2025年10月9日木曜日

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第6回「エルサレム入城」

 「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第6回「エルサレム入城」

(『信徒の友』2018年7月号所収)


 今回取り上げている福音書の場面は、イエスのエルサレム入城の際に多くの人々が迎え出て歓呼の声を上げたという出来事です。四つの福音書すべてにおいて記されている共通のエピソードの数は限られていますが、今回の記事はそうした数少ない中の1つです(マタイ21・1-11、マルコ11・1-11、ルカ19・28-40、ヨハネ12・12-19)。また、今日の教会では、復活祭の1週前、エルサレム入城の出来事を記念する礼拝が行われるのが通例です(多くのプロテスタント教会では「棕櫚の主日」、教派によって「枝の主日」「受難の主日」「聖枝祭」と呼ばれています)。


 ガリラヤからついにエルサレムへ

 ガリラヤを中心に、時には周辺の異邦人世界にまで足を延ばして活動されたイエスと弟子たちは、ついに十字架と復活の場所となるエルサレム入りを果たします。互いに共通している点が多いために”共観福音書”と呼ばれているマタイ、マルコ、ルカにおいては、イエスの活動はガリラヤから始まってエルサレムに至るという流れになっていて、エルサレム入りする回数は1回限りです。ところがヨハネにおいては、イエスがエルサレムに上って行ったことが3回記されています(ヨハネ2・13、5・1、11・55)。多くの研究者は、イエスは実際には数回に渡ってエルサレムへと赴いたであろうと考え、ヨハネの記述の方が史実を反映していると見なしています。マタイとルカはマルコを参考にしてそれぞれ自分の福音書を執筆したというのが定説ですから、ガリラヤからエルサレムへの1回限りの旅程はマルコに由来するということになりますが、その動機については様々に議論されています。筆者自身は、エルサレムへと至る道、すなわち受難死へと繋がる道をイエスが決意をもって歩んでいったことを劇的に描き出すために、マルコがそのような物語構成にしたのではないかと考えています。


 真の王として即位したイエス

 物語の進行順に従って見ていくと、まず、マタイ、マルコ、ルカが、「オリーブ山」のふもとにある「ベトファゲとベタニア」に一行が差し掛かった時のことを述べています(マタイ21・1-6、マルコ11・1-6、ルカ19・28-34)。その後の展開である「子ロバ」のエピソードに目が行きがちですが、オリーブ山からエルサレムへと近づいていく行程は重要です。その理由は、旧約時代、エルサレムで即位する新王は、オリーブ山からキドロンの谷を下ってギホンの泉で王となる油注ぎを受けて、そこからまた上ってエルサレムへ入っていったからです(参照、列王記上1・28-40)。

 エルサレム入城には、かつてのダビデを想起させるような戦勝後の凱旋をイメージすることが多いでしょうし、実際、このエピソードはエルサレムへの勝利の入城とも呼び習わされています。これと共に、この物語のルーツとして考えられるもう一つの主題が、王の即位です。イエスは即位した王としてエルサレム入りを果たされたということが、エルサレム入城の物語に被せられていると思われます。


 「子ろば」の意味

 マタイ、マルコ、ルカは一致して、「二人の弟子」がイエスによって派遣され、「ろば」を連れて来るよう命じられたことを記しています。「子ろば」についても一致しており、ゼカリヤ書9・9の記述が意識されています。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」


 「子ろば」には預言の成就も意図されていますが、やって来る新しき「王」が「高ぶる」ことのない柔和な方であることも暗示されています。他方、マルコとルカには「だれも乗ったことのない(子ろば)」、「なぜ、そんなことをするのか」(マルコ)、「なぜほどくのか」(ルカ)等の言葉が含まれていますが、自分が主張したい以外の事は物語からカットする傾向のあるマタイでは省かれ、その代わりに、マルコとルカが書いていない預言の言葉を明記しています(ヨハネ12・15でも引用されています)。

「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」(マタイ21・4)

この言葉は基本的には先ほどのゼカリヤ書9・9の引用ですが、イザヤ62・11等と混合されて内容が改変されています。さらにマタイは、ゼカリヤ書の引用に符合するように、「雌ろば」を登場させています(マタイ21・7)。こうした旧約聖書における預言との一致を強調する点は、マタイに見られる顕著な特徴です。

 また、「荷を負うろばの子」という表現に、勇壮な軍馬が象徴する戦いや勝利ではなく、平和のイメージを感じ取ることが出来ます。戦いでの勝利の凱旋と聞くと、凱旋門を思い起こすのではないでしょうか。著名な凱旋門の1つ、パリのエトワール凱旋門は、ナポレオン・ボナパルトの命により建築されましたが、彼が生きてその門をくぐることはありませんでした。それが実現したのは、彼の死後、パリに移葬された時でした。ナポレオンとは対照的に、イエスは勇猛と勝利に代えて、平和を実現する柔和な王であることが示されています。

 エルサレム入城の際、イエスを迎えた多くの人々が採った行動は、各福音書で小さな相違はあるものの、概ね一致しています。すなわち、「自分の服を道に敷き」(マタイ、マルコ、ルカ)、「枝を切って道に敷き」(マタイ、マルコ)、人々は「ダビデの子にホサナ」(マタイ)、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」(マルコ)と叫びました。人々が棕櫚の葉を振っているイメージは、ヨハネ12・13における「なつめやしの枝を持って迎えに出た」という言葉に由来しています。


 ヨハネとルカの独自部分

 ヨハネの後半部分では、後に弟子たちがエルサレム入城をゼカリヤ書9・9の預言の成就として悟ったという事後談が付記され、群衆が参集した理由がラザロの甦りと結び付けられて説明されています(ヨハネ12・16-19)。この箇所には、「栄光」「しるし」「証し」というヨハネに特徴的な用語が含まれています。同時に、この箇所には、「栄光」 「証し」「しるし」というヨハネに特徴的な用語が含まれています。ヨハネ福音書の読者に復活の出来事を改めて想起させることで、イエスが復活の力を持つ、神と等しい方として入城を果たしたことを「証し」しているのでしょう。

 ルカにのみ見られる記述が、「お弟子たちを叱ってください」というファリサイ派からの要求に対してイエスが返答した「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」という言葉と(ルカ19・39-40)、エルサレム神殿崩壊預言です(ルカ19・41-44)。前者は、主を褒めたたえる声を誰も封じることはできないということです。後者は、紀元70年、ローマ軍によってエルサレムが破壊された出来事を指しています。当時、イエスを王として迎えて歓喜に沸いた美しき都エルサレムが、40年後には破壊の限りを尽くされたことを思うたびに、運命の悲哀を感じてやみません。


 絵画紹介

 今回紹介する一枚は、19世紀のフランスの画家ジャン=イッポリ・フランドラン(1809ー64)による『エルサレム入城』(1842年)です。彼はフランスの新古典主義の継承者であるジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの弟子で、彼自身も新古典主義の道を踏襲しています。フランドリンは肖像画や宗教画を多く手掛け、アングルが裸婦像を多く描いたのとは対照的に、男性の裸体画を好む傾向があります。

 『エルサレム入城』を一見して驚くのは、とても19世紀の絵画とは思えないことです。平面的な構図とフレスコ画のような配色、そして真横からのイエスの描画が特徴的で、まるでゴシック時代の絵画を見ているかのようです。“新古典主義”の彼はルネサンスやバロック風の宗教画も描いているので、ゴシック画を意識していることは明らかで、また、イエスの真横からのアングルは、彼の手による男性の裸体画や肖像画にも見られる手法です。静謐で一見単調な絵の中には、ひざまづく者、手を合わせて祈りの姿勢を取る者、乳児を高く挙げる者といった歓迎する人々が画面の右側に展開している一方で、左側のやや暗い空間は、いぶかしげな表情で隣の人に意思表示する者や硬い表情を浮かべている人等、歓迎ムードとは程遠い様相を呈しています。これぞまさに、イエスを囲む人々の“群像”と言えます。


『エルサレム入城』1842年 ヒポリット・フランドリン Entry into Jerusalem, Hippolyte Flandrin

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