2025年5月21日水曜日

「猫にもわかる『四福音書』」第2回 イエスの洗礼

(元ネタ原稿 『信徒の友』2018年5月号所収<主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像>第2回「イエスの洗礼に立ち会った人たち」


 序

 イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことについては、読者の皆様もよくご存知のことと思います。しかし、よくよく考えてみると、ヨハネが授けていた洗礼とは「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」ですから(マルコ1・4)、一体なぜ、罪の赦しを与えるイエスが彼から洗礼を受ける必要があったのか、その理由がわからなくなってしまいます。これは、福音書最大のミステリーのひとつです。そこで今回は、イエスが洗礼をお受けになった箇所を見ていきます。また、ちょうどペンテコステの時期にも近いですので、これと併せて、イエスの上に聖霊が降った箇所も読みたいと思います。


 イエスの洗礼の事実報告をしないヨハネ福音書

 イエスの洗礼に関連する記事は、四福音書すべてにおいて掲載されています。ただし、いずれの福音書の記事にも個性があり、それぞれに独特の音色の響きがあります。まず、マタイ(3:13-17)、マルコ(1:9-11)、ルカ(3:21-22)の三者は、イエスがヨハネから洗礼を受けられた事実を報告している点で一致しています。ところが、ヨハネ福音書だけはこの事実について触れていないのです。否定まではしていませんが、イエスの姿を目にした洗礼者ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)と語り、その後、ヨハネ福音書は彼の「証」を綴り、洗礼の事実に触れぬままに記事を結んでいます。その代わりに、神の小羊となって贖罪の業を成し遂げたイエスを「神の子」と証言する洗礼者ヨハネの“証”を、ヨハネ福音書は強調しています。


 イエスがヨハネから洗礼を受けたというミステリー

 イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった事実について、マルコは直裁に「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(1:9)と記しています。一方、ルカは「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」(3:21)と書いており、しっかりと事実を書き留めるというよりは、民衆が洗礼を受けたという報告に繋げてしまうことで、軽く流していくような筆致となっています。なぜでしょうか。

 冒頭で述べたように、罪の赦しを与えるイエスが、どうして「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」(ルカ3:3)を授けていたヨハネから洗礼を受けなければならなかったのかという大問題と絡んでいます。加えて、普通に考えれば洗礼を授ける人の方が授けられる人よりも上の立場にあって当然ですが、これも反転してしまっています。そうです。イエスの洗礼は、実は解きがたい大いなる矛盾を孕むミステリーなのです。

 書き手とすれば、こういう箇所は書き飛ばしてしまいたいところですが、恐らくイエスの洗礼は確固たる事実として周知されていたために、ルカはそうすることができなかったと推測されます。かといって、ルカとしては初心の福音書読者をむやみに混乱させたくはなかったと思われます。そこで、上記のような流し書きをしたのだと私は見ています。

 ちなみに、イエスが洗礼を授けたという報告は、ヨハネ福音書だけにしか見られません(3:26「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」)。イエスが洗礼を授けたというのなら文句なしに自然だというのに、逆に洗礼を受けられたとは、謎は深まるばかりです。


 マタイが読み解くイエスの洗礼のミステリー

 このミステリーの解決に、果敢に挑戦したのがマタイです。マタイ3:14-15は、マタイ福音書にしか見られない独自の記述となっています。


「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」


 こうしたやり取りが史実通りなのかどうかという問題はさておき、このマタイの解釈は皆さんにとっていかがでしょうか。「正しいこと」、すなわち、“神の意志”に服従することをイエスは願い、大いなる矛盾の中に我が身を置いたのだと理解することができます。さらには、イエスのこの決意は、罪を赦す方が罪の裁きを我が身に負うという、いわば“贖罪のパラドックス”を指し示しているかのようです。


 それにしても、思いとどまらせようとしたヨハネの行動は、私たち読み手の側の動揺を代弁しているかのようです。予想外の出来事が神のご計画の中で起こった時、「主よ、どうしてですか?」と問いたくなる時があるでしょう。そう考えると、イエスがヨハネに返した「今は、止めないでほしい。・・・我々にふさわしいことです」という回答は、にわかには受け容れがたい神の意志が示された時、動揺する私たちに向かってイエスから語られている言葉として受け止めることができます。しかもこの時、イエスはヨハネに対して服従を求めている立場ではありますが、同時に、ご自身もまた父なる神の意志に従順であろうとしています。つまりイエスは、“共に”神の意志に従おうではないかとヨハネに促し、そして私たちにもまた、同じくびきを“共に”担おうではないかと声をお掛けになっているのです。イエスの姿に倣って、私たちもまた、あえて身を低くしようではありませんか。あえて損を取り、あえて矛盾のただ中に飛び込もうではありませんか。神のために、そして、隣人のために。


 聖霊が鳩のようにイエスに降る

 イエスの洗礼後、マルコの場合は天が「裂け」(1:10)、マタイとルカの場合は「開いて」(マタイ3:16、ルカ3:21)、聖霊がイエスの上に降ってきたと述べています(霊の降りはヨハネ福音書も触れています。1:33)。また、聖霊の表記は各福音書ごとに異なりますが、「鳩のように」という形容と、「わたしの愛する子」という天からの声は、マタイ、マルコ、ルカで綺麗に一致しています。ただし、ルカは「鳩のように目に見える姿で」と書くことで、それが降りてくる様子のことなのか、それとも聖霊の形がそうであったのか、曖昧な点を明瞭な形に書き直しています。

 天から響く父なる神の声、降りてくる聖霊、そしてイエス。ここには、一つの場面に三位一体の神である父・子・聖霊が同時に現れる、福音書屈指の美しき情景が広がっています。この様子を誰が見たのでしょうか。洗礼者ヨハネは間違いなくその一人です(参照、ヨハネ1:34)。では、群衆についてはどうでしょう。明記はされていませんが、ルカの書き方のように、民衆がこぞって洗礼を受けていく中、イエスはそこに混じるようにして洗礼を受けられたことを考慮すれば、多くの人々がこの世界で最も麗しい光景を目にしたと考えることができます。現に、画家たちの多くは、その場面に立ち会った人々を絵の中に描き込んでいます。その場に居合わせた群衆の中に私たちも立ち、イエスの洗礼と聖霊降りに立ち会うかのような心持ちで、この出来事を改めて受け止めて頂ければ幸いです。


 絵画紹介

 イエスの洗礼を題材とした絵画は数多くあります。例えば、イタリアのルネサンス期の画家でティツィアーノに師事し、官能的な画風を特徴としたパリス・ボルドーネの作品は、イエスと洗礼者ヨハネの筋肉美が目映いばかりです。最も一般に知られている作品は、ルネサンス時代のイタリアの彫刻家であり画家でもあったヴェロッキオのものです(ダ・ヴィンチとの共作)。イエスに洗礼を授けるという畏れ多きことに、厳粛な気持ちでのぞむヨハネの精悍な面持ちと、謙って使命に服するイエスの表情の対比が際立つ絵です。

 今回ご紹介する絵画は、このヴェロッキオの手ほどきを受けたウンブリア派の画家ペルジーノの作品「キリストの洗礼」です。誇張を避けて単純化された群衆の人物表現と、ダイナミックな風景の描写には、ペルジーノらしさがきらめいています。この絵の特徴は、今触れた通り、洗礼を受けに来た無数の人々の姿が描き込まれていることです。イエスの洗礼の目撃者ともなったという設定も兼ねています。群衆をよく見ると、いぶかしげな表情をしているファリサイ派的な人も紛れ込んでいます。また、風景の後方に、イエスとヨハネが説教している場面が左右対称で描かれているように見えますが、だとすればこれは異時同図法と呼ばれる手法で、一つの絵の中に場所や時間が異なる別の場面を差し入れるものです。その他、洗礼方法は浸礼ではなく滴礼・灌水礼です。これは、中世以降の洗礼方法を反映していると考えられます。本文の結びと繋がることですが、画家たちの多くは、自分たちが生きた時代の日常を絵の中に盛り込むことで、まるでそこに居合わせているかのような臨場感を醸し出したのです。

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