説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコによる福音書 3章20-30節
概要
新共同訳聖書が付けている表題、「ベルゼブル論争」というタイトルでは、今日の箇所と同じ20節から30節で区切るのが良い。ただ、今日の箇所では、イエスの身内が「気が変になった」と思って取り押さえに来ている一方、31-35節では、身内でない人たちがイエスから「家族」として呼ばれている。すなわち、前者と後者とで、家族なのに理解しない者たちと、家族でないのに理解している者たちという、鮮烈な対比が織り成されている。その場合は、20-35節をひとまとまりと考えて、30節までと31節以降とに分けるのが適切である。
20節
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
Καὶ ἔρχεται εἰς οἶκον· καὶ συνέρχεται πάλιν τὸ πλῆθος, ὥστε μὴ δύνασθαι αὐτοὺς μηδὲ ἄρτον φαγεῖν.
「家に帰られると」:自分の家ではなく、拠点にしていた家のこと。
「群衆がまた集まって来て」:「また」(πάλιν)は、群衆が押し寄せる事態がこれまでにも起こっていることを意味する。
「一同は食事をする暇もない」:同様の記述は、6:31にもあり。「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」日常生活すらままならない状況であることが示されている。イエスの教えを聞きたい人もいた一方、多くは病気の癒しや悪霊払いの奇跡を求めて殺到してきた群衆。<安住できる場所もない>といった主旨の言葉ならば、他にマタイ8:20「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」がある。
21節
身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
Καὶ ἀκούσαντες οἱ παρ' αὐτοῦ ἐξῆλθον κρατῆσαι αὐτόν· ἔλεγον γὰρ ὅτι ἐξέστη.
「身内の人たち」:「身内」はイエスの家族とされる。イエスの風評を耳した身内が、イエスの活動をやめさせ、故郷のナザレに連れ戻すためにやって来た。節の後半はその理由が述べられている。
「あの男は気が変になっている」:文法上、「気が変に」と言っている主語(3人称複数形)が特定されていないため、これがイエスの身内なのか、それとも第三者であるのかが定かではない。新共同訳は、後者と解釈して訳出している。いずれにせよ、「身内」はイエスを取り押さえるという行動に出ているのだから、彼らも少なからずそう考えていたと読むのが自然である。
神の働きを為すにあたって、しばしば聖書の中で述べられていることは、周囲がそれを理解してくれるとは全く限らないということ。社会、あるいは家族でさえ、同意を得られずに反対されることがあることを肝に銘じておく必要がある。
22節
エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
Καὶ οἱ γραμματεῖς οἱ ἀπὸ Ἱεροσολύμων καταβάντες ἔλεγον ὅτι Βεελζεβοὺλ ἔχει, καὶ ὅτι ἐν τῷ ἄρχοντι τῶν δαιμονίων ἐκβάλλει τὰ δαιμόνια.
ベルゼブル:Beelzebul(英)。新約聖書において悪魔を指す呼称。他にはサタン、ベリアルなど。「悪霊の頭」とされている(参照、マタイ12:24)。元々はペリシテ人の都市神「バアル・ゼブル」(Baal‐Zebul、崇高なバアル、の意。ヘブライ語では、これを蔑称に転移させ、「バアル・ゼブブ」(Baal‐Zebub、蠅のバアル)とされている(列王記下1章)。なお、メソポタミアの主要都市の神の名として、例えばマルドゥク(バビロン)、イシュタル(ニネベ)などが挙げられる。
イエスは、人々に取り憑いたり病気にさせたりする悪霊の悪霊払いを行っていた。イエスに批判的な人たちは、それを神の力による奇跡と見なすことが腹立たしく、代わりに「悪霊の頭」として悪霊払いを行っているいるのだとこじつけて考えた。つまり、イエスが神の権威をもって悪霊払いをしていることを認めたくなかったのである。なぜなら、もしイエスのしていることが神の権威によるものだとするならば、彼を認めようとしない彼らは、なぜ神の意志に逆らうのかと落ち度を責められることになるからである。
23-25節
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。」
Καὶ προσκαλεσάμενος αὐτοὺς ἐν παραβολαῖς ἔλεγεν αὐτοῖς· Πῶς δύναται Σατανᾶς Σατανᾶν ἐκβάλλειν; Καὶ ἐὰν βασιλεία ἐφ' ἑαυτὴν μερισθῇ, οὐ δύναται σταθῆναι ἡ βασιλεία ἐκείνη.
我々の社会において、自分の本音は隠しつつも、表面上は正論を掲げて批判する場面に出会うことがある。イエスはここで彼らの裏の心を悟っていて、形ばかりの言い分、その矛盾を明らかにしている。悪魔が悪魔を払っていて、悪魔の世界が成り立つのか。国が内部で「争って」(原文ではμερίζω、分ける、分裂させる)、国が成り立つのか、という比喩をイエスは挙げている。
26節
同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
Καὶ εἰ ὁ Σατανᾶς ἀνέστη ἐφ' ἑαυτὸν καὶ μεμέρισται, οὐ δύναται σταθῆναι, ἀλλὰ τέλος ἔχει.
要するに、サタンの頭が手下のサタンを追い出しているなどといった理屈は筋が通らないもので、自己矛盾した論理である、とイエスは宣言している。
27節
また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
Ἀλλ' οὐ δύναται οὐδεὶς εἰς τὴν οἰκίαν τοῦ ἰσχυροῦ εἰσελθὼν τὰ σκεύη αὐτοῦ διαρπάσαι, ἐὰν μὴ πρῶτον τὸν ἰσχυρὸν δήσῃ, καὶ τότε τὴν οἰκίαν αὐτοῦ διαρπάσει.
押入り強盗の常套手口は、まずは強い人を縛り上げること。ここで「強い人」とは、悪霊すらも支配する立場にあるサタンを指していて、そのサタンの力を封じるのでなければ、そもそも悪霊払いなどできない、ということ。逆に言えば、イエスが悪霊の頭とも言えるサタンでさえも封じているというのであれば、それは神の権威の他にはなく、つまり、イエスは神の権威をその身に帯びているのだ、ということが暗に主張されている。「悪霊の頭の力だ」という批判を逆手にとって、イエスが神の権威を持つ方であることを物語るものであるという、真逆の主張を打ち返しているところに、天才的な論理転換が認められる。
28節
はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。
Ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι πάντα ἀφεθήσεται τοῖς υἱοῖς τῶν ἀνθρώπων τὰ ἁμαρτήματα καὶ αἱ βλασφημίαι ὅσα ἐὰν βλασφημήσωσιν·
「はっきり言っておく」:原文直訳では、「アーメン、私はあなたがたに言う」
「人の子」:この文脈では、一般的な人たちを指す。
人間が犯す罪も、赦されざる神への冒涜の言葉すらも、実は全て赦されるという、神の赦しの無限の広さが宣言されている。しかし次節で、その例外が述べられる。
29-30節
しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。イエスがこう言われたのは、彼らが「イエスは汚れた霊に取りつかれている」と言っていたからである。
ὃς δ' ἂν βλασφημήσῃ εἰς τὸ Πνεῦμα τὸ Ἅγιον, οὐκ ἔχει ἄφεσιν εἰς τὸν αἰῶνα, ἀλλὰ ἔνοχός ἐστιν αἰωνίου ἁμαρτήματος· ὅτι ἔλεγον· Πνεῦμα ἀκάθαρτον ἔχει.
解釈上の問題を幾つも抱える難読箇所。
「聖霊」:キリスト教の教義上では、父なる神、子なる神キリストと共に、聖霊なる神として、三位一体の神を構成する神。マルコでの用例は他に、1:8「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」、12:36「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている」、13:11「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊」その他、聖霊を指して“霊”と書かれている箇所として、1:10, 12(イエスの洗礼の場面と、荒れ野の誘惑の記事)。これら用例にも表されているように、聖霊は個々人に宿り、言葉や意志与えてその人を動かすもの。つまり、人の内面にこそ働くもの。
「聖霊を冒涜する者」:聖霊の働きを否定する者。この文脈では、聖霊の働きを悪霊の力であると揶揄する者たちを指す。
解釈の一つは、この節の文言を普遍化せず、あくまでこの場でイエスを揶揄した人たちに対して、重大な警告を与えたものと解すること。他方、これを普遍的な言葉として捉え、罪の赦しを拒絶し続ける者や、神の教えを曲解する者を指すとする解釈もある。
説教のための黙想
この箇所において、イエスを取り巻く人々は、まことの神の働きを自分の目で目にしながらも、理解や信仰へと至ることができませんでした。身内の者しかり、イエスに対する批判者たちしかり。目で見たら信じるという、簡単な話ではないのです。自分の心を開くことが大切です。以上の双方は、心を閉ざしていました。それで、見ながらも
理解できませんでした。
しかしイエスは、批判者たちの揶揄の批判を通して、かえって逆に神の力の真実を明らかにされました。
サタンがサタンを追い出すことはありえず、悪の力を退けることのできる方は、ただ神の権威によってのみです。
イエスのうちに働いていたのは、悪霊の力ではなく、聖霊の力でした。その聖霊の力が、私たちにも授けられます。それによって、神への信仰や求める心が生まれ、わからないところから理解へと至ります。だからこそ、イエスを否定するとは、神ご自身の働きを否定することにほかなりません
聖霊を冒涜するとは、神の恵みと真理を自ら拒み、赦しの道を閉ざすことなのです。聖霊のささやきを疑うことなく、その導きに耳を傾け、神の力を信じて歩みましょう。
祈りの言葉(祈祷)
恵みとまことに満ちた主なる神よ。
御子イエス・キリストを通して、私たちの中に聖霊を送り、真理と命の光を与えてくださることを感謝いたします。
主よ、私たちはしばしば、あなたの働きを理解できず、自分の思いによって、あなたの御業を疑います。どうか聖霊の力によって私たちの心の目を開き、あなたを正しく見分ける信仰と謙遜をお与えください。聖霊の声を拒まず、あなたの導きに従う者でいられますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン。
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