説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:1-12
マタイ23:1-36 律法学者とファリサイ派に対する批判
並行箇所:マルコ12:38-40、ルカ11:37-52、20:45-47
概要
この箇所では、律法学者とファリサイ派に対する批判が展開されている。その焦点は、彼らの言行不一致(3節「言うだけで実行しない」)であり、なおかつその遵守を他者に要求することなどにある(23:4)。
。その他、律法を形式的に守るだけで、内面の誠実さは欠けている問題や(23:23)、人に見せびらかす点(23:5-7)も挙げられている。これらが総じて、「偽善」(マタイ23:25、27、29など)と称されている。
また、律法学者、ファリサイ派に対して、7個の「災い」が宣言されている。
マタイ23:1-12
1節
新共同訳 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
ギリシャ語 Τότε ὁ Ἰησοῦς ἐλάλησεν τοῖς ὄχλοις καὶ τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ
「それから」(τότε):先行箇所での論争物語集(22:15-46)と繋がりがあることを示す。
「群衆と弟子たち」:イエスによる批判が弟子たちへの指導であるだけでなく、広く一般に対する警告であることを意味する。
2-3節
新共同訳 2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
ギリシャ語 2 ἐπὶ τῆς Μωϋσέως καθέδρας ἐκάθισαν οἱ γραμματεῖς καὶ οἱ Φαρισαῖοι· 3 πάντα οὖν ὅσα ἂν εἴπωσιν ὑμῖν ποιήσατε καὶ τηρεῖτε· κατὰ δὲ τὰ ἔργα αὐτῶν μὴ ποιεῖτε· λέγουσιν γὰρ καὶ οὐ ποιοῦσιν.
「モーセの座」(καθέδρα Μωϋσέως):律法の解釈と教えにおける権威の座。ユダヤ教のシナゴーグには、この座が象徴的に置かれているところもあったという。律法学者、その中でも権威あるファリサイ派は、名実ともにこの権威を継承する者たちと認められていた。
「彼らが言うことは……守りなさい」:イエスは、「モーセの座」の伝統や制度自体を否定していないし、律法学者らがその座に就いていることも斥けてはいない。イエスは、決して律法否定論者として描かれてはいない。
「しかし……見倣ってはならない」:律法学者らの立場や働きは否定しないが、彼らの「言うだけで、実行しない」(λέγουσιν γὰρ καὶ οὐ ποιοῦσιν というのも彼らは言うものの、行わない)、つまり言行不一致を「見倣う」こと、原語のニュアンスで言えば<模倣>することをイエスは禁じている。
4節
新共同訳 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
ギリシャ語 δεσμεύουσιν δὲ φορτία βαρέα καὶ δυσβάστακτα καὶ ἐπιτιθέασιν ἐπὶ τοὺς ὤμους τῶν ἀνθρώπων, αὐτοὶ δὲ τῷ δακτύλῳ αὐτῶν οὐ θέλουσιν κινῆσαι αὐτά.
「重荷」(φορτία):律法、並びにそれを解釈し派生させた規定、伝統的解釈に基づく規定なども含む。
「人の肩に」(ἐπὶ τοὺς ὤμους τῶν ἀνθρώπων):律法の遵守を人に要求することの比喩表現。
「指一本貸そうともしない」(τῷ δακτύλῳ αὐτῶν οὐ θέλουσιν κινῆσαι):直訳では「彼らの指を動かすことを欲しない」こちらも比喩表現で、律法遵守の義務を人々に指示する一方、自分たちは逃れていることを暗示する。
5節
新共同訳 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
ギリシャ語 πάντα δὲ τὰ ἔργα αὐτῶν ποιοῦσιν πρὸς τὸ θεαθῆναι τοῖς ἀνθρώποις· πλατύνουσιν γὰρ τὰ φυλακτήρια αὐτῶν καὶ μεγαλύνουσιν τὰ κράσπεδα.
彼らのこうした行動の意図は、「人に見せるため」7節まで種々の見せびらかしが列挙されていく。
「聖句の入った小箱(φυλακτήρια)」:申命記6:8「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け」に由来する小箱。
「衣服の房」(κράσπεδα):衣の四隅につける房で、民数15:38に基づく(「代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい」)。小箱も房も、神への敬虔ではなく、自己顕示欲を満たすためのものに貶められている。
6-7節
新共同訳 6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
ギリシャ語 6 φιλοῦσιν δὲ τὴν πρωτοκλισίαν ἐν τοῖς δείπνοις καὶ τὰς πρωτοκαθεδρίας ἐν ταῖς συναγωγαῖς 7 καὶ τοὺς ἀσπασμοὺς ἐν ταῖς ἀγοραῖς καὶ καλείσθαι ὑπὸ τῶν ἀνθρώπων ῥαββί.
「上座」(πρωτοκλισία)」「上席」(πρωτοκαθεδρία):いずれも社会的な誉ある席。
「広場(ἀγορά)で挨拶」「先生」(ῥαββί):当時のユダヤにおいて「広場」は社交的な公共空間でもあり、社会的階層が目に見える場所。そこで「挨拶」されることは、「先生」(原語ではラビ)として尊敬されている証。自身の宗教的役職が、自己顕示のために消費されているという倒錯状態。他方、イエスは11節で、「いちばん偉い者は、仕える者でなければならない」と説く。
8-10節
新共同訳 8 だが、あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。9 また、地上の者を「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10 「教師」と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
8 ὑμεῖς δὲ μὴ κληθῆτε ῥαββί· εἷς γάρ ἐστιν ὑμῶν ὁ διδάσκαλος, πάντες δὲ ὑμεῖς ἀδελφοί ἐστε. 9 καὶ πατέρα μὴ καλέσητε ὑμῶν ἐπὶ τῆς γῆς· εἷς γάρ ἐστιν ὑμῶν ὁ πατὴρ ὁ οὐράνιος. 10 μηδὲ κληθῆτε καθηγηταί· ὅτι καθηγητὴς ὑμῶν ἐστιν εἷς, ὁ χριστός.
「呼ばれてはならない」(μὴ κληθῆτε)とは、表面上の行動を禁止する命令というよりも、自分が社会的階層の上位の呼ばれ方をして嬉しがるという、自己顕示的な精神性が戒められている。よって、いつでもどこでも「先生」「父」「教師」と呼ぶことが、常に禁止されているとは思えない。
「皆兄弟」:真の教師として真の権威を持つ者の前に、社会的階層の上下などはあるべきではない。神的権威の前では、誰もが兄弟(姉妹)として平等である。これは、初期キリスト教時代の精神性をも表しているだろう。
「あなたがたの師(ὁ διδάσκαλος)は一人」:「師」は冠詞つきで特定の人物を指す。後述の通り、それは「キリスト」に他ならない。
「父と呼んではならない」:後続の「教師」と共に、先の「先生」と呼ばれてはならないのと同様の意味合い。肉親の父以外にも、弟子がラビを「父」と呼んだ実例もある。そうした場面では、やはり社会的な身分の相違が表面化し、虚栄心などが絡みつく。こうした自己顕示欲も、「あなたがたの父は天の父おひとりだけ」という事実の前に、後退しなければならない。肉親の父すらも、そう呼んではならないというわけではない。
「教師」(καθηγητής)」:導く者という意。世にある教師的指導者を排除し、自身のみが指導者であると主張されているのではなく、真に神とその真理へと導く者こそキリストである、と主張されている。
11節
新共同訳 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
ギリシャ語 ὁ δὲ μείζων ὑμῶν ἔσται ὑμῶν διάκονος.
一番偉い人(μείζων):偉大な人、という意。
総じて偉い人は皆から仕えられる立場にあるが、イエスはその価値観を逆転させ、そのような人こそ他者に「仕える者」(διάκονος)となるべきと述べている。20:28では、イエスの使命としてこれに言及されている(「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために……来た」)。
初期キリスト教時代では、教会における指導的立場の役職をδιάκονος(執事)と呼んだ
12節
新共同訳 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ギリシャ語 ὅστις δὲ ὑψώσει ἑαυτὸν ταπεινωθήσεται, καὶ ὅστις ταπεινώσει ἑαυτὸν ὑψωθήσεται.
「だれでも高ぶる者は……」:同様の表現は他に、ルカ14:11、18:14、22:26。部分的に一致する用例としては、マタイ18:4「子供のように自分を低くする者は……」。意味的に一致する用例は、ルカ1:52(いわゆる「マリアの讃歌」マニフィカートにおいて)、マタイ20:26-27。ルカ22:26。
関連
現代のキリスト教会において、牧師や神父を「先生」と呼ぶところも少なくない。当然、この箇所を知りつつ、その精神性を踏まえた上で状況の相違を鑑み、聖職者が「先生」と呼ばれることを容認しているのだろう。だが、それなら「〇〇牧師」「〇〇神父」などと役職名で呼べば事足りるわけで、これが一番シンプルではないだろうか。
説教の結びとして
イエス・キリストは、律法学者やファリサイ派の人々の偽善を鋭く指摘されました。しかしその批判は、単なる非難ではなく、私たち自身への問いかけでもあります。私たちは、神の言葉を語る者として、またそれを聞く者として、言葉と行いが一致しているでしょうか。人に見せるためではなく、神に仕えるために生きているでしょうか。
主は言われました。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」。この言葉は、私たちの価値観を根底から揺さぶります。高ぶる者ではなく、へりくだる者こそが神の国で高められるのです。私たちが互いに兄弟姉妹として、上下ではなく横のつながりの中で歩むとき、そこにこそキリストの御心が現れます。
どうか、私たちがこの週も、見せかけではなく誠実な心で、主に仕え、隣人に仕える者となれますように。肩に重荷を負わせるのではなく、共に担い、共に祈り、共に歩む者となれますように。私たちの教師はただ一人、キリストです。主の御言葉に従い、へりくだって歩む者となりましょう。
主の恵みと平安が、皆さんの心を満たしますように。アーメン。
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