2024年11月28日木曜日

マタイによる福音書 13章44-50節「天の国のたとえ」

教会学校教案 2012年9月16日分

マタイによる福音書 13章44-50節「天の国のたとえ」


 概要

 前回の「概要」にて述べた通り、マタイ13・1-52には、「天の国(=神の国)」に関わる八つの譬えが収められています。全体はおおむね「天の国」に何らかの形で関わるものですが、今回の三つの譬えは、「天の国は次のようにたとえられる」(44、45、47節)という文言の通り、より直接「天の国」に関わる譬えと見なされます。「畑の中の宝の譬え」(44節)と「高価な真珠の譬え」(45-46節)は、双方セットで同一の主題、すなわち、天の国の価値の大きさ、および、それを知る人たちが一切を支払ってでも躊躇なく天の国を得ようと求める情熱について語られています。便宜上、ここでは「畑の中の宝の譬え」と記していますが、より正確には「畑の中の宝を全力で入手する人の譬え」「高価な真珠を全力で入手する商人の譬え」と表現できます。もちろん、天の国を象徴する宝ないし真珠が持つ高い価値もその前提とされています。「網と魚の譬え」(47-50節)は、終末において「正しい人々」と「悪い者ども」が選び分かたれるという審判に関する言葉です。テーマとしては、終末時の審判と、その時までキリスト者が堅持すべき忍耐の必要を説く24-30節における「毒麦の譬え」と部分的に共通しています。47-48節が譬え本体、49-50節が譬えの解説部となっています。以上のように、前半二つと後半一つの譬えは、それぞれ「天の国」の譬えとして語られながらもテーマが異なりますから、説教の中で上手に仕切り直し等をして語りつつ、先週から続いた一連の譬え話を締めくくる形で全体を組み立てると良いでしょう。


 解説

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(44節)

 ある土地に宝を見つけた人がその土地ごと買い取って金持ちになるといった類の話は、広く周辺の諸文化に幾つも見られるストーリーです。恐らく、実際には滅多にないけれども、よく聞く類の話として知られた逸話を、主は譬えとして用いられたのでしょう。ここでは、「見つけた人」が地主から土地を借りて農業を営む小作人であるかといった細かい設定は明記されていません。また、こうした事例で入手した拾得物が法的に妥当なのかどうかについても、それぞれの文化で異なりますし、聖書もこの点に注意を払ってはいません。「落とし物をこうした仕方で手に入れることは、法的、道徳的にいかがなものか」といった趣旨の質問が子どもたちから出てくるかも知れませんので、一言「日本とは違う場所のお話で、あくまで譬え話ですから」と説明できる用意をしておいて下さい。補足として、「畑」を世界、「人」をキリスト、「宝」をキリスト者を表すとして、この譬え全体を、失われた魂を求めるキリストの愛を指し示す等と解釈する諸説もありますが、前回同様、今回もこうした「寓意的解釈」は採っていません。


「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(45-46節)

 「商人」とは輸入品を扱う商売人のこと。当時、「真珠」は主にエジプトからもたらされ、高い価値を持つ物を象徴する語としても頻繁に使われていました。律法、知恵などもよく「真珠」に例えられました(箴言3:15。参考、マタイ7:16「真珠を豚に投げてはならない」)。最初の「畑の中の宝の譬え」と共通している点は、「高価な真珠」のために持ち物をすべて売り払って、それを買い取ること、そして、それを達成しようとする人間のあくなき情熱です。「天の国」を見出した人もまた、同様に大いなる喜びと熱心さをもって、たとえ全てに代えてでもそれを受けたいと願うことが、譬えによって鮮やかに示されているのです。


「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。」(47節)

 上述のように、この節から天の国に関わる新たな主題の譬えが始まります。「湖に投げ降ろされ」る「網」は、地引き網漁を意味します。


「人々は岸に引き上げ・・・・・・良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。」(48節)

 「良いもの」は食用、「悪いもの」は食用にはならない魚。湖の中では混在していた魚を選り分ける場面が、次節以降の「世の終わり」の「審判」へと繋がっていきます。


「世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け・・・・・・悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(49-50節)

 「泣きわめいて歯ぎしり」は、審判の際に人が嘆く様(参照、8:12)。現在は、良き物も悪い物も混在した状況です。「なぜ許されざる悪がこの世に存在するのか」「なぜこのような悲惨な出来事が起きるのか」と、皆様自身もしばしば自問自答し、思い悩むことも多いでしょう。現在における善と悪の混合状態と、将来の終末における選びを物語るこの譬えは、そうした問いに答えるもので、先の「毒麦の譬え」も同様のニュアンスを持ちます。


 信頼をもって待ちましょう。世の終わりを。そして、もう思い切って楽しんで求めていきましょう! 

茨木春日丘教会 大石健一


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