撮影場所:茨木春日丘教会 礼拝堂(光の教会)
礼拝説教実施日:2025年5月18日
聖書箇所:マルコによる福音書 1章2-8節
説教題:「洗礼者ヨハネの現れ 2」マルコによる福音書講解説教 第5回
ーーー聖書本文ーーー
2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。
3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
ーーー説教テキストーーー
マルコ福音書講解の5回目になります。内容についていけないような時も、きっとおありのことと思いますが、それまで謎だった聖書の文言が、説き解されてわかっていく感覚を味わっていただけたらと願っています。説教聞きたいというよりも、その背後にある聖書の言葉が聞きたいという気持ちを、味わっていただけたらと。
さて、前回は洗礼者ヨハネのその1ということで、今回は続きのその2となります。4節から、改めて読んでみましょう。
4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
先週にも述べた通り、洗礼者ヨハネという人物が、ヨルダン側のほとりに突如として現れて、一つ、来るべき神の審判と、特にマルコではもう一つ、「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。今回、こういう新約聖書の福音書の分野を専門で学術研究してきた私でさえ、改めて気づいたことになります。それは、洗礼者ヨハネというと、他の福音書では「神の審判」や「神の怒り」が、ここよりもっと前面に出されています。ところがマルコの方では、それらが後退していて、真っ先に「罪の赦し」が出されている。洗礼者ヨハネといえば、まずは神の審判と違うのか!という感じです。その理由まではよくわかりませんが、私が先週述べたこと、すなわち、厳しい審判を告げているようで、本当は、赦しなのだと。赦しの背後にある愛なのだと。私はそれを、故・星野仙一さんに因んで、厳しさ7割、愛情3割と述べたことでした。
洗礼者ヨハネの言動が、多くの人々の心に響いた理由として、まさにこの点、厳しい裁きに対する恐れよりも、むしろ、「赦し」ということが、大きかったのではないかと思います。我々の世界で思い巡らしてみても、力で人を押さえつけるというのに、大した効果はありません。反発が生じるだけで、出たら出たで、それをさらに押さえつけなければならない、イタチごっこ。あるいは、その押さえつけに耐えかねて、その人が潰れてしまうか。やはり、赦しというものがあって、その背後にある愛というものを知って、そうして人は、やり直そうと心から思うものです。
洗礼者ヨハネが行った洗礼というのは、当時のそれとは、根本的に違っていました。当時の普通の洗礼は、いわば清めの儀式です。そうして、何度も繰り返し受けるもの。対して洗礼者ヨハネのそれは、一回きりの洗礼です。イエスの説いた教えでもそうですが、自分で決めることが大切です。そして、それを先送りにしない。腹括って、自ら決断して、自分の生き方を変える。人生という道の方向を転換する。「悔い改め」という語自体の元の意味も、実はそういうものです。先がありますので、次に参りましょう。6節。
6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
まず、これは当時の禁欲生活者のスタイルです。荒地などに一人で赴き、そこで一人で修道生活をするといったもの、これを「隠修士」と呼んだりもします。もう一つは、旧約聖書の預言者、わけても、預言者エリヤのような、預言者の初期時代の代表的預言者、先駆的なエリヤ、またはエリシャを思い起こさせるものです。
まあ、一言で言えば、「その風貌が、その人の体(たい)を表す」といったところになるでしょうか。次の7節。
7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
先ほど私は、神の審判が控えめで、ということを述べましたが、マタイやルカといった他の福音書ですと、洗礼者ヨハネの語った言葉を書くなりなんなりで、ヨハネのボリュームが多めなのです。ところが、それらと比べると、マルコは抑えめでギュッと絞っている感がある。じゃあ、絞ることで濃く出している要素が何かというと、一言、「洗礼者ヨハネとイエスとの関係」、もう一歩進めていえば「洗礼者ヨハネと、イエスとの序列の関係」、つまり、出現の順序としては、「洗礼者ヨハネが先、イエスは後」でありますが、序列としては「イエスが一番、洗礼者ヨハネ(自分)は二番」ということです。これが、この箇所のメッセージの中核に他なりません。なお、「履き物の紐を解く」仕事は当時の奴隷の仕事で、そこから、ヨハネは自分をキリストに仕えるものとして認識している、などといったことは、しばしば指摘されることです。
8節に「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」とあります。今日は、聖霊が何かについて述べませんけれども、水の洗礼は本人の心がけの次元だけに対して、聖霊の洗礼は、人間の内的な力が神によってもたらされることを意味していると思われます。それはそれとして、
聖霊での洗礼がなにかというと、時代の転換、物事の転換を意味しています。すなわち、ヨハネまでは例えればガソリン車で走る時代だったけれども、今日の私たち教会の洗礼は、水で洗礼しつつ、そこに聖霊の洗礼もある。ということで、いわば、ヨハネとイエスの複合体、ガソリン車だけど電気で動くハイブリッド車なのだと。まあ、ヨハネの流れからイエスへの流れを継承しているわけです。時代の転換を意味しているというのは、このようなことになるわけです。
最後に、これは、私がマルコ福音書で研究してきて学会発表も何回もしてきて30年、そんな私の仮説をつい述べたくなってしまうのですが、今から述べることは、あくまで仮説であり推測です。
イエスはある時期、洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、弟子の一人であったのではないか。そうしてある時期、洗礼者ヨハネの逮捕の直後か、もしくはその直前くらいのタイミングで、双方、別の歩みを取ったのではないか。実際、実はイエスと洗礼者ヨハネの関係って、よくよく聖書を調べると複雑でありまして、新約聖書のそこかしこで、双方の弟子たちのやり取りや発言、はたまた、お互いの緊張関係にさえ、いくつも触れられています。また、ペトロ、アンデレといった弟子たち、マタイやマルコでは述べられていませんが、ヨハネ福音書では、彼らは洗礼者ヨハネの元・弟子となっています。実は各福音書を紐解いてみると、「これはなに?」というミステリーが広がっているのです。そのミステリーの真相は何?ということで、差し当たりの私の回答が、以上のものです。
まあ、こういう大人の事情というべきか、秘めたる歴史のミステリーというべきか、それらを今一度整理して、本質のみを抽出して、最終的に「イエスが一番、洗礼者ヨハネは二番」となったのではないか、ということです。
次回は、キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた場面です。本日はここまでといたしましょう。
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