2025年6月16日月曜日

【キリスト教解説】『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)とその悲惨な末路 ーイエスはイスカリオテのユダの裏切りを評価した?

 1970年代にエジプトのミニヤー県で発見された、通称「チャコス写本」(言語はコプト語)に含まれる福音書で、グノーシス主義的キリスト教の一派により書かれた文書。グノーシス主義的な関心に基づき、イエスを裏切り死へと引き渡したユダの所業が、イエスにより高く評価されているという、正統的な新約文書とは真逆の内容を含む。この内容と相俟って、2006年に一般公開されたことで一時話題となった。


 1.「チャコス写本」に含まれる四文書

1.『フィリポに送ったペトロの手紙』 ナグ・ハマディ文書のものとほぼ同じ内容

2.『ヤコブ』 ナグ・ハマディ文書の『ヤコブの黙示録』とほぼ同じ内容

3.『ユダの福音書』

4.『アロゲネース』

*いずれも、グノーシス主義の影響を受けた文書で、チャコス写本もまた、グノーシス主義的キリスト教の一派により生み出されたもの。


 2.グノーシス主義的思想に基づいて書かれた『ユダの福音書』

 要点:肉体=悪、霊=善。”肉体は魂の牢獄”、”死は肉体からの解放”

 至高神の他に、創造神デミウルゴス(グノーシス主義にとっては悪神)が存在する。デミウルゴスは人間を創造し、この人間に「ソフィア(知恵)」を通じて至高神より「霊」を与えられたが、「肉体」はこの「霊」を閉じ込める、「肉体の牢獄」である。それ故、「肉体」から「霊」を解放することが人間の救済となる。

 この観点に基づき、イエスを裏切ったユダの所業が、イエスにより高い評価を受けている。なぜなら、ユダはイエスを死に引き渡すことにより、彼の魂を肉体の牢獄から解放することになるからである。


 3.“反”異端文書における『ユダの福音書』に関する証言

 3.1.リヨンの司教エイレナイオス『不当にもそう呼ばれている「グノーシス」の罪状立証とその反駁』(通称『異端駁論』)による証言

「さらに他の人々が言っている、カインは上なる権威から来たのだと。・・・そして、このことを裏切り者ユダもよく知っていた。そして(他の弟子たちの中で)彼のみが真理を知っていたので、裏切りの秘儀を為し遂げた。彼によって天上のものと地上のものが解消されたのである、と言われる。彼らはこの種の虚構を作り上げて、それを『ユダの福音書』と呼んでいる。」(1.31.1)

*エイレナイオスが言及している『ユダの福音書』と、発見された『ユダの福音書』との間には相違点もあり、必ずしも同一文書とは限らないが、文書名が逐語的に一致していることと共通点を考慮すれば、両書は同じ書である可能性が高い。


 3.2.「カイン派」に関する証言

 エイレナイオス証言に言及し、そのグノーシス主義的キリスト教異端セクトを「カイン派」(グノーシス派の一派)と呼ぶ、反異端論者は以下の通り。

 テオドレトス『異端者たちの作り話要綱』(1.15)、偽テルトゥリアヌス『全異端反駁』(2.5-6)、エピファニオス『薬籠』(38.1.15)。


 4.成立年代

 先のエイレナイオス証言を含む『異端駁論』の成立年代が180年頃であるから、これが成立年代の下限となる。他方、『ユダの福音書』は『使徒言行録』の補欠選挙の記事(1:15-26)を知っているから、『使徒言行録』の成立年代である90年代が上限となる。

 また、チャコス写本の成立年代に関しては、放射性炭素年代測定によれば、280年プラス・マイナス60年と推定される。この年代は、コプト語の書体や装丁等の年代と概ね一致する。


 5.発見、公開に至るまでの経緯

1970年代 エジプト中部ミニヤー県にて、『ユダ福音書』(または『ユダの福音書』)を含む写本が発見される。恐らく盗掘による。

1980年 カイロの古美術商に売却されるが、盗難により紛失。

1982年 カイロの古美術商、ジュネーブにて写本を取り返す。

1983年 カイロの古美術商、大学研究者に300万ドルでの売却を持ちかける。交渉は決裂。

1984年 カイロの古美術商、写本をニューヨークのシティバンク貸金庫に16年間に渡り保管し、写本は劣化。

1999年 古美術商フリーダー・チャコス、カイロの古美術商より300万ドルで写本を購入。エール大学に調査を依頼。『ユダ福音書』と判明。

2000年 アメリカの古美術商ブルース・フェリーニ、写本を購入。一部を売却。残りを冷凍保存。

2001年 フェリーニ、代金支払いができず、チャコスに返却。チャコスにより、マエケナス古美術財団(スイス)に引き渡される。

2006年4月 ナショナルジオグラフィック協会の援助によりコプト語本文と英訳、インターネットで公開。その後公刊。

2006年6月 公刊本の邦訳『原典 ユダ福音書』(R. カッセル、M. マイヤー、G. ウルスト、B. D. アーマン編著)、日経ナショナルジオグラフィック社、2006年)発刊。


 参考文献

『原典 ユダ福音書』(R. カッセル、M. マイヤー、G. ウルスト、B. D. アーマン編著)、日経ナショナルジオグラフィック社、2006年。

荒井献『ユダとは誰か——原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ』(講談社学術文庫)、講談社、2015年。


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