2025年2月9日日曜日

【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年2月9日「最も重要な掟」

 

教会正式名称 日本基督教団茨木春日丘教会 礼拝堂名称 光の教会 牧師・礼拝説教 大石健一 正確には、礼拝説教の前または後、録音し直した音源です。

ーーー文字テキストーーー

2025年2月9日 
「最も重要な掟」

 今日の聖書の箇所は、イエスと敵対関係にある、とあるグループが、原文によれば「イエスを試そうとした」と。すなわち、イエスの力量を測るか、あるいはおそらく最終的にはイエス罠に嵌めようとして、質問を投げ掛けた時の回答が書かれています。内容としては説教題のように、いわゆる「最も重要な掟」と。

34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
 ファリサイ派については、先週の礼拝説教でも登場いたしました。イスラエル民族、ユダヤ人の民族宗教たるユダヤ教の教師たちです。今日でもユダヤ教の教師は存在して、当時と同様、教師を意味する「ラビ」と呼ばれていました。そのラビにも学派がありまして、ファリサイ派というのは、トップの学派でありました。彼ら、実に研究熱心でよく勉強して純粋ではあるのですが、ただ、これは現代でもしばしば変わらぬ世の常として、こういう人たちってしばしば頭が固くて、鼻持ちならない自意識の高さというものがあって、人を見下す、または人を排除する、人を否定する時のスピード感は半端ない、自分が認めたもの、認めた以外の人は、決して認めない、総じて度量が小さい、といったマイナス面も併せ持ったりしますけれども、彼らの少なからずもまた、そうした一面があったと。それをイエス・キリストという方は、結構突きにかかるものですから、反感を買われていたという次第です。
 サドカイ派については、これも先週出てきました。貴族層の人たちで、貴族って何だというと、既得権益を持っている人です。よって、それを守ることが優先順位一番になるわけです。そうすると、現在の日本の政治家の一部も、他の外国人や移民に日本を売って、自分は利権を得る「売国奴」などと揶揄されていますけれども、これとほぼ同じ構造で、ローマによる植民地支配を、ユダヤ人でありながら喜ぶわけです。なぜって、自分たちの財産の保持の至上主義だから。
 それで、ファリサイ派は政治的には左派、サドカイ派や右派となって、本来、犬猿の仲であるはずなのですが、どちらもイエスが嫌いなため、これを潰すために一致することは、どちらもやぶさかではなかったと。お互い嫌いなものが一緒とか、敵が共通するって、しばしばとっても不思議な仲睦まじさをもたらしますよね。

35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
 まず、律法の専門家というのが出てきまして、律法というのは、神からイスラエルの民に与えられた数々の掟であります。中核にあるのは、モーセが神から授けられた、いわゆる「モーセの十戒」、「十戒」になります。「他に神があってはならない」とか、「安息日を守れ」とか、「父母を敬え」とか、あれになります。旧約聖書にはそういった決まりが無数にありまして、先ほどのラビ、また律法学者、そしてここに出てきている「律法の専門家」というのは、これらを解釈して、過去の解釈例も頭に入れて研究を続けていた、まあ、法律学者みたいなものと言えるでしょうか。だから、法学者ならぬ、律法学者とか言うわけですね。あと、律法学者も律法の専門家も、表現が違うだけで、どちらも大して変わりありません。
 で、その律法の専門家が、「イエスを試そうとして尋ねた」と。「試す」と訳されている語は、金属の精錬にも使われる語で、「ダメなものはダメにしてしまえ」というニュアンス。だから、「試す」って言葉、結構シビアなものでして、試してみてダメにしてしまったら、それはしょうがない、むしろそれでよし、という構えなので、それなりに過酷なものです。優しさはありません。あと、「試す」とあるところ、必ずしも「罠に嵌める」と同じ意味ではありませんが、まあ半分、イエスを潰しにはかかっています。最初から罠には目にかかる連中よりは、かなり良心的ではありますが。
 それで、イエスを試すための質問内容ですが、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」というものでありました。「律法のエッセンスを一言でまとめたら、何でしょう」といったノリです。
 皆さんもちょっと、答えを考えてみてください。そうしないと、自分の中であまり面白くなりませんから。そんなの聞かれても初心者だから分からないという方もいらっしゃると思いますが、私、ここまで語った中で、一つ模範解答を既に述べています。さっき、律法全体の中核にあるもの、と述べたところのもの、それは、一般にも知られている「モーセの十戒」です。これについては、当然当時においても常識とされていて、律法全体はモーセの十戒に集約されているとされていました。
 ただ、そこからさらに掘り下げていって、最終的に「二つまで絞れるのだ」と真理を見出した人たちが、既にイエス以前の昔の時代にいまして、その意味で実は、後続のイエスの言葉の第一、第二の掟とあるところ、キリストオリジナルでも何でもないのです。というか、当時の誰もが知っていた、基本常識なのです。
 こういうのって、研究していった人なら経験あることかと思うのですけれども、研究を進めていくと、もう際限がないわけです。ところが、今度はそれを人に伝える、しかも、珍紛漢紛の人に教えようなどと考えると、本質を一言で伝えられないか、などという思考に切り替わっていくことがあります。
 ただ余談ながら、一言で伝えるものって喜ばれるのですけれど、教えられる側は、それだけだと成長がないのですよ。やはり、地道で退屈な学びの過程があるからこそ、熟練者が「これってこう!」と一言でトドメ刺してきたところで、「そうか、わかった!」と、小膝を叩く、では表現が弱い。柏手打って喜ぶと。ただ、それでいて、熟練者の「これ」という一言は、全くの初心者でもわからせる魔力は時にありますね。まあ、そういったすごい言葉は、そうそうお目にかかれるものではありません。

37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38これが最も重要な第一の掟である。
 こちら、二重鉤括弧に入っていることからわかる通り、引用の言葉、それも旧約聖書からの引用となっていまして、だから、イエスオリジナルの言葉ではありませんと。同時に、「第一の掟」とあって、「第二の掟」が後に続いていまして、第一第二の構成になっているわけですが、第二の方も同様です。
 「心を尽くし、精神を尽くし」とある表現は、要は、自分の全存在をかけて、ということです。「常に力一杯」とか言われたら、やる前から疲れますけれど、「そこに自分の存在がかかっているか」と言われたら、疲れるというか、重々しいじゃないですか。人生論が掛かっているというか。そういうニュアンスです。
 あと主なる神を愛する、の「愛する」という言葉。皆さんは「愛する」とは何かと問われて、何と答えるでしょうか。私なら、「愛とは、労苦を共に担い、重荷を背負うこと」という回答が一つ。もう一つは、優先順位を一番にすること。え?と思われるかもしれませんが、愛が壊れかける場面で、よくあるではないですか。「一体あなた、仕事と私、どっちが大事なの?」って。優先順位の問題じゃないですか。だから、愛が適当になってくると、どこに現れるかというと、優先順位に現れてくると。それが手っ取り早く、顕著に出るのが、礼拝出席。事情とか思いなく、礼拝もういいや、という状態は、要するに、もうその人にとって神なんか、どうでもいいってことで、つまり、優先順位の下の下まで落としているわけですね。あのですね、礼拝に行くのって、「義務だから」とか答えるのは、ありきたり、で、ひょっとすると危ないかも。それで、礼拝に出るというのは、義務であれど、気持ちの問題。どんな気持ちかというと、神のお気持ちが寂しくならないように、「私、大事にしております」という自分の気持ちを神に表すために、出る。これが全て。礼拝楽しい、説教楽しい、他の人に会えるの楽しい、それはそれでそれに越したことはありませんけれどもね。根幹にあるのは、私の場合、優先順位落としたのを見られて、神の怒りを買うのが怖いというのもさほどなく、悲しませたくない、という気持ち。

39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
 イエスの言葉にも、こういうのありますよね、自分が好きな人とか、自分を愛してくれる人を愛したとしても、それが一体何なんだと。誰でも普通に自然にやっていることではないかと。そうではないことは、先ほど私が述べた通りでして、すなわち、「愛とは、労苦を共に担い、重荷を背負うこと」。
 恋愛とか、恋愛感情ある愛の実体については、本質的には利己的だなと思うのです。なぜなら、自分が好きな相手が、相手も自分のこと好きという、愛の喜びハッピータイムなわけで、偉くも何ともない。けれど、楽しい時は、あんな楽しいものはないですよね。崩れ始めると地獄ですが。
 あと、第一と第二の関係について、一つ目、順序が大事。すなわち、神を愛し、神に愛されているということができてないと、別に好きでもない人に労力なんて裂けませんから。だから、第一が先に来て、次の第二という順序は重要。
 二つ目、両方揃ってないとダメ。なんぼ「神を愛しています」という人がいたとして、すごく冷たい人だったら、それってもう自己愛と変わらんと。かといって第二のみだったら、それは博愛主義とかヒューマニズムであるわけで、信仰が関係なくなってしまいますから。まあ、それはそれで悪いことではないですが。よって、これら二つの順序、そして両方揃ってないとだめってことで。終了。





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