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2025年6月6日金曜日

【キリスト教史解説】魔女狩り(魔女裁判)



ーーーレジュメーーー
キリスト教学B 3
2025年6月6日 G-201 5限(17:00-18:40)
第9回 魔女狩り(魔女裁判)
 魔女狩り(魔女裁判)とは:
 ・中世末期より近代においてヨーロッパ全域に広がった社会的シンドローム
 ・中世以前の魔術に関する民間伝承。魔術行為が背景にある。
 ・中世末期、魔術(呪術)行為を取り締まる過程で、魔術信仰を禁止する神学が形成。
 ・中世時代から宗教改革期の政情不安、近代へ移行する過程での社会不安。
 ・不安解消のスケープゴートを求める過程で興隆していく。

 1.古代時代における魔女(女性魔術師)関連の思想
 キリスト教世界における魔女関連の思想は、古代異教信仰、部分的な聖書の記述、キリスト教会が拡大した各地での土着信仰、民間信仰等、様々な要素を取り込みながら、中世から近世にかけて徐々に形成されていった。
 1.1.古代ギリシアにおける魔女の例
 ホメロス 『オデュッセイア』 、第10歌。オデュッセウスと魔女キルケとの出会い。魔法の薬を混ぜた食事を食べた者たちが豚へと変化していく。
 1.2.旧約聖書における記述
 旧約聖書において、「女呪術師」という言葉は見られるが、男性の呪術師の存在が前提とされたもので、異教信仰の影響を受けて魔術を行う男女が存在した。
「17女呪術師を生かしておいてはならない。18すべて獣と寝る者は必ず死刑に処せられる。」(出エジプト記22:17-18)
「26あなたたちは血を含んだ肉を食べてはならない。占いや呪術を行ってはならない。27もみあげをそり落としたり、ひげの両端をそってはならない。」(レビ記19:26-27) 魔術行為の禁止。男女双方に対して。
「霊媒を訪れたり、口寄せを尋ねたりして、汚れを受けてはならない。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記19:31) 口寄せ=霊媒
「10あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、11呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。12これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。」(申命記18:10-12)
*反社会的な呪術行為への警戒。特に「魔女」というわけではない。
 
 1.3.古代教会時代における魔術への批判
 アウグスティヌス『神の国』「招神術に関するポルフュリオス の見解に見られる矛盾」、第10巻、第9章。「悪魔を呼び出すような魔術的なものは人心をたぶらかすもので排斥されなければならない。」→悪魔召喚の禁止。

 2.古代から中世時代までの悪魔信仰の推移
 世界中のどの時代、どの民族にも、悪魔や悪魔憑きのような民間信仰が存在しており、これらが民衆の中で生き続けてきた。精神を病んだ者が悪魔憑き、悪霊憑きと見なされる時代であったし、人心の乱れや不安感が増大する中でスケープゴートが立てられ、人身御供とされる現象も生じていただろう。一方で、これらに関わることへの公的な警告もあった。
 『司教法令集(Canon Episcopi)』、 906 年。深夜に女たちが異教の女神と共に飛行し、集会へ赴くという民間信仰に対して、悪魔によって引き起こされた幻覚に過ぎないから誤りであるという見解を示している。
 11世紀に入ると、人々の宗教心の高まりと共に、魔術への関心も高まる。当局によって魔術は従前より処断すべきものであったが、一層その対応に迫られていった。同時に、急進的な異端的キリスト教グループがこの時代に発生していき(12世紀半ば以降のカタリ派、ワルド派等)、異端の摘発と悪魔信仰が結びつけられていった。
例 サン=ヴィクトルのフーゴー『ディダスカリコン』(1120年頃)、トマス・アクィナス『対異教徒大全』(1260年前後)→悪魔崇拝、魔術への批判。悪魔と人間との性交。
 教皇ヨハネス22世による教書『スペール・イリウス・スペキュラ』(1326年)。魔術の取り締まりを強化。ただし、この時代の取り締まりにおいて対象となっているのは、魔術研究を行い、魔術的儀式を執り行うことができる高等魔術師・呪術師であって、魔女のような最も下位の僕ではない。パリ大学神学部による魔術への糾弾(1398年)。
 この時代の魔術取り締まりに関する記述が、後世の魔女狩りを支持する人々により権威づけとして利用された。
 教皇エウゲニウス4世『異端審問官ポントス・フジェロンに宛てた書簡』(1434年)、『異端腐敗を取り締まるすべての異端審問官に宛てた手紙』(1437年)。悪魔崇拝者と他宗教の異端を部分的に同一視している可能性もあるが、その文面は、悪魔術を行う異端に対する憂慮する正義感溢れたもの。
 J. シュプレンガー 、 H. クレーマー『魔女への鉄槌』、1486年。ドイツで出版。悪魔と契約しこれに仕える魔女に関する体系的な理論書。また、逮捕から尋問、判決に至るまで、魔女裁判の詳細についても記されている。魔術ができないよう全裸にされ獄に繋ぎ、最初に自白の勧告、次に拷問へという処置について述べられている。
 ちなみに、ジャンヌ・ダルクの火刑は1431年。

 3.近世以降
 1517年の宗教改革以降、ヨーロッパ各地に戦乱が生じ、社会不安が増大する。他方、印刷技術の発明により悪魔学系魔術本が普及する(1580-1620年がピーク)。こうして、社会不安が「魔女」という形で新たな不安を生み出し、同時に、皮肉なことではあるが、社会的な不安と不満の解消手段として「魔女」というスケープゴートが立てられていく。この時期には、元々民間伝承に含まれていた魔術師や「魔女」に関する迷信が体系化され、それが事実として固定化され、社会状態の悪さは魔女の故であるとの社会通念が定着化していく。また、プロテスタントは、カトリックにおける迷信的要素を排除する傾向にあったが、悪魔に対する嫌悪は継承したため、これが魔女迫害に繋がっていった。

 この時代における著名な悪魔学者による魔女糾弾関連の書
ジャン・ボダン『魔女の悪魔狂』、1580年。
ニコラ・レミ『悪魔崇拝』、1595年。
アンリ・ボゲ『魔女論』、1602年。魔女術裁判における裁判官の訴訟手続き法。
ルドヴィコ・マリア・シニストラリ『悪魔姦、およびインクブストスクブス』、1700年頃。
 魔女に対する凶悪な訴追も過激化していく。密告の恐怖が、他者に罪をなすりつける相互不信を招き、スケープゴートとされる女性が急増し、その拷問、処刑の仕方も常軌を逸するものも少なくない。

4.18世紀の啓蒙時代
 18世紀以降、社会は啓蒙時代を向かえ、人権擁護、訴訟法整備も進み、また、迷信的なものからも解放されていき、魔女狩りは休息に収束していった。だが、魔女狩りと共通要素を持つような社会的シンドロームは現代においても発生する。例えば、1950年代アメリカにおける「赤狩り」「マッカーシイズム」等。

 コラム:いじめと、魔女狩りとの間の構造的共通性
女子が人気者の男子と語らい            ―不条理な事故、災害
→「なんであの子が?」(嫉妬・ネガティブ心理)  ―悪魔か魔女の仕業?
→「たぶらかしているのよ」(憶測)        ―あの人、魔女かも
→「そういえば前も別の男子と」(根拠ない関連付け)―そういえば夜に外出
→「へえ、そうなんだあ」(憶測の固定化)     ―サバト参加に違いない!
→「こらしめてあげなくちゃ」(疎外・弾圧)    ―自白させて罰しないと
→「LINEから抜いて、無視ね」(制度化)      ―疑わしきは拷問してよし
→「あの子も怪しいわ」(拡大)          ―他にも魔女はいるぞ
→「あたしも疑われたらまずい」(警戒、疑心)   ―疑われたらまずい
→「別の子がいじめられれば」(スケープゴート)  ―「別の人を魔女に」
→「ねえ、あの子怪しくない?」(意図的憶測)   ―「隣人の様子が」
→以降、無限ループ。

 注
  ホメロス:前8世紀後半。古代ギリシャ文学史の歴史を生んだ最大の詩人。二大叙事詩『イーリアス』『オデュッセイア』の作者とされる。文学、思想、美術等広範囲に影響を与えた。ホメロスの生涯、年代、業績については謎が多く諸説あるものの、今日では、紀元前7世紀の詩人アルキロコスとカリノスがホメロスに言及していること等から、紀元前8世紀後半に盛時を据えるのが一般的である。ホメロスの言語がイオニア方言を基調としていることから、この地方の出身と推測される。

  オデュッセイア Odyssey:『イリアス』と共にホメロスの代表作とされる英雄叙事詩。トロイヤ戦争終了後、帰国するイタカ王オデュッセウスの10年に渡る東地中海の漂流を物語る。留守中、貞操を守ってオデュッセウスの帰りを待ち続ける王妃に言い寄る男たちをことごとく打ち倒し、再び王位に就くという筋書き。

  ポルフュリオス:234-305頃。ギリシアの新プラトン派の哲学者。アテネでロンギノスに師事し、弁論術を学び、ローマでプロティノスから哲学を学ぶ。キリスト教徒に対して攻撃を加え、「キリスト教徒駁論」を著した(後に焚書とされ、断片のみ残存)。代表的著作:文献学的なホメロス研究書である『ホメロス問題』、他、『ピタゴラスの生涯』、『アリストテレス範疇論入門』、『禁欲について』。プロティノスの著作を編纂し、『エネアデス』を残した。

  ヤコプ・シュプレンガー:1436頃-95。ドイツのドミニコ会修道士で、異端審問官として魔女裁判に関わったことで知られている。ラインフェルデン出身。1477-88年、ケルンのドミニコ会副修道院長を務める。1481年、異端審問官に就任。1487年、異端審問の記録や手順、拷問方法を詳細に記した『魔女への鉄槌』を、ハインリヒ・クレーマーと共に執筆。この書は17世紀まで、魔女裁判のマニュアルとして読まれ続け、残虐な拷問方法等の拡大・浸透に多大な影響を与えた。





2025年6月5日木曜日

【キリスト教史解説】信条・信条の形成 ー使徒信条、原ニカイア信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条、カルケドン信条


信条・信条の形成 ー使徒信条、使徒信条、原ニカイア信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条、カルケドン信条


【要約】

信仰告白とも。元来は古代教会の洗礼式を座として形成。讃美頌栄的な言葉が特色。公会議にて信条をもって教理が制定された。使徒信条、原ニカイア信条(325)ニカイア・コンスタンティノポリス信条(ニカイア信条、381)、カルケドン信条(451)が著名。


本文

 信仰告白は元来、古代教会の洗礼式をSitz im Lebenとして形成、制定されたもので、讃美頌栄的な言葉をその特色としている。第一コリント15:3以下等、既に聖書の中に信仰告白的な伝承が存在しており、その多くは洗礼式と結合している。1世紀から2世紀にかけての使徒教父や、2世紀から3世紀の弁証家であるヒッポリュトス、テルトゥリアヌスらの文書中にも、信条の形成の萌芽を確認することが出来る。313年のミラノ勅令によるキリスト教公認以後、教会内部において幾つもの教理論争が生じ、そうした内部での混乱を収拾すべく開催された公会議において、信条が制定されていった。


 その最初の公会議と信条は、325年に開催されたニカイア公会議と原ニカエア信条である。御子を御父よりも劣る存在とし(異なった存在:ヘテロウシオス)、御子の被造性と、御子が存在しなかった原初の時があったとするアレイオス派の主張は、当時の教会全体を大きな混乱に陥れたが、本公会議において正統派の教理が認められ、御子と御父の同質性(ホモウシオス)を宣言する条項が盛り込まれた原ニカイア信条が採択された。またこの会議には、生涯アレイオス派との論争に従事したアタナシオスが、アレクサンドリア司教アレクサンドロスの司教秘書として列席している。


 ニカイア・コンスタンティノポリス信条

 いわゆる「ニカイア信条」と呼ばれるニカイア・コンスタンティノポリス信条は、一般には381年のコンスタンティノポリス公会議において成立したとされているが、実際にはそれ以前の年代である4世紀中葉から後半には原型が完成していたと推測される。4世紀のキリスト教会全体に混乱を生じさせたアレイオス論争を終結させるため、皇帝テオドシウス1世により招集された。本信条は、三一論定式が明確に定められ、御父と御子の同質性と本質、聖霊の発出に関する条項を内包する。なお、聖霊の発出に関するFilioqueの挿入については、これを認めない東方教会との間で長らく対立が生じたことで知られている。


 カルケドン信条

 451年のカルケドン公会議において制定されたカルケドン信条では、キリスト論に関する教理的問題の解決が図られた。キリストの神性と人性との関係が「混ざらず、変わらず、分かれず、離れず」という否定表現によって明記されている。その背景には、単性論主張者と、神性と人性の明確な区分を説いた(と見なされた)ネストリウスの主張を退ける目的があった。


【キリスト教史解説】第1ニカイア公会議・原ニカイア信条


ーーーレジュメーーー

【キリスト教史解説】第1ニカイア公会議 原ニカイア信条


 1 第1ニカイア公会議

 【要約】

325年ニカイアにて開催されたキリスト教会初の公会議。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世により招集。アレイオス派の従属的キリスト論を退け、父なる神と子なる神(キリスト)の同質性、子なる神の非被造物性を盛り込んだ原ニカイア信条を採択。


 【本文】

・小アジアのニカイア(現トルコ領イズニク)にて開催

・カトリックにおける第1回公会議

 公認後、最初の公会議

・ローマ皇帝コンスタンティヌス1世招集

・伝承によれば318名、現実にはおそらく250名ほどの司教が参加

・この会議には、生涯アレイオス派との論争に従事したアタナシオスが、アレクサンドリア司教アレクサンドロスの司教秘書として列席。


・アレイオス派の<御子の御父に対する従属説>が台頭

・御子と御父は対等だとするアタナシオス派が反論展開

・1「父と子のホモウーシオス」

 2「御子は被造物ではなく永遠の昔から存在」

 以上をパレスティナ洗礼信条に盛り込み、

 「原ニカイア信条」を採択

・アレイオス派の異端認定、追放が決議


・その他の決議事項

 復活祭日の算定基準

 20条の教会規定の取り決め

 ローマ司教と総大司教の管区分割および設定

 ローマ司教の他総大司教区に対する監督的役割


 2 原ニカイア信条

 まとめ

 ローマ皇帝コンスタンティヌス1世招集による公認後最初の公会議である第一ニカイア公会議(325年)で採択された信条。アレイオス派の御子・従属説を退けて、御子と御父との同質性(ホモウシオス)、非被造物性と「永遠の昔」からの存在が承認された。


ーーー解説テキストーーー

第1ニカイア公会議(325 CE)、原ニカイア信条


 第1ニカイア公会議

 【要約】

325年ニカイアにて開催されたキリスト教会初の公会議。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世により招集。アレイオス派の従属的キリスト論を退け、父と子の同質性、子の非被造物性を盛り込んだ原ニカイア信条を採択。


 【本文】

 小アジアのニカイア(現トルコ領イズニク)にて開催された公会議。キリスト教公認後最初の公会議でもある。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世招集。伝承によれば318名、実際には250名ほどの司教が参加。


 アレイオス派における御子の父に対する従属的理解を巡る論争を受けて、「父と子のホモウーシオス」「御子は被造物ではなく永遠の昔から存在」という主張をパレスティナ洗礼信条に盛り込んだ原ニカイア信条を採択。アレイオス派の追放が決議された。


 御子を御父よりも劣る存在とし(異なった存在:ヘテロウシオス)、御子の被造性と、御子が存在しなかった原初の時があったとするアレイオス派の主張は、当時の教会全体を大きな混乱に陥れた。本公会議において正統派の教理が認められ、御子と御父の同質性(ホモウシオス)を宣言する条項が盛り込まれた原ニカイア信条が採択された。またこの会議には、生涯アレイオス派との論争に従事したアタナシオスが、アレクサンドリア司教アレクサンドロスの司教秘書として列席している。


 他、復活祭日の算定基準、および20条の教会規定の取り決めが為され、ローマ司教と総大司教の管区分割および設定、ローマ司教の他総大司教区に対する監督的役割も決められた。



 原ニカイア信条 325年


 ローマ皇帝コンスタンティヌス1世招集による公認後最初の公会議である第一ニカイア公会議(325年)で採択された信条。アレイオス派の御子・従属説を退けて、御子と御父との同質性(ホモウシオス)、非被造物性と「永遠の昔」からの存在が承認された。


 原ニカイア信条の本文

 われらは信ず。唯一の神、全能の父、すべて見えるものと見えざるものとの創造者を。われらは信ず。唯一の主、イエス・キリストを。主は神の御子、御父よりただ独り生まれ、すなわち御父の本質より生まれ、神よりの神、光よりの光、真の神よりの真の神、造られずして生まれ、御父と同質なる御方を。その主によって万物、すなわち天にあるもの地にあるものは成れり。主はわれら人類のため、またわれらの救いのために降り、肉をとり、人となり、苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ねる者とを審くために来り給う。われらは信ず。聖霊を。


 御子が存在しなかったときがあったとか、御子は生まれる前には存在しなかったとか、存在しないものから造られたとか、他の実体または本質から造られたものであるとか、もしくは造られた者であるとか、神の御子は変化し異質になりうる者であると主張するものを、公同かつ使徒的な教会は呪うものである。



Πιστεύομεν εις ΄ενα Θεον Πατερα παντοκράτορα, πάντων ορατων τε και αοράτων ποιητήν.


Πιστεύομεν εισ ΄ενα κύριον `Ιησουν Χριστον, τον υ΄ιον του θεου, γεννηζέντα εκ του πατρος μονογενη, τουτέστιν εκ της ουσίας του πατρός, θεον εκ θεου αληθινου, γεννηθέντα, ου ποιηθέντα, ΄ομοούσιον τωι πατρί δι οϋ τα πάντα εγένετο, τα τε εν τωι ουρανωι και τα επι της γης τον δι ΄ημας τους ανθρώπους και δα την ΄ημετέραν σωτηρίαν κατελθόντα και σαρκωθέντα και ενανθρωπήσαντα, παθόντα, και αναστάντα τηι τριτηι ΄ημέραι, και ανελθοντα εις τους οθρανούς, και ερχόμενον κριναι ζωντασ και νεκρούς.


Και εις το ΄Αγιον Πνευμα.


Τους δε λέγοντας, ΄οτι ΄ην ποτε ΄ότε οθκ ΄ην, και πριν γεννηθηναι ουκ ΄ην, και ΄οτι εξ ΄ετερας ΄υποστάσεως η ουσιας φάσκοντας ειναι, [η κτιστόν,] τρεπτον η αλλοιωτον τον υ΄ιον του θεου, [τούτους] αναθεματίζει ΄η καθολικη [και αποστολικη] εκκλησία.


関連事項

 第2ニカイア公会議(787年)

2025年6月4日水曜日

【キリスト教史解説】リヨンのエイレナイオス ー正統主義、『異端駁論』

 

<関連動画>

【キリスト教史解説】ポリュカルポス(使徒教父)について

https://youtu.be/rsatoZ4oIPE


【キリスト教史解説】モンタヌス(モンタノス)とモンタニズムー霊的な熱狂的終末論者

https://youtu.be/SoC66n3YVLk


ーーーレジュメーーー

【キリスト教史解説】リヨンのエイレナイオス Irenaeus, ca. 130-ca. 202 CE


 1 要約

130年頃-202年頃。リヨンの司教。ポリュカルポスに師事。使徒権の継承、ローマ首位権など、正統主義神学を確立。グノーシス主義、モンタヌス主義を論駁。対グノーシスの書『異端駁論』。


 2 概要

*小アジアのスミルナ(スミュルナ)に生まれる。


*少年時代、使徒教父ポリュカルポスに接し、使徒ヨハネについてやヨハネが語ったイエスの話を聞かされたという(エウセビオス『教会史』、第5巻20章)。


*使徒ヨハネの弟子とされるポリュカルポスに師事。その後、リヨン(現在のフランス南東部)の司教に就任。


*1世紀後半以降の時代における異端との戦いで、正統主義神学を確立。使徒教父を重んじ、聖職における使徒権の継承と、ローマ首位権を主張した。

 ・ローマと対立的だったポリュカルポスとは異なる


*ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの統治時代、リヨンでキリスト教徒が迫害され、処刑された時期と重なったものの、たまたまエイレナイオスはこの時ローマに滞在していたため、難を免れた。


*最後は殉教したと言われているが、詳細は不明。


*エイレナイオスの正統主義は、異端に対する徹底した攻撃にも表されている。

 a グノーシス主義に対抗して、『異端駁論』を執筆

  (『異端反駁』『対異端駁論』)全5巻、 180年頃成立


・ワレンティヌスやバシレイデスなど、2世紀のグノーシス主義者に対して為された論争書

・正式名称:『不当にもグノーシスと呼ばれているものの罪状立証と反駁』


  b 熱狂的終末論や千年王国説を展開したモンタヌス主義とも対立


 3 イエスの公生涯に関するエイレナイオスによる議論

*グノーシス主義のプトレマイオス派によれば、イエスは30歳で公生涯を開始、12ヶ月後にユダの裏切りにより十字架刑に処せられたとされている。

*これに対しエイレナイオスは、イエスの30歳での宣教開始について否定しないが、活動期間を10年以上とする。すなわち、イエスは40代で亡くなったという仮説を本書の中で論じている。


参考箇所:Adversus Haereses, 2.22.5-6.   異端駁論の第2巻第22章5節から6節 英訳は以下のアドレスを参照。

http://www.newadvent.org/fathers/index.html


ーーーテキストーーー

リヨンのエイレナイオス Irenaeus, ca. 130-ca. 202 CE


 【要約】

130年頃-202年頃。リヨンの司教。ポリュカルポスに師事。使徒権の継承、ローマ首位権等、正統主義神学を確立。グノーシス主義、モンタヌス主義を論駁。対グノーシスの書『異端駁論』。


 【本文】

 小アジアのスミルナ(スミュルナ)に生まれる。


 少年時代、使徒教父ポリュカルポスに接し、ヨハネやヨハネが語るイエスの話を聞いたという(エウセビオス『教会史』、第5巻20章)。


 ヨハネの弟子とされるポリュカルポスに師事。その後、リヨンの司教となった。1世紀後半以降の時代における異端との戦いで、正統主義神学を確立。使徒教父を重んじ、聖職における使徒権の継承と、ローマ首位権を主張した。


 ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの統治時代、リヨンでキリスト教徒が迫害され、処刑された時期と重なるが、エイレナイオスはこの時ローマに滞在していたため、難を免れた。


 最後は殉教したと言われているが、詳細は不明。


 エイレナイオスの正統主義は、異端に対する徹底した攻撃にも表されており、グノーシス主義に対抗して、『異端駁論』を執筆した他、熱狂的終末論や千年王国説を展開したモンタヌス主義と対立した(対モンタヌス主義)。


 主要著作

『異端反駁』(『対異端駁論』)全5巻、 180年頃。ワレンティヌスやバシレイデスといった、2世紀におけるグノーシス主義者に対して為された論争書。正式名称:『不当にもグノーシスと呼ばれているものの罪状立証と反駁』。プトレマイオス派によれば、イエスは30歳で公生涯を開始、12ヶ月後にユダの裏切りにより十字架刑に処せられたとされている。エイレナイオスは30歳について否定しないが、活動期間を10年以上としている。


 その他

イエスの公生涯に関するエイレナイオスによる議論

Adversus Haereses, 2.22.5-6.   異端駁論の第2巻第22章5節から6節の引用です(英訳)。


5. They, however, that they may establish their false opinion regarding that which is written, to proclaim the acceptable year of the Lord, maintain that He preached for one year only, and then suffered in the twelfth month. [In speaking thus,] they are forgetful to their own disadvantage, destroying His whole work, and robbing Him of that age which is both more necessary and more honourable than any other; that more advanced age, I mean, during which also as a teacher He excelled all others. For how could He have had disciples, if He did not teach? And how could He have taught, unless He had reached the age of a Master? For when He came to be baptized, He had not yet completed His thirtieth year, but was beginning to be about thirty years of age (for thus Luke, who has mentioned His years, has expressed it: Now Jesus was, as it were, beginning to be thirty years old, Luke 3:23 when He came to receive baptism); and, [according to these men,] He preached only one year reckoning from His baptism. On completing His thirtieth year He suffered, being in fact still a young man, and who had by no means attained to advanced age. Now, that the first stage of early life embraces thirty years, and that this extends onwards to the fortieth year, every one will admit; but from the fortieth and fiftieth year a man begins to decline towards old age, which our Lord possessed while He still fulfilled the office of a Teacher, even as the Gospel and all the elders testify; those who were conversant in Asia with John, the disciple of the Lord, [affirming] that John conveyed to them that information. And he remained among them up to the times of Trajan. Some of them, moreover, saw not only John, but the other apostles also, and heard the very same account from them, and bear testimony as to the [validity of] the statement. Whom then should we rather believe? Whether such men as these, or Ptolemaus, who never saw the apostles, and who never even in his dreams attained to the slightest trace of an apostle?


6. But, besides this, those very Jews who then disputed with the Lord Jesus Christ have most clearly indicated the same thing. For when the Lord said to them, Your father Abraham rejoiced to see My day; and he saw it, and was glad, they answered Him, You are not yet fifty years old, and have You seen Abraham? John 8:56-57 Now, such language is fittingly applied to one who has already passed the age of forty, without having as yet reached his fiftieth year, yet is not far from this latter period. But to one who is only thirty years old it would unquestionably be said, You are not yet forty years old. For those who wished to convict Him of falsehood would certainly not extend the number of His years far beyond the age which they saw He had attained; but they mentioned a period near His real age, whether they had truly ascertained this out of the entry in the public register, or simply made a conjecture from what they observed that He was above forty years old, and that He certainly was not one of only thirty years of age. For it is altogether unreasonable to suppose that they were mistaken by twenty years, when they wished to prove Him younger than the times of Abraham. For what they saw, that they also expressed; and He whom they beheld was not a mere phantasm, but an actual being of flesh and blood. He did not then want much of being fifty years old; and, in accordance with that fact, they said to Him, You are not yet fifty years old, and have You seen Abraham? He did not therefore preach only for one year, nor did He suffer in the twelfth month of the year. For the period included between the thirtieth and the fiftieth year can never be regarded as one year, unless indeed, among their Aons, there be so long years assigned to those who sit in their ranks with Bythus in the Pleroma; of which beings Homer the poet, too, has spoken, doubtless being inspired by the Mother of their [system of] error:?

http://www.newadvent.org/fathers/index.html

2025年5月29日木曜日

【キリスト教史(教会史)関連】

【解説動画】

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【キリスト教史解説】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス


ーー初期キリスト教時代ーー

コイネー・ギリシャ語                

前21頃-後39年 ヘロデ・アンティパス        

後30-101年 ローマのクレメンス    



ー古代教会時代ーー

【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス(動画)

(古代教会における聖書)「正典」の確定        信条の形成        シモニア(聖職売買)

70/82-156/168年 ポリュカルポス        2世紀初期 エビオン派 エビオン派福音書

100頃-163/167年 ユスティノス

120-173年 タティアノス(タチアノス)(動画)

?-170 霊的な熱狂的終末論者モンタヌス(モンタノス)とモンタニズム(動画)

2世紀頃 ヒエラポリスのパピアス

?-258 ラウレンティウス        

2世紀中葉 モンタヌス・モンタヌス主義        Montanism / Montanus

2世紀中葉 マルキオン

160頃-220年以降 テルトゥリアヌス        130頃-202年頃 リヨンのエイレナイオス

200頃-258年 キプリアヌス        293頃-373年 アタナシオス

240頃-320頃 ラクタンティウス        

3世紀前半から中葉 モナルキアニズム

3世紀後半-4世紀 ミュラのニコラウス

312-14年 ドナティスト論争(ドナトゥス派)

325年 第1ニカイア公会議/原ニカイア信条

カパドキアの神学者たち(翻訳、ヤング『ニケアからカルケドンへ』)

330頃-379 バシレイオス        342頃-420年 ヒエロニムス

381年 第1コンスタンティにポリス公会議/ニカイア信条


ーー中世時代ーー

テーマ的項目

【キリスト教】異端審問 ーーその歴史的経緯


675年頃-749年頃 ダマスコのヨアンネス        

1265年頃-1308年 ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

11世紀-15世紀中葉 十字軍        


ーー宗教改革時代ーー

15世紀  人文主義        

1482-1531年 エコランパディウス        

1483-1546年 マルティン・ルター    

1491-1551年 マルティン・ブツァー        

1500年代前半以降 再洗礼派        

1504-1575年 ヨハン・ハインリヒ・ブリンガー        

1509-64年 カルヴァン        

1511-53年 セルヴェトゥス        

1515-63年 カステリヨン        

1524-25年 ドイツ農民戦争        

1534年- アングリカンチャーチ(英国国教会)                

1545年- 対抗宗教改革        1555年 アウクスブルク宗教和議        

16世紀 改革派教会        Reformed Church        

1618-48年 三十年戦争        

1618-9 ドルトレヒト会議

1635-1705年 シュペーナー        

1705年- ソッツィーニ主義        Sozzinism        

1836- ディアコニッセ        

2025年5月24日土曜日

使徒教父 ー使徒の教えを継承する者、クレメンス、イグナティオス、ポリュカルポス、パピアスなど

 

ーーーレジュメーーー

【キリスト教史】使徒教父 Apostolic Fathers, ca. 90-ca. 140 CE

 

1 概要

・年代は90年頃から140年。

・狭義 使徒たちの指導を受けた教父。

 広義 使徒から指導は受けていないが、意志を継承した教父。

・使徒教父によって執筆された一連の文書=「使徒教父文書」


2 定義、年代など

・伝統的には、使徒たちの教えを受けた教父たちだが……

・今日では、使徒たちと直接的な関係はないが、彼らの意志を継承した教父を表す。

・時代としては、1世紀後半から2世紀中葉の教父の活動期

・「使徒教父」という呼称:

 フランス人コトリエ J. B. Cotelier の17世紀の著書の表題に由来。

・使徒教父によって執筆されたとされる文書=「使徒教父文書」

 成立年代:第一クレメンスの90年代

       ?ヘルマスの牧者の150年代


・新約聖書文書の後期の書、推定成立年代順では、

 使徒言行録、第一ペトロ、ヨハネ福音書、ヨハネの手紙、

 ヨハネの黙示録、ヤコブの手紙、第一テモテ、第二テモテ、

 テトスへの手紙、第二ペトロ(150年頃)などの成立期と重なる

 →上記の文書の成立事情を分析する上で、使徒教父文書は重要


 3 代表的な使徒教父

・ローマのクレメンス

・アンティオキアのイグナティオス

・スミルナのポリュカルポス

・ヒエラポリスのパピアス

・『ヘルマスの牧者』の著者

・『バルナバの手紙』の著者

・『十二使徒の教訓』の著者


 4 使徒教父文書 

『バルナバの手紙』1世紀前半

『クレメンスの第1の手紙』96年頃

『クレメンスの第2の手紙』2世紀中葉

『ヘルマスの牧者』2世紀前半

『イグナティオスの手紙』2世紀初頭

『ポリュカルポスの手紙』イグナティオスの死の直後。110年前後

『ポリュカルポスの殉教』(19世紀以降に加えられた書)

『パピアスの断片』100-130年頃

『コドゥラトゥスの断片』117-124年頃

『ディオグネートスへの手紙』2世紀後半

『十二使徒の教訓』(『ディダケー』19世紀末に発見。1世紀末から2世紀初頭。ただし、教会的慣習に触れるパートについてはさらに昔に遡る可能性)


5 使徒教父文書について備考的事項

・『ディダケー』『バルナバの手紙』『第一クレメンス』『第二クレメンス』など = 新約聖書文書と同等の権威を持っていたが、

 ・『ディダケー』以外は執筆者が使徒性を主張していない

 ・内容的に正典文書の補足的なものである

 結果:新約聖書正典には組み入れられなかった。


・本来は護教文学に属する 『ディオグネートスへの手紙』

 11:1で「使徒たちの弟子」と自称している

 →使徒教父文書に組み入れられた。


6 思想、時代背景

・使徒教父たちの時代背景と直面していた課題

 =ローマ帝国による迫害

  異端との闘いである。


7 特徴ー殉教への崇敬

・ 『第一クレメンス』、『イグナティオスの手紙』、

  『ポリュカルポスの殉教』、『ヘルマスの牧者』

  =帝国による迫害、背教者の出現について言及。

・殉教の死がキリスト者の最高の栄誉であると主張。

・ただし、ローマ皇帝や帝国への批判や否定等は見られない。


8 特徴ー異端に対して

・イグナティオス、ポリュカルポス

 主な論敵はドケティズム信奉者

【キリスト教史解説】古代教会時代の修道院運動

 

<関連動画>

【キリスト教史解説】モンタヌス(モンタノス)とモンタニズムー霊的な熱狂的終末論者

https://youtu.be/SoC66n3YVLk


ーーーレジュメーーー

【キリスト教史解説】古代教会時代の修道院運動


・古代、中世、近世の三つの時代区分にわけられる


 【要約】

当時、終末観の希薄化、改宗者増大などにより、教会は世俗化。その反動で禁欲主義が興る。 個住修道制を実践したアントニオスと、共住修道制を実践したパコミウスが起源。共住修道制は大バシレイオスにより発展。ヌルシアのベネディクトゥスはヨーロッパ修道制の祖。


 1  古代末期から初期中世にかけての修道院運動

・時代的要因

 a 終末到来の遅延

    世の終わりは当分来ないという弛緩

    世俗化

   

 b 禁欲生活、熱狂的終末論者のモンタヌス主義の禁止

     モンタヌス(-170年)

    →禁欲の禁止が、世俗化に影響


 c キリスト教への改宗者が増えた

    世俗度が高い人が増える

    →紀元200年以降、世俗化が進む


  →その反動で、清い生活、禁欲生活のニーズが高まる

  →自発的清貧と独身を柱とした禁欲主義


 2 古代時代の修道制の二つの起源

 個住修道制のアントニオスと、共住修道制のパコミウス


・3世紀末、アントニオスが個住修道制を実践

 特にエジプトの砂漠や荒れ野で、単身の禁欲生活


・その後パコミウスが、個住から共同生活への転換を図る

 315年から320年、南エジプトに最初の修道院を設立


・二つの形態の修道院制度は、それぞれ並行して展開

 エジプト、アフリカ、小アジアにおいて


 3 共住修道制を発展させた大バシレイオス

・4世紀中頃から後半にかけて

・大バシレイオス、修道院制度の整備に尽力

・修道生活を説いた『大会則』と『小会則』を執筆

・彼の共住修道制は、現在もギリシアとスラヴの修道院形態に継承


 4 西方の修道制の改革者ヌルシアのベネディクトゥス

・ヨーロッパ修道制の開祖

・ヌルシア、紀元500年に個住修道生活を開始

・弟子たちのために付近に12の修道院を建てて、指導に当たる

・529年、モンテ・カッシノ修道院に移る。

・晩年、唯一の著作である『ベネディクトゥス会則』執筆

・東方的修道制の伝統と、西方独自の潮流のハイブリッド

・過度に厳格な修道生活を避け、中庸の精神を保持

・修道士の労働を重視 物心両面での自律性の確立


2025年5月22日木曜日

新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス

 


ーーーレジュメーーー

【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並ひ゛順の形成フ゜ロセス


・時系列順に、段階を追って見ていく。


 1  初期教会時代

・各々の文書が各地で形成以降、個別に各地に伝播・拡散

・徐々に、重要性の高い文書が固定し、広範囲で共有されるように

 =文書の中で「重要な書」という認識とその共有が生じ始める


 2  異端の発生、教義の形成、教義の源泉の確定

・異端の発生 →正統的教義の確定の必要 

 →教義の源泉である諸文書を確定する必要

 後にこの位置付けの文書の27書が正典化されて「新約聖書」文書に。


 1 グノーシス主義的キリスト教の台頭

   際限なき文書形成、独自教義の形成という脅威を受けて

 2 マルキオン(生没年不詳。後150年前後活動)の出現

   旧約聖書およびその影響を受けた新約聖書文書の排除

   (ルカ福音書と一部書簡のみを採用した)


→ムラトリ正典目録(ムラトリ断片とも、18世紀発見、推定成立2世紀後半) 

→オリゲネス(後185?253年)ーー重要文書の一覧の作成


 3  ローマにおけるキリスト教寛容令から公認以降

・なおも続く教理論争ーーアレイオス論争

 アレイオス vs アレクサンドリアのアタナシオス(296年?373年)

 ニカイア公会議(後325年)でアレイオス派に勝利したアタナシオス

 アタナシオス「復活祭書簡39」:新約聖書となる文書の一覧

・ ラオディキア会議(後363年)

 正統派による締め付けの強化 会衆の讃美歌詠唱禁止とか

 ほぼ後の新約文書27巻の一覧を挙げ、正典をこれに限定すると声明

・ カルタゴ会議(後397年)

 新約聖書正典27文書の確定。

・上記のプロセスにおいて、並び順が徐々に整理、固定していく


 4  新約文書の配列順序の確立

? 福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は早くからまとまりとして認識

 順序も徐々に固定化。マタイ=第一福音書

? 書簡は基本、パウロ書簡(文字量順)→その他の書簡という順序に

? ヨハネ黙示録  時系列的に終末を扱う点と、様式的にも特殊

 末尾へ。


【キリスト教史解説】ヒエラポリスのパピアス

 

<関連動画>

【キリスト教史解説】モンタヌス(モンタノス)とモンタニズムー霊的な熱狂的終末論者

https://youtu.be/SoC66n3YVLk


【キリスト教史解説】ポリュカルポス(使徒教父)について

https://youtu.be/rsatoZ4oIPE


ーーーレジュメーーー

【キリスト教史解説】ヒエラポリスのパピアス


==1  プロフィール==

・活動時期:2世紀頃

・ギリシア教父(活動領域:東ローマ帝国、言語:ギリシア語)

・教会史家エウセビオス(260/65-339)によれば、

 ・ヒエラポリス司教  ヒエラポリス(小アジアにあった都市)

 ・リヨンのエイレナイオス(130頃-200頃)、ポリュカルポス

  (69頃-155/56)と活動時期が重なる。

・リヨンのエイレナイオスによれば、

 ・パピアスは使徒ヨハネの弟子

 ・ポリュカルポスとも親交を持っていた。

・フリギア出身  (古代アナトリア、現在のトルコ周辺)

・著作については、オリジナルは現存せず

 エウセビオスによって断片的に伝えられるのみ


==2  モンタヌス主義的傾向==

エウセビオスによって引用された断片的記述、彼の評価から再構成されるパピアスの思想

・歴史性の強調→反グノーシス主義

・モンタヌス主義的な千年王国説への傾倒


==3 著書==

『主の言葉の注釈(報告)』全5巻

 ・使徒たちが長老に語り伝えたイエスの言葉と業の伝承。

 ・福音書には含まれないイエスの言葉を含む。

 ・原本は失われ、エウセビオスによってその断片が二次的に報告

 ・成立年代:130年から160年を想定する説が多い。


→原本が失われた理由は?

 先のモンタヌス主義。異端的と見なされた?

2025年5月21日水曜日

【キリスト教史解説】ドナティスト論争

 

ーーーレジュメーーー

【キリスト教史】ドナティスト論争(後312-314 年)


 要約 

 カルタゴ司教としてカエキリアヌスを叙任したフェリクスが背教行為を犯していたことが判明し、フェリクスが行った叙任の有効性を巡って起こった論争。


 1 背景

・ディオクレティアヌス帝による迫害(後303-313年)

・棄教者が多数発生 →やがて迫害は鎮静化

 →棄教者「裏切り者(トラディトール)」の復帰をどう扱う?


 2 経緯

・カルタゴの司教としてカエキリアヌスが選出

・このカエキリアヌスをフェリクスが叙任

・その後、フェリクスにディオクレティアヌス帝時代の背信が発覚

・ヌミディアの司教や司祭ら70人がフェリクスの"叙任の無効性"を主張 →対抗司教としてマヨリヌスを擁立

・312年、マヨリヌスの後継としてドナトゥスを選出

 ←名称の由来

・民衆を巻き込んでの暴動に発展

・314年、コンスタンティヌス帝、教会会議を招集。

 聖職叙任の有効性を決議。その後、事態は沈静化。

・ドナトゥス派はその後、7世紀まで北アフリカに存続。


 3 ポイント

・サクラメント(秘跡)の有効性

 正当な教会の手続きによって執行された業は、執行者の倫理性で無効にならず

 →教会の普遍性は、個人の性質に勝る


ーーー解説テキストーーー

ドナティスト (ドナトゥス派) ドナティスト論争 312-314 CE


 【要約】

カルタゴ司教にカエキリアヌスを叙任したフェリクスが背教行為を犯していたことが判明し、叙任の有効性を巡って起こった論争。70人の反対者が対抗司教マヨリヌス、次いでドナトゥスを擁立。314年の教会会議で有効性承認。


 [Summary]

The Donatist Donatist Controversy 312-314

Controversy over the validity of the ordination of Felix Caechilianus as bishop of Carthage after he was found to have committed apostasy. 70 opponents supported a rival bishop, Mayolinus, followed by Donatus. The validity approved by the Church Council in 314 CE.


 【本文】

 カルタゴの司教としてカエキリアヌスが選ばれた際、彼を叙任したフェリクスは、ディオクレティアヌス帝の迫害時に背信行為を犯していたとして、ヌミディアの司教や司祭ら70人がフェリクスによる"叙任の無効性"を唱え、対抗司教としてマヨリヌスを立てた(311-312年)。312年、マヨリヌスの後継としてドナトゥスが選ばれる。彼はドナトゥス派の名称の由来となった。同派は、非定住民のキルクムケリオネスと呼ばれる修道士や農民を抱き込んで、暴動による混乱は波及していった。同派の特徴である殉教讃美、熱狂主義的終末思想は、モンタヌス派と共通するところが多い。


 コンスタンティヌス1世は暴動の鎮圧を試み、314年に教会会議を招集。この会議において、叙任者の人格如何に関わらず、聖職叙任は有効であるとの決議が為され、カエキリアヌスの叙任の有効性が確認された。


 その後、ドナトゥス派に弾圧が加えられたがさしたる効果はなく、7世紀に至るまで北アフリカに存在し続けた。なお、アウグスティヌスが同派と論争し、彼はサクラメントの有効性を教会法的に論証し、千年王国説を退け、カトリック教会の公同性と普遍性を主張した。


2025年3月19日水曜日

【キリスト教史】「聖遺物、聖遺物崇敬について

 

 レジュメ

【キリスト教】「聖人の遺体をゲットだぜ!」ー聖遺物、聖遺物崇敬について

1 聖遺物とは
・聖人の遺体、もしくは遺体の一部(髪の毛、血液、部位)
 聖人の遺物や触れたもの(衣服、所持品)
・これらを崇敬する行為や精神性
 (キリスト教では神以外のものは崇拝しないので、崇敬)
・元々、使徒や聖人とされた者を崇敬する習慣あり。

2 聖遺物崇敬の発生からその後の展開
2-1 古代時代 聖遺物崇敬ブームの始まり
・4世紀頃、聖人の遺骨がコンスタンティノポリスに移転。
 聖人の遺物や遺骨に注目が集まる。

・その後、聖遺物の捜索、発見、収集、巡礼が盛んになる。
・聖マルティヌス(サン・マルタン)の逝去時(397年)、
 付近の住民が集まり、遺体の所有権で議論になる。

・パターンとして、奇跡を伴う発見エピソードを伴う。
 中世時代には奇跡逸話集 「聖ジブリアン奇跡録」(12世紀) 
・その後、聖遺物が安置された教会や修道院には、巡礼者

2-2 中世時代 聖遺物崇敬の半ば暴走状態
・聖遺物崇敬は西方教会では流行した一方、
 東方ではむしろ聖画像が崇敬された。イコノクラスム期を除く

・調達や輸送斡旋のエキスパートの出現
 例、9世紀、ローマと西欧を仲介したデウスドーナ

・聖人以外の遺物も現れる。
 例 南イタリアのモンテガルガノ、大天使ミカエルの紅の外套

・数々の聖遺物の出現
 ・受胎告知時のマリアの服(ノートルダム大聖堂)
 ・受難時にキリストの汗を聖女ベロニカが拭い、後に顔が浮き
  出た、「聖顔布」(スダリウム)。
  教皇代理アデマール・デュ・ピュイによって発見。
 ・聖杯伝説 最後の晩餐時に使用され、十字架のキリストの
  血を受けたとされる杯

・聖人級の偉人は、生前から体を狙われる
 例 トマス・アクイナス 近隣はおろか遠隔地からも人が殺到
   死後、厳重な管理体制下で分骨された

・中世中期にはブームが高じ、贋作や偽情報が横行
・真贋性の見極め、聖遺物の認証の問題、認証権限の所在
 司教の権限→第4ラテラノ公会議(1215)以降、教皇のみの権限
・「移葬記」:聖遺物の真正を主張するために入手経路を記録書

2-3 その他の備考項目と、中世時代以降
・聖遺物は、聖遺物匣に納めて安置する
・聖遺物の売買禁止だが、どこまで遵守されたかは不明。
・全聖遺物の祝日は、11月5日。
・宗教改革以降のプロテスタントの多くは、聖遺物を認めず


2025年3月12日水曜日

【キリスト教史】ユグノー戦争(1562 98年)ー宗教戦争の仮面を被った貴族間政治闘争

 


ユグノー戦争 1562-98年


 【要約】

フランスにおけるカトリック側とプロテスタント側の宗教戦争という仮面を被った貴族間政治闘争。王権打倒を画策するプロテスタント勢力、異端撲滅を掲げたカトリック勢力、宗教的寛容と国内統一を標榜する中間派(ポリティーク派)の三つ巴。


 【本文】

 フランスを舞台にしての、カトリック側とプロテスタント側の貴族間抗争ではあるが、そこには政治的思惑が複雑に入り込んでおり、宗教戦争という仮面を被った政治闘争というのが実体に近い。日本では、「ユグノー戦争」と一般に呼称されているが、ヨーロッパ歴史学においては「宗教戦争 guerres de Religion(フランス語)」、「Religious Wars(英語)」と呼ぶのが通例である。ドイツの三十年戦争と並置される、フランスにおける宗教改革を巡っての代表的戦争。


 ユグノー

 ユグノーとは、宗教改革期からフランス革命までのフランスにおけるカルヴァン派信徒を指す。「ユグノー」という名称は、「誓約仲間」を意味するドイツ語のEidgenosse のジュネーブなまりである eyguenot に由来するという説がある。


 経緯

 1547年のアンリ2世即位後、プロテスタント弾圧政策が加速する一方で、カルヴァン派が広く浸透していく。


 1559年、幼王フランソワ2世が即位し、ギーズ家が事実上政権を掌握する。ギーズ家はカトリック側に接近すると共に、これに対抗するブルボン家、コリニー提督等はプロテスタントに接近し、宗教対立は政治的対立へと構造変化していく。


 1560年、プロテスタント側による国王奪還作戦、「アンボワーズの陰謀」失敗。


 1562年、ギーズ公側によるプロテスタント信者殺害、「バッシーの虐殺」以後、8次に及ぶ両勢力の衝突というユグノー戦争が開始される。


 1572年、摂政母后カトリーヌ・ド・メディシスとギーズ公による「サン・バルテルミの虐殺」。コリニー提督らが殺害された。


 以降、王権打倒を画策するプロテスタント勢力、異端撲滅を掲げたカトリック勢力、宗教的寛容と国内統一を標榜する中間派(ポリティーク派)、これら三つ巴の戦いへ。この渦中に、外国勢力が介入し、カトリック勢力をスペインが支持、プロテスタント勢力をイングランドがバックアップする。


 1589年、アンリ3世が暗殺され、バロア朝断絶。プロテスタント国王アンリ4世即位。


 1593年、アンリ4世のカトリックに改宗。ポリティーク派の支持を獲得し、国内統一を回復。


 1598年、アンリ4世、「ナントの勅令」を発布。ここにユグノー戦争は終結する。カトリックとプロテスタントの和解が実現し、ナントの勅令はそれまで試みられた宗教寛容令の集大成となった。


 しかし、ナントの勅令はルイ14世の時代に効力を失い始め、1685年、全面的廃棄された。これに伴い、多数のプロテスタントが亡命した。



2025年3月10日月曜日

【キリスト教史解説】モナルキアニズムー養子説と様態説ー三位一体の否定、キリストの神性否定




 名称の語源モナルケスが「単独支配」を意味するように、三位一体論において、「父」「子」「聖霊」という位格の区別を無視し、位格の単一性を過度に強調する異端的教義を表す。

 以下の養子説(Adoptionism)と様態説(Modalism)の2種で展開された。


 1 養子説(Adoptionism)

 養子説は、主としてアンティオキア主教サモサタのパウロによって提唱され、アンティオキア学派によって継承された。

 元は人間であったイエスが、十字架と復活を経て御子とされたとする説で、キリストの完全な神性の否定に繋がるとして、正統派から退けられた。


 2 様態説(Modalism)

 様態説は、主としてプラクセアス(2世紀末〜3世紀初頭、小アジア出身)によって説かれ、サベリウス(?-260年頃)によっても展開された。

 「父」「子」「聖霊」は、神の様態(モード)の現れに過ぎないとする。「子」は「父」が受肉したものとする説で、キリストの神性否定と三位の独自性の解消に繋がるとして、正統派から拒絶された。

 この説はテルトゥリアヌス(『プラクセアス駁論』)によって天父受苦説(patripassianism)と呼ばれて論駁された。その後、様態説はスミルナのノエトゥスの一派により継承された。

【キリスト教史】テルトゥリアヌスー最初の西方ラテン教父、三位一体論の祖

テルトゥリアヌス Quintus Septimius Florens Tertullianus ca. 160 ‐ after 220 CE



【要約】

西方教会最初の(ラテン)教父、護教家。マルキオン、グノーシス主義に対する論駁書を著す。ペルソナ概念、史上最初となる三位一体論的表現は後の正統神学に影響。教会の職制の権威を主張し、初期カトリシズム的な職制論の基礎に。


【本文】

 西方教会最初の教父にして護教家(ラテン教父)。北アフリカのカルタゴ出身。修辞学と法律を学び、ローマで法律家となる。ca. 195 CEに回心し、カルタゴに帰国。マルキオン、プラクセアス、グノーシス主義等の異教的思想に対抗して論陣を張り、対異教的な著作を著した。後に、キリスト者として厳格な生活の在り方を求め、終末思想と禁欲主義的生活を志向するモンタヌス主義に傾倒したが、そこからも離反したと推測されている。


 思想

 ギリシャ哲学を「異端の父」としつつも、ギリシャ哲学的霊魂観やストア学派的な思考の影響を受けており、例えばこれにより肉体と霊の二元論的な彼の人間論が構築されている。しかし、基本的にテルトゥリアヌスは正典的文書(聖書)を基盤としつつ、そこから三位一体論やキリスト論、救済史を展開し、その過程で生まれたペルソナ概念、経綸の思考は後の正統哲学に摂取されるところとなった。


 また、史上初めての三位一体論の萌芽が現れていると言われている『プラクセアス反駁』において、父が子となったというような単神論的思想に対してテルトゥリアヌスは反論を試みており、その中で「三位一体」や「位格」「実体」等のテクニカルタームを彼は使用している。これが、後の三位一体論的用語の始まりとなった。


 テルトゥリアヌスはまた、初代教会における霊的権威を継承しつつ同時にこれに代わるものとしての職制の権威を主張し、これは後の初期カトリシズム的な職制論の基礎となり、西方教会的な教会論の基礎をもたらした。また、元法律家としての知識を生かし、救済論を法律的な観点から組織的に論じた。

 なお、『キリストの肉について』における「キリストは肉となった。これは愚かであるが故に信じ得る。」という言葉は、credo, quia absurdum est「不合理なるが故に我信ず」の典拠とされる。


 補足

 テルトゥリアヌスは、受難者イエス・キリストが異教世界のプロメテウスにおいて予示されていると述べている。


 主要著作

『護教論』 カルタゴで執筆。言語はラテン語。

『プラクセアス反駁』

『マルキオン反駁』

2025年2月21日金曜日

【キリスト教史解説】モンタヌス(モンタノス)とモンタニズムー霊的な熱狂的終末論者

 


ーーーーレジュメーーーー

【キリスト教史】霊的な熱狂的終末論者モンタヌス(モンタノス)とモンタニズム


 1 要約

・モンタヌスにより2世紀中葉から後半にかけて興隆した、

 キリスト教の熱狂的分派による終末論的運動。

・小アジアのフリギア(フリュギア、現・トルコ西部)で霊的預言活動を展開

 正統教会側より禁じられたため北アフリカに移住。

 以後、ローマ、ガリアまで伝播。

・これにより、正統教会側は終末思想を警戒するようになり、

 距離を置くようになった。


 2 モンタニズム(モンタヌス主義)

 ・モンタヌス(Montanus, ?‐c. 170 CE)を始祖とする熱狂的・霊的終末論的運動

 ・2世紀中葉から後半。


 3 モンタヌス

 ・アポロンもしくはキュベレの神官であったと推測

  生い立ちその他の詳細は不明

 ・152/157年頃、小アジアのフリギアにて、預言活動を開始。

  女性預言者プリスキラとマクシミラを伴って

  トランス状態での預言が特徴。

  千年王国の到来の告知。「天のエルサレム」が到来すると。

   =終末思想的:キリストの再臨と千年統治

 ・厳格な禁欲生活の実践を説く。


 4 モンタヌス主義運動の展開の推移

・一時、小アジア全体に拡大

・しかし、小アジアの(正統的)教会がこれを禁止

 モンタヌスは北アフリカに拠点を移す

・テルトゥリアヌスが207年頃にモンタヌス主義運動に一時参加

・同運動はドナトゥス派にも影響。ローマ、ガリアまで伝播

・ローマ司教ゼフィリヌス(在位199‐217)、カリストゥス1世(在位217‐222)

 同運動を異端とみなして弾圧政策を取る。

  理由:1 聖書における神の啓示からの逸脱。←霊的トランス状態の普遍化

     2 職制、聖職者の権威の否定

 

 325年のニカイア公会議以降、正統的なニカイア派による弾圧

・これにより4世紀以降、同運動は収束

・最終的には8世紀まで存続


重要:同運動を契機に、正統教会側は終末思想を警戒するようになり、

   距離を置くようになった  →正統教会側の安定に寄与


2025年2月19日水曜日

タティアノス(タチアノス)ーシリアの護教家、ディアテッサロン、ユスティノスの弟子

 




ーーーーレジュメーーーー

【キリスト教史】タティアノス(タチアノス)120‐173年


1 ざっくり要約

・シリアの「護教家」

 護教家=キリスト教の正当性を、当時の哲学的社会に対して、哲学的、ないしは

     神学的に論証することに努めた神学者。

     また、外部からの批判に対しては、反論を展開した神学者。

・殉教者ユスティノスの弟子

・ギリシャ哲学に対する批判を展開

・四福音書を統合した『ディアテッサロン』

・晩年、異端的なエンクラディス教団を創設


2 タティアノスの足跡と、思想や活動の特徴

・ギリシャで文学、哲学を学ぶ

・135年頃、ローマに移住

・若い時代はギリシャ哲学に傾倒

 後、キリスト教に改宗

・改宗後は、アンチ・ギリシャ哲学に変貌。護教家として論陣を張る。

・殉教者ユスティノスに師事

・ユスティノスの殉教後(165年頃)、ローマを去る

 ワレンティヌスのグノーシス的キリスト教に共鳴

・172年頃、東方でエンクラディス教団を創設

  エンクラディス教団=グノーシス的、禁欲主義的教団

・同教団は正統的キリスト教会側から異端的と見なされた。


3 著作

『ディアテッサロン』(シリア語): 四福音書の調和を企図して一つの叙述にまとめたもの。5世紀までシリアにおいて用いられた。


『ギリシア人への言葉』(ギリシア語):ギリシア文明を批判し、キリスト教がより伝統と純粋さを保持するとして護教論を展開。


2025年2月17日月曜日

【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス



ーーーーレジュメーーーー

【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス


・時系列順に、段階を追って見ていく。


 1  初期教会時代

・各々の文書が各地で形成以降、個別に各地に伝播・拡散

・徐々に、重要性の高い文書が固定し、広範囲で共有されるように

 =文書の中で「重要な書」という認識とその共有が生じ始める


 2  異端の発生、教義の形成、教義の源泉の確定

・異端の発生 →正統的教義の確定の必要 

 →教義の源泉である諸文書を確定する必要

 後にこの位置付けの文書の27書が正典化されて「新約聖書」文書に。


 1 グノーシス主義的キリスト教の台頭

   際限なき文書形成、独自教義の形成という脅威を受けて

 2 マルキオン(生没年不詳。後150年前後活動)の出現

   旧約聖書およびその影響を受けた新約聖書文書の排除

   (ルカ福音書と一部書簡のみを採用した)


→ムラトリ正典目録(ムラトリ断片とも、18世紀発見、推定成立2世紀後半) 

→オリゲネス(後185–253年)ーー重要文書の一覧の作成


 3  ローマにおけるキリスト教寛容令から公認以降

・なおも続く教理論争ーーアレイオス論争

 アレイオス vs アレクサンドリアのアタナシオス(296年–373年)

 ニカイア公会議(後325年)でアレイオス派に勝利したアタナシオス

 アタナシオス「復活祭書簡39」:新約聖書となる文書の一覧

・ ラオディキア会議(後363年)

 正統派による締め付けの強化 会衆の讃美歌詠唱禁止とか

 ほぼ後の新約文書27巻の一覧を挙げ、正典をこれに限定すると声明

・ カルタゴ会議(後397年)

 新約聖書正典27文書の確定。

・上記のプロセスにおいて、並び順が徐々に整理、固定していく


 4  新約文書の配列順序の確立

• 福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は早くからまとまりとして認識

 順序も徐々に固定化。マタイ=第一福音書

• 書簡は基本、パウロ書簡(文字量順)→その他の書簡という順序に

• ヨハネ黙示録  時系列的に終末を扱う点と、様式的にも特殊

 末尾へ。


2025年2月15日土曜日

【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年2月16日「偉い人は仕える者になりなさい」

 



ーーーー聖書テキストーーーー

マタイによる福音書 23章1-12節


1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。


4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。


8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。

9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。

10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。


11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。

12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。


ーーーー説教文字データーーーー
2025年2月16日 
「偉い人は、仕える者になりなさい」

 今日のイエス・キリストの物語の舞台は、エルサレム。タイミングは、十字架上で死を遂げられる1週間か何日か前といったところ。マタイによる福音書も終盤になりますけれども、ここ何回かは律法学者やファリサイ派といった人たちが現れて、イエスに議論を吹っかけてきました。それは、イエスを大衆の面前でやり込めて、人気を失墜させるか、陥れるために他なりません。
 律法学者やファリサイ派について、簡単に説明しておきますと、ユダヤ人の宗教は民族宗教であるユダヤ教です。モーセが神から授けられた、いわゆるモーセの十戒というものがありますけれども、この十戒を中核として、数多くの掟があります。これが「律法」になります。その律法を学び、教える人々が律法学者です。天台宗の最長も、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞も、彼らの著作を開きますと、まあやっていることは学者です。しかし、単なる学者ではなくて、彼らはれっきとした僧侶、すなわち宗教家、宗教指導者、教師であるわけです。律法学者も同様です。で、ファリサイ派というのは、そんな律法学者、律法の教師たちの中でも、最も権威ある一派でありました。
 今日の聖書個所の中でイエスは、そんな彼らについて、バリバリに嫌味がこもった評価の言葉を述べています。早速1節以下を読んでみましょう。

1それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
 「モーセの座」とあります。マタイ福音書のここだけに出てくる語でして、聞きなれない言葉でしょう。でも、今までお聞きになった過程で、なんとなく意味は察することはできると思います。先ほど、律法の源流って何だったかと述べまして、その通り、モーセがシナイ山の頂で神から授かったところの、十戒が刻まれた2枚の石板にあったわけです。ですから、モーセというのは、律法の権威、ひいてはユダヤ教を象徴するわけで、ということは「モーセの座」というのは、その権威を象徴すると共に、そこでユダヤ教の教師、これを今日でも「ラビ」と一般でも呼ばれて認知されておりますけれども、ラビがそこに座して講話をする座であったということです。
ちなみに、ただいま「ラビがそこに座して」と言いました。講義は立ってするものじゃないかい?と思われるでしょうが、ユダヤ教では、説法的なものは座ってするものです。ですから、イエスも船の上から岸辺の民衆に話された時、「船の上に座って」と福音書に書かれています。
 それで、イエスの彼らラビに対するコメントがこちら。
「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」
 よくよく考えると、こんな過酷なコメントは、他にそうそうないと思います。「言うことは守れ、でも行動はマネするな」という強烈な皮肉が込められたものです。これって現代社会ですと、会社をつぶす上司、役員にありがちといった感があります。また、こうやって叩かれる人をしばしば擁護しようとして、「いや、彼の言っていることは結構、的を射ているよ」などと出たりしますけれども、こことの関連で言えば、NG以外の何者でもありません。

これらの批判の言葉というのは、ファリサイ派や律法学者といった、単に特定のグループに対する批判ではなく、人間の一側面というものを如実に映し出している実例ということが肝要です。ですから、恥ずかしい他人の振る舞いとして、自分も余裕かまして構えていられないと。他人にも自分にも、いつでも起こり得るものとして受け止める必要があります。
 それで、ユダヤ教のラビたちの所業に対する酷評の言葉が、ズラズラと4節以下で続いていきます。

4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
 先ほど述べた、部下をつぶし、病院送りにし、最後に会社をつぶす上司のようです。続けて5節。

5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
 人に厳しく、自分に優しく、それでいて見栄っ張り。こういう方々は、先の会社役員もそうですけれども、立派なお仕事はされていますからね。そのために、「人間の屑」といった部類にはあまり入れられませんけれども、実態としてはそれ以外の何者でもないですし、そもそも誰もが、こういう側面は持ち合わせているわけです。でも、それが目に余るケースも多々ありますし、一定の高い立場に就いてしまうと、なまじその立場や仕事の高さから、誰からも相手にされないなんてことも少なくなりますし、あまつさえ、実態としては大概な人でも、そのシンパがいたりして、守られている状態になると。そうなると、もう手が付けられないと。
 現代社会には、こういうのはアルアルで、そこら中に溢れていますけれども、教会もまた、牧師含めて重鎮的な人まで、こういう人間社会構造にならないよう注意しないといけません。そういう意味でもって、8節以下は読んで解釈する必要があります。

8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
 文字通り解釈してしまいますと、この教会で「大石先生」と呼んでいるのはなんだ!ってことになってしまいますから。でも、大概の教会では「先生」という語を使っているわけです。一方、使うべきではないと主張する方もいて、私なんかも「さんづけでいいのと違う?」と思ったりしますけれども、そうすると、ふと思うのです。先生と呼ばれる側、特に牧師とか、長老もそうですし、社会におけるまとめ役のような役職、そういうある種責任が重い役職の人は、「先生」とか、あるいは別の名称で呼ばれる、その語でもって想起されるプレッシャーが嫌なのじゃないかって。仕事の辛さって人よりけりですけど、中には、仕事内容が大変というより、責任の重さ、役の重さが重くていや、という方、とっても多いです。それはそうですが、私は思うのです。先生とか、長老でもそうですが、長老と呼ばれるその重みは覚悟しないといけないと。
 それは重くて辛いこともしばしばであるが、私は思う。そこにこそ、神の恵み、神の祝福は豊かに注がれるし、そういう人を神は慈しんでくださるものです。
 「先生と呼ばれていい気になっている」といった誹謗中傷は多いですし、この聖書の文脈ではそうですが、我々の社会では、今述べたように、むしろ人と人とを取りまとめる、人間と接する面倒くさい役を、悩みながら担う人がいないと、社会とは人間関係って、もたないのですよね。
最後、結びの言葉は格言的な言い回しになっています。

11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
 「偉い人」と聞くと、この言葉って手垢がついたものなので、我々の方で勝手に、いわゆる偉い人〜というのをイメージしがちですが、一度それを払拭していただきまして。
 偉い人というのは、人に教え、人を導く立場にある人です。ですから、必ずしもいわゆる偉い人、というほどのものでもないことも多々あります。仮にそうだとしても、人を取りまとめる、人と人とを繋ぐ、そういう役、そういう営みというのは、「上からの押しつけ」では、いけません。むしろ「上から」ではなく逆に、「下から」人を支えて持ち上げる重労働、あるいは、人を慮る悩ましい重荷というものを、覚悟しなければなりません。
それが、人に「仕える」というものです。

2024年5月9日木曜日

【キリスト教史解説】ヒエロニムス ーラテン教父、ラテン教会四大博士、ラテン語訳聖書「ウルガタ」翻訳


ーーーレジュメーーー

【キリスト教史】ヒエロニムス ーラテン教父、ラテン教会四大博士、ラテン語訳聖書「ウルガタ」翻訳


人物名:ヒエロニムス(Hieronymus、英Jerome)

生没年:342頃-420年


 【要約】

初代ラテン教父。聖人。ラテン教会四大博士の一人。ローマ、アンティオキアを経てシリアの砂漠で隠修士として過ごす。教皇ダマスス1世の秘書をした後、ベツレヘムで修道院を指導。ダマスス1世の命でラテン語訳聖書の改訂版を作成(ウルガタ)。


 【本文】

・初代ラテン教父。「ラテン教会四大博士」の一人。

 ラテン教父:古代から中世初期、ラテン語で著述活動をした

       神学者、教父

  ラテン教会四大博士:アンブロシウス

            ヒエロニムス

            アウグスティヌス

            教皇グレゴリウス1世


・聖人(祝日:9月30日)。


・ダルマチア地方のストリドン出身。


・生涯

 ローマで学び、洗礼を受けた後、アンティオキアを経てシリアの砂漠で隠修士として過ごした。

 隠修士:個人で砂漠や荒れ野で禁欲生活を行う修道士。

     共住修道制(パコミオス)以前の個住修道制(アントニオス)


 382-85年、ローマで教皇ダマスス1世の秘書を務めた後、ベツレヘムで修道院を指導し、聖書翻訳に従事した。


 教皇ダマスス1世の命により、従来のラテン語訳の改訂版の作成を進め、四福音書とヘブライ語聖書を手掛けた。

 最終的に「ウルガタ(Vulgata)」が成立。トリエント公会議(1545-63年)にて、カトリック唯一の公認ラテン語訳聖書として採用された。


 Vulgata = editio Vulgata (共通訳)の略

 古ラテン語訳の不統一を修正。中世ヨーロッパにおける事実上

 「唯一の聖書」。ウィクリフ派英訳聖書などの底本にもなった。

 ヨーロッパ最初の印刷本「グーテンベルク聖書」(1455)は、ウルガタ


ーーー解説テキストーーー

ヒエロニムス Hieronymus, 342頃-420年 英Jerome


 初代ラテン教父。聖人(祝日:9月30日)。アクイレイア近くのストリドン出身。ラテン教会四大博士の一人。

 ローマで学び、洗礼を受けた後、アンティオキアを経てシリアの砂漠で隠修士として過ごした。

 382-85年、ローマで教皇ダマスス1世の秘書を務めた後、ベツレヘムで修道院を指導し、聖書翻訳に従事した。

 教皇ダマスス1世の命により、従来のラテン語訳の改訂版の作成を進め、四福音書とヘブライ語聖書を手掛けた。最終的にウルガタが成立。トリエント公会議にて、カトリック唯一の公認ラテン語訳聖書として採用された。


2024年5月2日木曜日

殉教者ユスティノス ギリシャ教父ーギリシャ哲学とキリスト教の融合



ーーー解説テキストーーー

ユスティノス Ioustinos,  ca. 100-163/167 CE


【要約】

100年頃-163/167年。最初期の護教家。ギリシア教父。殉教者ユスティノスとも言われる。グノーシス主義への批判も展開。ギリシア思想とキリスト教思想の融合を初めて果たした。哲学的真理に対するキリスト教の優位性を主張。『護教論』。



本文

 最初期の護教家。ギリシア教父。殉教者ユスティノスとも言われる。サマリア近郊のフラウィア・ネオポリスに生まれ、当時のストア、アリストテレス、ピタゴラス、プラトン等の諸学派を遍歴の後、エフェソスにて入信。150年頃からアントニウス・ピウス帝時代のローマに赴いて宣教活動を開始した。グノーシス主義への批判も展開し、その後、マルクス・アウレリウス帝治下にて殉教したと考えられる。


 思想

 ユスティノスの思想の特徴は、ギリシア思想とキリスト教思想の融合を初めて果たしたことである。例えば、当時のギリシア哲学の用語である「ロゴス」を多用し、完全なるロゴスをキリストと同定した。ユダヤ教において同様のコンセプトで活動した人物として、アレクサンドリアのフィロンを挙げておく。


 「護教化」という呼称の通り、彼の関心はギリシア文化に対してキリスト教を理解させようという護教論的スタイルであった。哲学的真理に対するキリスト教の優位性、またその完成としての福音というテーゼが顕著である。福音の前段階として哲学を捉え、そうした哲学思想にも後の福音へと至る「種子的ロゴス」が含まれており、真理契機があると考えた。


 著作

 彼の名による著作は多くを数えるが、真正のものとしては以下のものが挙げられる。

 『護教論』(『第一アポロギア』『第二アポロギア』)。

 キリスト教会に向けられた「国家への不忠」「無神論」等の誹謗に答えて。これらを、ソクラテスを死へと追いやった悪霊の教唆によるものと主張。


 『哲学者にして殉教者であるユスティノスとユダヤ人トリュフォンとの対話』

 キリスト教のギリシャ哲学に対する優位性の論を展開。真理としての哲学の究極を神についての知として、これが神による啓示として提示されているとする。旧約の預言者による告知、旧約と新約の連続性を論じる。キリスト教を、この真理の解釈に基づくものとして位置づける。