2025年5月1日木曜日

【マルコ福音書 講解説教】02「キリスト、福音、そして神の子」2025年4月27日分

 

撮影場所:茨木春日丘教会 礼拝堂(光の教会)

撮影日時:2025年4月26日

想定実施礼拝説教日:2025年4月27日

想定実施礼拝説教場所:日本基督教団茨木春日丘教会


ーーー聖書本文ーーー

聖書箇所:マルコによる福音書 1章1節


ーーー説教本文ーーー

 マルコによる福音書連続講解説教の第2回ということで、今回は、この福音書の1章1節のみを取り上げております。

 「神の子イエス・キリストの福音の初め」

 ということで、この文、主語があって動詞があるという文にはなっておらず、名詞だけが繋がっていますから、いわゆる体言止めになっています。ということは、これは文章のタイトルではないかと。あるいは、序盤の部分の表題的なものではないか、とも推測されます。それならば、一体どっちなのか。この1節は、どこまでを指しているのか、悩み始めると頭が痛くなってきます。

 そうすると、肝になってくる要素が、「福音の初め」とあるところの「初め」になりまして、この「初め」が、マルコ福音書全体をもって「初め」の物語になっているのか、あるいは、マルコ福音書の序盤の部分のみを指しているのか、どちらなのかが問題となります。ある研究者は、この「初め」と訳されている語が、基礎とか基盤という意味を持つとして、この福音書全体を、キリスト教におけるいわゆる「福音」というものの、根底にある物語、基本の物語と位置付けているのだ、としています。一方で、この「初め」という語にそんな意味はないとして、否定する説もあります。このように、研究上でも意見が分かれていまして、正直私も決めかねています。

 既に皆さんの中にも、頭が痛くなってついていけなくなっている方もあろうかと想像しますが、ただ、こういう時はこの問題に限らず、シンプルに考えるところに立ち戻るのがよろしい時というのが、多々あります。そこで改めて考えますと、この1節の後、洗礼者ヨハネが唐突に登場しています。その後、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたり、イエスが試みを受けられたりして後、14節から、キリストの宣教活動が始まっていきます。普通の感覚であれば、14節から序盤が終わっていよいよ本編、キリストの宣教編へ、とするのが真っ当ではないでしょうか。

 

 で、次に参ります。「神の子」については、大トリに回しまして、「イエス・キリスト」についての解き明かしとしましょう。まず、「イエス」は人の名前です。日本語その他の言語では、ヨシュア記の「ヨシュア」と発音を変えて翻訳していますが、本来は同じ名前でありまして、ヘブライ語のヨシュアという人名を、ギリシャ語発音にしたものになります。ヨシュアと同じですから、当時もよく使われていた、ありふれた名前です。ちなみに、この名の意味は、「神は救い」というものです。奇しくも、キリストにピッタリの名前と感じるのは、私だけでしょうか。

 次に、「キリスト」になります。まず、これは苗字ではありません。例えば皇帝とか、国王などといった、「称号」であります。称号であれば、「救世主」という語もそうですが、まさにその意味を表す称号です。この「キリスト」、元々はヘブライ語で「油注がれた者」を表す「メシア」と同義でありまして、かつては、国王や預言者のような、特別に神に立てられる者を任職する際、頭から香油を注ぎ変えるという慣習がありまして、それに因んだものでした。ところが、時代が下っていきますと、非常に困難な時代となりまして、いつか神から特別な者が遣わされて、世を救ってくださるという待望感が出始めました。そうしてメシアという語、もっぱらこの遣わされる方を指して使われるようになりました。さらにその後、キリストが現れて、十字架と復活があって、教会が誕生いたしますと、この「メシア」という語は、教会の専売特許の用語となった次第です。さらにまた、メシアがギリシャ語に翻訳されて、「キリスト」と相なったという次第です。


 次に進みましょう。この「キリスト」が先ほどの「イエス」と合体しまして、「イエス・キリスト」という、我々もよく耳にするフレーズとなっています。イエスとキリストの前後をひっくり変えて、「キリスト・イエス」というパターンも、全体の何分の一かはそうなっています。

 それで、合体したらどうなのだという話になるのですが、「イエス」というのは名前であり、同時に、あのキリストを指す固有名詞でもあるわけですね。それが「キリスト」、すなわちメシア、救世主であると。つまり、<あの歴史上の一人の人間イエスは、救世主なる方である>という意味になるのです。そうすると、イエス・キリストという文言のみで、「イエスこそキリストです」という信仰告白、よく最も短い信仰告白とも呼ばれますけれども、そうなるということなのです。ご存知ない方、「イエス・キリスト」というだけで、信仰告白にもなるということ、覚えてみてください。

 次は、「福音」です。福音についても、解説し始めると本が何冊も書けるものですし、おいおい何度も出てきて語る機会もあるものですので、この場では最小限にとどめておきたいと思います。「福音」とは、元々は、戦いに勝利したことを王宮に伝えてくる伝令、その伝令に手渡される褒美を指していたものです。それがいつしか、吉報、良い知らせを意味するようになったと。この語をキリスト教会が、割と早い段階から使い始めるようになりまして、その指す事柄というのは、いわゆるキリストによる救済の業です。すなわち、キリストが人となって来られて、十字架の死という贖罪の死、罪の赦し、そして復活、永遠の命をもたらされたという、一連の救済の働き、ないし出来事。これを「福音」と呼ぶようになりました。今日では、先のキリストと同様に、これも教会のほぼ独占使用となっております。が、マルコ福音書が書かれた背後の世界では、そうでもありませんでした。なぜなら、ローマ皇帝がいて、例えば皇帝ネロのような暴君もいて、教会は迫害を受けることもありました。そんなローマ社会では、「福音」と言えば、それは例えば皇帝の即位式であったり、皇帝に後継が誕生したりといった知らせを意味していました。そんな状況下で、「キリストが福音だ」と公言したら、どうなるでしょう。ローマに目をつけられて、下手すれば迫害を受けますね。

 ここで、先の「キリスト」「救い主」です。イエス誕生時代のローマ皇帝といえば、皇帝アウグストゥス。彼は、「全世界の救い主」と称賛されていました。もうお察しですよね?そこで「イエス・キリスト」、すなわち「イエスこそ救い主」と告白すれば、どうなるか。……皇帝崇拝に楯突くことになると。

 こうしてお膳立てが整ったところで、大トリに回した「神の子」。「神の子」もまた、というかこれこそ、自分自身を神格化したローマ皇帝が、自ら名乗り、帝国もまたそう呼んだところの、「称号」なのです。ということで、「神の子イエス・キリストの福音」、これだけでも、教会の神学の中だけで、重要な意味を持ちます。信仰告白、という意味合いも含みます。ところが、マルコ福音書の時代背景においては、さらに特別な意味をも持つことにもなるわけです。すなわち、世では「ローマ皇帝こそ、神の子、キリスト、救い主、福音!」と呼ばれていて、これに逆らえば、下手をすれば命はない。にもかかわらず、迫害を耐え忍ぶとしても、真実を語らなければならない。真実に立たなければならない。我々は命を賭して、イエスをキリスト、神の子、福音と告白するのだ、そういう気概が籠ったフレーズということです。

 この1章1節、まだ終わりません。次回、マルコが「神の子」という語に込めた意味合いを、深掘りしていきたいと思います。


「神の子イエス・キリストの福音の初め」

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