2024年5月2日木曜日

ポリュカルポス


ーーーレジュメーーー

【キリスト教史】ポリュカルポス Polykarpos, 70/82‐156/168 CE


 1 基本データ

・70/82‐156/168 生没年については諸説あり

・2世紀前半に活躍した小アジアのスミュルナの司教

・使徒教父。聖人(カトリック、正教会、聖公会、ルーテル)


補足:使徒教父=使徒たちの教えを受けた教父の意。いわば使徒の第2世代。

 =ローマのクレメンス、アンティオキアのイグナティオス、ポリュカルポス

 17世紀フランスのコトリエが「使徒教父」と名付け


・リヨンのエイレナイオス(130頃-202年)の師

・使徒ヨハネに師事したとエイレナイオスが伝える

・「復活祭論争」で知られる。

・著書『ポリュカルポスの手紙』(『フィリピ人への手紙』)。


 2 プロフィール

・小アジアのスミュルナ(現・トルコのイズミル)の司教(在位 ca. 110-ca. 156 CE)

・エイレナイオスの師。

 彼により、使徒ヨハネに師事したと伝えられている

 イグナティオスと交友関係にあった。


 3 特徴ーー異端との対峙と殉教死

・異端に対する闘い、正統信仰の擁護

 教皇アナクレトゥスの時代、ローマを訪れて異端的な人々の多数を会心

・86歳の時、スミュルナで殉教

 伝説では、火刑に処されても体は燃えず、剣で刺されて絶命

・彼の死の直後、『ポリュカルポス殉教録』執筆


 4 「復活祭論争」

 二世紀後半に生じた論争。当時、小アジアの教会では、使徒ヨハネの伝承に従って、ニサンの月の第14日にイースターが祝され、他方、ローマ等の教会ではニサンの月の第14日直後の日曜日にイースター祝祭が行われていた。120年頃、スミュルナ司教であったポリュカルポスはローマを訪れた際、ローマ司教アニケトゥスからニサンの月の第14日のイースターを変更するよう説得されたものの、彼はヨハネの伝統を主張してこれを拒否した。


 著作

『ポリュカルポスの手紙』:フィリピ人に宛てて書かれた。背教への警告。


 ポリュカルポスに言及している教父・文書

・エイレナイオス『異端反駁(Adversus Haereses)』

・エウセビオス『教会史(Historia Ecclesiastica)』

・『ポリュカルポス殉教録』


ーーー解説テキストーーー

ポリュカルポス Polykarpos, 70/82‐156/168 CE


 【要約】

ポリュカルポス 70/82‐156/168

2世紀前半に活躍した小アジアのスミュルナの司教。使徒教父。聖人。エイレナイオス、テルトゥリアヌスの師。使徒ヨハネに師事したとも。イグナティオスと交友関係。「復活祭論争」で知られる。『ポリュカルポスの手紙』。


 【本文】

 2世紀前半に活躍した小アジアのスミュルナの司教(在位 ca. 110-ca. 156 CE)。使徒教父。聖人。エイレナイオス、テルトゥリアヌスの師でもあり、使徒ヨハネに師事したと伝えられている。イグナティオスと交友関係にあった。86歳の時、スミュルナで殉教。彼の死の直後、『ポリュカルポス殉教録』が執筆された。


 「復活祭論争」

 二世紀後半に生じた論争。当時、小アシ゛アの教会では、使徒ヨハネの伝承に従って、ニサンの月の第14日にイー スターが祝され、他方、ローマ等の教会ではニサンの月の第14日直後の日曜日にイースター祝祭が行われていた。120年頃、スミュルナ司教であったポリュカルポスはローマを訪れた際、ローマ司教アニケトゥスからニサンの月の第14日のイースターを変更するよう説得されたものの、彼はヨハネの伝統を主張してこれを拒否した。


 著作

『ポリュカルポスの手紙』:フィリピ人に宛てて書かれた。背教への警告。


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