説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイによる福音書 28章1–10節
1節
原文 Ὀψὲ δὲ σαββάτων, τῇ ἐπιφωσκούσῃ εἰς μίαν σαββάτων, ἦλθεν Μαρία ἡ Μαγδαληνὴ καὶ ἡ ἄλλη Μαρία θεωρῆσαι τὸν τάφον.
- 「マグダラのマリアともう一人のマリア」:後者については27:56において「ヤコブとヨセの母マリア」とされる。当時の社会において、証言者としての地位が低かった女性が、イエスの十字架・埋葬・復活の目撃者とされている点は注目される。マルコでは、彼女たちが墓を訪れた理由を遺体に香料を塗るためとしていたが、三日目にそれを行う不自然さを考慮してか、マタイでは単に「見に行った」と書き換えられている。
- 「安息日が終わって……週の初めの日(Ὀψὲ δὲ σαββάτων…εἰς μίαν σαββάτων)」:文字通りには「安息日の後」あるいは「安息日の遅く」。日没をもって安息日は終わり、日没後から新しい週の第一日が始まる。
- 「明け方(τῇ ἐπιφωσκούσῃ)」:ἐπιφώσκω は、接頭辞 ἐπι-(〜の上に、〜に向かって)と動詞 φώσκω(光る、夜が明ける)の複合語。すなわち「夜明けに向かう時」を意味する。地平線の上に太陽の光が差し込み始める情景を描写している可能性がある。並行箇所ルカ23:54でも同様の表現が用いられている。
2節
原文 καὶ ἰδοὺ σεισμὸς ἐγένετο μέγας· ἄγγελος γὰρ κυρίου καταβὰς ἐξ οὐρανοῦ καὶ προσελθὼν ἀπεκύλισε τὸν λίθον καὶ ἐκάθητο ἐπάνω αὐτοῦ.
- 「大きな地震(σεισμὸς μέγας)」:神的介入を象徴する典型的事象の一つであり、神の臨在や意志の表れを示す場合がある。27:51におけるイエスの絶命時にも同様の描写がある。
- 「主の天使(ἄγγελος κυρίου)」:ἄγγελος は「遣わされた者」の意で、「使い」「御使い」とも訳される。マルコでは「白い長い衣を着た若者」(16:5)、ルカとヨハネでは二人の天使が登場するが、マタイでは一人に簡略化されている。
- 「その上(石)に座った(ἐκάθητο ἐπάνω αὐτοῦ)」:転がされた石の上に天使が座る場面は、不可能に思われる出来事に対する神の勝利を象徴する。
3節
原文 ἦν δὲ ἡ εἰδέα αὐτοῦ ὡς ἀστραπὴ καὶ τὸ ἔνδυμα αὐτοῦ λευκὸν ὡς χιών.
- 「稲妻のように(ὡς ἀστραπὴ)」:地震と同様、稲妻もしばしば神の介入や栄光の象徴として用いられる(参照:ダニエル書10:6)。
- 「雪のように白かった(λευκὸν ὡς χιών)」:「白」は神性・聖性・栄光の象徴であり、「雪」はその純粋さを強調する。
4節
原文 ἀπὸ δὲ τοῦ φόβου αὐτοῦ ἐσείσθησαν οἱ τηροῦντες καὶ ἐγενήθησαν ὡς νεκροί.
- 「番兵たち(οἱ τηροῦντες)」:27:65–66において、ピラトから墓の警備を命じられた兵士たちを指す。マタイ独自の記述であり、キリスト教徒がイエスの遺体を隠したとするユダヤ側の批判への反論的要素を含むと考えられる。
- 「死人のようになった(ἐγενήθησαν ὡς νεκροί)」:神的出来事を前にした人間の無力さを象徴する。生者が「死人」となり、死人が甦るという対比的構図を形成している可能性がある。
5–6節
5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」
原文 5 ἀποκριθεὶς δὲ ὁ ἄγγελος εἶπεν ταῖς γυναιξίν· Μὴ φοβεῖσθε ὑμεῖς· οἶδα γὰρ ὅτι Ἰησοῦν τὸν ἐσταυρωμένον ζητεῖτε· 6 οὐκ ἔστιν ὧδε· ἠγέρθη γὰρ καθὼς εἶπεν· δεῦτε ἴδετε τὸν τόπον ὅπου ἔκειτο.
- 「恐れることはない」:原文では「あなたたちは恐れるな」と強調されており(ὑμεῖς)、恐怖に震える番兵との対比が意識されている。
- 「十字架につけられたイエス(Ἰησοῦν τὸν ἐσταυρωμένον)」:完了分詞が用いられ、婦人たちの認識ではイエスは依然として十字架につけられた存在であるが、神の現実においてはすでに復活しておられる。「ここにおられない」という不在の事実が、復活の証拠として語られている。
- 「復活なさったのだ(ἠγέρθη)」:アオリスト受動態であり、「神によって復活させられた」という意味を含む。
- 「かねて言われていたとおり(καθὼς εἶπεν)」:イエスによる受難と復活の予告(16:21、17:23、20:19)を指す。
- 「さあ、見なさい(δεῦτε ἴδετε)」:直訳では「来て見よ」。遺体なき場所を見ることにより、復活の現実を悟るよう促している。
7節
原文 καὶ ταχὺ πορευθεῖσαι εἴπατε τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ ὅτι ἠγέρθη ἀπὸ τῶν νεκρῶν, καὶ ἰδοὺ προάγει ὑμᾶς εἰς τὴν Γαλιλαίαν· ἐκεῖ αὐτὸν ὄψεσθε· ἰδοὺ εἶπον ὑμῖν.
- 「急いで行って(ταχὺ πορευθεῖσαι)」:マルコ神学と同様に、神の出来事に応答する行動の迅速さが強調される。喜ばしい知らせに駆り立てられるようなスピード感も含意される。
- 「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」:「先に行く」(προάγει)は「導く」の意味もあり、イエスが弟子たちを先導するニュアンスがある。この復活顕現の予告は26:32にすでに述べられている。
- 「確かに、あなたがたに伝えました(ἰδοὺ εἶπον ὑμῖν)」:直訳すれば「見よ、私はあなたたちに言った」。復活の知らせが確かに伝えられたことを強調している。
8節
原文 καὶ ἀπελθοῦσαι ταχὺ ἀπὸ τοῦ μνημείου μετὰ φόβου καὶ χαρᾶς μεγάλης ἔδραμον ἀπαγγεῖλαι τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ.
- 「恐れながらも大いに喜び(μετὰ φόβου καὶ χαρᾶς μεγάλης)」:直訳では「恐れと共に、大きな喜び」。神の臨在に対する畏れと喜びが同時に生起する(詩篇2:11、歴代誌下20:27–29)。
- 「急いで墓を立ち去り……走って行った」:復活の出来事を知らせる行動が、迅速かつ情熱的に描かれている。
9節
原文 καὶ ἰδοὺ Ἰησοῦς ὑπήντησεν αὐταῖς λέγων· Χαίρετε· αἱ δὲ προσελθοῦσαι ἐκράτησαν αὐτοῦ τοὺς πόδας καὶ προσεκύνησαν αὐτῷ.
- 「おはよう」:原文では「喜びなさい」(Χαίρετε)。日常の挨拶であると同時に、復活の「喜び」を象徴する言葉となっている。
- 「足を抱き」:原語は「足をつかんで」。復活のイエスが霊ではなく身体を持つ存在であることを示す。
- 「ひれ伏した(προσεκύνησαν)」:礼拝を意味する行為であり、イエスを神として崇める教会の信仰を象徴する。婦人たちは最初の「復活の証人」にして、最初の「復活のイエスへの礼拝者」とされた。
10節
原文 τότε λέγει αὐταῖς ὁ Ἰησοῦς· Μὴ φοβεῖσθε· ὑπάγετε ἀπαγγείλατε τοῖς ἀδελφοῖς μου ἵνα ἀπέλθωσιν εἰς τὴν Γαλιλαίαν, κἀκεῖ με ὄψονται.
イエスを見捨てた弟子たちは、再び呼び戻され、宣教の使命を託される。ここに、赦しと再任命の福音的展開が示されている。
説教の一例として
説教題「空虚から始まるもの」
十字架にかけられて死を遂げられ、イエスの遺体は、墓に葬られたことでした。本日の聖書の箇所は、その墓を、イエスの弟子である婦人たちが訪れた時の物語です。1節にある通りです。
1節 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
彼女たちがイエスの墓を訪れた理由について、マルコ福音書では「イエスの体に(葬りの業)としての油を塗るため」とありますが、ご覧のマタイ福音書では、単に「見に行った」とだけ書かれています。いずれにせよ、婦人たちの心境としては、イエスが亡くなった悲しみ、そして、自分の中に穴が開いた空虚感を少しでも埋めようと思い、いたたまれずに足を運んだということに違いはありません。ここに希望はなく、未来の展望もなく、ただ、目の前の現実を前に、呆然として立ちすくむ自分だけがいます。
彼女たちが向かった時刻は、「明け方」とあります。遺体の葬りの業は安息日に禁じられている仕事に該当するため、安息日が終了し、夜が明けたタイミングということになります。
「明け方」という言葉は、実に象徴的です。元のギリシャ語は、なにかの上に光る、もしくは、上の方に光る、という意味です。ここから推察すれば、地平線上に光が差し込み始める。闇夜の帷の中に、うっすらと、しかし確実に、陽の光が現われ出て、それがゆっくりと大きくなっていくという情景です。
天地創造の時において、闇と混沌の中に光が生じたように、この時も、夜の闇と彼女たちの心の混沌において、微かに、しかし確かに、光が灯り始めたことを、象徴するかのようです。
2節 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
次に、地震の発生と天使の現れについて述べられています。これらは共に、神的な事象に属するものです。つまり、これらは神による現実世界への介入というものを表しています。イエスの死は、神の死を意味するものでもありました。総じて「神の死」というものは、神なき世界、のように思える状況が生じた時に、疑念として人が思い始めるものです。この科学全盛の時代に、神の存在する余地などあるものか。神がいるとするならば、なぜ、こんなにもひどい災害、あるいは戦争が起こるのか。そうしたところに、「神はなぜ沈黙するのか」という疑義からまず始まり、次の段階として、「神はいないのではないか」、という疑問へと至り、その末路として、「神は死んだ」という確信に落着します。
先の婦人たちは、未来なきその時であってさえ、イエスのもとに向かいました。そうした彼女たちの信仰に応えるかの如く、大きな地震が起こったと述べられています。
その人の中で、神が死ぬ。それを、真の絶望ということができるでしょうし、同時に、それは神の死ばかりか、その人の死をも意味します。その動かぬはずの大地のような「神の沈黙」「神の死」という信念を、大きな地震が揺らがせたということの暗示でもあります。
そして、「主の天使」というのは、神からメッセージを託され、人のもとに遣わされる存在です。ですので、主の天使がそこにいるということは、神が沈黙を破って語っておられる、ことを意味します。時の状況としては、彼女たちも含め、自分たちが希望と信仰を寄せていたイエスが、十字架刑によって絶命したわけですから、そこには当然、「神はなぜそうされたのか」「そもそも神はいるのか」といった疑義が生じても不思議ではない状況です。かような問いに沈黙が続いた中で、時至って、その沈黙を破るように、天使を通して神がお語りになった、ということです。
同時にもう一つ、天使とは、神の存在あっての存在ですから、神は生きておられる、あるいは、神は存在する、ということの暗示的な証明でもあります。
また、イエスが葬られた墓は、横穴式のものでした。墓穴の入り口を、大きな石で塞ぎます。その石は、イエスの亡骸との対面すら阻むものでした。婦人たちが称賛すべきは、それでもともかく、この場所に、自ら足を運んでみたという一点です。論理的に考えれば、墓を訪れても意味がないという見方もある中で、それでも実行に移して、しかしそれで初めて、ことが動き始める。神の出来事がそこで起こる。それを自でいくような行動です。
彼女たちの行動を受け止めるようにして、石が転がされていました。いうまでもなく、それは神の業によるものです。そして、天使がその石の上に座っているということは、無理とか不可能と思われた力に対する、神の勝利を象徴するものです。
5-6節 5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
「恐れることはない」。原文のギリシャ語では「あなたたちは恐れるな」とあり、「あなたたち」が強調される構文で書かれています。また、「十字架につけられたイエスを捜している」とありまして、婦人たちにとっては、イエスが十字架につけられて、なおも死んだ状態であることがわかります。しかし一方で、神的な現実においてイエスは復活して「ここにはおられない」。すなわち、彼女たちの遺体を捜すという営為が、イエスは甦ってそれゆえにイエスは不在ということで、彼女たちの当初の意図が、喜ばしくも裏切られているという構図となっております。亡くなられたイエスの遺体とまみえたいという、彼女たちの敬虔で慎ましやかな願いが、遺体はここにはないということで、一見すれば裏切られつつも、しかし、それはイエスが甦られたことで遺体が不在なのだという、表面と真実の逆転の様相を呈しています。
私はここに、象徴的な意味を見出します。年齢を重ねる中で、私たちは時に、空虚感を抱きます。人生の不条理も味わいます。若い時に、坂道を登ることも苦痛であるわけですが、そこには、不確実ながらも、未来があるという希望がありました。他方、年老いて、死に向かう中で、坂道を下ることも、一つ筋縄では参りません。しかも、その行き着く先には、未来の展望はありません。そうした無常感を自ら受け入れることは、単純な話ではありません。
年老いた人でなくても、無常感、空虚感、厭世観、色々と味わうこともあります。しかし、そうした虚無感、無常感、その薄皮隔てた向こう側に、神の真理の世界が広がっている。そのことを、私は思います。人生の虚無を長きわたって味わい苦しみ、考え抜いた人は、神から選ばれた人と思っています。そしてその人は、神の真理を他の人に伝える使命を負う人であります。
私たちが人生の闇の中に立ちすくむとき、空虚感に押しつぶされそうになるとき、思い出したいのです。婦人たちが「明け方」に墓を訪れたように、私たちの闇にも、やがて光が差し込む時が来る。神は沈黙しているように見えても、沈黙の向こうで確かに働いておられる。石は転がされ、天使は語り、そして主は甦られた。私たちの絶望の只中に、神の希望はすでに芽吹いているのです。だからこそ、私たちもまた、恐れずに歩み出しましょう。神の光は、すでに昇り始めているのですから。
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