2025年10月29日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:1-12

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:1-12

並行箇所: マルコ12:38–40、ルカ11:37–52、20:45–47

 概要

 この箇所では、律法学者とファリサイ派に対する批判が展開されている。その焦点は、彼らの言行不一致(3節「言うだけで実行しない」)にあり、なおかつその遵守を他者に要求する点(23:4)にもある。
 また、律法を形式的に守るだけで内面の誠実さを欠いていること(23:23)、人に見せびらかす姿勢(23:5–7)も問題とされる。これらが総じて「偽善」(23:25、27、29など)と呼ばれている。
さらに、律法学者とファリサイ派に対して、七つの「災い」が宣言されている。

 1節

新共同訳 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
Τότε ὁ Ἰησοῦς ἐλάλησεν τοῖς ὄχλοις καὶ τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ.
  • 「それから」(τότε)は、前章の論争物語集(22:15–46)との連続性を示す。
  • 「群衆と弟子たち」──イエスの批判が弟子たちだけでなく、一般の人々への警告でもあることを示す。

 2–3節

新共同訳 2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」
2 ἐπὶ τῆς Μωϋσέως καθέδρας ἐκάθισαν οἱ γραμματεῖς καὶ οἱ Φαρισαῖοι·
3 πάντα οὖν ὅσα ἂν εἴπωσιν ὑμῖν ποιήσατε καὶ τηρεῖτε· κατὰ δὲ τὰ ἔργα αὐτῶν μὴ ποιεῖτε· λέγουσιν γὰρ καὶ οὐ ποιοῦσιν.
  • 「モーセの座」(καθέδρα Μωϋσέως)とは、律法の解釈と教えにおける権威の象徴であり、シナゴーグに実際に設けられていたとされる。イエスはこの権威そのものを否定していない。「彼らが言うことは守りなさい」と命じる一方で、「彼らの行いは見倣うな」と警告している。言行不一致(λέγουσιν γὰρ καὶ οὐ ποιοῦσιν)こそが批判の中心である。

 4節

新共同訳 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
δεσμεύουσιν δὲ φορτία βαρέα καὶ δυσβάστακτα καὶ ἐπιτιθέασιν ἐπὶ τοὺς ὤμους τῶν ἀνθρώπων, αὐτοὶ δὲ τῷ δακτύλῳ αὐτῶν οὐ θέλουσιν κινῆσαι αὐτά.
  • 「重荷」(φορτία)は、律法やその派生規定を含む。
  • 「人の肩に載せる」は、他者に義務を課す比喩表現。
  • 「指一本貸そうともしない」は直訳で「自分の指を動かそうとしない」。自らは実践せず、人にだけ義務を課す姿勢を示す。

 5節

新共同訳 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
πάντα δὲ τὰ ἔργα αὐτῶν ποιοῦσιν πρὸς τὸ θεαθῆναι τοῖς ἀνθρώποις· πλατύνουσιν γὰρ τὰ φυλακτήρια αὐτῶν καὶ μεγαλύνουσιν τὰ κράσπεδα.
 行為の目的が「人に見せるため」であることが非難される。
  • 「聖句の入った小箱」(φυλακτήρια)は申命記6:8に基づく信仰具。
  • 「衣服の房」(κράσπεδα)は民数15:38に由来する。どちらも本来は信仰のしるしだが、自己顕示に堕している。

 6–7節

新共同訳 6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7 また、広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む。
6 φιλοῦσιν δὲ τὴν πρωτοκλισίαν ἐν τοῖς δείπνοις καὶ τὰς πρωτοκαθεδρίας ἐν ταῖς συναγωγαῖς,
7 καὶ τοὺς ἀσπασμοὺς ἐν ταῖς ἀγοραῖς καὶ καλείσθαι ὑπὸ τῶν ἀνθρώπων ῥαββί.
  • 「上座」「上席」は社会的名誉の象徴。
  • 「広場(ἀγορά)」は公共空間で、社会的地位が可視化される場所。
  • 「先生(ῥαββί)」と呼ばれることを喜ぶ姿勢は、宗教的権威が自己顕示の手段と化したことを示す。イエスは11節でこの価値観を反転させる。

 8–10節

新共同訳 8 だが、あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。9 また、地上の者を「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10 「教師」と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
ὑμεῖς δὲ μὴ κληθῆτε ῥαββί· εἷς γάρ ἐστιν ὑμῶν ὁ διδάσκαλος, πάντες δὲ ὑμεῖς ἀδελφοί ἐστε.
καὶ πατέρα μὴ καλέσητε ὑμῶν ἐπὶ τῆς γῆς· εἷς γάρ ἐστιν ὑμῶν ὁ πατὴρ ὁ οὐράνιος.
μηδὲ κληθῆτε καθηγηταί· ὅτι καθηγητὴς ὑμῶν ἐστιν εἷς, ὁ χριστός.
  • 「呼ばれてはならない」(μὴ κληθῆτε)は外的行為の全面禁止ではなく、地位による優越感を戒める内面的命令。
  • 「皆兄弟」──神の前では誰もが平等であり、上下関係は存在しない。
  • 「あなたがたの師は一人」──冠詞つきのὁ διδάσκαλοςは特定の存在、すなわちキリストを指す。「父と呼ぶな」「教師と呼ばれるな」も同様に、社会的称号による自己顕示を退ける表現である。

 11節

新共同訳 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
ὁ δὲ μείζων ὑμῶν ἔσται ὑμῶν διάκονος.
  • 「偉い人」(μείζων)とは権威ある者を意味する。しかしイエスは価値観を逆転させ、そうした者こそ「仕える者」(διάκονος)であるべきと説く。20:28では、イエス自身が「仕えるために来た」と述べており、この教えを体現している。

 12節

新共同訳 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ὅστις δὲ ὑψώσει ἑαυτὸν ταπεινωθήσεται, καὶ ὅστις ταπεινώσει ἑαυτὸν ὑψωθήσεται.

 この逆転の論理はルカ14:11、18:14、22:26にも並行する。マリアの讃歌(ルカ1:52)やマタイ20:26–27も同様の思想を表す。神の国の価値観では、謙遜が真の高貴とされる。

 現代的関連

 現代の教会でも、牧師などを「先生」と呼ぶことがある。本箇所のことをしらないわけでもなく、「これは尊敬を込めた言い方だから」「この言葉は我々のそういう慣例とは主旨が違う」などとして、自分たちの間での「先生」という語の使用はよしとされている。役職名(「〇〇牧師」「〇〇神父」)で呼べば済むことだが、そうすると、「〇〇牧師と呼ぶと、なにか呼びつけのような雑な感じがする」などといって、結局、「先生」と呼ぶのを止められない。こうしたややこしい人間の性(さが)というものが、「先生」と互いに呼び合って自尊心をくすぐり合い、真理から離れる原因の一つであろう。

 礼拝説教の結びとして

 イエス・キリストは、律法学者やファリサイ派の偽善を鋭く指摘されました。しかしその批判は、単なる非難ではなく、私たち自身への問いかけでもあります。
 私たちは、神の言葉を語る者・聞く者として、言葉と行いが一致しているでしょうか。人に見せるためではなく、神に仕えるために生きているでしょうか。
 主は言われました──「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と。
 高ぶる者ではなく、へりくだる者こそが神の国で高められる。私たちが互いに兄弟姉妹として歩む時、そこにキリストの御心が現れます。
 どうかこの週も、誠実な心で主に仕え、隣人に仕える者となれますように。肩に重荷を負わせるのではなく、共に担い、共に祈り、共に歩む者となれますように。
 私たちの教師はただ一人、キリストです。主の御言葉に従い、へりくだって歩みましょう。

祈り

 恵み深い天の父なる神よ。あなたの御言葉によって私たちの心を照らしてくださり感謝いたします。
 主イエスが語られたように、私たちが言葉だけでなく行いにおいても誠実である者となれますように。
 人に見せるためではなく、あなたに仕えるために、へりくだった心をもって歩むことができますように。
 私たちが誰かに重荷を負わせるのではなく、共に担い、祈り、励まし合う兄弟姉妹として生きることができますように。
 あなたの前では私たちは皆平等です。どうか私たちの中の高ぶりを取り除き、仕える喜びを教えてください。

 私たちの教師はただ一人、キリストです。主の教えに従い、日々の歩みの中であなたの光を映す者とならせてください。
 偽善ではなく、真実の愛と謙遜をもって、あなたに栄光を帰す者となれますように。
 この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。

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