだわけではない。論争を吹っ掛けることはなくなったものの、イエスを亡き者にしようとする計画へと転換したことが暗示されている。すなわち、ユダの裏切りから受難死へと展開していく転換点であり、十字架への伏線となっている。

 神学的には、論争や論破によって神の真理が論証される位相から、十字架と復活という啓示の出来事によってイエスのメシア性が明らかにされる、歴史的転換点ということになる。


 黙想

  「誰か?」「誰の子か?」というメシアを巡る問いは、一般の人々の問いでもある。人はそうした問いから始めて、真のキリストを知り、そうして三位一体の神を知り、信仰に至る。信仰告白は、「誰か?」と問いではなく、「イエスは主です、メシアです、キリストです、神の子です」という告白に他ならない。

 人が信仰告白へと至ることができるのは、ダビデもそうであったように、「霊によって」、すなわち聖霊の働きによる。実に、イエスを「主」と呼ぶ信仰は、聖霊によってもたらされるのである。

 人の狭い味方、考え、思い込み、それらが破綻した時、人は沈黙を余儀なくされる。その沈黙から、イエスを亡き者にしようとする神殺しの殺意が生じもすれば、他方、神の啓示を目の当たりにして、聖霊によって信仰的理解に到達することもある。

 イエスがメシアであることの出来事としての啓示は、十字架と復活である。


 祈りの言葉

 主なる神よ、 御子イエス・キリストに沈黙させられたファリサイ派のように、キリストを一元的に捉えてしまう物の見方の狭さ、心の矮小さへと至らないようにしてください。そうではなく、聖霊の働きによって私たちの理解と心を広げ、神の真理を悟ることができますように。十字架と復活のイエスこそ、神の子、キリスト、主なる方であることを知り、また、そのことを伝える者とさせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。


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