2025年10月15日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ3:31–35

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコによる福音書 3章31–35節
並行箇所 マタイ12:46–50、ルカ8:19–21

概要

先行箇所の3:21における身内の訪問が伏線となっている。その箇所では、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」とあり、家族でさえもイエスを理解できない現実が述べられていた。
後述のように、家族が「イエスとは遠くに」または「家の外」に立ち、家族でない者が「イエスのそばに」または「家の中」に座ってイエスの言葉を聞いている。この「外」と「内」という構図が本箇所において明瞭に示されており、同時に前節の伏線回収ともなっている。

注解

31節

新共同訳 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
Καὶ ἔρχεται ἡ μήτηρ αὐτοῦ καὶ οἱ ἀδελφοὶ αὐτοῦ, καὶ ἔξω στήκοντες ἀπέστειλαν πρὸς αὐτὸν καλούντες αὐτόν.
 3:21では「身内」とのみ記されていたが、3:31では「イエスの母と兄弟」と具体的に述べられている。
  • 「イエスの母と兄弟たち」──6:3によれば、イエスの母の名はマリアであり、兄弟は4人で、「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」と名付けられている。また6:3には「姉妹たち」の存在も示唆されており、彼女たちは次の32節で言及される。
  • 「外に立ち」──「外」(ἔξω)。32節では「イエスの周りに座っている」、すなわち<家の内>にいてイエスの言葉に耳を傾けている人々が描かれる。ここには明確な象徴的意味があり、「外」と「内」の距離や位置の違いは、単なる物理的なものではなく、信仰的理解の決定的な差異を表している。

32節

新共同訳 大勢の人がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
Καὶ ἐκάθητο περὶ αὐτὸν πλῆθος· καὶ λέγουσιν αὐτῷ· Ἰδοὺ ἡ μήτηρ σου καὶ οἱ ἀδελφοί σου καὶ αἱ ἀδελφαί σου ἔξω ζητοῦσίν σε.
  • 「イエスの周りに座っていた」──原文では「彼の周囲に」(ἐκάθητο περὶ αὐτὸν)。当時、ラビ(教師)が人々に教えを語るとき、ラビは座り、聴衆は立つのが習慣であった。上下関係の中で、上位者が下位者に教える形式である。しかし、やがて聴衆も座るスタイルが広まり、上下関係よりも、共に学ぶ姿勢が意識されるようになった。
 この場面で人々が「座って」いる理由は明示されていないが、イエスと聞き手との距離が近く、親密な関係であることが示唆されている。もしそうであれば、この記事の主題──すなわち「イエスの家族」とは誰か──の象徴的意味がここに込められていると考えられる。
  • 「母上と兄弟姉妹」──ここで再び「姉妹」も含めて言及され、血縁的な家族の概念が強調されている。

33節

新共同訳 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
Καὶ ἀποκριθεὶς αὐτοῖς λέγει· Τίς ἐστιν ἡ μήτηρ μου καὶ οἱ ἀδελφοί μου;
 家族とは通常、血縁関係によって定義されるが、イエスはその関係性を問い直し、新たに定義しようとしている。イエスは「神の国」の接近を宣べ伝えたが(1:15参照)、神の国における信仰者の関係は「家族」であると示した。
 ユダヤ社会では、旧約時代から、親しい関係や同盟関係、同じ信仰共同体の成員同士を「兄弟」と呼ぶ習慣があった。しかし、弟子がラビを「父」と呼ぶ例は稀であり、家族でない者を「父」や「母」と呼ぶことはほとんどなかった。女性的な呼称(母・姉妹・妻など)も用いられることは少なく、神の愛を母にたとえる(イザヤ66:13など)程度である。
 ところがイエスはここで、男性的・女性的な呼称を包括的に扱い、信仰共同体全体を新しい「家族」と見なしている。この点にイエスの教えの革新性がある。後にパウロも、ある女性信徒を敬意をもって「母」と呼んでいる(ローマ16:13参照)。

34–35節

新共同訳 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである。」
原文: Καὶ περιβλεψάμενος τοὺς περὶ αὐτὸν καθημένους λέγει· Ἰδοὺ ἡ μήτηρ μου καὶ οἱ ἀδελφοί μου. 35 Ὃς ἂν ποιήσῃ τὸ θέλημα τοῦ Θεοῦ, οὗτος ἀδελφός μου καὶ ἀδελφὴ καὶ μήτηρ ἐστίν.
 イエスは、自身の周りに座って神の言葉を聞く人々こそを「わたしの母」「兄弟」と呼び、新しい意味づけを行った。ここでは、イエスの真の家族とは、イエスを通して語られる神の言葉を聞き、それに従って生きる者たちである。
 後にキリスト教会が互いを「兄弟姉妹」と呼び合うようになった神学的根拠は、以下の二点に要約される。
  1. 神が父であり、信徒はその子どもであること。
  2. キリストが父なる神の長子、すなわち長男であり、私たちがその弟・妹であること。

まとめ

 マルコ3:31–35は、イエスが血縁を超えて「神の御心を行う者」を真の家族と呼ばれた場面である。この箇所は、信仰共同体の本質を明らかにする。イエスの周囲に座る者たちは、単なる聴衆ではなく、神の言葉に耳を傾け、心を開き、従おうとする人々である。彼らこそがイエスにとっての「母」「兄弟」「姉妹」であり、神の家族の一員である。
 この教えは、私たちが互いを「兄弟姉妹」と呼び合う根拠であり、教会が血縁や社会的区分を超えて、神の愛によって結ばれた共同体であることを示している。私たちもまた、神の御心を求め、イエスの言葉に耳を傾けることで、この家族の中に生きる者とされる。

礼拝説教の結びとして

 今日の御言葉は、イエスが「神の御心を行う者こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と語られた場面でした。血縁による家族の枠を超えて、神の言葉に耳を傾け、それに従って生きる者こそが、イエスにとっての真の家族であると宣言されたのです。
 この言葉は、私たちにとって大きな慰めであり、同時に挑戦でもあります。私たちは、神の家族として招かれています。ただ教えを聞くだけでなく、神の御心を行う者として、イエスのそばに座る者となるよう求められているのです。
 教会とは、血縁や立場を超えて、神の愛によって結ばれた共同体です。互いを兄弟姉妹と呼び合い、共に神の言葉に生きる者として歩むとき、私たちはイエスの家族としての喜びと責任を担うことになります。
この週も、神の御心を求め、イエスの言葉に耳を傾け、従う者として歩んでまいりましょう。私たちがどこにいても、何をしていても、神の家族としてのアイデンティティを忘れずに、主にある交わりを深めていけますように。

祈りの言葉

天の父なる神よ、あなたが私たちをキリストにあって一つの家族として呼び集めてくださったことを感謝します。
私たちが血縁や立場を越えて互いを兄弟姉妹として受け入れ、あなたの御心を行う者として歩むことができますように。
イエスの言葉に耳を傾け、心を開き、従う者となるよう、聖霊によって導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 学術的ノート
  •  弟子たちと群衆は新しい家族に属すると読み手は理解する。内はこれら。外は、敵対者(Moloney, Mark, 89)。
  •  33ー34節は、1ー12節の見解とは異なるマルコの編集句。田川、215。


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