ドイツ宗教改革をもたらした指導者。
中部ドイツのアイスレーベンにて、鉱山業に携わっていた父の家に生まれる。1501年、当初は法律家となることを希望してエアフルト大学に入学し、哲学を学ぶ。22歳の時、落雷に遭遇し、友人が死ぬという経験を経て、両親の反対を押し切って、エアフルトのアウグスティヌス修道院の修道士となる。1506年、司祭に序階される。しかし、人間が打ち立てる功績によっては神の前に正しいとされないという自覚が深まり、罪に苦悩し、罪の赦しを希求した。
その後、ヴィッテンベルク大学にて神学博士号を取得。聖書注解の講座を担当する。聖書講義のために聖書を熟読する過程で、イエス・キリストによってもたらされた神の恵みへの信仰によって、神の前に義とされ、罪の赦しを得て救われるという、いわゆる信仰義認の確信を得る。
カトリック教会が財政難のために発行した贖宥状(これを購入することによって、他者の功績がその本人もしくは既に死亡した家族に還元され、罪の赦しを得られるというもの)に抗議(プロテスト)し、1517年にヴィッテンベルク城の門扉に九五箇条の提題を掲げた。これが、本人も予想し得なかった程の甚大な影響を周囲に及ぼし、ドイツからやがて周辺諸国にまで広まったことで、一連の宗教改革の端緒となった。
カトリック教会はその後、ルターを破門。ルターもまた破門状を焼き捨て、身に危険が及ぶ中、選帝候フリードリヒの居城にかくまわれる。その折、聖書のドイツ語訳(ルター訳)を執筆した。
ルターは、自らの善行や律法の実践によって人は救われるのではなく、キリストの救済の業に示された神の恵みへの救われるとする、いわゆる「信仰義認論」を説いた。
救いや神の意志を悟るために必要なことは、すべて聖書に著されているとする、聖書中心主義(「聖書のみ」)や、人の救いは専ら神の恵みによるとする「信仰のみ」の立場、そして、人の功績ではなくただ神の恵みによって救われるとする、「恵みのみ」という主張を展開した。
信仰が最も重要であるが故に、神と人とが結びつくのに際して、聖職者のみがその仲介となり得ることを批判して、万人がそれになり得ることを主張する「万人祭司主義」を説いた。
個人の意志や信仰を重視したことは、後世の近代における個人の自覚を高める上で、大いなる発想の転換をもたらした。
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