F. ヤング『ニケアからカルケドンへ』、第3章「カパドキアの神学者たち」の翻訳
Young, F. From Nicaea to Chalcedon-A Guide to the Literature and its Background, Philadelphia, 1983, p.92-99.
第3章「カパドキアの神学者たち」の翻訳。
アレイオス主義の衰退は、テオドシウス1世が東方の正帝に任命されると共に始まる。379年のこの時期において、正統的信仰の擁護者は、カパドキア人の三人の司教(カパドキア三教父)らが数えられる。カエサレイアの偉大な司教であったバシレイオスは、存命中にこの輝かしい勝利の到来を見ることはなかったが、ナジアンゾスのグレゴリオス、そして彼の弟であるニュッサのグレゴリオスらは、意識してバシレイオスの業績を継承し、彼の影響を不朽なものにしたのであった。迫害期(アレイオス主義の台頭期)には、彼ら三人はニカイアの正統的な立場に身を置き、後に彼らの業績は、東方における三位一体論の恒久的な成立に決定的な役割を果たすことになる。
しかしながら、こうした彼らの寄与のみによっては、彼ら自身の重要性を言い尽くすことは出来ない。彼らの著作の中で際立った特徴の一つとして、彼らの信仰的な言辞及び比喩的描写の豊かさ、そして聖書的、信仰的、教理的伝統の広範囲にわたる受容が挙げられる。そればかりでなく、三人のそれぞれは、教理的な発展のみならず、キリスト者の生活の様々な側面に独自の影響を与えた。恐らく、彼らの業績のうち最も興味深い点は、同時代の教会における二つの領域での緊張をもたらしたという証拠である。一つは、信仰と文化との間の緊張であり、すなわち、公認されたキリスト教界が承認せざるを得なかったグレコ・ローマン世界における異教文化である(異教的教養と信仰的それとの融合?)。今ひとつは、修道院制の発生と勃興によりもたらされた緊張である。これらは、カパドキアの教父たちのような人々が、教会が自身を世に売り渡すことなく、また世から砂漠へと隠遁するのでもない、双極のバランスを見出した結果であった。しかし、このバランスは、意図して為し遂げられたものでは殆どない。それは、それぞれの個人的な特性の帰結として、副次的に実を結んだものである。
1.生涯
カパドキア三教父の生涯は互いに密接に結び合っており、それは彼らの業績に関しても同様のことが言える。三人は良家で生まれ育っており、バシレイオスの一門からは実に、バシレイオス、ニュッサのグレゴリオス、(セバステイアの)ペトロスの三人を司教として輩出し、祖父祖母は殉教者、彼の母と姉も聖人となっている。彼の無二の親友であるナジアンゾスのグレゴリオスもまた、ナジアンゾスの司教の息子であったが、キリスト者であったその妻によって、彼は改宗させられている。故に、三人は非常に強い信仰をもった両親の許で育ったことになり、信仰へ転向するにあたっての心理的な葛藤を、三人の誰も味わうことはなかった。信仰に関するイメージ、表現、語彙、姿勢などは、第二の天性と言うべきであろう。
とはいえ彼らの経験は、狭く偏狭なものではない。彼らの家族はキリスト者であったのみならず、カパドキアの名門に属していた。名門、富裕の一家は、最上級の古典教育を喜んで彼ら息子たちに施した。弟グレゴリオスは、この典では兄よりも若干恵まれなかったが、兄バシレイオスはカエサレイアで学んだ後、コンスタンティノープル、アテナイに遊学。カエサレイアで既に、彼はナジアンゾスのグレゴリオスと知り合い、アテナイで友誼を結んでいる。ナジアンゾスのグレゴリオスの教育上の経歴も実際のところ類似してはいるが、バシレイオスがコンスタンティノープルで学んだ一方で、彼と彼の兄弟であるカエサリウスらは、キリスト教教育の中枢であったパレスチナのカエサレイア、そしてアレキサンドリア-両地ともオリゲネスとの関連で知られている-を歴訪している。しかしながら、アテナイはナジアンゾスのグレゴリオスにとって熱意の地となった。彼はそこで20代の大半を費やし、学問の追求から自身を引き離すことは出来なかった。不承不承ではあったが、彼はバシレイオスに従って357年頃、カパドキアに戻る。最早彼は、友人無しの古いねぐらには耐え得なかったのである。
そうした友情は、バシレイオスよりもナジアンゾスのグレゴリオスの方に重要な意味があったように見える。グレゴリオスは、より力にあふれた掛け替えのない親友(alter ego)に固執し、バシレイオスが彼を失望させたようなときなどは、彼は殊更に傷つくのであった。彼らの友情と反目の物語は、グレゴリオスの決断力の欠けた経歴を編み上げるに至った。彼ら親友同士は、共同体の生活と、学びの日々を通してもたらされた関心事を再び楽しむことは殆ど無かった。
ナジアンゾスのグレゴリオスは、彼らがアテナイにいたときに共に“哲学者の生活"を共有するために交わした約束に、書簡の中で言及する。しかしバシレイオスにとっては、この約束は単なる学徒の理想主義でしかなかったに違いない。バシレイオスはカエサレイアに帰郷すると、世俗の名声を獲得し始め、修辞学者としての力量を急速に世に示しつつあった。彼がそうした評判を喜んでいたことは疑い得ないが、既に修道生活に身を捧げていた彼の姉マクリネ影響を深く受けて、すぐにこれまでの経歴を捨てて、バプテスマを受け、長い旅に出る。エジプト、パレスチナ、シリア、メソポタミアを遍歴しし、砂漠の修道士の許を訪れる。彼は修道院の確立のため帰郷すると、小アジアにおける修道院的な共同体の組織化に重大な影響を与え始める。
今やバシレイオスは、友人からの援助を必要としていた。そこで彼はナジアンゾスのグレゴリオスに書簡を書き送り、彼が隠遁していたポントスに来て合流するようせき立てた。グレゴリオスもまたバシレイオスの要請に応え、バプテスマを受け改宗を果たす。これは、世俗的な成功を放棄したことでもあった。ところが彼は、禁欲生活に身を投じることに、ためらいを覚えていた。介助を必要としていた彼の老齢の両親が、それの口実にもなっていた。そういうわけで、彼はバシレイオスの許を訪れると、長く滞在することはなかった。彼の書簡には、偽りのない理想主義と、バシレイオスの非常な熱心をからかう思いとの間で揺れる、彼の二心が良く表れている。彼はたびたびポントスに戻りはしたが、滞在期間はやはり短いものであった。ナジアンゾスのグレゴリオスはバシレイオスと共に、Philocalia「フィロカリア」を編纂する。これは、オリゲネスの著作の抜粋集と言えるだろう。バシレイオスは恐らく、修道院の組織化のために著したRules「修道士大規定」(「修道院規則」)の初期の版に関して、友(であるグレゴリオス)と議論を交わしていたと思われるが、しかし修道院制度に関するグレゴリオスの立場は、なお曖昧さを残していた。なぜなら、彼はこれを理論としては理想的なものと見たが、実践上としてはそうは見なさなかったからである。
とはいえナジアンゾスのグレゴリオスは、人々に禁欲生活を断念するよう迫られたときも、そうした言動に憤慨するほど、かの理想に対しての確信を抱いていた。彼が世俗から隠遁する自由を束縛されればされるほど、彼は益々そうしようとする強い衝動を、内に感じるのであった。一方、バシレイオスは、問題で揺れる教会政治の中に、身を投じていったようである。それはあたかも、彼の才能が踊る舞台としては、修道院はあまりに小さかったかのようであった。ナジアンゾスのグレゴリオスは、友(であるバシレイオス)がかの理想に対して明らかに不忠実であることに、より一層敏感になっていた。
フラストレーションのたまるグレゴリオスを、最初の打撃が襲う。父に強いられて司祭の叙階を受け、(ナジアンゾスの司教となっていた)父の司教区管理を手伝うことを余儀なくされたからである。グレゴリオスは(父の許を)逃れポントスに行くが、彼はすぐに、新しい地位を受け入れるほかないことを悟った。既にバシレイオスは、修道院の壁の外側で活動しており、司教区内で活躍をし始めていた。359年、カエサレイアの司教であったDianiusとグレゴリオスの父の両名は、Riminiリミニの信条に署名するよう誤って導かれてしまう。ホモウシオスとホモイウシオスとの重大な差違を、あまりに僅かしか認識していなかったためである。両者それぞれ、バシレイオスとナジアンゾスのグレゴリオスの影響のもと、自身の誤った信仰を放棄したのであった。神学的には初心の域を出なかったカエサレイアの新しい司教であるエウセビオスは、バシレイオスに自分のアシスタントになるよう説得する。そうして彼もまた、司祭に叙階された。ひとしきりして、エウセビオスとの関係が悪化し始めると、彼は修道院へと戻った。ところが、そこへ彼の友ナジアンゾスのグレゴリオスが双方の和解に一役買ったことにより、バシレイオスは再び職務に復帰をしたのであった。バシレイオスは、ウァレンス帝治下のアレイオス派最後の優勢期にあって、教会を擁護する必要があった。
バシレイオスの弟、ニュッサのグレゴリオスの初期における経歴に関して、知り得る情報は僅かである。自身の学的感化に関して、兄バシレイオスに負うところが大きいと自ら語っている。確かに彼は、バシレイオスのように時の教育機関を遍歴することには与り得なかった。しかしながら、彼が当時、賞賛を博していた修辞学的能力については、兄とナジアンゾスのグレゴリオスに対し少しも引けを取ることなく、わけても哲学的な習熟においては両名をも凌ぐほどであったという。当初、彼は(修辞学)教師としての生活を送るが、後に、ナジアンゾスのグレゴリオスの手紙から知られるように、教会での経歴をなげうって、彼は突如として修辞学家・弁論術家に転向する。世俗の生活を送る間、Theosebeiaテオセベイアと呼ばれるキリスト教徒と結婚したようである。ポントスでの修道生活に加わるようにとの兄バシレイオスの懇願にもかかわらず、彼がかつて隠遁生活をしたという確たる証拠はない。しかし、修辞学家としての活動は長くは続かない。(ナジアンゾスの)グレゴリオスの書簡に影響されて(そうした生活に)幻滅を感じたのか、あるいは名門のキリスト教徒一家の出身であることが作用したのか、いずれにせよ長姉マクリネからの信仰的な感化は驚くほどであり、彼もまた罪の意識に敏感であった故に、まもなくして彼は世俗の成功を放棄したのであった。
370年、エウセビオスが死亡すると、バシレイオスは彼の後継者と(して司教に)なる。政治的な素質とは、野心、他派との競り合い、圧力の行使を意味するが、バシレイオスは、教会がそうした種々の政治的圧力から免れ得ず、自身の選出も決して保証されたものではないことを悟る。彼もまた、決してそうした政治の世界とは無縁ではなかった。不幸なことに、彼は友(グレゴリオス)の(政治を好まない)感性を見誤り、グレゴリオスの招聘をより確実なものとするために、健康状態の悪化を装うことによって得た助力を、まったく犠牲にしてしまう。幻滅させられたグレゴリオスは、バシレイオスの活動に野心以外の何物も見出すことは出来なかったが、それにも関わらず、彼の父(ナジアンゾスの司教をつとめたグレゴリオス)の推挙により、バシレイオスはカパドキアの首都大司教区の司教となり、(二人の)いさかいは収まった。バシレイオスは、広く影響力を持ったこの老齢のナジアンゾス司教に恩義を受けたのだ。
しかし問題は、彼の就任をもってしては終わらなかった。政治は敵を生む。彼は妬みと猜疑の眼差しに囲まれたのであった。こうした困難に加え、アレイオス主義を指示するウァレンス帝が、行政管理という表向きの理由を盾に、カパドキア地方を二つの州に分割したことであった。というのは、教区は慣例的に帝国の管轄区を踏襲することになっており、これにより、自らをカパドキアの第二首都大司教と宣言して止まない新しく誕生した首都Tyanaの司教Anthimusというライバルが登場することになった。それでもバシレイオスは自らの地位を確固たるものにしようと尽力し、ナジアンゾスのグレゴリオスはバシレイオスの推挙により、戦略的・政治的に重要なサシマの司教に就任する(371年)。しかしグレゴリオスは、バシレイオスの政治戦略上の駒に使われていることを知り、深く傷ついたという。そもそも4世紀は、やむを得ず司教になった者を多く数える時代であるが、彼以上にそうであった者は他にいない。そうした中、新たな司教が地方都市ニュッサに現れる。すなわち、バシレイオスの弟であるニュッサのグレゴリオスである。
バシレイオスは必ずしも支持者に恵まれたわけではなく、友グレゴリオスは決してサシマの司教職に挺身して当たることはなかった上に、弟グレゴリオスに関しては政治的な資質を持ち合わせてはおらず、アレイオス派の策謀によって、教会の資金横領のかどで免職させられてしまう。一面では、バシレイオスは二人のそうした弱さに再三試みられ、別の面では、彼らの若き理想を踏みにじったバシレイオスの裏切りに友グレゴリオスは怒り心頭であり、弟グレゴリオスもまた、自らの政治的手腕の乏しさに苛まれたのではないかとも考えさせられる。とはいえ、バシレイオスの早すぎる死の後(379年)、二人は尊敬の念を抱きつつ、彼の業績を継承しようと努めたようである。
司教としてのバシレイオスの業績は甚大である。実践的な面としては、病院や学校などの慈善事業の展開や、また彼の賜物である行政手腕を教区の運営にいかんなく発揮した。また、放縦の時代にあって倫理的リーダーシップをとり、そうした着想を、原始教会における慎ましい生活への回帰という土台に据えた。アレイオス主義を支持する皇帝治下にあっては、帝国の権力が敢えて直接関与することのなかったニカイアの正統的信仰の立場に身を置き続け、ウァレンス帝とわたり合ったことは伝説的である。教理的な面では、エウノミオスと対峙しただけでなく(『エウノミオス駁論』)、聖霊の神性に関する議論も取り上げた(『聖霊論』)。さらに挙げれば、礼拝改革、説教と聖書講解の卓越した能力等が挙げられ、いわゆる「大バシレイオス」と呼ばれていることもうなづける。
ニカイアの立場が決定的な勝利を見る直前の379年、バシレイオスは死亡する。過度の禁欲生活が原因での、49歳の若さであった。370年代の前半、ナジアンゾスのグレゴリオスは母の死後、兄弟姉妹そして父と、次々に亡くしたのだが、彼の死はグレゴリオスに訪れた最後の深い別離の悲しみとなった。グレゴリオスは父の後、ナジアンゾスの司教職を継いだが(374年)、程なくして隠棲を好んだ彼の願いが叶って、セレウキアの修道院に隠遁する。その地で彼は病の床に伏し、バシレイオスの訃報に接する。
しかし、セレウキアでの隠遁生活も長くは続かない。弱体化したニカイア派からの要請を受け、コンスタンティノポリスに復帰する。この50年間の殆どは、アレイオス主義が優勢を誇っていたが、テオドシウス1世の勅令によってニカイアの立場が確立されると、長くコンスタンティノポリスの司教座に着くようにとの周囲の願いも虚しく、彼は禁欲生活への復帰を願い出る。
実際、彼の評判は響きわたっており、彼の輝かしい雄弁は復活聖堂の会衆を魅了し、『(5つの)神学講話』は、アレイオス派に少なからず打撃を与えた。彼はアレイオス派による暴力と策謀にさらされるが、ニカイア派の影響力は着実に増した。
ニュッサのグレゴリオスは、長らく追放されていた司教座に復帰すると、姉マクリネに続いて兄バシレイオスも死亡したことを契機に、著作活動を盛んに始める。兄バシレイオスの業績を擁護し、エウノミオスとの論争を続け、引き続き聖霊論の確立に貢献した。ニュッサのグレゴリオスはバシレイオスに隷属的に従ったのではない。彼の論述を修正し、発展させているのである。しかしながら、彼のInstituto Christianoは、バシレイオスの『修道士大規定』が下地になっており、また、ヘクサエメロン(『創造の六日間』)に鼓舞されて、『人間創造論』が著されている。これは、先の『創造の六日間』に収められている九つの講話に対する補足的性格が強い。なお、真筆性に関しては問題を残している。381年、彼は兄バシレイオスの弟として、また後継者として、正統信仰の擁護者としてコンスタンティノポリス公会議に臨席し、彼の神学は審議に大きく影響を与えた。かつて指導力の欠落した悪しき財産管理者との悪名を知らしめた彼は、今や少なからぬ影響力を持つようにまでなった。
この会議には、テオドシウス1世により最も偉大な真理の擁護者とうたわれ、臨席を要請された二人のグレゴリオスがいた。議会はナジアンゾスのグレゴリオスをコンスタンティノポリスの司教に任命し、彼はその後議長にも選出されるが、司教同士の政治的抗争に嫌気がさし、加えて彼の欠席の間にエジプトの代表団が到着したことに端を発して、彼の司教選任の合法性に異を唱え始めた者が出たこともあって、間もなくして彼は再び隠遁生活を始める。ニカイアの規則によれば、ある司教座から別の司教座への転任は認められておらず、はたして彼はサシマの司教であった。辞任後帰郷した彼は、父の後継者不在により空席となっていたナジアンゾスの司教任命を、病気の療養を理由に辞し、余生を詩の作成にあてつつ、390年頃に世を去った。
もう一人のグレゴリオス(であるニュッサのグレゴリオス)は、正統信仰の柱石の一人とうたわれ、かつて小都市ニュッサの司教であった彼は、小アジアの教会を管轄するために任命された三人のうちの一人となっていた。これまで明らかにされている彼への言及は、394年にコンスタンティノポリスで開催された教会会議への出席を最後に見当たらない(ので、394年頃に没したと推定される)。彼の著作の質は特筆に値する。
以上、カパドキア三教父の生涯は比較的知られているが、それは彼ら皆が、価値の高い書簡を数多く残していることによる。ニュッサのグレゴリオスの書簡は僅かに30通のみしか知られていないが、他の二人に関しては多数存在する。いくつかはバシレイオスに宛てて書かれたものとしても、バシレイオスの手紙は実に365通に及ぶ。一部の書簡は執筆時の特定が困難だが、他の書簡により彼の経歴の推移は再構成できる。第1-46番の書簡は彼の初期のもので、第47-291番は司教時代に書かれたものである。これらの書簡からは、バシレイオスの生活、関心を知ることが出来るのみならず、当時の教会に関する状況もうかがえる。個人的な事柄、教理的、教会における行政的問題も議論されている。これらの書簡は、当時の流麗な文体を駆使して記されているが、出版を目的とされたものではない。
ナジアンゾスのグレゴリオスは、彼の若い支持者の要望によって自身の書簡を刊行した最初のギリシャ語作家である。グレゴリオスは、手紙とは簡潔、明瞭で慎ましく、引きつけるものがあるべきとし、美的なモデルとしてバシレイオスの書簡を引用している。244通の書簡が現存し、いくつかの書簡はバシレイオスに宛てたものも含む初期に書かれたものだが、多くは晩年に文学的作品として自覚して執筆されたものである。『手紙と詩』は、まさにそれに位置づけられる。少数のクレドニウスへの書簡は、アポリナリオスに抗しての重要な言説を含んでいる(実際に、これらの内の最初の書簡は、カルケドン公会議において公式採用されている)。アポリナリオス主義への反論を企図した38の詩は、詩的プロパガンダに帰される。しかし大多数の書簡と詩は、個人的であると同時に自叙伝的なもので、生涯の経過の中で経験した理想との葛藤が露わに示されている。
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