2025年10月9日木曜日

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第4回「五千人の供食」

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第4回「五千人の供食」

(『信徒の友』2018年7月号所収)


 はじめに

 今回の場面は、主イエスを通して備えられたパンによって、数千人が恵みに満ち足りたという供食の奇跡物語です。ここで描き出されている“群像”は、この大いなる出来事を目撃した弟子たち、群衆、そして、ヨハネ福音書だけが記している「五つのパンと二匹の魚を持つ少年」です。四福音書のすべてが書き留めているエピソードは大変限られているのですが、これはその一つです(マタイ14・13-21、マルコ6・30-44、ルカ9・10-17、ヨハネ6・1-14)。


 定説では、マルコ福音書が一番先に書かれ、マタイとルカはマルコを参考にして自分たちの福音書を執筆したとされています。マルコは一行が船に乗ってやって来た場所を「人里離れた所」と記し(マルコ6・32)、マタイもそれを踏襲して「(イエスは)人里離れた所に退かれた」と述べています(マタイ14・13)。マルコとマタイが書き留めた「人里離れた所」と訳されている語はとても滋味豊かな苦みのある言葉で、元の原語は「荒れ野」です。そう、かつてモーセが神からの召命を受けた場所であり(出エジプト記3・1)、モーセに率いられたイスラエルの民が神から与えられたマナを口に含んだ地であり(出エジプト記16・1)、主イエスの到来を叫ぶ洗礼者ヨハネの声が響き渡った所、それが「荒れ野」に他なりません。荒れ野は人が生きることを拒む場所ですが、同時に、神がご自身と恵みを示される聖なる所でもあります。

 今、読者の皆さんが立たされている場所は、人生の「荒れ野」であるかも知れません。それが、生きる力を根こそぎ奪い取るものであることに変わりはありませんが、しかし、その荒れ野こそはまた、神からのマナ、そして、キリストからのパンと魚を味わい知る所に他ならないと、聖書はあなたにささやいています。

 殺到する群衆としばし距離を取るために「退いた」と明記しているのがマタイとルカです。そんな一行を群衆がなおも追ってきた事実について、四福音書は口をそろえて証言しています。殺到する群衆は確かに危険な凶器とさえなり得ますが、我が身を振り返るならば、助けを一途に求めるゆえの彼らの必死な行動を責めることはできません。ヨハネはそうした事情について「イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」と説明しています(ヨハネ6・2)。

 渇き切った大地にうるおいをもたらす清水のような一言を、マルコとマタイが書き残しています。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を“深く憐れみ”、いろいろと教え始められた」(マルコ6・34)。「深く憐れみ」と訳されている語は、我が身をふるわすような激情の湧きいずる場所と考えられていた内臓に由来します。五臓六腑で感じるほどの「飼い主のいない羊」に対する愛情のほとばしりは、今回の大いなる奇跡の源泉にほかなりません。実に神の愛は、不可能を可能にします。


 状況を冷静に見ていた弟子たちはイエスに、群衆が各自で食料を調達できるよう彼らをすぐに解散させることを提案します。ところがイエスは、何のためらいもなく弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物(原語では「パン」)を与えなさい」と言い放ちました(マタイ14・16、マルコ6・37、ルカ9・13)。弟子たちは人の世界を見ていましたが、イエスは神の世界を見ていたのです。マタイだけが述べている「行かせることはない(直訳では、「彼らが立ち去る必要はない」)」というイエスの片言隻句には、身も心もしびれてしまいます。信仰が現実の壁を跳躍していくような突き抜けた世界が示されているからです。

  これと対照的なのが、なお目に見える現実に縛られ続ける弟子たちの言葉です。「わたしたちには、パン五つと、魚二匹しかありません」(ルカ9・13)。私たちの普段の営みの中で、これと同じ次元の言葉を、いったい何千回唱えていることでしょうか。確かに、「男が五千人」(マルコ6・44)とあっては、そんなものなど「何の役にも」(ヨハネ6・9)立ちません。けれども、イエスはわずかなパンを手にしつつ「天を仰いで」「賛美の祈り」(マタイ、マルコ、ルカ)または「感謝の祈り」(ヨハネ)をささげました。ここでも、イエスの眼差しは天という神の世界に注がれています。

 四福音書間で細かい記述の違いはあるものの、「パン屑」が最初にあったパンの量よりも遙かに多くなっていること、しかも「十二の籠(十二使徒の「十二」と合致)」という点で一致しています。加えて、パンと魚がどのようにして増えたのかについても、四福音書は口を閉ざしています。なぜ何も語らないのでしょう。誰もが抱くこの不可思議について、一言だけ述べておきます。パンに象徴される“必要”が満たされる方法は色々あります。方法が奇跡的かどうかは大した問題ではありません。何であれ必要が満たされたという事実と、そのことを感謝することこそ肝要です。


 供食の奇跡が二つあるマタイとマルコ

 マタイとマルコには、この供食の奇跡物語とよく似た記事がもう一つ書かれています(マタイ15・32-39、マルコ8・1-10)。前者の「五千人の供食」に対して、後者は「四千人の供食」と呼ばれることもあります(ただし、これらの数字は男性だけの数ですので適切な言い方ではありません)。マルコを参考にして書いたマタイは、それほど気にすることなくマルコが書いている通りを踏襲したように見えます。一方、ルカはマルコにおける2回の供食を不要と思ったのか、1回に省略しています。何よりマルコの個性が際立っていて、8・1の「また」という言葉添えの他(「また」同じ状況なのに弟子たちは同じ失敗を繰り返す)、詳述は紙幅の関係でできませんが、弟子たちが何度奇跡を目の当たりにしても、いくらイエスから特別な教えを受けても、少しも向上のきざしさえ見られないという、弟子の無理解があらわにされています。その意図については無数の学説が出されていて未だ決着はついていません。ただ言えることは、人知を越える大きな奇跡を見たところで信仰の足しには必ずしもならない、ということです。海が割れるところやマナの奇跡を体験したイスラエルの民もそうでした。よって、信仰的な体験がないことを恥じる必要なまったくありません。恥じるべきは、信じて一歩を踏み出すことをためらうことです。


 ヨハネ福音書における少年の存在

 ヨハネの方に含まれているたった1節の言葉が、このパンと魚の奇跡を不動の物語として確立させたと言っても過言ではありません。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、何の役に立たないでしょう」(ヨハネ6・9)。アンデレに「役に立たない」とバッサリ評されながらも、恐らくは持てるものすべてをイエスに差し出した少年の行動。後代のキリスト者たちは、この小さき少年の決意に、信仰者として踏み出すべき無限に大きな一歩を見て取りました。自分がどれだけ持っているかというメンツなど捨ててしまいましょう。大切なことは、持っているものをすべて、主なる神にささげられるかどうかです。


 ー 絵画紹介 ー

 今回ご紹介する絵画は、ティツィアーノやヴェロネーゼと共にヴェネチア派を代表するイタリアの画家ティントレットの『パンと魚の奇跡』(1545-50年)です。供食の奇跡物語を題材とした絵画は、聖母子像やキリストの十字架、あるいは聖人たちを主題としたものと比べると、かなり数は限られています。しかし、例えばイエスが行った種々の癒しの奇跡物語やカナの婚礼などといった福音書でお馴染みのエピソードの一つとして描かれることは、古代教会時代からたびたびありました。例として、イタリアのラヴェンナにあるサンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂にあるモザイク画(6世紀後半)や中世時代の修道院の壁画、近代では、ルネサンス期のオランダの画家ランバート・ロンバード、そして、彼の孫弟子であるブルーマールトの作品を挙げることができます。

 ティントレットは、少なくとも1545-50年と1580年頃に、同じ主題で二枚描いています。いずれの絵にも、パンと魚をイエスにささげた少年の姿が描き込まれています。現実に捕らわれてイエスに抗弁する弟子の姿も見られます。これらがどんなメッセージを持っているか、改めてここで語るまでもないでしょう。

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