教会正式名称 日本基督教団茨木春日丘教会
礼拝堂名称 光の教会
牧師・礼拝説教 大石健一
聖書箇所
マタイによる福音書 21章12-17節
12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
13そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」
14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。
ーーー原稿テキストーーー
今回のイエス・キリストのエピソードは、エルサレム神殿の境内で商売をしていた人々を、イエスが激しい振る舞いをもって追い散らしたという出来事です。12節にはこう書かれています。
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
備品を持ち上げてか蹴るかして暴れていて、それがあのイエス・キリストということで、改めて考えると実にショッキングな出来事です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書、全てで物語られている逸話というのは、必ずしも多くはないのですけれども、これはそうした一つとなっています。その意味するところはおそらく、その際に語られたイエスの言葉、すなわち13節
「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている」
「こう書いてある」以下は、イエス以前に書かれた旧約聖書に含まれている、イザヤ書とエレミヤ書からの引用となっていますけれども、この引用も含めて、このキリストの言葉が当時、重要な意味を持っていたからという以外に考えられないわけです。
さて、神殿、具体的には「エルサレム神殿」とは、神が礼拝される場所であり、祈りが捧げられるところに他なりませんでした。当然、利得を求める場所ではありません。しかし、人が集まるところというのは、金も集まることになります。金が動くところとなれば、神聖な場所でさえも、人が自分の利益のためにこれを利用する場所へと腐敗しかねません。そうした人間の腐敗、堕落というものを暴き出し、罪を指摘し、不正を白日のもとに曝け出す務め。これは、イエスや教会以前の旧約聖書の時代における、「預言者」と呼ばれる人の使命でありました。ですから、ここを読む私たちは、こちらのイエスの言動に、旧約聖書時代の預言者の姿を重ね合わせて、理解すべきというものです。
当時のエルサレム神殿というのは、ユダヤ人のみならず、それ以外のいわゆる「異邦人」の間でも評判でした。例えば、「一生のうちに一度は、あの壮麗な建物を見ておけ」とか、「あれを見るまでは、本当に素晴らしい建物を見たとは言えない」などなど、エルサレム神殿にまつわる格言というものが、いくつもありました。
また、当時のユダヤ人、というかユダヤ人は今でもそうですが、後に国土を喪失する以前から、どこか別の国に住み、その地で異邦人として居住するのが常でした。イスラエル国を保有するようになってもなお、そうです。いわゆる「寄留の民」、というもので、この寄留の民、放浪の民という意識は、ユダヤ民族の遺伝子に、非常に深く刻まれたものでもあります。
ともかくも、当時のエルサレム神殿は、エルサレムに居住する人々の礼拝の場だけではなく、いわゆる離散のユダヤ人、現在でも使われる言い方で言えば、「ディアスポラのユダヤ人」、こういった遠方に居住するユダヤ人にとっての、魂の故郷であり、巡礼地でもあったのです。ユダヤ三大祭りの一つに数えられ、その中でも最大の祭事とされていた「過越祭」ともなれば、普段のエルサレムの人口を優に越える人々が集まり、大いに賑わいを見せたことでした。その過越祭を目前に控えた時期であり、同時に、キリストの十字架の死まであと数日というタイミングで、今回の事件は起こっています。
その場所は、神殿の境内でした。「神殿の境内」とは、神殿の敷地内にある「異邦人の庭」と呼ばれている前庭を指します。規則としては、この領域での商売は禁止されていて不可能だったという説がありますが、少なくともその外れか一角では、神殿への捧げ物を販売する商人と、お金の両替商が陣取って、普通に商売をしていたと言われています。合法か違法かという微妙さがまた曲者で、偉い元締めの人がいて安い賃金で労働者を働かせるとか、みかじめ料を徴収する、とか、まあヤクザ的なシステムなんてものが出来上がるわけです。
他方、巡礼者にとって、神殿に捧げる犠牲の動物を持参することは困難ですよね。ですので、現地でそれを購入することは律法でも奨励されていました(参照、申命記14・24ー26)。でも、きっと割高。でもしょうがない。だから、誰もが「なあなあ」になるわけです。本当はいけないよ、とか誰も言えないと。
「鳩を売る者」とは、彼らを相手に犠牲の動物を売る商人を指しています。「鳩」は、規定の捧げ物である小羊等を用意するのが経済的に厳しい人々のために、代わりとして定められている犠牲です(参照、レビ記12・8。加えて、神殿税として納める金銭として、汚れた他国の異教の民の貨幣をもって捧げることはタブーでした。そのため、諸外国からやって来ている巡礼者は、外国通貨を両替する必要があったというわけです。これもまた、割高だろうが違法だろうが、しょうがないと。なくても困るし、グレーゾーンもやむなしという「なあなあ」です。
イエスが露わにした怒りというものには、こうしたなし崩しに対する怒りもあったでしょう。しかしそうであっても、その時にあのような行為が許されたのかと。誰かが捕まえなかったのか。神殿警察もいますから、実は逮捕されて勾留されたのかもしれませんが、その気配が感じられない。きっと昔から、なんとなく不思議に思われていた方も多いと思います。
これは私の推測になりますが、あの時、キリストが高らかに、「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と語った時、雇われの売人も、小銭を稼ぐ自営の商売人も、それらをちょっと悪いと知りながらも便利だからと買う側も、その場にいた誰もが、イエスの言葉に虚をつかれたのではないでしょうか。「そうだ、その通りだ。薄々わかっていたけど、しょうがない、仕方がない、そんな言い訳でずっとやり過ごしてきた。でも、やっぱりこれは、本筋じゃないよ。そうなんだよ」などと考え巡らして、胸を打たれてショックだったのではないかと。それで、呆然と立ち尽くすだけだったのではないかと。
14節以降は、イエスのこうした言動を受けて、ざっくり3種類の人々の様子が描かれています。まず一つ目は、14節です。
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
虚をつかれての時間が止まったような場面を、こうした人々が埋めていくという光景です。病気や障害を癒してほしいという人々です。イエスが「癒やされた」とあって、先ほどの暴力的な振る舞いとは、真逆の情景となっているのが印象的です。
二つ目は、やや熱狂気味に喜んでいる人たちです。
Mat021015他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
子供たち「も」、その中に含まれていたということで、もちろん、大人のように考えての上での行動ではなく、その場の盛り上がった雰囲気にウキウキしているということでしょう。ただ、逆に言えば、この場にいた少なからずの大人たちが、「ダビデの子にホサナ」と言って沸き立っていた。キリストを支持していた大人がいたということで、子供たちはそれを、いわば鏡のように映し出しているということです。ということで、その場には、「そうだ、その通りだ」と思う人がいて、そりゃ確かに暴れるのはアレであるにしても、「よくぞ心の底で感じていたこと、思っていたことを言葉にしてくれた。行動にしてくれた」、そういう人たちの層もまた、そこに多数いたということを意味するわけです。
そして三つ目。快く思わない層の人たちです。その不快感の底流には、皆さんも経験がきっとおありのことでしょう。自分が大して評価していない人が、他から賞賛された時に、「けっ、あの程度がなんだ」といった白けの気持ちです。ただ、それをそのまま口に出すわけにもいきませんから、「子供がワーワー騒いで、アーメンソーメン冷ソーメンでもあるまいし、ちょっと不謹慎じゃないの?」といった具合に、表向き正論でもってヤッカミ入れてくるアレです。
イエスもそれを感じ取ってのことと思いますけれども、16節でこうお語りになります。
Mat021016イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
「賛美」というのは、主に神を褒め称える内容の言葉にメロディをつけた、つまり歌です。宗教的な歌、信仰的な歌のことです。「幼子や乳飲子の口に、あなたは賛美を歌わせた」という文言は、旧約聖書からの引用となっていまして、子供というのは当時、大人に対して価値の低い者です。私たちの今の社会とは違います。「子供が大人の邪魔すんな」と叱られた、あの時の日本の子供と大して変わりません。要は、たかが子供だと。確かに大人のように分別があっての発言でもない、それでも神は、そうした価値の低い者、十分に理解した者でなくても、素朴に喜んでくれる人を、ご自身もまた喜ぶ、そういう意味です。
この神殿には、相応しい価値を持たない人、相応しい功績、人柄、才能を持たない人。それでもそうした人々に慈愛を注がれる、神の慈しみが暗示されています。そうした神の慈しみに触れるところ、そうしてそこで祈る場として、今は破壊されて嘆きの壁しか残っていない、エルサレム神殿があったのでありました。これと同様に、私たちの教会もまた、神の慈愛に触れ、礼拝と祈りと賛美が捧げられる場所です。これを、なあなあが通る、人の都合と利権が優先される場所としてはいけません。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。