2025年5月29日木曜日

マタイによる福音書 26章69-75節「ペトロの三度の否認」(2013年3月17日分)

教会学校教案 2013年3月17日分

マタイ26:69-75「ペトロの三度のイエス否認」


 今回は、ペトロが主イエスのことを三度知らないと否定した、あの有名な出来事が主題です。主イエスが大祭司の邸宅で裁判を受けている間、ペトロは屋内に突入するわけでもなく、かといってその場から遠く逃げ去ることもなく、微妙な距離を保ちながら、半ば呆然と立ち尽くしていました。主の弟子にもなれず、主の敵にもなり切れない、なんとも中途半端な信仰者の姿をさらしています。ここに、使徒でさえも抱えていた人間の弱さ、罪に支配された人の脆弱さがよく示されています。けれども、ペトロの否定を主イエスが予告されていたという事実は、主はそうした人間の弱さをすべてご存知であり、なおかつそうした罪深き者を赦し、愛されていることを示しています。自分の弱さ、罪深さに押し潰されそうになる私たちですが、そんな私たちでさえも、自分のすべてを知っているわけではないことに気づくべきです。神がご存知でない、私たちの弱さや罪はありません。そんな私たちの深き闇に赦しが与えられることを思い巡らしながら、今日の聖書の言葉を読んでいきましょう。


 解説

「ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、『あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた』と言った。」(六九節):主イエスを見捨てて逃げた負い目、そして恐れに襲われているペトロを、「あなたもイエスの仲間だ」という指摘が追い込みます。「ペトロは皆の前でそれを打ち消して、『何のことを言っているのか、わたしには分からない』と言った。」(七〇節):かつて教会の土台となるとさえ主イエスに言われたペトロが、自己保身のために虚偽を語っています。ここには、ペトロ個人の罪ばかりか、私たち人間のそれが現れ出ています。「義人はいない」とある通りです。「ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、『この人はナザレのイエスと一緒にいました』と言った。」(七一節):ひとたび嘘をつけば、それ以降、嘘で塗り固め続けなければならなくなります。真実から逃げるようにして居場所を変えたペトロを、事実の一端を知る女性がさらに追い込みます。「そこで、ペトロは再び、『そんな人は知らない』と誓って打ち消した。」(七二節):虚偽に走ったペトロは、ここに至ってついにイエスとの関係を全否定します。「打ち消す」「知らない」「誓う」という一連の表現が、全力で主を否定するペトロの必死ぶりを強調しています。一六・一六におけるペトロの信仰告白の力強さと比べ、なんという落差でしょうか。これもまた彼個人だけの問題ではありません。これが、私もあなたもそうであるところの「人間」のありのままの姿ではないでしょうか。「しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。『確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。』」(七三節):主イエスを知らないと言い放ったペトロは、自責の念を抱き、なお主のことを案じていたのでしょう。だからこそ、危険が及ぶ状況下、かろうじてその場に踏みとどまっていました。こうした「どっちつかず」の姿勢は、私たちの信仰にも見られるものです。「そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。」(七四節):この時の彼は、自己を取り繕う余裕すら完全に失い、誓いを立ててまで主を「知らない」と言い放ってしまいました。「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(七五節):ペトロが三度目の否定をするや否や、鶏が鳴きました。その鳴き声は、主イエスがかつてペトロに語られた言葉を思い出させました。彼の号泣は、一つには、自分の力で主を信頼しようとして完全に挫折し、自己の真実の姿を悟ったことに由来し、もう一つとして、それを主イエスが一番良くご存知であったことに気づいたことによるものでしょう。


 まとめ

 かつて主イエスを「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ一六・一六)と告白したペトロは、この時、しかも誓ってまで主イエスを知らないと告白しました。自分の力、自分の決意、理想の自分、あるべき自分……そんな自分がもろくも崩れ去り、彼はありのままの自分をさらけ出しました。別の言葉で言えば、彼は自分に徹底的に挫折したのです。しかし、そんな自分は崩れて良いのです。なぜなら、信仰とは自分で築き上げるものではなく、どこまでも神から与えられるものだからです。砂の一粒も神の前に誇るものを持たない私たちを、それでも、否、だからこそ主は愛し、その罪を赦し、神の子として、弟子として立てて下さいます。そのことをペトロが知るのは、主イエスの十字架と復活の後でした。主が私たちを選び、主が私たちを立てて下さる。この一点に立ち続けましょう!

茨木春日丘教会 大石健一

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。