2025年11月1日土曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:10-12

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:10-12

並行箇所 マタイ13:10-17、ルカ8:9-10


概要

4:10-12は、「蒔かれた種の例え」の後に続く位置にあり、イエスが例えを用いて話す理由を内容上の中心とする。場面は、イエスが群衆から離れて「ひとりになられたとき」(4:10)でありつつも、周囲には弟子たちがいて、彼らだけに語られた「神の国の秘密」(4:11)とされている。すなわち、イエスのここでの言葉は、群衆に対して公になされた説教ではなく、弟子たちに限定して語られた言葉であることを念頭に置きたい。すなわち、奇跡目当てに集まっている、必ずしもイエスの言葉を聞くつもりのない人も含む群衆ではなく、聞く耳のある弟子たち、言い換えれば、聞く意志のある人たちを対象とした言葉である。
イエスが例えをもって語る目的は、端的に言えば、聞こうとする耳を持ち、理解しようとする心を持つ人には神の真理は開かれるが、それを望まない人には閉ざされるということである。この二重性が、イザヤ6:9-10の引用をもって宣言されている。


10節

新共同訳 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
ギリシャ語 Καὶ ὅτε ἐγένετο κατὰ μόνας, ἠρώτων αὐτὸν οἱ περὶ αὐτὸν σὺν τοῖς δώδεκα τὰς παραβολάς.

  • 「ひとりに」(κατὰ μόνας)
     公の場面から、私的な場面への転換を示す。マルコでは他に、9:28にも同様の場面転換が見られる。

  • 「十二人と一緒にイエスの周りにいた人」
     十二人の使徒たち以外の弟子たちも含む。イエスの一行は、使徒たち以外の弟子たちもいる集団であった。あるいは、使徒たち以外の弟子=マルコの読者をも含む広い弟子共同体を意識しているのかもしれない。

  • 「たとえ(τὰς παραβολάς、複数形)」
     単に4:3–9における蒔かれた種の例えを指すのではなく、イエスの語った他の譬え全体を網羅する。


11節

新共同訳 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」
ギリシャ語 καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς· Ὑμῖν τὸ μυστήριον δέδοται τῆς βασιλείας τοῦ θεοῦ· ἐκείνοις δὲ τοῖς ἔξω ἐν παραβολαῖς τὰ πάντα γίνεται,

  • 「(神の国の)秘密」μυστήριον
     奥義とも。ヘレニズム的には秘儀宗教の「秘儀」を指す語。ユダヤ教では神の計画や啓示を意味する(参照、ダニエル2:18-19など)。

  • 「外の人々には」(τοῖς ἔξω)
     先行箇所の3:31-32では、家の「外」と内とが意識され、家の中でイエスを囲んで教えに耳を傾ける人々が、家族として呼ばれていた(3:34)。初期教会時代では、教会の信徒以外の一般社会を指す用語として定着した(参照、コロサイ4:5)。

  • 「すべてがたとえで示される」
     原語の直訳では「すべてが例えによって生じる」(ἐν παραβολαῖς τὰ πάντα γίνεται)。


12節

新共同訳 それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。
ギリシャ語 ἵνα βλέποντες βλέπωσιν καὶ μὴ ἴδωσιν, καὶ ἀκούοντες ἀκούωσιν καὶ μὴ συνιῶσιν, μήποτε ἐπιστρέψωσιν καὶ ἀφεθῇ αὐτοῖς.

  • イザヤ書の七十人訳聖書6:9-10からの引用句。ἵνα... μήποτε 構文が使用されていて、通常は<〜するために〜してはならない>という意味だが、ここでは、「してはならない」が結果節として用いられている。

  • 「彼らは見るには見るが、認めず」
     直訳では、「彼らは見るには見て、認識せず」。見ても認識するに至らずという結果に終わるということ。平たく言えば、もしやる気がないならば、その結果がはっきりと出る結果になるということ。私たちにおいても、「聞く気がないなら分かるわけがない」と思うだろう。分からないという結末が、よりはっきりと出るというニュアンス。

  • 「聞くには聞くが、理解できず」
     「見るには見るが」と同様で、繰り返しによって意味合いが強調されている。

  • 「『立ち帰って赦されることがない』ようになるため」
     「立ち帰って」と訳されている語は、「悔い改める」(ἐπιστρέφω)とも翻訳される語。罪の赦しの主題は、マルコ1:4、2:5などにも現れる。
     文字通りに読むと意味不明となるが、私たちにおいても、「聞く気がないならもういい」との思いを抱くことがあるだろう。本人がそのように望んでいるのだから、赦しを得たくなければ赦されない結果となれ、というニュアンス。


まとめ

 聞く意志のない人たちは、当人が聞くことを望まないのだから、望み通り、理解せずに終わる結果となれ、という趣旨のこの宣言は、一種の神の審判の告知である。積極的な審判ではなく、消極的な裁きであると言える。同時に、語られ、聞かれず、理解や信仰に至らず、という一連のプロセスが、神の意志に基づく神の計画として示されていることにも留意するべきである。


礼拝説教の結びの言葉として

 主イエスの教えや言葉は、すべての人に語られ、同時に、理解と信仰へと開かれています。イエスはその際、例えを用いてお語りになりました。それは、「聞きたい」「もっと知りたい」「理解したい」「そうして信仰を持つようになりたい」、そう願う人たちが、真理へと導かれるようになるためです。
 そして同時に、聞く耳を持たない人、分かろうと望まない人、そうした人たちが、自分たちの望む末路へと至るようになるためです。一言で言えば、白黒がはっきりと出るため、とも言えます。
 しかし、主イエスが今日、このように語られたのは、単にそのように自業自得の結末で終わるためではありません。たとえ聞く気のない人でも、そこで何事かを思い、聞く耳を持つようにと願われてのことです。
 すべての人は招かれており、すべての人に扉は開かれています。しかし、そこを通る人は一部です。通らない人も、神のご計画と相応しい時が来れば、通るようになることも現実にあります。そのように願われ、すべての人に招きの言葉を語られています。
 イエスは今日も、私たちに語りかけておられます。「聞く耳のある者は聞きなさい」(4:9)。


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