2024年11月27日水曜日

マタイによる福音書 3:13-17(2012年4月22日)

教会学校教案 2012年4月22日分

マタイによる福音書 3:13-17


 概要

 「イエスの洗礼」という出来事は、四福音書すべてが伝えているものです(マルコ一・九ー一一、ルカ三・二一ー二二、ヨハネ一・三二ー三四)。ですから、今回の記事はそれだけ教会全体に知られ、大切な出来事として受け止められていたことが推測されます。ただし、それぞれの福音書では語り方、取り上げ方が違っています。実際読まれると、随分異なると感じられるでしょう。それぞれに個性がありますから、マルコはマルコのように、マタイはマタイのように語ることを目指しましょう。マタイの特徴は、一に、洗礼者ヨハネが主イエスに洗礼を授けた事実。二に、その際にヨハネが思い留まらせようとしたこと。三に、主イエスご自身がヨハネから洗礼をお受けになる意義を説かれたことに現れています。「三」によれば、洗礼を受け新しい命に生きようとする者と、主が共に歩んで下さるために、敢えてヨハネから洗礼を受けられたと言えます。

 主イエスの洗礼には、もう一つ大きな意味があります。今回の箇所の後半で語られている通り、主が神の御子であり、救い主なる方であることが示されるためです。以上、ヨハネから受けた洗礼の意味と、このことの二つを柱として、説教作成に臨みましょう!

 解説

 「彼から洗礼を受けるため」(一三節):原文では「彼に洗礼を授けられるため」:なんと厳かな言葉でしょうか。主なる方が謙って、人間に過ぎない者から洗礼をお受けになろうとしているのですから。「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに・・・』」(一四節):かつてヨハネは、主イエスに対して自分を「その履き物をお脱がせする値打ちもない」(三・一一)と語りました。ヨハネは恐らく、主は自分から洗礼を受けるべき方ではなく、むしろ自分に授けるべき方であると表明しています。ひょっとすると、ヨハネの洗礼は罪人に赦しを与える「悔い改めの洗礼」でしたから、罪なき方であり、罪の赦しをお与えになる主イエスが、彼の洗礼を受けるのは不可解であると思ったのかも知れません。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです・・・」(一五節):「正しい」と訳されている語は、「ヨハネが来て義の道を示した・・・」(二一・三一)で「義」と訳されている語と同じです。ヨハネのもとに来て自分の思いではなく神の御心のままに歩むと決心して悔い改めの洗礼を受けた人たち。神の「義」を求めて生きようとする者たちと、主イエスも共に歩んで下さることが示されるために、主は<私たちと同じように>洗礼をヨハネから受けられるのです。励ましに満ちた主の行動です。「イエスは洗礼を受け・・・そのとき、天がイエスに向かって開いた・・・神の霊が鳩のように・・・」(一六節):旧約時代から「鳩」は聖霊の象徴であり、今や目に見える形で聖霊が主に降ります。聖霊の注ぎはイスラエルで待望されていた出来事です。また、クリスマスに読まれることの多いメシアに関する預言の一つであるイザヤ一一・一ー五では、霊がメシアに注がれ、そうしてメシアが持つべき知恵、力、権威が賦与されることが記されています。ですから、この出来事は、主イエスがメシアであることを示しています。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」(一七節):「天の声」が父なる神の声であるならば、ここには御子イエス、父なる神、聖霊という「三位一体の神」が同時に表されています。その意味でも今回の箇所は大切なところです。「これはわたしの愛する子」という表現の背後には、詩編二・七(「お前はわたしの子・・・」)と、イザヤ四二・一(「主の僕」と呼ばれる者の召命)があります。ですから、「愛する子」という言葉は、主が神の<独り子>、御子なる神であり、三位一体の神の御心によってメシアとして立てられていることを指し示しています。さらには、「これはわたしの愛する子・・・」という「声」は、「山上の変容」とも呼ばれるイエスの姿変わりの記事において再度繰り返されます(一七:五)。大事な意味を持つことが、この繰り返しに暗示されていますね。

 まとめ

 「これは私の愛する子」という言葉は、かつて神がアブラハムにイサクを献げるよう命じられたことを思い起こさせます(創世記二二・二「あなたの息子、あなたの愛する独り子を・・・献げ物としてささげなさい」)。事実、父なる神は私たちの救いのために、御子イエスを十字架に架けられました。イザヤ書の「主の僕」も、イザヤ五三章の「苦難の僕」と繋がっています。つまり、今日の箇所は主イエスがメシアであることを示しているだけでなく、主の受難をも暗示しているのです。

 主イエスは、私たちと歩みを共にされるためにヨハネから洗礼を受けられましたが、謙られた主は、十字架の死に至るまでご自身を低くされました。そして、これらをすべて見越して「これはわたしの愛する子」という「声」があるのです。この峻厳な事実に畏れを抱きながら、子どもたちに福音を語りましょう! (茨木春日丘教会 大石健一)


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