2025年1月30日木曜日

【光の教会】礼拝説教 2025年1月19日「エルサレム入城」


礼拝堂名称 光の教会
教会正式名称 日本基督教団茨木春日丘教会
牧師・礼拝説教 大石健一

聖書箇所 新約聖書 マタイによる福音書21章1-11節
1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
3もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
4それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
5「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
6弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
7ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
9そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
10イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
11そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

ーーー説教テキストーーー
 この箇所は、教会界隈では、「エルサレム入城」と呼ばれる出来事、逸話となっております。エルサレム入城の入城という字は、城という漢字に入る、と書きます。選手入場とかの入場ではありませんから、ご注意と。それなら、なんで城なのかというと、エルサレムという都市自体が、壁で囲まれて、城塞化されていたからです。では、早速1節から解説していきましょう。

21001一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
 一行がエルサレムに近づいて、とあります。マタイ、マルコ、ルカ福音書の設定では、イエスはガリラヤをしばらく巡られた後、最後にエルサレムに到達し、そこで急転直下、逮捕、裁判を経て、十字架刑と死、その後の復活という流れにいくわけです。けれども、他方のヨハネ福音書ですと、合計3回、ガリラヤからエルサレムを訪れることを繰り返しています。じゃあ、一体どっちが史実に近いのかという疑問が生じると。マタイやマルコのような、最後に1回限りのエルサレム、という展開は、物語的の構成的にドラマチック、できすぎた感があって、アレンジが入っているのではないか、と考えられまして、ヨハネのようにたびたび赴いているくらいが、リアルであると。よって、3回の方が史実に違いない、と推測するわけです。
そうすると、いざエルサレムに行くとなれば、やっぱり春頃にある過越祭という祭の時だよね、となる。となると、活動時代は足掛け3年になるではないか。よって、イエス・キリストの伝道活動時代は、3年ほどという説がよく言われるという次第です。
 今日の礼拝では、関西学院大学の神学部の学生と先生が出席されています。神学部といっても、私の母校の同志社大学神学部も含めて、キリスト教主義ではあれども一般の大学ですから、神学部の中で、牧師コースと一般コースに分かれています。因みに私の時は、牧師志望は一般に比べて10分の1の学生数でした。それはともかく、神学部その他で、イエスの生涯なんぞを歴史的にちょっと齧り始めると、キリストの活動期は推定3年なぞと、根拠もなく堂々と書かれています。その実体は、今述べたようなふんわりした推測に成り立つものでして、思うに、世で普通に言われていることは案外、根拠が薄弱だったりします。
 さて、ここで辿っている、オリーブ山のベトファゲ、そこからのエルサレムの門への行程が、実は意味深です。旧約聖書の時代、、エルサレムで即位する新しい王は、オリーブ山からキドロンの谷を下って、ギホンの泉で王となる油注ぎというもの、油注ぎはメシアの原語でもありますが、それを受けて、そこからまた上ってエルサレムへ入っていったからです(参照、列王記上1・28-40)。
 エルサレム入城には、かつての黄金時代の王ダビデを想起させるような、戦で勝利した後の凱旋をイメージすることが多いでしょうし、実際、このエピソードは「エルサレムへの勝利の入城」とも呼び習わされています。これと共に、この物語のルーツとして考えられるもう一つの主題が、「王の即位」というです。どういうことかというと、イエスは現実世界では、王ではありませんでした。ぽっと出で、ちょこっと話題になって、あれがメシアか?と騒がれた、一介の大工の男にすぎません。しかし、聖書の神学的な見方、あるいは、この世の現実に対して、神の側の現実という視点から見れば、キリストがここで、新しき真の王として即位し、凱旋するのだという暗示が重ね合われられているというわけです。
 次です。ロバを連れて来るということと、併せて、子ロバも出てきています。要は、イエスがそれにお乗りになるという展開に繋がるわけですが、ここにも暗示が込められています。それは、イエスの時代には既にあった、旧約聖書における預言者の言葉、なかんずく王やメシアに関する預言の言葉であります。その辺りが、次の3節以下で物語られています。

3もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」4それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。5「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
 預言とかその実現、成就というのは、「未来のことを言い当てたぞ、すごいだろ」、ということに重きが置かれているわけではありません。そうではなく、この出来事は、たまたまではない。これは神の意志に基づく、すなわち、神の摂理、神の計画なんだ、という意味合いです。それがここに込められているということです。
 ところで皆さんは、凱旋、しかも王の勝利の凱旋といえば、馬をイメージされるでしょう。馬に比べて、ロバってどうなの?となりますよね。そこが味噌でして、ここから二つのメッセージ性が抽出できます。一つはちょっとこじつけ的な感もあるのですが、この貧相なロバを自分自身になぞらえて、イエス・キリストをお乗せする役として人生を生きるのであると。でもキリストは、その貧相な自分というロバをあえてお選びになる、乗ってくださる、こういうメッセージであります。6節以下を読んでみましょう。

6弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、7ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
 もう一つのメッセージは、王の威厳、権威に対して、謙虚、謙り。戦争の勝利に対して、「平和」が暗示されているというものです。そうすると、キリストの目指す世界が見えて来るというもので、すなわち、巨大な権力、武力による支配ではなく、謙り、柔和、そして平和を基調とした世界であると。

8大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
 これは、王の凱旋に対する人々の典型的な所作となりまして、こちらで語られている、木の枝でレッドカーペットを敷くのとは別に、棕櫚の葉っぱを手に持って振るイメージがある方も多いと思います。あれは、ヨハネ福音書の方の記述に基づくものとなっております。

9そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」10イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。11そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
 9節と10節の対比が面白く、歓声を上げているのはイエスのシンパ、広い意味での弟子たち、また熱狂的なファン、メシア待望論者など、含まれていたと思われます。対して10節の方は、全く知らないか、または「預言者イエス」などと述べていることから、風評に左右されている人たちであるわけです。
よく誤解されている点かと思いますが、イエス・キリストは、当時のユダヤを一世風靡したわけではありませんでした。限定的でありました。その意味では、私の推測になりますけれども、洗礼者ヨハネの方がイエスよりも実はよく知られていたのではないか、と考えています。ユダヤ人歴史家ヨセフスが書き残した、歴史書を読んでの印象になりますけれども。

 私にとって感慨深いことは、この場で歓喜した群衆が、程なくして、「イエスを十字架につけろ」という怒号へと変わった事実です。この場面での群衆と、「十字架につけろ」の方の群衆とは、別物であるとする見方もありますけれども、自分一人の人間性の中でさえ、誰か一人に対しての愛情が、憎しみに変わる。ということがありはしないでしょうか。世の中を見ても、賞賛してもてはやした人を、今度は一転、誹謗中傷の雨あられをあびせる。最後は、ボロ雑巾のように、犬をドブの中に突き落とすような顛末、ということも、しばしばあります。少なくとも、群衆という側面においては、歓喜と怒号という両極端を併せ持つであるといことは、広く認知されていることかと思います。
 具体的にいえば、ローマ帝国によって支配された状況で、ろくな支配者が立つこともなく、社会が崩壊していくことへの怒り。そこで、ある人、あることに期待をしてしまう。しかし、その期待が裏切られたことを契機に、憎しみが生まれてしまう。致し方ないとはいえ、一方で、人間と身勝手さ、と見なすこともできます。
 今日の逸話には、そういう、人間性が露出し、暗示されていることを思いますし、そうした人間性を罪とも呼ぶことができるでしょう。そして、そういう人間性、人間の罪性が、キリストを十字架に追いやったという事実。これを深く思う次第です。

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