ユグノー戦争 1562-98年
【要約】
フランスにおけるカトリック側とプロテスタント側の宗教戦争という仮面を被った貴族間政治闘争。王権打倒を画策するプロテスタント勢力、異端撲滅を掲げたカトリック勢力、宗教的寛容と国内統一を標榜する中間派(ポリティーク派)の三つ巴。
【本文】
フランスを舞台にしての、カトリック側とプロテスタント側の貴族間抗争ではあるが、そこには政治的思惑が複雑に入り込んでおり、宗教戦争という仮面を被った政治闘争というのが実体に近い。日本では、「ユグノー戦争」と一般に呼称されているが、ヨーロッパ歴史学においては「宗教戦争 guerres de Religion(フランス語)」、「Religious Wars(英語)」と呼ぶのが通例である。ドイツの三十年戦争と並置される、フランスにおける宗教改革を巡っての代表的戦争。
ユグノー
ユグノーとは、宗教改革期からフランス革命までのフランスにおけるカルヴァン派信徒を指す。「ユグノー」という名称は、「誓約仲間」を意味するドイツ語のEidgenosse のジュネーブなまりである eyguenot に由来するという説がある。
経緯
1547年のアンリ2世即位後、プロテスタント弾圧政策が加速する一方で、カルヴァン派が広く浸透していく。
1559年、幼王フランソワ2世が即位し、ギーズ家が事実上政権を掌握する。ギーズ家はカトリック側に接近すると共に、これに対抗するブルボン家、コリニー提督等はプロテスタントに接近し、宗教対立は政治的対立へと構造変化していく。
1560年、プロテスタント側による国王奪還作戦、「アンボワーズの陰謀」失敗。
1562年、ギーズ公側によるプロテスタント信者殺害、「バッシーの虐殺」以後、8次に及ぶ両勢力の衝突というユグノー戦争が開始される。
1572年、摂政母后カトリーヌ・ド・メディシスとギーズ公による「サン・バルテルミの虐殺」。コリニー提督らが殺害された。
以降、王権打倒を画策するプロテスタント勢力、異端撲滅を掲げたカトリック勢力、宗教的寛容と国内統一を標榜する中間派(ポリティーク派)、これら三つ巴の戦いへ。この渦中に、外国勢力が介入し、カトリック勢力をスペインが支持、プロテスタント勢力をイングランドがバックアップする。
1589年、アンリ3世が暗殺され、バロア朝断絶。プロテスタント国王アンリ4世即位。
1593年、アンリ4世のカトリックに改宗。ポリティーク派の支持を獲得し、国内統一を回復。
1598年、アンリ4世、「ナントの勅令」を発布。ここにユグノー戦争は終結する。カトリックとプロテスタントの和解が実現し、ナントの勅令はそれまで試みられた宗教寛容令の集大成となった。
しかし、ナントの勅令はルイ14世の時代に効力を失い始め、1685年、全面的廃棄された。これに伴い、多数のプロテスタントが亡命した。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。