2024年1月24日水曜日

マタイによる福音書 3章1-12節 「洗礼者ヨハネ」

 教会学校教案「洗礼者ヨハネ」2012年4月15日

マタイによる福音書 3章1-12節


 概要

 今回の聖書箇所は、洗礼者ヨハネの宣教を中心に扱っています。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は(「共観福音書」と呼びます)、主イエスの伝道の開始に先立って現れた洗礼者ヨハネについて語り、一様にヨハネをイエスの伝道を準備をした人として位置づけています。 <旧約の時代から主イエスの新約の時代への移り変わり>というテーマは、マタイ福音書全体のメッセージの根幹ですが、洗礼者ヨハネは旧約から新約への橋渡し役をした人と言えます。そのヨハネは主に、一に悔い改めを求め、二に悔い改めの洗礼を行い、三に主イエスの訪れを宣言したことに集約されます。つまり、主イエスの伝道の備えをし、この方を来たるべき救い主として指し示しました。これは今日の箇所の中心であると同時に説教のポイントにもなりますので、クリアに捉えておきましょう。


 解説

 「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて・・・」(1節)

 「そのころ」とは、主イエスが公生涯(伝道の旅)を始められた直前の時代を指します。


「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)

 洗礼者ヨハネは、主イエスに先立って現れ、その備えをしました。それは、人々の思いを神の方に向けさせて、彼らが<神に立ち返る>(「悔い改め」の原義)よう導くことでした。また、「天の国」はマタイが好む表現で、マルコやルカでの「神の国」と同じものです。「天の国は近づいた」とは、神が為された創造と御業のすべてが、今やクライマックスの時代を迎えた、ということで、主イエスは既に始まった神のご支配と、終末におけるその完成を語られました。ですから「主の祈り」においても、「御国が来ますように」(6:10)と祈られています。マタイによれば、主イエスもこれと同じ言葉をもって福音を宣べ伝え始められました(4:17)。


「荒れ野で叫ぶ者の声がする・・・」(3節)

 イザヤ四〇・三からの引用。


「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め・・・」(4節)

 エリヤを初めとした預言者特有の服装であったことが、列王記下1:8からわかります。「いなごと野蜜」は、かろうじて荒れ野で手に入る食べ物です。贅沢を控えて神のために禁欲を志す姿勢を表しています。


「罪を告白し・・・洗礼を受けた」(6節)

 洗礼は魔術ではありませんから、信仰をもって神に「罪を告白」することが必要です。また、「洗礼」は当時の儀式的な洗礼と違って、繰り返しのない一回限りの行為でした。


「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来た」(7節)

 彼らは本来イスラエルの民を教え、導くべき立場にある者たちです。ヨハネは彼らを叱責していますから、彼らの歩み同様、この時も真摯な思いではなく、中途半端な気持ちでやって来たのでしょう。<中途半端>は信仰において最もいけません。真摯に!


「蝮の子らよ」(7節)

 「蝮」とは荒れ野に生息する毒蛇を指しますが、腹黒い人に対する厳しい表現です。「差し迫った神の怒り」は、 <神の裁き>です。罪はそのままに放置されません。神の前で問われる時は必ず来るのであり、しかもその時は「差し迫っ」ています。


「悔い改めにふさわしい実を結べ」(8節)

 大切なことは、神に御心にかなった新しい生き方を求めていくことです。それが「実を結」ぶということです。ただし、<結果>ではありません。何度失敗してもよい。その代わり何度でも神に立ち返って、励まされてまた生きようと願う姿勢です。それが「悔い改め」です。


「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる・・・」(9節)

 信仰は借り物では駄目です。なぜなら、神は人の心の中をご覧になるからです。その人が本当に神を求めるのでなければ!厳しい言葉のようですが、石ころを作りかえもできる神が、私たちを良き人に作りかえたいと願っておられます。その神の思いを侮ってはならないという思いが、ヨハネの言葉の厳しさに表されています。その御業を為さる方が主イエスであり、ヨハネは自分を「履物をお脱がせする値打ちもない」(11節)と語っています。履き物を脱がす仕事は奴隷でもしないような仕事ですから、ヨハネがキリストに対していかに自分の立場をわきまえていたかが知られます。


「手に箕を持って」(12節):「箕」を使って麦を持ち上げると、風が実ともみ殻をわけ、もみ殻は後で燃やされます。「火」、そして風も神の審判を示します。こうした農作業のイメージは、裁くべき罪人をえり分ける神の業を示す例えとして旧約時代からよく使われていました。


 まとめ

 今回も内容が盛りだくさんの箇所です。前半の悔い改めの主題と、中心聖句の11節を含むキリストの訪れのメッセージが二本柱となります。八節の解説等を今一度読んでいただき、悔い改めとは何かをビシッと自分の言葉で語られるようにして下さい。洗礼者ヨハネは、人々がキリストを自分の中にお迎えするための働きをしたというのならば、皆さんもまたヨハネのような働きを、教会学校で為さっていると言えます。ヨハネの如くキリストを指し示して下さい。主の祝福を祈ります。

(茨木春日丘教会 大石健一)


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