2025年11月5日水曜日

聖書や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:13–36(13-15、16-22)

 

聖書や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36

概要

この箇所には、各部の冒頭にいわゆる「七つの災い(οὐαί)」の宣言が置かれ、律法学者とファリサイ派に対するイエスの批判の言葉が七つ連続して並んでいる。

 マタイ23:13–15

新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
原文 οὐαὶ δὲ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι κλείετε τὴν βασιλείαν τῶν οὐρανῶν ἔμπροσθεν τῶν ἀνθρώπων· ὑμεῖς γὰρ οὐκ εἰσέρχεσθε οὐδὲ τοὺς εἰσερχομένους ἀφίετε εἰσελθεῖν.
  • 「不幸だ」(οὐαί):律法学者とファリサイ派の人々が「偽善者」と呼ばれて断罪されている(23:15、23、25、29)。そのトーンは預言者による神の裁きの宣告である。彼らの言動は「天の国を閉ざす」ものであり、開くどころではない。
  • 「入ろうとする人をも入らせない」:「入らせない」(ἀφίετε εἰσελθεῖν)においては、本来「赦す」と訳される動詞が使われているが、ここでは「妨げる」という意味で用いられている。入らせるのが使命であるはずのユダヤ教の教師が、かえって妨げると言われている点に、痛烈な皮肉が込められている。

 14節

新共同訳 学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。
原文 οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι κατεσθίετε τὰς οἰκίας τῶν χηρῶν καὶ προφάσει μακρὰ προσεύχεσθε· διὰ τοῦτο λήμψεσθε περισσότερον κρίμα.
 後代のビザンティン系などの写本には上記の原文が含まれているが、シナイ写本・バチカン写本などには見られない。本文批評上の観点から、Nestle–Aland第28版およびUBS第5版では本文から除外されている。マルコ12:40およびルカ20:47に並行箇所があるため、写本家による付加と考えられる。

 15節

新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
原文 οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι περιάγετε τὴν θάλασσαν καὶ τὴν ξηρὰν ποιῆσαι ἕνα προσήλυτον, καὶ ὅταν γένηται, ποιεῖτε αὐτὸν υἱὸν γεέννης διπλότερον ὑμῶν.

マタイ福音書における「偽善者(ὑποκριτής)」
 マタイ福音書に特徴的な用語であり、マタイ神学の中心的柱の一つである。
同語は元来「俳優・役者」を意味し、「演じる」を意味するὑποκρίνομαιから派生した。古代ギリシャ演劇では俳優が仮面を装着して演じたことから、外面は整っていても内面が伴わない様を表す語として定着した。
 マタイはこれを、表面上は敬虔な宗教者を演じながらも、内実は虚栄心と私利私欲にまみれた律法学者・ファリサイ派を批判するイエスの言葉に取り入れている。イエスの時代のこととして語られているが、マタイ自身の時代における宗教的偽善への批判も込められている。
 マタイ福音書における使用回数は群を抜いて多く、とくに本章では「不幸だ」という宣告と共に繰り返し用いられている。主な用例として、人に見せるための偽善的行為(6:2、5、16)、自分の落ち度に気づかず人のそれを取ろうとする行為(7:5)、口先だけの崇敬(15:7)、イエスを陥れようとするファリサイ派への呼びかけ(22:18)などがある。

  • 「改宗者」(προσήλυτος):ユダヤ教に改宗した異邦人を指す。ユダヤ教は閉鎖的な民族宗教ではなく、改宗者を受け入れることにも一定の熱意を持っていた。その様子が「海と陸を巡り歩く」と皮肉を込めて描写されている。ただし、男性の改宗者には割礼が要求された。
  • 「自分よりも倍も悪い地獄の子」(ποιεῖτε αὐτὸν υἱὸν γεέννης διπλότερον):直訳すれば「彼を二倍の地獄の子にする」。彼らよりもさらに悪い偽善者が再生産されることを皮肉っている。
  • 「地獄」(γέεννα)は、ヨシュア記15:8における「ベン・ヒンノムの谷」(גֵּיא בֶן־הִנֹּם, gê ben-Hinnom、「ヒンノムの子の谷」)に由来する。人身供犠が行われた場所として悪名高く(列王記下23:10、エレミヤ7:31–32)、後に発音上の類似から「地獄」を意味する語へと転化した。

 23:16–22

 16節
新共同訳 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と言う。
原文 οὐαὶ ὑμῖν, ὁδηγοὶ τυφλοί, οἱ λέγοντες· ὃς ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ ναῷ, οὐδέν ἐστιν· ὃς δ' ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ χρυσῷ τοῦ ναοῦ, ὀφείλει.
 「何かを証人として立てての誓い」については、すでに5:33–37で述べられていた。「誓う」という主題はこの箇所と共通し、内容的にも連なっている。
  • 「ものの見えない案内人」(ὁδηγοὶ τυφλοί):直訳は「盲目の案内者たち」。何が見えていないのかが、以下で明らかにされる。
  • 『神殿にかけて誓えば……だが、神殿の黄金にかけて誓えば……』:「誓う」(ὀμνύω)行為は敬虔な宗教行為の代表であり、基本的には神を証人として立てるもの(参照:レビ19:12、マタイ5:33以下)。イエスの時代にはこれが細則化され、誓いの対象によって次のようなランクづけがなされていた。
  1. 「神の名」による誓い=最高度の義務性
  2. 「神殿の黄金」「祭壇の供え物」による誓い=中程度の義務性
  3. 「神殿」「祭壇」による誓い=低程度の義務性
 総じて、神殿や祭壇といった建物は低く、神そのものが最高位に置かれた。

 17–18節
新共同訳 17 愚かで、ものの見えない者たち。黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。18 また、「祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と言う。
原文 17 μωροὶ καὶ τυφλοί· τίς γὰρ μείζων, ὁ χρυσός ἢ ὁ ναὸς ὁ ἁγιάζων τὸν χρυσόν;
18 καί· ὃς ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ θυσιαστηρίῳ, οὐδέν ἐστιν· ὃς δ' ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ δώρῳ τῷ ἐπάνω αὐτοῦ, ὀφείλει.
  • 「愚かで目の見えぬ人たち」(μωροὶ καὶ τυφλοί):ここでは、物事に対する盲目性に加えて愚かさが指摘されている。
  • 「黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」:イエスは、神殿よりも黄金のほうが価値があるとする論理を逆転させ、神殿が黄金を清めるゆえに神殿のほうが尊いと論じている。ここでの神殿は単なる建物ではなく、神と結びつくものとして位置づけられている。黄金という物質的価値よりも神性のほうが重要であるという基本原則を理解していない彼らの「盲目」を、イエスは指摘している。

 19–20節
新共同訳 19 ものの見えない者たち。供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
原文 19 τυφλοί· τίς γὰρ μείζων, τὸ δῶρον ἢ τὸ θυσιαστήριον τὸ ἁγιάζον τὸ δῶρον;
20 ὁ οὖν ὀμόσας ἐν τῷ θυσιαστηρίῳ, ὀμνύει ἐν αὐτῷ καὶ ἐν πᾶσι τοῖς ἐπάνω αὐτοῦ.
 論理の構造は先の神殿の黄金の件と同様である。供え物よりも、それを清める祭壇のほうが尊いという論理であるが、根底にある意図は、清める力の源は神にあり、律法学者たちはその点を見失い、数量化された物の比較に目を奪われているということにある。
  • 「祭壇とその上のすべてのものにかけて誓う」:祭壇か供え物か、という議論自体が無意味であると結論づけられている。

 21節
新共同訳 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。
καὶ ὁ ὀμόσας ἐν τῷ ναῷ, ὀμνύει ἐν αὐτῷ καὶ ἐν τῷ κατοικοῦντι ἐν αὐτῷ.
神殿にかけて誓うとは、その神殿に臨在する神に誓うことを意味する。
  • 「住んでおられる方にかけて」(ἐν τῷ κατοικοῦντι):「住む」「居住する」「定住する」を意味する κατοικέω が用いられている。七十人訳聖書の語彙に由来し、旧約において神が住まう場所としては、①イスラエルの民の中(出25:8、29:45)、②聖所・幕屋(出25:8)、③エルサレム(詩135:21)、④いと高きところ(詩113:5)、⑤暗雲(列王上8:12–13)などが挙げられる。
 神殿にかけて誓うとは、すなわち神に誓うのと同じことである。5:33–37における「誓ってはならない」という主題との関連で言えば、何に誓うかをくどくど語るのではなく、事実を直裁に語ればよい、という結論に至る。

 22節
新共同訳 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
καὶ ὁ ὀμόσας ἐν τῷ οὐρανῷ, ὀμνύει ἐν τῷ θρόνῳ τοῦ θεοῦ καὶ ἐν τῷ καθημένῳ ἐπάνω αὐτοῦ.
 21節と同様、天にかけて誓うとは、すなわち「神の玉座に座しておられる」神に誓うことを意味する。神を証人として立てているという一点に集約される。誓いを立てる者は、それを深く心に留めておくべきであり、神不在の誓いをなさないよう戒められている。

説教の結びの言葉として

 マタイ23章に記されたイエスの言葉は、単なる過去の宗教指導者への批判ではなく、今を生きる私たちへの深い問いかけでもあります。
イエスは、外見だけの敬虔さや形式的な信仰を厳しく戒め、神の国への真の道を閉ざす偽善を断罪されました。
 誓いの問題においても、イエスは物質や儀式よりも、神ご自身との関係の本質を見失ってはならないと教えてくださいました。神殿に誓うことは、そこに住まわれる神に誓うこと。天に誓うことは、神の玉座に座しておられる方に誓うこと。つまり、私たちの言葉も行いも、すべて神の御前にあるということです。この一点こそ大切です。
 今日の箇所を通して、イエスは私たちにこう語りかけておられます。「あなたの信仰は、仮面をかぶったものではないか。あなたの言葉は、神の臨在を意識したものか。」
 どうか私たちが、外見ではなく心から神を求め、真実に生きる者となれますように。神の国の門を閉ざす者ではなく、開く者として、隣人を導く光となれますように。主の憐れみにより、私たちが偽善から離れ、誠実な信仰者として歩むことができますように。

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