2024年1月19日金曜日

士師記16:29-31「サムソン」(2013年9月15日)

  

 前回は『士師記』に登場する代表的な士師の一人である「ギデオン」について見ました。今回も引き続き士師記が聖書箇所で、「サムソン」という人物が主題です。


 サムソン誕生以前

 サムソンの母は、ダン族のマノアの妻でした。不妊であった彼女は、イスラエルがペリシテ人の支配のもとに置かれていた時代、神の託宣を受けて彼を身ごもりました。そしてサムソンは、母の胎にいる時から既に、神に我が身を捧げた人を意味する「ナジル人」として育まれました。「聖別された人」という意味の名を持つナジル人には、頭にカミソリを当てることと、ブドウの木から作られる物や汚れた物を食することが禁じられおり、サムソンの母もまた、彼を身ごもっている時からこれらの掟を遵守しました。


 サムソンに与えられた神の賜物ー肉体の力

 サムソンは特別な使命を持っていました。それは、ペリシテ人からイスラエルを救助することでした。そのために、彼に与えられていた神の賜物とは、肉体の力です。ティムナのブドウ畑では、彼は素手で若獅子を倒しました(14:5-6)。また、ペリシテへの引き渡しのために綱で縛られても、「火がついて燃える亜麻の糸のように」(15:14)縄を解き、ろばの顎の骨で千人を打ちました(15:15)。


 サムソンの弱さ

 サムソンは、比類なき肉体の強さを与えられながらも、これとは対照的な精神の弱さというアンバランスがサムソンには特徴的です。彼は、ギデオンのような指導力も事態を予測する力も、人望もありません(例として15:11を参照)。行き当たりばったりの行動しかとれないサムソンに対して、やはりイスラエルの人々も行き当たりばったりの信頼しか寄せません。聖霊の働きは、私たちの深い内面に働きかけ、人格形成に及ぶものですが、サムソンの場合、「主の霊」は彼の力や戦闘能力にのみ影響を与え、人格や精神には影響はなかったようです。

 また、異性に対する情欲の強さと言いましょうか、情欲を制御する力の弱さは、サムソンにとって致命的でした。そのために彼は、ソレクの谷のデリラという女性にあざむかれて、彼の力の秘密を打ち明けてしまいます(14:16-17)。そして、力の源である髪の毛を剃り落とされてしまいます(16:19-20)。力を発揮できない彼はペリシテ人によっていとも簡単に捕らえられてしまいました。


 最後の闘い

 捕縛されたサムソンは、哀れにも両目をえぐられ、足かせをつけられ、獄に繋がれてしまいました(16:21-27)。しかし、一度は剃り落とされた髪の毛は再び伸び始め、彼の体に再び力がみなぎります。そして、神ダゴンにいけにえを捧げて祝うペリシテ人の前に、見せ物として連れ出された彼は、主に祈りを捧げました。「サムソンは主に祈って言った。『わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。』」(16:28)。こうして彼は、生涯最後の闘いに臨み、最後の力を振り絞って、建物の支柱を破壊するのです。「それからサムソンは、建物を支えている真ん中の二本を探りあて、一方に右手を、他方に左手をつけて柱にもたれかかった。そこでサムソンは、『わたしの命はペリシテ人と共に絶えればよい』と言って、力を込めて押した。」(16:29-30)。聖書は、この時のサムソンの闘いについて、次のように書き記しています。「彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった。」(16:30)。ああ、何と皮肉なことでしょうか。身から出た錆でもって、人生の最後に挑んだ闘いで得た結果は、これまでの勇ましい闘いによって得られた成果よりも多かったとは。この結末には、もの悲しさが漂っています。「彼の兄弟たち、家族の者たちが皆、下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルの間にある父マノアの墓に運び、そこに葬った。彼は二十年間、士師としてイスラエルを裁いた。」(16:31)強さと弱さ、栄光と転落、明と暗。これら一連の劇的で皮肉なまでのコントラストが、サムソンの人生の基調であったと言えるでしょう。


 まとめ

 サムソンが持っていた長い髪の毛は、ナジル人としての神への服従と信頼の象徴でした。これを失っては、力を発揮できなかったとは、実に象徴的です。すなわち、サムソンは、神の力なしには、まったく無力な人間だったのです。

 今の私たちは、サムソンと同じようなものです。私たちが主から離れるならば、何と無力であり、何と悲しいことでしょうか。ただ、神に私たち自身を捧げて、神と離れずにいれば、私たちは聖霊の働きによって強められ、主が摂理のうちにすべてを導いて下さいます。そうです。私たちは主にあって、サムソン以上に、できないことは何一つない、力ある者とされているのです。

茨木春日丘教会 大石健一

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