2025年5月29日木曜日

マタイによる福音書 4章1-11節「荒れ野の誘惑」(2012年4月29日)

 教会学校教案 2012年4月29日分

マタイによる福音書 4章1-11節「荒れ野の誘惑」


 概要

 今週の箇所では、主イエスが宣教の旅の開始に先立って、荒れ野にて誘惑を受けられた出来事が述べられています。この「荒れ野の誘惑」の記事には、マタイとよく似たルカ四・一ー一三と、とても短いバージョンのマルコ一・一二ー一三があります。そして、マタイとルカでは「悪魔」「サタン」「試みる者」と呼ばれる存在が現れます。彼らは、「サタン」というヘブライ語の元々の意味が示す通り「神に反する者」で、伝統的には天使が堕落した者として信じられています。要は、人間を超える者であり、神に敵対し、人を神から引き離そうとする者です。これをキッチリ子どもたちに伝え、関心が悪魔論にばかり惹かれないよう注意しましょう。

 「荒れ野」とは、かつて出エジプトを果たしたイスラエルが困難の内に試みを受け、敗北した場所です(参照、申命記八・二)。しかし、今や人間となられた主イエスが、同じ荒れ野にて「神の子」として試みを受け、これに勝利されることで、救いの約束を実現しようとされます。ですから、荒れ野の誘惑とは、単なる悪魔との闘いではなくて、同時に神のご計画でもあります。

 加えて、主イエスは私たちが悪魔と闘う際の手本を示されています。すなわち、御言葉を正しく解釈し、御言葉をもって万事に臨む姿勢です。以上を念頭に置いて、聖書を見てみましょう。

 解説

 「イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」(一節):荒れ野の誘惑は、御霊によって導かれた神のご計画であると同時に、悪魔から受ける誘惑という二面を持ちます。「荒れ野」は、出エジプト後のイスラエルが受けた試みである荒れ野の四〇年と関連します。また、悪魔の試みの目的は、主イエスがメシアとなられることを阻止することに他なりません。「四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。」(二節):「四十」は荒れ野の四十年とも関連しますが、完全数といって完全性を象徴します。十分なまでの時間を主は耐えられたということです。この行為は、かつてモーセが行った断食をも暗示するでしょう(出エジプト記三四・二八)。また、「空腹」は原語では「飢える」です。人となられた主イエスは、人の弱さもお受けになっていますから、私たちと同じように飢え、渇き、疲れ、痛みを覚えるのです。そこへ「試みる者」すなわちサタンがやって来ました。「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。(三節):「神の子なら・・・」という文言は、六節で再度サタンによって繰り返され、さらに十字架の場面では、人々があざけりの言葉として主イエスに投げかけます(二七・三九)。「神の子なら自分を救え」と。しかし主は、肉の欲を満たすためだけに神の力を行使されません。なぜなら、それは神に従うことではなく、自分の欲の奴隷になることだからです。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(四節):「パン」は生きるためになくてはならない物の象徴。聖書さえ読んでいれば食べ物は必要ない、という意味ではありません。パンが人を支えるのではなく、神が人を生かして下さっています。そのことへの信頼が求められているのです。「それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて・・・」(五節):「聖なる都」はエルサレムのこと。神殿の最も高いところでしょう。「下へ飛びおりてごらんなさい。『・・・あなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」(六節):悪魔も巧みです。詩編九一・一一ー一二御言葉を用いているのですから!「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」(七節):主は申命記六・一六を引用してお答えになりました。御言葉は聖書全体から理解せねばなりません。次に悪魔は言いました。「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら・・・」(九節)。「ひれ伏してわたしを拝む」とは、悪魔ないし自分を<礼拝>することです。これに対し主は宣言されます。「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」(一〇節):ここでも主は申命記六・一三の御言葉を引用されます。

 まとめ

 主イエスは、空腹も痛みも感じない超人のように、この試みを受けられたのではありません。弱い私たちと同じように苦しまれたからこそ、苦しむ私たちの助けです(参照、ヘブライ人への手紙四・一五、二・一八)。

 「自分が納得しなければ信じない。」人は時にそんなわがままを言います。神を試みることは、神への不信です。しかし神が私たちを試みるのは、私たちが神を新しく知るためです。皆さんも、試練があって初めて、神がどのような方か知ったのではないでしょうか。いつも問題は、神の側にあるのではありません。神は約束を必ず果たされます。私たちが、主に委ねるか否かが問われています。主の確かさが、主が受けられた誘惑、さらには主の十字架によって示されているのです。神の確かさ、そして信頼の大切さを、子どもたちに語りましょう!(茨木春日丘教会 大石健一)


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