茨木春日丘教会(通称 光の教会)
2025年3月30日
説教題「ペトロの三度のイエス否認」
聖書箇所:マタイによる福音書 26章69-75節
69ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
70ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
71ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
72そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
73しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
74そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
75ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
ーーー説教原稿ーーー
2025年3月30日
説教 「ペトロの三度のイエス否認」
この箇所は、ペトロがイエスのことを、合計で3回「知らない」と発したという逸話で、キリスト教会ではとてもよく知られた出来事となっています。教会界隈では一般に、「ペトロの三度の否認」などと呼び慣わされています。
イエスは、ユダヤ人並びにユダヤ教の一部の指導者層によって逮捕された後、ユダヤの最高国民議会である、通称「最高法院」にて裁判を受けられました。今日の箇所の手前に、その顛末について述べられています。今日の箇所では場面が打って変わりまして、イエス逮捕の際、イエスを見捨てて逃げていった弟子たち、とりわけ、十二人の使徒たちの中でも筆頭的な存在であった、ペトロが主人公となって登場いたします。早速、本文を見ていきましょう。
69ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。70ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
ペトロは一人、「中庭に座っていた」とあります。これは、この記事の手前にある26章58節が伏線となっていまして、それによれば、「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと中に入って」とあります。
私がよく申し上げていることとして、聖書を文学的にもちゃんと読めるようになろう、ということがあります。我々はとかく「聖書は聖書」という頭になりがちですが、聖書は文学的様式に則って書かれていますし、福音書は物語形式ですけれども、文学上の技法が散りばめられていますから、それを踏まえると、立体的に読めて、奥深さが見えるわけです。
ということで、この箇所を文学的に見てみますと、まず、裁判の場面で一旦ペトロにカメラを振っておいてあります。その後、イエスの裁判の様子が物語られた後、今日の箇所に至って、ここでペトロにパッと再びカメラが戻ります。そうすると、「ああ、あのペトロ、逃げちゃって、未練もあってついてきているみたいだけど、これからどうなるのだ?」と思い起こされて興味が湧く、こういうわけです。
先の58節で、「遠く離れてイエスに従い」という記述がありましたけれども、これは物語上の物理的な距離をただ報告しているのではなく、象徴的なものでもあります。すなわち、ペトロとイエスの関係が、今や親密な近い弟子と師匠のそれではなく、「遠く離れて」しまっているのだ、と暗示していると。しかも同時に、「イエスに従い」ともありますから、完全にイエスを切ろうとも決断できていない。つまり、中途半端な状態というものを表しているわけです。
キリスト教では、こういう中途半端は良しとされるものではありません。イエス・キリストもそうです。例えば、お前が私に何をして欲しいのか、お前がどうしたいのか、はっきりしろと。
これは、いわゆる幽霊会員的な方々をどうする問題に該当してくるものですけれども、もし神についていく、イエスについていくというのであれば、殉教を覚悟してそうするべきであるし、もし捨てるというのであれば、踏み絵でもなんでも踏んで、はっきりするが良い。ヨハネの黙示録にも、「暑いか冷たいか、どちらかであってほしい」とある通りです。
ことを穏便に済ます、ことなかれ主義でいくというのは、時に非常に有効な手段です。けれども、それで解決しない問題というのが存在します。ゲームセットにしないのはいいにしても、ゲームセットで終わるからこそ、新しいゲームが始まる、ということが多々あるわけです。
信仰における神と人との関係というのもそうで、いつまでも迷っているとか、中途半端にしないで、続けるなら続ける、やめるならやめるで、一度スパって決めるのがよい。ただ、自分自身で決めるというのが前提ですから、イエスは「どうしないのか?」と時に相手に問われたわけです。……皆さんの、自分自身と神との距離感は、どうなっているでしょうか。
話を戻しましょう。こういう布石が置かれていることで、たとえペトロの心情がここに書かれていなくても、イエスの弟子でありたい気持ちもありつつ、一方で逃げたい気持ちもある、両方に揺れて途方に暮れている姿が、目に浮かぶというものです。この中途半端な状態という澱んだ沼に、一石を投じることになったのが、一人の女中であったというわけで、やおら彼女に、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と指摘されたことで、必死でそれを打ち消した上で、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と断言さえいたします。
私の考えでは、「弟子であったけれども、もう辞めた」と宣言する方が、「知らない、わからない」というより、いさぎよいと思いますし、まだマシかと思うのです。なぜなら、先ほど述べたところの、内容はどうであれ自分の意志で決める、そういう主体性が全くないからです。
決断をしないままに、とりあえず「俺は関係ない」と宣言するのは必死という、そこにあるのは自分の意志、自分の信仰の決断ではなく、自己保身が垣間見える見苦しい姿というものです。……ということで、これが1度目の拒絶。次になります。
71ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。72そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
一度、嘘をつくとか、うやむやにするとか、あとは、逃げる、というのもそうですが、一度すると、ずっとやらないといけなくなる。この時のペトロは、奇しくもこれら全てに該当するわけですが、現実から逃げ続けなければいけない呪縛の状態になってしまいます。この永久ループは、地獄です。でも地獄なのに、そうしてしまうのが人間の人情というもの。よって、ペトロの対応も1回目と本質的に同じものになります。というか、もっと逃げないといけない、もっと否定しないといけないドツボに、より深くハマっていきます。「ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した」、1回目より強い否定ですよね、こうある通りです。以上、2度目になります。そして、2度あることは3度ある、ということで、3度目の地獄のループ。
73しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
2回目の女中のセリフで、「ガリラヤ」という地名が出てきました。ガリラヤとは、首都エルサレムから見て北方に広がるエリアで、エルサレムを「中央」あるいは「都市」とするなら、ガリラヤは「地方」もしくは「田舎」でして、彼女が指摘しているようにガリラヤ訛りもありますし、侮蔑的な意味合いも多少含まれます。この逃げも隠れもできぬ鋭い指摘に対して、74節。
74そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
ということで、これが3度目。1度目、2度目、3度目と、ペトロの否定の具合が段階を追って強まっていくことが、おそらくは文学的な意識のもとで書かれています。
かくして、ループは永久に続くことはなく、終了を知らせるゴングの如く、ニワトリの鳴き声、鶏鳴をもって閉じられます。というのも、これが引き金になって、かつてイエスが弟子たち、特にペトロにも向けて語られた言葉を、ここで思い起こしたからです。これが伏線回収となっていまして、元々の布石が、同じ26章の34節35節。
34イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」35ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
今日の箇所の75節で、ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」とあります。思い出したイエスの言葉というのが、先のものです。
かつて主イエスを「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ一六・一六)と告白したことでした。先週の講壇交換では、そこが聖書箇所であったと伺っています。イエスはこの時、ペトロの信仰告白を受け入れています。それはそれでいいのです。その時の、自分の明確な意志、そして信仰ですから。
ただ一方で、ペトロは、この時、誓ってまでイエスを知らないと告白しました。これは、自分の力、自分の決意、理想の自分、あるべき自分……そんな自分がもろくも崩れ去り、彼はありのままの自分をさらけ出したことを意味します。別の言葉で言えば、彼は自分に徹底的に挫折したのです。
しかし、そういう自分というものは、崩れて良いのです。なぜなら、信仰とは自分で築き上げるものではなく、神から養われるもの、与えられるものだからです。ペトロの流した涙は、崩れ落ちた自分を嘆く、自己憐憫の涙ばかりではありません。両極端に揺れ動き、あるいは中途半端に自己保身の自分。イエスはそういう自分を、わかっておられた、知っておられたのだと。その上で、自分を導き、養い、やがて、まことの信仰に立てる弟子にしようとされているのだと。その深い愛情というものに、まだ自分で言葉にはできないまでも、そこで感じ取ったからこその、号泣であります。
主なる神はまた、私たちをも、ペトロと同様に、養い、慈しみをもって導かれている、その一点に立ちつつ、歩んで参りましょう。
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