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2025年3月19日水曜日

【キリスト教史】「聖人の遺体をゲットだぜ!」ー聖遺物、聖遺物崇敬について

 

 レジュメ

【キリスト教】「聖人の遺体をゲットだぜ!」ー聖遺物、聖遺物崇敬について

1 聖遺物とは
・聖人の遺体、もしくは遺体の一部(髪の毛、血液、部位)
 聖人の遺物や触れたもの(衣服、所持品)
・これらを崇敬する行為や精神性
 (キリスト教では神以外のものは崇拝しないので、崇敬)
・元々、使徒や聖人とされた者を崇敬する習慣あり。

2 聖遺物崇敬の発生からその後の展開
2-1 古代時代 聖遺物崇敬ブームの始まり
・4世紀頃、聖人の遺骨がコンスタンティノポリスに移転。
 聖人の遺物や遺骨に注目が集まる。

・その後、聖遺物の捜索、発見、収集、巡礼が盛んになる。
・聖マルティヌス(サン・マルタン)の逝去時(397年)、
 付近の住民が集まり、遺体の所有権で議論になる。

・パターンとして、奇跡を伴う発見エピソードを伴う。
 中世時代には奇跡逸話集 「聖ジブリアン奇跡録」(12世紀) 
・その後、聖遺物が安置された教会や修道院には、巡礼者

2-2 中世時代 聖遺物崇敬の半ば暴走状態
・聖遺物崇敬は西方教会では流行した一方、
 東方ではむしろ聖画像が崇敬された。イコノクラスム期を除く

・調達や輸送斡旋のエキスパートの出現
 例、9世紀、ローマと西欧を仲介したデウスドーナ

・聖人以外の遺物も現れる。
 例 南イタリアのモンテガルガノ、大天使ミカエルの紅の外套

・数々の聖遺物の出現
 ・受胎告知時のマリアの服(ノートルダム大聖堂)
 ・受難時にキリストの汗を聖女ベロニカが拭い、後に顔が浮き
  出た、「聖顔布」(スダリウム)。
  教皇代理アデマール・デュ・ピュイによって発見。
 ・聖杯伝説 最後の晩餐時に使用され、十字架のキリストの
  血を受けたとされる杯

・聖人級の偉人は、生前から体を狙われる
 例 トマス・アクイナス 近隣はおろか遠隔地からも人が殺到
   死後、厳重な管理体制下で分骨された

・中世中期にはブームが高じ、贋作や偽情報が横行
・真贋性の見極め、聖遺物の認証の問題、認証権限の所在
 司教の権限→第4ラテラノ公会議(1215)以降、教皇のみの権限
・「移葬記」:聖遺物の真正を主張するために入手経路を記録書

2-3 その他の備考項目と、中世時代以降
・聖遺物は、聖遺物匣に納めて安置する
・聖遺物の売買禁止だが、どこまで遵守されたかは不明。
・全聖遺物の祝日は、11月5日。
・宗教改革以降のプロテスタントの多くは、聖遺物を認めず


2025年3月12日水曜日

【キリスト教史】ユグノー戦争(1562 98年)ー宗教戦争の仮面を被った貴族間政治闘争

 


ユグノー戦争 1562-98年


 【要約】

フランスにおけるカトリック側とプロテスタント側の宗教戦争という仮面を被った貴族間政治闘争。王権打倒を画策するプロテスタント勢力、異端撲滅を掲げたカトリック勢力、宗教的寛容と国内統一を標榜する中間派(ポリティーク派)の三つ巴。


 【本文】

 フランスを舞台にしての、カトリック側とプロテスタント側の貴族間抗争ではあるが、そこには政治的思惑が複雑に入り込んでおり、宗教戦争という仮面を被った政治闘争というのが実体に近い。日本では、「ユグノー戦争」と一般に呼称されているが、ヨーロッパ歴史学においては「宗教戦争 guerres de Religion(フランス語)」、「Religious Wars(英語)」と呼ぶのが通例である。ドイツの三十年戦争と並置される、フランスにおける宗教改革を巡っての代表的戦争。


 ユグノー

 ユグノーとは、宗教改革期からフランス革命までのフランスにおけるカルヴァン派信徒を指す。「ユグノー」という名称は、「誓約仲間」を意味するドイツ語のEidgenosse のジュネーブなまりである eyguenot に由来するという説がある。


 経緯

 1547年のアンリ2世即位後、プロテスタント弾圧政策が加速する一方で、カルヴァン派が広く浸透していく。


 1559年、幼王フランソワ2世が即位し、ギーズ家が事実上政権を掌握する。ギーズ家はカトリック側に接近すると共に、これに対抗するブルボン家、コリニー提督等はプロテスタントに接近し、宗教対立は政治的対立へと構造変化していく。


 1560年、プロテスタント側による国王奪還作戦、「アンボワーズの陰謀」失敗。


 1562年、ギーズ公側によるプロテスタント信者殺害、「バッシーの虐殺」以後、8次に及ぶ両勢力の衝突というユグノー戦争が開始される。


 1572年、摂政母后カトリーヌ・ド・メディシスとギーズ公による「サン・バルテルミの虐殺」。コリニー提督らが殺害された。


 以降、王権打倒を画策するプロテスタント勢力、異端撲滅を掲げたカトリック勢力、宗教的寛容と国内統一を標榜する中間派(ポリティーク派)、これら三つ巴の戦いへ。この渦中に、外国勢力が介入し、カトリック勢力をスペインが支持、プロテスタント勢力をイングランドがバックアップする。


 1589年、アンリ3世が暗殺され、バロア朝断絶。プロテスタント国王アンリ4世即位。


 1593年、アンリ4世のカトリックに改宗。ポリティーク派の支持を獲得し、国内統一を回復。


 1598年、アンリ4世、「ナントの勅令」を発布。ここにユグノー戦争は終結する。カトリックとプロテスタントの和解が実現し、ナントの勅令はそれまで試みられた宗教寛容令の集大成となった。


 しかし、ナントの勅令はルイ14世の時代に効力を失い始め、1685年、全面的廃棄された。これに伴い、多数のプロテスタントが亡命した。



2025年3月11日火曜日

【キリスト教史(教会史)関連】

【解説動画】

【キリスト教史解説】聖遺物、聖遺物崇敬ー「聖人の遺物をゲットだぜ」

【キリスト教史】テルトゥリアヌスー最初の西方ラテン教父、三位一体論の祖

【キリスト教史解説】モナルキアニズムー養子説と様態説ー三位一体の否定、キリストの神性否定

【キリスト教史解説】ユグノー戦争(1562 98年)ー宗教戦争の仮面を被った貴族間政治闘争



ーー初期キリスト教時代ーー

コイネー・ギリシャ語                

前21頃-後39年 ヘロデ・アンティパス        

後30-101年 ローマのクレメンス    



ー古代教会時代ーー

【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス(動画)

(古代教会における聖書)「正典」の確定        信条の形成        シモニア(聖職売買)

70/82-156/168年 ポリュカルポス        2世紀初期 エビオン派 エビオン派福音書

100頃-163/167年 ユスティノス

120-173年 タティアノス(タチアノス)(動画)

?-170 霊的な熱狂的終末論者モンタヌス(モンタノス)とモンタニズム(動画)

?-258 ラウレンティウス        

2世紀中葉 モンタヌス・モンタヌス主義        Montanism / Montanus

2世紀中葉 マルキオン

160頃-220年以降 テルトゥリアヌス        130頃-202年頃 リヨンのエイレナイオス

200頃-258年 キプリアヌス        293頃-373年 アタナシオス

240頃-320頃 ラクタンティウス        

3世紀前半から中葉 モナルキアニズム

3世紀後半-4世紀 ミュラのニコラウス

312-14年 ドナティスト論争(ドナトゥス派)

325年 第1ニカイア公会議/原ニカイア信条

カパドキアの神学者たち(翻訳、ヤング『ニケアからカルケドンへ』)

330頃-379 バシレイオス        342頃-420年 ヒエロニムス

381年 第1コンスタンティにポリス公会議/ニカイア信条


ーー中世時代ーー

テーマ的項目

【キリスト教】異端審問 ーーその歴史的経緯


675年頃-749年頃 ダマスコのヨアンネス        

1265年頃-1308年 ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

11世紀-15世紀中葉 十字軍        


ーー宗教改革時代ーー

15世紀  人文主義        

1482-1531年 エコランパディウス        

1483-1546年 マルティン・ルター    

1491-1551年 マルティン・ブツァー        

1500年代前半以降 再洗礼派        

1504-1575年 ヨハン・ハインリヒ・ブリンガー        

1509-64年 カルヴァン        

1511-53年 セルヴェトゥス        

1515-63年 カステリヨン        

1524-25年 ドイツ農民戦争        

1534年- アングリカンチャーチ(英国国教会)                

1545年- 対抗宗教改革        1555年 アウクスブルク宗教和議        

16世紀 改革派教会        Reformed Church        

1618-48年 三十年戦争        

1618-9 ドルトレヒト会議

1635-1705年 シュペーナー        

1705年- ソッツィーニ主義        Sozzinism        

1836- ディアコニッセ        

2025年3月10日月曜日

【キリスト教史解説】モナルキアニズムー養子説と様態説ー三位一体の否定、キリストの神性否定




 名称の語源モナルケスが「単独支配」を意味するように、三位一体論において、「父」「子」「聖霊」という位格の区別を無視し、位格の単一性を過度に強調する異端的教義を表す。

 以下の養子説(Adoptionism)と様態説(Modalism)の2種で展開された。


 1 養子説(Adoptionism)

 養子説は、主としてアンティオキア主教サモサタのパウロによって提唱され、アンティオキア学派によって継承された。

 元は人間であったイエスが、十字架と復活を経て御子とされたとする説で、キリストの完全な神性の否定に繋がるとして、正統派から退けられた。


 2 様態説(Modalism)

 様態説は、主としてプラクセアス(2世紀末〜3世紀初頭、小アジア出身)によって説かれ、サベリウス(?-260年頃)によっても展開された。

 「父」「子」「聖霊」は、神の様態(モード)の現れに過ぎないとする。「子」は「父」が受肉したものとする説で、キリストの神性否定と三位の独自性の解消に繋がるとして、正統派から拒絶された。

 この説はテルトゥリアヌス(『プラクセアス駁論』)によって天父受苦説(patripassianism)と呼ばれて論駁された。その後、様態説はスミルナのノエトゥスの一派により継承された。

【キリスト教史】テルトゥリアヌスー最初の西方ラテン教父、三位一体論の祖

テルトゥリアヌス Quintus Septimius Florens Tertullianus ca. 160 ‐ after 220 CE



【要約】

西方教会最初の(ラテン)教父、護教家。マルキオン、グノーシス主義に対する論駁書を著す。ペルソナ概念、史上最初となる三位一体論的表現は後の正統神学に影響。教会の職制の権威を主張し、初期カトリシズム的な職制論の基礎に。


【本文】

 西方教会最初の教父にして護教家(ラテン教父)。北アフリカのカルタゴ出身。修辞学と法律を学び、ローマで法律家となる。ca. 195 CEに回心し、カルタゴに帰国。マルキオン、プラクセアス、グノーシス主義等の異教的思想に対抗して論陣を張り、対異教的な著作を著した。後に、キリスト者として厳格な生活の在り方を求め、終末思想と禁欲主義的生活を志向するモンタヌス主義に傾倒したが、そこからも離反したと推測されている。


 思想

 ギリシャ哲学を「異端の父」としつつも、ギリシャ哲学的霊魂観やストア学派的な思考の影響を受けており、例えばこれにより肉体と霊の二元論的な彼の人間論が構築されている。しかし、基本的にテルトゥリアヌスは正典的文書(聖書)を基盤としつつ、そこから三位一体論やキリスト論、救済史を展開し、その過程で生まれたペルソナ概念、経綸の思考は後の正統哲学に摂取されるところとなった。


 また、史上初めての三位一体論の萌芽が現れていると言われている『プラクセアス反駁』において、父が子となったというような単神論的思想に対してテルトゥリアヌスは反論を試みており、その中で「三位一体」や「位格」「実体」等のテクニカルタームを彼は使用している。これが、後の三位一体論的用語の始まりとなった。


 テルトゥリアヌスはまた、初代教会における霊的権威を継承しつつ同時にこれに代わるものとしての職制の権威を主張し、これは後の初期カトリシズム的な職制論の基礎となり、西方教会的な教会論の基礎をもたらした。また、元法律家としての知識を生かし、救済論を法律的な観点から組織的に論じた。

 なお、『キリストの肉について』における「キリストは肉となった。これは愚かであるが故に信じ得る。」という言葉は、credo, quia absurdum est「不合理なるが故に我信ず」の典拠とされる。


 補足

 テルトゥリアヌスは、受難者イエス・キリストが異教世界のプロメテウスにおいて予示されていると述べている。


 主要著作

『護教論』 カルタゴで執筆。言語はラテン語。

『プラクセアス反駁』

『マルキオン反駁』

2025年2月21日金曜日

【キリスト教史解説】モンタヌス(モンタノス)とモンタニズムー霊的な熱狂的終末論者

 


ーーーーレジュメーーーー

【キリスト教史】霊的な熱狂的終末論者モンタヌス(モンタノス)とモンタニズム


 1 要約

・モンタヌスにより2世紀中葉から後半にかけて興隆した、

 キリスト教の熱狂的分派による終末論的運動。

・小アジアのフリギア(フリュギア、現・トルコ西部)で霊的預言活動を展開

 正統教会側より禁じられたため北アフリカに移住。

 以後、ローマ、ガリアまで伝播。

・これにより、正統教会側は終末思想を警戒するようになり、

 距離を置くようになった。


 2 モンタニズム(モンタヌス主義)

 ・モンタヌス(Montanus, ?‐c. 170 CE)を始祖とする熱狂的・霊的終末論的運動

 ・2世紀中葉から後半。


 3 モンタヌス

 ・アポロンもしくはキュベレの神官であったと推測

  生い立ちその他の詳細は不明

 ・152/157年頃、小アジアのフリギアにて、預言活動を開始。

  女性預言者プリスキラとマクシミラを伴って

  トランス状態での預言が特徴。

  千年王国の到来の告知。「天のエルサレム」が到来すると。

   =終末思想的:キリストの再臨と千年統治

 ・厳格な禁欲生活の実践を説く。


 4 モンタヌス主義運動の展開の推移

・一時、小アジア全体に拡大

・しかし、小アジアの(正統的)教会がこれを禁止

 モンタヌスは北アフリカに拠点を移す

・テルトゥリアヌスが207年頃にモンタヌス主義運動に一時参加

・同運動はドナトゥス派にも影響。ローマ、ガリアまで伝播

・ローマ司教ゼフィリヌス(在位199‐217)、カリストゥス1世(在位217‐222)

 同運動を異端とみなして弾圧政策を取る。

  理由:1 聖書における神の啓示からの逸脱。←霊的トランス状態の普遍化

     2 職制、聖職者の権威の否定

 

 325年のニカイア公会議以降、正統的なニカイア派による弾圧

・これにより4世紀以降、同運動は収束

・最終的には8世紀まで存続


重要:同運動を契機に、正統教会側は終末思想を警戒するようになり、

   距離を置くようになった  →正統教会側の安定に寄与


2025年2月19日水曜日

【キリスト教史】タティアノス(タチアノス)120‐173年

 




ーーーーレジュメーーーー

【キリスト教史】タティアノス(タチアノス)120‐173年


1 ざっくり要約

・シリアの「護教家」

 護教家=キリスト教の正当性を、当時の哲学的社会に対して、哲学的、ないしは

     神学的に論証することに努めた神学者。

     また、外部からの批判に対しては、反論を展開した神学者。

・殉教者ユスティノスの弟子

・ギリシャ哲学に対する批判を展開

・四福音書を統合した『ディアテッサロン』

・晩年、異端的なエンクラディス教団を創設


2 タティアノスの足跡と、思想や活動の特徴

・ギリシャで文学、哲学を学ぶ

・135年頃、ローマに移住

・若い時代はギリシャ哲学に傾倒

 後、キリスト教に改宗

・改宗後は、アンチ・ギリシャ哲学に変貌。護教家として論陣を張る。

・殉教者ユスティノスに師事

・ユスティノスの殉教後(165年頃)、ローマを去る

 ワレンティヌスのグノーシス的キリスト教に共鳴

・172年頃、東方でエンクラディス教団を創設

  エンクラディス教団=グノーシス的、禁欲主義的教団

・同教団は正統的キリスト教会側から異端的と見なされた。


3 著作

『ディアテッサロン』(シリア語): 四福音書の調和を企図して一つの叙述にまとめたもの。5世紀までシリアにおいて用いられた。


『ギリシア人への言葉』(ギリシア語):ギリシア文明を批判し、キリスト教がより伝統と純粋さを保持するとして護教論を展開。


2025年2月17日月曜日

【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス



ーーーーレジュメーーーー

【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス


・時系列順に、段階を追って見ていく。


 1  初期教会時代

・各々の文書が各地で形成以降、個別に各地に伝播・拡散

・徐々に、重要性の高い文書が固定し、広範囲で共有されるように

 =文書の中で「重要な書」という認識とその共有が生じ始める


 2  異端の発生、教義の形成、教義の源泉の確定

・異端の発生 →正統的教義の確定の必要 

 →教義の源泉である諸文書を確定する必要

 後にこの位置付けの文書の27書が正典化されて「新約聖書」文書に。


 1 グノーシス主義的キリスト教の台頭

   際限なき文書形成、独自教義の形成という脅威を受けて

 2 マルキオン(生没年不詳。後150年前後活動)の出現

   旧約聖書およびその影響を受けた新約聖書文書の排除

   (ルカ福音書と一部書簡のみを採用した)


→ムラトリ正典目録(ムラトリ断片とも、18世紀発見、推定成立2世紀後半) 

→オリゲネス(後185–253年)ーー重要文書の一覧の作成


 3  ローマにおけるキリスト教寛容令から公認以降

・なおも続く教理論争ーーアレイオス論争

 アレイオス vs アレクサンドリアのアタナシオス(296年–373年)

 ニカイア公会議(後325年)でアレイオス派に勝利したアタナシオス

 アタナシオス「復活祭書簡39」:新約聖書となる文書の一覧

・ ラオディキア会議(後363年)

 正統派による締め付けの強化 会衆の讃美歌詠唱禁止とか

 ほぼ後の新約文書27巻の一覧を挙げ、正典をこれに限定すると声明

・ カルタゴ会議(後397年)

 新約聖書正典27文書の確定。

・上記のプロセスにおいて、並び順が徐々に整理、固定していく


 4  新約文書の配列順序の確立

• 福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は早くからまとまりとして認識

 順序も徐々に固定化。マタイ=第一福音書

• 書簡は基本、パウロ書簡(文字量順)→その他の書簡という順序に

• ヨハネ黙示録  時系列的に終末を扱う点と、様式的にも特殊

 末尾へ。


2025年2月15日土曜日

【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年2月16日「偉い人は仕える者になりなさい」

 



ーーーー聖書テキストーーーー

マタイによる福音書 23章1-12節


1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。


4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。


8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。

9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。

10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。


11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。

12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。


ーーーー説教文字データーーーー
2025年2月16日 
「偉い人は、仕える者になりなさい」

 今日のイエス・キリストの物語の舞台は、エルサレム。タイミングは、十字架上で死を遂げられる1週間か何日か前といったところ。マタイによる福音書も終盤になりますけれども、ここ何回かは律法学者やファリサイ派といった人たちが現れて、イエスに議論を吹っかけてきました。それは、イエスを大衆の面前でやり込めて、人気を失墜させるか、陥れるために他なりません。
 律法学者やファリサイ派について、簡単に説明しておきますと、ユダヤ人の宗教は民族宗教であるユダヤ教です。モーセが神から授けられた、いわゆるモーセの十戒というものがありますけれども、この十戒を中核として、数多くの掟があります。これが「律法」になります。その律法を学び、教える人々が律法学者です。天台宗の最長も、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞も、彼らの著作を開きますと、まあやっていることは学者です。しかし、単なる学者ではなくて、彼らはれっきとした僧侶、すなわち宗教家、宗教指導者、教師であるわけです。律法学者も同様です。で、ファリサイ派というのは、そんな律法学者、律法の教師たちの中でも、最も権威ある一派でありました。
 今日の聖書個所の中でイエスは、そんな彼らについて、バリバリに嫌味がこもった評価の言葉を述べています。早速1節以下を読んでみましょう。

1それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
 「モーセの座」とあります。マタイ福音書のここだけに出てくる語でして、聞きなれない言葉でしょう。でも、今までお聞きになった過程で、なんとなく意味は察することはできると思います。先ほど、律法の源流って何だったかと述べまして、その通り、モーセがシナイ山の頂で神から授かったところの、十戒が刻まれた2枚の石板にあったわけです。ですから、モーセというのは、律法の権威、ひいてはユダヤ教を象徴するわけで、ということは「モーセの座」というのは、その権威を象徴すると共に、そこでユダヤ教の教師、これを今日でも「ラビ」と一般でも呼ばれて認知されておりますけれども、ラビがそこに座して講話をする座であったということです。
ちなみに、ただいま「ラビがそこに座して」と言いました。講義は立ってするものじゃないかい?と思われるでしょうが、ユダヤ教では、説法的なものは座ってするものです。ですから、イエスも船の上から岸辺の民衆に話された時、「船の上に座って」と福音書に書かれています。
 それで、イエスの彼らラビに対するコメントがこちら。
「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」
 よくよく考えると、こんな過酷なコメントは、他にそうそうないと思います。「言うことは守れ、でも行動はマネするな」という強烈な皮肉が込められたものです。これって現代社会ですと、会社をつぶす上司、役員にありがちといった感があります。また、こうやって叩かれる人をしばしば擁護しようとして、「いや、彼の言っていることは結構、的を射ているよ」などと出たりしますけれども、こことの関連で言えば、NG以外の何者でもありません。

これらの批判の言葉というのは、ファリサイ派や律法学者といった、単に特定のグループに対する批判ではなく、人間の一側面というものを如実に映し出している実例ということが肝要です。ですから、恥ずかしい他人の振る舞いとして、自分も余裕かまして構えていられないと。他人にも自分にも、いつでも起こり得るものとして受け止める必要があります。
 それで、ユダヤ教のラビたちの所業に対する酷評の言葉が、ズラズラと4節以下で続いていきます。

4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
 先ほど述べた、部下をつぶし、病院送りにし、最後に会社をつぶす上司のようです。続けて5節。

5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
 人に厳しく、自分に優しく、それでいて見栄っ張り。こういう方々は、先の会社役員もそうですけれども、立派なお仕事はされていますからね。そのために、「人間の屑」といった部類にはあまり入れられませんけれども、実態としてはそれ以外の何者でもないですし、そもそも誰もが、こういう側面は持ち合わせているわけです。でも、それが目に余るケースも多々ありますし、一定の高い立場に就いてしまうと、なまじその立場や仕事の高さから、誰からも相手にされないなんてことも少なくなりますし、あまつさえ、実態としては大概な人でも、そのシンパがいたりして、守られている状態になると。そうなると、もう手が付けられないと。
 現代社会には、こういうのはアルアルで、そこら中に溢れていますけれども、教会もまた、牧師含めて重鎮的な人まで、こういう人間社会構造にならないよう注意しないといけません。そういう意味でもって、8節以下は読んで解釈する必要があります。

8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
 文字通り解釈してしまいますと、この教会で「大石先生」と呼んでいるのはなんだ!ってことになってしまいますから。でも、大概の教会では「先生」という語を使っているわけです。一方、使うべきではないと主張する方もいて、私なんかも「さんづけでいいのと違う?」と思ったりしますけれども、そうすると、ふと思うのです。先生と呼ばれる側、特に牧師とか、長老もそうですし、社会におけるまとめ役のような役職、そういうある種責任が重い役職の人は、「先生」とか、あるいは別の名称で呼ばれる、その語でもって想起されるプレッシャーが嫌なのじゃないかって。仕事の辛さって人よりけりですけど、中には、仕事内容が大変というより、責任の重さ、役の重さが重くていや、という方、とっても多いです。それはそうですが、私は思うのです。先生とか、長老でもそうですが、長老と呼ばれるその重みは覚悟しないといけないと。
 それは重くて辛いこともしばしばであるが、私は思う。そこにこそ、神の恵み、神の祝福は豊かに注がれるし、そういう人を神は慈しんでくださるものです。
 「先生と呼ばれていい気になっている」といった誹謗中傷は多いですし、この聖書の文脈ではそうですが、我々の社会では、今述べたように、むしろ人と人とを取りまとめる、人間と接する面倒くさい役を、悩みながら担う人がいないと、社会とは人間関係って、もたないのですよね。
最後、結びの言葉は格言的な言い回しになっています。

11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
 「偉い人」と聞くと、この言葉って手垢がついたものなので、我々の方で勝手に、いわゆる偉い人〜というのをイメージしがちですが、一度それを払拭していただきまして。
 偉い人というのは、人に教え、人を導く立場にある人です。ですから、必ずしもいわゆる偉い人、というほどのものでもないことも多々あります。仮にそうだとしても、人を取りまとめる、人と人とを繋ぐ、そういう役、そういう営みというのは、「上からの押しつけ」では、いけません。むしろ「上から」ではなく逆に、「下から」人を支えて持ち上げる重労働、あるいは、人を慮る悩ましい重荷というものを、覚悟しなければなりません。
それが、人に「仕える」というものです。