2025年2月15日土曜日

【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年2月16日「偉い人は仕える者になりなさい」

 



ーーーー聖書テキストーーーー

マタイによる福音書 23章1-12節


1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。


4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。


8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。

9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。

10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。


11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。

12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。


ーーーー説教文字データーーーー
2025年2月16日 
「偉い人は、仕える者になりなさい」

 今日のイエス・キリストの物語の舞台は、エルサレム。タイミングは、十字架上で死を遂げられる1週間か何日か前といったところ。マタイによる福音書も終盤になりますけれども、ここ何回かは律法学者やファリサイ派といった人たちが現れて、イエスに議論を吹っかけてきました。それは、イエスを大衆の面前でやり込めて、人気を失墜させるか、陥れるために他なりません。
 律法学者やファリサイ派について、簡単に説明しておきますと、ユダヤ人の宗教は民族宗教であるユダヤ教です。モーセが神から授けられた、いわゆるモーセの十戒というものがありますけれども、この十戒を中核として、数多くの掟があります。これが「律法」になります。その律法を学び、教える人々が律法学者です。天台宗の最長も、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞も、彼らの著作を開きますと、まあやっていることは学者です。しかし、単なる学者ではなくて、彼らはれっきとした僧侶、すなわち宗教家、宗教指導者、教師であるわけです。律法学者も同様です。で、ファリサイ派というのは、そんな律法学者、律法の教師たちの中でも、最も権威ある一派でありました。
 今日の聖書個所の中でイエスは、そんな彼らについて、バリバリに嫌味がこもった評価の言葉を述べています。早速1節以下を読んでみましょう。

1それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
 「モーセの座」とあります。マタイ福音書のここだけに出てくる語でして、聞きなれない言葉でしょう。でも、今までお聞きになった過程で、なんとなく意味は察することはできると思います。先ほど、律法の源流って何だったかと述べまして、その通り、モーセがシナイ山の頂で神から授かったところの、十戒が刻まれた2枚の石板にあったわけです。ですから、モーセというのは、律法の権威、ひいてはユダヤ教を象徴するわけで、ということは「モーセの座」というのは、その権威を象徴すると共に、そこでユダヤ教の教師、これを今日でも「ラビ」と一般でも呼ばれて認知されておりますけれども、ラビがそこに座して講話をする座であったということです。
ちなみに、ただいま「ラビがそこに座して」と言いました。講義は立ってするものじゃないかい?と思われるでしょうが、ユダヤ教では、説法的なものは座ってするものです。ですから、イエスも船の上から岸辺の民衆に話された時、「船の上に座って」と福音書に書かれています。
 それで、イエスの彼らラビに対するコメントがこちら。
「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」
 よくよく考えると、こんな過酷なコメントは、他にそうそうないと思います。「言うことは守れ、でも行動はマネするな」という強烈な皮肉が込められたものです。これって現代社会ですと、会社をつぶす上司、役員にありがちといった感があります。また、こうやって叩かれる人をしばしば擁護しようとして、「いや、彼の言っていることは結構、的を射ているよ」などと出たりしますけれども、こことの関連で言えば、NG以外の何者でもありません。

これらの批判の言葉というのは、ファリサイ派や律法学者といった、単に特定のグループに対する批判ではなく、人間の一側面というものを如実に映し出している実例ということが肝要です。ですから、恥ずかしい他人の振る舞いとして、自分も余裕かまして構えていられないと。他人にも自分にも、いつでも起こり得るものとして受け止める必要があります。
 それで、ユダヤ教のラビたちの所業に対する酷評の言葉が、ズラズラと4節以下で続いていきます。

4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
 先ほど述べた、部下をつぶし、病院送りにし、最後に会社をつぶす上司のようです。続けて5節。

5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
 人に厳しく、自分に優しく、それでいて見栄っ張り。こういう方々は、先の会社役員もそうですけれども、立派なお仕事はされていますからね。そのために、「人間の屑」といった部類にはあまり入れられませんけれども、実態としてはそれ以外の何者でもないですし、そもそも誰もが、こういう側面は持ち合わせているわけです。でも、それが目に余るケースも多々ありますし、一定の高い立場に就いてしまうと、なまじその立場や仕事の高さから、誰からも相手にされないなんてことも少なくなりますし、あまつさえ、実態としては大概な人でも、そのシンパがいたりして、守られている状態になると。そうなると、もう手が付けられないと。
 現代社会には、こういうのはアルアルで、そこら中に溢れていますけれども、教会もまた、牧師含めて重鎮的な人まで、こういう人間社会構造にならないよう注意しないといけません。そういう意味でもって、8節以下は読んで解釈する必要があります。

8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
 文字通り解釈してしまいますと、この教会で「大石先生」と呼んでいるのはなんだ!ってことになってしまいますから。でも、大概の教会では「先生」という語を使っているわけです。一方、使うべきではないと主張する方もいて、私なんかも「さんづけでいいのと違う?」と思ったりしますけれども、そうすると、ふと思うのです。先生と呼ばれる側、特に牧師とか、長老もそうですし、社会におけるまとめ役のような役職、そういうある種責任が重い役職の人は、「先生」とか、あるいは別の名称で呼ばれる、その語でもって想起されるプレッシャーが嫌なのじゃないかって。仕事の辛さって人よりけりですけど、中には、仕事内容が大変というより、責任の重さ、役の重さが重くていや、という方、とっても多いです。それはそうですが、私は思うのです。先生とか、長老でもそうですが、長老と呼ばれるその重みは覚悟しないといけないと。
 それは重くて辛いこともしばしばであるが、私は思う。そこにこそ、神の恵み、神の祝福は豊かに注がれるし、そういう人を神は慈しんでくださるものです。
 「先生と呼ばれていい気になっている」といった誹謗中傷は多いですし、この聖書の文脈ではそうですが、我々の社会では、今述べたように、むしろ人と人とを取りまとめる、人間と接する面倒くさい役を、悩みながら担う人がいないと、社会とは人間関係って、もたないのですよね。
最後、結びの言葉は格言的な言い回しになっています。

11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
 「偉い人」と聞くと、この言葉って手垢がついたものなので、我々の方で勝手に、いわゆる偉い人〜というのをイメージしがちですが、一度それを払拭していただきまして。
 偉い人というのは、人に教え、人を導く立場にある人です。ですから、必ずしもいわゆる偉い人、というほどのものでもないことも多々あります。仮にそうだとしても、人を取りまとめる、人と人とを繋ぐ、そういう役、そういう営みというのは、「上からの押しつけ」では、いけません。むしろ「上から」ではなく逆に、「下から」人を支えて持ち上げる重労働、あるいは、人を慮る悩ましい重荷というものを、覚悟しなければなりません。
それが、人に「仕える」というものです。

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