2024年11月14日木曜日

「パウロの全体教会政治学ーー茨木四教会伝道会の全国連合長老会への加盟を目指すプロジェクトの神学的基盤ーー」

 「パウロの全体教会政治学ーー茨木四教会伝道会の全国連合長老会への加盟を目指すプロジェクトの神学的基盤ーー」


 序A 「全体教会政治学」とは

 「教会政治学」とは通例、教会の統治や運営方法、または統治が為される組織の構造に関する学を指す用語である。そして、その統治形態として長老制や監督制、会衆制などが挙げられ、それぞれの教会政治の仕組みが他の教会政治と比較されながら議論されるといった形が多い。また、国家という既存の支配体制、そしてそれが行う政治の状況にあって、教会政治がいかに行われてきたのかを考察する学として、教会政治学が位置づけられているのが通例だ。

 しかし本稿では、単に「パウロの教会政治学」とはせず、「全体教会政治学」とした。この名称は二重の意味合いを含む。まず一つ、例えば一方で異邦人教会、他方でエルサレム教会という、両者統治形態も文化も神学も異なる教会群を包括する全体を一つの教会として捉え、一つの全体教会としての統合を企図したグランド構想が、パウロの全体教会観には観察される。さらに、例えば異邦人教会とエルサレム教会との関係について、分裂しかねない両者の関係性を維持するために採用された経済支援策といった、パウロの政治的手法が観察される。ここには、「政治」という語が持つニュアンスの一つ、すなわち指導的存在が統治する対象全体に施す施策という意味が含まれている。そしてもう一つ、一方の果てはスペイン宣教に象徴される異邦人宣教、もう一方の果てはエルサレム教会を足がかりにしてのユダヤ人伝道という、パウロが抱いていた壮大な宣教・伝道の全体構想には、当時の文化やローマ皇帝による政治を見据えつつ、その支配の影響圏にある政治的状況・社会環境にこれを最適化させようという戦略性が認められる。こうした国家の権力作用の影響範囲においては、国家の利害と福音の原理が衝突することは必然である。こうした軋轢を未然に調整しようという意味での政治という意味もまた、「全体教会政治学」に含まれる。こうした理由から上記の二つを総合し、本稿のタイトルを「パウロの全体教会政治学」とした。


 序B 茨木四教会伝道会の全国連合長老会への加盟プロジェクト

 編集部より原稿執筆依頼を頂戴した際、タイトルにもある通り、「茨木四教会伝道会」が「全国連合長老会」への加盟を目指して進展中であることを主題とした論述とするよう指示された。ここで同会のあらましについて述べておく。茨木四教会伝道会(以下、「茨木四教会」と略す)とは、元々は日本基督教会に属し、いわゆる「旧日基」のカテゴリーに入る茨木教会およびその子教会によって構成された教会グループを指す。茨木教会の伝道により、1957年代より1972年にかけて三つの教会、すなわち、千里丘教会、茨木東教会、茨木春日丘教会が生み出され、その後、一九九五年にこれら四つの教会によって同会が結成された。この茨木四教会では現在、全国連合長老会に「茨木四教会」としてまるごと加盟するプロジェクトが進められている。同会を構成する四教会を個別にバラして連合長老会の既存の地域長老会に組み入れる形ではなく、茨木四教会で一つの地域長老会を成立させようという計画である。拙稿の筆者は、四教会の中で「末っ子」にあたり、建築物としては安藤忠雄氏の代表的建築作品、礼拝堂名称「光の教会」を有する茨木春日丘教会を二〇一二年より牧し、同時に、二〇二一年より茨木四教会の議長を担当し、二〇二五年五月に任期満了により議長を辞任する予定である。今回は茨木四教会の議長として、私が構想を練ってきたところの神学的基盤について、前述の「パウロの全体教会政治学」という視点を軸に新約聖書学的なアスペクトから論じたいと思う。

 こうした事情から、本稿の構成をパウロの全体教会政治学のパートであるA面と、茨木四教会関連のパートであるB面に分け、AB交互に配置するものとした。加えてそのAB交互の進展は、後述の「家の教会」から始まり、最終的にはスペインを目指す異邦人宣教、一方でユダヤ人伝道という広大な両翼を展開するレベルへの成長段階に連動させている。既に章のタイトルを「序A」、「序B」としているのは、そうした理由からである。話が行ったり来たりで混乱するような印象を持たれる方もいらっしゃると思い、前半後半の二部構成にすることも考えたが、主題の各章で教会が成長していく議論に沿いながら、その都度、現実世界の中で成長していった教会の姿を思い浮かべつつ楽しんでいただけたらと願い、ABAB構成にした次第である。


 1A 初めから共同体として存在していた「家」の教会

 教会の草創期からして既に、教会は複数名の者たちによって共同で信仰生活が営まれていた。これこそ教会の原初の姿であるという認識を、ルカも述べている(使徒二・四六「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし……」)。パウロがフィレモン個人に宛てた書簡を見ても、彼が「家」の教会に連なっていたことは明らかだ(フィレ一・一-二「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」)。教会史においては、例えばアントニオスによって個別修道制が考案されたが、彼は終生弟子たちの指導に努めて一〇五歳を生き切った、とアタナシオスは伝えている(Vita S. Antoni『アントニオスの生涯』)。厳格な個別修道制でさえ、共同性は決して失われていなかったのだ。マタイがイエスの言葉として語っている通り、信仰生活とは一人で営むものではなく、共同で営むものであり、その中にキリストが立つものとして認識されていたのである(マタイ一八・二〇「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」)。

 そうした複数名の弟子たちによってコミュニティが形成されて営まれ、礼拝も捧げられていた。但しその場所は、建築物としての教会でも礼拝堂でもない。初期のキリスト教会は、古代時代に現れるカテドラル(司教座聖堂)のような巨大な専用建築物を持たず、有力な信徒たちの「家」において、礼拝、祈り、聖餐式の原型的な儀式、会議など、教会として機能するための必要な営みを為していたというのが定説である。また、そうした「家の教会」の多くは、フィオレンツァが指摘しているように、女性が指導的役割を担っていたことも興味深い(「クロエの家の人たち」(一コリ一・一一)、「ニンファと彼女の家にある教会」(コロ四・一五))。


 1B 「家」のような拠点から始まった茨木教会

 茨木四教会の源流は茨木教会にある。茨木の地での日本基督教会の伝道活動により一八九五年に拠点がもうけられ、茨木講義所、茨木伝道教会を経て、一九三〇年に日本基督教会茨木教会が建設された。そして一九四二年、日本基督教団茨木教会となった。撒かれた小さな種から成長し、教会としての葉振りを持つまでに成長していった過程が認められる。原初の拠点時代を支えたのは、一握りの伝道者と信徒たちであっただろう。いずれにせよ、この教会の歩みは、複数名の信徒たちによって始まった。そして茨木教会という各個教会は、後の茨木四教会という地域教会へとその枝葉を広げていくのである。

 人は、自分が人に与えたものによってしか、この世に何物も残すことができない。たった一人の信仰の種、たった一つの教会の種は、人に与えなければ落ちて死んで無くなるだけである。


 2A 初期段階から地域教会として存在していた教会

 教会の最初期時代に誕生した最初にして単一の教会共同体は、やがてその規模を大きくしていく。単一の家の教会は、「家」という建築上の制限、すなわち収容人員の制限を伴う。よって、信徒の数が増すにつれ、当該地域に複数の家の教会が形成されていくことは必然である。例えばローマの教会は、パウロがスペイン伝道の橋頭堡にしようと考えていたことから推測して、それを実現するに足る規模、人員、そして経済力を有していたことになる。この点の他、巨大な都市人口を誇るローマという地理的要因を考慮しても、ローマの教会がたった一つの「家の教会」であったとは考えにくい。現にローマの信徒への手紙一六章を見ても、プリスカとアキラ、そしてその家に集まる信徒たちに挨拶した後、彼らと並ぶような関係者の名前を次々と挙げ、それぞれの家の指導者に挨拶をしていっている。つまり、「家の教会」が複数あったということだ。その数はパウロによる他の真正書簡における言及数と比しても相当多く、さすがはローマといった感がある。まとめると、地域に誕生した単一の教会は、やがて地域に複数の教会を展開することになり、それらはネットワークを保ちつつ、「地域教会」として存在していった。


 2B 単一教会から地域教会へ

 講義所から規模の大きい教会へと成長した茨木教会は、茨木の地での開拓伝道に着手した。吹田市千里丘に一九五七年に設立された千里丘教会を皮切りに、一九六三年には茨木寺田町に茨木東教会、そして一九七二年、茨木市北春日丘に茨木春日丘教会が設立されるに至った。

 母教会と子教会同士の関係が、やがて雲散霧消していく事例はしばしば見られる。一九九〇年代を迎えた茨木四教会は、他の教会グループを見てなのか、あるいは自分たちの状態を見て不安に覚えたからなのかは定かではないが、一部では解消の危機感が共有されていたことは記録から窺い知ることができる。

 同時に、来たる高齢化社会による教勢の劇的な低下という将来予測も出され、現実にそれを感じ始めるようになったこの頃は、伝道の必要性が叫ばれた時代でもあった。前述の危機に対する予防策という意味も含みつつ、伝道活動を推進するために互いの伝道協力を掲げ、一九九五年、「茨木四教会伝道会」が発足した。それから後、茨木四教会では積極的な伝道的営みが為されていくことになった。ただ、同会の規約には地域長老会的な方向性を目指すことは明記されてはいるものの、この名称が含む「伝道会」という文言が示しているように、どちらかといえば伝道協力に重点が置かれての営みであったと私は見ている。ともあれ、ここに地域教会、もしくは改革長老主義的な言い方をすれば「地域長老会」の誕生を認めることができるだろう。この時点で茨木四教会はいわゆる「大会」を持っていないため、これを「地域長老会」と呼ぶには用語上の問題があるだろうから、本稿の表記に合わせ「地域教会」と呼んでおく。


 3A 地域教会から複数地域間教会へ

 「家の教会」が単一教会より始まり、その地域での伝道活動の種蒔きが実りを結び、やがて地域に複数の家の教会を展開するようになった。そうして成立した地域教会共同体は、遠隔地に出向いての宣教活動によってその地に単一教会を生み出し、その単一教会がまた増加しつつ各個教会同士でネットワークが構築され、同地で地域教会を形成していった。こうした連鎖反応が地域から地域へと及び、初期キリスト教会はその勢力を拡大していった。そして、複数の地域教会同士が互いに繋がり合うことにより、そこに「複数地域間教会」というインターリージョナルな大ネットワークが誕生する。

 こうした複数地域間教会の具体的モデルとして、ヨハネ系統のそれを挙げ得る。ヨハネ黙示録は、「アジア州にある七つの教会」(黙一・四)、つまり広域地域に含まれる複数の地域教会へ送られたものであり、各地域における基幹的な教会を拠点に、さらに周辺の各個教会へと回覧されたものと推定される。本書が複数地域を含む広域地域レベルで共有されていたことは、「七つの教会」において広大なネットワークが構築されていたことの証左である。そこでは、共通のヨハネ系統の神学や福音理解が共有されていたということになる。

 複数地域間教会が生まれていくムーブメントは、パウロおいてはさらに明瞭に認められる。パウロの最初の伝道旅行は、バルナバと共にアンティオキア教会によって派遣される形で着手された。ルカの証言によれば、その二人に対し礼拝時に聖霊によって神意が示された後、教会に祈られ、手を置かれ、そうして任職されて出発したという(使徒一三・一-三)。第二次宣教旅行もまた、使徒言行録の記述ではパウロの発案という形にはなっているものの(使徒一五・三六以下)、アンティオキア教会の同意と協力があったことは、「兄弟たちから主の恵みにゆだねられて」(使徒一五・四〇)という記述から明らかだ。パウロが従事した宣教・伝道は、決してパウロの独壇場ではなかったのである。

 当初、第二次宣教旅行の目的は、第一次宣教旅行の際に建てられた諸教会の様子を見るためのものであった(使徒一五・三六)。第一次の際に形成された諸教会の相互で自発的に連携がとられていたかどうかまでは定かではないが、他の教会の営為を別の地域の教会でも称賛するのが常であったパウロの行動から推察して、”彼を介して”それらの教会が繋がりを保っていた可能性は高い。少なくとも、パウロを仲介しつつアンティオキア教会をセンター教会として、ある程度の教会間ネットワークが構築されていたことは間違いない。

 第二次伝道旅行においてパウロは、既に創設されたデルベ、リストラを訪問し、その過程でテモテもメンバーに加えられた。ところが、当初の計画と想定外の事態が生じた。著名な「聖霊による禁止」である。これによりに宣教旅行は変更を余儀なくされ、ガラテヤ、フリギアを経由して、マケドニア州に到達することになった。そうして、第二次並びに第三次宣教旅行が、キリキア、ガラテヤ、フリギア、マケドニア、アカイアという、長径千キロは越えるであろう楕円形の領域で展開されることになったのだ。各地域では、創設された単一教会を拠点に伝道が為され、周辺に複数の教会が誕生して地域教会が形成され、これが別の地域でも生じることにより、各地域に地域教会が複数形成されるに至った。その後、各地の教会、地域教会は、後述するように互いに情報共有や支援を交わし合うことにより、複数の地域教会同士が連携し合うようになっていく。複数地域間教会という、インターリージョナルな教会の成立である。

 ここまでの結論として、表題の通り、教会はその初期時代より複数地域間教会として存在していた。情報共有があれば、そこには互いの状況を思い巡らしての祈りが生まれる。祈りはまた、愛に根ざす行動を生み出す。実際、祈りと献金を中心にしての愛の働きがもたらされた。


 3B 

 茨木四教会は、日本基督教団の教区としては大阪教区に属している。教団紛争以来の混乱のゆえか、私の着任以前より、周辺の東京神学大学系の教会とは意識的に繋がりが維持されてきたように見える。具体的には、改革長老教会協議会関西地区や連合長老会に属する教会、福音主義教会連合関西部会などである。かつての伝道チラシを見ると、東京神学大学系ではない教区の教会の名も掲載されている。こうした名称が並んでいることにも示されているように、教派的指向性をもって活動が執られていたというよりも、さしあたり協力できる教会とは協力を、というマインドで主導されていたようだ。

 教派的方向性を求める動きが見える形になったのは、今より一〇年ほど前のことだ。連合長老会に加盟することが協議され始めた。ただ、一口に加盟と言っても、その形式には複数のパターンを考え得る。当初、茨木四教会でまとまって西部連合長老会に加盟する案が出された。ところがこの案は、茨木四教会を維持したままなのか、あるいは解体してなのかという問題を孕む。維持するのであれば、西部と四教会とで二重行政になる。それに、西部に加盟させていただくというのに、四教会で固まり続けるというのも道義に反すると私は感じた。私が個別に西部の教師に聞いてみると、やはり反対を強く表明する方がいるというではないか。ならば四教会を解体するか。そうなると今度は、これまで四教会が保持してきたアイデンティティと歴史を放棄するのか、という激しい論議が内部で巻き起こる。当時より茨木四教会は、教師と各教会の長老若干名で構成された委員会を中心に運営していたが、その場でも、さらに長老研修会などでも意見の応酬となった。賛否両論が噴出してくると、次にはそもそも論が沸き起こってくるというものだ。具体的には「日本基督教団があるのに、なぜ連合長老会なのか」「教団の中に教団があるなんて、まるでマトリョーシカだ」などである。こうして数年が費やされていったのだった。

 ようやくこの時期の終盤になって、茨木四教会でまとまって全国連合長老会に加盟し、独自の一つの地域長老会を形成する案が出たものの、こうなると議論の収拾はつくものではない。結局は審議の中止となり、代わりに、地域長老会としての「深化」を求める一環として、「牧師招聘のガイドライン」の作成に着手した。このガイドラインの肝は、後任人事の紹介を基本的には改革長老教会協議会に依頼するという文言を明記していることだ。これにより、牧師招聘という重要事項について、改革長老教会協議会を通して改革長老主義的な方向性をもたせるということが明文化された。かくして、茨木教会の牧師招聘案件が上がるまで、時は流れることになるのだが、今にして思えば、これが茨木四教会にとって、単一の地域教会を越えて複数地域間教会との密な繋がりを目指す契機となった。


 4A 地域教会・複数地域間教会のネットワーク化

 これまで、単一教会から地域教会、そして複数地域間教会へという拡大のプロセスを見てきた。この実現には、既に幾度か本稿に現れているキーワードである「ネットワーク化」が必須である。本パートでは、パウロがいかなる方法によって地域教会並びに複数地域間教会の実質化を推し進め、教会間のネットワーク化が形作られていったのかについて、パウロの全体教会政治的な戦術も含めて述べたい。焦点は主に以下の三つに絞られる。1、訪問・派遣と書簡を通じての指導と助言。2、励ましと祈りを通しての教会間の結束強化。3、献金を通じての複数地域間教会同士の関係構築。


 4A.1 訪問・派遣と書簡を通じての指導

 自らの訪問と弟子の派遣による指導

 パウロが自ら現地の教会に出向き、顔と顔とを合わせての指導に努めていたことは、先に述べたところの第二次宣教旅行における当初の目的からも明らかである(使徒言行録一五・三六)。自らが赴くことができない場合には、彼は弟子たちを地域教会に派遣した。実例としてはテモテ(一コリ四・一七、一テサ三・二、フィリ二・一九)、テトス(フィリ二・二二、テト一・五)が挙げられる。パウロが派遣するのとは逆に、教会側がパウロに助け手を派遣し、その人をまた返すというケースもある(エパフロディト、フィリ二・二五以下)。以上、訪問と派遣による指導が、人を仲介としての人と教会、並びに教会間、地域教会間のネットーワーク化に寄与したことは確かである。


 書簡を通しての共通福音理解の指導

 次は書簡を通じての指導である。ローマ、コリント、ガラテヤ、フィリピなど、パウロが複数の地域教会に書簡を送り、福音理解、生活上の指導、勧告、励ましを行なったことは、パウロ書簡が一様に物語っていることである。一般に書簡とは、特定の個人または集団に対して、特定の事情を背景に特定の目的をもって書き送られるものである。しかし、回覧されるスタイルの書簡となると事情は違ってくる。例えばフィレモン書のようにフィレモン個人とその関係者、さらにフィレモンが所属する家の教会にも宛てて書かれた書簡もそうなるが、ある地域教会に送られた書簡がその地域に点在する各個教会にも回覧されていたであろうことは、かねてより有力な説として知られている。古くはシカゴ学派の新約聖書学者であるジョン・ノックスにより”Philemon Among the Letters of Paul”において、フィレモン書がフィレモン個人にのみ宛てたものではなく、彼の家の教会で読まれ、複数の教会で回覧されることを前提に執筆されたものであることが提唱された。パウロの真正七書簡には含まれない「偽名書簡」になるものの、コロサイの信徒への手紙にはオネシモに言及されている点から、諸説あるがフィレモン書とコロサイの教会との関係性が示唆されている。加えて、コロサイ四・一六には「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください」と記されている。したがって、少なくともパウロの書簡が模倣されるようになった時期には、パウロ書簡が複数教会で回覧されるようになっていたことは確実であり、上述のパウロ真正書簡のフィレモン書から推測しても、おそらくはパウロの時代から書簡の回覧が行われ始め、パウロもまたある程度それを前提に手紙をしたためたということになる。ということは、書簡を通じての指示や指導によって、複数の教会に共通の指示、あるいは共通の福音理解を根付かせようという全体教会政治的戦術が認められることになる。そう考えると、パウロがガラテヤやテサロニケの教会、コリントの教会に対して、時に懇切丁寧に、時に手厳しく福音理解の修正を指導したのも、教会間で共通の福音理解が保持されるようにとの意図から執られた行動であるとの洞察が導かれる。


 ロマ書における全体教会政治の戦略性

 パウロのこのような戦略に基づく行動は、彼の管轄下にある教会だけに留まらない。その代表例が、既に2Aで触れているところのローマの教会である。ローマ一五・二二に「イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います……イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです」と書かれている通り、パウロはローマをスペイン宣教の足がかりとしたいと考えていた。察するに彼は、ガラテヤやコリントの教会における福音理解の齟齬という苦い経験から、それまでの書簡における福音に関する論述を綜合させ、一つの書でもって福音の全容を提示しようと企図したのであろう。従来の書簡の中でも最大規模にして、なおかつ最も内容的に整備された大書簡を完成させた。それこそ、ローマの信徒への手紙である。その論述は深遠ではあるものの、順序立てて整然と整えられたその様は、さながら「福音入門書」である。この「入門書」という体裁こそ、個別の教会への指導における各個教会という限定範囲を越えた、地域教会レベル、複数地域間教会レベルでの共通の福音理解を目指す戦略性の表れであろう。


 4A.2 励ましと祈りを通しての教会間の結束強化

 パウロは自らの訪問、弟子の派遣によって、あるいは書簡によって、他の教会の情報を別の教会へと知らせ、教会の信仰と愛の業に関する情報共有を行なった。例えば、「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至った」(一テサ一・六-八)とあるように、テサロニケの教会の奮闘がパウロを介して諸教会に知らされることにより、祈りと励まし、信仰と愛と希望(一テサ一・三)とによる教会間の結束が強化された。


 4A.3 支援や献金を通じての複数地域間教会同士の関係構築

 フィリピの教会は、パウロの宣教活動を支援することを介して結果的に諸教会を支援した(フィリピ四・一五-一六「もののやり取りでわたしの働きに参加した教会……テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして……」)。エフェソの教会は、同地におけるパウロの二年以上に及ぶ長期滞在活動を支援した(使徒一九・一以下)。ガラテヤの教会もまた、パウロが病を患っていた時、彼を手厚く看病した(ガラテヤ四・一三-一四)。これらの地域教会は、パウロの活動を支えることを通じて持てる力を他の教会に捧げ、教会相互の愛の交わりに自身を置いていたのだ。教会のこうした支援を書簡の中で言及することによって、各個教会、地域教会、複数地域間教会の全てを一つの教会として繋げようとするパウロの全体教会構想と、それを達成するための全体教会政治的戦略を読み取ることができる。

 地域教会や複数地域間教会が他系統の地域教会を献金によって支えようとする実例は、何と言ってもエルサレム教会支援プロジェクトであろう。パウロはマケドニア州やアカイア州の地域教会群に働きかけ、エルサレム教会のための献金を実に積極的に促した(二コリ八・一以下「自分から進んで聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出た」、ローマ一五・二六-二七「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意した」)。このプロジェクトについてパウロは、「異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ一五・二七)と述べてはいるものの、この理由だけに留まるものではあるまい。パウロの全体教会のグランド構想において、エルサレム教会は決して欠くことのできないものであり、それゆえに、無理にでも異邦人教会とエルサレム教会との関係性を維持しようと努めたのだろう。このテーマについては、後述の5Aで個別に扱うものとする。


 4B 後任牧師の人材派遣という支援を受けての決断

 茨木教会にて現任牧師が辞任の意を表明したため、直ちに後任牧師招聘に着手することになった。そして、先の「牧師招聘のガイドライン」に準じ、改革長老教会協議会に紹介をお願いした。連合長老会の教師ではないが改長協に関係している人材の需給バランスが、崩壊の手前まできているという噂を耳にしていた。そのために半ば諦めかけていた頃、ついにご紹介いただいた人材は、連合長老会に所属し、妻と夫の双方が牧師をしているいわゆる夫婦教職だった。もちろん、この人事案は連合長老会の意志も反映されたものだ。夫婦教職は、他教会の説教応援が可能となることもあり、地域協会にとって貴重な存在である。にもかかわらず、旧日基の伝統を持つ茨木教会のために、そして茨木四教会のために、かような人材を紹介いただいたことに、連合長老会の愛を垣間見た。同時に、加盟すべき教会が連合長老会に加盟していき、結束力を高め、そうして来たる困難な時代を乗り越えていくことを願う祈りと気概を感じた。「茨木四教会を連合長老会に加盟させよう。」まだ誰とも相談することなく、私は一人決断した。

 先にも述べたように、加盟の場合の選択肢は二つある。茨木四教会を解消して西部連合長老会に加盟を打診するか、茨木四教会で新たな地域長老会を誕生させるかだ。ここで十年近く前の議論の経過が生かされた。取るべきは後者一択しかないと一瞬で結論づけた。だが、それを西部連合長老会の意志を無視して進めるのはあまりに礼を欠くというものだ。そこで、同会の原則毎月実施の牧師会への個人陪席を同会の議長にお願いし、当面の表向きとしては双方の良好な関係性の維持と勉強のためにということで、参加のお許しを願った。それから時を経て、茨木教会に新任牧師が着任し、無事に就任式を終えた時、その牧師から「加盟を考えませんか?」と問われた。これを聖霊によるゴーサインと受け止め、他の四教会の牧師たちにもその場で私の考えを打ち明け、そのプロジェクトは走り始めることになった。そして一年後、二〇二四年五月に開催された茨木四教会の総会にて、同プロジェクトを発表する直前のタイミングで、西部連合長老会の牧師会の席上、その場に集われていた方々にその旨をお話しした。事後報告であってはならないと思ったからだ。総会の方では、ひとまず議場全体の拍手をもって同プロジェクトの推進が決定し、現在に至っている。四つのエンジンの全てが稼働しなければ、ロケットを決して軌道に乗せることはできない。今は四つの教会それぞれで信徒への告知などが進められている頃で、まだまだ慎重な微調整が必要な時期は続いている。

 茨木教会の人事紹介に、連合長老会側の政治的意図がどれほど含まれていたかはわからない。ただ私自身は、ご紹介の連絡を改革長老教会協議会の議長より頂戴して電話を切った後、”いい意味で”「やられた」と思った。「こんな大きな愛をいただいたら、もう動かずにはいられないじゃないか」とも思った。けれども、それが実現不可能なら意味がない。しかし、以前は成し遂げられなかったプロジェクトの実現への道が、一筋に繋がっているのが見えた。「できる、そしてそれは、今しかない」

 それから私は、パウロの教会政治家としての一面について思い巡らした。彼を「教会政治家」とする見方については、以前にゲルト・タイセンの講演(「すべての国民のための教会政治家パウロ

――その成功と失敗――」、2011年)を聴いて同意しつつも、対ローマを意識してのエルサレム教会との関係維持というアスペクトからの考察がメインだった。そのため、「全体教会政治」という視点から一から組み立て直したいという思いを抱いていた。もはや関係性がさして良好とも思えない異邦人教会とエルサレム教会の関係を、献金という既成事実を積み上げてでも達成しようとしたパウロの意志の背後に、全体教会のグランド構想を思い巡らした。そしてそのために奔走し、政治的戦術と戦略を駆使したパウロの情熱に胸を熱くし、今回の拙稿の執筆に至ったという次第である


 5A エルサレム教会

 パウロがエルサレム教会のために、広域の複数地域間教会に献金を呼びかけたことは彼の書簡が物語るところである。その目的として当然、災害や飢饉、あるいは恒常的な貧困といった困難の渦中に、エルサレム教会がおかれていたからであろう。ただ、それだけでもないように思われる。先ほど引用したロマ書の箇所には、エルサレム教会が霊的なものをもたらし、異邦人教会が肉のものをもって応えるという主旨の文言が綴られていた。ここから察するに、彼はエルサレム教会を全教会の霊的なルーツ、歴史的なレガシーとして、なくてはならないものと見なしていたという見方が導かれる。

 それでいて、ファリサイ派のエリートであったあのパウロが、紙数に限りがあるため詳述は避けるが、おそらくは今後の異邦人宣教・伝道を熟慮してのことにしても、その大きな障害となると予測される割礼を、異邦人の律法遵守事項から外したことは衝撃だ。その着想には、非ユダヤ人にとどまりながらもユダヤ教信仰を持つ、通称「神を恐れるものたち」、ゴッドフィアラーの現状を見ての経験則と、割礼が今後の異邦人宣教にとって大きな障害となるだろうとの予測が影響した可能性がある。律法の最重要事項にしてユダヤ人のアイデンティティであり気高き誇りである割礼を、メンバーシップ必要要件から除外するなど、私でさえ信じがたい大ナタ捌き、入会規定に関する神学上のコペルニクス的転回である。なおかつエルサレム教会に乗り込み、いわゆる「エルサレム会議」で合意を取りつけようなど、無謀にも程がある。それでも彼は、その場で合意をもぎ取ったのも驚きだ。その会議の際にも多額の献金をエルサレム会議の議員たちの目の前に積み上げ、政治的豪腕でもって交渉を成功させたのではあるまいか、とさえ下衆の勘ぐりをしてしまう。さすがにそれはないとしても、異邦人伝道というビジョンを抱き、これほどまでの信仰的・神学的豹変ぶり、そしてその大胆な行動、政治的駆け引きには、尋常ならざるものがある。

 こうしたパウロの一連の言動が、彼の全体教会のグランドビジョンに起因するというのが私のテーゼである。エルサレム教会の少なくとも一部からは、強烈に嫌われもし、反対もされもし、嫌がらせまで受けもしていたパウロであれば、早々にエルサレム教会に見切りをつけてもいいはずである。にもかかわらず、彼はエルサレム教会と是が非でも関係を維持しようと粉骨砕身し、文字通り複数の州を股にかけて東奔西走して支援プロジェクトを達成しようとしたのだ。 

 特筆すべきは、彼の奔走と祈りは、エルサレム教会というユダヤ人キリスト教徒のみに向けられてはいないという点である。ロマ書の九-一一章において、パウロは長々と非キリスト教徒のユダヤ人の救済を論じているし、終生、ユダヤ教徒の救済を諦めることはなかった。パウロの全体構想において、ユダヤ人の救済もまた欠かすことのできないものであったのだ。推測の域を出ないが、異邦人伝道の橋頭堡にローマの教会を選んだように、ユダヤ人伝道のために、ユダヤ人には定評のあったエルサレム教会を足がかりとしようと企図していたのではないか。これを失えば、元よりユダヤ人から迫害を受けていたパウロは、ユダヤ人伝道の取っ掛かりを完全に失うことになる。よって、ユダヤ人キリスト教徒との一体のためにも、そしてユダヤ人伝道の展開のためにも、エルサレム教会は彼にとって必要不可欠なものだった可能性がある。とすると、パウロの全体教会のグランド構想は、異邦人を果てしなく教会に抱き込み、かつ、全イスラエル(ユダヤ教シナゴーグ)を包含するものである。発想の実像としては、ユダヤ教から完全分離して独自存在となったキリスト教が、ユダヤ教に伝道のモーションをかけていくという一般的構図よりも、むしろユダヤ教の正統後継者となるべきユダヤ教の亜種であった教会が、旧来のユダヤ教をも巻き込むことで、イスラエル全体の刷新が図られるというものだ。この構想は、自らの教会こそイスラエルの真の正統継承者という自己理解を持つマタイと似ている。尤もマタイは、パウロの時代よりもユダヤ教からのキリスト教会の分離が進行した時代にあったし、パウロ系とは若干の距離を置いているようにも見えるが。

 もう一つ、彼のグランド構想で特筆すべき点は、既にエルサレム会議に持ちかけた彼の提案に示されているように、入会必要要件として、一方で異邦人は割礼なしとし、他方でユダヤ人の割礼文化は否定せず、というダブルスタンダードを導入していることだ。ダブルスタンダードが、律法に関する彼の神学と馴染んでいるとは思えない。その理由は、双方の文化上の特性を考慮し、グランド全体教会の中で双方の住み分けを保とうという全体教会政治的判断があるからではないか。住み分けの乱立はカオスを招来するから、住み分けに伴うダブルスタンダードの背後には、グランド全体教会を貫く公同的な基準を必要とする。

 以上が、「パウロの全体教会政治学」という主題に関する私のテーゼである。この5章については詳細を書き切れず、私としても論述の組み立て途上にあるが、この視点をもって改めてパウロの宣教・伝道活動の意図を再構築する学問的余地はあるように思える。これをもってA面の結びとしたい。


 5B 合同教会としての日本基督教団

 アンティオキア系の教会、後にそれと疎遠になったように見えるパウロ系の教会、ヨハネ系統の教会。ルカやマルコ系の教会もあっただろうし、パウロ系との距離の近さを感じる。マタイ系がシリア系として、神学的にはパウロ系と若干距離を感じる。おそらく上記の全ての教会は、地域教会か複数地域間教会を形成していただろう。これらを全て内包したものこそ、当時の教会の全容だ。インターリージョナルであり、神学的・文化的統一性もあれば、例えばヨハネ系に強く感じる神学的独自性も認められる。

 こうした教会ユニバースについて思考する時、複数の教派的伝統を擁する日本基督教団を思い起こして止まない。その日本基督教団すらも、世界の教会宇宙の中のたった一つの銀河に過ぎない。その教団という銀河の中では、全てが均一化された状態よりも、多様性が保持される方が相応しいと考えている。但し、その多様性とは教派的伝統であり、教団に属する諸教派、諸教会が、それぞれの教派的伝統を掘り下げていくことを願う。教派的伝統がないという教会は、それが一つの伝統となるだろう。私が教派的伝統を強調する理由は、伝統を掘り下げる営みが自ずと公同の教会という一致ラインに自らを踏みとどまらせることになるからだ。同時に、全体主義にもならず健全な多様性を保持する合同教団へと導かれるからだ。そうして、日本基督教団という全体教会の中で、教派的伝統を持つそれぞれが、地域教会、複数地域間教会を形成し、共に愛をもって支え合い、一致可能な福音理解をもって栄えつつ、なおかつ公同の教会の一致をもって、一つのグランド全体教会なる日本基督教団において共に住まうことを願う。そうして、日本基督教団が公同の教会にして合同教団として存続していくことを願う。茨木四教会はその歩みの一歩として、教派的な複数地域間教会としての組織体である全国連合長老会への加盟を目指しているという次第である。

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