マタイ25:23–33
並行箇所:マルコ12:18-27、ルカ20:27-40
概要
サドカイ派との復活論争の記事。マタイはマルコの並行箇所を踏襲しつつ、マルコの「『柴』の個所」などの記述を省略して叙述している。
注解
23節
その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
Ἐν ἐκείνῃ τῇ ἡμέρᾳ προσῆλθον αὐτῷ Σαδδουκαῖοι, λέγοντες μὴ εἶναι ἀνάστασιν, καὶ ἐπηρώτησαν αὐτόν
「その同じ日」:その日がいつ始まったのかは定かではないが、21:17-18において宿泊を経て朝からの記述が始まっている。日付の設定というよりは、直前の記事の「ファリサイ派」との論争を意識して、本箇所でサドカイ派との一幕を記すという意識が反映されている。
「サドカイ派」:前2世紀頃に発生したと推定されるユダヤ教内の一派で、貴族層(エルサレム貴族層、地方の貴族層)、地主などの富裕層によって構成される。元々は有力な祭司一族のザドク(ツァドク)家の子孫とこれに関連のある者たちに由来する(エゼキエル40:46)。なお、ザドク(ツァドク)はソロモン時代の大祭司であった同名の人物から採られたものだろう(列王記上2:35)。イエス時代以前から以後しばらく、ユダヤの最高議会(サンヘドリン)における多数派として、政治的および宗教的支配権を手にしていた。文化的にはオープンであったが、自分たちの基盤を揺るがすような改革は望まないため、現状維持には保守的であった。神学的には保守的で、律法理解については旧約における「トーラー」(=モーセ五書)のみを正典と見なし、律法学者やファリサイ派とは異なり、律法から派生した伝統的な解釈の権威を否定した。死者の復活、天使や霊の活動の否定(必ずしも存在自体を否定しているわけではない。この世における活動には否定的)を特徴としている。後70年のエルサレム神殿崩壊時、当時の最高議会サンヘドリンの瓦解と共に、事実上その存在は消滅した。
サドカイ派は彼らの信仰内容に基づいてイエスを論破しようと試み、質問を投げかけた。
24
「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
λέγοντες· Διδάσκαλε, Μωϋσῆς εἶπεν, Ἐάν τις ἀποθάνῃ μὴ ἔχων τέκνα, ἐπιγαμβρεύσει ὁ ἀδελφὸς αὐτοῦ τὴν γυναῖκα αὐτοῦ καὶ ἀναστήσει σπέρμα τῷ ἀδελφῷ αὐτοῦ.
レビラート婚(レビラト婚、申命記25:5–10を参照):子供のいない夫妻において夫が死亡した場合、夫の弟が未亡人と結婚し、家系を存続させる制度を、レビラート婚という(参照、申命記25:5-10)。これにより、名前の継承、土地の継続的保持が意図されている。
彼らは律法におけるレビラート婚と呼ばれる制度を引用し、復活の教えの矛盾を突こうとしている。
25節
「さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。」
Ἦσαν δὲ παρ’ ἡμῖν ἑπτὰ ἀδελφοί· καὶ ὁ πρῶτος γαμήσας ἐτελεύτησεν, καὶ μὴ ἔχων σπέρμα ἀφῆκεν τὴν γυναῖκα αὐτοῦ τῷ ἀδελφῷ αὐτοῦ·
「七人の兄弟」という極端なケースが設定されている。もし復活があるとすれば、「妻」が「七人」全員を夫として持つことになるとして、その教義が理不尽であると主張されている。
26-28節
26「次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。27 最後にその女も死にました。28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
26 ὡσαύτως καὶ ὁ δεύτερος καὶ ὁ τρίτος ἕως τῶν ἑπτά. 27 ὕστερον δὲ πάντων ἀπέθανεν ἡ γυνή. 28 ἐν τῇ ἀναστάσει οὖν τίνος τῶν ἑπτά ἔσται γυνή; πάντες γὰρ εἶχον αὐτήν.
サドカイ派の主張は、復活の教義が婚姻制度と矛盾するという一点に集約される。彼らはまた、復活後も婚姻関係がそのまま継続されるということを前提としている。
29節
「イエスはお答えになった。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
ἀποκριθεὶς δὲ ὁ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτοῖς· Πλανᾶσθε, μὴ εἰδότες τὰς γραφὰς μηδὲ τὴν δύναμιν τοῦ θεοῦ.
サドカイ派もまた律法学者と同様、聖書を読んで独自の解釈を深め、神の力を信じている。しかしイエスは、聖書に対する彼らの無理解、神の力に対する無知を指摘する。
復活後はそれまでの地上の制度とは次元を異にするものであり、他方、サドカイ派は地上と復活後の世界を混同している。
30節
「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
ἐν γὰρ τῇ ἀναστάσει οὔτε γαμοῦσιν οὔτε γαμίζονται, ἀλλ’ ὡς ἄγγελοι ἐν οὐρανῷ εἰσίν.
復活後の人間は、もはや地上の婚姻制度に拘束されることはなく。「天使」のような霊的存在に変容するという。復活は、単なる肉体の再生や生き返りではない。新しい次元の生としての新しい誕生であり、創造である。
復活後の人間の形としては、ヨハネの手紙一3:2に、「御子に似た者となる」という表現がある。
31-32節
31 「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。」32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
31 περὶ δὲ τῆς ἀναστάσεως τῶν νεκρῶν, οὐκ ἀνέγνωτε τὸ ῥηθὲν ὑμῖν ὑπὸ τοῦ θεοῦ λέγοντος· 32 Ἐγώ εἰμι ὁ θεὸς Ἀβραὰμ καὶ ὁ θεὸς Ἰσαὰκ καὶ ὁ θεὸς Ἰακώβ; οὐκ ἔστιν ὁ θεὸς νεκρῶν ἀλλὰ ζώντων.
イエスは、サドカイ派が根拠の拠り所としている聖書(旧約)の「言葉」を引用して問う。32節の旧約引用は、出エジプト記3:6。元々の文脈上の意味から外れるものの、イエスはその文言を、<神がアブラハムらをそのように呼ぶことは、神が今なお彼らと生きた関係性を持っていることを意味する>→<アブラハムらが今なお生きていることの証左>という論理で再解釈している。
この論理が少し納得のいかない読者も多いだろう。その場合は、32節の冒頭が「私(こそ)は、アブラハムの神……である」と現在形で書かれていて、過去形ではない、すなわち、既にアブラハムなどが死んだ人として過去の出来事として扱われておらず、現在進行の事柄として語られていることを意識すると、わかりやすいかもしれない。
33節
「群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
καὶ ἀκούσαντες οἱ ὄχλοι ἐξεπλήσσοντο ἐπὶ τῇ διδαχῇ αὐτοῦ.
群衆はイエスの聖書理解と知恵に驚嘆した。サドカイ派の表面的な理屈ではなく、斬新な解釈がもたらす腑に落ちる感覚に驚きを覚えたのだろう。サドカイ派が敗北したとは明言されていないが、群衆が驚いた事実の報告のみをもって、これ以上彼らが太刀打ちできなかったことが暗示されている。
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