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2026年10月21日水曜日

【キリスト教史解説】ボンヘッファー ― ナチズムに抵抗し処刑された牧師・神学者

 

ボンヘッファー(1906–1945)― ナチズムに抵抗した牧師・神学者


0. 本日の要点

  1. 若き神学者の出発 ―『聖徒の交わり』の教会論
  2. ナチ政権と教会の闘い ― 告白教会と牧師養成
  3. 帰国の決断と抵抗運動への参加
  4. 逮捕から処刑まで
  5. ボンヘッファーが問い続けたこと

1. 基本データ

項目内容
名前ディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)
生没1906年2月4日 – 1945年4月9日(39歳)
出身ブレスラウ(当時ドイツ領、現ポーランドのヴロツワフ)
立場ドイツの牧師・神学者。ナチ時代は告白教会で活動
最期フロッセンビュルク強制収容所で処刑

2. 生い立ちと学び(1906〜1927年)

  • 学者の家庭に生まれる。父カールは精神医学者で、のちにベルリン大学教授
  • 8人きょうだいの6番目。双子の妹がいる
  • 1912年、一家でベルリンへ移る
  • 十代で神学の道に進むことを決め、テュービンゲン大学(1923年〜)、ベルリン大学で学ぶ
  • 1927年、学位請求論文『聖徒の交わり』を提出。同年12月、21歳で博士号を取得
    • ※ 書籍としての刊行は1930年

3. 『聖徒の交わり』の教会論

  • テーマは「教会とは何か」
  • 教会をキリストにおける人間相互の交わりとして捉える
  • 鍵となる定式:「共同体として存在するキリスト」(Christus als Gemeinde existierend)
    • キリストは、人と人とが支え合い、責任を負い合う教会の交わりのなかに現に存在する
  • 神学に社会学の視点を取り入れて論じた
  • カール・バルトは「神学的な奇跡」と評した
  • → 教会を具体的な交わりとして見る視点は、その後の歩み全体を貫く

4. ニューヨーク留学と帰国(1930〜1931年)

  • 1930年、大学教授資格論文『行為と存在』を完成
  • 1930〜31年、ニューヨークのユニオン神学校に留学
    • アメリカの神学・教会生活に触れる
    • ハーレムの黒人教会(アビシニアン・バプテスト教会)に通い、人種差別のなかを生きる人々の信仰と礼拝に深く触れる
  • 1931年に帰国
    • ベルリン大学の私講師
    • ベルリン工科大学の学生牧師

5. ヒトラー政権の成立と教会(1933年)

  • 1933年1月、ヒトラーが首相に就任
  • ナチ政権は教会を自らの支配下に置こうとする
  • 協力勢力:「ドイツ的キリスト者」
    • ユダヤ系の出自を持つ牧師を排除する「アーリア条項」を教会にも導入しようとした
  • ボンヘッファーは早くからこれに反対
    • 1933年4月、論文「教会とユダヤ人問題」
  • → ナチズムによる教会支配と人種主義に、はっきりと批判的な立場をとる

6. ロンドン時代(1933〜1935年)

  • 1933年秋、ロンドンへ。2つのドイツ人教会(シデナム、聖パウロ教会)で牧会
  • 国際的なエキュメニカル運動に関わる
    • 教派や国境を越えて、教会の一致と協力を目指す運動
  • 英国国教会のチチェスター主教ジョージ・ベルと出会う
    • ベル主教はボンヘッファーを通してドイツの教会の状況を知り、以後も長く彼を支えた

7. 告白教会と牧師研修所(1934〜1940年)

年出来事
1934年5月バルメン宣言の採択。ナチ政権に協力する教会勢力に対抗する「告白教会」が形成される
1935年ボンヘッファー帰国。告白教会の牧師研修所の責任者となる
1935年研修所はツィングストに置かれ、まもなくフィンケンヴァルデへ移転。共同生活をしながら候補生を指導
1937年ゲシュタポにより研修所が閉鎖される
1937〜1940年「集合牧師補制度」の形で非合法に牧師養成を継続(1940年3月に閉鎖)
  • 集合牧師補制度:候補生を名目上は各地の牧師のもとに配属しながら、実際には共同生活を続けた(東ポメルンのケスリン、シュラーヴェ/ジグルツホーフ)
  • この時期の経験から、『キリストに従う』(1937年)、『共に生きる生活』(1939年)が生まれた

8. 帰国の決断(1939年)

  • 1939年6月、再び渡米。戦争が迫り、兵役の問題も抱えていた彼のために、アメリカの友人たちが活動の場を用意した
  • 約1か月で帰国を決断
  • ラインホールド・ニーバー宛の手紙(要旨)

    この時代の試練を同胞と共に担わなければ、戦後のドイツでキリスト教の生活を再建することに加わる資格はない

  • 1939年7月、ドイツへ戻る
  • 9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる

9. 抵抗運動へ(1939〜1943年)

  • 義兄ハンス・フォン・ドーナーニ(姉クリスティーネの夫)が橋渡し役
  • 国防軍情報部(アプヴェーア)
    • 組織の一部が、ヒトラー政権の打倒を目指す抵抗グループの拠点になっていた
  • ボンヘッファーはアプヴェーアの嘱託となる
    • 表向きは情報部の任務として国外(スイス、スウェーデンなど)へ渡航
    • 国外の教会関係者を通じて、ドイツ国内の抵抗勢力と連合国側との連絡に関わる
  • 1942年5月、スウェーデンのシグトゥーナでベル主教とひそかに会見
  • ユダヤ人をスイスへ逃がす救出作戦にも関与

10. 逮捕と獄中(1943〜1945年)

年月出来事
1943年1月マリア・フォン・ヴェーデマイヤーと婚約
1943年4月5日逮捕。きっかけは救出作戦の資金の流れなどをめぐる捜査。ベルリンのテーゲル軍刑務所に拘禁
獄中親友エーバーハルト・ベートゲに多くの手紙を書く
1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件。その後、抵抗運動の関係文書が発見され、関与が明るみに出る
1944年10月ゲシュタポ本部(プリンツ=アルブレヒト通り)の監獄へ移される
1945年2月ブーヘンヴァルト強制収容所へ移送
  • ※ 逮捕の段階では、抵抗運動の核心はまだ知られていなかった

11. 最期(1945年4月)

  • いくつかの場所を経て、フロッセンビュルク強制収容所へ
  • 4月8日、ヒトラーの命令による親衛隊の即決裁判で死刑判決
  • 4月9日早朝、処刑(39歳)
    • 同日、アプヴェーア長官カナーリス提督らも処刑される
  • その後
    • 約2週間後、収容所がアメリカ軍によって解放
    • 4月30日、ヒトラー自殺
    • 5月、ドイツ降伏
  • → ナチ体制の崩壊は目前に迫っていた

12. 主な著作

著作年内容
『聖徒の交わり』1930年刊博士論文。教会論
『行為と存在』1931年刊大学教授資格論文
『キリストに従う』1937年弟子としての生き方。「安価な恵み」批判
『共に生きる生活』1939年フィンケンヴァルデでの共同生活から
『倫理』遺稿戦時中に執筆、未完
『抵抗と信従』遺稿獄中書簡・獄中で書かれた文章
  • 『倫理』『抵抗と信従』は、戦後ベートゲが編集・出版
  • 特に『抵抗と信従』は世界中で読まれた

13. ボンヘッファーの問い

  1. 教会はどうあるべきか
    • 教会を、人と人との具体的な交わりとして考える
  2. キリスト者の責任とは何か
    • 『キリストに従う』:従うことを求めない恵みを「安価な恵み」と呼んで批判した
    • 恵みは、それに応えて生きることと切り離せない
  3. 国家権力と不正義にどう向き合うか
  4. 信仰と実践を切り離さない
  • ※ 牧師が政権打倒を目指す抵抗運動に加わったことの評価には、現在もさまざまな議論がある

14. まとめ

  • 21歳で教会論の博士論文を書いた、早熟な神学者
  • ナチ政権の教会支配と人種主義に反対し、告白教会で牧師の養成に力を注いだ
  • アメリカに留まる道を捨て、苦難を共にすることを選んで帰国した
  • 抵抗運動に加わり、1945年4月9日、戦争の終わりを目前にして処刑された
  • その生涯と著作は戦後の神学と世界の教会に大きな影響を与え、信仰と社会的責任の関係について今も問いを投げかけている

略年表

年代出来事
1906年ブレスラウに生まれる
1912年一家でベルリンへ
1923年テュービンゲン大学で神学を学び始める
1927年『聖徒の交わり』を提出、博士号取得
1930〜31年ユニオン神学校に留学
1931年帰国。ベルリン大学私講師、ベルリン工科大学学生牧師
1933年1月ヒトラー、首相に就任
1933年秋ロンドンで牧会(〜1935年)
1934年5月バルメン宣言、告白教会の形成
1935年帰国、牧師研修所の責任者に(ツィングスト→フィンケンヴァルデ)
1937年研修所閉鎖。『キリストに従う』
1939年『共に生きる生活』。6月渡米、7月帰国。9月、第二次世界大戦始まる
1940年集合牧師補制度の閉鎖。この年からアプヴェーアの嘱託に
1942年5月シグトゥーナでベル主教と会見
1943年1月婚約、4月5日逮捕(テーゲル軍刑務所)
1944年7月20日事件。10月、ゲシュタポの監獄へ
1945年2月ブーヘンヴァルトへ。4月9日、フロッセンビュルクで処刑


2026年10月19日月曜日

1-2-1 キリスト教史解説(教会史)

アンティオキアのイグナティオス ──「使徒教父」、「殉教死」、最初の「公同の教会」提唱、「イグナティオスの手紙」(真正書簡7通)(35年頃–107/110年頃) 


スミュルナのポリュカルポス ― 使徒時代と2世紀をつないだ教父(69年頃–155年頃) 



第1ニカイア公会議と「原ニカイア信条」(325年) #ニカエア公会議




カノッサの屈辱─叙任権闘争の転換点




カルヴァンとジュネーブの改革


 再洗礼派の光と影──過激派ミュンスターの狂気から非暴力メノー派まで


ルター派教会(ルーテル教会)


カルヴァンとジュネーブの改革

【キリスト教史解説】カノッサの屈辱─叙任権闘争の転換点

 

カノッサの屈辱(1077年)― 王はなぜ、城門の前に立ったのか


0. 本日の要点

  1. 何が争われていたのか ― 叙任権という問題
  2. 王はなぜカノッサへ行かなければならなかったのか
  3. カノッサで何が起き、それをどう評価すべきか
  4. 事件のあと、王と教皇の争いはどうなったのか

1. 二人の主人公

ハインリヒ4世グレゴリウス7世
地位ドイツ王(ローマ王)ローマ教皇
就任1056年、父の死により5歳で王位1073年
特徴1084年に皇帝として戴冠教会改革を強力に推進(グレゴリウス改革)

呼称についての注意

  • 「神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世」と呼ばれることが多いが、カノッサ事件(1077年)の当時はまだ皇帝ではない
  • 「神聖ローマ帝国」という国号自体も12〜13世紀以降のもので、この時代にはまだない

2. 背景 ― 叙任権とグレゴリウス改革

2.1 叙任権とは

  • 司教や修道院長を任命し、その職に就ける権限
  • 当時の司教・修道院長は、宗教的職務に加え、広大な所領・収入・政治的権限を持つ
  • ドイツ王はオットー朝以来、司教を王国統治の支柱とし、その任命に深く関与(帝国教会政策)
  • → 叙任権は単なる人事の問題ではなく、統治そのものの問題

2.2 グレゴリウス改革

  • 11世紀の教会改革運動。改革派が特に批判したのは次の二つ
    • 聖職売買(シモニア):金銭による聖職の売買
    • 聖職者の妻帯(さいたい)(ニコライズム)
      • 西方教会では古くから聖職者に独身・禁欲が求められていたが、11世紀には妻を持つ司祭が少なくなかった
      • 教会財産が子に受け継がれ、聖職が世襲化するおそれ
      • 聖職者は世俗の生活から区別されるべきだという考え
  • 弊害の根本に「俗人による聖職者の任命」があると考えた
  • 1075年、グレゴリウス7世は俗人叙任を禁じたとされる
    • ※ 条文が残らず、存在や内容に議論あり。明確な条文は1078年・1080年の教会会議

3. 対立の始まり(1075〜1076年)

年月出来事
1075年ミラノ大司教の任命をめぐる争い。王が教皇の意向に反して自派の人物を立てる
1076年1月ヴォルムス教会会議:王がドイツの司教たちにグレゴリウス7世の廃位を宣言させる
1076年2月ローマ教会会議:教皇が王を破門し、臣下を王への忠誠の誓いから解く
  • 先に相手を退けようとしたのは王の側だった

4. 破門の衝撃

  • 破門は宗教的制裁にとどまらず、王の政治的基盤を揺るがした
  • 背景:ドイツ諸侯のあいだには、もともと王への不満があった(1073年に始まるザクセン人の反乱など)
  • 1076年10月、トレブール(トリブール)の会合
    • 破門から1年以内に赦しを得なければ、ハインリヒを王と認めない
    • 翌1077年2月、アウクスブルクに教皇を招き、王の処遇を決める予定
  • → 王は崖っぷちに立たされた

5. カノッサ城の前で(1077年1月)

  • 王は教皇がドイツに入る前に赦しを得ようと、真冬のアルプスを越えてイタリアへ
  • アウクスブルクへ向かう途中の教皇は、王の意図を測りかね、北イタリアのカノッサ城に身を寄せる
    • トスカーナ女伯(じょはく)マティルデの居城。マティルデは教皇の有力な支持者
  • 1月25日から3日間、王は城門の前で、裸足に粗末な羊毛の衣という贖罪者の姿で赦しを請い続けたと伝えられる
  • 1月28日、教皇は破門を解く

6. 史料をどう読むか

史料立場・性格主な記述
グレゴリウス7世の書簡(ドイツ諸侯宛、事件直後)自らの判断を諸侯に説明する目的3日間、裸足、羊毛の衣で城門の前にいた
ヘルスフェルトのランペルト『年代記』ハインリヒに批判的その冬の厳しい寒さを詳しく描写
  • いずれも同時代史料。ただし、どちらも一方の立場から書かれている
  • 劇的な場面ほど、誰が、どんな目的で書いたのかに注意して読む

7. 「屈辱」か、「勝利」か

7.1 伝統的な理解

  • 教皇権が世俗権力に勝った象徴的事件
  • 「カノッサの屈辱」は日本で定着した呼称。ドイツ語では「カノッサ行き(Gang nach Canossa)」が一般的
  • 1872年、文化闘争期のビスマルク:「我々はカノッサには行かない」
    • 国家が教会に屈服することの代名詞に

7.2 近年の評価

  • ハインリヒ側から見れば戦術的な成功だったとする見方が有力
    • 破門が解かれ、諸侯は王を廃する根拠を失った
    • 教皇がドイツで王を裁くという計画も実現しなかった
  • → 頭を下げることで、王は王位を守ったとも言える

8. その後の展開

8.1 対立王と再破門(1077〜1080年)

年月出来事
1077年3月フォルヒハイムで、反国王派の諸侯がシュヴァーベン公ルドルフ(ラインフェルデンのルドルフ)を対立王に選出。ドイツは内戦へ
1080年3月教皇が王を再び破門し、ルドルフを王と認める
1080年6月ブリクセン教会会議:グレゴリウス7世の廃位を宣言、ラヴェンナ大司教ウィベルトを対立教皇に擁立(クレメンス3世)
1080年10月ルドルフ、エルスター河畔の戦いの傷がもとで死去 → 王はイタリア遠征に注力

8.2 ローマの攻防(1084〜1085年)

年月出来事
1084年3月王がローマに入城、クレメンス3世を即位させる
1084年3月31日ハインリヒ4世、クレメンス3世の手で皇帝として戴冠
1084年5月サンタンジェロ城に籠もる教皇を、ノルマン人の指導者ロベール・ギスカールが救出
1084年ノルマン軍によるローマ略奪。市民の反感が教皇に向かう
1085年5月25日グレゴリウス7世、サレルノで死去

カノッサで王に頭を下げさせた教皇は、ローマを去って生涯を終えた。


9. ヴォルムス協約(1122年)

  • 皇帝ハインリヒ5世と教皇カリストゥス2世のあいだで締結
  • 叙任権闘争は一応の決着をみる
教会皇帝
授与するもの指輪と杖による叙任笏による世俗的権益の授与
性格霊的な権限世俗の権限
  • ただしドイツでは、司教選挙に皇帝が立ち会うことも認められた
  • → 世俗権力の関与は、形を変えて残った

10. まとめ

  • カノッサの屈辱は、叙任権をめぐる王と教皇の争いの中で起きた出来事
  • 王は城門の前で赦しを請い、教皇は破門を解いた
  • 教皇権の勝利の象徴として語られてきたが、王にとっては王位を守るための計算された一手でもあった
  • 争いはその後も続き、1122年のヴォルムス協約で一応の決着
  • カノッサの出来事は、中世ヨーロッパの人々が教会と国家それぞれの権威をどう考えていたのかを映し出す鏡である

略年表

年代出来事
1056年ハインリヒ4世、5歳で王位を継ぐ
1073年グレゴリウス7世、教皇に就任。ザクセン人の反乱始まる
1075年俗人叙任の禁止(とされる)。ミラノ大司教問題
1076年1月ヴォルムス教会会議(王による教皇廃位宣言)
1076年2月教皇、王を破門
1076年10月トレブールの会合
1077年1月25〜28日カノッサ。28日に破門解除
1077年3月ルドルフ、対立王に
1080年再破門(3月)、ブリクセン教会会議(6月)、ルドルフ死去(10月)
1084年ハインリヒ4世、ローマ入城・皇帝戴冠。ローマ略奪
1085年グレゴリウス7世、サレルノで死去
1122年ヴォルムス協約
1872年ビスマルク「我々はカノッサには行かない」

主な参照

  • グレゴリウス7世書簡(ドイツ諸侯宛、1077年1月)『教皇登録簿』(Registrum)IV, 12
  • ヘルスフェルトのランペルト『年代記』(Annales)1077年の項
  • ヴォルムス協約(1122年)皇帝証書・教皇証書
  • ビスマルク、帝国議会演説(1872年5月14日)

2026年10月17日土曜日

【キリスト教史解説】カルヴァンとジュネーブの改革

 

講義レジュメ|カルヴァン ― ジュネーブの改革、その実像

  • 対象:キリスト教史 初級〜中級
  • 連動教材:claude/calvin_video_script.md(解説動画原稿・全18枚のスライドと対応)/YouTube解説動画「カルヴァンとジュネーブの改革」
  • 注意:本レジュメは、カルヴァンという一個人の物語としてではなく、教会(改革者)と都市当局との交渉・対立の歴史として提示する。「カルヴァンがジュネーブを支配した」という通俗的理解は、以下で順に修正する。

0. 凡例 ― 三つの区分

ジュネーブの教会統治を理解するには、次の三つを混同しないことが要になります。

区分内容本レジュメでの表れ方
制度『教会規則』(1541年)などの文書が定めた仕組み条文・職制として提示
運用実際の権力関係・対立・妥協の経過「緊張関係があった」「安定したのは〜以降」
イメージ後世に広まった通俗的理解「よくある誤解」として区別して示す

1. 略年表

年代出来事注記
1520年代〜ベルン・フリブールとの同盟。司教権力からの自立が進むカルヴァン到着前の動き
1536年5月21日ジュネーブ総会、宗教改革の採用を決議カルヴァン到着前
1536年夏カルヴァン、ジュネーブに一泊のつもりで滞在 → ファレルに引き留められる『詩篇注解』(1557年)序文(CO 31)
1537年1月教会組織に関する条項を提出破門権をめぐり市当局と対立、構想どおりには実現せず
1538年4月二百人会、カルヴァンとファレルを追放配餐拒否をめぐる対立が直接のきっかけ
1538〜1541年シュトラスブルク時代ブツァーのもとで牧会。『綱要』第2版(1539年)、結婚(1540年8月)
1541年9月13日ジュネーブに帰還
1541年9月26日教会規則の草案を評議会へ提出
1541年11月20日総会、『教会規則』を承認審議・修正を経た手続きであり、即時施行の一存ではない
1542年礼拝式文・『ジュネーブ教会信仰問答』を制定
1551年ボルセック事件予定説をめぐる論争。ボルセックは追放
1553年10月27日セルヴェトゥス、シャンペルで火刑決定権は市当局(小評議会)
1555年5月ペラン派の蜂起未遂以後、カルヴァン支持派が市政の主導権を確立
1559年ジュネーブ・アカデミー設立。市民権取得初代学長テオドール・ド・ベーズ
1559年『キリスト教綱要』最終ラテン語版(全4巻80章)
1562年『ジュネーブ詩篇歌集』完成(全150篇)
1564年5月27日死去墓標のない墓に葬られる

2. 押さえるべき四つの論点

論点1 ジュネーブの宗教改革はカルヴァンが始めたのではない

1536年5月21日の総会決議は、カルヴァンが到着する前のことです。サヴォワ・司教権力からの自立、ベルンとの同盟関係、ファレルらの説教活動が複合的に作用した結果であり、カルヴァンの歴史的意義は無から改革を創始した点にではなく、すでに始まっていた改革を神学的・制度的に体系化した点にあります。

論点2 『教会規則』(1541年)は、手続きを経て成立した文書である

カルヴァンが帰還後ただちに独断で施行したのではありません。9月26日に評議会へ提出され、審議・修正を経て、11月20日に総会が承認するという手続きを踏んでいます。また、この規則が定めた長老職は、現代的な意味での信徒の選挙による代表者ではなく、市の評議会が指名・任命する役職でした。教会と市当局は、最初から協働関係の中にありました。

論点3 コンシストワールの権限は、最初から確立していたわけではない

コンシストワールの最終的な制裁手段は「聖餐停止」であり、教会からの完全な除名を意味する「破門」とは区別されます。世俗的な刑罰権(投獄・罰金)はなく、重大事案は市当局に委ねられました。この機関の権限をめぐっては市当局との間に長い緊張関係があり、安定するのは1555年の政治的転換以降のことです。

論点4 セルヴェトゥス事件 ― カルヴァンの関与と市当局の権限を分けて考える

セルヴェトゥスの拘束・裁判・処刑を最終的に決定したのは、ジュネーブの市当局(小評議会)であり、カルヴァンに司法上の最終権限はありませんでした。他方で、カルヴァンを単なる傍観者として描くのも不正確です。彼はセルヴェトゥスの教説を神学的に論駁し、異端と判断された者への処罰そのものは支持していました。伝えられるところでは、カルヴァンは火刑ではなく斬首を求めましたが、評議会はこれを容れませんでした。1553年10月27日、セルヴェトゥスはシャンペルで火刑に処されています。

注意すべき引用の扱い カルヴァンがセルヴェトゥスについて強い言葉で書き送ったとされる書簡(1546年2月13日付、ファレル宛、CO 12)の日本語訳は、しばしば引用されますが、COの原文と逐語的に照合した上で確定訳として用いることが望まれます。


3. 教会統治の仕組み(1541年『教会規則』)

職務内容
牧師説教、聖礼典の執行
教師聖書と教理の教授(1559年設立のジュネーブ・アカデミーはこの発展形。両者は区別して理解する)
長老信徒の生活を監督。市評議会が任命
執事貧者・病人への援助

コンシストワール:牧師団と信徒長老(当初12名)で構成。毎週木曜に開催し、信仰生活・道徳を審理。最終手段は聖餐停止。世俗的刑罰権はなし。


4. 主要な対立・事件

事件年要点
ボルセック事件1551年予定説への批判 → 論争 → ボルセックは追放。教理統一と教会規律が直結する事例
セルヴェトゥス事件1553年三位一体論・幼児洗礼の否定 → 拘束・裁判・処刑。決定権は市当局
ペラン派との対立1540年代〜1555年教会規律の権限をめぐる政治的対立(市民自治・ベルンとの関係なども背景)。1555年の蜂起未遂を経てカルヴァン支持派が主導権を確立

5. よくある誤解 ― チェックリスト

よくある理解正確な言い方
ジュネーブの宗教改革はカルヴァンが始めた1536年5月の総会決議はカルヴァン到着以前。カルヴァンはすでに進行していた改革を体系化した
『教会規則』はカルヴァンが独断で即時施行した評議会への提出(9月26日)→審議・修正→総会承認(11月20日)という手続きを経た
長老は信徒の選挙で選ばれた代表である市評議会による指名・任命であり、現代的な意味での選挙代表ではない
コンシストワールは投獄・処刑の権限を持つ教会裁判所だった世俗的刑罰権はなく、最大の制裁は聖餐停止。重大事案は市当局に委ねられた
「破門」と「聖餐停止」は同じ概念である破門(教会員資格の喪失)と聖餐停止(一時的な聖餐への不参加)は区別される
セルヴェトゥスの処刑はカルヴァンが決定した決定権はジュネーブ市当局(小評議会)。カルヴァンは神学的論駁と処罰の支持はしたが、最終決定者ではない
「リベルタン(ペラン派)」は単に道徳的に乱れた反対派だった市民自治・ベルンとの関係・教会規律の権限の所在など、複合的な政治的背景を持つ対立だった
ジュネーブはカルヴァンという一個人が支配した神権政治国家だった教会の独立性を求める改革者と、都市の政治的主権を守ろうとする市当局との、持続的な交渉・対立の歴史として理解すべき

6. まとめ

ジュネーブの宗教改革は、カルヴァンという一人の人物が都市を支配した歴史でもなければ、逆に市当局が決めたことに彼がただ従った歴史でもありません。教会の独立性を求める改革者と、都市の政治的主権を守ろうとする市当局との、長く続く交渉と対立の歴史として理解するのが適切です。そして、ここで作られた四職制・コンシストワール・教理教育・アカデミーといった仕組みは、フランスのユグノー教会、スコットランドの長老教会、オランダ改革派教会、さらには後の英米プロテスタンティズムにまで連なる、国際的なカルヴァン主義教会体制の原型となりました。




Jean Calvin, Institutio Christianae Religionis(1536/1539/1559年版、特にInst. IV.3, IV.11-12)|Ordonnances ecclésiastiques de l'Eglise de Genève(1541年, CO 10a)|Catéchisme de l'Eglise de Genève(1542年, CO 6)|Registres du Consistoire de Genève au temps de Calvin(éd. Lambert/Naphy/Watt/Kingdon, Droz, 1996–)|Calvini Opera quae supersunt omnia(CO, Corpus Reformatorum 29–87巻)|Théodore de Bèze, Vie de Calvin(初版1564年, CO 21)

2026年10月15日木曜日

【キリスト教史解説】殉教者ユスティノス ― ギリシア哲学とキリスト教の対話

 

殉教者ユスティノス ― ギリシア哲学とキリスト教の対話

0. 問題設定

  • 二世紀半ば、ローマでキリスト教を教えた思想家
  • 回心後も「哲学者」の姿のまま活動し、ギリシア哲学の言葉でキリスト教を説明
  • 問い:哲学とキリスト教は対立するのか、それともつながっているのか

1. 基本データ

項目内容
生没年100年ごろ〜165年ごろ
出身古代サマリア地方フラウィア・ネオポリス(現ナブルス)
活動地ローマ
呼び名「殉教者ユスティノス」「哲学者ユスティノス」
主著『第一護教論』『第二護教論』『ユダヤ人トリュフォンとの対話』(いずれもギリシア語)
位置づけ二世紀を代表する護教家/ギリシア教父の一人

護教家(アポロギスト)とは

  • 二世紀のキリスト教徒は、周囲の社会から批判・誤解を受けていた
  • それに対し、哲学的・論理的にキリスト教を擁護した思想家たち
    • ギリシア語:アリステイデス、タティアノス(ユスティノスの弟子)、アテナゴラス など
    • ラテン語(やや後代):テルトゥリアヌス

2. 生涯

(1) 哲学の遍歴(『トリュフォンとの対話』2–8)

  1. ストア派 … 神について何も教えてくれない
  2. 逍遥学派(アリストテレス派)… すぐに授業料の話
  3. ピタゴラス派 … まず音楽・天文学・幾何学を学べと言われる
  4. プラトン派 … 強く惹かれ、求めていたものと感じる

(2) 回心

  • 海辺で一人の老人と出会い、問答を重ねる
    • 哲学だけでは神を知ることはできない
    • 哲学者より古く真理を語った人々=預言者
  • 「心に火がともった」→ キリスト教こそ確かで有益な、ただ一つの哲学
  • *回心の場所は本文に記載なし(エフェソス説が多いが不確実)
  • 『第二護教論』12:死を恐れないキリスト教徒の姿にも心を動かされた

ポイント:キリスト教は哲学を捨てて入るものではなく、「本当の哲学」

(3) ローマでの活動と殉教

  • 二世紀半ば、ローマで教え、哲学的にキリスト教を擁護
  • 教会内部の異説とも対決:マルキオン批判(旧約の神とキリストの父を別神とする説)
  • 165年ごろ、マルクス・アウレリウス帝治下で殉教
    • 『ユスティノス殉教録』:首都長官ユニウス・ルスティクスの裁判 → 仲間とともに斬首

3. 思想

(1) 哲学を否定しない

  • 哲学のなかにも真理がある、と認める
  • その真理をキリスト教との関係で捉え直す
  • ギリシア哲学の概念・言葉でキリスト教信仰を説明した、最初期の重要な思想家

(2) ロゴス

  • ギリシア語で「言葉」「理性」
  • ギリシア哲学:世界を貫く理性、世界秩序の原理
  • ヨハネ福音書1:1「初めに言(ロゴス)があった」
  • ユスティノス:キリスト=創造に先立って神から生まれたロゴス
    • 受肉以前から、世界のなかで働いていた

(3) 種子的ロゴス

ロゴスはすべての人間に「種」を蒔いている。

用語指すもの
種子的ロゴス(ロゴス・スペルマティコス)種を蒔く側のロゴス
ロゴスの種子人間の側に蒔かれたもの

*両者は混同されやすいので注意

(4) 部分と全体

  • 哲学者たちも、それぞれの程度に応じて真理の一部を認識しえた
  • 『第一護教論』46:ロゴスに従って生きた人は、キリスト以前でもキリスト者
    • 例:ソクラテス、ヘラクレイトス
  • しかしそれは部分的 → ロゴスの全体はイエス・キリストにおいて現れた

結論:キリスト教は哲学と対立する一宗教ではなく、哲学者が求めてきた真理がキリストにおいて完全に示されたもの

(5) 補足

  • アレクサンドリアのフィロン:聖書伝統をギリシア哲学で解釈する試みは、ユダヤ教側に先例あり
  • 借用説:プラトンはモーセから学んだ(『第一護教論』44, 59–60)
    • 歴史的事実ではないが、哲学と聖書を一つにつなげようとする意図がうかがえる

4. 著作

(1) 『第一護教論』

  • 150年代半ば、皇帝アントニヌス・ピウスとその息子たちに宛てる
  • 当時の非難(無神論・不道徳・国家への不忠実)への弁明
  • 神、イエス・キリスト、復活、キリスト者の生活を説明
  • 61–67:洗礼・聖餐・日曜日の礼拝の記述 → 初期礼拝のもっとも古い証言の一つ
  • ソクラテスも真理を語ったために迫害された → キリスト者への迫害も同じ

(2) 『第二護教論』

  • ローマ元老院宛て
  • 独立の書というより『第一護教論』の付録とみる説が有力
  • 13章:種子的ロゴスを語るもっとも有名な箇所
    • プラトン、ストア派、詩人、歴史家は、種子的ロゴスの分け前に応じて真理の一部を語った

(3) 『ユダヤ人トリュフォンとの対話』

  • ユダヤ人トリュフォンとの対話形式
  • 冒頭(1–8):ユスティノス自身の哲学遍歴と回心
  • 本論:旧約の預言はイエス・キリストにおいて成就した
    • 旧約と新約は神の救いの計画として一つにつながる
    • 主題:キリスト教にとって旧約聖書はどういう意味を持つか
  • 舞台はエフェソス(エウセビオス『教会史』4.18)

5. まとめ

  • 二世紀を代表する護教家
  • 哲学遍歴 → 回心 → ローマで教授 → 165年ごろ殉教
  • ギリシア哲学を否定せず:哲学者の真理は、種子的ロゴスが蒔いた種子によるもの
  • その真理の完全な現れをキリストに見いだした
  • 「哲学者」であり「殉教者」――ユスティノスにとって矛盾ではなかった。キリスト教こそが本当の哲学だったから。

主な参照

  • ユスティノス『第一護教論』5; 26; 44; 46; 58–60; 61–67
  • ユスティノス『第二護教論』8; 10; 12; 13
  • ユスティノス『ユダヤ人トリュフォンとの対話』1–8
  • 『ユスティノス殉教録』
  • エウセビオス『教会史』4.18

【キリスト教史解説】日本キリシタン史 16世紀〜17世紀

 


キリシタン史のリアル ―― 宣教師の戦略と文化摩擦

対象時期:16世紀半ば〜17世紀後半 キーワード:適応主義/南蛮貿易/キリシタン大名/大日とデウス/バテレン追放令/禁教令/島原・天草一揆/寺請制度


0. 問題設定

  1. なぜ宣教師は日本文化を学んだのか
  2. なぜ大名はキリスト教に改宗したのか
  3. なぜ日本は最終的にキリスト教を禁止したのか

三つの視点:①宣教師の戦略 ②日本社会との摩擦 ③政治と国際情勢


1. 宣教師と日本文化 ―― 適応主義

  • 1549年 フランシスコ・ザビエル、鹿児島に到着
  • 日本は「宗教のない国」ではなく、仏教・神道を持つ高度な宗教社会だった
  • カブラル(布教長、1570年来日):日本文化への適応に消極的。日本人司祭の育成にも否定的
  • ヴァリニャーノ(巡察師、1579年来日):カブラルと対立
    • 宣教師に日本語・礼儀作法を習得させる
    • セミナリヨ・コレジヨを設立し、日本人聖職者を育成
  • 適応主義=「日本人に伝わる形でキリスト教を伝える」
    • ただし宣教師全体の方針ではない(イエズス会内部の反対、フランシスコ会などの別路線)
    • 論争の末に選ばれた戦略

2. 宣教と貿易

  • ポルトガルの交易網(インド洋〜東南アジア〜日本)
  • イエズス会自身がマカオ―長崎間の生糸貿易に関与し、利益が布教資金の一部に
  • 1580年 大村純忠、長崎・茂木をイエズス会に寄進
  • 注意:「宣教師=ポルトガルの工作員」ではない
    • 宗教的目的は本物であり、貿易関与は会内部でも批判の対象
    • ただし海外進出・国際交易と無関係でもない

3. キリシタン大名

  • 大村純忠・大友宗麟・有馬晴信(いずれも九州)
  • 改宗の要因:信仰/南蛮貿易/外交/情報/領国内の政治状況
  • 領内で集団改宗が進む場合もあった
  • ただし「領民全員が自動的に改宗」したわけではなく、地域差がある

4. 言葉の問題 ―― 「大日」から「デウス」へ

  • ザビエルは当初、神を「大日」と表現(ヤジロウの訳語とされる)
  • ザビエル書簡によれば、真言宗の僧侶は当初好意的だった
  • 教えの違いが明らかになり、ラテン語「デウス」へ転換
  • 原語使用の方針:デウス/パライソ/インヘルノ/アニマ
    • 理由:日本語の宗教語彙は仏教・神道の意味を帯びていた
  • 言葉の翻訳にとどまらない「世界観の翻訳」という課題

5. 文化摩擦

  • 唯一神信仰と、多元的な日本の宗教文化との衝突
  • 争点:寺院・仏像・宗教儀礼・葬送
  • 一部のキリシタン領主のもとで寺社・仏像の破壊があった
    • ただし一般化はできない(地域・時期による差)
  • 問い:新しい宗教は既存の宗教秩序とどう共存するか

6. 日本人キリシタンの葛藤

  • 家族の宗教・祖先の葬儀・地域行事・寺との関係
  • 改宗=家族・村・寺院・領主との関係を変える可能性
  • 「宣教師が改宗させた」という一方向の物語ではない
    • 受容する側の主体性に注目する

7. 天下人と幕府の警戒

  • 背景:スペイン・ポルトガルの世界進出、国内のキリシタン大名
  • 1587年 豊臣秀吉
    • 6月18日付「覚」:大名の改宗、領民への改宗強制、日本人の海外売買などに関わる内容
    • 6月19日付「バテレン追放令」(五か条):日本=「神国」、寺社破壊の非難、宣教師の20日以内の退去。貿易は継続可
    • 長崎を直轄地化
    • 追放令は徹底されず
    • ※二つの文書の関係・成立過程には研究上の議論がある
  • 1596年 サン=フェリペ号事件(土佐)
    • スペインの征服と宣教の関係への警戒が伝えられるが、影響の度合いは慎重な検討が必要
  • 1597年 二十六聖人の殉教(長崎)
  • 江戸初期 オランダ・イギリス(プロテスタント国)が来航し、布教を伴わない貿易を行う
  • 1612年 幕府、直轄領に禁教令
  • 1614年 禁教令を全国に拡大
  • 禁教は「宗教嫌い」ではなく、政治・外交・貿易・領主支配・宗教の複合問題

8. 島原・天草一揆

  • 1637年 島原・天草一揆
  • 背景:重い年貢/領主の苛政/飢饉/キリシタン弾圧/地域社会の不満
  • 一揆勢に多くのキリシタンが含まれ、宗教的シンボルも使用された
  • 時系列の整理:
    • 禁教は一揆以前(1612年〜)から進行していた
    • 一揆はその後の政策強化に影響した
  • 1639年 ポルトガル船の来航禁止
  • 宗門改・寺請制度:地域差を伴いながら整備され、17世紀後半にかけて全国に定着

年表

年出来事
1549ザビエル、鹿児島に到着
1570カブラル来日
1579ヴァリニャーノ来日
1580長崎・茂木がイエズス会に寄進される
1587「覚」(6月18日)・バテレン追放令(6月19日)
1596サン=フェリペ号事件
1597二十六聖人の殉教
1612幕府、直轄領に禁教令
1614禁教令を全国に拡大
1637島原・天草一揆
1639ポルトガル船の来航禁止
17世紀後半寺請制度が全国に定着

まとめ

  • キリシタン史は「キリスト教が日本に来た歴史」にとどまらない
  • 宗教と宗教/日本と海外/信仰と政治/個人と社会がぶつかった歴史
  • 歩み寄り(言語習得・訳語の模索・学校設立)と衝突(破壊・弾圧・殉教・潜伏)の両面がある

2026年10月14日水曜日

【キリスト教史解説】殉教者ユスティノス ― ギリシア哲学とキリスト教の対話

 

殉教者ユスティノス ― ギリシア哲学とキリスト教の対話

キリスト教史解説 レジュメ

問い:哲学とキリスト教は対立するのか、それともつながっているのか。


1. 基本データ

項目内容
生没年100年頃 ― 165年頃
出身サマリア地方フラウィア・ネオポリス(現パレスチナ・ナブルス)
活動の中心ローマ
呼び名「殉教者ユスティノス」「哲学者ユスティノス」
主著『第一護教論』『第二護教論』『ユダヤ人トリュフォンとの対話』(いずれもギリシア語)
位置づけギリシア教父の一人/2世紀を代表する護教家

護教家(アポロジスト)とは

  • 2世紀、周囲の社会からの批判・誤解に対し、哲学的・論理的にキリスト教を擁護した思想家たち
  • ギリシア語:アリステイデス、タティアノス(ユスティノスの弟子)、アテナゴラス など
  • ラテン語(やや後代):テルトゥリアヌス
  • ユスティノスはその中で最重要の一人

2. 生涯

(1) 哲学の遍歴(『トリュフォンとの対話』冒頭)

順学派結果
①ストア派神について何も教えてくれない
②逍遥学派(アリストテレス派)すぐに授業料の話を持ち出す
③ピタゴラス派先に音楽・天文学・幾何学を学べと言われる
④プラトン派強く惹かれる ― しかし、これで終わらない

(2) 回心

  • 海辺で一人の老人と出会い、問答を重ねる
  • 哲学だけでは神を知りえないこと、哲学者より古く真理を語った預言者たちを示される
  • 「心に火がともった」 → キリスト教こそ「確かで有益な、ただ一つの哲学」
  • キリスト教 = 哲学を捨てて入るものではなく、「本当の哲学」
  • 回心の場所は本文に記載なし(エフェソス説が多いが不確実)
  • 『第二護教論』:死を恐れないキリスト教徒の姿にも心を動かされたと述懐

(3) ローマでの活動と殉教

  • 2世紀半ば、ローマでキリスト教を教え、哲学的に擁護
  • 教会内部の異説とも対決 ― 例:マルキオン(旧約の神とキリストの父なる神を別の神とする説)を批判
  • 165年頃、マルクス・アウレリウス帝治下で殉教
  • 『ユスティノス殉教録』:首都長官ユニウス・ルスティクスの裁判 → 仲間とともに斬首

3. 思想(中心)

(1) 哲学を否定しない

  • 哲学のなかにも真理があると認める
  • その真理をキリスト教との関係で捉え直す
  • ギリシア哲学の概念・言葉でキリスト教信仰を説明した最初期の重要な思想家
  • 結びつけの鍵 = 「ロゴス」

(2) ロゴス

  • ギリシア語で「言葉」「理性」
  • ギリシア哲学:世界を貫く理性、世界秩序の原理
  • ヨハネ福音書1:1「初めに言(ロゴス)があった」
  • ユスティノス:キリスト = 創造に先立って神から生まれたロゴス
  • ロゴスは受肉以前から世界のなかで働いていた

(3) 種子的ロゴス

  • ロゴスはすべての人間に「種」を蒔いている
  • 用語の区別(混同に注意)
用語指すもの
種子的ロゴス(ロゴス・スペルマティコス)種を蒔く側のロゴス
ロゴスの種子人間の側に蒔かれたもの

(4) 部分と全体

  • 哲学者たち(プラトン、ストア派など)も、それぞれの程度に応じて真理の一部を認識しえた
  • 『第一護教論』:ロゴスに従って生きた人は、キリスト以前でもキリスト者 ― 例:ソクラテス、ヘラクレイトス
  • ただし哲学者の真理は部分的 → ロゴスの全体はイエス・キリストにおいて現れた
  • 結論:キリスト教は哲学と対立する一宗教ではなく、哲学者が求めた真理がキリストにおいて完全に示されたもの

(5) 補足

  • 先行者フィロン:聖書の伝統をギリシア哲学の言葉で解釈する試みは、ユダヤ教側にアレクサンドリアのフィロンがいた
  • 借用説:プラトンはモーセから学んだ(哲学の真理は聖書からの借用)という別の説明
    • 歴史的事実ではないが、哲学と聖書を一つにつなげようとする姿勢がうかがえる

4. 著作

(1) 『第一護教論』

  • 150年代半ば、皇帝アントニヌス・ピウスとその息子たちに宛てる
  • キリスト教徒への非難(無神論・不道徳・国家への不忠実)に対する弁明
  • 神、イエス・キリスト、復活、キリスト者の生活を説明
  • 終盤:洗礼・聖餐・日曜日の礼拝の記述 ― 初期キリスト教礼拝の最古の証言の一つ
  • ソクラテスも真理を語ったゆえに迫害された ― キリスト者への迫害も同じ

(2) 『第二護教論』

  • ローマ元老院宛て
  • 独立した書というより『第一護教論』の付録とみる説が有力
  • 13章:種子的ロゴスを語る最も有名な箇所
    • プラトン、ストア派、詩人、歴史家は、種子的ロゴスの分け前に応じて真理の一部を語った

(3) 『ユダヤ人トリュフォンとの対話』

  • ユダヤ人トリュフォンとの対話形式
  • 冒頭:ユスティノス自身の哲学遍歴と回心
  • 本論:旧約の預言がイエス・キリストにおいて成就したことを論証
  • 主題:旧約と新約は神の救いの計画として一つ ― キリスト教にとって旧約聖書のもつ意味
  • 対話の舞台:エフェソス(エウセビオス『教会史』による)

5. まとめ

  • 2世紀を代表する護教家
  • 哲学諸派を遍歴 → 回心 → ローマで教授 → 165年頃殉教
  • ギリシア哲学を否定せず:哲学者の真理は、種子的ロゴスが人間に蒔いた種子による
  • その真理の完全な現れをキリストに見いだす
  • 哲学者であり殉教者 ― 両者は矛盾しない。キリスト教こそ「本当の哲学」だから

主な参照

  • ユスティノス『第一護教論』5; 26; 44; 46; 58–60; 61–67
  • ユスティノス『第二護教論』8; 10; 12; 13
  • ユスティノス『ユダヤ人トリュフォンとの対話』1–8
  • 『ユスティノス殉教録』
  • エウセビオス『教会史』4.18

2026年10月10日土曜日

【キリスト教史解説】スミュルナのポリュカルポス ― 使徒時代と2世紀をつないだ教父

 

スミュルナのポリュカルポス ― 使徒時代と2世紀をつないだ教父


0. 本日の要点

  1. ポリュカルポスとは誰か ― なぜ「使徒とのつながり」で知られるのか
  2. 彼を取り巻く人々 ― イグナティオス、エイレナイオス
  3. ローマ司教アニケトゥスとの話し合い ― 復活祭の日付をめぐって
  4. スミュルナでの殉教 ―「八十六年間、私はこの方に仕えてきた」

1. 基本データ

項目内容
生年69/70年ごろ(推定)
没年155/156年ごろ(2月23日殉教と伝承)
活動地小アジアの港町スミュルナ(現トルコ・イズミル)
職務スミュルナ教会の司教
現存著作『フィリピ人への手紙』1通のみ

年代についての注意

  • 没年は、殉教録に出てくるローマ総督の名前からの推定
  • エウセビオス(4世紀)は、より遅い160年代とする
  • 生年は「八十六年間」という言葉からの逆算であり、推定にとどまる

2. 使徒教父とは

  • 使徒たちの教えを直接または間接に受け継いだとされる人々
  • 時代:1世紀末~2世紀前半(「使徒の次の世代」)
  • 代表的人物:ローマのクレメンス、アンティオキアのイグナティオス、ポリュカルポス
  • 呼称の起源:1672年、フランスの学者コトリエが「使徒の時代に栄えた教父たち」の文書として出版したこと(古代からの呼称ではない)

3. 使徒とのつながり ― エイレナイオスの証言

3.1 証言の内容

  • 証言者:リヨンのエイレナイオス(2世紀後半の神学者。少年時代にポリュカルポスの話を直接聞いた)
  • 『異端反駁』3.3.4
    • 使徒たちから教えを受け、キリストを見た多くの人々と交わった
    • 使徒たちによってスミュルナの司教に任じられた
  • フロリノス宛ての手紙
    • 座っていた場所、出入りの様子まで記憶している
    • 「ヨハネや、主を見た人々との交わり」について語るのを聞いた

3.2 よくある誤解

  • 「2世紀の人」と紹介されがちだが、生まれは1世紀
  • 人生の最初の約30年は1世紀 → 使徒世代とじかに接したという伝承は、年代上は無理がない

3.3 「ヨハネ」をめぐる注意

  • 十二使徒のヨハネか、「長老ヨハネ」と呼ばれる別人か ― 研究者間で議論あり
  • 証言は少年時代の記憶であり、現代歴史学の意味で「証明された事実」とは言えない
  • 確かに言えること:2世紀後半の教会が、ポリュカルポスを「使徒の教えを受け継ぐ人」として理解していた

4. イグナティオスとの出会い

  • アンティオキアのイグナティオス:シリアのアンティオキアの司教。2世紀初め、ローマへ護送され殉教と伝承
  • 護送の途中スミュルナに立ち寄り、ポリュカルポスと会う
  • 旅の途中で書いた手紙は7通
    • 4通はスミュルナから発信
    • その後トロアスから、スミュルナの教会とポリュカルポス個人に宛てて発信
  • 7通のうち個人宛ては『ポリュカルポスへの手紙』のみ → 二人の関係の深さ

5. 人のつながり(整理)

主を見た人々(使徒ヨハネら)
        │
        ▼
  ポリュカルポス ─── イグナティオス(同時代)
        │
        ▼
  エイレナイオス(少年時代に聴講 → のちリヨン司教)
  • ポリュカルポスを経由して、小アジアの伝承が西方(ガリア)へ運ばれた
  • 時代の上でも地理の上でも、教会をつなぐ「結び目」

6. 異端への態度

  • 『フィリピ人への手紙』7章:「イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しない者は、反キリストである」
    • 仮現論(キリストが本当に人間の体を持っていたことを否定する教え)を退ける
  • マルキオンとの逸話(エイレナイオスが伝える)
    • マルキオン:旧約の神とイエス・キリストの父なる神とを別の神とした人物
    • 「私のことが分かりますか」→「分かるとも。サタンの長子だ」
  • ローマ滞在中、異端に傾いていた多くの人々を教会の信仰に立ち返らせた
  • 信仰理解:個人が自由に作り変える思想ではなく、使徒たちから受け継ぎ、教会のなかで伝えられてきたもの

7. 復活祭の日付をめぐって

7.1 二つの伝統

小アジアローマ
基準ユダヤ暦ニサンの月14日(過越祭の日)ニサン14日を守らない
曜日関係なく日付を守る後代には日曜日に祝う
  • ポリュカルポスの時代のローマで、年1回の復活祭がすでに祝われていたかは議論あり
  • 通常「復活祭論争」と呼ばれるのは、190年ごろのローマ司教ウィクトルと小アジア教会の対立。ポリュカルポスの件はその「前史」

7.2 アニケトゥスとの話し合い(154~155年ごろ)

  • 出典:エイレナイオスのウィクトル宛て書簡(エウセビオス『教会史』5.24)
  • ポリュカルポス:主の弟子ヨハネやほかの使徒たちと共にニサン14日を守ってきた
  • アニケトゥス:自分より前のローマの長老たちの慣習に従うべき
  • 結果:互いを説得できず
  • それでも交わりを断たなかった
    • アニケトゥスは自分の教会での聖餐執行を、敬意をもってポリュカルポスに譲った
    • 二人は平和のうちに別れた
  • 30年あまり後、小アジア教会を破門しようとしたウィクトルを、エイレナイオスはこの先例を引いていさめた

伝統が違うことと、相手を教会の交わりから締め出すことは、同じではない。


8. 『フィリピ人への手紙』

  • 宛先:ギリシアのフィリピの教会
  • 内容(実践的):信仰を守ること/忍耐/教会の指導者の尊重/貪欲を避けること
  • 貪欲への警告の背景:長老ウァレンスの金銭をめぐる不正。悔い改めのための祈りを求める
  • イグナティオスへの言及:手元のイグナティオス書簡をまとめてフィリピに送付 → イグナティオス書簡の伝承に寄与したと考えられる
  • 成立:二つの時期の手紙が一つにまとめられたとする説あり → ひとまず「2世紀前半」

9. 殉教

9.1 逮捕と「八十六年」

  • 史料:『ポリュカルポス殉教録』
  • スミュルナで迫害が起こり、群衆がポリュカルポスの捜索を要求
  • 町の外の小さな農園に身を寄せていたが、発見され逮捕
  • 競技場での総督の要求:「皇帝の守護霊にかけて誓え。キリストを罵れ。そうすれば釈放してやろう」
  • ポリュカルポスの答え:

「八十六年間、私はこの方に仕えてきました。その間、この方は私に何一つ不正をなさいませんでした。私を救ってくださった王を、どうして冒涜することができましょうか」

  • 「八十六年」は、誕生からの年数とも、受洗からの年数とも読める

9.2 火と短剣(殉教録の記述)

  • 火刑の宣告
  • 炎は風をはらんだ船の帆のように、体をアーチ状に取り囲んだ
  • 体は焼かれず、焼かれるパン、あるいは炉で精錬される金銀のように見えた
  • 執行人が短剣で刺し、流れ出た多量の血が火を消した
  • 遺体は改めて焼かれ、信徒たちは遺骨を「宝石よりも尊いもの」として納めた
  • 殉教の日を毎年記念することを決定

9.3 史料としての『殉教録』

  • 形式:スミュルナの教会からフィロメリウムの教会に宛てた手紙
  • 成立:殉教から1年以内とするのが通説(現存最古の殉教録)。3世紀成立とみる研究者もいる
  • 奇跡の記述は、現代歴史学の意味でそのまま事実として確かめることはできない
  • 価値:2世紀のキリスト教徒が殉教をどう理解し、殉教者をどう記念しようとしたかを当時の言葉で知ることができる。殉教者の命日を記念する習慣の出発点

10. 歴史的意味

  1. 使徒時代と2世紀の教会をつなぐ人物 ― エイレナイオスの証言を通して、使徒の教えを受け継ぐ人として記憶された
  2. 教会の伝統を守ろうとした人物 ― 誤った教えに対して信仰を擁護し、復活祭の日付でも受け継いだ伝統を重んじた
  3. 異なる伝統と教会の交わりとの両立を示した人物 ― アニケトゥスと合意できなくても、互いを交わりから締め出さなかった

11. まとめ

  • 1世紀に生まれ、2世紀半ばに殉教したスミュルナの司教
  • 使徒たちとの交わりを伝えられ、イグナティオスと出会い、少年エイレナイオスに信仰を語り伝えた
  • 誤った教えにははっきり立ち向かったが、慣習の違いを理由に交わりを断たなかった
  • 「八十六年間、この方に仕えてきた」と語って生涯を終えた
  • 彼の生涯を通して、使徒たちから受け継いだ信仰が2世紀の教会でどのように守られ、伝えられたかを見ることができる

略年表

年代出来事
69/70年ごろポリュカルポス誕生(推定)
2世紀初めイグナティオス、護送途中にスミュルナに立ち寄る
2世紀前半『フィリピ人への手紙』
154~155年ごろローマ訪問、アニケトゥスとの話し合い
155/156年ごろスミュルナで殉教(エウセビオスは160年代)
190年ごろ復活祭論争(ウィクトルと小アジア教会)。エイレナイオスの仲裁
1672年コトリエの出版(「使徒教父」の呼称の起源)

主な参照

  • エイレナイオス『異端反駁』(Adversus Haereses)3.3.4
  • エウセビオス『教会史』4.14–15; 5.20; 5.24.14–17
  • 『ポリュカルポスのフィリピ人への手紙』1; 3; 7; 9; 11; 13
  • 『ポリュカルポス殉教録』5–6; 9; 15–16; 18–19; 21
  • イグナティオス『ポリュカルポスへの手紙』、『スミュルナ人への手紙』
  • J.-B. Cotelier, SS. Patrum qui temporibus apostolicis floruerunt … opera (Paris, 1672)

2026年10月2日金曜日

アンティオキアのイグナティオス ──「使徒教父」、「殉教死」、最初の「公同の教会」提唱、「イグナティオスの手紙」(真正書簡7通)

 

アンティオキアのイグナティオス

キリスト教史解説 レジュメ 使徒教父/殉教/「公同の教会」/イグナティオスの手紙(真正書簡7通)


0. 本講の要点

イグナティオスが重要なのは、2世紀はじめの教会において、次の三つがどう結びついていたかを示しているからです。

  1. 司教を中心とする教会の一致
  2. 「公同の教会」という教会理解
  3. キリストが本当に人となり、苦しみ、復活したという信仰

1. 人物

  • 使徒教父の一人(使徒教父=使徒直後の時代、1世紀末〜2世紀前半に活躍した教会指導者)
  • シリアのアンティオキアの司教(アンティオキアは初期キリスト教の中心地の一つ)
  • 伝承:トラヤヌス帝(在位98〜117)の治下に捕らえられ、ローマへ護送され、野獣刑により殉教
    • ただし、殉教の場所・方法を確証する同時代史料はない
  • 殉教年:伝統的には107年ごろ。110〜117年ごろとする説もあり、確定できない

2. 七つの書簡

護送の途上、各地の教会とスミルナ司教ポリュカルポスにあてて、ギリシア語で執筆しました。

執筆地宛先備考
スミルナエフェソ教会宛て
スミルナマグネシア教会宛て
スミルナトラレス教会宛て
スミルナローマ教会宛て。ローマの司教に言及なし
トロアスフィラデルフィア教会宛て
トロアススミルナ教会宛て。「公同の教会」(8.2)
トロアスポリュカルポス唯一の個人宛て

伝承形態(三つの版)

  • 中間版:7通。真正性が広く認められている
  • 長大版:後代の加筆や偽書簡を含む
  • シリア語版(短縮版):3通を短縮したもの

成立年代をめぐる諸説

  • 伝統的見解:トラヤヌス帝期
  • 異説:ハドリアヌス帝期、または140年代

3. 司教を中心とする教会

  • 司教・長老・執事の三職を明確に区別
  • 一人の司教を中心とする一致を繰り返し説く(単独司教制/単独監督制)
  • 『スミルナ』8章:司教なしに、教会に関わることを何も行ってはならない

留意点:制度は一様ではなかった

  • 単独司教制がはっきり意識されていたのは、2世紀はじめの一部の地域
  • 『ローマの信徒への手紙』だけは、ローマの司教にまったく触れていない
  • イグナティオスの関心の中心は、制度そのものよりも分裂を避け、教会が一つであること

4. 「公同の教会」

  • katholikē ekklēsia(カトリケー・エクレーシア)
  • 『スミルナ』8.2の趣旨:司教が現れるところに会衆がいるように、イエス・キリストがおられるところに公同の教会がある
    • 司教と「公同の教会」が一つの文の中で並べられている
  • 「カトリケー」=「普遍的な」「全体的な」
    • 現在の「ローマ・カトリック教会」という教派名と同じ意味ではない
  • 現存資料で最も早い用例
  • 個々の地域教会を越えた、キリストを中心とする一つの普遍的教会という理解

その他の初期用例

  • 「キリスト教」Christianismos の最初期の用例
  • 聖餐を eucharistia と呼ぶ初期の重要な証言(同時期ないし先行する可能性のある『ディダケー』にも用例あり)

5. 仮現説への反論

  • 主張:キリストは本当に肉体を持って生まれ、苦しみ、十字架で死に、復活した
  • 同時に、キリストの神性も強調
  • 論敵:キリストの受肉・受難の現実性を認めない人々
    • イグナティオスによる要約:キリストは「苦しんだように見えただけ」
  • ギリシア語 dokein(ドケイン、「見える」)→ 後に**仮現説(ドケティズム)**と呼ばれる

なぜ重大か

  • 受肉が現実でなければ、十字架・死・復活・聖餐の意味が根本から揺らぐ
  • なお、ユダヤ教の慣習にこだわる人々も批判しており、向き合った問題は一つではない

6. 三つは一つ ― キリスト論・聖餐・教会の一致

  • 正しいキリスト理解、聖餐、教会の一致は、別々の問題ではない
  • 『スミルナ』7章:仮現説の人々は聖餐から離れている(聖餐を「救い主の肉」と告白しないため)
  • 論理の流れ
キリストは本当に肉体を持った
        ↓
聖餐はその死と復活に結びつく現実の意味を持つ
        ↓
そのキリストを信じる共同体は、分裂せず一つである
        ↓
その一致の中心としての司教

7. 殉教への旅

  • 七書簡は、殉教へ向かう旅の途中で書かれた
  • 自分の死を敗北ではなく、キリストの苦しみにあずかることとして受け止める
  • 『ローマ』4章:自分は「神の麦」。獣の歯に砕かれて、キリストの清いパンとなる
  • 七書簡は教会制度の論文ではなく、死を前にした一人の司教の証言

8. まとめ

  1. イグナティオスは2世紀はじめのアンティオキアの司教で、ローマへの護送の途中に七つの書簡を残した
  2. 司教を中心とする教会の一致を強く説いた
  3. 現存資料で最も早い「公同の教会」の語が登場し、同時にキリストの現実の受肉・受難・復活が強く主張されている

後のキリスト教史につながる三つの問い

  • 教会とは何か
  • キリストとは誰なのか
  • 教会は、どのようにして一つであるのか

用語集

用語原語意味
使徒教父—使徒直後の時代(1世紀末〜2世紀前半)の教会指導者
公同の教会katholikē ekklēsia普遍的・全体的な教会
キリスト教Christianismosイグナティオスに最初期の用例
聖餐eucharistia「感謝」に由来する聖餐の呼称
仮現説dokein(見える)に由来キリストの受肉・受難を見せかけとする考え方
単独司教制—各地域教会に一人の司教を置く体制

【キリスト教史解説】再洗礼派の光と影──過激派ミュンスターの狂気から非暴力メノー派まで

 

再洗礼派(英: Anabaptists、独: Wiedertäufer / Täufer)

【要約】

宗教改革期に現れた急進派のうち、幼児洗礼を無効とし、信仰告白に基づく洗礼(信仰者洗礼・成人洗礼)を行った諸集団の総称。スイス兄弟団、H. フートに始まる南ドイツ・オーストリア系、フーター派、メルヒオル派、ミュンスター再洗礼派、メノー派などが含まれる。これらは幼児洗礼の否定と国家教会体制からの分離という点で共通するが、発生地・教理・組織形態を異にし、相互に影響し合うと同時にしばしば対立した。宣誓・兵役・剣の行使を拒む平和主義的潮流と、熱狂的終末論や武力行使に向かう潮流の双方を含み、フーター派では財産共有が制度化された。カトリック・プロテスタント双方から激しい迫害を受けたが、その系譜はメノナイト、アーミッシュ、フーター派として今日まで存続している。

【本文】

名称

「再洗礼派」(Wiedertäufer/Anabaptist)は、一度限りであるべき洗礼を二度授ける者という意味で、反対派が用いた他称・蔑称である。この呼称は単なる蔑称にとどまらず法的な意味をもった。古代末期のローマ法(テオドシウス法典・ユスティニアヌス法典)はドナトゥス派対策として再洗礼を死罪と定めており、1529年のシュパイアー帝国議会の勅令がこれを援用して、再洗礼を帝国全土で死刑に値する犯罪としたためである。当事者たちは自らを「兄弟」あるいは「洗礼派」(Täufer、蘭 Doopsgezinden)と呼び、幼児洗礼はそもそも洗礼ではない以上、自分たちの洗礼は「再」洗礼ではないと主張した。現在のドイツ語圏の研究では中立的な Täufer が標準的な呼称である。

発生と多元性

かつては、チューリヒのスイス兄弟団を唯一の源流とし、そこから各地へ伝播したとする単一発生説(H. S. ベンダーら)が有力であった。しかし1975年の J. M. ステイヤー、W. O. パックル、K. デッパーマンの論文以降、①スイス、②南ドイツ・オーストリア、③オランダ・北ドイツという少なくとも三つの発生源を認める多元発生説が通説となっている。各潮流は、聖書主義、終末論、神秘主義、農民戦争後の社会的不満など、異なる要素の配合の上に成立した。ただし各派はまったく孤立していたわけではなく、とくにモラヴィアや南ドイツでは指導者の移動を通じて接触・融合・対立が繰り返された。
以下、主要な諸派を挙げる。

スイス兄弟団

ツヴィングリ(Huldrych Zwingli, 1484–1531)によるチューリヒの改革の途上で生まれた集団。指導者のグレーベル(Konrad Grebel, c. 1498–1526)、マンツ(Felix Manz, c. 1498–1527)らは当初ツヴィングリの熱心な協力者であったが、市参事会と協調し、その同意なしには改革を進めようとしない彼の姿勢に失望して離反した。1525年1月21日、マンツの家での集会でグレーベルがブラウロック(Georg Blaurock, c. 1492–1529)に洗礼を授け、ブラウロックが他の者に授洗したのが、再洗礼派の最初の信仰者洗礼とされる。
初期の運動内部には立場の幅があった。ヴァルツフート、のちモラヴィアのニコルスブルクで活動したフープマイヤー(Balthasar Hubmaier, c. 1480–1528)のように、為政者の権威と剣の行使を容認し、都市・領邦単位での洗礼派的教会形成を構想する者もおり(『剣について』1527年)、またドイツ農民戦争と接触して武力行使を肯定する者もいた。しかし1525年以降、チューリヒをはじめ各地で弾圧が本格化するなかで、分離主義・非暴力の路線が明確になる。その表明が、1527年2月24日にシャフハウゼン近郊のシュライトハイムで採択された「シュライトハイム信仰告白」(兄弟の一致 Brüderliche Vereinigung)である。ザトラー(Michael Sattler, c. 1490–1527)の起草とされる七箇条は、信仰者洗礼・戒規(破門)・パン裂き・世からの分離・牧者・剣の否定・宣誓の拒否を定め、公職就任や兵役を含む暴力行使を拒む徹底した平和主義と、世俗社会からの決定的な分離を特徴とする。ザトラー自身は同年5月、ロッテンブルクで処刑された。
弾圧は苛烈であった。マンツは1527年1月5日、チューリヒのリマト川で溺死刑に処され、プロテスタント当局に処刑された最初の再洗礼派となった(グレーベルは1526年にペストで死去)。それでも同団は消滅せず、スイス・アルザス・南ドイツで潜行して存続し、1693年のアマン(Jakob Ammann)による分裂を経てアーミッシュを生み、他はスイス・南ドイツ系メノナイトとして現在に至る。

南ドイツ・オーストリア系(H. フートの流れ)

ドイツ農民戦争(1524–25)に敗れた民衆の絶望的な心理状況を土壌として、フート(Hans Hut, c. 1490–1527)が南ドイツ・中部ドイツからオーストリア、モラヴィアにかけて熱烈な伝道を行い、多数の者に洗礼を授けた。フートを介してミュンツァーの神秘主義思想と急進的な終末論を受け継いだこの流れは、聖書主義的・分離主義的なスイス兄弟団とは性格を大きく異にする。フートは1528年の聖霊降臨祭に終末が到来すると予告したが、1527年12月、アウクスブルクの獄中で火災により死亡した(遺体はのちに焼かれた)。予言の不成就と指導者の死、各地の弾圧によって運動の一部は解体し、他は変質して、その多くがモラヴィアの諸集団に吸収され、のちのフーター派形成の一要素となった。

フーター派

プロテスタント・カトリック双方の当局から迫害された再洗礼派の多くは、比較的寛容な領主のもとにあったモラヴィア(現チェコ東部)に避難し、一時的ながら安全を得た。同地にはフープマイヤー系、フート系、スイス兄弟団系など諸潮流が集まり、互いに対立しつつ影響し合って新たな派を生んだ。財産共有の実践は、1528年にニコルスブルクからアウステルリッツへ移った一団(ヴィーデマン Jakob Wiedemann ら)に始まるが、チロル出身のフーター(Jakob Hutter, c. 1500–1536)が1533年にモラヴィアの諸集会を統合し、使徒行伝に範をとる財産共有と共同生活(ブルーダーホーフ)を制度として確立した。フーター自身は1535年に逮捕され、1536年2月25日、インスブルックで火刑に処された。
同派は思想的にはフート的要素とスイス兄弟団的要素を併せもつ折衷的な性格をもつが、平和主義を徹底し、リーデマン(Peter Riedemann, 1506–1556)の『信仰告白』(1540/45年)によって教理的基盤を得た。ヴァルポット(Peter Walpot)の指導期を中心とする16世紀後半には「黄金時代」を迎え、モラヴィアの他の再洗礼派諸派が途絶えた後も存続した。その後、迫害によってハンガリー(トランシルヴァニア)、ワラキア、ウクライナへと移動を重ね、1870年代に北米へ移住した。2024年の調査では北米に544のコロニー、約5万8千人を数え、その約7割がカナダに居住する。

メルヒオル派

毛皮職人出身の遍歴説教者ホフマン(Melchior Hoffman, c. 1495–1543)に始まる集団。当初ルター派の信徒説教者であったホフマンは、1530年頃から再洗礼派に転じ、帝国自由都市ストラスブール(現フランス、アルザス地方)を拠点として、東フリースラントとネーデルラントを中心に北ヨーロッパで大きな影響力をもった。彼は終末の切迫、その前に起こる迫害、敬虔な都市当局による神の敵の排除、そして神の国の樹立という黙示録的預言を説き、ストラスブールこそ「新しいエルサレム」であり1533年に主が再臨すると予告した。預言は成就せず、ホフマンは同年ストラスブールで投獄され、10年後に獄中で没した。彼のキリスト論(キリストの「天的肉体」論)と終末論は、オランダの平和主義的メルヒオル派と、次に述べるミュンスター再洗礼派の双方に受け継がれた。

ミュンスター再洗礼派

メルヒオル派の急進的一派が、1534年から35年にかけて北西ドイツの司教都市ミュンスターを掌握し、同市を「新しいエルサレム」と宣言して千年王国の実現を図った運動。ヤン・マティス(Jan Matthys)、続いてヤン・ファン・レイデン(Jan van Leiden)の指導下で、財産共有、一夫多妻制、王権の樹立へと急進化したが、司教軍の包囲の末、1535年6月に陥落し、指導者たちは翌1536年1月に処刑された。この事件は再洗礼派全体に「反乱者」の烙印を押し、以後の迫害を決定的に強めた点で、運動史上の分水嶺となった。

メノー派(メノナイト)

ミュンスター陥落後、分散し混乱したメルヒオル派の平和主義的残存勢力を再編したのが、フリースラントのカトリック司祭メノー・シモンズ(Menno Simons, 1496–1561)である。メノーは以前から実体変化と幼児洗礼に疑問を抱いていたが、1535年のオルデクロースター事件(ミュンスター派に共鳴した一団の武装蜂起で、彼の弟とされるペーテルも死亡)に衝撃を受け、1536年1月に司祭職を放棄した。非暴力的なメルヒオル派の指導者オッベ・フィリップス(Obbe Philips)、ディルク・フィリップス(Dirk Philips)に合流し、1537年頃に長老として按手を受けた。彼自身はミュンスター派に属したことはなく、その武力行使を明確に否定する立場から諸集会をまとめ、聖書に基づく非暴力・分離主義の路線を確立した点に歴史的意義がある。メノー派はスイス兄弟団と多くの共通点をもつが、その直接の後継者ではない。同派はオランダ・北ドイツからプロイセン、ロシアを経て南北アメリカへと広がった。
メノナイト諸教会は、信仰者洗礼、非暴力(無抵抗主義)と信徒共同体の相互扶助を特徴とし、伝統的に宣誓と兵役を拒否してきた。メノナイト世界会議の集計によれば、16世紀再洗礼派に連なる諸教会(アーミッシュ等を含む)の受洗信徒は世界87か国に約203万人を数え、地域別ではアフリカが45%で最大、北米が29%を占める。なお、アーミッシュの人口は子どもを含めて北米で約41万人に達している(2025年推計)。

【関連項目】

ツヴィングリ/宗教改革左派(急進的宗教改革)/ドイツ農民戦争/トマス・ミュンツァー/シュライトハイム信仰告白/ミュンスター再洗礼派/メノナイト/アーミッシュ/フーター派/平和主義

【主要文献】

  • Global Anabaptist Mennonite Encyclopedia Online (GAMEO)
  • J. M. Stayer, W. O. Packull, K. Deppermann, "From Monogenesis to Polygenesis: The Historical Discussion of Anabaptist Origins," Mennonite Quarterly Review 49 (1975)
  • G. H. Williams, The Radical Reformation, 3rd ed., 1992
  • C. Arnold Snyder, Anabaptist History and Theology: An Introduction, 1995
  • 田中真造「再洗礼派」『世界大百科事典』(平凡社)

2026年9月30日水曜日

【キリスト教史解説】マルティン・ブツァー──ストラスブールの宗教改革者;ルターとカルヴァンを架橋した「融和の神学者」

 


要約

 シュトラスブール(ストラスブール)の宗教改革者。Bucer とも綴る。ドミニコ会士としてハイデルベルクで学ぶ中、エラスムスの人文主義とルターの教説に触れてプロテスタントに転じ、1523年よりシュトラスブールの教会改革に尽力した。教会規律・学校教育の整備を通じて南ドイツからフランスにまで影響を及ぼし、亡命中のカルヴァンを庇護して、その後の改革派教会形成にも影響を与えた。1548年のアウクスブルク仮信条協定に反対したためイギリスに亡命し、ケンブリッジ大学教授として、エドワード6世治下の英国教会改革に貢献した。


本文

 南部エルザスのシュレットシュタット(セレスタ)に生まれる。1506年(1507年とする説もある)、ドミニコ会に入会し、ハイデルベルクの同会修道院で神学を学ぶ。1517年にはハイデルベルク大学に籍を置き、翌1518年のハイデルベルク討論でルター本人と出会う。もとよりエラスムスの人文主義に傾倒していたブツァーは、この出会いを機にルターの教説に共鳴し、まもなくプロテスタントに転向した。

 1523年、ジッキンゲンの騎士戦争の敗北と破門を機にシュトラスブールへ逃れ、同地の宗教改革に参与。マタイス・ツェル、ヴォルフガング・カピト、カスパル・ヘディオらと共に教会規律の整備にあたる一方、聖餐論をめぐるルターとツヴィングリの対立の調停に努めるなど、教会全体が抗争状態になることを好まず、融和的・妥協的立場をとることが多かった(1529年マールブルク会談、1536年ヴィッテンベルク協約など)。この時期、宗教改革を教会制度の刷新にとどめず国家や学校教育の改革にも及ぼそうとし、ヨハネス・シュトゥルムと共にシュトラスブール・ギムナジウムの設立に関わるなど、その指導的立場は1530年の四都市信仰告白を通じ南ドイツからフランスにまで及んだ。1538年にはジュネーブを追われたカルヴァンをシュトラスブールに招いて庇護し、後年のジュネーブにおける改革派的教会形成の多くは、このシュトラスブール時代にカルヴァンが得た経験に由来するとされる。

 1548年、アウクスブルク仮信条協定に反対の意を示す(一時は圧力下で署名させられたが、帰郷後もカトリック儀礼への抵抗を続けた)。これにより身の置き所を失ったところへ、イングランド国教会大主教トマス・クランマーの招きもあり、1549年にイギリスへ亡命。ケンブリッジ大学の欽定神学教授(Regius Professor of Divinity)に任ぜられ、エドワード6世治下におけるイングランド教会改革(祈祷書改訂など)に尽力した。同地で『キリスト王国論』(De Regno Christi、1550年起草、没後1557年バーゼル刊)を執筆したほか、『真の魂の配慮について』(牧者論、1538年)をはじめ多数の聖書注解を残し、1551年ケンブリッジで没した。

【キリスト教史解説】スイス・チューリヒの宗教改革者ツヴィングリ

 

ーーーレジュメーーー
【キリスト教史解説】スイス・チューリヒの宗教改革者ツヴィングリ

[生] 1484年1月1日 ザンクト・ガレン州トッゲンブルク地方ヴィルトハウス
[没] 1531年10月11日 カッペル(第2次カッペルの戦いで戦死)

 スイス宗教改革の指導者。改革派系の人文主義的な宗教改革者の一人として数えられる。
 地元の有力な農家に生まれ、ベルンで人文主義者ハインリヒ・ヴェルフリン(通称ルプルス)に古典を学んだのち、ウィーン大学、バーゼル大学で人文学・哲学・神学を修めた。バーゼル在学中はエラスムス流の聖書中心的人文主義に強く影響を受け、後年エラスムス本人とも文通した。

 ハインリヒ・ヴェルフリン(Heinrich Wölflin, 1470頃–1534頃)は、ラテン名をHeinrich Lupulus(ルプルス)といい、スイスの人文主義者です。「Wölflin(小さな狼)」をラテン語化したものが Lupulus です。彼はベルンを中心に活動し、若きフルドリヒ・ツヴィングリに古典語・古典文学を教えました。ツヴィングリが後に聖書原典、とりわけギリシア語新約聖書を重視するようになる背景には、こうしたルネサンス人文主義の教育がありました。

 1506年、グラールスの教区司祭に叙任され、その後1516年から巡礼地アインジーデルンの司牧司祭を務める。1519年1月、チューリヒのグロースミュンスター(大聖堂)の司牧司祭に就任し、聖書の逐語的講解説教を開始した。同年ペストに罹患して瀕死の重病を経験し、これを機に改革運動への専心を強めたとされる。

アインジーデルン(Einsiedeln)はスイス中部の有名な巡礼地で、ベネディクト会修道院を中心に発展しました。ツヴィングリは1516年から1518年までアインジーデルンで司祭として活動しました。この時期、エラスムスの人文主義から強い影響を受け、新約聖書のギリシア語本文を研究しています。また、多くの巡礼者と接するなかで、巡礼や聖人崇敬など当時の教会の信仰実践に対する批判的視点も形成されていきました。そのためアインジーデルン時代は、1519年にチューリヒへ移って本格的な宗教改革を始める直前の思想形成期として重要です。


 1523年、チューリヒ市当局主催の公開討論会(チューリヒ討論)を経て、市と教会の新教化に成功。これはその後のスイス諸都市・州における改革運動のモデルとなった。以後、新教化する都市・州が相次ぎ、1527年にはチューリヒとコンスタンツの間で「キリスト教市民同盟(Christliches Burgrecht)」が結ばれ、1528年頃までにベルンなど他都市も加わり拡大した。

 スイスの新教同盟とドイツのルター派との協調の必要性を認識していたが、聖餐(聖体)の理解をめぐりルターと対立。ツヴィングリは聖餐を象徴的な記念行為とみなす立場(象徴説)を取り、実体的な現臨を説くルターとは相容れなかった。1529年のマールブルク会談、1530年のアウクスブルク国会でも和解には至らず、チューリヒは政治的・宗教的に孤立を深めた。

1530年のアウクスブルク国会

神聖ローマ皇帝カール5世が、帝国内の宗教的分裂を収拾するために招集した帝国議会。メランヒトンが起草した「アウクスブルク信仰告白」がルター派諸侯・都市によって提出され、ルター派の教義的基盤を確立する文書となった。一方、ツヴィングリ派に近い立場をとる南ドイツの都市(ストラスブルクなど)は、これとは別に「四都市信仰告白(テトラポリターナ信仰告白)」を提出し、ルター派とツヴィングリ派の神学的立場の相違が表面化。皇帝側はこれらの告白を拒絶し、プロテスタント側にカトリック信仰への回帰を求めたため、対立はむしろ先鋭化した。

 こうした緊張の中、カトリック側の森林諸州との間で1531年に第2次カッペルの戦いが勃発。ツヴィングリは従軍司祭として同行し、戦闘の中で命を落とした。

1531年の第2次カッペルの戦い

アウクスブルク国会での対立を経て、宗教改革を受け入れたチューリヒなど都市部のプロテスタント諸邦と、旧来のカトリック信仰を維持した「森林諸州(ウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンなど)」との緊張が高まり、武力衝突に至った戦い。チューリヒ軍は準備不足のまま出陣し、カッペル・アム・アルビスで森林諸州側に敗北した。この戦闘でツヴィングリ自身が従軍牧師として同行しており、戦死している。この敗北により、スイス国内における改革派の拡大は停滞し、スイス各邦がそれぞれの信仰を選択する体制(邦ごとの信仰の自由)が固定化されることになった。

 人文主義の影響を色濃く受けつつ、聖書のみを信仰と実践の規範とする厳格な聖書中心主義(聖書主義)を貫いた点に思想的特徴がある。その改革は宗教儀礼の刷新にとどまらず、都市の道徳・社会秩序の再編にも及び、後のカルヴァンによるジュネーヴ改革にも道を開いたとされる。

2026年8月26日水曜日

第二スイス信仰告白 日本語訳

 

第二スイス信仰告白 日本語訳 

第二スイス信仰告白 (1566年)

ハインリヒ・ブリンガーおよびスイス諸教会の信仰告白

訳者注:本訳は、ブリンガーによる1566年の原文(ラテン語、および同年発表のドイツ語版)を典拠とし、パブリックドメインである英訳(フィリップ・シャフ『Creeds of Christendom』所収、ハーモニー・オブ・リフォームド・コンフェッションズ版)を参照しつつ、日本語に新たに翻訳したものです。既存の邦訳(大崎節郎訳『改革派教会信仰告白集Ⅲ』など)とは独立した翻訳です。学術的な引用や教会での正式な使用には、定評ある既刊の邦訳をご参照ください。
また、19-30章は、要約版からの翻訳となっています。19章にこの点に関する詳しい注記を挿入しています。

第1章 聖書は真の神のことばであること

われらは、旧新約両聖書における聖なる預言者たちと使徒たちの正典的な書物が、真の神のことばであり、それ自体のうちに、人によってではなく、十分な権威を有していることを信じ、告白する。
なぜなら、神ご自身が父祖たち、預言者たち、使徒たちに語られ、今なお聖書を通してわれらに語り続けておられるからである。
そしてこの聖なる聖書のうちに、キリストの普遍的教会は、救いに至る信仰、また神に受け入れられる生活を形づくることに関わるすべての事柄が、余すところなく説き明かされているのを持っている。この点において、神はこれに何も加えることも、これから何も取り去ることも許されないと、明確に命じておられる(申命記4:2、黙示録22:18-19)。
それゆえわれらは、これらの聖書から、真の知恵と敬虔、教会の改革と統治、また敬虔のすべての務めについての教えが導き出されるべきであり、要するに、教理の確証とすべての誤りの論駁、そしてあらゆる勧告が導き出されるべきであると判断する。使徒の「神の霊感によって書かれたすべての聖書は、教えと戒めのために有益である」(テモテ第二3:16-17)との言葉のとおりである。
また使徒はテモテに、「わたしがこれらのことをあなたに書き送るのは、あなたが神の家でどのようにふるまうべきかを知るためである」と述べている(テモテ第一3:14-15)。
さらに同じ使徒はテサロニケの人々に、「あなたがたがわれらから神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れた」と述べている(テサロニケ第一2:13)。
主ご自身も福音書において、「語っているのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって語っておられるのはあなたがたの父の御霊である」と言われ、それゆえ「あなたがたに聞く者はわたしに聞き、あなたがたを拒む者はわたしを拒む」と言われた(マタイ10:20、ルカ10:16、ヨハネ13:20)。
したがって、この神のことばが、正当に召された説教者たちによって教会において宣べ伝えられるとき、われらは、まさに神のことばそのものが宣べ伝えられ、信仰者たちに受け入れられていると信じる。他のいかなる神のことばも作り出されてはならず、天からの新たな啓示を期待してもならない。今や宣べ伝えられていることば自体こそが顧みられるべきであって、それを宣べ伝える説教者ではない。たとえその説教者が悪しき罪人であったとしても、神のことばは真実であり善なるものであり続ける。
われらはまた、外的な説教が無益であると考えるべきではない。真の宗教における教えは御霊の内的な照明に依存しているとか、「もはや人はおのおのその隣人を教えることをしない。彼らはみなわたしを知るようになるからだ」(エレミヤ31:34)、また「植える者も水を注ぐ者も取るに足りない。成長させてくださる神こそがすべてである」(コリント第一3:7)と書かれているからといって、そう考えるべきではない。
というのも、「天の父に引き寄せられる者でなければ、だれもキリストのもとに来ることができない」(ヨハネ6:44)のであり、聖霊によって内的に照らされなければならないとはいえ、それでもなお神の御心が、その御ことばが外的にも宣べ伝えられることにあるのを、われらは疑いなく知っているからである。
神は、使徒言行録に記されているように、聖ペテロの奉仕によらずとも、聖霊によって、あるいは御使いの奉仕によって、コルネリウスを直接教えることもおできになったであろう。しかし、それにもかかわらず神は彼をペテロのもとへと導かれ、そのことについて御使いは、「彼があなたのなすべきことを告げるであろう」と語っている(使徒10:6)。
なぜなら、人々に聖霊を与えることによって内的に照らされる方ご自身が、同じように命令をもって弟子たちに、「全世界に出て行き、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)と言われたからである。
こうしてパウロは、ピリピの紫布商人ルディアに外的にことばを宣べ伝えたが、主は内的にその女の心を開かれた(使徒16:14)。
そして同じパウロは、ローマ人への手紙第十章における見事な論理の展開の末に、ついに「それゆえ、信仰は聞くことにより、聞くことはキリストのことばによる」(ローマ10:14-17)と結論づけている。
その一方でわれらは、神が、望まれるときには外的な奉仕なしにも、御心のままにだれをも照らすことがおできになることを知っている。それは神の力に属することである。しかしわれらは、神からわれらに命令と実例をもって伝えられた、人を教える通常の方法について語っているのである。
それゆえわれらは、聖書が聖霊から出たことを否定したアルテモン、マニ教徒、ワレンティノス派、ケルドン派、およびマルキオン派のあらゆる異端を退ける。彼らは、聖書のある部分を受け入れず、あるいは改ざんし、腐敗させた。
とはいえわれらは、旧約聖書のある種の書物が、古代の著述家たちによって「アポクリファ(外典)」と呼ばれ、また他の者たちによって「教会的な書物」と呼ばれてきたことを否定するものではない。すなわち、それらは教会において読まれるべきものとはされたが、信仰の権威を裏づけ確証するために援用されるべきものとはされなかった書物のことである。
アウグスティヌスもまた、その著書『神の国』第十八巻第三十八章において、「列王記の書には、ある預言者たちの名前と書物が数えられている」と述べながらも、「それらは正典のうちに含まれていない」こと、そして「われらが持っているこれらの書物で敬虔には十分である」ことを付け加えている。

第2章 聖書の解釈について、また教父・教会会議・伝承について

使徒ペテロは、「聖書のどの預言も、私的解釈を施してはならない」(ペテロ第二1:20)と述べている。それゆえわれらは、あらゆる種類の解釈を許容するものではない。したがってわれらは、ローマ教会がいうところの「解釈」──すなわちローマ教会の擁護者たちがすべての人に単純に受け入れさせようとしているもの──を、聖書の真実で正当な解釈であるとは認めない。むしろわれらは、聖書そのものから(すなわち、それが書かれた言語の精神から)導き出され、文脈に応じて重みづけられ、類似の箇所・相違する箇所、またより多く・より明瞭な箇所と照らし合わせて解き明かされ、信仰と愛の規範に一致し、神の栄光と人の救いに著しく資するような解釈のみを、正統かつ正真の解釈として認める。
したがってわれらは、ギリシアおよびラテンの聖なる教父たちの解釈を軽んじるものではなく、彼らの議論や論考が聖書と一致する限りにおいて、それを退けるものでもない。しかしながら、彼らの記述が聖書と異なる、あるいはまったく相反する事柄を述べていると判明した場合には、われらは謙虚にこれと意見を異にする。この点においてわれらが彼らに何ら不当を働いているとは考えない。というのも、教父たち自身がこぞって、自分たちの著作を正典としての聖書と同列に置くことを望まず、むしろそれらと一致するかどうかを吟味するよう命じ、一致する点は受け入れ、一致しない点は退けるよう求めているからである。
そして同じ位置づけを、われらは教会会議の決議や規範にも与える。
それゆえわれらは、宗教上の論争や信仰の事柄において、教父たちの見解や教会会議の決定のみをもって自らの立場を押し通すことを、自らに許さない。まして、慣習として受け継がれてきたことや、同一意見を持つ人の多さ、あるいは長年の慣行によって押し通すことも許さない。したがってわれらは、宗教や信仰に関する論争において、聖書によって何が真実で何が偽りか、何に従い何を避けるべきかを告げる神ご自身以外のいかなる裁き手も認めない。それゆえわれらは、神のことばから導き出された霊的な人々の判断にのみ従う。
エレミヤをはじめとする預言者たちは、神の律法に反して組織された祭司たちの集まりを激しく非難し、自分たち独自の考案物のうちを歩み、神の律法から逸れていった教父たちに聞き従わず、その道を踏まないようにと、われらに熱心に警告した。
同様にわれらは、人間の伝承を退ける。それらは、あたかも神的・使徒的なものであり、使徒たちの生きた声によって教会に伝えられ、いわば使徒的な人々の手を経て、後継の主教たちを通じて受け継がれてきたかのように、立派な名称で飾り立てられていることがある。しかし、聖書と比較するとそれらと矛盾しており、その矛盾によって、それらが決して使徒的なものではないことを自ら露呈している。使徒たちが教理において互いに矛盾しなかったように、使徒的な人々もまた使徒たちに反することを説きはしなかった。むしろ、使徒たちが生きた声によって、自らの著作に反することを伝えたなどと主張するのは、冒瀆というべきである。パウロは、自分がすべての教会で同じ事柄を教えたと明確に断言している(コリント第一4:17)。また彼は再び、「わたしたちは、あなたがたが読んで理解できる以外のことは、何も書いていない」と述べている(コリント第二1:13)。さらに別の箇所で彼は、自分と自分の弟子たち──すなわち使徒的な人々──が同じ道を歩み、共に同じ御霊によってすべてを行ったことを証ししている(コリント第二12:18)。
かつてユダヤ人たちにも、長老たちの伝承があった。しかし、これらの伝承は主によって厳しく退けられ、それを守ることが神の律法を妨げること、またそのような伝承によって神が空しく礼拝されていることが示された(マタイ15:1以下、マルコ7:1以下)。

第3章 神について、その唯一性と三位一体について

われらは、神が本質・本性において唯一であり、自存し、それ自体で全き充足を持ち、目に見えず、身体を持たず、無限であり、永遠であり、見えるものと見えないものすべての創造主であり、至高の善であり、生きて、すべてのものに命を与え、これを保ち、全能かつ至高の知恵を持ち、慈愛と憐れみに富み、義であり真実である、と信じ、教える。まことにわれらは多くの神々を忌み嫌う。なぜなら、「あなたの神、主は唯一の主である」(申命記6:4)、「わたしはあなたの神、主である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト20:2-3)、「わたしは主である。わたしのほかに神はない。わたしのほかに神があろうか。わたしのほかに岩はない」「義なる神、また救い主であって、わたしのほかにはない」(イザヤ45:5、21)、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」(出エジプト34:6)と明確に記されているからである。
それにもかかわらず、われらは、この無限で唯一かつ不可分の神が、御父・御子・聖霊として、分かたれることなく、また混同されることなく、位格において区別されると信じ、教える。すなわち、御父は永遠から御子を生み、御子は言い表しがたい仕方で生まれ、聖霊はまことに両者から発出し、これも永遠からのことであり、両者とともに礼拝されるべきである。
こうして、神々は三つあるのではなく、三つの位格があるのであって、それらは同一実体であり、同永遠であり、同等である。位格(ヒュポスタシス)において区別され、順序においても一方が他方に先立つが、いかなる不平等もない。本性・本質において、それらは結び合わされて唯一の神であり、神的本性は御父・御子・聖霊に共通である。
というのも、聖書は位格の明確な区別をわれらに伝えているからである。御使いは祝された処女マリアに、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうであろう。それゆえ、生まれる者は聖なる者、神の子と呼ばれるであろう」と告げた(ルカ1:35)。またキリストの洗礼の際には、天から声があって「これはわたしの愛する子である」と言われた(マタイ3:17)。聖霊もまた鳩の形で現れた(ヨハネ1:32)。そして主ご自身が使徒たちに洗礼を授けるよう命じられたとき、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けるよう命じられた(マタイ28:19)。同様に福音書の他の箇所で主は、「父はわたしの名によって聖霊をつかわされるであろう」(ヨハネ14:26)と言われ、また「助け主、すなわち父から遣わされる真理の御霊が来られるとき、その方はわたしについてあかしをするであろう」(ヨハネ15:26)などと言われた。要するに、われらは使徒信条を受け入れる。それがわれらに真の信仰を伝えているからである。
それゆえわれらは、ユダヤ人とマホメット教徒、そしてこの聖なる崇めるべき三位一体を冒瀆するすべての者を断罪する。またわれらは、御子と聖霊が名目上においてのみ神であると教え、あるいは三位一体のうちに何か造られたもの、他者に従属し仕えるものがあると教え、さらにそこに何か不平等なもの、より大きい・より小さいもの、身体的あるいは身体的に考えられたもの、性質や意志において異なるもの、混合したものあるいは単独のものがあり、あたかも御子と聖霊が御父なる唯一の神の情動や属性にすぎないかのように教える、すべての異端と異端者たち──君主論者、ノヴァティアヌス派、プラクセアス、パトリパッシアヌス派、サベリウス、サモサタのパウロ、アエティウス、マケドニウス派、擬人論者、アリウス派、その他これらに類する者たち──を断罪する。

第4章 偶像について、あるいは神・キリスト・聖徒たちの像について

神は霊であり、その本質において目に見えず無限であるゆえに、いかなる技巧や像によっても真に表現することはできない。それゆえわれらは、聖書とともに、神の像は単なる偽りであると恐れることなく宣言する。したがってわれらは、異邦人の偶像だけでなく、キリスト教徒の像もまた退ける。
キリストは人の本性を取られたが、それは彫刻家や画家に模範を与えるためではなかった。主は「律法や預言者を廃するために来たのではない」(マタイ5:17)と言われたが、像は律法と預言者において禁じられている(申命記4:15、イザヤ44:9)。主はご自身の身体的な臨在が教会にとって益となるとは言われず、むしろご自身の御霊によって永遠にわれらのそばにいると約束された(ヨハネ16:7)。それならば、主の身体の影や似姿が敬虔な者に何らかの益をもたらすと、いったい誰が信じるだろうか(コリント第二5:5)。主が御霊によってわれらのうちに宿られる以上、われらこそ神の宮である(コリント第一3:16)。しかし「神の宮と偶像との間に、何の一致があろうか」(コリント第二6:16)。
そして、天にある祝された霊たちと聖徒たちは、地上に生きていたとき自分自身への礼拝をことごとく拒んだのであり(使徒3:12以下、14:11以下、黙示録14:7、22:9)、像を非難していた。そうであるならば、天の聖徒や御使いたちが、人々がその前でひざまずき、頭を覆いを取り、その他の敬意を捧げる自分自身の像を喜ぶなどと、誰が考えられるだろうか。
実際には、人々を信仰において教え、神的な事柄と自らの救いを思い起こさせるために、主は福音の宣教を命じられたのであって(マルコ16:15)、絵によって信徒を教えるようにとは命じられなかった。さらに主は礼典を制定されたが、像をどこにも制定されなかった。
そのうえ、目を向けるどこにおいても、われらは神の生きた真実な被造物を見る。それらは、正しく観察するならば、人の手になるすべての像、あるいは空しく動かない、弱く死んだ絵よりも、はるかに鮮明な印象を見る者に与える。預言者が真実に語ったとおりである。「彼らには目があっても見えない」(詩篇115:5)。
それゆえわれらは、古代の著述家ラクタンティウスの判断を是とする。彼は「像のあるところに宗教は存在しない」と述べている。またわれらは、祝されたエピファニウスの行いを正しいと認める。彼はある教会の扉に、キリストか聖徒とおぼしき人物の絵が描かれた垂れ幕を見つけたとき、それを引き裂いて取り去った。人の絵が主の教会に掛けられているのを見ることが、聖書の権威に反すると考えたからである。それゆえ彼は、これ以降そのような垂れ幕──われらの宗教に反するもの──を主の教会に掛けてはならないと命じ、むしろキリストの教会と信徒にふさわしくないそのような疑わしいものは取り除かれるべきであると命じた。さらにわれらは、真の宗教について述べた聖アウグスティヌスの次の意見を是とする。「人の手になる作品への崇拝は、われらにとって宗教であってはならない。そのような物を作る職人自身のほうがまさっているのであり、それでもわれらは彼らを礼拝すべきではないのだから」(『真の宗教について』第55章)。

第5章 神への礼拝・崇敬・祈願について、唯一の仲介者イエス・キリストを通して

われらは、まことの神のみが礼拝され崇敬されるべきであると教える。この栄誉を、われらは他のいかなる者にも分け与えない。主の命令、「あなたの神、主を拝み、ただ主にのみ仕えよ」(マタイ4:10)のとおりである。実に、すべての預言者は、イスラエルの民が見知らぬ神々を礼拝崇敬し、唯一まことの神を礼拝しないときには、激しくこれを非難した。しかしわれらは、神ご自身がわれらに教えられたとおりに、すなわち「霊とまこととをもって」(ヨハネ4:23以下)、迷信によってではなく、御言葉に従って誠実に、神が礼拝され崇敬されるべきであると教える。それは、いつか神が「だれがあなたがたに、これらのことを求めたか」(イザヤ1:12、エレミヤ6:20)と言われることのないためである。パウロもまた、「神は何かに乏しいかのように、人の手によって仕えられるのではない」(使徒17:25)と述べている。
われらの人生のあらゆる危機と試練において、われらは神のみに呼び求め、それはわれらの唯一の仲介者・執り成し手であるイエス・キリストの仲介によってである。というのも、われらは明確に「悩みの日にわたしを呼べ。わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩篇50:15)と命じられているからである。さらに、主はもっとも寛大な約束をもって、「あなたがたが父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えるであろう」(ヨハネ16:23)、そして「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われた。そして、「彼らがまだ信じたことのない者を、どうして呼び求めることができようか」(ローマ10:14)と書かれている以上、またわれらは神のみを信じている以上、われらは確かに神のみに呼び求め、そしてそれはキリストを通してである。使徒が言うように、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者もまた唯一、人なるキリスト・イエスである」(テモテ第一2:5)、また「もしだれかが罪を犯すことがあれば、われらには父のみもとに助け主、義なるイエス・キリストがある」(ヨハネ第一2:1)。
それゆえわれらは、天の聖徒たちや他の神々を礼拝せず、崇敬せず、祈ることもなく、彼らを天の父のみもとにおけるわれらの執り成し手や仲介者とは認めない。神と仲介者キリストとで、われらには十分だからである。またわれらは、神のみとその御子に帰すべき栄誉を他の者に与えることはない。神は「わたしの栄光をほかの者に与えることはない」(イザヤ42:8)と明確に言われ、ペテロもまた、「わたしたちが救われるべき名は、天が下でこのキリストの名のほかに、人間に与えられていない」(使徒4:12)と述べているからである。信仰によって彼に同意する者たちは、キリストのほかに何も求めない。
同時にわれらは、聖徒たちを軽んじたり卑しく考えたりはしない。彼らを、肉と世に対して栄光のうちに打ち勝った、キリストの生きた肢体、神の友であると認めるからである。ゆえにわれらは彼らを兄弟として愛し、また敬うが、しかしいかなる種類の礼拝によってではなく、彼らについての敬意ある評価と正当な賞賛によってである。われらはまた彼らに倣う。切なる願いと祈願をもって、彼らの信仰と徳の模倣者となり、彼らとともに永遠の救いにあずかり、神の御前で彼らとともに永遠に住み、キリストにあって彼らとともに喜ぶことを、われらは真剣に望むからである。この点でわれらは、聖アウグスティヌスが『真の宗教について』のなかで述べた意見を是とする。「死せる人々への崇拝が、われらの宗教であってはならない。もし彼らが聖なる生涯を送ったのであれば、彼らはそのような栄誉を求める者とは見なされない。むしろ彼らは、その照明によって、われらが彼らの功績にあずかる同僚のしもべであることを喜ぶ、その方をこそわれらが礼拝することを望んでいる。それゆえ彼らは、模倣によって敬われるべきであって、宗教的な仕方で礼拝されるべきではない」等々。
まして、聖徒の遺物が崇敬され尊ばれるべきだとは、われらはさらに信じない。かの古代の聖なる人々は、その霊が天に昇った後、その遺骸を丁重に地に納めることをもって、死者への十分な敬意としたようである。そして彼らは、先祖の最も尊い「遺物」とは、その徳、その教え、その信仰であると考えた。彼らはこれらを死者への賞賛として称えるとともに、地上に生きている間、これに倣おうと努めた。
これら古代の人々は、神の律法に定められたとおり、唯一の神ヤハウェの御名によってのみ誓った。それゆえ、見知らぬ神々の名によって誓うことが禁じられているように(出エジプト23:13、申命記10:20)、われらもまた、たとえ求められようとも、聖徒への誓いを行わない。それゆえわれらは、これらすべての事柄において、天の聖徒たちにあまりにも多くを帰す教理を退ける。

第6章 神の摂理について

われらは、天と地にあるすべてのもの、またすべての被造物が、この賢く永遠かつ全能なる神の摂理によって保たれ、治められていると信じる。ダビデは証しして言う。「主はもろもろの国民の上に高くいまし、その栄光は天よりも高い。われらの神、主のように、高き所に座し、天と地とを見おろされる者があろうか」(詩篇113:4-6)。またこうも言う。「あなたはわたしのすべての道を探り出される……主よ、わたしの舌に一言があっても、あなたはことごとくこれを知っておられる」(詩篇139:3-4)。パウロもまた証しして、「われらは神にあって生き、動き、存在する」(使徒17:28)、そして「万物は神から出て、神によって成り、神に帰する」(ローマ11:36)と宣言する。それゆえアウグスティヌスは、その著書『キリストの戦いについて』第8章において、まことに聖書に従って次のように述べた。「主は言われた。『二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。それでもその一羽さえ、あなたがたの父の御心によらずに地に落ちることはない』。このように語ることによって主は、人が最も価値なきものと見なすものさえ、神の全能によって治められていることを示そうとされたのである。空の鳥は神によって養われ、野の百合も神によって装われると言う真理そのものが、われらの髪の毛さえ数えられていると言うのである」(マタイ10:29、6:26以下)。
それゆえわれらは、神の摂理を否定するエピクロス派、また神は天を治めるのに忙しく、われらとわれらの営みを見もせず顧みもしないと冒瀆的に語るすべての者を断罪する。王なる預言者ダビデもまた、これを非難して言った。「主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るのでしょうか……彼らは言う、『主は見ておられない、ヤコブの神は顧みられない』と。民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつになったら賢くなるのか。耳を植えた者が聞かないだろうか。目を造った者が見ないだろうか」(詩篇94:3、7-9)。
とはいえ、われらは神の摂理が働くための手段を、無用なものとして退けるのではない。むしろわれらは、それらが神の御言葉のうちにわれらに勧められている限りにおいて、それに自らを適応させるべきであると教える。それゆえわれらは、「すべてが神の摂理によって治められているのなら、われらの努力と勤勉は無駄である。神の摂理による統治にすべてを委ねさえすれば十分であり、もはや何ごとについても思い煩う必要はない」という、軽率な言葉を発する者たちを是としない。パウロは、自分が神の摂理のもとに航海していることを理解していた。神は彼に「あなたはローマでもあかしをしなければならない」(使徒23:11)と言われ、さらに「あなたがたのうち一人の命も失われることはなく……あなたがたの頭の毛一すじも失われることはない」(使徒27:22、34)と約束されていた。それにもかかわらず、水夫たちが船を捨てて逃れようとしたとき、同じパウロは百卒長と兵士たちに、「この人々が船に残っていなければ、あなたがたは助からない」(使徒27:31)と言った。すべてのものにその目的を定められた神は、その目的に至るための始まりと手段をも定められたからである。異邦人は物事を盲目の運命と不確かな偶然に帰する。しかし聖ヤコブは、われらが「きょうまたはあすかの町に行って、そこで商売をしよう」と言うことを望まず、むしろこう付け加えるようにと言う。「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、わたしたちは生き永らえて、あのことを、または、このことをしましょう』と言うべきである」(ヤコブ4:13、15)。またアウグスティヌスは言う。「むなしい人々には自然のうちに偶然によって起こるように見えることも、それはすべて神の御言葉によってのみ起こるのであって、神の命令によってのみ起こるのである」(『詩篇註解』148篇)。かくしてサウルが父のろばを捜し求めていたときに、思いがけず預言者サムエルと出会ったのは、まったくの偶然のように見えた。しかし主は先立って預言者に、「あすわたしはベニヤミンの地から一人の人をあなたのもとに送る」(サムエル記上9:15)と告げておられたのである。

第7章 万物の創造について、天使・悪魔・人間について

この善にして全能なる神は、見えるものと見えないものすべてを、その永遠のみことばによって創造し、これを永遠の御霊によって保たれる。ダビデが証しして言うとおりである。「主のみことばによって天は造られ、その口の息によって天の万象は造られた」(詩篇33:6)。そして聖書が言うように、神が造られたすべてのものは非常に良く、人の用と益のために造られた。ここでわれらは、これらすべてのものが唯一の始まりから発すると主張する。
それゆえわれらは、善と悪という二つの実体と本性、また互いに敵対する二つの始まりと二柱の神を不敬虔にも想像したマニ教徒とマルキオン派を断罪する。
すべての被造物のうち、天使と人間はもっとも優れたものである。天使について、聖なる聖書はこう宣言する。「風をおのれの使者とし、燃える火をおのれのしもべとする方」(詩篇104:4)。またこうも言う。「彼らはみな、救いを受け継ぐことになっている人々に奉仕するために遣わされる、仕える霊ではないか」(ヘブライ1:14)。悪魔について、主イエスご自身が証しされる。「彼は初めから人殺しであり、真理に立ってはいない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うときは、自分の本性から語るのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからである」(ヨハネ8:44)。したがってわれらは、ある天使たちは従順にとどまり、神と人への忠実な奉仕のために任じられたが、他の天使たちは自らの自由意志によって堕落し、滅びへと投げ込まれ、すべての善とすべての信仰者の敵となった、と教える。
さて人間について、聖書は、人が初めに神のかたちと似姿にしたがって善く造られたこと、神が人を楽園に置き、すべてのものを人に従わせられたこと(創世記2章)を述べる。これはダビデが詩篇8篇において壮麗に述べているとおりである。さらに神は人に妻を与え、二人を祝福された。われらはまた、人間は一つの位格のうちに二つの異なる実体から成ると主張する。すなわち、身体から離れても眠ることも死ぬこともない不滅の魂と、最後の審判において死者のうちからよみがえらされる死すべき身体とである。それは、その時から全き人間が、生においても死においても、永遠に存続するためである。
われらは、魂の不滅性を嘲り、あるいは巧妙な議論によって疑いを差し挟む者たち、また魂が眠る、あるいは魂が神の一部であると言う者たちを断罪する。要するにわれらは、天使・悪魔・人間の創造について、キリストの使徒的教会において聖なる聖書からわれらに伝えられていることから逸脱する、あらゆる人々のあらゆる意見を断罪する。

第8章 人間の堕落について、罪について、罪の原因について

人間は初め、神のかたちにしたがって、義と真の聖さのうちに、善く正しく造られた。しかし蛇の教唆と自らの過ちによって、彼は善と正しさから堕落し、罪と死とさまざまな災いに服する者となった。そして堕落によってそのような者となったのと同様に、彼の子孫であるすべての人もまた、罪と死とさまざまな災いに服する者である。
罪とは、われらが理解するところ、われらの最初の父母から受け継がれ、われらすべてに広まった、人間の内在的な腐敗のことである。それによってわれらは、堕落した欲望に浸り、善から背を向け、あらゆる悪へと傾いている。われらは自分自身では、何ら善いことを行うことも、思うことさえもできない。しかも年を重ねるにつれて、神の律法に反する悪しき思い・言葉・行いによって、悪しき木にふさわしい腐った実を結ぶのである(マタイ12:33以下)。この理由によりわれらは自らの応報として神の怒りのもとにあり、正当な罰を受けるべき者である。
死によってわれらが理解するのは、身体の死のみではなく、われらの罪と腐敗に対する永遠の刑罰でもある。使徒は言う。「あなたがたは、自分の罪過とつみとの中に死んでいた者であって……ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかしあわれみに富む神は……わたしたちが罪過の中に死んでいた時、キリストと共に生かして下さった」(エペソ2:1以下)。また、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に広がった」(ローマ5:12)。
それゆえわれらは、すべての人に原罪があることを認める。またそこから生じるその他のすべての罪──死に至る罪であれ、赦されうる罪であれ、あるいは決して赦されることのない聖霊への罪であれ──もまた、そう呼ばれ、実際にそうであることを認める(マルコ3:29、ヨハネ第一5:16)。またわれらは、罪が等しくないことを告白する。それらは同じ腐敗と不信仰の源から生じるとはいえ、あるものは他のものより重いのである(マタイ10:14以下、11:24)。
われらはそれゆえ、これに反する教えをなすすべての者を断罪する。すなわち、原罪を否定するペラギウス派、ストア派とともにすべての罪を等しいと宣言するヨウィニアヌス派、そして聖書の明確な教えに反して神を罪の作者とする者たちである(詩篇5:5-7、ヨハネ8:44)。
神が人を頑なにし、目を見えなくし、反ばく心のままに委ねると言われるとき(出エジプト7:13、ヨハネ12:40)、それは義なる裁きとして理解されるべきである。しかも神は、ヨセフの兄弟たちの場合になされたように、人の悪をも益に転じられる。

第9章 自由意志について、人間の能力について

人間の意志と道徳的能力は、三重の状態のもとで考察されなければならない。
第一に、堕落以前の状態においては、人は善のうちにとどまるか、あるいは誘惑に屈するかの自由を持っていた。
第二に、堕落後、人の理解力は暗くされ、その意志は罪の奴隷となった(コリント第一2:14、コリント第二3:5、ヨハネ8:34、ローマ8:7)。しかし、人は「石や切り株」に変えられたわけではない。その意志(voluntas)は「非意志」(noluntas)ではない。人は罪に喜んで仕えるのであって、いやいやながらではない。外的・世俗的な事柄においては、堕落後もなお、人は一般的な神の摂理のもとで自由を保持している。
第三に、再生した状態においては、人はまことの正しい意味において自由である。その知性は聖霊によって照らされ、神の奥義と御心とを理解する。そしてその意志は御霊によって変えられ、自由に善を意志し、善を行う力を与えられる(ローマ8:5-6、エレミヤ31:33、エゼキエル36:26、ヨハネ8:36、ピリピ1:6、29、2:13)。
再生と回心において、人は単に受動的であるだけでなく、能動的でもある。人は神の御霊によって動かされ、自分自身の行為として、その行うことを行う。しかし、再生した者にもなお、ある種の弱さが残る。肉は、生涯の終わりに至るまで、御霊に敵対して戦う(ローマ7:14、ガラテヤ5:17)。
われらは、悪の始まりが人の自由意志から生じたことを否定するマニ教徒、また堕落した人間が神の戒めを守るのに十分な自由を持つと教えるペラギウス派を断罪する。前者は創世記1章27節、伝道の書7章29節によって、後者はヨハネ8章36節によって論駁される。

第10章 神の予定について、聖徒の選びについて

神は永遠から、人のいかなる功績にもよらず、ご自身の純粋な恵みによって、キリストにあって救おうとお定めになった聖徒たちを、自由に予定あるいは選び定められた(エペソ1:4、テモテ第二1:9-10)。
神はキリストにあって、キリストのゆえにわれらを選ばれた。それゆえ、いま信仰によってキリストに接ぎ木されている者たちが選ばれた者であり、キリストの外にある者たちは退けられた者である(コリント第二13:5)。
神が誰がご自身のものであるかを知っておられ、「選ばれた者の数は少ない」と語られる箇所があるとしても、われらはすべての人について善く望みを抱くべきであり、軽々しくだれかを退けられた者と見なすべきではない(テモテ第二2:19、マタイ20:16、ピリピ1:3以下)。
われらは、キリストの外に自分が選ばれているかどうか、また神が永遠から自分について何を定められたかを尋ね求める者たちを退ける。むしろわれらは福音を聞き、これを信じるべきである。そして、もしわれらが信じ、キリストのうちにあるならば、われらは選ばれていると確信すべきである。「わたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)という主の招きに耳を傾け、世の救いのためにご自身の御子を与えられた神の限りない愛を信じ、「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」(ヨハネ3:16、マタイ18:14)ことを信じるべきである。
それゆえ、キリストをこそ、われらが自らの予定を映し見る鏡としよう。もしわれらが彼と交わりを持ち、真の信仰によって彼がわれらのものであり、われらが彼のものであるならば、われらが命の書に記されていることの十分に明白で確かな証しを、われらは持つことになる。
もしわれらが予定について試みられるならば、これをわれらの慰めとしよう。すなわち、神の約束はすべての信仰者に対して一般的なものであるということである。神ご自身、「求めよ、そうすれば与えられるであろう。すべて求める者は受けるのである」(マタイ7:8以下)と言われる。われらは全教会とともに、「天にいますわれらの父よ」と祈る。洗礼によってわれらはキリストのからだに接ぎ木され、教会において主の肉と血によってしばしば養われ、永遠の命に至る。かくして強められて、われらは「恐れおののいて自分の救いを達成すべきである。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働きかけて、志を立てさせ、事を行わせておられるのだから」(ピリピ2:12-13)。

第11章 まことの神まことの人であるイエス・キリストについて、世の唯一の救い主について

われらはさらに、神の御子、われらの主イエス・キリストが、永遠から御父によって世の救い主として予定され、あらかじめ定められたと信じ教える。そしてわれらは、主が処女マリアから肉を取られたときにはじめて生まれたのでもなく、世の基が置かれる少し前に生まれたのでもなく、あらゆる永遠に先立って、言い表しがたい仕方で御父によって生まれたと信じる。イザヤは言う。「だれがその代を語り得ようか」(53:8)。ミカも言う。「その出るところは昔から、永遠の日からである」(5:2)。ヨハネも福音書のうちで言う。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」等々(1:1)。
したがって、その神性において御子は御父と同等・同質であり、まことの神である(ピリピ2:11)。名目上や養子縁組、あるいは何らかの功績によってではなく、実体と本性において同等・同質である。使徒ヨハネがしばしば言うとおりである。「これはまことの神であり、永遠の命である」(ヨハネ第一5:20)。パウロもまた言う。「神は御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られた。御子はその栄光の輝きであり、そのご性質そのままの姿であって、力ある言葉をもって万物を保っておられる」(ヘブライ1:2-3)。福音書において主ご自身が言われる。「父よ、世が造られる前にわたしがみそばで持っていた栄光で、いま、みそばでわたしを輝かせてください」(ヨハネ17:5)。また福音書の別の箇所には、「ユダヤ人たちは、イエスがますます彼を殺そうとした。神を自分の父と呼んで、自分を神と等しい者とされたからである」(ヨハネ5:18)と記されている。
それゆえわれらは、御子に反するアリウスとアリウス派の不敬虔な教理、そしてとりわけスペイン人ミカエル・セルヴェトゥスとその追従者たちの冒瀆を忌み嫌う。
われらはまた、永遠の神の永遠の御子が、アブラハムとダビデの種から、人の子となられたと信じ教える。それはエビオン派の言うような人間の意志によるのではなく、聖霊によってきわめて清く宿され、常に処女であるマリアから生まれたのであって、福音書の記事と使徒書簡がわれらに丁寧に説明するとおりである(マタイ1章)。パウロは言う。「御子は御使いの性質を取ったのではなく、アブラハムの子孫の性質を取られた」(ヘブライ2:16)。使徒ヨハネもまた、イエス・キリストが肉体をもって来られたことを信じない者は神に属さないと言う(ヨハネ第一4:3)。したがって、キリストの肉体は、ワレンティノスやマルキオンが誤って想像したような、単なる見せかけのものでも、天からもたらされたものでもない。
さらに、われらの主イエス・キリストは、アポリナリオスが考えたような理性なき魂を持たれたのでもなく、エウノミオスが教えたような魂なき肉体を持たれたのでもなく、理性を伴う魂と、感覚を伴う肉体とを持たれた。その苦難のとき、主はその感覚によって真実の身体的苦痛を耐え忍ばれた。ご自身証しされたとおりである。「わたしの魂は死ぬばかりに悲しい」(マタイ26:38)、「今わたしの心は騒いでいる」(ヨハネ12:27)。
それゆえわれらは、われらの主イエス・キリストにおいて、神性と人性という二つの本性・実体があることを認める(ヘブライ2章)。そしてわれらは、これらが互いに、吸収されることも、混同されることも、混合されることもなく、むしろ一つの位格において結び合わされ結合されており、それぞれの本性の性質は損なわれることなく永続していると言う。
かくしてわれらは、二人ではなく一人のキリストを礼拝する。繰り返す──一人の、まことの神にしてまことの人である。神性においては御父と同質であり、人性においては、罪を除いてわれら人間と同質であり、すべての点でわれらと等しい(ヘブライ4:15)。
それゆえわれらは、キリストを二人とし、位格の一致を解消するネストリウス派の教理を忌み嫌う。同様に、人性の性質を破壊するエウテュケス派、単性論者・単意論者の狂気を、われらはまったく忌避する。
われらは、キリストの神性が苦しまれたとは決して教えず、キリストの人性がいたるところに存在するとも教えない。キリストのまことの身体は、その栄化の後にも神格化され、身体と魂に関するその性質を脱ぎ捨てて、まったくの神的本性へと変わり、単一の実体になったなどとは、われらは考えも教えもしない。しかしわれらは、われらの主イエス・キリストが、まことに肉においてわれらのために苦しみ死なれたと信じる。ペテロが言うとおりである(ペテロ第一3:18、4:1)。われらは、主の苦難を忌み嫌うヤコブ派やすべてのトルコ人たちの、はなはだしく不敬虔な狂気を忌み嫌う。同時にわれらは、パウロの言葉によれば、栄光の主がわれらのために十字架につけられたことを否定しない(コリント第一2:8)。というのも、われらは、聖書から引き出され、一見矛盾するように見える聖書の箇所を説明し調和させるために古代の教会全体が用いてきた「性質の交流」(コムニカティオ・イディオマトゥム)を、敬虔に、また敬意をもって受け入れ、用いるからである。
われらは、キリストが死なれたのと同じ肉において死者のうちから復活されたと信じ教える(ルカ24:30)。そして最高の天において、神の右に上げられたと信じる(エペソ4:10)。これは主の神的な威光と力への高挙を意味すると同時に、ある定まった場所をも意味する(ヨハネ14:2、使徒3:21)。
同じキリストが、世の悪がその極みに達し、反キリストがまことの宗教を腐敗させるとき、再び来られるであろう。主は反キリストを滅ぼし、生ける者と死せる者とを裁かれる(テサロニケ第二2:8、使徒17:31、テサロニケ第一4:17)。信仰者は祝された者たちの住まいに入り、不信仰者は悪魔とその使いたちとともに永遠の刑罰に投げ込まれる(マタイ25:41、テモテ第二2:11、ペテロ第二3:7)。
われらは、まことの復活を否定する者たち、すべての不敬虔な者ならびに悪魔さえも最終的に救われるという者たちを退ける。またわれらは、最後の審判の前に地上に千年王国、あるいは黄金時代があるというユダヤ人の夢想をも退ける。
われらは、キリストがこの世全体の唯一の贖い主であり、律法の前に、律法の下に、また福音のもとに救われたすべての者、そして世の終わりまでに救われるであろうすべての者が、彼にあって救われると信じ教える(ヨハネ10:1、7、使徒4:12、15:11、コリント第一10:1、4、黙示録13:8)。
それゆえわれらは大声をもって告白し教える。イエス・キリストは世の唯一の救い主、王にして大祭司、まことのメシアであり、律法とすべての予表、預言者たちのすべての預言が予表し約束した方である。神は彼をわれらに遣わされたのであり、われらは他の者を求める必要はない。あとはただ、われらが彼にすべての栄光を帰し、彼を信じ、彼のみに拠り頼むことのみが残されている。
そして、多くを短く言うならば、われらはわが主イエス・キリストの受肉の奥義について、聖書から定められ、ニカイア、コンスタンティノポリス、エフェソス、カルケドンにて開かれた最初の四つの最も優れた公会議の信条と決定、また祝された聖アタナシオスの信条、ならびにこれらと類似するすべての信条に要約された事柄を、誠実な心をもって信じ、自由な口をもって率直に告白し、これに反するすべてのものを断罪する。このようにしてわれらは、キリスト教的で正統かつ普遍的な信仰を、損なわれることなく完全に保持する。前述の信条のうちには、神のみことばと一致しないもの、また信仰の誠実な説明に資さないものは何も含まれていないことを知っているからである。

第12章 神の律法について

神の律法は、われらに対して神の御心を説き明かすものであり、善と悪、正と不正の何であるかを示す。それゆえわれらは、律法が善く聖なるものであると告白する。律法は二種類ある。人の心に刻まれた自然の律法(ローマ2:15)と、モーセに書き記された律法である。後者をわれらは、便宜のために、十戒の二枚の板に含まれる道徳律法、礼拝と儀式に関わる儀式律法、政治と経済に関わる裁判律法に区分する。
神の律法は完全であり、それに何も加えることも、それから何も取り去ることも許されない(申命記4:2、イザヤ30:21)。律法がわれらに与えられたのは、それを守ることによってわれらが義とされるためではなく、むしろそれによってわれらが罪と罪責の知識に導かれ、自らの力に絶望して、信仰によってキリストへと立ち返るためである(ローマ4:15、3:20、8:3、ガラテヤ3:21-24)。キリストは律法の終わりであり、律法の呪いからわれらを贖い出された(ローマ10:4、ガラテヤ3:13)。主はわれらが律法を成就することを可能にしてくださり、その義と従順とが信仰によってわれらに帰せられる。
律法は、それが信じる者をもはや断罪せず、怒りをもたらさないという意味において廃棄されている。彼らは律法のもとにではなく、恵みのもとにあるからである。さらに、キリストは律法のすべての型を成就された。それゆえ、影の代わりに実体が置かれ、キリストにあってわれらは今やすべての真理と充満とを持つ。それでもなお、律法は、あらゆる徳と悪徳をわれらに示し、新しい従順の生活を規律するのに有用である。キリストは律法を廃するためではなく、成就するために来られた(マタイ5:17)。
それゆえわれらは、古今の反律法主義を断罪する。

第13章 イエス・キリストの福音について

律法は怒りをもたらし、呪いを告げる(ローマ4:15、申命記27:26)が、福音は恵みと祝福を告げる(ヨハネ1:17)。それでもなお、律法の前に、また律法のもとにあった人々もまた、福音をまったく欠いていたわけではなく、偉大な約束を持っていた(創世記3:15、22:18、49:10)。約束は一部は現世的なものであり、一部は霊的で永遠のものであった。福音の約束によって父祖たちはキリストにあって救いを得た。
厳密な意味において福音とは、キリストによる救いの喜ばしい知らせであり、それによってわれらは赦し、贖い、永遠の命を得る。それゆえ、四福音書記者によって記されたキリストの歴史は、正当に福音と呼ばれる。
パリサイ人の律法主義と比較すると、福音は新しい教理であるかのように見えたし、今なお教皇主義者たちはそう呼んでいる。しかし実際には、それは最も古い教理である。神は永遠から、キリストを通して世を救うことを予定しておられ、この計画を福音において啓示されたのであるから(テモテ第二1:9-10)。それゆえ、われらの福音的信仰を最近の革新と呼ぶことは、重大な誤りである。

第14章 悔い改めと人の回心について

悔い改め(メタノイア)とは、福音の御言葉と聖霊とによって罪人のうちに生じさせられる心の変化であり、生まれながらの、また実際の堕落についての知識、罪への敬虔な悲しみと憎しみ、そして今後は徳と聖さのうちに生きようとする決意を含む。まことの悔い改めとは、神とすべての善へと立ち返り、悪魔とすべての悪から真剣に離れ去ることである。それは神の自由な賜物であって、われら自身の力による結果ではない(テモテ第二2:25)。
われらは、罪深い女(ルカ7:38)、堕落後のペテロ(ルカ22:62)、放蕩息子(ルカ15:18)、そして宮での取税人(ルカ18:13)のうちに、まことの悔い改めの実例を持っている。
神に対して自分の罪を、私的にも公の礼拝においても告白すれば十分であり、祭司に告白する必要はない。それは聖書のどこにも命じられていないからである。ただし、苦難と試練のときに福音の奉仕者から助言と慰めを求めることはあってよい(ヤコブ5:16参照)。
教皇主義者たちが、そこから剣や笏、王冠を作り出す天の御国の鍵は、福音の宣教と戒規の維持において、すべての正当な教会の奉仕者たちに与えられている(マタイ16:19、ヨハネ20:23、マルコ16:15、コリント第二5:18-19)。われらは、贖宥にまつわる教皇の実入りの良い悔悛の教理を断罪し、彼らに対してシモン・マグスへのペテロの言葉を適用する。「あなたの金は、あなたと共に滅びてしまえ」(使徒8:20)。

第15章 信仰者のまことの義認について

使徒がこの主題を論じるとき、「義とする」とは、罪を赦し、罪責と刑罰から解放し、恩寵のうちに受け入れ、義であると宣言することを意味する(ローマ8:33、使徒13:38、申命記25:1、イザヤ5:23)。
われらはみな生まれながらに罪人であり、神の前に不敬虔であって、神の裁きの座の前で死に定められている。しかしわれらは、われら自身の功績によってではなく、ただキリストの功績のみによって義とされる、すなわち罪と死から神なる裁き主によって解き放たれるのである。キリストのゆえに、その苦難と復活のゆえに、神はわれらの罪について恵み深くあられ、われらの罪をわれらに帰することなく、むしろキリストの義をわれら自身のものとして帰してくださる(コリント第二5:19以下、ローマ4:25)。それゆえわれらは、罪、死、断罪から清められ、赦され、義とされ、永遠の命の相続者となる。厳密に言えば、神のみがわれらを義とされ、それはただキリストのゆえにのみであって、われらの罪をわれらに帰することなく、その義をわれらに帰することによる。
それゆえわれらは、使徒とともに、罪人はただキリストへの信仰のみによって義とされるのであり、律法によってでも、いかなる行いによってでもないと教え、信じる(ローマ3:28、4:2以下、エペソ2:8-9)。義が信仰に帰せられるのは、信仰がわれらの義であるキリストを受け取り、すべてをキリストにある神の恵みに帰するからであって、それがわれら自身のわざであるからではない。それは神の賜物である。食べることによって食物を受け取るように、信仰はキリストを我がものとする。
われらは義認の恵みを、一部は神の恵みあるいはキリストに、一部はわれら自身の行いや功績に分けて帰すことはせず、もっぱらキリストにある神の恵みに、信仰を通して帰する。まずわれらが義とされなければ、われらは善い行いを愛し行うことができない。愛は信仰から生まれる(テモテ第一1:5、ガラテヤ5:6)。
それゆえここでわれらが語っているのは、偽りの死んだ信仰ではなく、われらの命であり命を与えるキリストのうちに生きる、生きた命を与える信仰である。ヤコブ(第2章)もまた、われらのこの教理に矛盾しない。彼が語るのは、悪霊さえ持っているような死んだ信仰についてであり、アブラハムが行いによって生きた義とする信仰を証したことを示しているのである。

第16章 信仰と善い行いについて、その報いと人の功績について

キリスト教信仰とは、人間的な意見や確信ではなく、最も堅固な信頼であり、心の明白で揺るがぬ同意である。それはまず、聖書と使徒信条のうちに示された神の真理についての、最も確かな把握であり、それゆえまた神ご自身、すなわち最高善についての、とりわけ神の約束と、すべての約束の成就であるキリストについての、最も確かな把握である。
このような信仰は神の純粋な賜物であって、神はご自身の恵みにより、御心のままに、いつ、だれに、どれほどの程度でこれを聖霊によって、福音の宣教と信仰の祈りという手段を通して、選ばれた者たちに与えられる。この信仰には段階があり、増し加わりうるものである。それゆえ使徒たちは「わたしどもの信仰を増してください」(ルカ17:5)と祈ったのである。(以下、ヘブライ11:1、コリント第二1:20、ピリピ1:29、ローマ12:3、テサロニケ第二2:3、ローマ10:16、使徒13:48、ガラテヤ5:6などの聖句が続けて引かれる。)
われらは、善い行いが生きた信仰から、聖霊を通して生まれ、神の御言葉の御心と規範にしたがって信仰者によってなされると教える(ペテロ第二1:5以下、テサロニケ第一4:3、6、23)。
善い行いは、それによって永遠の命を得るためになされてはならない。永遠の命は神の自由な賜物だからである(ローマ6:23)。また見せびらかしや利己心のためになされてはならない。主はこれを退けられるからである(マタイ6:2、23:5)。むしろ、神の栄光のため、われらの召しを飾るため、神への感謝を示すため、そして隣人の益のためになされるべきである(マタイ5:16、エペソ4:1、コロサイ3:17、ピリピ2:4、テトス3:14)。
われらは、人がキリストへの信仰によって義とされ、いかなる行いによるものでもないと教えるが、善い行いを非難するのではない。人は、絶えず善く有益なことを行うために、信仰によって造られ、再生させられたのである。「良い木は良い実を結ぶ」(マタイ7:17)。「わたしにとどまる者は、多くの実を結ぶ」(ヨハネ15:5)。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちがそれを行って歩むように、あらかじめこれを備えてくださった」(エペソ2:10)。
それゆえわれらは、善い行いを軽んじ、あるいはそれを無用と言う者たちすべてを断罪する。同時にわれらは、善い行いが救いに必要であって、それなしにはだれも救われたことがない、というふうには考えない。われらはキリストのみによって救われるからである。しかし善い行いは信仰から必然的に生まれるのであり、本来は恵みに帰せられるべきものが、便宜上、行いに帰せられることがあるにすぎない(ローマ11:6)。
神は、信仰によってなされたわれらの行いを喜ばれ、これを是とされる(使徒10:35、コロサイ1:9-10)。また神はこれに豊かに報いられる(エレミヤ31:16、マタイ5:12、10:42)。しかしわれらは、この報いを、それを受ける人の功績にではなく、それを約束し与えられる神の善良さと真実さに帰する。神は何ものにも借りがないにもかかわらず、そうされるのである。「わたしたちは命じられたことを皆おこなったとき、『わたしたちは無益なしもべです』と言いなさい」(ルカ17:10)。われらはアウグスティヌスとともに、神はわれらのうちで、われらの功績にではなく、ご自身の恵みの賜物に冠を授けられると言う。それは恵みの報いであって、功績の報いではない。われらは受けたもの以外、何一つ持っていない(コリント第一4:7参照)。
それゆえわれらは、人の功績を擁護することによって神の恵みを無にする者たちを断罪する。

第17章 神の普遍的で聖なる教会について、教会の唯一の頭について

神は初めから、人々が救われ、真理の知識に至ることを望まれたのであるから(テモテ第一2:4)、教会──すなわち、世から呼び出され集められた信仰者の集まり、聖徒の交わり──が、常に存在し、今も存在し、世の終わりまで存在することは、必然である。彼らはまことの神を、われらの救い主キリストにあって知り、正しく礼拝し仕える者たちであり、信仰によってキリストを通して自由に与えられるすべての恵みにあずかる者たちである。彼らは神の家の同じ家族の一員である(エペソ2:19)。信条の条項、「わたしは聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信じる」は、これらの人々について理解されるべきである。
そして、神はただ一人、神と人との間の仲介者はただ一人、メシアなるイエスであり、全群れの牧者はただ一人、この体の頭はただ一人、御霊はただ一つ、救いはただ一つ、信仰はただ一つ、契約はただ一つであるから、必然的に教会もまたただ一つでなければならない。われらはこれを普遍的(カトリック)と呼ぶ。すなわちそれは世界のあらゆる場所、あらゆる時代に広がっているからである。
それゆえわれらは、教会をアフリカのある片隅に閉じ込めたドナトゥス派を断罪し、またローマ教会のみが普遍教会であるとするローマの排他主義をも是としない。
教会は、それ自体において分裂しているのではなく、そのメンバーの多様性のゆえに区分される。地上で戦う戦闘の教会と、天において主の御前で喜ぶ勝利の教会とがある。しかしこの両者の間には交わりがある。戦闘の教会はさらに個々の教会に分かれるが、これらはすべて唯一の普遍教会の一致に帰せられるべきである。教会は族長たちのもとでは異なる形で、モーセのもとではまた異なる形で、キリストのもとでは福音による形で構成された。しかし唯一のメシアにあって、ただ一つの救いがある。彼にあって、すべての者が一つの体の肢体として一つに結び合わされ、同じ霊的な食物と飲み物にあずかる。われらは今、より大いなる光と、より完全な自由とを享受している。
この教会は、生ける神の家(テモテ第一3:15)、生きた霊的な石で建てられた家(ペテロ第一2:5)、動かされることのない岩の上に建てられ、他に置くことのできない唯一の礎の上に建てられた家(コリント第一3:11)、真理の柱であり土台(テモテ第一3:15)と呼ばれる。それは、岩であるキリストの上に、預言者と使徒たちの礎の上に立っている限り、誤ることがない。しかし、唯一の真理である方から離れるたびに、誤ってしまうのも不思議ではない。この教会はまた、処女、キリストの花嫁、唯一の愛される者(コリント第二11:2)、そしてキリストの体(エペソ1:23等)とも呼ばれる。信仰者たちはキリストを頭として、その生きた肢体だからである。
教会はキリスト以外のいかなる頭も持つことができない。彼は自らの群れの唯一の普遍的な牧者であり、世の終わりまでその臨在を約束された。それゆえ主は代理人を必要としない。代理人とは、その本人が不在であることを含意するものだからである。〔教会に二重の頭と統治を持ち込む者たちは、明らかに使徒たちが断罪した誤った教師たちの部類に属する(ペテロ第二2章、使徒20章、コリント第二11章、テサロニケ第二2章)。〕
しかしわれらは、ローマの頭を退けることによって、教会に混乱や無秩序をもたらすのではない。教皇が存在する以前に使徒たちによって伝えられた統治にわれらは従っているからである。ローマの頭は、教会に持ち込まれた専制と腐敗を維持し、正当な改革をことごとく妨げ破壊している。
彼らはわれらに対して、ローマから分離して以来、あらゆる論争や分裂が生じたと非難する。あたかもローマ教会において、宗派や対立が説教壇でも民衆の間でも一度も存在しなかったかのように。神はまことに秩序と平和の神である(コリント第一14:33)。それでもなお、使徒たちの教会にも党派と分裂があった(使徒15章、コリント第一3章、ガラテヤ2章)。神はこれらの分裂を、ご自身の栄光のため、真理を明らかにするために用いられる。
われらはキリストにあるまことの教会との交わりを高く評価し、それから離れる者は神の前に生きることができないと考える。ノアの箱舟の外に救いがなかったように、選ばれた者に自らを味わわせてくださるキリストの外には、確かな救いはないとわれらは信じる。
しかしわれらは、やむを得ない事情によって、また不本意ながら礼典にあずからない人々、あるいは信仰の弱い人々、なお欠けや誤りのある人々を排除するほどには、教会を狭く限定しない。神はユダヤの民の外にも友を持っておられた。ペテロに何が起きたか、選ばれ信仰深い人々に日々何が起きているかをわれらは知っている。使徒がガラテヤとコリントのキリスト者たちの重大な過ちを叱責しながらも、なお彼らをキリストの聖なる教会と呼んでいることをわれらは知っている。神は時に、正しい裁きによって、教会がエリヤの時代のように(列王記上19章18節)ほとんど絶滅したかのように見えるまで、これを覆い隠し揺り動かすことを許されることがある。しかしそのようなときでさえ、神は七千人以上のまことの礼拝者を持っておられる。「神のかたい土台は変わることがない。それは、次のような銘を持っている。『主はおのれに属する者を知りたもう』」(テモテ第二2:19)。それゆえ教会は「見えない」と呼ばれることがある──それを構成する人々が見えないからではなく、彼らが神のみに知られており、われらはしばしば判断を誤るからである。教会のうちには多くの偽善者もおり、彼らは外面的にはすべての儀式に従うが、最終的にはその真の姿が明らかにされ、切り離される(ヨハネ第一2:19、マタイ13:24、47)。
教会のまことの一致は、儀式や祭儀のうちにではなく、真理と普遍的な信仰のうちに求められるべきである。それは聖書に基づき、使徒信条に要約されている。古代の人々の間には儀式の大きな多様性があったが、それによって教会の一致が損なわれることはなかった。

第18章 教会の奉仕者について、その制定と職務について

神は常に、教会を集め治めるために奉仕者を用いられた(ローマ10:14、17、ヨハネ13:20、使徒16:9、コリント第一3:9等)。
神は族長たち、モーセ、預言者たちをその時代の教師として用いられた。そしてついに、無限の知恵に満ちたひとり子を、われらの誤りなき導き手として遣わされた。キリストは使徒たちを選ばれ、彼らはすべての教会に牧師を任じた(使徒14:23)。その後継者たちが今日に至るまで教会を教え治めてきた。
新約の奉仕者は、使徒、預言者、伝道者、監督、長老、牧師、教師と呼ばれる(コリント第一12:28、エペソ4:11)。後代には、総主教、大主教、大主教区長、長老会長老、執事、副執事などの名称が導入された。しかしわれらは、教会の教育と統治のために使徒たちが制定した職務をもって満足する。
奉仕者は教会によって正当に召され選ばれ、聖なる学識、敬虔な雄弁、思慮深さ、汚れなき品性において優れていなければならない(テモテ第一3:2、テトス1:5)。選ばれた者は、公の祈りと按手によって長老たちから按手を受けるべきである。われらは、恣意的な僭称者や資質の不足した牧師を退ける。しかし同時に、誇り高い学識よりも、無垢な単純さのほうが有用であることもあるとわれらは認める。
新約の奉仕者は、生者と死者のために犠牲を捧げるユダヤの祭司のような祭司ではない。キリストこそがわれらの永遠の大祭司であり、十字架上のただ一つの完全な犠牲によって型としての犠牲を成就し廃止された。すべての信仰者は祭司であり、絶えず神への感謝と賛美という霊的な犠牲を捧げる。
すべての奉仕者は権威と使命において対等である。監督と長老は、もともと同じ職務であり、共同の奉仕によって教会を治めていた。主の言葉を心に留めつつ、「あなたがたの中でかしらになりたいと思う者は、仕える者となりなさい」(ルカ22:26)。教会の奉仕者の主な務めは、福音の宣教、礼典の執行、魂への配慮、戒規の維持である。これを効果的に行うために、彼らは神への畏れのうちに生き、絶えず祈り、聖書を熱心に学び、常に目を覚まし、生活の清さによってすべての人の前に輝かなければならない。戒規を行うにあたっては、その権能が徳を建て上げるために与えられたのであって、破壊のためではないことを覚えておくべきである(コリント第二10:8、マタイ13:29参照)。
われらは、説教と礼典の効力を奉仕者の道徳的性格に依存させるドナトゥス派の誤りを退ける。キリストの声は、ふさわしくない奉仕者の口からであっても聞かれ、従われなければならない(マタイ23:3)。礼典は、その神的な制定とキリストの御言葉によって、ふさわしく受ける者に対して有効である。
それでもなお、奉仕者の教理と品行に対する適切な規律と監督が、教会会議において行われるべきである。偽りの、あるいは不道徳な教師は容認されるべきではなく、警告されるか、あるいは罷免されるべきである。われらは、使徒的な先例(使徒15章)にしたがって、教会の福祉のために、教会の腐敗のためではなく行われる限り、一般公会議あるいは普遍公会議を否定しない。
労働者がその報酬を受けるにふさわしいように、奉仕者は自分と家族の生活の支えを、仕える会衆から受ける権利がある(コリント第一9:9以下、テモテ第一5:18等)。奉仕によって生計を立てる奉仕者を非難する再洗礼派に対して、われらはこれを主張する。

【訳者注:第19章以降について】
ここまで(第1〜18章)は、逐語訳に近い形の英訳(パブリックドメイン、シャフ『Creeds of Christendom』所収の完全な英語訳)を底本として翻訳してきた。しかし第19章以降については、入手できた完全な逐語訳の続きが確認できず、代わりにシャフ自身による要約版(同書内で「a condensed translation of the original」と明記されている、原文の趣旨をまとめた凝縮訳)を底本とせざるを得なかった。
したがって、以下の第19章〜第30章は、原文の逐語訳ではなく、要約(ダイジェスト)からの翻訳であることを明記する。各条項の趣旨・骨子は正確に反映するよう努めているが、原文にある個々の聖句引用の細部や修辞的な言い回しの多くは、要約の段階で省略されている。学術的な引用や正確な逐語訳が必要な場合は、原典(ラテン語)またはシャフの完全な英訳、既刊の日本語訳(大崎節郎訳『改革派教会信仰告白集Ⅲ』など)をご参照願う。

第19章 キリストの教会の礼典について 【要約】

御言葉の説教には、礼典すなわち聖なる儀式が伴う。これは、神がわれらの信仰を強めるためにその約束のしるしと証印として制定されたものであり、同時にわれらの側からは、神への献身の誓いともなる。
ユダヤの時代の礼典は割礼と過越の子羊であった。キリスト教時代の礼典は洗礼と主の晩餐である。
教皇主義者たちは礼典を七つに数える。このうち、悔い改め、教職按手、結婚については、神の有益な制度として認めるが、礼典としては認めない。堅信礼と終油の秘跡は人間の考案物であり、廃止しても何ら損失はない。われらは、ローマの祭司たちによって礼典にまつわって行われる商行為を忌み嫌う。
礼典の最高の恵みは、救い主キリストご自身であり、世の基が置かれる前から屠られた神の子羊、われらの父祖たちがみな飲んだあの岩である。この点において、旧約と新約の礼典は同一である。ただしわれらは、その実体をすでに持っている。
礼典は、御言葉、しるし、しるされる事柄から成る。神の御言葉とキリストの制定によって、それらは礼典となり、聖別される。洗礼におけるしるしは水であり、しるされる事柄は再生あるいは罪からの洗いである。主の晩餐におけるしるしはパンとぶどう酒であり、しるされる事柄はわれらのために犠牲とされたキリストの真実の体と血である。しるしはしるされる事柄そのものに変化するのではない──そうであれば、それはもはや、しるされる事柄を表す礼典的なしるしではなくなってしまう──しかし、それらは聖なる、有効なしるしと証印である。洗礼と晩餐を制定された方は、われらが外的な形だけでなく、内的な恵み、すなわち信仰によって真実に罪から洗われ、キリストにあずかる者となることを意図されたからである。
礼典の真実性と有効性は、それを執行する者の資格にも、それを受ける者の資格にも依存せず、神の真実にのみ依存する。信じない者は、差し出されているものを受け取らない。しかしその咎は人間の側にあり、彼らの不信仰が神の真実を無にするわけではない(ローマ3:3)。

第20章 聖なる洗礼について 【要約】

洗礼はキリストによって制定された(マタイ28:19、マルコ16:15)。教会における洗礼はただ一つであり、生涯にわたって効力を持ち、われらの神の子としての身分の永続的な証印である。キリストの御名によって洗礼を受けるとは、神の契約、神の家族、神の子らの相続財産に登録され、迎え入れられることであり、キリストの血によって罪から清められ、新しく汚れなき生活を送るためである。われらは聖霊によって内的に再生されるが、この恵みの公の証印を洗礼によって受け取る。水が汚れを洗い去り、体を爽やかにし慰めるように、神の恵みは内的・見えない仕方で魂を清める。
洗礼によってわれらは世から分かたれ、神に献げられる。洗礼においてわれらは自らの信仰を告白し、神への従順を誓う。われらは、肉と世と悪魔とに対して戦うキリストの聖なる軍勢に登録されるのである。
原初の洗礼の形式に後代人間が付け加えたもの──悪魔祓い、燃える灯火、油、塩、唾などの使用──は不要であるとわれらは判断する。
洗礼は女性や産婆によってではなく、教会の奉仕者によって執行されるべきである。
われらは、信仰者の子らが洗礼を受けるべきであることを否定する者たちを断罪する。神の国は子どもたちのものであり、彼らは神との契約のうちにあるのだから、なぜ契約のしるしを彼らに与えてはならないのか。それゆえわれらは再洗礼派ではなく、彼らとの交わりを持たない。

第21章 主の聖なる晩餐について 【要約】

主の晩餐、すなわち聖餐は、贖いの恵みへの感謝に満ちた記念であり、キリストによって制定された信仰者の霊的な饗宴であって、そのうちで主は真実の信仰によってご自身の肉と血をもってわれらを養い、永遠の命に導かれる。それは、この上ない恵みと祝福──主がまことにご自身の体を渡し、われらの罪の赦しのために血を流されたこと──をわれらにしるし、証印するものである。われらはそこで、まことの食物であるその肉を食べ、まことの飲み物であるその血を飲む(マタイ26:20以下、ルカ22:19、コリント第一11:21以下、ヨハネ6:51以下)。
この「食べる」ことは、口と胃による身体的・カペナウム的な食事ではなく、霊的なもの、すなわち聖霊による信仰を通してのものである。「肉」を身体的に食べても益はなく、「命を与えるのは霊」である(ヨハネ6:63)。「わたしはいのちのパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6:51)。したがって、ここでの食べることと飲むこととは、キリストのもとに来て彼を信じることを意味する。アウグスティヌスが言うように、「なぜ歯と胃を用意するのか。信じよ、そうすればあなたはすでに食べたのである」。
この霊的な食事──キリストとの日々の霊的交わり──に加えて、礼典的な食事がある。それによって信仰者は、内的・霊的に主の真実の体と血にあずかるだけでなく、外的にも主の食卓に近づき、その体と血の目に見えるしるしと証印を受け取る。そして、しるしとともに、それがしるす当のもの自体をも受け取る。信仰者はこの霊的な食物によって養われ強められる。しるしはまた、キリストが人類全般のためだけでなく、あずかる一人ひとりの信仰者のためにも死なれたことの確かな証しである。さらにこの礼典にあずかることによって、われらは主の命令に従い、その贖いの死を記念し、大いなる贖いに感謝を捧げ、会衆の前で自らの信仰を公に告白する。
しかし、信仰なく、ふさわしくなくあずかる者は、目に見えるしるしのみを受け取り、それは自分自身への裁きとなる(コリント第一11:27以下)。
それゆえわれらは、パンとキリストの体、ぶどう酒とキリストの血を、パンそのものが(礼典的な意味を除いて)体そのものである、あるいはキリストの体がパンの形の下に身体的に隠されておりパンの形において礼拝されるべきである、あるいはしるしを受け取る者はだれでも必然的にしるされる事柄そのものをも受け取る、というふうには結びつけない〔ルター派の説に対して〕。キリストの体は、御父の右の座、天にある(マルコ16:19、ヘブライ8:1、12:2)。それゆえわれらは心を天に上げなければならない。
しかしそれでもなお、主は信仰者が聖餐にあずかるとき、彼らから不在であられるのではない。天における太陽がわれらに対して効果的に臨在するように、義の太陽であるキリストは、身体的にではなく、霊的に、その命を与え生かす働きによって、なおいっそうわれらとともにおられる。それは最後の晩餐において主ご自身が、ご自身がわれらとともにおられることを説明されたとおりである(ヨハネ14〜16章)。それゆえわれらは、キリスト不在の晩餐を持つのではなく、古代の全教会がそう呼んだように、血を流すことのない、神秘的な晩餐を持つのである。
さらに主の晩餐は、われらがその体の肢体であること、すべての兄弟と平和に生きるべきこと、聖なる生活のうちに成長し忍耐すべきことを、われらに思い起こさせる。それゆえ、悔い改めとキリストへの信仰について自己吟味することによって、あらかじめ自らを整えることは、まことにふさわしいことである(コリント第一11:28)。
外的な執行に関しては、われらは原初の形式──神の御言葉の告知、敬虔な祈り、主のみわざ、そしてパンを裂き、ぶどう酒とともに分け与える再演、主の体を食べ主の血を飲むこと、その死の感謝に満ちた記念、感謝、そして一つの体としての兄弟の聖なる集いという形式──を守る。
われらは、主の明確な命令「あなたがたはみな、この杯から飲みなさい」(マタイ26:27)に反する、杯の一般信徒への差し止めを是としない。
ミサは──古代においてどのようなものであったにせよ──有益な制度から空しい見せ物へと変えられ、さまざまな濫用に取り囲まれるようになった。これらの濫用は、ミサの廃止を正当化するものである。

第22章 聖なる集会・教会の集まりについて 【要約】

すべての人が自宅で私的に聖書を読み、これによって教え導かれることは、正当かつ正しいことである。同時に、宗教の維持には規則的な公の礼拝が求められる。これらは、民衆が理解できる言語によって、品位をもって、秩序正しく、徳を建て上げるために行われるべきである。

第23章 教会の祈り、賛美、聖務日課について 【要約】

聖なる集会における公の祈りは、すべての人が理解できる自国語でなされるべきである。すべての祈りは、聖徒たちにではなく、また聖徒たちを通してではなく、キリストのみを通した唯一の仲介によって、神のみに献げられるべきである。諸教会は、通常の形式から自由に変わることができる。祈りは、特定の場所や時間に迷信的に限定されるべきではない。公の集会における長く冗長な祈りは避けるべきである。賛美は不可欠ではないが、正当かつ望ましいものである。聖務日課(定時課)は聖書に定められておらず、古代にも知られていなかった。

第24章 祝祭日、断食、食物の選択について 【要約】

主の日は、使徒たちの時代から、神への礼拝と聖なる休息のために聖別されている。しかしわれらはこれを、ユダヤ的な迷信によってではなく、キリスト教的な自由のうちに守るのであり、ある一日がそれ自体において他の日より聖であるとは信じない。
もし諸教会がこれに加えて、主の降誕、割礼、十字架、復活、昇天、聖霊降臨を記念するならば、われらはこれを大いに是とする。しかし人間が聖徒を称えて制定した祝日は、聖徒の記憶が有益であり、その徳に倣うようにと民に勧められるべきものであるとしても、退ける。
まことのキリスト教的断食は、節制、節欲、目覚め、自己統制、そして御霊により従いやすくなるための肉の懲らしめから成る。このような断食は、祈りとあらゆる徳の助けとなる。
また、苦難と災いの時に定められる公の断食もあり、そのときには人々は夕方まで一切の食物を断ち、すべての時を祈りと悔い改めに費やす。このような断食は預言者たちにも言及されており(ヨエル2:12以下)、教会が苦しめられ抑圧されているときに守られるべきである。私的な断食は、それが自らの魂に有益であると各人が判断するときに、各自守るべきものである。
すべての断食は、自由で進んで行う心から生じるべきであり、真の謙遜の霊のうちに、肉に打ち勝ち、いっそう熱心に神に仕えるために行われるべきであって、人の好意や義の功績を得るためであってはならない。
四旬節の断食は古代の証しを持つが、聖書に命じられているわけではなく、信仰者の良心に課されるべきではない。初代教会には、断食の時期に関して大きな多様性と自由があった。イレナイオスや歴史家ソクラテスから、われらはこれを知る。
食物の選択に関して、われらは断食において肉欲を刺激するような食物や飲み物を控えるべきであると考える。しかしそれ以外については、神のすべての被造物は良いものであり(創世記1:31)、節度と感謝をもって区別なく用いてよい(コリント第一10:25、テトス1:15)。パウロは食物を禁じる教理を悪霊の教えと呼び(テモテ第一4:1以下)、過度の節制によって聖性の評判を得ようとする者たちを非難している。

第25章 教理教育について、また病人の訪問と慰めについて 【要約】

若者への宗教教育、とりわけ十戒、使徒信条、主の祈り、礼典の本質についての教育に、最大の配慮が払われるべきである。諸教会は、子どもたちが教理教育を受けるよう配慮すべきである。
病人を訪問し、慰め、力づけ、私的にも公にも彼らのために祈ることは、キリスト教の牧者の主要な務めの一つである。しかしわれらは、教皇主義者たちの終油の秘跡を是としない。

第26章 信仰者の埋葬について、死者への配慮について、煉獄と霊の出現について 【要約】

聖霊の宮である信仰者の体は、終わりの日によみがえるのであるから、迷信によらず、敬意をもって地に納められるべきであり、その親族、寡婦、孤児は手厚く配慮されるべきである。
われらは、信仰者は死後直ちにキリストのもとに行き、生きている者の祈りを必要としないと信じる。不信仰者は地獄に投げ込まれ、そこから逃れる道はない。
煉獄の教理は聖書に反し、キリストによる完全な贖罪と清めに反する(ヨハネ5:24、13:10参照)。
死者の霊が生きている者に現れ、自分たちの救済のために奉仕を求めるという話は、われらの判断では嘲弄あるいは悪魔の欺きである。主は死者への口寄せを禁じておられる(申命記18:10)。そして富める者は、もし地上の兄弟たちがモーセと預言者たちに耳を傾けないなら、たとえだれかが死人の中からよみがえっても、彼らは説得されないであろうと告げられた(ルカ16:30)。

第27章 儀式と祭儀について 【要約】

ユダヤ人の儀式律法は、まことの解放者キリストへとユダヤ人を導く養育係であり後見人であった。キリストはこれを廃止されたので、信仰者はもはや律法の下にではなく、福音の自由の下にある。使徒たちは、新しい改宗者にユダヤの儀式の重荷を負わせようとはしなかった(使徒15:28)。人間の儀式が教会に積み重ねられるほど、それはキリスト教的な自由から、そしてキリストご自身から、教会を遠ざける。無知な者たちは、信仰によってキリストのうちに求めるべきものを儀式のうちに求めてしまう。神の御言葉に一致した、少数の純粋で節度ある儀式で十分である。
古代の教会に存在した、そして今われらの間に存在するような、儀式における相違は、教理と信仰における一致と調和を妨げるものではない。それ自体は善でも悪でもない中立的な事柄(アディアフォラ)においては、教会は常に自由を用いてきた(コリント第一8:10、10:27以下)。

第28章 教会の財産について 【要約】

教会の財産は、公の礼拝と学校の維持、奉仕者と教師の支援、そしてとりわけ貧しい者の益のために用いられるべきである。
無知あるいは貪欲による教会財産の誤用と濫用は冒瀆であり、改革を要する。

第29章 独身、結婚、家政について 【要約】

天からの賜物として独身を与えられ、全き心をもって清く節制できる者は、他者に対して自らを誇ることなく、単純さと謙遜のうちに、その召しにあって主に仕えてよい。そうでなければ、使徒の言葉「情の燃えるよりは結婚するほうがよい」(コリント第一7:9)を思い起こすべきである。
結婚(不節制の治療であり、それ自体が節制でもある)は神によって制定され、神はこれを豊かに祝福し、男女を親密な愛と調和のうちに生きるよう不可分に結び合わされた(マタイ19:5)。結婚はすべての人において尊ばれるべきであり、その床は汚されていない(ヘブライ13:4、コリント第一7:28)。
われらは重婚を、また再婚を退ける者たちを断罪する。
結婚は主を畏れる心をもって、両親またはその代理人の同意を得て、それが制定された目的にしたがって結ばれるべきである。
子どもたちは主を畏れるうちに育てられ、両親によって適切に扶養され(テモテ第一5:8)、誠実な技術あるいは職業を教えられるべきである。
われらは、結婚を禁じる、あるいはこれを不浄で汚れたものとして間接的に貶める教理を断罪する(テモテ第一4:1)。われらは、汚れた独身、隠された、あるいは公然の淫行、そして偽善者たちの見せかけの節制を忌み嫌う。

第30章 為政者について 【要約】

世俗の為政者は、人類の平和と安寧のために、神ご自身によって立てられた(ローマ13章)。教会に敵対するなら、為政者は大きな害をなしうる。友好的であれば、教会に最も有益な奉仕をなしうる。
為政者の務めは、平和と公の秩序を保つこと、宗教と善き道徳を促進し保護すること、正しい法によって民を治めること、盗人、殺人者、抑圧者、冒瀆者、そして(真に異端者であるならば)矯正しがたい異端者など、社会に背く者たちを罰することである。
戦争は、自衛のためにのみ、そしてあらゆる和平の努力が尽きた後にのみ、正当化される。
われらは、キリスト者が公職に就くべきでない、為政者には何びとをも死刑に処す権利がない、戦争をなす権利がない、誓いを求める権利がないと主張する再洗礼派を断罪する。
すべての市民は、神のしもべとしての為政者に対して、そのすべての正しい命令において敬意と従順を負う。公共の安全と福祉が求めるときには、自らの命をもってさえも。それゆえわれらは、為政者を軽んじる者、反逆者、国家の敵、そして公然とあるいは巧妙に市民としての義務を拒む者たちすべてを断罪する。
われらは、われらの憐れみ深い天の父なる神に、君主と為政者、われらすべて、そして神のすべての民の上に、われらの唯一の主にして救い主なるイエス・キリストを通して、祝福を注いでくださるよう祈る。彼にとこしえに賛美と栄光と感謝がありますように。アーメン。

2026年8月5日水曜日

【小論】カルヴァンのサクラメント論、特に聖餐論について―Institutes IV.14-19を中心に―

 【小論】カルヴァンのサクラメント論、特に聖餐論について―Institutes IV.14-19を中心に―


I.カルヴァンのサクラメント論の基本構造(Inst. IV.14-19)
 Institutes(『キリスト教綱要』)第4巻第14~19章は、洗礼と聖餐を軸とするカルヴァンのサクラメント論が体系的に展開される代表箇所である。カルヴァンはここで、しるし(signum)と、しるされた事柄・実体(res significata)とを区別しつつも分離しない、という中世以来の枠組みを継承しながら、二つの戦線――カトリック・ルター派の客観主義と、再洗礼派・ツヴィングリ主義の霊的主観主義――に対して、独自の中道的立場を彫琢していく。

1.初期カトリックの伝統、特にアウグスティヌスとの連続性(IV.14.26)
 カルヴァンは、サクラメントを「見えない恵みの見える形態」とするアウグスティヌスの定義を高く評価し、これを土台としつつも「正しく、良いが、簡潔に過ぎる」としてみずから発展させる。IV.14.26では、旧約のサクラメント(割礼など)と新約のサクラメント(洗礼・聖餐)が、ともにキリストへと導くという同一の実体を指し示す点で本質的に同一であることを、アウグスティヌスの言葉――「旧約のそれらは成就されるべき事柄の約束であり、新約のそれは成就のしるしである」――を引用しつつ論証する。ここにカルヴァンは、初代教会以来のサクラメント論的伝統、すなわちしるしとその指し示す実体とを区別しながらも両者の結びつきを保持するという立場を、みずからの神学の出発点として引き継いでいることが確認できる。

2.カトリック・ルター派の「客観主義」への対抗――聖霊と信仰の必要性
 カルヴァンは、サクラメントの効力が儀式の執行それ自体によって自動的・客観的に生じるとするカトリックのex opere operato理解、およびパンとぶどう酒の実体を保持したままキリストの体と血がその中に・共に・下に(in, cum, sub)実体的・場所的に現臨するとするルター派の共在説(consubstantiatio)をともに退ける。1530年アウグスブルク信仰告白第10条が、キリストの体と血は「食する者に(vescentibus)」客観的に配られ与えられると定めたのに対し、カルヴァンはこれを「信じる者に(credentibus)」と修正すべきだと考えた。サクラメントが恵みを証印し得るのは、あくまで聖霊の働きと受領者の信仰とを媒介としてであり、信仰なきところにサクラメントの効力はない。これによってカルヴァンは、不信者や幼児にまでキリストの体を機械的に「飲み込ませる」という秘跡の自動主義を排除する。

3.再洗礼派と霊的主観主義への対抗――サクラメントの手段・媒介としての側面の強調
 他方でカルヴァンは、聖餐を単なる記念・象徴・信仰告白の行為へと還元するツヴィングリ主義、およびそれをさらに徹底し、教会・聖書・儀式といった外的なものそのものを軽視する再洗礼派の霊的主観主義とも対決する。カルヴァンにとってサクラメントは「裸の、空虚なしるし」ではなく、しるしと実体とが不可分に結びついた「呈示的(exhibitive)・道具的(instrumental)」な手段である。しるしは恵みを単に指し示すのみならず、聖霊の働きを通してその恵み自体を実際に運び伝える「道具」として機能する。B. A. ゲリッシュはこの立場を「象徴的道具主義(symbolic instrumentalism)」と呼び、ツヴィングリの「象徴的記念主義(symbolic memorialism)」、ブリンガーの「象徴的並行主義(symbolic parallelism)」と対比している。

II.歴史的背景――1520年代のルター・ツヴィングリ論争とその調停
 カルヴァンのサクラメント論は、1520年代に先鋭化したルターとツヴィングリの聖餐論争という文脈のなかで、いわば「後発の宗教改革者」として両者の中間を模索する形で形成された。

1.ルターのリアリズム(共在説)
 ルターは、神の内在性を重んじるトマス主義的伝統を継承しつつ、「これはわたしのからだである」(マタイ26章)という制定の言葉の文字通りの解釈に立脚し、パンとぶどう酒の実体を保持したまま、その中に・共に・下に(in, cum, sub)キリストの体と血が実体的・場所的に現臨するという共在説を主張した。この立場は、後継者(とりわけヨハン・ブレンツ)によって、キリストの人間性の遍在(ubiquitas)の教理にまで展開されていく。

2.ツヴィングリのスピリチュアリズム(象徴主義・人間側の態度)
 これに対しツヴィングリは、新プラトン主義的・アウグスティヌス的・人文主義的立場から、制定の言葉の「である(est)」を「意味する(significat)」と解釈し、パンとぶどう酒はキリストのからだの記念のしるし・象徴にすぎないとした。ツヴィングリにとって聖餐は、記念の食事(Gedächtnismahl)、兄弟的交わりの確認(Gemeinschaftsmahl)、信仰の誓約(Pflichtzeichen)という、水平的・人間側の態度(神人協働的な信仰応答)を主とするものであり、キリストとの実体的な交わりという贈与的性格を欠いていた。

3.ブツァーによる調停の道、およびカルヴァンとブリンガー
 1529年のマールブルク会談でもルターとツヴィングリの対立は解消せず、ストラスブールの改革者マルティン・ブツァーが両陣営の間の「中間の道」を模索した。ブツァーは、キリストの現臨は実在し恵みとして与えられるが、それは「聖霊のありかたにおいて(modo Spiritus Sancti)」霊的にであって、肉的・場所的にではない、という総合に到達した。1538~1541年のストラスブール滞在中にブツァーから決定的な影響を受けたカルヴァンは、聖霊が天にあるキリストのからだと地上の教会とを結ぶ「絆」であるとするこの理解を、みずからのサクラメント論の中心に据えることになる。他方、ツヴィングリの死後その立場を継いだハインリヒ・ブリンガーは、象徴主義を幾分和らげつつも、口がパンを受けるのと同時に・並行して心がキリストを受ける、という「象徴的並行主義」を基本的に保持し、後述の1549年チューリヒ合意(Consensus Tigurinus)においてカルヴァンの合意相手となった。

III.gnesio-ルター派、ヨアヒム・ヴェストファールとヘスフシウスによる反論(1552-1561)
 1549年のチューリヒ合意(カルヴァンとブリンガーによる、チューリヒとジュネーブの聖餐理解を統一する全26箇条の文書。1551年ラテン語版公刊)が世に問われると、正統ルター派(gnesio-ルター派)から激しい反発が起こった。1552年、ハンブルクの説教者ヨアヒム・ヴェストファールは、チューリヒ合意とカルヴァン、ペトルス・マルティルを攻撃する論考を著し、キリストのからだはパンのうちに実体的に、しかも局所的にではないにせよ遍在的に(extra locum)現臨しており、ユダもペトロと同様にそれを食した、と主張した。カルヴァンは『聖餐に関する健全で正統な教理の擁護――チューリヒ合意に基づく』(1555年)等で応答した。論争はブレーメンにも波及し、ティレマン・ヘスフシウスと(カルヴァン主義的立場に立つ)アルベルト・ハーデンベルクとの間で激化、ハーデンベルクは職を追われるに至った。1558年にハイデルベルクの総監督となったヘスフシウスは、その後もカルヴァン主義的傾向(いわゆるクリプト・カルヴィニズム)の追及を続けた。カルヴァンは1561年、『ヘスフシウスの迷妄を論駁するための、キリストの肉と血への真のあずかりに関する健全な教理の明晰な説明』(Dilucida explicatio sanae doctrinae de vera participatione carnis et sanguinis Christi in Sacra Coena, ad discutiendas Heshusii nebulas)を著し、自身の聖霊論を、ツヴィングリ主義的な「人間の霊とキリストの神性との合一」に解消されるものではなく、キリストの肉と血への実質的なparticipatio(あずかり)を含むものとして弁明した。この一連の論争(第二次聖餐論争)は、1552年のヴェストファールの攻撃に始まり、1561年のヘスフシウス論駁に至るまで、約10年にわたって続いた。

IV.カルヴァンのサクラメント論の形成過程――Institutes諸版の変遷
 近年のカルヴァン研究(とりわけWim Janseの研究)が示すように、カルヴァンの聖餐論は最初から一貫し完成された教理として存在したのではなく、Institutesの改訂を重ねるなかで、いわば振り子のように立場を揺らしながら段階的に形成されていった。

1536-1537年 ツヴィングリ的傾向(Inst. 1536)
 最初の『キリスト教綱要』(1536年版)およびこれに近接する時期の文書には、後年のような道具主義的な語彙(exhibere等)がまだ乏しく、ツヴィングリ的な色彩の強い記述が見られる。

1537-1548年 ルター派的傾向(Inst. 1539)
 ストラスブール時代(1538-1541年)のブツァーとの接触を経て、1539年版Institutesおよびこの時期の著作(『聖餐に関する信仰告白』1537年、『我らの主イエス・キリストの聖なる晩餐に関する小論』1541年など)には、道具主義的・呈示的(exhibitive)な語彙が導入され、キリストの体と血への実質的なあずかりを強調する、ルター寄りの傾向が顕著になる。カルヴァンはこの時期、1540年の修正アウグスブルク信仰告白(Confessio Augustana Variata)にも署名している。

1549-1560年 主観主義・霊的傾向の刷新(Inst. 1559)
 1549年のブリンガーとのチューリヒ合意交渉の結果、しるしと実体との「並行」を語るツヴィングリ=ブリンガー的な語法が改めて前面に出てくる。同時に、1550年代のヴェストファールとの論争(上記III)を経た成果も1559年版Institutesに組み込まれ、IV.14-19を含む決定版が成立した。カルヴァンは、この時期にブリンガーの圧力の下でツヴィングリ的な要素を取り入れることで、かえってルター派との架橋を果たせると(結果的には誤算であったが)考えていたことが指摘されている。

1561-1562年 ルター派への接近の再開
 ヘスフシウスとの論争(1561年、Dilucida explicatio)を経て、カルヴァンは再びルター派に対する融和的な姿勢――1540年代の「親ルター派的な調子」――に立ち戻り、キリストの体と血への実質的なあずかりを強く前面に出す表現を採るようになる。

結び
 以上に見たように、カルヴァンのサクラメント論は、初期カトリック(アウグスティヌス)的な連続性を保持しながら、一方でカトリック・ルター派の客観主義(ex opere operato・共在説)に対して聖霊と信仰の必要性を、他方で再洗礼派・ツヴィングリ主義的な霊的主観主義に対してサクラメントの手段的・道具的性格を、それぞれ強調するという二正面作戦の産物であった。そしてこの立場そのものが、1536年から1562年に至るInstitutesの改訂過程において、ツヴィングリ的段階(1536-37)→ルター派的段階(1537-48)→主観主義的刷新の段階(1549-60)→ルター派再接近の段階(1561-62)という、振り子のような往復運動を経て徐々に彫琢されていったものである。

主要参考文献
・Wim Janse, "Calvin's Doctrine of the Lord's Supper," Perichoresis 10.2 (2012): 137-163.(本レジュメの時代区分(1536-37/1537-48/1549-60/1561-62)は、同論文(および同氏 "Calvin's Eucharistic Theology: Three Dogma-Historical Observations," in Calvinus sacrarum literarum interpres, 2008)の歴史的分析に基づく。)
・John Calvin, Institutes of the Christian Religion (1559), IV.14-19.
・Consensus Tigurinus (1549).
・B. A. Gerrish, Grace and Gratitude: The Eucharistic Theology of John Calvin, Minneapolis: Fortress Press, 1993.

【キリスト教入門】④人間の創造と人間の罪 ― 創世記1〜2章を読む

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