2025年3月19日水曜日
【キリスト教史】「聖人の遺体をゲットだぜ!」ー聖遺物、聖遺物崇敬について
2025年3月12日水曜日
【キリスト教史】ユグノー戦争(1562 98年)ー宗教戦争の仮面を被った貴族間政治闘争
ユグノー戦争 1562-98年
【要約】
フランスにおけるカトリック側とプロテスタント側の宗教戦争という仮面を被った貴族間政治闘争。王権打倒を画策するプロテスタント勢力、異端撲滅を掲げたカトリック勢力、宗教的寛容と国内統一を標榜する中間派(ポリティーク派)の三つ巴。
【本文】
フランスを舞台にしての、カトリック側とプロテスタント側の貴族間抗争ではあるが、そこには政治的思惑が複雑に入り込んでおり、宗教戦争という仮面を被った政治闘争というのが実体に近い。日本では、「ユグノー戦争」と一般に呼称されているが、ヨーロッパ歴史学においては「宗教戦争 guerres de Religion(フランス語)」、「Religious Wars(英語)」と呼ぶのが通例である。ドイツの三十年戦争と並置される、フランスにおける宗教改革を巡っての代表的戦争。
ユグノー
ユグノーとは、宗教改革期からフランス革命までのフランスにおけるカルヴァン派信徒を指す。「ユグノー」という名称は、「誓約仲間」を意味するドイツ語のEidgenosse のジュネーブなまりである eyguenot に由来するという説がある。
経緯
1547年のアンリ2世即位後、プロテスタント弾圧政策が加速する一方で、カルヴァン派が広く浸透していく。
1559年、幼王フランソワ2世が即位し、ギーズ家が事実上政権を掌握する。ギーズ家はカトリック側に接近すると共に、これに対抗するブルボン家、コリニー提督等はプロテスタントに接近し、宗教対立は政治的対立へと構造変化していく。
1560年、プロテスタント側による国王奪還作戦、「アンボワーズの陰謀」失敗。
1562年、ギーズ公側によるプロテスタント信者殺害、「バッシーの虐殺」以後、8次に及ぶ両勢力の衝突というユグノー戦争が開始される。
1572年、摂政母后カトリーヌ・ド・メディシスとギーズ公による「サン・バルテルミの虐殺」。コリニー提督らが殺害された。
以降、王権打倒を画策するプロテスタント勢力、異端撲滅を掲げたカトリック勢力、宗教的寛容と国内統一を標榜する中間派(ポリティーク派)、これら三つ巴の戦いへ。この渦中に、外国勢力が介入し、カトリック勢力をスペインが支持、プロテスタント勢力をイングランドがバックアップする。
1589年、アンリ3世が暗殺され、バロア朝断絶。プロテスタント国王アンリ4世即位。
1593年、アンリ4世のカトリックに改宗。ポリティーク派の支持を獲得し、国内統一を回復。
1598年、アンリ4世、「ナントの勅令」を発布。ここにユグノー戦争は終結する。カトリックとプロテスタントの和解が実現し、ナントの勅令はそれまで試みられた宗教寛容令の集大成となった。
しかし、ナントの勅令はルイ14世の時代に効力を失い始め、1685年、全面的廃棄された。これに伴い、多数のプロテスタントが亡命した。
2025年3月11日火曜日
【キリスト教史(教会史)関連】
【解説動画】
【キリスト教史解説】聖遺物、聖遺物崇敬ー「聖人の遺物をゲットだぜ」
【キリスト教史】テルトゥリアヌスー最初の西方ラテン教父、三位一体論の祖
【キリスト教史解説】モナルキアニズムー養子説と様態説ー三位一体の否定、キリストの神性否定
【キリスト教史解説】ユグノー戦争(1562 98年)ー宗教戦争の仮面を被った貴族間政治闘争
ーー初期キリスト教時代ーー
前21頃-後39年 ヘロデ・アンティパス
後30-101年 ローマのクレメンス
ーー古代教会時代ーー
【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス(動画)
(古代教会における聖書)「正典」の確定 信条の形成 シモニア(聖職売買)
70/82-156/168年 ポリュカルポス 2世紀初期 エビオン派 エビオン派福音書
100頃-163/167年 ユスティノス
?-170 霊的な熱狂的終末論者モンタヌス(モンタノス)とモンタニズム(動画)
?-258 ラウレンティウス
2世紀中葉 モンタヌス・モンタヌス主義 Montanism / Montanus
2世紀中葉 マルキオン
160頃-220年以降 テルトゥリアヌス 130頃-202年頃 リヨンのエイレナイオス
200頃-258年 キプリアヌス 293頃-373年 アタナシオス
240頃-320頃 ラクタンティウス
3世紀前半から中葉 モナルキアニズム
312-14年 ドナティスト論争(ドナトゥス派)
325年 第1ニカイア公会議/原ニカイア信条
カパドキアの神学者たち(翻訳、ヤング『ニケアからカルケドンへ』)
330頃-379 バシレイオス 342頃-420年 ヒエロニムス
ーー中世時代ーー
テーマ的項目
675年頃-749年頃 ダマスコのヨアンネス
1265年頃-1308年 ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス
11世紀-15世紀中葉 十字軍
ーー宗教改革時代ーー
15世紀 人文主義
1482-1531年 エコランパディウス
1483-1546年 マルティン・ルター
1491-1551年 マルティン・ブツァー
1500年代前半以降 再洗礼派
1504-1575年 ヨハン・ハインリヒ・ブリンガー
1509-64年 カルヴァン
1511-53年 セルヴェトゥス
1515-63年 カステリヨン
1524-25年 ドイツ農民戦争
1534年- アングリカンチャーチ(英国国教会)
1545年- 対抗宗教改革 1555年 アウクスブルク宗教和議
16世紀 改革派教会 Reformed Church
1618-48年 三十年戦争
1618-9 ドルトレヒト会議
1635-1705年 シュペーナー
1836- ディアコニッセ
2025年3月10日月曜日
【キリスト教史解説】モナルキアニズムー養子説と様態説ー三位一体の否定、キリストの神性否定
名称の語源モナルケスが「単独支配」を意味するように、三位一体論において、「父」「子」「聖霊」という位格の区別を無視し、位格の単一性を過度に強調する異端的教義を表す。
以下の養子説(Adoptionism)と様態説(Modalism)の2種で展開された。
1 養子説(Adoptionism)
養子説は、主としてアンティオキア主教サモサタのパウロによって提唱され、アンティオキア学派によって継承された。
元は人間であったイエスが、十字架と復活を経て御子とされたとする説で、キリストの完全な神性の否定に繋がるとして、正統派から退けられた。
2 様態説(Modalism)
様態説は、主としてプラクセアス(2世紀末〜3世紀初頭、小アジア出身)によって説かれ、サベリウス(?-260年頃)によっても展開された。
「父」「子」「聖霊」は、神の様態(モード)の現れに過ぎないとする。「子」は「父」が受肉したものとする説で、キリストの神性否定と三位の独自性の解消に繋がるとして、正統派から拒絶された。
この説はテルトゥリアヌス(『プラクセアス駁論』)によって天父受苦説(patripassianism)と呼ばれて論駁された。その後、様態説はスミルナのノエトゥスの一派により継承された。
【キリスト教史】テルトゥリアヌスー最初の西方ラテン教父、三位一体論の祖
テルトゥリアヌス Quintus Septimius Florens Tertullianus ca. 160 ‐ after 220 CE
【要約】
西方教会最初の(ラテン)教父、護教家。マルキオン、グノーシス主義に対する論駁書を著す。ペルソナ概念、史上最初となる三位一体論的表現は後の正統神学に影響。教会の職制の権威を主張し、初期カトリシズム的な職制論の基礎に。
【本文】
西方教会最初の教父にして護教家(ラテン教父)。北アフリカのカルタゴ出身。修辞学と法律を学び、ローマで法律家となる。ca. 195 CEに回心し、カルタゴに帰国。マルキオン、プラクセアス、グノーシス主義等の異教的思想に対抗して論陣を張り、対異教的な著作を著した。後に、キリスト者として厳格な生活の在り方を求め、終末思想と禁欲主義的生活を志向するモンタヌス主義に傾倒したが、そこからも離反したと推測されている。
思想
ギリシャ哲学を「異端の父」としつつも、ギリシャ哲学的霊魂観やストア学派的な思考の影響を受けており、例えばこれにより肉体と霊の二元論的な彼の人間論が構築されている。しかし、基本的にテルトゥリアヌスは正典的文書(聖書)を基盤としつつ、そこから三位一体論やキリスト論、救済史を展開し、その過程で生まれたペルソナ概念、経綸の思考は後の正統哲学に摂取されるところとなった。
また、史上初めての三位一体論の萌芽が現れていると言われている『プラクセアス反駁』において、父が子となったというような単神論的思想に対してテルトゥリアヌスは反論を試みており、その中で「三位一体」や「位格」「実体」等のテクニカルタームを彼は使用している。これが、後の三位一体論的用語の始まりとなった。
テルトゥリアヌスはまた、初代教会における霊的権威を継承しつつ同時にこれに代わるものとしての職制の権威を主張し、これは後の初期カトリシズム的な職制論の基礎となり、西方教会的な教会論の基礎をもたらした。また、元法律家としての知識を生かし、救済論を法律的な観点から組織的に論じた。
なお、『キリストの肉について』における「キリストは肉となった。これは愚かであるが故に信じ得る。」という言葉は、credo, quia absurdum est「不合理なるが故に我信ず」の典拠とされる。
補足
テルトゥリアヌスは、受難者イエス・キリストが異教世界のプロメテウスにおいて予示されていると述べている。
主要著作
『護教論』 カルタゴで執筆。言語はラテン語。
『プラクセアス反駁』
『マルキオン反駁』
2025年2月21日金曜日
【キリスト教史解説】モンタヌス(モンタノス)とモンタニズムー霊的な熱狂的終末論者
ーーーーレジュメーーーー
【キリスト教史】霊的な熱狂的終末論者モンタヌス(モンタノス)とモンタニズム
1 要約
・モンタヌスにより2世紀中葉から後半にかけて興隆した、
キリスト教の熱狂的分派による終末論的運動。
・小アジアのフリギア(フリュギア、現・トルコ西部)で霊的預言活動を展開
正統教会側より禁じられたため北アフリカに移住。
以後、ローマ、ガリアまで伝播。
・これにより、正統教会側は終末思想を警戒するようになり、
距離を置くようになった。
2 モンタニズム(モンタヌス主義)
・モンタヌス(Montanus, ?‐c. 170 CE)を始祖とする熱狂的・霊的終末論的運動
・2世紀中葉から後半。
3 モンタヌス
・アポロンもしくはキュベレの神官であったと推測
生い立ちその他の詳細は不明
・152/157年頃、小アジアのフリギアにて、預言活動を開始。
女性預言者プリスキラとマクシミラを伴って
トランス状態での預言が特徴。
千年王国の到来の告知。「天のエルサレム」が到来すると。
=終末思想的:キリストの再臨と千年統治
・厳格な禁欲生活の実践を説く。
4 モンタヌス主義運動の展開の推移
・一時、小アジア全体に拡大
・しかし、小アジアの(正統的)教会がこれを禁止
モンタヌスは北アフリカに拠点を移す
・テルトゥリアヌスが207年頃にモンタヌス主義運動に一時参加
・同運動はドナトゥス派にも影響。ローマ、ガリアまで伝播
・ローマ司教ゼフィリヌス(在位199‐217)、カリストゥス1世(在位217‐222)
同運動を異端とみなして弾圧政策を取る。
理由:1 聖書における神の啓示からの逸脱。←霊的トランス状態の普遍化
2 職制、聖職者の権威の否定
325年のニカイア公会議以降、正統的なニカイア派による弾圧
・これにより4世紀以降、同運動は収束
・最終的には8世紀まで存続
重要:同運動を契機に、正統教会側は終末思想を警戒するようになり、
距離を置くようになった →正統教会側の安定に寄与
2025年2月19日水曜日
【キリスト教史】タティアノス(タチアノス)120‐173年
【キリスト教史】タティアノス(タチアノス)120‐173年
1 ざっくり要約
・シリアの「護教家」
護教家=キリスト教の正当性を、当時の哲学的社会に対して、哲学的、ないしは
神学的に論証することに努めた神学者。
また、外部からの批判に対しては、反論を展開した神学者。
・殉教者ユスティノスの弟子
・ギリシャ哲学に対する批判を展開
・四福音書を統合した『ディアテッサロン』
・晩年、異端的なエンクラディス教団を創設
2 タティアノスの足跡と、思想や活動の特徴
・ギリシャで文学、哲学を学ぶ
・135年頃、ローマに移住
・若い時代はギリシャ哲学に傾倒
後、キリスト教に改宗
・改宗後は、アンチ・ギリシャ哲学に変貌。護教家として論陣を張る。
・殉教者ユスティノスに師事
・ユスティノスの殉教後(165年頃)、ローマを去る
ワレンティヌスのグノーシス的キリスト教に共鳴
・172年頃、東方でエンクラディス教団を創設
エンクラディス教団=グノーシス的、禁欲主義的教団
・同教団は正統的キリスト教会側から異端的と見なされた。
3 著作
『ディアテッサロン』(シリア語): 四福音書の調和を企図して一つの叙述にまとめたもの。5世紀までシリアにおいて用いられた。
『ギリシア人への言葉』(ギリシア語):ギリシア文明を批判し、キリスト教がより伝統と純粋さを保持するとして護教論を展開。
2025年2月17日月曜日
【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス
ーーーーレジュメーーーー
【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス
・時系列順に、段階を追って見ていく。
1 初期教会時代
・各々の文書が各地で形成以降、個別に各地に伝播・拡散
・徐々に、重要性の高い文書が固定し、広範囲で共有されるように
=文書の中で「重要な書」という認識とその共有が生じ始める
2 異端の発生、教義の形成、教義の源泉の確定
・異端の発生 →正統的教義の確定の必要
→教義の源泉である諸文書を確定する必要
後にこの位置付けの文書の27書が正典化されて「新約聖書」文書に。
1 グノーシス主義的キリスト教の台頭
際限なき文書形成、独自教義の形成という脅威を受けて
2 マルキオン(生没年不詳。後150年前後活動)の出現
旧約聖書およびその影響を受けた新約聖書文書の排除
(ルカ福音書と一部書簡のみを採用した)
→ムラトリ正典目録(ムラトリ断片とも、18世紀発見、推定成立2世紀後半)
→オリゲネス(後185–253年)ーー重要文書の一覧の作成
3 ローマにおけるキリスト教寛容令から公認以降
・なおも続く教理論争ーーアレイオス論争
アレイオス vs アレクサンドリアのアタナシオス(296年–373年)
ニカイア公会議(後325年)でアレイオス派に勝利したアタナシオス
アタナシオス「復活祭書簡39」:新約聖書となる文書の一覧
・ ラオディキア会議(後363年)
正統派による締め付けの強化 会衆の讃美歌詠唱禁止とか
ほぼ後の新約文書27巻の一覧を挙げ、正典をこれに限定すると声明
・ カルタゴ会議(後397年)
新約聖書正典27文書の確定。
・上記のプロセスにおいて、並び順が徐々に整理、固定していく
4 新約文書の配列順序の確立
• 福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は早くからまとまりとして認識
順序も徐々に固定化。マタイ=第一福音書
• 書簡は基本、パウロ書簡(文字量順)→その他の書簡という順序に
• ヨハネ黙示録 時系列的に終末を扱う点と、様式的にも特殊
末尾へ。
2025年2月15日土曜日
【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年2月16日「偉い人は仕える者になりなさい」
ーーーー聖書テキストーーーー
マタイによる福音書 23章1-12節
1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。