2024年1月19日金曜日

マタイによる福音書 28章1-10節(2012年4月8日)

  概要

 この日、私たちはイースターの朝を迎えます。今回の聖書箇所もまた、主イエスの復活を高らかに告げる復活の記事となっています。ところで、聖書にはキリストの復活物語として、復活の主イエスがご自身を現される復活顕現物語と、今回のような「空(から)の墓復活物語」と呼ばれるタイプがあります。「空の墓復活物語」はそれぞれの福音書で内容が異なるのですが、いずれも一、婦人たちの訪れ。二、 天使たちの顕現。三、天使たちによる復活宣言。四、婦人たちの恐れ。以上の四点で共通しています。基本はこの構成を意識して、メリハリつけて物語っていきましょう。

 今回のマタイ28:1-10は、基本的にマルコ16:1-8を下地として記されています。大きく異なる点は、2-4節における地震と番兵たちのエピソード、そして9-10節における復活の主イエスが婦人たちの前にご自身を現されるエピソードの二つです。今回に限らず今後も出てくることですが、マタイ、マルコ、ルカは互いに似ているようで、マタイならマタイしかない要素があります。これはいわばその箇所の「個性」ですから、これを語らない手はありません。


 解説

「安息日が終わって」(1節)

 安息日には遺体に処置を施すことも含むほぼ一切の仕事が禁じられています。安息日の終了は土曜日の日没。日曜日の夜明けを待ち切れぬように、日の出とともに、十字架の場面にも居合わせていたマグダラのマリアその他の婦人の弟子たちは墓へと赴きます。彼女たちはまだ復活の事実は知りませんが、復活の朝日の輝きは、既に彼女たちを包み始めています。


「その姿は稲妻のように輝き・・・」(3節)

 「主の天使」の「稲妻」、「輝き」、「雪のように白」い「衣」は、いずれも天上の存在の有り様を映し出しています。つまり、この方が「主の天使」であることが示されています。


「番兵たちは、恐ろしさのあまり・・・」(4節)

 「番兵」のエピソードはマタイ福音書のみで触れられています。「弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらす」(27:64)ことのないよう、祭司長とファリサイ派の発案によって立てられた番兵です。マタイがこれを記した背景には、復活は教会の自作自演だと考えて否定する人々と教会が闘い続けてきた歴史があります。しかし、主のご復活を、奇しくも番兵たち自ら証明することになったのです。


「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが・・・」(5節)

 番兵たちも婦人たちも、主イエスは死んだとしか考えておらず、彼女たちは「十字架につけられた(ままの死んだ)イエス」を捜していたのです。


「あの方は、ここにはおられない・・・」(6節)

 原文では「来なさい、そして見るのです!この場所を!」。主イエスは今も、十字架でも墓場でもなく、天におられ、そして私たちと共におられます!


「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」(7節)

 主イエスは前もって、弟子たちが主イエスを見捨てて逃げ去ることと共に、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(26:32)と約束されていました。主は弟子たちの弱さも罪もご存知でした。ですから、ガリラヤでの再会には、<赦し>と<再出発>の意味も込められています。


「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び・・・急いで墓を立ち去り」(8節)

 婦人たちはまだ恐れを抱きながらも喜びが大いに勝って、七節の天使のメッセージを「急いで」伝えに走ります。胸おどる描写です。


「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので・・・」(9節)

 「おはよう」の語源は「喜びなさい」。その通り、婦人たちは復活のイエスとの出会いにさらに喜びます。


「その前にひれ伏し・・・」(9節)

 ここには「礼拝」に繋がる語が使われています。復活の喜び、それは今日の私たちの礼拝の根幹です。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい・・・」(一〇節):恐れる私たちの弱さをご存知の主イエス。だからこそ、そこに留まり続けてはいけません。復活の事実を、私たちも伝えに参りましょう!


 まとめ

 主イエスがそれまでの受難の歩みの中で闘われたもの。それは、神を亡き者にしようとする人間の「力」(陰謀)であり、その根源にある人間の「罪」であり、そして、善き人も悪しき人もすべてを呑み込む「死」です。復活とは、これらすべてに対して神の力が勝利したことを意味します。世界を支配する人間の罪の力に希望を失うことがあるでしょう。そんな人間も結局死の力には勝てないことに望みを絶やすこともあるでしょう。しかし復活は、それら望みなきすべての事柄に対する、神の恵みの勝利です。「神は我々と共におられる」とは、マタイ福音書の初めから終わりまでを貫いている確信です(1:23、28:20)。主が共にいて下さる私たちの喜びは、死の力さえも決して奪うことはできません。


 今回は内容盛りだくさんですから、全部語ろうとせず、ポイントを踏まえながら情熱と喜びをもって語りましょう。それでは頑張って下さい!(茨木春日丘教会 大石健一)


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