2024年5月2日木曜日

(古代教会における聖書)正典の形成

正典の形成

(古代教会における聖書)「正典」の確定


 【ツイッター用要約】

エイレナイオスやムラトリ断片の時代から教会諸文書の範囲はある程度定まっていたが、様々な異端の発生により限定の必要が生じ「正典」化が加速。西方教会は397年のカルタゴ会議、東方教会は680年の第3コンスタンティノポリス公会議にて公認。


 【本文】

 旧約が初期教会時代以前から既に正典化されていた一方で、1世紀中葉から2世紀中葉にかけて相次いで成立した新約聖書諸文書は広範囲に流布していくと同時に、4世紀に至るまでの間に部分的には収集され、それが一種の正典化された文書群として機能することもあった。だが、基本的に諸文書は正典としての明確な統一性を持つことなく、なお流動的であった。3世紀初頭のムラトリ断片には、4つの福音書とその他の新約文書のリストが観察されることから、少なくとも2世紀半ばから後半においては、教会内に正典化への"萌芽"があったということになる。こうした萌芽は、やがて異端との闘いを通して、より自覚的に為されていくことになる。


 初期キリスト教会から古代教会の時代、2世紀から4世紀にかけての教会は様々な異端的諸派との対決を余儀なくされた。しかしながら、こうした異端的グループとの対峙を通して、聖書の正典化がより加速されたことも事実である。教会は異端との闘いを通して、Regula fidei(信仰の基準)を明確にする必要を自覚し、そのために「正典」と「信条」を定める作業が同時進行で為された。


 そうした異端的諸派として、正典化というコンテキストに限定すれば、エビオン派、グノーシス主義、マルキオンとマルキオン派が挙げられる。グノーシスによる正典の"無限の拡大"、エビオン派、マルキオンによる正典の"恣意的な限定"という両極の狭間で、教会は聖書の正典化を進めなければならなかった。


 エビオン派とは、エルサレムのユダヤ人キリスト教徒が、紀元70年のエルサレム陥落時にヨルダン川東岸に逃れ、その地に形成したグループである。エビオン派は、教会史のいわば支流に属し、独自の正典解釈と教義を特徴とした一派であった。律法遵守、禁欲主義、養子説的なキリスト論を採用し、反パウロ的な論陣を張り、使徒言行録、パウロ書簡を否定し、福音書を改ざんした。やがてグノーシス主義運動に解消化されていった。


 グノーシス主義について、正典化との関連に限定して言えば、彼らはその独自の教義から、"知識"を獲得し真の救いを得るための手段として、ユダヤ教、キリスト教、ギリシャ神話、プラトン主義を取り入れた文書を多数生み出した。グノーシス主義の影響力の大きさは、1945年に発見されたナグ・ハマディ文書に含まれるグノーシス文書の割合(52文書中42)によく表れている。当時の教会は、多くのグノーシス文書が流布する状況の中、真正のキリスト教文書を定めることを迫られた。


 マルキオンは、黒海沿岸のポントス州スィペ出身で、後にローマ教会に属するが、144年に独自の教会を設立。「福音の純化」という名目の許、旧約の神と新約の愛の神とは別種であるとして、旧約を排除し、新約にも旧約的な改変が行われているとして、ルカ福音書とパウロ書簡のみを、改ざんを施した上で正典として採用した。マルキオン主義は、テルトゥリアヌスやユスティノスに、「マルキオンの異端の伝統は、今や全世界に及んでいる」と言わせるほどに一時期隆盛を極めた。

 以上のような事情から、教会は新約諸文書の正典化を遂行したことは、教父たちの行動から読み取ることが出来る。例えば教父エイレナイオス(130-200頃)は、4福音書、使徒行伝、パウロ書簡の一部の17書を正典と認めていた。護教家テルトゥリアヌス(150-220頃)は、4福音書、使徒行伝、パウロ13書簡、第一ヨハネ、第一ペトロ、ユダ、ヨハネ黙示録の22書を正典と認めた。また3世紀に至ると、オリゲネス(185-253/4)が「教会の書」を「公認されたもの」「疑わしきもの」「偽書」とに三分した。他に、エウセビオス(260-339頃)の分類や、アタナシオスによる復活祭書簡第39における27文書のみを正典とした最初の言及が挙げられる。西方教会と東方教会の双方において、ヘブル書、ヨハネ黙示録等の正典性を巡って長らく議論されたが、西方教会は397年のカルタゴ会議において、東方教会では680年の第3コンスタンティノポリス公会議において、新約文書全体が公認された。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。