2023年7月17日月曜日

コヘレトの言葉

コヘレトの言葉 Eccleciastes, 4-th c.-3-rd c. BCE


 「集会で(会衆に)語る者」という意味の「コーヘレト」という名称を持つ。そのため、「伝道」のニュアンスが強調されて「伝道の書」と呼称される場合もある。本書は旧約の知恵文学に属する。ユダヤ教正典においては「諸書」の分類に含まれる。


 執筆者・成立年代

 本書の冒頭において「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。」とあり、「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。」(1:12)と明記されている故、本書の起源は『雅歌』『箴言』と共にソロモンに帰されていることになる。このことから、伝統的に著者はソロモンとされてきたが、ペルシャ語的な用語が使用されていることや、本書の知恵文学の特徴等から、近年では単独もしくは複数の執筆者・編集者による成立を想定し、その年代として前4世紀から前3世紀前半の第二神殿時代に設定する説が主流である。前200年前後を想定する説もある。『シラ書』、『知恵の書』が本書を知っていることから、その成立は双方以前に遡ることは確実である。

 先の「コーヘレト」が女性形であるが、このことをもって執筆者が女性であるとは到底証明しがたい。また、上述の如く複数の執筆者や後代の編集を想定し、例えば、11-12章を1-10章とは別の編者に帰す説や、12章後半部のみを異なる著者に帰す等の各種仮説が提唱されており、統一的な見解には至っていない。

 本書に後代の編集の手が加わっていることは、以下の箇所において、執筆者として設定されている「コヘレト」自身に言及する三人称的記述が見られることからも明瞭である。

7:27「見よ、これがわたしの見いだしたところ/——コヘレトの言葉——/ひとつひとつ調べて見いだした結論。」

12:8「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。」

 他にも、本書自身(コヘレト)が言葉伝承の収集と編集について言及している(12:9「コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。」)。


 本書の底流にある無常観がヘブライ的世界観と矛盾するように見えることから、ジークフリードは本書の特徴を「非ヘブライ的な悲観主義」と見なした上で、相当の部分を別の編集者による改変と挿入とする大胆な説を提唱した。彼の説はしばらく支持されて批判的継承が為されたものの、今日では反動的な修正が働いて、編集は部分的に留まるとする立場が一般的に採られている。

 実際、内容的・思想的統一性、用語・文体の統一性はほぼ保持されており、後代における部分的な編集は明らかであるとしても、本文の作成や箴言的言辞の収集と編集において基本的に単独に近い執筆者を想定することに無理はない。


 構成

1:2−11 プロローグ コヘレトの言葉

ー自然と人間に関する達観「空の空、一切は空」

1:12ー2:17 知恵の探求、人間の営みの虚しさ

3:1−12:14 人間の種々の営為に関して

時間,不義,労働,祭儀,行政,金銭,倫理,女,権力,運命,成功,老い


 思想的特徴

 預言文学におけるように「主の言葉」が神による1人称で語られることもなければ、律法が提示されることもない。人間の経験の集積を基に洞察された実経験的な真理を主体とした達観した言辞が連ねられる。しかし、これらは決して非ヘブライ的なものではなく、むしろヘブライ的知恵文学の伝統に準拠するものである。


 人間的可能性の完全否定から、「知恵」の悟りへ

 ただし、本書において吐露されている一種の無常観に満ちた言葉ー『コヘレトの言葉』を『コヘレトの言葉』として成り立たせる最大の思想的特徴ーは、かの伝統の中においてもいわば「空虚の哲学」として異彩を放っていることは確かである。しかし、結論を先取りして言えば、それは単なる諦観思想とは異なる。理想や幻想、そして、たとえそれがヤハウェの真理と合致するにせよ受け売りの宗教観が、現実直視の前に一旦相対化され、完全に崩壊させらる。そうして、神の知恵に到達することのすべての可能性が、完全に否定される。その上で、その絶対的な不可能性において初めて覚知される神的真理が、最終的に提示される。諦観思想に見える諸要素は、言語を超越した神の真理の知覚経験を、論理的展開によって導出するのとは反対に、矛盾撞着を内包したままに言語外領域において経験される神の「知恵」を提示する、そのプロセスの一環として把握されるのである。

 故に、本書はある思想を体系的に論じ、組織的に組み立てる類の文書ではなく、かといって単なる人生訓や黄金律的な言葉伝承の集積と単純な編集でもない。超越的真理の覚知経験のプロセスの提示であり、これを読む者もそのプロセスに参与させられ、真理を悟る経験へと誘う書であり、この点で黄金律の対句的表現による青年教育を主眼とした『箴言』と異なる。

 以下、以上をテキストに従って論じていく。


 観察と経験

 あらゆる事象が観察され、経験されることから本書における神の知恵への道程は始まる。そこで体得される事柄はまず、人間の営為の虚無性である。「コヘレトは言う」という章句により導入される1:2は、本書の主題を開陳し、虚無へと至る(1:3)。

「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」(1:2)

「太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。」(1:3)

 循環的現象界

 かような虚無をもたらしているのが、あらゆる事象における繰り返し、つまり循環性である。永劫回帰的に繰り返される現象の前に、新しきを生む人間の可能性が絶望される。

「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。」(1:5)

「かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。10見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった。」(1:9-10)

 この循環的世界観にあって、空虚が知覚される。

 「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。」(2:11)

 “この時点では”、劇的な世界転換や決定的審判の到来といった終末論的思考は顔を出さない。「善は報いられ、悪は罰せられる」という因果応報的な画一的世界観−それは神への従順は祝福、不従順は災いという申命記的なものである−が“一旦”拒絶される。現実直視と、幻想に埋没することからの脱却が要求される。

「善人でありながら 悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら 善人の業の報いを受ける者がある。これもまた空しいと、わたしは言う。」(8:14)

 時間と現象における神の摂理

 しかし、原子論的世界観の如き機械的繰り返しの虚無に解消化することなく、また、その繰り返しの故にあらゆる出来事が無意味化することもなく、すべての事象を支配する時の存在が示唆され、それが神の摂理であることが提示される。

「1何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。2生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時」(3:1-2)

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(3:11)

 人間観:永遠を思う心(「永遠の心」)を持つ人間

 先の3:11前半において、神が人間に「永遠を思う心」を与えられたこと、原文に従えば「神は人の心に永遠を与えた」ことが述べられる。『コヘレトの言葉』にあって、知恵は神が与える賜物であると同時に、人は神の知恵を知るべき者かつ知り得る者として想定されている。にもかかわらず、神の知恵の不可知性、人間の知恵の限界が、本書を決定的に支配していることも事実である。これら両者の間には、矛盾があり齟齬があり、著しい緊張関係がある。この矛盾を避けがたく内包した存在として、人間が描かれているのである。

 こうした双方の緊張から生じる石火により、あるいは相矛盾する命題同士の撞着による撞着法的な行程を経て、神の知恵が再理解される。そのためには、徹底的なまでの限界性が経験され尽くさねばならない。


 人間の知の限界・神の知恵の不可知性

「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。」(6:12)

「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。」(11:5)

 無常観の中で享受される人生の楽しみ

 かような虚無の現実にあって、欲望を満たすことの虚しさが説かれながらも、人生の享受が勧められる。それは刹那主義ではない。眼前に与えられている現実を神の賜物として受け入れる受容である。

「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はすべてに応えてくれる。」(10:19)


 あらゆる人間の営為の絶対的限界を経て初めて到達する領域

 本書の諦観は、神の知恵を得ようとするすべての人間的営為が挫折するというものではない。神の知恵がそうした人間的知恵によっては到底できないという、神の知恵の絶対的超越性が示されており、そうした神の知恵の前にあらゆる人間的知恵が敗北し挫折せざるを得ないことの提示に他ならない。


 無常観の中で確証される唯一無比の絶対

 こうして神の知恵の不可知性を前にしての虚無を嘗め尽くしながらも、そこで悟られた絶対的な真理が、明星のように瞬いていく。それは上述の神の摂理であり、また、神がすべてを知っていることの気づきである。

「焦って口を開き、心せいて神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。」(5:1)

 不条理の現実に対する究極的・最後的覚知

 一旦は拒絶された因果応報的世界観が、ここで再理解されていく。それは形式的な理解ではなく、自ら悟り得た知恵として提示される。

「罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が/なお、長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり13悪人は神を畏れないから、長生きできず/影のようなもので、決して幸福にはなれない。」(8:12-13)

 審判への言及

 こうした過程において、神の審判も再理解が為される。

「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。」(11:9)

 究極の覚知ー神を知ること、神への畏れ、戒めの遵守

 限界と不可知性の混沌の闇の中から、瞬くように灯り始めた真理への確信は、人生の目的は神を知ることであり、その営みは神を畏れるものであり、具体的には戒めの遵守が肝要との理解に辿り着く。それらはイスラエルにとってありふれた観念ではあるが、それはもはや表層での理解ではなく、今や深層での悟りへと変化している。つまり、本書は伝統的なイスラエルの知恵のパラダイム転換的な再解釈の試みである。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。』」(12:1)「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。」(12:13)

コヘレトの言葉 Eccleciastes, 4-th c.-3-rd c. BCE


 「集会で(会衆に)語る者」という意味の「コーヘレト」という名称を持つ。そのため、「伝道」のニュアンスが強調されて「伝道の書」と呼称される場合もある。本書は旧約の知恵文学に属する。ユダヤ教正典においては「諸書」の分類に含まれる。


 執筆者・成立年代

 本書の冒頭において「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。」とあり、「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。」(1:12)と明記されている故、本書の起源は『雅歌』『箴言』と共にソロモンに帰されていることになる。このことから、伝統的に著者はソロモンとされてきたが、ペルシャ語的な用語が使用されていることや、本書の知恵文学の特徴等から、近年では単独もしくは複数の執筆者・編集者による成立を想定し、その年代として前4世紀から前3世紀前半の第二神殿時代に設定する説が主流である。前200年前後を想定する説もある。『シラ書』、『知恵の書』が本書を知っていることから、その成立は双方以前に遡ることは確実である。

 先の「コーヘレト」が女性形であるが、このことをもって執筆者が女性であるとは到底証明しがたい。また、上述の如く複数の執筆者や後代の編集を想定し、例えば、11-12章を1-10章とは別の編者に帰す説や、12章後半部のみを異なる著者に帰す等の各種仮説が提唱されており、統一的な見解には至っていない。

 本書に後代の編集の手が加わっていることは、以下の箇所において、執筆者として設定されている「コヘレト」自身に言及する三人称的記述が見られることからも明瞭である。

7:27「見よ、これがわたしの見いだしたところ/——コヘレトの言葉——/ひとつひとつ調べて見いだした結論。」

12:8「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。」

 他にも、本書自身(コヘレト)が言葉伝承の収集と編集について言及している(12:9「コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。」)。


 本書の底流にある無常観がヘブライ的世界観と矛盾するように見えることから、ジークフリードは本書の特徴を「非ヘブライ的な悲観主義」と見なした上で、相当の部分を別の編集者による改変と挿入とする大胆な説を提唱した。彼の説はしばらく支持されて批判的継承が為されたものの、今日では反動的な修正が働いて、編集は部分的に留まるとする立場が一般的に採られている。

 実際、内容的・思想的統一性、用語・文体の統一性はほぼ保持されており、後代における部分的な編集は明らかであるとしても、本文の作成や箴言的言辞の収集と編集において基本的に単独に近い執筆者を想定することに無理はない。


 構成

1:2−11 プロローグ コヘレトの言葉

ー自然と人間に関する達観「空の空、一切は空」

1:12ー2:17 知恵の探求、人間の営みの虚しさ

3:1−12:14 人間の種々の営為に関して

時間,不義,労働,祭儀,行政,金銭,倫理,女,権力,運命,成功,老い


 思想的特徴

 預言文学におけるように「主の言葉」が神による1人称で語られることもなければ、律法が提示されることもない。人間の経験の集積を基に洞察された実経験的な真理を主体とした達観した言辞が連ねられる。しかし、これらは決して非ヘブライ的なものではなく、むしろヘブライ的知恵文学の伝統に準拠するものである。


 人間的可能性の完全否定から、「知恵」の悟りへ

 ただし、本書において吐露されている一種の無常観に満ちた言葉ー『コヘレトの言葉』を『コヘレトの言葉』として成り立たせる最大の思想的特徴ーは、かの伝統の中においてもいわば「空虚の哲学」として異彩を放っていることは確かである。しかし、結論を先取りして言えば、それは単なる諦観思想とは異なる。理想や幻想、そして、たとえそれがヤハウェの真理と合致するにせよ受け売りの宗教観が、現実直視の前に一旦相対化され、完全に崩壊させらる。そうして、神の知恵に到達することのすべての可能性が、完全に否定される。その上で、その絶対的な不可能性において初めて覚知される神的真理が、最終的に提示される。諦観思想に見える諸要素は、言語を超越した神の真理の知覚経験を、論理的展開によって導出するのとは反対に、矛盾撞着を内包したままに言語外領域において経験される神の「知恵」を提示する、そのプロセスの一環として把握されるのである。

 故に、本書はある思想を体系的に論じ、組織的に組み立てる類の文書ではなく、かといって単なる人生訓や黄金律的な言葉伝承の集積と単純な編集でもない。超越的真理の覚知経験のプロセスの提示であり、これを読む者もそのプロセスに参与させられ、真理を悟る経験へと誘う書であり、この点で黄金律の対句的表現による青年教育を主眼とした『箴言』と異なる。

 以下、以上をテキストに従って論じていく。


 観察と経験

 あらゆる事象が観察され、経験されることから本書における神の知恵への道程は始まる。そこで体得される事柄はまず、人間の営為の虚無性である。「コヘレトは言う」という章句により導入される1:2は、本書の主題を開陳し、虚無へと至る(1:3)。

「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」(1:2)

「太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。」(1:3)

 循環的現象界

 かような虚無をもたらしているのが、あらゆる事象における繰り返し、つまり循環性である。永劫回帰的に繰り返される現象の前に、新しきを生む人間の可能性が絶望される。

「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。」(1:5)

「かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。10見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった。」(1:9-10)

 この循環的世界観にあって、空虚が知覚される。

 「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。」(2:11)

 “この時点では”、劇的な世界転換や決定的審判の到来といった終末論的思考は顔を出さない。「善は報いられ、悪は罰せられる」という因果応報的な画一的世界観−それは神への従順は祝福、不従順は災いという申命記的なものである−が“一旦”拒絶される。現実直視と、幻想に埋没することからの脱却が要求される。

「善人でありながら 悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら 善人の業の報いを受ける者がある。これもまた空しいと、わたしは言う。」(8:14)

 時間と現象における神の摂理

 しかし、原子論的世界観の如き機械的繰り返しの虚無に解消化することなく、また、その繰り返しの故にあらゆる出来事が無意味化することもなく、すべての事象を支配する時の存在が示唆され、それが神の摂理であることが提示される。

「1何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。2生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時」(3:1-2)

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(3:11)

 人間観:永遠を思う心(「永遠の心」)を持つ人間

 先の3:11前半において、神が人間に「永遠を思う心」を与えられたこと、原文に従えば「神は人の心に永遠を与えた」ことが述べられる。『コヘレトの言葉』にあって、知恵は神が与える賜物であると同時に、人は神の知恵を知るべき者かつ知り得る者として想定されている。にもかかわらず、神の知恵の不可知性、人間の知恵の限界が、本書を決定的に支配していることも事実である。これら両者の間には、矛盾があり齟齬があり、著しい緊張関係がある。この矛盾を避けがたく内包した存在として、人間が描かれているのである。

 こうした双方の緊張から生じる石火により、あるいは相矛盾する命題同士の撞着による撞着法的な行程を経て、神の知恵が再理解される。そのためには、徹底的なまでの限界性が経験され尽くさねばならない。


 人間の知の限界・神の知恵の不可知性

「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。」(6:12)

「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。」(11:5)

 無常観の中で享受される人生の楽しみ

 かような虚無の現実にあって、欲望を満たすことの虚しさが説かれながらも、人生の享受が勧められる。それは刹那主義ではない。眼前に与えられている現実を神の賜物として受け入れる受容である。

「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はすべてに応えてくれる。」(10:19)


 あらゆる人間の営為の絶対的限界を経て初めて到達する領域

 本書の諦観は、神の知恵を得ようとするすべての人間的営為が挫折するというものではない。神の知恵がそうした人間的知恵によっては到底できないという、神の知恵の絶対的超越性が示されており、そうした神の知恵の前にあらゆる人間的知恵が敗北し挫折せざるを得ないことの提示に他ならない。


 無常観の中で確証される唯一無比の絶対

 こうして神の知恵の不可知性を前にしての虚無を嘗め尽くしながらも、そこで悟られた絶対的な真理が、明星のように瞬いていく。それは上述の神の摂理であり、また、神がすべてを知っていることの気づきである。

「焦って口を開き、心せいて神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。」(5:1)

 不条理の現実に対する究極的・最後的覚知

 一旦は拒絶された因果応報的世界観が、ここで再理解されていく。それは形式的な理解ではなく、自ら悟り得た知恵として提示される。

「罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が/なお、長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり13悪人は神を畏れないから、長生きできず/影のようなもので、決して幸福にはなれない。」(8:12-13)


 審判への言及

 こうした過程において、神の審判も再理解が為される。

「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。」(11:9)

 究極の覚知ー神を知ること、神への畏れ、戒めの遵守

 限界と不可知性の混沌の闇の中から、瞬くように灯り始めた真理への確信は、人生の目的は神を知ることであり、その営みは神を畏れるものであり、具体的には戒めの遵守が肝要との理解に辿り着く。それらはイスラエルにとってありふれた観念ではあるが、それはもはや表層での理解ではなく、今や深層での悟りへと変化している。つまり、本書は伝統的なイスラエルの知恵のパラダイム転換的な再解釈の試みである。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。』」(12:1)「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。」(12:13)

人生は享受されるべきものである。自らによって。そして、神の真理もまた、人からの受け売りのようではなく、自らによって真の理解へと至らねばならない。

「24人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの。25自分で食べて、自分で味わえ。」(2:24-35)


 その他の正典文書への影響

「焦って口を開き、心せいて/神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。」(5:1)

「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:7-8)


「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。」(5:14)

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)


「親友に向かってすら王を呪うな。寝室ですら金持ちを呪うな。空の鳥がその声を伝え、翼あるものがその言葉を告げる。」(10:20)

「だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカ12:3)


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