2023年6月29日木曜日

関西学院大学 人間福祉学部でのチャペル説教(2023年5月11日)

 関西学院大学 人間福祉学部でのチャペル説教(2023年5月11日)

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」ルカによる福音書 6章31節

タイトル:「してほしいことを人にせよ」という黄金律


 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉は、キリストが語った言葉として、教会以外でも大変によく知られたものです。道徳や倫理の領域では、「黄金律」とも呼ばれてもいて、一般でもよく議論されるものでもあります。

 例えば、日本人の感覚でよく挙げられるのは、「自分がされたくないことを、人にするな」言い換えれば、「人に迷惑かけるな」との対比。「してほしいことを他人にも」というのは、積極性はありますけれども、自分はしてほしいと思っても、相手が嫌がるものだったらどうするのか、という問題点があると。日本って、事なかれ主義の文化だから。やっぱり消極性の「迷惑かけるな」の方が好まれる傾向が強い。でも、積極性に欠けて、いかにも消極的なのは事実。どっちがいいの?といった形の議論です。


 そこで今日は、映画の話が半分になるのですが、つい最近上映された映画で、「ロストケア」という日本の映画があります。ストーリーはというと、人間福祉学部と関連も深いであろう、訪問介護士が主人公で出てきまして、これが大変評判が良い。自分の身を削って献身的に奉職していると皆が認めている、30代中盤か40前半という独身男性。

 ところが、もう一人の主人公とも言える女性の検事が、このエリアにおける高齢者の自宅死亡率が異様に高いことに気づきます。それで調査を進めていった結果、先の評判がすこぶる良い介護士が、実は安楽死させていたことが判明する。その数、実に40名弱。主人公の方は、自分は確かに殺害してはいるが、これは無慈悲な殺人ではない、介護に苦しむ家族と当人の「救済」であると主張する主人公。対して、それは法に反するもので、どんな理由をつけようが殺人だ、と断罪する女性検事。この両者の決して噛み合わない平行線が、映画のストーリーの中心軸となって展開されていきます。


 ここで、こうした物語設定についてになりますけれども、福祉関連の事件ということで皆さんもご存じであろう、相模原障碍者施設殺傷事件があります。2016年7月未明、知的障碍者施設津久井やまゆり園にて、同園の元職員が19人を刺殺した事件でして、その犯人像、犯行動機などは、一度よく調べて知っておいた方がいいと思います。で、安楽死させた方がいいという論理そのものは、映画とこの事件の双方、よく似てはいるのですが、事件の方の植松被告の方は、優生思想のような危険思想と呼ばれるもので、当人のそれまでの素行も言動もハチャメチャなものである一方で、映画の方の主人公は、それとは質が違う。すなわち、かつて自分が父親を介護していた中で、認知が生じてきた父の介護のために自分が離職する、そして介護貧困からの、生活破綻。生活保護を頼ろうにも、役所では「働きながらやればいい」と突き放される。その果てに、自分を殺してくれと父親に頼まれ、最初の安楽死殺人が始まった、という筋書きです。

 それで、殺してくれと頼む父親の言葉に動揺する中で、主人公が見出した言葉が、今日の聖書の言葉にして、キリストの言葉である「人にしてもらいたいことを、人にもしなさい」でありまして、これがその後の連続安楽死の動機づけになるというわけです。

 介護される当人も、介護する側も地獄のような生活状況へと追い込まれて、もう人生の後先も限られていて、介護される側も介護する側も死を望むのであれば、そして彼らがそれを自分たちでできないというのなら、自分がそれを代行して、なぜそれが悪になるのか。なぜそれが法に逆らうからといって、殺人という極悪行為であると断定されなければならないのか、という主人公の主張。これに相対して、それは独りよがりな殺人であるとする、検事側。作品の中では基本的に、どちらが正しいと決めるような要素は示されません。むしろ、どちらが正しいとも断言できない、そういう現実を示そうという意図が感じられます。

 それで、映画の方ではですね、実は女性検事の側も、母親に認知の障害が出てきていて、高級老人ホームに入れていることに、良心の呵責を感じている。さらに、一人暮らしの父親をほったらかしにして、孤独死させてしまったことに苦悩している。そういう胸の内が明らかにされて、それを検事側と犯人側とで共有する、そしてそこで互いに共感し合う。互いに涙を流す、互いに癒しへと至る。ただ当然ながら、主人公は死刑を求刑される。間違いなく死刑の判決は免れない。その彼を死刑執行という正義のもとに殺めるのが、正義とされる現実だけが残る。そこで物語は閉じられます。


 劇中の展開では、「人にしてもらいたいことを」というキリストの言葉が、連続殺人の動機に、確かになっている形です。まあ普通に、そうして人を殺めることは容認されるものではないでしょう。少なくとも、我々の社会、文化、現状では。しかし同時に、「してもらいたくないことを人にするな」の消極的倫理であれば、恐らく殺人もなければ、せいぜい父親だけの殺人か、無理心中で済んでいたかもしれない。死んだ人数は少ない一方、何の問題解決にも、和解にも至っていない。問題認識、議論も深まらない。しかし他方で、彼の引き起こした事件は、二人が心を通じ合わせるということを生じさせ、そればかりか、社会への問題提起を投げ掛けていった。

 もしそうであるならば、それは、「人にするな」ではなく、「人にせよ」という黄金律の方の、優れている点ではないか。消極性の論理では開かれない道、積極性の倫理で攻めていかないと、開かれない道。人に迷惑かけんなという事なかれ主義で、それでいいのか?そう考えさせられる次第です。これを今聞いている皆さんは、いかがでしょうか。他人事の問題ではなく、あなたがどうするか、そういう問題です。


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