ヨハネ福音書緒論 ヨハネ福音書神学
ヨハネ福音書緒論
著者
エイレナイオスによる2c. 後半の証言に基づいて、伝統的にはゼベダイの子ヨハネが著者とされてきた。その際、このヨハネは福音書中の愛弟子と同一視される。だが、エイレナイオスの証言の根拠である使徒教父パピアスによるヨハネ証言が、別人に言及している可能性から、この伝統的見解の信頼性は低い。
資料問題
先ず、ヨハネが共観福音書を全て、または部分的に知っていたとする説を支持する立場は少数である。多数の研究者により、ヨハネにおける共観福音書に対する全面的な文献学的依存は否定されている。ただし、ヨハネによる文学スタイルとしての「福音書」の採用と、マタイとルカの編集句が僅かに散見される可能性を考慮すれば、ヨハネにおける両福音書に対する間接的・部分的な知識を前提とする必要がある。最近では、ヨハネは共観福音書を知っていたと考える研究者が多くなってきている。
共観福音書のように文書同士の相互比較を行えないという方法論的制約から、ヨハネにおける文献資料の特定もまた制約を受ける。恐らく、「しるし資料」、受難・復活物語伝承、そして「ロゴス讃歌」等の数種の文書資料がヨハネの背後に想定される。
ヨハネ福音書の思想的特徴
ヨハネ共同体の思想的系譜、並びに周辺の社会的・歴史的状況の双方に、第一次ユダヤ戦争後の正統主義化が進行するユダヤ教が深く関係する。パレスチナのユダヤ教は、既に前3世紀頃からヘレニズム化され、特に辺境の分派的ユダヤ教においてはその影響が多大であり、多様なグループを擁するユダヤ教において、思想的ムーブメントとしての黙示文学や終末論、遺言文学などが現れる。BornkamやSchultzらが既に指摘しているように、ヨハネのキリスト論や聖霊論において特徴的に使用されている文学スタイル、用語や表象は、こうしたヘレニズム的なユダヤ教的思想と関連する。特に「光と闇」といった二元論的表象については、従来、グノーシス主義に代表されるギリシャ・ヘレニズム的思惟構造に源泉を持つことが主張され、ヨハネの思想的バックボーンとしてセクト化したグノーシス的洗礼教団の一つの古マンダ教が挙げられた。だが、この説は死海文書やナグ・ハマディ文書の発見により修正され、現在では、ユダヤ教周辺部に既に流布していた表象を、ヨハネ共同体がユダヤ教の分派的洗礼教団と共に共有していたとする見方が支配的となっている。
ヨハネ福音書の特色は、こうした周辺世界の表象や思想、用語が援用されながら、以下に記すヨハネ共同体の社会的状況に対応するために、従来のキリスト教的信仰が再解釈・再表現されているところにある。
ヨハネ共同体の社会的・歴史的状況
第一に、1.愛弟子の権威、および愛弟子のペトロに対する優位性、2.「使徒」「十二弟子」という語の使用回数の僅少さと否定的な用例、という2点から、宗教史的に共観福音書の系譜の教会とは、ある程度の距離を想定せざるを得ない。 第二に、先に指摘したとおり、ヨハネの生活の座の最大のポイントは、ヤムニア会議に象徴されるユダヤ教の正統主義化に伴うキリスト教への異端宣告にある(特に、シェモネ・エスレーへのビルカト・ハ・ミニムの導入による、ユダヤ人キリスト者を含む異端分子追放の決定)。
こうした事実の一方で、ヨハネ福音書において以下の特徴が観察される。1.共観福音書におけるユダヤ教の再現とは対照的な、ヨハネにおける「ユダヤ人たち」、そしてイエスに常に敵対的な「ファリサイ派の人々」といったラディカルかつ単純な図式化。2.特に9章の癒された盲人の記事に表されているように、ヨハネではこうした状況下での信仰告白的アスペクトが意図的に強調されている。以上より総合的に導出される社会状況は、正統主義的ユダヤ教からの異端視と迫害行為に合致し、こうした苦難に直面していたヨハネ共同体は、イエス告白に共同体の内的求心力を求めていた集団として位置付けられる。
成立年代と成立場所
ユダヤ教からの分離・独立、自己アイデンティティの確立を志向するマタイ教団と比して、ヨハネの事態の深刻さは進行している。従って、成立年代はビルカト・ハ・ミニム制定前後、ヤムニア会議の政策が効果を表す90年代が算出される。成立場所は、既に論じたユダヤ教セクトとの思想的共通性、及びヤムニアの影響力が及ぶ範囲という双方を満たす、シリア・パレスティナの境界線上周辺が妥当である。
ヨハネ福音書とヨハネの手紙との関係
両者には、同一の系譜の共同体に属することを証明する程度の用語・思想的近似が認められるが、同時に、著者を同一と想定することに支障をきたす程度の相違点をも含む。
ここで、三つのヨハネの手紙の状況を時系列順に記す。
1.ディオトレフェスによる教会内の分裂という状況 Ⅲヨハネ
2.キリストの受肉と贖罪の否定、倫理的責任の無視という状況 Ⅱヨハネ
3.相互愛による教会再建を目的 Ⅰヨハネ。
従って、ヨハネ福音書と手紙との相違点は、福音書がヨハネ共同体のファーストクライシスであるユダヤ教との対立という外的状況を反映し、そして手紙が、セカンドクライシスである異端者の出現と内的不和という内的状況に対処している点にある。執筆順序は、福音書、3ヨハネ、2ヨハネ、1ヨハネとなる。
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ヨハネ福音書の神学
死海文書やナグ・ハマディ文書の発見、ユダヤ教諸文書の研究によって、パレスチナのユダヤ教が既に3 c. BCE頃からヘレニズム化され、特に辺境の分派的ユダヤ教においてはその影響が多大であったことが判明した。それにより新約諸文書は再検討を迫られ、ヨハネ文書はその最大の影響を受けている。
ヨハネ福音書に関して、従来はユダヤ教的な思惟構造のもとに成立したパレスチナ型のケーリュグマがヘレニズム世界に伝えられることにより、ギリシャ-ヘレニズム的思惟構造に変換されることによって生み出されたものと見なされてきた。それは、共観福音書では極めて重要であった「神の国」概念や終末論的な時間的な緊張が、「真理」「永遠の命」などの概念、あるいは「光と闇」といった二元論的思惟構造を用いた上下の空間的緊張に置換されていることが根拠とされてきたからである。
しかし、前述の発見と研究、また詳細な編集史批判の成果により、ヨハネ福音書の背景には、以下の歴史的背景が想定されることが指摘された。それは、80年代におけるラビ・ベン・ザッカイを指導者としたユダヤ教の再建会議「ヤムニア会議」におけるキリスト教を正式に異端とする決議によって、キリスト教がシナゴーグから異端として追放されたというものである。この非常事態に際して、そのようなユダヤ教との激しい対立にさらされている主たる読者であるユダヤ人たちに(異邦人やサマリヤ人なども読者として想定されていると思われるが)、ユダヤ教の枠を越えてイエスを神の「子」、神(と等しい方)と告白する信仰を確立するために執筆されたと見られる。よって、執筆年代は80年後期から90年代と推定される。さらに、詳細な本文の研究から、ユダヤ教側の中にも分裂が生じ、教会の側にも脱落者が生じたことが見て取れる。
このような、ユダヤ教シナゴーグからの追放というヨハネ教団のおかれた危機的状態のもと、イエスを神と告白するか否かという二者択一の選択を迫る必要があった。そこで、その緊張感を保つために最適の材料が、二元論的、上下空間的な思惟構造であり、そのような目的を持ってこれら概念が用いられたと考えられる。またそのような歴史的状況は、この福音書のキリスト論にも表われ出ている。当福音書はキリスト論に集中していることがあげられるが、その中心的関心は、伝統的なロゴス受肉論ではなく、むしろイエスを「神」(と等しい方)と告白する点にあると言える。それは、自己顕現定式であるエゴー・エイミー文の多用、神とイエスとの関係を父子関係で捉えている点、トマスのイエスに対する「神」告白などに表出している。
このような二元論的思惟構造とキリスト論、そして終末論の現在化といった特徴は、後にグノーシスの愛用されるところとなったのではないかと考えられる。
著者
「愛弟子」の権威のもとに記されたことは疑い得ない。この福音書では、「愛弟子」と呼ばれる人物が、常にペテロより優位に書かれている。また用語的には、「使徒」が0回、「12弟子」が4回、しかも否定的に記されていることから、ヨハネの教会はペテロや12弟子の権威とは別の系譜の教会ではないかと想像される。また、洗礼者ヨハネと愛弟子が理想的信仰者として描かれていること、ゼベダイの子ヨハネの名が意図的に記されていないことなどを考え合わせると、愛弟子の背景に、ゼベダイの子ヨハネ(洗礼者ヨハネも!)を見ることも出来よう。
ブルトマン学派の研究
ブルトマンは、ヨハネ福音書の背景に古マンダ教を想定し、そこにあったグノーシス的救済神話に目を留め、それをキリスト教化して用いたのがヨハネ福音書であるとしている。さらに、21章を教会的編集者によるものとし、1-20章をグノーシス的要素が多分に盛り込まれた福音書と仮定した。すなわち、後の教会が元は非常にグノーシス的であった1-20章を修正し、21章を付加して、教会の中心人物であったペテロを登場させることによって、愛弟子とペテロとの調整を果たしたとする。今日でも、彼の後継者であるケーゼマンやシュルツは、ブルトマンと異なり伝承の方ではなく編集の方にグノーシス的要因の混入を見て取り、グノーシス的な傾向を帯びた書としてこの福音書を特徴づけ、ヨハネの共同体を密議的霊的熱狂預言者集団として想定するのである。
死海写本の発見などによってもたらされたユダヤ教関係の影響を限定的にしか認めておらず、ユダヤ教の背景から新約諸文書を読むのではなくして、ギリシャ-ヘレニズムの背景から見ようと試みる点に、この学派の宗教史学派的な特徴がある。
二陣営仮説:「①ヨハネ福音書の中に出てくる登場人物は概ね、二つのはっきりとした陣営(イエスの陣営“世”)のいずれかに属している。②ヨハネ福音書の中で、これら二つの陣営は対立したものとして描かれているが、それは福音書記者のおかれた歴史的状況での彼の教会とユダヤ教との対立を反映している。」
ヨハネ福音書の聖霊論
従来、聖霊に関してパウロ的に、非人格的な神の力→人格的→三位一体における聖霊 という順番に発展していったと見られていた。O.ベッツは、イエス・キリストの亡き後、パラクレートスがそれに取って代わるものと見なし、それに伴い非人格から人格的存在へと発展していったと見ている。しかし、G.ジョンストンは、ヨハネ福音書には人格的用法と非人格的用法の二つが看取されることを指摘し、ヨハネにおいてはキリスト中心であり、あくまでパラクレートスはイエスを想起させるものとして描かれていると主張した。教会福音書に見られる悪霊などが、ヨハネでは一切見られない。ヨハネは人格的な霊を、もう一度非人格的な霊として書こうと試みたのではないか。
ヨハネ福音書とヨハネの手紙との関係
ヨハネ福音書とヨハネの手紙は、その用いられている用語や概念の近似性から、同一の教会の中で成立したものと思われるが、相違も認められることから、同一の著者とは思われない。
両者の相違点は、福音書の方が、ユダヤ教シナゴーグとの言わば外部との対立という状況の中で書かれているのに対して、ヨハネの手紙は内部における分裂という背景が読み取れるところにある。すなわち、福音書と手紙との相関関係として、ユダヤ教との対立という第一の危機に際してヨハネ福音書が執筆され、その後ユダヤ人共同体を出てキリスト教共同体を形成したが、教会内部で福音書の読み方を誤った異端が出現し、その事態に対処するために、手紙が執筆されたと見られる。
その際、Ⅲヨハネが長老からデメテリオへの個人の手紙として先ず書かれ、次にこの長老の指導下にあるヨハネの各個教会へ回状形式という形でⅡヨハネが記され、最後にⅠヨハネが執筆されたと思われる。
そのことをもう少し詳述すれば、兄弟愛を実践するということに欠けていたディオトレフェスによって、教会内に分裂が引き起こされつつあり、それに対応するためにⅢヨハネが執筆される。次に、イエス・キリストの受肉と贖罪を認めず、肉における倫理的責任を無視する者たちと判明するに及んで、Ⅱヨハネが書かれ、事態は更に悪化し、こうした異端の者たちが教会から出ていった後に、未だ分裂の衝撃を隠し切れない教会に対して、正しい福音理解と「互いに愛し合う」という愛に基づいて教会を再建していくために、Ⅰヨハネが執筆されたと考えられよう。 三つの手紙が全て同一の著者の手によるとは限らないが、いずれもヨハネの教会の指導者的地位にあったものの手によることは間違いないだろう。
執筆場所は、福音書の成立場所はパレスチナ沿岸の都市であると推定されるが、手紙の時代では周辺に共同体が拡散していったことも考えられ、特定できない。成立年代は、福音書の後、1世紀末前後といったところか。
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