2023年8月22日火曜日

2013年7月21日 創世記42-45章「ヨセフ3」

2013年7月21日 創世記42-45章「ヨセフ3」 


 今回は「ヨセフ」の3回目で、シリーズの最終回となります。これまでの2回、イスラエルの父祖ヤコブの子として生まれたヨセフが兄たちの恨みを買ったためにエジプトに奴隷として売られてしまったものの、不思議な導きの連続でエジプトの国政を司(つかさど)る大臣にまでなったところまでを読んできました。


 一.ヨセフと兄弟たちとの再会

 エジプトではその後、ヨセフによる夢の謎解き通り7年の豊作の時を迎え、彼はその間に穀物の備蓄政策を推し進めます。これにより、その後の七年に及ぶ飢饉の時を余裕を持って迎えることができ、周辺諸国はエジプトに食料の援助を求めました。父ヤコブと兄弟たちが住む地も例外ではなく、兄弟たちはエジプトまで食料の買い付けにやって来ます(42:2)。そして、そこで思いがけなくヨセフと兄弟たちとは再会を果たすのです(42:6-7)。「ヨセフは一目で兄たちだと気づいた」ものの、敢えて「そしらぬ振りをして厳しい口調で」、兄弟たちの素性を問いただします(42:7)。父ヤコブは最愛の子ベニヤミンを失うまいと、彼を兄弟たちと同行させませんでした(42:4)。そのことを察したヨセフは、兄弟たちに誘導尋問をかけ、彼らを追い込みます。そして、彼らに末弟ベニヤミンを連れてくるように命じるのです(42:15)。そうして、シメオンが人質となってエジプトに残り、他の兄弟たちは食料を携(たずさ)えてヤコブのもとに帰ります。兄弟たちはヨセフのことを忘れておらず、このように語り合います。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」(42:21)。この時、ヨセフにあふれた感情は怒りでも恨みでもなく、悲しみと懐かしさでした(42:24)。カナンに戻った兄弟たちは父ヤコブに事の一部始終を報告しますが、ベニヤミンを失いたくないあまり、彼をなかなかエジプトへ送ろうとはしません。しかし、収まらぬ飢饉の前に、やっとのことでヤコブは贈り物と共にベニヤミンを送り出します(43:13)。


 二.ベニヤミンとの再会

 そうして、ついにヨセフはベニヤミンと向かい合うことになりますが、会うなり彼の胸に熱いものがこみ上げ、密かに彼は号泣します(43:30)。この場面に限らず、ヨセフはよく涙を流す人物でもあります。ここでヨセフは、かつて自分を死の淵に追いやった兄弟たちを試したい欲求を抑えることができなかったのでしょう。彼はベニヤミンが持ち帰る袋に「杯」を仕込み、それを後から家来に見つけさせ、兄弟たちがどのような行動に出るかを試みます。するとユダはヨセフに、このように申し出ました。「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(44:33)。自己犠牲をいとわないこの行動に、ヨセフはもはや自身の感情を抑えきれず、ついに兄弟たちに身を明かすのです(45:3)。


 三.真の再会、赦しと和解、そして涙

 ヨセフは、まれに見る成功者である一方、大変な労苦を味わった人であり、ヤコブのように自業自得的な苦しみではなく、兄弟たちや主人の妻たちといった他者から負わされた苦労が殆どです。周りへの恨みに取りつかれて当たり前の状況で、彼が最終的に悟ったことは次のことでした。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(45:5)。これは、辛酸をなめた自身の運命を神の摂理ととらえ、恨みに代えて感謝を、復讐に代えて和解を表す言葉です。ヨセフ物語の頂点が、この文言に集約されています。その後、ヨセフからの招きを受け、神の啓示をも受けたヤコブは、一族でエジプトに移住することを決断するに至ります(46:3-4)。こうしてイスラエルの民はエジプトに居住するようになりました。そして、冒頭でも述べた通り、この展開が、後々のモーセ物語へと続いていきます。


 四.まとめ

 ヨセフは外見も中身も優れた優秀な人物でした。しかし、少年から青年時代にかけての彼は、素直ながらも周囲の人たちの心中を察することができない、結果的に鼻持ちならぬ人と思われても仕方がない面を持っていました。また、彼は自ら災厄を招き込む人というよりも、他者から不幸を背負わされる人でした。けれども、彼はどん底の中でも恨みに生きることはせず、誠実さと他者への優しさをもって、道が拓(ひら)かれるのを待ち続ける人でした。そうして、成功を収める人でした。成長した彼は、父や兄弟たちの心を読み、復讐をもって兄弟たちに報いず、赦しと和解を差し出す人へと変わり、そこにはかつての幼さはありませんでした。ただし、それは、彼の優秀さと誠実な人格だけによるものではありません。「主が共におられたので・・・」。聖書は、そう何度も記しています。

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