2025年4月30日水曜日

「猫にもわかる四福音書」第5回 ヤイロの娘とイエスの服に触れた女性

 今回は、ヤイロの娘の甦りと、イエスの服に触れて病を癒された女性のエピソードを見ていきます(マタイ9・18-26、マルコ5・21-43、ルカ8・40-56)。この二つの物語の最大の特徴は、双方が別々のエピソードでありながらも、福音書の中では時間的な連続性を持つ“ひと続き”の物語として描かれていることです。具体的に言えば、ヤイロ娘の甦りの物語から始まり、途中、病を癒された女性の物語が挟み込まれ、その後、ヤイロの娘の物語の後半をもって閉じられる構造となっています。図式化すると、ヤイロ→服に触れる女性→ヤイロ、となります。こうした物語の構成は、他にはいちじくの木が枯れる教訓(マルコ11・12-14、20-21)にも見られ、聖書の中では珍しいものです。


 ところで、マタイ、マルコ、ルカに共通して見られる記事の場合、基本的には、マタイとルカがマルコ福音書を下地としつつ、これにアレンジを加えて書き上げたと見るのが一般的です。この点を踏まえて、マルコを軸にしてストーリーを追ってみましょう。まず、会堂長ヤイロがイエスのもとにやって来て、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」(マルコ5・23)と懇願するところから物語が動き出します。ところが、一刻を争う道すがら、突如として「十二年間も出血の止まらない女」(5・25)が現れ、イエスの服に触れます。イエスはこの女性を探し出そうとし始め、対して弟子たちはこの行動についてイエスに意見し、ヤイロの娘の物語の進行はすっかり中断してしまいます。その後、イエスの服に触れた女性の病が癒されて話が終了すると、再びヤイロの娘の方に戻ります(5・35)。「子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と語るイエスに対して、周囲の人々は「あざ笑い」ます。しかし、イエスが少女の手を取り「起きなさい」(8・41)と語ると少女は甦り、人々は大変に驚いたという報告をもって物語は閉じられます。


 場面設定が異なるマタイ

 マルコとルカでは、会堂長ヤイロの娘が死にかけている状況で、ヤイロがイエスに助けを求めるという場面設定である一方、マタイでは会堂長ヤイロの代わりに無名の「指導者」が現れて、次のように述べています。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」(マタイ9・18)。一見、マタイはマルコのセンテンスを踏襲しているようですが、なんと、娘は既に亡くなっているという設定です。その上で「でも、おいでになって手を置いて」とイエスに依頼しているのです。マタイがなぜこのような改変をしたのか、はっきりとしたことはわかりません。マタイはマルコとバージョン違いの記事を採用した可能性もありますが、マタイが意図的にマルコの記事に編集を加えたとも考えられます。マタイ版の方では生きるか死ぬかの切迫感がなくなってしまうのですが、既に死亡した状態にあったとしてもイエスが手を置いてくださるならば甦るという「指導者」の信仰が強調されています。また、物語全体の簡素化と短縮も為されていて、実際マタイは女性の治癒物語の方も大幅に縮めていますから、マタイによる改変の可能性は高いでしょう。必死でイエスに助けを求めながらも間に合わず、一度は諦めたけれども娘の甦りに立ち会うというドラマチックなマルコ・ルカ版か、あるいは、イエスは死人さえも甦らせることができるという信仰重視のマタイ版か、同じ一つの物語で二度味わうことができることも、各福音書の違いを見ていく楽しみの1つです。

 

 イエスから力が出て行って

 イエスの服に触れて癒された女性の物語において、マルコとルカにおいては、女性が「イエスの服」(マタイとルカでは「イエスの服の房」)に触れた際に病気の癒やしが起こっています。これとは対照的なのがマタイで、女性がイエスの服に触れた瞬間にではなく、イエスが振り向いて「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9・22)と語った時に病気が完治しており、治癒の奇跡が発動する要因とタイミングが異なります。マタイでは、女性の信仰と「あなたの信仰があなたを救った」という言葉との結びつきが明瞭にされることで、イエスの服に触れて癒されるという奇跡の次元から、治癒の奇跡を可能にするイエスの言葉とその力を信じる信仰の次元へと論点が移し替えられていると言えるでしょう。

 女性がイエスの服に触れたことについてもう1つ。マルコでは「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」とあり、ルカではそれがイエス自身の言葉の中で述べられています(ルカ8・46「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」)。病気が癒されることも含めて、神の業が為される時、イエスはご自分の力を注ぎ出していることに気づきます。私たちは無意識に、奇跡を起こすことなどイエスにとって痛くもかゆくもないと思い込んではいないでしょうか。奇跡であれ恵みであれ、その背後には、イエスがご自身の力を注いでくださっているという事実があります。


 “中断”されることの意味

 一刻も早く娘のもとに戻りたいヤイロにとって、イエスの服に触れる女性の突然の出現は、焦燥感に苛まれるような事態であったでしょう。私たちの人生においても、これからという時に限って周囲のトラブルや病気といったことで自分の人生の中断を余儀なくされ、すっかり気が滅入ってしまうような局面があるでしょう。しかし今回の物語の場合、結果としてはこの中断が、女性にとっては十二年間に及ぶ病気との闘いが終わり、ヤイロにとっては、同じ十二年間(マルコ5・42、ルカ8・42)かけて育てた大切な娘がイエスによって甦ると同時に、イエスの復活の予兆ともなる大いなる出来事に立ち会うことへと繋がりました。実に、中断というマイナス要因が、神の栄光が現される機会となったのです。マタイ、マルコ、ルカは、二つの物語が繋がったこの構造を崩すことはしませんでした。そこには、順風満帆の時よりもむしろ中断の時こそ、主なる神に希望を抱いて歩みなさいというメッセージが込められているのでしょう。


 ヨハネ福音書に見られる“残り香”

 四福音書で共通して取り上げられている記事は限定されているために、今回はマタイ、マルコ、ルカだけに含まれている記事を取り上げたのですが、実は、ヤイロの娘の甦りが残り香のようにほのかに漂う記事をヨハネ4・43-54に見出すことができます。ある王の役人が瀕死の息子の病気を治してもらおうとイエスのもとに行ったところ、イエスに「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われ、これを信じて帰路についたところ、僕たちがやって来て息子の快癒を告げ知らされたというストーリーです。百人隊長の僕(しもべ)の治癒物語(マタイ8・5-13、ルカ7・1-10)に近いのですが、役人の息子や死にかけているという状況設定はヤイロの娘の物語に似ていて、まるで二つの記事のパッチワークのような仕上がりです。この記事は、元々は1つの物語が拡散し、各地で独自の発展を遂げる過程で別の記事からも影響を受けて成立していった、バージョン違いの物語と言えるでしょう。


 絵画紹介

 今回、紹介する絵画は、19世紀後半から20世紀前半にかけてのロシアの画家ワシーリー・ポレーノフの『ヤイロの娘の甦り』(1871年)です。クリミア戦争での敗北後にして社会主義革命の手前という時代にあったロシアでは、写実主義というムーブメントが盛んになりました。民衆が味わっている過酷な生活の実態を露わにする社会的リアリズムの動きがあった一方で、ありのままの何気ない日常生活や自然を描き出そうとする流れもありました。フランスで印象主義の影響を受けたポレーノフは後者で、明るい色彩の風景画や、福音書の物語の印象深い場面を多く書き残しています。

 祈るように手を合わせて組む母親と思しき女性を初め、ヤイロや弟子たちが背後で見守る中、少女が目を覚ました際の光景が描かれています。伸ばされたイエスの右手と少女の上半身の辺りの空間は、優しい光に包まれているように見えます。静謐な時間が支配する部屋の中をじっと見ていると、見る者の心に、イエスの愛と神の祝福が穏やかに迫ってくるのを感じるような一枚です。

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