2025年4月30日水曜日

「猫にもわかる四福音書」第1回 イエスの復活

 「イエスの復活」


 初めに

 新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書が収められています。いずれの福音書も、十字架と復活に至るまでのイエス・キリストの足跡にスポットライトを当てた物語を伝えています。福音書に慣れていらっしゃらない方が目にすれば、福音書にはどれも同じようなことが書かれているように感じられるでしょう。しかしながら、それぞれの福音書には、お互いに共通点もあれば相違点もあり、各福音書はそれぞれ独自の観点をもって、キリストを中心とした出来事を書き綴っています。

 そこでこの連載では、毎号違ったエピソードを取り上げて、各福音書の記述間の共通点と相違点を意識しながら、キリストと出会った人々のドラマを浮き彫りにしていきたいと思います。また、その回の場面を題材とした西洋絵画を、毎回一枚ご紹介していきたいと思います。

 今回はイースター特集号です。長い夜が明けて復活の朝日が差し始めた時、主イエスが葬られた墓を訪れた人たちがいました。それは、かつてイエスに付き従っていた婦人たちでした。彼女たちがそこで経験したエピソードを中心に見ていきましょう。


 イエスが復活して空(から)とされた墓で

 「空の墓復活物語」と呼ばれているエピソードは、四つの福音書全てに含まれています(マタイ28・1-8、マルコ16・1-8、ルカ24・1-12、ヨハネ20・1-10)。そして、複数の婦人たちが、安息日が終わった翌日の早朝に墓を訪れたという点で、四福音書は共通しています。まず、婦人たちの名前について、四福音書の中でマルコとルカが丁寧に書き残しています(マルコ16・1「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」、ルカ24・10「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」)。他方、マタイは「マグダラのマリアともう一人のマリア」(28・1)と簡略化し、ヨハネは「マグダラのマリア」一人しか登場させていません(20・1)。この婦人たちは、イエスがガリラヤで活動していた時から主に従ってきた人たちでした(マルコ15・41、ルカ23・55を参照)。常日頃から主に寄り添うことを求めてきた女性たちだからこそ、逃亡した男性の弟子たちに代わって、復活の最初の目撃者として選ばれたという事実は、私たちの日頃の信仰の有りようについて考えさせられます。


 夜明け前、まだ暗いうちに

 前述の通り、四つの福音書すべては、婦人たちが早朝に訪れた点で一致していますが、夜明け前のまだ暗いうちに墓へと向かったと報告しているのは、ヨハネ20・1です(「朝早く、まだ暗いうちに」)。夜明け前、それは闇が最も濃くなる時です。はやる心を抑えられないかのように、闇の中に一歩を踏み出していった婦人たち。当人たちですらまだ自分でも意識せぬままに、夜明けを切望し、復活の光へと向かって歩き始めていったのでしょう。希望の見えない夜の中で、復活の朝は白み始めることを思います。


 たとえ石で塞がれているとしても

 マルコ16・1とルカ24・1は共に、婦人たちが遺体に塗るための「香料」を携えていたと記しています。石が墓の入り口に置かれている以上、それは何の役にも立ちません。それでも彼女たちは、主に献げて生きる歩みを諦めることはありませんでした。マルコ16・3における「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」という言葉は、不安を伴わないことが信仰なのではなく、思いわずらいを抱えながら、それでも不透明の中で歩みを進めていくのが信仰なのだということを、私たちに教えています。


 石は転がされ、天使が現れて

 四福音書は一致して、石が動かされていたことを証言していますが、マタイだけは「大きな地震」があったと報告しています(28・1「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」)。そこに、突如として天使が現れました(ただしヨハネでは、石が転がされているのを婦人たちが見た時点で、すぐに弟子たちのもとに行って報告したという展開)。その姿について、マルコは「白い長い衣を着た若者」と形容し(16・5)、マタイは「稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」と書き(28・3)、ルカは天使が二人であったと証言しています(24・4「輝く衣を着た二人の人」)。また、マタイでは墓を番兵たちが見張っていたという設定になっているため、彼らが物語の舞台から退く場面が差し込まれています(28・4「番兵たちは・・・死人のようになった」)。


 天使からのメッセージ

 マタイ、マルコ、ルカの記述は概ね一致しており、イエスが復活してここにはいないことを端的に告げています。マタイ28・7とマルコ16・7では、ガリラヤで弟子たちが復活のイエスと相まみえることが伝えられています。マタイはこれをガリラヤでの顕現物語に繋げていますが、元々のマルコ福音書の結びは16・8における婦人たちの沈黙で結ばれていて、新約聖書学における最大の謎の一つとされ、その解釈を巡って無数の議論が未だに継続中です。

 ルカ24・5における修辞疑問文の言葉は、もしイースター名言集があるとすれば、その筆頭に挙がるでしょう。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。主は今も生きておられるというのに、一体私たちはどうして、いつもいつも心を傷めて悩んでばかりなのでしょう。そんな思いわずらいを「なぜ」と問い、徒労であると言い切って下さる天使に感謝したいと思います。


 それぞれの福音書オリジナルのエピソード

 さて、ここからは、一つの福音書にしか見られない復活のエピソードを幾つか見ていきたいと思います。まず、ルカ福音書独自の復活記事は、何と言っても「エマオ途上の復活顕現物語」でしょう。クレオパを含む二人の弟子たちが失意のうちに論じ合っていた時、何者かが彼らと同伴して聖書の言葉を説き明かしました。聖餐を想起させる食事の場面で、クレオパを含む二人の弟子たちの目が開け、イエスの存在に気づかされ、道中での心が燃える体験を語り合う場面は、読む者の心をも熱くさせます。

 次は、ヨハネ福音書に含まれている、マグダラのマリアへの顕現物語です。墓の外で一人涙を流すマグダラのマリアに、復活の主が語り掛けます。当初はその人物がイエスと気づかない彼女でしたが、「マリア」と名前を呼ばれた瞬間に悟り、思慕の念が一気にほとばしり出ます。そんなマリアに、イエスが「すがりつくのはよしなさい」(20・17)とお語りになったという記事です。このエピソードは美術の題材として「ノリ・メ・タンゲレ」(「私に触れてはならない」)と呼ばれ、特にゴシック時代、多くの画家たちによって描かれました。ジョット・ディ・ボンドーネによるスクロヴェーニ礼拝堂の壁画が有名です。こうした絵画の殆どは、ひざまずいて両手を伸ばすマグダラのマリアに対し、イエスが片手を伸ばして制止しているという構図を取っています。イエスはマリアを拒む形ではありますが、イエスの繊細な優しさと、確固たる意志が滲み出ているように感じられます。


 絵画紹介

 今回、画像と共にご紹介する絵画は、ブリュッセル生まれのフランスの画家シャンパーニュ(シャンペーニュ)による『エマオでの食事』です。テーブルの下をご覧下さい。キジトラと思しき一匹の猫が食べ物に手を出そうとして、お店の人に「コラ」と叱られています。最後の晩餐やエマオでの食事の絵に、猫や犬が描き込まれることは大変よくあることで、猫は元々は裏切りや疑念を象徴するのですが、猫好きな画家の趣味で可愛く描き足されていることも少なくありません。バロック期のスペインの画家ペドロ・オレンテの作品や、有名どころではイタリア・ヴェネツィア派の画家ティントレット(猫出現率はトップクラス)も、『エマオでの食事』の絵画に愛らしいサビ猫を描き込んでいます。ティントレットの方の絵にあるように、大騒ぎする弟子たちを横目に、「初めから知っていたよ」という顔でハコ座りする猫のように、私たちもありたいものです。





0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。