『教会学校教案』の元原稿の改訂版
2012年4月 マタイよる福音書 27章32-44節
概要
今回の聖書箇所は、十字架刑に定められた主イエスが刑の執行される「ゴルゴタ」まで連行され、ついに十字架に架けられる場面です。同時に、今回は「棕櫚の主日」礼拝になります。キリストの受難を覚える週です。受難とは、主イエスが私たちの罪のために血を流され、担われた十字架の痛みと重荷を思い巡らす時です。受難の出来事とその意味を、子どもたちにしっかり伝えましょう。
今日のマタイの箇所は、基本的にはマルコ福音書15:21-32を参考にして書かれたと言われています。ただ、マタイは単にマルコ福音書を書き写したのではなく、そこにはマルコにはないマタイ独自の特徴があります。そしてこの特徴こそ、マタイ福音書のこの箇所をもって十字架の場面を子どもたちに語る際の大きなポイントとなります。その特徴とは、詩篇22編を初め、イザヤ書53章、詩編69編等、旧約聖書を意識して、これを強調して十字架の場面を描いている点です。一見するとマタイは淡々と記しているようですが、主イエスの服を分け合う場面、「罪状書き」、そして人々が主を侮辱するところ等、それら一つ一つが「神の御心」(43節)に叶った神のご計画の<成就>としてマタイはとても丁寧に書き記しています。それはまた一言で言えば、<旧約で示されている神の救いの約束が、主イエスの十字架の出来事を通して実現した>ということです。これは、前もって起こることを言い当てているからすごい!といった予知能力の話ではなく、神が歴史を初めから終わりまで導かれ、その中でどのような時も主イエスが私たちと共にいらっしゃるという事実です。
解説
「兵士たちは・・・シモンという名前のキレネ人に・・・イエスの十字架を無理に担がせた」(32節)
犯罪者が自分の十字架を担って刑場まで歩く行進には、主イエス他、二人の囚人と兵士たちも含まれます。事前の鞭打ち等で体が弱っていた主イエスの十字架を、兵士たちはアフリカ北部の都市キレネのシモンに「無理に担がせ」ました。マルコ15:21によれば「アレクサンドロとルフォスとの父」とわざわざ記されていますから、彼の子どもたちはこの出来事が契機となってキリスト者へと導かれたのでしょう。十字架との予期せぬ決定的な出会いとなったのです。
「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが……」(34節)
渇く者に酢を飲ませる行為は侮辱的行為であり、神に忠実な者がそれ故に受ける苦難に苦しむ姿を描く詩編69:22(「人はわたしに苦いものを食べさせようとし……」)の御言葉が響いています。
「くじを引いてその服を分け合い」(35節):詩編22:19(「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」)の成就です。このテーマは、ヨハネ19:23以下でさらに詳細に書かれています。
「『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状書き」(37節)
死刑囚には「罪状書き」が掲げられました。主イエスの場合、自らを王と語って民を惑わしたという罪状になっています。しかし、主イエスはまことの王なる方ですから、奇しくもこの板は主イエスがどなたであるかという真実を指し示すことになりました。
「イエスと一緒に二人の強盗が・・・十字架につけられていた」(38節)
イザヤ53:12(「罪人の一人に数えられた」)の御言葉が残響しています。
「頭を振りながらイエスをののしって」(39節)
頭を振るのは人をののしる行為です(詩編109:25)。これは同時に、詩編22:8の成就でもあります。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者」(40節)
26:61では、主イエスに対する告訴の内容として挙げられていました。
「他人は救ったのに、自分は救えない」(42節)
人間を救うために、主は「十字架から降りる」わけにはいきません。しかし人はそれを理解せず、「十字架から降りよ。そうすれば信じる」などと心ない言葉をかけます。ここに、人間の無知と罪が最もよく表されています。「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ」(詩編22:9の御言葉がここでも響いています。主イエスはまことに「神の子」です。しかし「神の御心」は主が十字架にかけられ続けることでした。
「神の子なら」
かつて荒れ野の誘惑にて、悪魔は主イエスを同じような言葉をもって試みました(4:3)。胸に突き刺さるような試みの文言です。こうした人々の罵りもまた、詩編69編や22編の御言葉が背後にあります。
まとめ
キリストが受けられた一つ一つの苦しみ。それは旧約で預言された神のご計画でした。そして、それらは罪人である私たちのために受けられた神の痛みです。皆さんの説教の中で、旧約の聖書箇所を逐一挙げる必要はありませんが、準備の中で皆さんの中で主の苦しみを一つ一つ味わうように噛みしめて下さい。その上で物語って下さい。十字架を担がされたキレネ人シモンのエピソード(32節)はマタイでは簡素に描かれていますから、説教の中でメインで扱わなくても構いません。それでも、これは主の十字架との予期せぬ出会いの実体験を物語るものです。十字架は人ごとではなく、自分の体験であることを、皆さんの証を交えて語っても良いと思います。(茨木春日丘教会 大石健一)
#教会/教会学校教案
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