2025年1月30日木曜日

【キリスト教史】「聖人の遺体をゲットだぜ!」ー聖遺物、聖遺物崇敬について

 
 レジュメ

【キリスト教】「聖人の遺体をゲットだぜ!」ー聖遺物、聖遺物崇敬について

1 聖遺物とは
・聖人の遺体、もしくは遺体の一部(髪の毛、血液、部位)
 聖人の遺物や触れたもの(衣服、所持品)
・これらを崇敬する行為や精神性
 (キリスト教では神以外のものは崇拝しないので、崇敬)
・元々、使徒や聖人とされた者を崇敬する習慣あり。

2 聖遺物崇敬の発生からその後の展開
2-1 古代時代 聖遺物崇敬ブームの始まり
・4世紀頃、聖人の遺骨がコンスタンティノポリスに移転。
 聖人の遺物や遺骨に注目が集まる。

・その後、聖遺物の捜索、発見、収集、巡礼が盛んになる。
・聖マルティヌス(サン・マルタン)の逝去時(397年)、
 付近の住民が集まり、遺体の所有権で議論になる。

・パターンとして、奇跡を伴う発見エピソードを伴う。
 中世時代には奇跡逸話集 「聖ジブリアン奇跡録」(12世紀) 
・その後、聖遺物が安置された教会や修道院には、巡礼者

2-2 中世時代 聖遺物崇敬の半ば暴走状態
・聖遺物崇敬は西方教会では流行した一方、
 東方ではむしろ聖画像が崇敬された。イコノクラスム期を除く

・調達や輸送斡旋のエキスパートの出現
 例、9世紀、ローマと西欧を仲介したデウスドーナ

・聖人以外の遺物も現れる。
 例 南イタリアのモンテガルガノ、大天使ミカエルの紅の外套

・数々の聖遺物の出現
 ・受胎告知時のマリアの服(ノートルダム大聖堂)
 ・受難時にキリストの汗を聖女ベロニカが拭い、後に顔が浮き
  出た、「聖顔布」(スダリウム)。
  教皇代理アデマール・デュ・ピュイによって発見。
 ・聖杯伝説 最後の晩餐時に使用され、十字架のキリストの
  血を受けたとされる杯

・聖人級の偉人は、生前から体を狙われる
 例 トマス・アクイナス 近隣はおろか遠隔地からも人が殺到
   死後、厳重な管理体制下で分骨された

・中世中期にはブームが高じ、贋作や偽情報が横行
・真贋性の見極め、聖遺物の認証の問題、認証権限の所在
 司教の権限→第4ラテラノ公会議(1215)以降、教皇のみの権限
・「移葬記」:聖遺物の真正を主張するために入手経路を記録書

2-3 その他の備考項目と、中世時代以降
・聖遺物は、聖遺物匣に納めて安置する
・聖遺物の売買禁止だが、どこまで遵守されたかは不明。
・全聖遺物の祝日は、11月5日。
・宗教改革以降のプロテスタントの多くは、聖遺物を認めず


ーーーー完全原稿ーーーー
今回はキリスト教系の主題として、成人の遺体をゲットだぜ。聖遺物、聖遺物崇敬について、と題して解説していきたいと思います。ちょっとふざけたタイトルですが、以下を一通り聞いていただければ、まさにその通りという表現です。

まず聖遺物とは何かについてですが、聖人の遺体、もしくは体の1部、例えば髪の毛、血液、体の部位などを指します。また、聖人の遺物であるとか、触れたものも含まれます。例えば、衣服であるとか所持品とか、あるいは、イエス・キリストであれば、キリストの脇腹を刺した槍であり、後に伝説でロンギヌスの槍と呼ばれるものなども挙げられます。
聖遺物崇敬とは、これら聖遺物を崇敬する行為や精神性と言うことになります。聖遺物崇拝という言葉も使われますが、キリスト教においては、神以外のものを崇拝することについては非常に厳しく禁止されていて、同時にかなり意識もされていることですので、やはり聖遺物崇敬とするのが適切かと思います。
マリア崇敬の崇敬もそうですね。マリアは神ではなく、しかし特別な存在だと言う事は明確に認識されていますから、崇拝まではしない、だが、崇敬はして、祈りの対象にもなると。これと同じロジックです。
あと、聖遺物を崇敬する以前に、もともとから、使徒であるとか、聖人とされた人を崇敬する習慣と言うのは、前提とあったということは言うまでもありません。

2
次に聖遺物崇敬の発生から、その後の歴史その後の歴史的展開を見ていきたいと思います。まずは古代時代からです。4世紀頃、聖人の遺骨がコンスタンティノポリスに移転されまして、それを契機に成人の異物や遺骨に注目が集まっていきます。その後、聖遺物が発見される、同時に探すなども試みられ、そうして発見されたものが収集される。そして、それらが教会などに安置されると、そこに多くの巡礼者が訪れる。そういった展開へと進んでいきます。
例えば、聖マルティヌス サンマルタンの逝去の折、397年になりますが、付近の住民が集まってですね、そして、この遺体というのが誰の所有権になっているのか、うちだ!よこせ!といった具合に議論になったと言う事件がありました。
あと聖遺物崇敬が成立してくるプロセスとして、何か奇跡を伴った上で聖遺物が発見されるといった、伝説的エピソードを伴うことが多々あります。中世時代にはそういった聖遺物を発見した際の奇跡の逸話集というものが編纂されまして、例えば、聖ジブリアン奇跡録 12世の成立、なぞがあります。そして先ほども述べたことですが、聖遺物が安置された教会や修道院には、やがて多くの巡礼者が訪れるようになる。そういう宗教的文化が醸成されてきたって言うわけですね。

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ところが、中世時代も初期から中期以降へと進んでいきますと、半ば暴走状態へと至っていきます。ただし、西方協会と東方協会、双方でそうなったと言うわけではなくて、生物数形は正法協会に大体限定されていまして、東方協会ではむしろ生画像が崇敬されました。最も700年以降には、イコノクラスム、聖画像破壊論争が長く続いたわけで、その時期は当然例外とはなりますが。
 中世になると、性物を調達したりでやるとか、それを郵送その斡旋をするエキスパートが出現していきます。なんかインディジョーンズみたいですね。例えば、9世紀、ローマと西洋を仲介したデウスドーナと言う人物が挙げられます。
一方、聖人以外の遺物と言うものも取り扱われるようになっていきます。例えば、南イタリアのモンテガルガノ 大天使ミカエルの紅の外套と言う遺物がありまして、これなどはもう天使ですから。人間ではないですからね。
また、数々のおびただしい生物が出現して参ります。例としては、ノートルダム大聖堂に安置される受胎告知の時のマリアの服。あるいは、キリストの受難の折に、彼の汗を聖女ヴェロニカが拭い、後にその布にイエスの顔が現れたところの聖顔布。教皇代理アデマール・デュ・ピュイによって発見されたものとされています。
あとは、なんといっても、聖杯伝説でしょう。最後の晩餐時に使用され、十字架のキリストの血を受けたとされる杯。

ここまでブームが高まりますと、聖人級の偉人などは、臨終手前の段階から話題になって体を狙われるようにさえなります。例としてトマス・アクイナスです。近隣ばかりか遠隔地からも人が殺到し、死後、厳重な管理体制のもとで分骨されたとのことでした。

さて、今までこの話を聞きになって、そんなもの本当なのかと深しく思う方も多くいらっしゃると思います。贋作や詐欺も横行したのではないかと。実際そうでして、新幹線の見極めということが課題になりある生物をどうそれが神聖のものだと認証する問題が出てきます。またそれをその認証する権限がどこにあるのかと言う権限の所在問題もあります。権限については当初は至急の権限にあったのですが、1215年の第4ラテラの公会議以降、教皇のみの権限に限定をされました。
そうした流れに伴い、聖遺物の真正を主張するために入手経路を記録した、「移葬記」が発行されるようになりました。

最後に、その他の備考項目と、中世時代以降の展開に少し触れます。
1聖遺物は、聖遺物匣(こう)というものに納めて安置します。
2聖遺物の売買は禁止だが、どこまで遵守されたかは不明
 てんばいやーみたいな状況はあったでしょうし、詐欺、贋作は山ほどあったのは事実ですからね。
3全聖遺物の祝日は、11月5日とされています。
4宗教改革以降のプロテスタントの多くは、聖遺物崇敬を認めず、受容することはありませんでした。

今まで聴いてくださった方の多くは、こんなアホなことと思われるでしょうが、要は、スピリチュアルブームとそうは変わらないのでありまして、我々も、やれパワースポットとか、パワーストーンとか、ありますよね。そういうものと、偉い聖人たちに対する崇敬の念がブレンドされての宗教的現象と、形容できるのではないでしょうか。

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